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小説の断片たちが、人生にもたらすものとは

1.ちりばめられた断片たちは、何をしているのか?
ちりばめられた断片。それはメモ書き、あるいは言葉遊びの痕跡のようであり、スケッチや鼻歌のようでもある。そんな断片たちが、保坂和志の『カフカ式練習帳』の中にはあふれている。その断片によって描かれているものの多くは、誰とも判別できない人々の日常であり、そのような描写とは別に、思索めいた文章や、カフカからの引用、あるいはその引用をベースにアレンジをほどこした文章なども含まれている。言うなれば、統一性や一体感を著しく書いた文章の集合体が、『カフカ式練習帳』なのである。この著作に対して、保坂自身はあとがきの中で以下のように述べている。

「このように変わった形式の本が出ると、必要以上に作品を理解しようとして執筆の動機や意図を訊かれるのがつねだが、そんなものは気にせずおもしろいと思うところを拾い読みしてくれればいい。私は凝ったことをしたくて書いたわけでなく、おもしろい断片を書きたかっただけだ。カフカがノートに書き遺した断片がおもしろくて、自分もそういうことをしたくなった。」
(『カフカ式練習帳』、p.440-441)

また、『カフカ式練習帳』の解説を執筆した小説家の磯崎憲一郎は下記のように述べている。

「小説を、テーマとか、時代の象徴とか、因果関係の絡まりあいとして読まずに、ただそこに書かれている文章の唐突さとか、不安定さとか、馬鹿馬鹿しさとか、カッコよさとして読むことのできる人たちのために、保坂和志は『カフカ式練習帳』を書いた。」
(『カフカ式練習帳』、p.445)

保坂のあとがきと磯崎による解説から明らかなことは、『カフカ式練習帳』にはいかなるメッセージも含まれていないということだ。それだけでなく、この作品が持つ形式(非統一性)は、作中にプロットや意味を見出そうとする行為も拒絶する。そのような批評的言説を、『カフカ式練習帳』は拒絶しているのである。
そのような作品の性質を真摯に受け止めたうえで、それでもまだ、この小説に対して何か批評的な言説を立ち上げようとするのならば、何を語ることができるのだろうか。それはおそらく、この作品が、著者である保坂の意図とは別の次元で、何を成し遂げてしまっているかということではないか。
以下において、この問題を明らかにしたいと思う。そしてそのために、愚直に『カフカ式練習帳』だけに向き合うのではなく、ある一つの漫画を参照しつつ論を進める。

2.「やれたかも」という思考実験、あるいは人生の練習帳
吉田貴司の『やれたかも委員会』は、さまざまな人々の「やれたかも」という過去の思い出を描いた漫画であり、各ストーリーはすべて1話完結型の短編形式をとっている。それぞれのストーリーにおける思い出の語り手は、自らの「やれたかも」というエピソードを語り、それに対し、やれたかも委員会の三人の委員が、それぞれ「やれた」あるいは「やれたとは言えない」の判断を下し、三人の多数決によって最終的な認定が行われる。もともとはネット上で連載が始まり、2017年の6月に書籍化され第1巻が発売された。第1巻には8つのストーリーと1つの特別編、および保坂和志と吉田による対談が掲載されている。
「『やれたかも』という思いが、人生にもたらすものとは」。このように題された保坂と吉田の対談の中で、保坂は『やれたかも委員会』を以下のように評価している。

「やれた『かも』の『かも』の部分が大事で、告白するとか、ホテルに誘うとか、最初のデートに誘うとか、その最初のひと言を言うのが一番緊張するんだよね。そこをストーリーにするのが一番のサスペンスなんですよ。」
「『やれたかも委員会』は、すごくよく考えさせる漫画で、一応セックスするところまでを目標と考えても、それまでに何段階も順序があるわけでしょ。その一つひとつの段階にすごい決意がいったり、ドキドキなサスペンスがあるんだけど、そこを描いているわけだから。」
(『やれたかも委員会』、巻末の対談にある保坂の発言から引用)

『やれたかも委員会』は、セックスなどにいたる前のプロセス、すなわち、なにかしらの目的が遂行される以前の、未然の状態が取り出され丁寧に描かれており、その点が評価できる。上記の保坂の発言はこのようにまとめることができるだろう。未然の状態を描くという特徴は、保坂の小説に見られる、大きな事件などが起こらずに物語が進行していく様とも似ている。この点に、保坂と吉田の間にある共鳴を見出すことができる。
しかし、保坂が指摘している点以上に、大きな魅力を『やれたかも委員会』は持っている。そして、その魅力を明らかにし、『カフカ式練習帳』と照らし合わせることで、『カフカ式練習帳』が成し遂げてしまっていることも明らかになる。それでは、『やれたかも委員会』が持つさらなる魅力とは何であろうか。この問題を考えるうえでのキーパーソンが、三人の委員の中で唯一の女性であり、かつ「やれたとは言えない」の判断を下しつづける月満子の存在である。

『やれたかも委員会』は、さまざまな語り手の思い出を題材にしつつも、そこには全てのストーリーに共通するパターンが存在している(実は、「あの日、大きな木の下で」と題されたストーリーだけはこのパターンに含まれない。その差異はそれ自体論じられるべきことではあるが、今回の論旨には大きく影響しないため、ここでは考慮しない。)。そのパターンは以下のようなものである。

・思い出の語り手はすべて男性。
・能島明とパラディソという二人の男性委員は必ず「やれた」と判断する。
・月満子は必ず「やれたとは言えない」と判断し、その理由を述べる。

このパターンの最後の部分、月による語りが、『やれたかも委員会』の最も重要な部分である。「平成22年のミラーボール」と題されたストーリーを分析することで、そのことを示す。
このストーリーの主人公芳村朔太郎は28歳の夏、ひょんなことから友人と西麻布のナイトクラブへと出かける。そこで朔太郎は秋元マリエという女性と意気投合、二人はクラブを抜け出しホテルへと向かう。しかし最初に向った西麻布のホテルは満室、その後タクシーで道玄坂に向うも、どのホテルもことごとく満室。最終的にマリエはタクシーで帰ってしい、その後会うことはなかった。このエピソードに対して、能島とパラディソは「やれた」、月は「やれたとは言えない」と判定する。パラディソの、最初に訪れたホテルに空室があったとしても「やれた」とは言えないか、という問いかけにも、月は難色を示す。月が言うには、朔太郎が最初に訪れたホテルはビジネスリゾートホテルであり、ロビーの照明はとても明るく、それゆえ、薄暗いナイトクラブの中ではわからなかったところもすべて見えてしまう。だから、「やれたとは言えない」。
月のコメント自体はそれだけであり、その内容は非常に短い。しかし、この短いコメントによって、このエピソードにある重要な視点が導入されている。それは、マリエの感情の変化に対する視点である。
もし月のこのようなコメントがなければ、この漫画で描かれているのは、男性たちによる閉じた思い出の確認作業である。そこでは必ず、[出会う→適切なプロセスを踏む→セックスをする]という単線的なストーリーが、男性たちの思考を支配している。彼らは結局、セックスを軸にした成功/失敗という尺度で過去を判断しているだけなのである。おそらくこのようなストーリーに支配されているがゆえに、28歳の朔太郎は、ホテルの空室を探すことに躍起になり、それゆえ、ロビーの照明で照らされた自分の必死な姿を見ているマリエのまなざしにも、その姿を見たことによるマリエの感情の変化にも気づくことができない。そして10年経った今でも、その思考に支配さえているがゆえに、セックスができたか否かという視点で過去の思い出を考えてしまう。しかし、もしそこで月が言うような視点を持っていたなら、そこにはマリエの別の関係性を維持した世界、別の可能世界がありえたのかもしれない。その日はマリエと別れたとして、再び会い、また別の関係性を作れたのかもしれない。
月の発言は、男性たちが思い描く単線的なストーリーに異なる視点、異なる可能世界へとつながる線を引くことで、単線的なストーリーを脱構築し、他の可能性の豊かさを提示する。
月の発言がもたらす可能世界の現れ。この構図を、『カフカ式練習帳』に応用した場合にはどのようなことが言えるのであろうか。

3.記憶に残らないような日々の断片、記憶と因果関係の脱構築
月の言葉で語られた可能世界は、実際には存在しなかった世界である。それは『やれたかも委員会』の中において、セックスにとらわれた男性たちの単線的な想像力の外にある。そのような閉じた想像力に月のコメントがぶつけられ脱構築されることで、複数のありえたかもしれない世界線が提示される。この一連の関係性を、以下のように図式化することができる。

男性のたちの単線的なストーリー/月満子/可能世界の現れ

それでは、このような図式を持った『やれたかも委員会』と、『カフカ式練習帳』あるいはその著者である保坂和志をどのように接続することができるのだろうか。そのために、いくつかの置き換え、操作を行う。
初めに、『カフカ式練習帳』の断片によって描かれている描写を、小説の中に閉じられたものとして片づけるのではなく、現実の我々にとってありえたかもしれない時間・空間、すなわち可能世界が描写された断片として考える。そのことによって、『カフカ式練習帳』を可能世界が集積されたものとして考える。そして、その可能世界の集積としての『カフカ式練習帳』を、『やれたかも委員会』における月のコメントが生み出す可能世界の現れと対応させる。
次に、『カフカ式練習帳』の著者である保坂和志を、『やれたかも委員会』において可能世界を生み出すコメントの発話者である月満子と対応させる。
以上の操作によって、以下のような図式が描かれる。

?/保坂和志/『カフカ式練習帳』

それでは、上記の図式の「?」に当てはまる部分、保坂和志と『カフカ式練習帳』によって脱構築される対象とはいったい何なのであろうか。
それはおそらく、物語、あるいは物語的な因果関係にとらわれた人生へのまなざしである。それゆえ、『カフカ式練習帳』という作品に対しては、以下のような図式が存在している。

因果関係にとらわれた人生/保坂和志/『カフカ式練習帳』

『やれたかも委員会』における月は、自らのコメントによって男性たちの単線的なストーリーを脱構築し、複数の可能世界を提示した。保坂が行う脱構築はこれと少々異なる。保坂は、可能世界の集合体である『カフカ式練習帳』を読者に示すことで、物語的な因果関係にとらわれた人間の思考を脱構築する。
小説を読むとき、人は往々にしてそこに意味や物語を読み取ろうとする。そしてそれは、小説という虚構だけではなく、人間が現実に生きる人生に対して向けるまなざしにおいても同様ではないだろうか。人間は過去の記憶を、あるいは現在や未来に待ち受ける選択を、何かしらの目的、あるいは到達点への要因として位置づける。しかし、そのような原因‐結果の関係が人生をうめつくしているわけではない。意味もなく車窓から景色をながめる瞬間、無邪気にペットと戯れる瞬間、そのようないかなるプロットにも回収しえないような瞬間が、人生には存在する。そして、そのような瞬間こそが、人間の豊かさなのかもしれない。単線的なストーリーにとらわれた思考、人生観というのは、そのような猥雑な豊かさを消去してしまう。保坂は、『試行錯誤に漂う』の中で、小説について語りながら、決められたストーリー的なものを否定的に語っている。

「私は小説に情報を求めていない。文体と言ってしまうとまるで文章の味わいを気にしているようだが、そうでなくもっとずっとぎこちなく不細工で、意味よりも手つきや息継ぎやそういうことの下手さが前に出ているもの、あるいは、ヒステリーのように狭い空間に情報がぐっと押し込まれたもの、読む側への説明を忘れて勝手に先に行ってしまったり、説明にならないようなことを延々と書き連ねるもの。それらがいい。著者があらかじめストーリーを決めていて、それに沿って文章が整然と並んでいるものは最初からおもしろくない。」
(『試行錯誤に漂う』、p.11)

保坂にとって小説とはこのようなものであり、また、「小説はとにかく作品でなく日々」なのである。このような保坂の小説観は、まさに『カフカ式練習帳』が成し遂げてしまっていることと共鳴している。保坂の小説観を、保坂の意図とは別に、結果として最も強く体現しているのが、『カフカ式練習帳』なのである。そこに描かれた日常の断片は、読者の思考を脱構築し、とめどない豊かさをその人生にもたらす。

 

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