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祈りのテロリズム――『猫に時間の流れる』をめぐって

 結論を言います。

 保坂和志とはテロリストである、と。

 もちろんこの2つの言葉は、その小説の表層を読むだけではつながりを持てません。それどころか、保坂和志と共に1990年代を代表する作家の1人である阿部和重が露骨にテロを取り扱ったのに比べれば、保坂はむしろそうした暴力的な表現からは程遠く、対極にいる作家であると認識されることが多いのではないでしょうか。
 というのも保坂の作品においてはそもそも――しばしばそれが非難の対象になるように――物語らしい物語が起きないのです。では、そのような静謐な作家がなぜテロリストになり得るのでしょうか?
本稿を読み進めるにあたっては、この疑問を頭の片隅に置いてくれれば良いと思います。では早速、「テロ文学としての保坂和志」を紐解いていくことにしましょう。

1、

最初から「保坂和志とはテロリストである」、という大風呂敷を広げてしまったわけですが、ここでは彼の全作品に言及することは出来ません。そこで本稿では彼が1994年に書いた『猫に時間の流れる』を批評対象にしようと思います。というのもこの作品は保坂の初期の作品の中でも特に猫に焦点が当たった作品で、猫をしばしばその作品に描く保坂作品にとって典型的な小説になっていると思うからです。
この作品では、(保坂自身と思しき)主人公とその隣人たち、そして彼らの飼い猫が織りなす日常が描かれています。全体的に私小説の様相を帯びているのですが、あくまでも保坂と主人公は一致しません。物語自体は、そうした日常生活にクロシロという野良猫が侵入することから始まります。
保坂の文章の特徴は、一文が非常に長いことです。読点で文章が引き伸ばされ、延々と主人公の思考が述べられます。それは物事をじっと観察するプロセスから生まれる文章なのですが、保坂自身の言葉によれば、そうした観察によって小説は「能産性」を帯びるのだといいます。

 

 「産む=能う」=「(イメージ・情景・出来事……etcを)産出する能力」というのはじつに小説にふさわしい。
 能産性がない限り小説では「東京」という言葉を書いても硬直するだけだが、能産性を持っていれば小説で「東京」と書かれたらその東京は現実の東京と同一である保証はなくなる。(中略)能産性があればいずれその東京の方が現実の東京に関するイメージや常識を書き換えるだろう。事実、世界に関するイメージや常識はそのようにして小説に書かれた、能産性ある言葉によって出来上がっているのではないか。
(保坂和志『小説の自由』、2010年、中央公論新社、13頁)

 

保坂の文体は、世界をじっくりと観察し、記述することによって、世界に対する新しいイメージを作り出します。まるで、世界を覆うあらゆるヴェールを1枚ずつはがしていくかのように。私たちが知っている世界は、保坂の文章によって、私たちが知っている世界ではなくなっていくのです。

では、保坂和志の小説はどのようにしてテロ的であるのでしょうか。そのことを考える前に、まずはテロという言葉について再考しなければなりません。テロとは何でしょうか。
それは自明である世界の境界が崩されていくプロセスのことです。
ここで私は鈴村和成が『テロの文学史』で用いた「テロのスパイラル」という概念を取り上げてみたいと思います。鈴村はフランスの小説家ミシェル・ウェルベックの『プラットフォーム』という小説を取り上げながら、この概念について次のように語ります。

 

 この残酷な運命の〈プラットフォーム〉(ここではテロのことを示す)を境にして、ウェルベックの世界は真っ二つに分断される。一方には平穏な日常がある。他方には血まみれのテロがある。一方には西側世界がある。他方には東側世界がある。(中略)ミシェル(この小説の主人公)はその両世界のボーダーにいる。これはニュートラルというのとは違う。(中略)本稿ではこれらを〈テロのスパイラル〉と名付ける。善/悪、正/邪、東/西、幸/不幸、愛/死……の別が、渦巻き、混乱し、なし崩しになり、人はついに盲目のカオスに陥る。   (鈴村和成『テロの文学史』、2016年、太田出版、27頁)

 

つまり、〈テロ〉とは世界における自明の価値観を崩していく運動なのです。
そして本稿ではこのように自明の価値観がなし崩しになる〈テロのスパイラル〉が起こる場所のことをこそ、〈テロ〉と呼びたいと思います。またこの〈テロ〉には必ずしも暴力が伴わなくても良い、ということに留意しておきましょう。
さて、その時に保坂が物事をじっと観察して、世界のヴェールをはがしていくという行為もまさに〈テロ〉的であると言えないでしょうか。
以下、『猫に時間の流れる』を読み解きながら、保坂と〈テロ〉について、思考を巡らせてみましょう。

2、

保坂の小説に戻りましょう。
『猫に時間の流れる』で中心になるのは、というか物語らしい物語を駆動させるのはクロシロという野良猫です。クロシロは主人公たちが住む大原ハイツというアパートに突然やってきて、そこで飼われていた1匹の猫に襲い掛かります。普通に考えれば、クロシロはある侵入者であって、「悪」のように読者には感じられるでしょう。しかし、主人公は次のように考えます。

 

 屋上に突如闖入してきた野良の猫はどういう性格なのか。それはまだわからない。
性格というのは付きあって観察する過程を通じてしか知ることはできない。あるいは性格というのはそれでもわからなくて、(猫でも人間でも)ただこっちが便宜的にそういう性格なんだ、と決めているだけかもしれない。
(保坂和志『猫に時間の流れる』、1997年、新潮社、14頁)

 

読者はクロシロの行動を、ある方法で解釈してしまいます。これは悪い猫だ、意地悪な猫だ、という風に。しかし、そのような読者の解釈を否定するかのように、この思考が突如として挿入される。主人公の観察によれば、クロシロの性格はまだわからない。それどころか性格自体、私たちが便宜的に決めているものであると言います。クロシロにまとわりつく「悪」というイメージが宙づりにされるのです。
また、威勢を放っていたクロシロがある事件で体に傷を負い、読者からしてみれば「いかにも可哀そう……」という心情をクロシロに対して抱くときは、次のようなほとんど突き放したような筆致でクロシロについて書くのです。

 

  いつものようにテリトリーに対するプログラミングに動かされて勤勉に家のあいだを歩きまわっていたらそれを不快に感じている人間が油をかけ、それきりクロシロのそれまでの時間は断ち切られて、クロシロはそのからだをずっと抱えることになった、と、そんな想像は事態を過剰に脚色してしまうもので、そういう過剰な脚色は人間の側だけの満足でクロシロがそれで少しでも楽になるということはない。                 (保坂和志『猫に時間の流れる』、1997年、新潮社、96頁)

至極冷静かつ論理的なのですが、やはり読者はこの物語自体に安易に感情移入できないようになっている。主人公の冷静な観察眼のために、です。
そこまでの出来事で読者が構築したその世界(読者にとって自明だと思われていた世界)は主人公の突然の観察によって、中断され、壊されていきます。

鈴村和成は前掲の『テロの文学史』の中で再度ミシェル・ウェルベックの小説を例に取りあげ、そのデビュー小説(この小説もまた1994年に出版されています)の中でランダムにテロ事件の様子が挿入されることについて、「この挿話は小説のストーリーとは何の関係もなく、まさにテロのように突発的に生起する。テロの突発性とエクリチュールの非連続性が連動している。この脈絡の欠如、断片性を、テロの文学的効用と呼んでいいだろう」と述べています。つまり、その内容がテロを扱っているだけでなく、小説の書かれ方そのものが〈テロ〉的であるのです。
そしていまここで語られる主人公の思考も小説のストーリー上は関係が無いにもかかわらず、突然に挿入され、読者の構築する世界を突き崩しています。
まさに、読者が築き上げた世界を破壊していくという点で、読者と保坂の間で〈テロ〉が起こっているのです。これは保坂の観察―記述のプロセスから生まれたものであり、その能産性が〈テロ〉の文学的効用を自ずと導くのではないでしょうか。
『テロの文学史』においてこの「テロの文学的効用」という言葉は少しだけ顔を出すのですが、鈴村はその後の議論をほとんど、小説の内容のレヴェルだけで語ってしまっています。
その結果として、本来〈テロ〉が持っている自明の世界を混濁させるという力が読者と作品にまで及ぶ小説についての考察は出来ていない。つまり鈴村が語るテロ小説は読者までをも巻き込むのではなく、ただテロを第3項から見つめる位置に読者を置くことになるのです。その点においては、テロが直接描かれているだけの小説のその内容だけを取り出してテロを語ることは、私たちがニュースの上であたかも虚構を見ているかのようにテロと接することと本質的に同一なのではないでしょうか。
小説の中身だけでなく、小説の中身と読者という2つの項の間で〈テロ〉が起きる小説として保坂和志の小説は考えないといけないでしょう。
鈴村がやってしまったように、読者を(小説の中の)〈テロ〉の外に置くのではなく、読者をもまた〈テロ〉に巻き込んでいく。そうした視点が必要なはずです。

3、

ここまでで保坂の『猫に時間の流れる』が読者と作品の間にある種の〈テロ〉を巻き起こしているのだ、ということを見てきました。
しかし、私たちはここで一度、立ち止まって考えなければいけません。『猫に時間の流れる』の主人公のように。
当然のことですが、この小説の主人公と保坂自身は一致しません。いくら、これが私小説のように書かれていても、です。小説に書かれた「私」は既に小説にしか存在しない「私」であってこれを書いている保坂自身とは一致しない、ということは保坂が自身の小説論(という名の小説)で何度も言及していることです。今までの議論は主人公と保坂の一致を前提に行われていました。つまり、私達は観察する主人公=観察する保坂和志、のように考えていました。だからこそ、今度はその主人公と保坂和志の関係に注目しなければいけません。
ものすごく当然のことかもしれませんが、保坂が主人公と違うのは、保坂がその主人公の行動を決定できる、ということです。もちろん、保坂はそうした作者の特権を利用して、あまりにも突飛な行動を主人公にさせるわけではありません。実際はその逆で、かなり私たちの日常に近い行動を小説の中で描いているからこそ、しばしば保坂の小説は筋がない、と非難されるのです。でもやはり、保坂は小説の主人公を意のままに動かせるような権限は持っている。
そうした視点で主人公の行動をあらためて見つめ直したとき、主人公はテロリストがテロを徹底的に成し遂げるように、最後まで冷静に世界を見つめるだけでしょうか?
次の文章は主人公が餌をあげるようになった、ある子供の野良猫を巡る会話です。

 

 西井(=主人公の隣人)は「よく見てるねえ」とちゃかすように言ってから、
「でもあんまり世話しない方がいいよ」
と言った。
「情がうつるって?」
 そう言って笑ったがぼくはとっくに情がうつっていた。
(保坂和志『猫に時間の流れる』、1997年、新潮社、73頁)

 

もし主人公がいつもの調子で極めて冷静にこの子猫を観察してしまえば、アパートの前にいる子供の野良猫など偶然の存在に過ぎず、餌を欲しているかどうかさえ定かではないことになります。猫のことは猫にしか分からないのですから。しかしそれでも主人公はその子猫に「情がうつって」しまう、つまり「憐み」を持ってしまうのだ、と保坂は書くわけです。
ここで私はどうしても東浩紀の『ゲンロン0』を思い出さずにはいられません。
この本の終章で東は、「テロばかりを描き続けた」というドストエフスキーを用いながら、いかに現代的な目的なきテロリストが、テロを起こさずにいられるか、ということについて極めて思弁的に語っています。非常に簡単にまとめると東の結論は、世界の全ての物事が偶然であることを受け入れて、他者に対して「憐み」を持つことが重要なことである、と言います。
この「猫に時間の流れる」の文脈で言えば、確かに全ては主人公が観察したように、偶然だったり、勘違いに過ぎないのかもしれない。性格についても「ただこっちが便宜的にそういう性格なんだ、と決めているだけかもしれない」のだし、猫への「過剰な脚色は人間の側だけの満足」に過ぎないかもしれません。でも、主人公は子猫に「憐み」を持ってしまう。東はそのような「憐み」にテロを乗り越える可能性を見ているのです。そしてさらに考えるならば、保坂は主人公にそう、思わせている

ここで、問うべきなのは、なぜ保坂がここでこのように「情がうつる」というような言葉を書いたのか、ということです。

『猫に時間の流れる』において、読者は主人公に対してまさに彼がテロリストであるかのように、よく分からない存在である、という感覚を抱いたはずです。実際、前述したように主人公の冷静な観察が、安易なイメージを持つ読者の世界を壊しにかかる〈テロ〉を形成しているのです。つまり、何度も書くように安易に、主人公への感情移入ができないようになっている。
さらに重要なのは、主人公が『猫に時間の流れる』を通してほとんど心情語を用いないことです。全体を通してみても「動揺して」(23頁)や「悲しくなって」(78頁)、「親しみに変わった」(82頁)など約5~6か所しかダイレクトな心情吐露がない。
そしてこの子猫との場面に来て、主人公がダイレクトに「情が移った」、そして数ページ先、この子猫と別れるシーンでは「悲しいんだから」と心情を吐露するわけです。ここで初めて読者と主人公はその心を通わせることが出来るのではないでしょうか?この言い方があまりにもヒューマニティーに溢れるのだとしたら、ここで読者は初めて主人公と同じような感覚を持ったような気になれるのではないでしょうか?
つまり東的な、テロリズムを超える可能性を読者は第3者的な視点ではなく、小説との関係の中で身をもって体感できるのです。
前掲した『ゲンロン0』での議論が思弁的なものにとどまっている理由は、まずそれを考えるときに東が用いた材料が、『カラマーゾフの兄弟』の書かれなかった部分(後に日本の学者が想像して書いたもの)を参考にしていることと、それがやはり内容のレヴェルにとどまってしまっているということです。前者は東も了解済みでことさらここを非難したところでなんら新しい議論は生まれませんが、後者の方はかなり重要だと考えます。
それは先ほど書いた、鈴村和成が『テロの文学史』で読者を第3者的なポジションに置いてしまうことへの批判と一致しています。つまり、内容だけでテロリズムの乗り越え方を提案しても、もしくはテロリストになることを免れた人物を描いても、やはり読者は読者で何か、私たちの世界とは隔絶したもの、関係のないようなものにそれを捉えてしまうからです。
保坂の小説をテロリズムとそれを乗り越えるものとして捉えた時、そうした東的な「憐み」が、読者と主人公の間で起こるのです。
つまり、確かに主人公と読者は違う。それは自明のことです。
しかし、どこかしら読者は主人公と同じ気持ちを抱いたように錯覚する
まさに、保坂が小説を操るものとして、メタレベルでその小説に操作を加えることによって読者が「憐み」を持つ存在になっていくわけです。この点で保坂は、東が理論化したこの「憐み」をより早い時期に、より高次のレヴェルでその小説に作り上げていたのではないでしょうか?

保坂のテロリズムとは何か。
それは、小説内世界/小説外世界を混濁させるテロリズムです。
つまり、小説世界の人物たちと読者たちにある勘違いを引き起こし、有機的な関係を結ばせるということです。そうした勘違いを引き起こすために保坂は、わざと世界に対するシニカルな観察を挿入し、読者を主人公と安易に同一化させることから引き離す必要があったのではないでしょうか。安易に登場人物に感情移入できては、その勘違いの一瞬が光らないのです。
保坂はたびたび小説における対物描写の重要性と、映画などとそれを比べた時の面倒くささ(映画では1カットで映るモノを小説では端から端まで一文ずつ書いていかなければいけない)について述べていますが、むしろ、そうした対物描写というある種の足かせを逆手に取って、その合間にちらりと姿を見せる心情語を引き立たせるために利用したのではないでしょうか?
そしてこの作品以後、保坂が度々行っている実験的な小説手法――文法の意図した間違いや、読点の多用、即興的な文体――もこうした保坂的なテロリズムの系譜を引き継ぐものなのではないでしょうか?つまり、分かりにくい文章の中で少しだけ、登場人物と分かり合えたような気になる、という効果があるのです。

保坂和志はテロリストである――

この命題をめぐっていくつかの思考を巡らせてきましたが、このテロリズムはもはや既存のテロリズムではない。それを命名するなら、私は保坂の言葉を借りて、「祈りのテロリズム」と名付けます。以下に引用するのは保坂が文芸批評家の安藤礼二と対談した時に語った言葉です。

 

人工知能の時代になったときに、最後に残された人間にできることは祈ることだと思う。祈りほど、合理的でないものはない。飛行機が墜落したときに「どうか無事でいてくれますように」と祈っても遅いんだけど、祈らない人間のほうがおかしいよね。(中略)聞いてくれないのを承知で祈る。そこが人間の本領だと思う。
(保坂和志・安藤礼二「物語以前の地鳴き、そして、試行錯誤」(『三田文学』、128号92頁以下、三田文学会、2017年)、106-107頁)

 

登場人物と読者の世界を混濁させた末に保坂が見据えているのは、この届かないかもしれない「祈り」のようなものではないでしょうか。その「祈り」は届かないかもしれない。もしくは登場人物と読者が分かり合えたことも錯覚に過ぎない。
しかしそれでも人々はどうしようもなく「祈り」、他者を理解しようとします。

「祈り」のテロリズム――
それはあまりにも不合理なテロリズムです。
しかし、保坂はその「祈り」の可能性を小説という〈テロ〉で体現しようとしているのではないでしょうか。

文字数:7534

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