印刷

繁華街から、リアリティのある世界へ

 

1 小説を支えるリアリティ

 

これは『群像』「小説家の思考」(1998年5月)における、保坂和志と阿部和重の対談の一部である。

保坂 書き手のリアリティが何らかの形で法則化されていることが小説を読んでわかるということなんですが、ここから先は僕はやっぱりうまくいえない。しいていえば繰り返される題材とか素材。二百枚、三百枚とか書き切っていく作業を支えてくれるものの一つはやっぱり題材でもあったりするんです。方法とか語り口、すべてが支えるんだけど、題材がコケていたら支えられないという感じはするんですね。

阿部和重は保坂の発言を受けて、恐らくリアリティにもいくつかの水準があり、題材的なものが常に反復されてゆくというある種の一貫性が、作者にとっての切実なリアリティとして認められる場合もあることに言及する。

阿部 世間で広くリアルなものと受け止められているのは、小説内において描かれる出来事の持つ本当らしさというか、現実感みたいなものだと思うのですが、しかしそれはかなり貧しいイメージに支えられている。というのも、そうした「本当らしさ」というのは、一般的に既知のイメージで構成された出来事から得られるものというか、だれもが共通の認識として持っている実感だとかを駆使して仮構されたものなわけで、結局のところ紋切り型に行き着くと思うんです。したがってそれはリアルとはいいがたいものになる。

阿部には、ある意味たやすく獲得できてしまう、出来事の「本当らしさ」をより多く設けることを通してリアリティを追求していく気はない。それとはまた別に、リアリティをどのように追求していくかという点で、物語が書かれる背景、つまり、フィクションの成立過程まで含めて物語化していくという試みがあるということを彼は指摘する。

阿部 メタフィクションというジャンルがそれにあたるのでしょうが、それもまたリアリティの導入のために考え出された一つの方法だとは思うんですね。つまり、物語の出来事の中で成立しているリアリティのまた外の部分、その成立条件まで前景化させることでさらにリアルな側へ近づこうという試みだと思うんです。

そのような点で、メタフィクションはある種のリアリズム小説の発展形態だと言うこともできるのかもしれない。しかしながら、それは既に長い間試みられている手法でもあり、一つの方法として制度的に一般化されている。阿部は、メタフィクションもまた行き詰まっているという感覚を持っている。

阿部 じゃ、それとはまた別の方法、一段高い方法という言い方は当たっていませんが、さらに別の形でリアリティを小説の中に導入していく方法として、果たして何があるのかということを今僕なりに考えてはいるんですけども、そうして一つとして、さっき保坂さんがおっしゃっていたような、反復される主題みたいなものの持つリアリティもあるんだろうなとは今思いましたけど。

ここで両者が語る「反復される題材、主題」。それは一体どのようなものなのであろうか。

 

2 都市と繁華街

 

答えを模索するためにまず、保坂が『人生を感じる瞬間』の中で紹介している「繁華街」と「都市」という表現を用いて、ここまでの話をもう少し補足したい。

『人生を感じる瞬間』の中で保坂は、「繁華街」には大人が大人であることの根拠、若者が若者であることの根拠をなくした、他者依存の存在証明がはびこっていると指摘する。例えば、路上でパフォーマンスをする子供たちは、大人から「理解できない」と言われることが自身の存在証明だと思っていたり、一方それを見る大人も、子供たちのやっていることを「理解できない」と言えるようになったら大人なんだと判断する。ここには、子供の側からも大人の側からも絶対的な存在証明の根拠が存在していない。他人の視線や尺度を自分の中に取り込んでしまっているのである。繁華街と対立する都市においては、大人は子どものパフォーマンスを見て「理解できない」と言うこともない。それを表明することが大人だとは思っていないからである。

そして、人々が社会や経済行動と癒着し、遊びさえもが労働になってしまう環境を保坂は批判するが、これも「繁華街」に見られる特徴といっても良いのではないだろうか。そこで個人は社会の影響から逃れられず、社会によって作られた仮構の現実の中で生きていく。

「繁華街」と「都市」では、そこで使われる言語にも当然違いがもたらされる。「相手の理解のサイズに自分の言葉を小さくし、自分の理解のサイズに相手の言葉を小さくする」のが「繁華街」の中で現れる言語の姿であろう。ガヤガヤとうるさい繁華街の言葉は、実は意味的には小さく制限されたものなのだ。

一方の都市では、そのようにして、言葉を小さく制限することはない、ということになる。『地鳴き、小鳥みたいな』から保坂の言葉を引用するならば、

夢に蛇が出てきたらそれは何かの象徴であって蛇ではない何かを意味しているかもしれないし、夢に私が出てきたらそれも私でない他の何かを指しているのかもしれない。夢でない目覚めている時でさえ、私が私でない何かを指しているかもしれない。

都市では、言葉が制限されずに思考も自由を獲得する。

では、「繁華街」と「都市」の要素を比較した上で、再び冒頭の保坂と阿部の対談を振り返って見たい。

保坂と阿部が共通の問題意識として持っているのは、貧しいイメージに支えられた、小説世界における現実であった。小説内におけるそのような現実、「本当らしさ」というのは、一般的に既知のイメージで構成された出来事から得られるものであり、だれもが共通の認識として持っている実感などを駆使して仮構されたものとなる。そのため、小説における現実は、結局のところ紋切り型に行き着いてしまいがちになり、リアリティを欠いてしまう、ということである。

この小説世界はまさに、「繁華街」的な世界のことを指しているのではないだろうか。それならば、これを受けて、私たちはこのように言うこともできる。保坂と阿部がそれぞれのやり方で獲得しようとしているもの、それが「繁華街」と「都市」を分け隔てるものであり、それこそがリアリティである、と。

それでは、保坂和志は一体どのようにして小説にリアリティをもたらしているのか。これが大きな論題となる。そして私たちは、小説世界において、どのように「繁華街」から「都市」へと住処を移すことができるのだろうか。どのようにして、社会や経済と癒着せずに自己を表現していくのか。

 

3 「私」を巡る視線

 

保坂が『小説の自由』(2005 年)の中で論じている、「私とはなにか」「小説とはなにか」という問いにそのヒントがあった。

そもそも、「繁華街」を社会や経済状況に依存した仮構の現実がはびこる場所とするのならば、そこで小説は受け手の側に傾きすぎているのではないだろうか。例えば、「ポップ文学」などという言葉がその例である。この言葉は、小説がまず書き手のものとしてあるのだということを忘れさせてしまう。もちろん、小説は本になってしまえばもはや「読みもの」となるわけだし、読み手と完全に切り離されたものとして書き手を考えるわけにはいかない。時代と隔絶した小説家の存在を考えるのも難しい。

しかし、それにもかかわらず、小説はまず書き手が書いて、その後に読み手が読むものであり、これは変えようのない事実である。小説が書き手の「個」から出発するという事実は当たり前のことなのだが、読み手から書き手にまで意外と広く忘れられているのではないだろうか。

ニートや援助交際などの「社会問題」をテーマにする小説がたくさん書かれたり論じられたりしているが、社会問題は社会の問題であって、小説の問題なのではない。それでも実際の小説に社会や時代が反映されるのは、小説家の「個」がそれらの環境の中にあるからだ。このように続けていくと、書き手の「個」は社会に影響され、時代と切り離しえないのだから、結局のところ小説の出発点は書き手の「個」とは言えないのではないかなどと話がぐるぐる回ってしまいそうだが、そうはならない。

なぜ議論が循環しないのか。結論から言えば、それは小説における「個」や「私」、つまり書き手の「私」とそれと不可分のものとしての作中人物の「個」や「私」は、社会や受け手の「個」や「私」に還元されたり置き換えられたりするものではないからだ。

この問題に関して、『小説の自由』の中で保坂は、「私に固有のものでないものが寄り集まって私になる」と言ったり、「私も私の主体性も私の意志も、すべて現象であり、小説には本当の意味でそれに先行するもの(原因)はない」と言ったりする。しかし、主体性や意志が後景に退いてしまった「私」はいかにしてリアリティをもつのだろうか。保坂は、リアリティというと普通には「確かさ」に置き換えられる言葉として使われるが、「私」のリアリティとはむしろ「不確かさ」として捉えられるべきものだと答える。

このような考えは『小説の自由』に限らず、それ以前のいくつかの作品で触れられていて、特に『〈私〉という演算』(1999年)という連作短編集に収められた表題作においてもっとも深められている。

それはこのような話である。夜中、布団に入って目をつぶっているときの「闇」が媒介となり、子供のころ「おばあちゃんち」に泊まって寝ていたときに見た闇の深さをふと想い起こす。そして眠っているような気分の中で、

自分が今こうして瞼の作った「闇」を見つめているということが、小学生だったあのときの自分が闇を見ながら作り出した世界の中で起こっていることだったとしたら……

という、不思議な気分を覚える。そして保坂は、そうした想像が作り出すある種の不安定さを「リアリティ」と感じる。

ここで、現在の「私」の行為や状態を過去における「私」の想像 によるものとして捉えることは、ある種の転倒した考え方だ。過去の「私」は現在の「私」 によって想起されているわけで、その想起された過去の「私」が現在の「私」を想起しているとしてしまうと、ここには起点となるものがない。しかしこうした起点のない想起の連鎖によってこそ触れられるのが「私」のリアリティである、と保坂は指摘するのだ。

この「私」というものの起点のなさについては、彼のエッセイ集『アウトブリード』(1998 年)所収の「わたしらは名も知られず、後の世の人に歌いつがれることもなかったであろうし……。」でも触れられている。表題となっている言葉はエウリピデス作のギリシャ悲劇『トロイアの女たち』から引いたもので、トロイアがギリシャ軍によって滅ぼされ、絶望のうちにある女王ヘカベのものである。彼女はこう言う。

神様方のお心は、ただ私を苦しめ、トロイアをば、とりわけて憎もうとなさることであったとしか思われぬ。牛をほふって勤めた奉仕も空しいことであった。しかしまた、神様がこれほどまで根こそぎに、トロイアを亡ぼされることがなかったら、わたしらは名も知られず、後の世の人に歌いつがれることもなかったであろうし……(松平千秋訳)

最後の「後の世の人に歌いつがれることもなかったであろうし……」という部分は通常の時系列を逸脱している。保坂がこのヘカベの台詞に見出すのは、「人間は決定的な瞬間を同時刻にそれと名指すことができない」、また「人間は自分でない誰かの視線を仮想することでしか自分像を作ることができない」といった認識のメカニズムである。

「私」にとって決定的なものを、その瞬間において「決定的」と捉えることはできない。それが「私」にとっていかに決定的であったかは、後々振り返ることによって了解される。そして今現在の出来事に対しては、トロイアがいままさに滅ぼされたときのヘカベのように、「この私」ではないという意味での他者の視線を想起し、その視線によって「この私」の惨状を決定的なものとしてなぞらせることで、深く認識しようとする。

「この私」は、想起された視線によって形づくられる。しかしその視線を想起したのは「私」である。さらにその「私」もすでに想起されてあった視線によって形づくられたものだ。つまりこの卵と鶏のような関係、「想像」の軸となってくれるような「主体」の不在、起点のなさ、視線の想起と想起による視線の抽象的な重ねあわせのプロセス等が人間の認識には存在している。

それゆえ、自分が今こうして瞼の作った「闇」を見つめているということが、小学生だったあのときの自分が闇を見ながら作り出した世界の中で起こっていることだったとしたら……と思い描くとき、人は、ある種の不安定さ、グロテスクさとともに自己認識のプロトタイプに出会い、リアリティを感じるのである。

『〈私〉という演算』の最後で、保坂はこうした「私」のリアリティをさらに次のように表現する。

〈私〉は、今こうして瞼を閉じながら子どもの頃を考えている〈私〉が生み出したところの子ども時代の〈私〉が考え出した〈私〉ということになるのかもしれない。〈私〉についてこうして書いている〈私〉という存在は、いつか〈私〉がいなくなったあとにかつていた〈私〉を想起する何者かによって〈私〉の考えをなぞるようにして書かれた産物である、というような言い方でもいい。あるいは、〈私〉が〈私〉でない何者かによって想起された〈私〉であったとしても想起の主体がそれを〈私〉といい想起された側もまた〈私〉なのだと思っているのならそれがまさに〈私〉というものなのだ、という言い方でもいい。(…中略…)こういう〈私〉にまつわる操作とか畳み込みのようなものを仮りに 〈〈私〉という演算〉と呼ぶなら、〈〈私〉という演算〉が複雑になればなるほど、リアリティが生まれてくるような気がする。

「私」のリアリティは人生の様々な瞬間に対応しつつも、そこを起点として確定しえないいくつもの視線が交錯した「語り」の次元で初めて顕れる。そのような意味で、不確かさとして触れられる「私」のリアリティは小説のリアリティに直接連絡しているのだ。この視線の交差は極めて「動的」なものである。

保坂は、クリエイターズワールドのインタビュー「執筆前夜」(2015年、6月)の中で、

 “読む”っていうのは動詞なんですけど、“意味”っていうのは名詞なんだよね。人間っていうのは動詞より名詞の方が考えやすい。例えば、どこかに行くっていう時に、行くという行為自体よりも、目的地っていうことの方が考えやすいし、大事にされるわけ。でも、小説っていうのは“行く”という動詞なんだよね。意味っていうのは、“目的地”であり、名詞化されたものなんですよ。音楽というのは本当に動詞の塊ですが、本当は小説もそうなんです。そういうことが本当に本当に分かられていない。今の小説評論は、小説がどんどん名詞的なものになっていってしまうような読み方をしている。でも、小説家にとっても読む人にとっても小説って動詞なんですよね。だから、動詞として小説を捉えてもらえるようにする、というのが『小説の自由』にある一番の気持ちなんです。

と語っている。本論で述べてきた視線の交差はやはり「動詞」的なものであろうし、それは保坂が小説を書く際に意識する最も重要な点の一つである。

私たちが、たやすく仮構できてしまい「本当らしい」出来事がはびこる「繁華街」を抜け、「都市」で暮らしていくために、そして真の意味でのリアリティを獲得するために、保坂が実践しているその絶え間ない思考、「私」をめぐる視線の反復は、一つの重要な道しるべとなっている。動くことによって絶え間なく人間の認識に訴えかける。それは認識のメカニズムを通して、時にはある種の不安定さやグロテスクさまでも感じさせる。そのようにして、私達は小説世界のリアリティを担保していくことができるのだ。

文字数:6439

課題提出者一覧