印刷

保坂和志について

 保坂和志は評論家や批評家に対して思いやりをもって接することのできる稀有な作家である。これは驚嘆すべき精神力だと思う。
 夏目漱石は『作物の批評』の中で、「評家」に苦言を呈している。「評家が従来の読書及び先輩の薫陶、もしくは自己の狭隘なる経験より出でたる一縷の細長き趣味中に含まるるもののみを見て真の文学だ、真の文学だと云う。余はこれを不快に思う。」仮にも文学作品を批評するならば「過去の文学を材料と」し、「過去の批評を一括してその変遷を知」り、「上下数千年に渉って抽象的の工夫を費や」し、「右から見ている人と左から眺めている人との関係を同じ平面に集めて比較」し、「昔しの人の術作した精神と、今の人の支配を受くる潮流とを地図のように指し示さ」なければならない、そうして批評に必要な「条項」と「法則」を知り、さらに、「知って融通の才を利かさ」なければならない、と説くのである。そして「現代評家」は融通を利かすどころか、この「条項」と「法則」すら知らない、そして「ただ手当り次第にやる。術作に対する思いついた事をいい加減に述べる。」と嘆く。
 ピエール・バイヤールは『読んでいない本について堂々と語る方法』(大浦康介訳)の中で、「ある本について的確に語ろうとするなら、ときによっては、それを全部は読んでいないほうがいい。いや、その本を開いたことすらなくていい。むしろ読んでいては困ることも多いのである。ある本について語ろうとする者にとっては、とくにその内容を説明しようとする者にとっては、その本を読んでいることがかえって弊害を招くこともあるのだ。」と言っている。のちに同書では「文学について考察しようとする真の読者にとって、大事なのはしかじかの本ではなく、他のすべての本の全体であり、もっぱら単一の本に注意を向けることは、この全体を見失う危険をともなう。あらゆる本には広範な意味の組織に与る部分があり、それを見逃すと、その本じたいを深層において捉えることもできない。」「ヴァレリーはこの態度を個々の本にたいしてもとり、個々の本に関してその全体像を把握するように促すのである。このミクロな全体が、すべての書物を包括するマクロな全体と照応関係にあることはいうまでもない。このような観点をとるということは、本のしかじかの箇所に埋没せず、本に対して適当な距離を保つということを意味する。こうしてはじめて、本の真の意味を見極めることができるのである。」と言う。親しみやすい題名とは裏腹に、読まずに本を批評するために大変な知識と教養が必要であることを示唆している。
 これらの見解を前提とすれば、保坂和志の小説そのものに、あるいはその著作の特定の箇所に、なにやかや言っている程度では、保坂和志の一連の著作の「真の意味を見極める」などと絶望的である。しかし、保坂によると、「評論家」はわりと平気でそういうことをするらしい。保坂和志は『小説の誕生』の「文庫版まえがき」の中で、「小説のことは小説家にしかわからない」と書いたことについて評論家から「小説家が評論家の批判を受け入れようとしない排他的な態度だとして批判」されたと述べている。
 しかし保坂はこのような批判に対して、極めて丁寧に対応している。評論家一般についても特に非難はしていない。同書において保坂が評論家の読み方を概括している箇所がある。「評論家は前提として自分が考えていることの流れがあり、意識するしないに拘わらずその流れに捕われて」読んでいる、だから評論家は「ニュートラルな読者ではな」い、と、それだけである。ここで保坂は端的に、評論家の在り方について普遍的な見方を提示している。「前提として自分が考えていることの流れが」なく、ただ漫然と読んでいるだけの人間は評論家ではなく単なる読者にしかなり得ないということである。これは、夏目漱石が『作物の批評』における見解、およびピエール・バイヤールが引用するヴァレリーの見解と根底は同じである。根底は同じでも、言い方が全く違う。攻撃的でもなければ皮肉でもない。漱石は「上下数千年」に渉る文学研究を前提とすべし、と言い、バイヤールはヴァレリーを引き合いにして「他のすべての本の全体」の「広範な意味の組織に」位置づけることなしに評論はすべきではないと言っている。漱石もバイヤールもにわか評論家を怖気づかせて批評の空間から退場させる圧力をかけているのだ。保坂和志はそこまでのことは言っていない。あくまで小説家として、評論と小説は違うよね、と優しく言っているだけである。そして評論家の言説に惑わされない(同書で「小説家は評論家の意見に惑わされてきすぎた」と言っているが、これは自身のことを含んではいないと思われる。)。おそるべき精神力である。これに加えて保坂は、『書きあぐねている人のための小説入門』の中で、「小説の書き手は、小さなものから大きなものを見ようとする洞察力、欠点から前向きな志向や人生のどこかの岐路で道を誤ってしまったその人本来の可能性をくみとろうとする志が必要だと思うのだ。」と述べる。その強靭かつ高潔なたくさんの人の心を救うべく存在する、稀有な文学者であると思う。
 このように保坂和志は「人を救う」ことを使命とする高潔な精神そのものであるが、大事なのはその高潔な精神が、才能を伴って存在しているということである。保坂は『プレーンソング』の最後の方、文庫版で15頁にわたって、海に遊びに来た五人の主要登場人物の、波に揺られながらの会話を書く。ちゃぷちゃぷという波の音や腕についた水滴やゆらゆら揺れるゴムボートが、特に書かれてもいないのにあの会話だけで再現される。どうしてこういうことができるのか分からない。高潔な精神どころではなく、もしかしたら保坂和志は、猫を抱いて座っている小説の神様なのかもしれない。

文字数:2396

課題提出者一覧