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輪廻の文学――時間概念からみる『カンバセイション・ピース』論――

序、

 保坂和志の『カンバセイション・ピース』は2003年に書かれた長編で著者の代表作である。物語は、主人公が世田谷の家を住んでいた伯母が死んだために、妻と飼っている三匹の猫と住みはじめるところからはじまる。この作品は保坂の時間感覚が全面に出た作品であるが、今回はこの作品の「ある出来事」について考えていくことで、保坂自身も予想もしていなかったかもしれない時間感覚について探求していく。

 

一、

 まず、文学がどのような時間をもったものか考える。
 哲学者の九鬼周造は『時間論』の中で文学の本質について次のように述べている。

 文学の本質は、言語による時間芸術ということによって大略が示される。従って、文学を時間の地平において解明することが、文学の形而上学の主要問題でなければならない*1。

 要するに、文学の本質は時間芸術であるので、時間の問題を解明する事が文学の形而上学を考えるうえで重要であるということである。九鬼は「芸術は現在を、学問は過去を、道徳は未来を*2」表すと述べている。文学は芸術に区分されるので、文学は現在を表現していることになる。また、時間は「量的時間」と「質的時間」に区別されるという。「量的時間」とは時計の時間のように数えられる時間である。それに対して、「質的時間」とは、九鬼によれば「異質性と相互浸徹とを特色とする流動または接続である*3」と述べている。これはフランスの哲学者であるベルクソンの概念を援用したものなのだが、例として九鬼が挙げているものは、音楽の旋律の流れと光のスペクトルにあらわれる色の連続である。「音楽では一楽節は常に終わりかけていながら、新しい音符の加わってくることによって楽節全体が絶えず様相を変えるのである。旋律の流れは一つの全体であってその多様性は分割されてはいないのである*4」。これは、音楽の旋律においては一楽節ごとの「異質性」が保たれつつ、お互いに「相互浸徹」しながら、「流動」していくので成り立っているということだ。また、光の例をとってみても、光が赤から橙黄を経て、黄色に変わっていく様を挙げ、橙黄は赤とも黄ともお互いに浸透しあっているので、「分割のない多様性として一が他の中に入りこんでいるところに色彩の流れがあるのである。*5」としている。そのように時間を定義したうえで、九鬼は文学は「質的時間」に属するとしている。
 次に九鬼は、言語芸術としての文学と音響芸術である音楽から区別する時間的性格はどのようなものかについて検討している。これについては、音楽が「音による表現的美術」に属していることに対して、文学が「言語による再現的芸術」に属しているとしている。そこから文学には、「実際に文学が充たしている時間のほかに或る他の時間の接続を自己の中に内含することができる。*6」としている。なので、文学の時間は「重層性」という特色をもつことになる。
 以上のような考察から九鬼は文学の時間的本質は「重層性を有った質的な現在」であると結論づける。それでは、次項で『カンバセイション・ピース』に起きた「ある出来事」をみていく。

 

二、

 「ある出来事」とは、夏休みに主人公の従姉兄が主人公が住んでいる、かって自分たちが住んでいた伯母の家に伯父と伯母の墓参りにやって来た時に奈緒子姉が語った、この家に住んでいた頃の出来事である。

短大行ってた頃、出たじゃない。わたしがお風呂に入ろうと思って入り口で服脱いで、タイルに降りてお風呂の蓋取ってたら、影みたいな人がわたしの横で、わたしと同じ動作してたのよ。それで『キャーッ!』って叫んで、裸でここまで逃げてきて、――。あー、思い出しただけで、ほらこんなに鳥肌立っちゃった*7

 これが「ある出来事」である。これは、一体、なにを表しているのだろうか。
 その話を聞いて、ほかの従姉兄たちは特に興味を示さなかったが、たまたまその場に居合わせた主人公の家を借りて会社を経営している浩介は興味を示して、探求をはじめる。

浩介は魂でも霊でもそういう向こう側の概念全般を信じていないのだけれど、目の前に「実際に見た」と言う人間がいると、その人間からある種独特のリアリティが発散されている感じがする。そのリアリティを前にして、浩介は向こう側のものをこちら側の言葉で説明する方法を考えていた*8

 その後、夏休みが終わった浩介の会社に勤めている綾子と森中と一緒に住んでいる主人公の妻の姪であるゆかりは集まると、奈緒子姉が見たという風呂場の影の話ばかりするようになっていた。主人公の内田は浩介に「だいたい、あんたこそ風呂場の話をどう思っているのさ」ときかれ、「この世の中には説明がつかないことがいっぱいある」と答える。そこで、色々、説明をしていると、浩介に「やっぱり、あると思ってるんだよね」と言われ、「おまえのあるとおれのあるは、あるが違うんだ」と言い、「科学的というか、物理的にというか、とにかく普通の意味のあるなしで言ったら、おれのあるはないなんだよ。でも、同じ音楽が一人の人には退屈な音の連なりで、もう一人にはものすごく感動的に聞こえる、というような意味であるなんだよ」と説明する。これは、科学のような再現性が求められる分野では「ない」ことになるが、個別の一回性を重視すると、「ある」となると述べている。続けよう。主人公、浩介、綾子、森中、ゆかりが集まっているところで奈緒子姉のみた風呂場の影の話が話題になった時の会話を引用する。

「叔父ちゃんは幽霊って、いると思うの?」と、ゆかりに言われて、そんなこと訊かれるとつい笑ってしまうのだが、笑ってしまう自分の反応は不思議だった。「それが困るんだよ」と私は言った。つまり私は自分が幽霊がいるかと思っているかいないと思っているかがわかっていない。だから「いると思うの?」と訊かれて笑ってしまったのは、一種の社会的な顔みたいなことだが、当然浩介はいると思っていない。いると思っていないからドッペルゲンガーのような心理的な原因を考え出すのだが、浩介より先にゆかりに「いると思っているの?」と訊くと、ゆかりもちょっと笑ってから「うん」と頷いて、「だって、見たっていう人がいるんだから」と言い、窓に腰かけている森中も「ですよねえ」と言った。*9

 その後で、主人公の内田は「でも『幽霊』って言っちゃったらつまらないんだよな」、「そのカテゴライズする思考法がおもしろくないんだよな」、「きっとすべては場と人間の関係なんだよ」と言った後で、森中に「じゃあ、何かが起きたんだと思うんですか、ナオネエが見たつもりになっただけなんですか。それぐらい言えるでしょう」と訊かれ、「起きたーー」と渋々言う。それでは、一体、何が起きたのだろう。そこで、主人公の考えている事を引用する。

何が言いたいのかと言うと、つまり奈緒子姉が見た風呂場の影は、奈緒子姉とこの家という建物を媒介させるための擬人化された何かだったのではないかということで、それは見間違いとかドッペルゲンガーというような奈緒子姉の側に一方的に還元して済むようなものではなくて、そうかと言って幽霊とか地縛霊というような人間が引き起こす何かというものでもなくて、この家の側の何かだったというようなことが私の予想なのだが、<家>というものの広がりと<擬人化>という概念の意味するところがまだあまりに漠としていて、結びつけ方の見当がつかないために私は黙っているだけだった。*10 

 この前に主人公は哲学者のシェリングを引き合いにだして、神などの人間がまだよくわかっていないことについては、擬人化という方法をとるのではないかと述べている。そこから考えると、主人公の内田は奈緒子姉が見た風呂場の影は奈緒子姉と家をつなぐ何かであったが、人間には知覚できない何かであったので、仮に影という擬人化されたものとして知覚されたということだ。だが、ここでも結論はでていない。引用を続ける。

「『ナオネエが見た影』は『ナオネエの影』だったのかもしれないと思ったからさ」私は言った。
(中略)
「だからたとえばね」と私は言った。
「奈緒子姉ちゃんが風呂に入るときに無意識のうちに、『こういう風にこの家にこれまで何千回と風呂に入ってきて、これからも何千回と風呂に入るんだろうな』と思ったことが、
光学的な形になってあらわれたとかさ」*11 

 一応、ここで結論めいたものが書かれている。奈緒子姉が見た影は「奈緒子姉の影」だったのだ。だが、これでは説明が不十分ではなかろうか。そこで、一項で挙げた九鬼周造の『時間論』を手掛かりに考えていく。

 

三、

   九鬼周造は『時間論』において「東洋的時間」とは「輪廻の時間」だと述べている。

 もし「東洋的時間」について語る権利があるとすれば、何よりも輪廻の時間が重要であると思われる。
 輪廻の時間とは、繰り返す時間、周期的な時間である。*12 

「繰り返す時間」、「周期的な時間」とは「回帰的時間」、「円環的時間」である。つまり、「輪廻の時間」とは、「回帰的・円環的時間概念」のことである。それに対して、ヨーロッパ的な時間観念は過去から未来に流れる「水平的」で「不可逆的」な時間であるとしている。なので、九鬼はヨーロッパ的な時間概念だけでは不十分で「東洋的時間」である「輪廻の時間」も考えることが重要だとする。

 最近、時間の存在・現象学的構造を特徴づけるために「エクスタシス」という言葉が使われている。
 時間は「エクスタシス」、すなわち「脱自」(「自己の外に」あること)の三つの様態をもつ。未来、現在、過去がそれである。
 時間の特徴はまさにそれらのエクスタシスの完全な統一、時間の「エクスタシス的統一」(マルティン・ハイデッガー『存在と時間』、三二九頁)に存する。
 この意味でのエクスタシスはいわば水平的である。しかるに、輪廻の時間に関して、われわれはなお他に垂直的であるようなエクスタシスがあるということができる。
 各々の現在は、一方に未来に、他方に過去に、同一の今を無数にもっている。それは無限に深い厚みをもった瞬間である。
 しかし、このエクスタシスはもはや現象学的ではなく、むしろ神秘主義的である。
 [……]時間の現象学的エクスタシスと神秘的エクスタシスとの相違点は[……]前者においては、各契機は純粋な異質性を示し、したがって時間は不可逆的である。
 後者においては、エクスタシスの各契機は同一的同一性をもち、それゆえ互いに交換されることができる。時間はこの意味で可逆的である。*13 

 このように述べ、「水平的」で「不可逆的」であるヨーロッパ的な「エクスタシス」と「垂直的」で「可逆的」である東洋的な「エクスタシス」のこの二面が交わるところに時間の本質があるとする。これを、九鬼は蝉丸の短歌にその時間感覚があらわれているとする。

 これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関

 この短歌は「東国へ旅立つ人も見送って帰る人も、ここで別離を繰り返し、知っている者同士も知らぬ者同士も、ここで邂逅を繰り返す、これがあの逢坂の関なのだ」という意味である。この逢坂の関が、「過去と未来が出会う瞬間」であり、「無限に充実した現在の時」、つまり「永遠の今」を体現しているという。これが二項で考察した奈緒子姉が風呂場で見たという影の話とつながってくる。つまり、奈緒子姉が見た影というものは、過去から未来の「水平的」で「不可逆的」な時間と風呂場において何千回と繰り返されてきた過去と何千回と繰り返されるであろう未来の「垂直的」で「可逆的」な時間が交わった「永遠の今」でなかったのだろうか。それが、奈緒子姉に奈緒子姉の影を見せたのである。

 

結、

 以上から、『カンバセイション・ピース』におきた「ある出来事」についての探求をしてきた。そこでは、奈緒子姉が見た影は、風呂場における過去と未来の「水平的・不可逆的」な時間と九鬼のいう「輪廻の時間」である「垂直的・可逆的」な時間が現在において交わった「永遠の今」であったとした。最後に一項で触れた九鬼における文学の時間感覚と、『カンバセイション・ピース』における時間感覚をつなげて終えたい。
 九鬼によれば、文学の時間的本質は「重層性を有った質的な現在」である。ここでいう「重層性を有った質的な現在」とは、まさに三項で考察した「輪廻の時間」そのものではないだろうか。なぜなら、「輪廻の時間」とは、「一方に未来に、他方に過去に、同一の今を無数」にもち、「無限に深い厚み」をもった時間だからである。つまり、『カンバセイション・ピース』は「ある出来事」を描くことで、「重層性を有った質的な現在」を体現した「輪廻の文学」なのである。

 


注釈

*1 九鬼周造『時間論』岩波文庫、2016年2月 115~116頁

*2 同上 119頁

*3 同上 122頁

*4 同上 122頁

*5 同上 122頁

*6 同上 130頁

*7 保坂和志『カンバセイション・ピース』河出文庫、2015年12月 107~108頁

*8 同上 112頁

*9 同上 200頁

*10 同上 241頁

*11 同上 376頁

*12 同上 9頁

*13 同上 15~16頁

 

  

 

 

 

 

 

 

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