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アンビエント保坂和志論 -- 神奈川県某所のサウンドスケープから考える

 

 ではどうだろうーー馬のいななきや牛の吼えるところ、河の音や海の波の音や雷鳴や、またすべてこれに類するものを、彼らは真似すべきだろうか? (プラトン「国家」より)

 

 とりあえず適当に保坂和志が小説家へと生成したデビュー作辺りから順番に著作を辿って行くと、まるで小説の入り口が厳格な掟に決められていてそこ以外に通り道が開いていないかのように、人間が猫・半人間(社会的に未熟な子供や居候の若者)を拾って世話をする・飼うところから作品が書き始められていることに気づく。
 そして『プレーンソング』の続編『草の上の朝食』では、道端で見かけた子猫の飼い方について相談していた大学時代の友人・ゆみ子に「まわりにいる人たちに恋愛とかセックスなんかを疑わしく思わせる何かがあるのよ」と観察されるよう子(新しい居候2人組の片方)がその部屋に集まってくる人々への影響力を発揮して「恋愛より豊かなものがいっぱいあること」が示されていくのだが、文庫版の解説で石川忠司が「楽しげな雰囲気、親しげな雰囲気が人間や動物のいる空間を満たすには、まずは性欲があって、そしてそれをいかに大気中にバラまくか、いかに生(ナマ)のいわゆる「性欲」としてでなく自然に外へ放出するかが問題となるのではないだろうか。気楽でいるための「技術」とは、性欲の自然な流出にかかわることがらに他ならない。」と指摘する通り、その後の小説群も「大気中へとエロス=愛がバラまかれていく」プラトニックな対話篇として書き継がれてきた。

「彼らは普通に一緒にいて、ただしゃべってダラダラくつろいでいるだけ、即物的に声で大気をかきまぜているだけであり、しかし多分このようにしてのみ性欲は自然に外へと放出される。空気と物理的・音響的な関係をもっている声、身体の奥底と空気をつないでいる声という媒介を通じ、無事大気の中へとバラまかれていくわけである。
会話、性欲、そしてバラまかれた性欲としての気楽で楽しげな雰囲気、すなわち世界をおおう幸福な「愛」。--これら三つはいつもセットになっている。周知のように、プラトンの『饗宴』は哲人たちが飲み会の席でエロス(性欲、愛)についておしゃべりしている模様を描いた対話篇だが、プラトンが「愛」を語るためにはどうしても「対話/会話」という形式を必要としたのだと思う。」(解説「愛とおしゃべりと性欲のトライアングル」より)

 ここで暫定的に、「だって、恋愛に未来はないじゃない--かといって、現在の肯定もないじゃない。恋愛には、ただただ現在の自分の不安定な状態を確認する気持ちしかないんだもん/恋愛が一番なんて思うのは、子ども向けの映画や小説の悪い影響よ」とゆみ子が言う通りに三十歳を過ぎて「恋愛の後の未来」を生きることになった「ぼく」が置かれた境遇を転回点にして、ふられた後遺症で酒も飲まなくなってやることがなくなった隙に「空き部屋に転がり込んでくる」のが保坂和志の小説の始まりだと定義できる。

 ところでここでその隙間に「転がり込んでくる」者たちを数え上げてみると、作品世界で主人公たちが住む場所=家を変えても次々に繰り返し登場する動物たち、半人間たち、そして本の中の言葉を読むことで召喚される死者たちの分類をはみ出す4番目の存在者がいる。しかしその間借り人は家の中では姿が見えないという厄介な性質をしていて小説の中ではなかなか言葉で捕まり難い、特別な地位にあるといっていい。もちろんそれは言うまでもなく、ここぞというタイミングで保坂和志の作品タイトルに現れる「音楽」である。

 偶然の闖入者としてそこの部屋/家に鳴り響く音が登場人物にとっての思考のスイッチになる例を挙げていくと、もともと保坂和志の小説において音楽と非音楽(調律されていないノイズ)の境い目は混在していたのだが、はっきりと境い目が対象化されるようになったのは、例えば『カンバセイション・ピース』の「猫の世話以外に夕方の庭の水撒きが私の楽しみになっていた」挿話の途中で、小説家の「私(高志)」が従兄弟に管理を任されて住むことになった世田谷の家の一角を間借りしている社員の1人・綾子との会話で不意にこのような考えが述べられている。

「小さい子どもというのはまだ言語の回路が完成されていなくて、人間の言葉も動物の鳴き声も木の葉が触れ合う音も、全部一緒になった音の中に漂っているのだ(きっと)。それが成長するにつれて言語とそれ以外の音を区別するようになってゆくのだろうけれど、物音が人の話し声に聞こえてしまうような不安定でブレの多い回路は、大人になっても底の方で活動をつづけている(中略)
 音楽を聞いたり、絵を見たりしたときに人がものすごく感動したり興奮したりするのは、きっとこの幼児期ぐらいまでさかのぼらなければわからない脳の不安定でブレの多い回路に働きかけてくるものがあるからなのだ。だから音楽や絵が、郷愁を誘ったり、おぞましく感じられたり、優しく包み込むように思えたり、生の深淵を垣間見せたりするというのは、個々の題材やメロディ・ラインや楽器の音色なんかのことではなくて、それを超えたもっと説明のつかないところに理由があるからで、脳が言語や物の識別をできるようになる前までさかのぼっているのだとしたら、それを言葉で完全に分析しきることはできないと言うと、
「『木のせい』の話がそこまで行っちゃうから驚いちゃうよね」
と綾子が言い、私は私で綾子がきちんきちんと合いの手を入れていることにちょっと驚いて、私と綾子がホースから出る水とそれがあたる木という同じものを見ているからなのだろうかと思った。」(『カンバセイション・ピース』)

 さらに家の周囲の話し声や鳴き声を含めた「物音」に標準した一種の人力フィールド・レコーディング小説の側面があるといえる『カンバセイション・ピース』では、主人公が家の2階の部屋で風邪で寝込んでいるという場面設定で、その床面に定位して持続するサウンドスケープがおよそ30ページ以上に渡って描写されている。

「音は私が聞いていなくても鳴りつづけていて、眠っている私は音がしないのでなくていろいろな音が鳴りつづけていたから、それを聞く意識を働かさずに眠ることができたのだろうと思った。人間は言葉を身につけるのではなくて、言葉の中に入っていくというか受動的に言葉に包まれるから言葉をしゃべるようになるのだが、言葉は言葉でないいろいろな音と一緒に鳴っていて、耳が耳たぶを持った集音器であるように、家もまた外の音を集めたり中で鳴る音を共鳴させたりする器官のような気がした。」(同)

 モデルになった「家」の記憶が付きまとっているとはいえ、なぜこのような想像上のフィクショナルな聴覚描写(サウンドスケープ)が作中で展開するようになったのか。

 補助線になるのが、短編集『〈私〉という演算』に収められた「写真の中の猫」である。そこで保坂は自身の記憶に残っていない、幼少期の自分と並んで写っている猫の姿を眺めていた時の特殊なリアリティについて語っている。対象になっているのは「郷愁」に回収されるだけでは片づけられないリアルと感じたものの考察である。
 そしてその次の頁に載っている文章、小津安二郎の映画をビデオで繰り返し見てしまうのはなぜなのかを主題化した「そうみえた『秋刀魚の味』」で行き着く、誰もいなくなった部屋の「無人格の記憶」という発想に連なっている。

「死んだ者たちが彼らを記憶する家の中で、生きていたあいだの時間を反復しているように感じている今では、ぼくはこの視線を、“無人格の記憶の視線”とか“彼らを記憶する家の視線”とかのようなものとして感じている。『秋刀魚の味』の人たちは、彼らを記憶する家の視線の中で、彼ら自身の時間を家の視線として生きつづけているのだとぼくは感じている。そういう形で、消え去った過去の人間や物やそれらの動いたことと現在という時間が関係づけられるという想像力の形を与えられたように感じているのだけれど、その想像力は彼らを記憶する家がなくなったあとのことまでには届いていないように今はまだ感じている。」(そうみえた『秋刀魚の味』)

 言うまでもなく、小津安二郎の映画のように「死んだ者たちが彼らを記憶する家の中で、生きていたあいだの時間を反復しているような」効果を醸し出す、無人称的な時間と空間を撮影・編集できるのはカメラやマイクといった非-中枢的かつ脱-中心化した知覚の記録を可能にする技術があってこそである。この「驚くべき機械」(ロベール・ブレッソン)。

 そのように捉えると、一作一作がとある場所=スペースにゲストを招待して新たなイベントが起きる「饗宴」の記録を文字に起こしたものを読んでいるような体験だったのではないかと擬えられるのだが、つまりどちらかといえば保坂和志の作品にとっては、そこにやって来る動物や人間よりも、「能天気で気楽な雰囲気」のまま緩やかに「みんなの新しい習慣をつくる」(『草の上の朝食』)共同生活に先行する「空き部屋」という建築空間の方が重要なバックグラウンドを成しているのではないか? という疑問に行き着くのだが、「無人格の記憶」のメカニズムに関しては一旦中断して措く。ここから先は、あらゆる「環境音楽/芸術」の器であるその固有の空間に鳴り響く「音(楽)によって起動する小説」という一断面に迫ってみたい。

 前置きが長くなったが、やたらと今まで読んできた「音の記憶/風景」にフォーカスしようとしているのは、小説を「演奏」するように書きたいと標榜している保坂和志と、主に言葉を使って制作しているわけではないあるアーティストの音響作品が、舞台・拠点とする神奈川県内の相模湾-太平洋に面した沿岸という場所の偶然性も手伝って、いつからか彼らがやっていることが相互に重なっているように思えてならないからである。

 2000年にICCで同名の展覧会が開催された「サウンド・アート」と呼ばれる領域の先駆者として数々のフィールド・レコーディング作品を残している美術家の角田俊也は、大谷能生による2007年のインタビューで、自身の制作行為をマイクロフォンを介した「描写」だと語っているのが興味深い。

「ぼくの作業は、出会うべくして出会った超小型無指向性マイクで、基本的にはずっと同じセッティングでやっています。マイクを場所に合わせて変えたりすると、今度はマイクの性能が世界を作っていくような感じになっちゃって、そうするとまたそれが描写イメージの固定に繋がってしまうんですね。あと、描写っていっても、コンタクト・マイクっていうものは実際には人間の鼓膜とは異なった音の拾い方をする。まったく客観的とは言えない、あるメディア/機材だけが持っている特徴的な描写で、世界の変換はそこでプレーンに行なわれているわけじゃ決してない。いわば絵の具やキャンバスの材質みたいなものと同じで、そういった特徴的なメディアを使ってぼくは「風景」を描写している。聴覚にしても視覚にしても、そこにはこういうふうに景色が現われているってことで、その現われをどういうふうに切り取るかっていうのが面白いところだと思っています。」(角田俊也インタビュー、大谷能生『貧しい音楽』より)

 続いてその翌年の“「CDには音楽が入っているものだ」と理解している人間を戸惑わせざるを得ない、われわれがCDとプレイヤーを使って張り巡らしているリスニング・システムの外側に位置している作品”を紹介するテキストで、2007年に宇波拓が主宰するhibari musicよりリリースされた『間口港の低周波』について、大谷はこのように評している。

「彼はある場所を訪れ、その空間の固有性をマイクとDATレコーダーによって「振動」として記録=描写する。美術家である彼の主な興味は「その場所=時間がどのように感覚に現れるか」という点にあり、ここでも角田は、マイクとDATレコーダーを絵具とキャンバスとして、「間口港」のデッサンをおこなってゆく。しかし、彼が設定した機材によってぼくたちの耳に現れる「港の風景」は、人間がこれまで決して見たことも聴いたこともなかったような、言語的描写を拒むような映像でもあるのだ。角田はこのアルバムにおいて(おそらく)マイクの場所を変えることで四つのデッサンを制作しているが、彼はその素材にさらなる抽象を施し、その映像=振動から20Hz以上の成分をカットして、超低周波のみを抽出した四つの新たな「間口港の風景」を制作、追加収録している。これらのデッサンは、通常人間の耳は20Hz以下の音を認識することが出来ないので、ぼくたちの前に全くの無音の風景として立ち現れる。しかし、ぼくたちの知覚とは無関係に、そこには確かに間口港が姿を映しているのである。」(大谷能生「CDの向こう側を探る」、『REVIEW HOUSE 01』より)

 CDに録音されたその三浦半島の東側に面した「間口港」の即物的な振動による記録=描写を実際に聴いてみると、静まりかえった水中で何かが波に揺られてぶつかり合っている模様が遠く反響してフィードバックする周期を形作っているのが判別できる(超低周波バージョンだと時折一定の周期でスピーカーがズゥーン……ジジジ……と唸っているようにしか聴こえない)。
 2曲目以降からは、そのモアレ状に揺らめく音響のパターンに薄く重なってコンクリートで固められた海岸の上を行き交う人間(働く大人から遊びに来たらしい子供まで様々)の話し声やセミの合唱やトンビの鳴き声を拾っている。

 絵画から出発して「フレームを設定して時間・空間の内部性を切り取る」手法に至ったという、コンタクトマイクによる振動系の記録のような形でなされる非言語による場所・空間の「描写」。
 とはいえ「人間には普段聴こえていない定在波=ただの音」を記録・編集した角田の作品においても、言語と非言語の素材の拮抗が起きていることに注意するべきである。

 話はいきなり2012年1月24日に幡ヶ谷のライブハウスで催された『鼎談:聴く事について考えてみる』というイベントの記録に飛ぶが、沼倉康介・角田俊也・佐々木敦がパネラーとして登壇したこの鼎談では、「音響の美学化」に抗うサウンドアートの可能性として最終的に「純粋な聴取」という問題が取り沙汰されていた。

 この日は冒頭から「寒い家の中でネズミかと思ったら湯たんぽから反響している謎の音だった」という角田氏の体験のエピソードが語られるなど「音と名前」の問題を巡っていたのだが、つまり、フィールド・レコーディング作品の本質である記録という行為には、マイクによってある技術的変換のもとに聴覚的知覚を媒体に定着させる「録音」と同時に、そこで残った音響的持続のそれぞれを人間の認知の上で同定する言語による広義の「記述」が必ずセットにならざるをえない。
 例えば観客に対して解説を伏せることはできるが、それを録った作者自身が制作過程で言葉を全く使わないで音を作品化しようというのは無理難題になってしまう。それをなくして消去しようとすると、どこでいつ録った何の音なのか、どれがどの録音なのか区別ができなくなってしまい、メディアの中に存在してはいるその一回ごとの録音自体があってもなくても同じな、結局は録音する前と変わらない不可視な物理現象に戻ってしまう。たとえ瞬間的には名前のない音の聴取を行うことが可能だとしても、その音に関する一切の言語や記号による言及を禁止した場合、その聴覚体験を記憶に留めて整理することができなくなり、つまりある社会の中に作品として固定して経験することができない(作品として存在できない)。これはウィトゲンシュタインの「私的言語」とか「私の痛み」の考察に近いものがあるかもしれない。

 佐々木敦はその2年後の東京藝大音環科で行われた講義でゲストに来た角田俊也の作品を『トマス・ネーゲルは「コウモリであるとはどのようなことか」でウィトゲンシュタインの私秘性の問題などを動物に置き換えたけど、角田さんはそれをさらに無生物(マイク)にまで拡張した』と評している。

 2013年に発表された角田俊也の『春の粒子』で「描写」されているものの一覧が収録曲のタイトルで具体的に銘記してあるのは、以上のような非言語的な「記録」の存在条件ともいえる理由があったのだと思われる。

ディスク1
1. 小さい木の実が風で揺れて草叢に落ちる音
2. 鶯の鳴き声のシーケンス
3. 山寺の境内の出来事
4. 徐々に暮れゆく空き地に響く音

ディスク2
1. 祠のトタン屋根に落ちる枝の破片
2. 風で枝が擦れて生じる一瞬の高い音
3. 池とその周りの出来事
4. 漁師の焚き火の爆ぜる音

 『春の粒子』は山の風景を歩いていたらナチュラルトリップしたのが発想の元になっているそうだが、「古代ギリシャの哲学者たちは世界が空間と時間の小さい粒の連続で構成されていると考えた。春の三浦半島を歩いていて、私は彼らと同じように、小さい音の響きが空間の質を作っているように感じた。これを場所固有の特徴と言い換えてもいいだろう。」と自身で解説するように、録音された偶発的な出来事=空間の質が変化する「密度の高い瞬間」(木が擦れる高い音や焚き火が爆ぜる音等)だけが数秒間細かくループされていて、山中に広がる音の具象と抽象がその短時間だけ逆転するような編集になっている。

 実を言うと保坂和志の小説と角田俊也のレコーディング作品の「似ている部分」について気づかされたのは鎌倉市内の稲村ヶ崎の尾根や海岸を舞台にした『季節の記憶』で主人公の父息子と近所に住む美紗ちゃんが12月の山道を散歩する描写を読んでいた時なのだが、保坂はその作品についてこのように簡潔に振り返っていた。

「『季節の記憶』でやってみようと思ったことは、(1)風景を、人間の心の投射とか比喩とか象徴のような“文学的な意味”を持ったものとしてでなくて、ひたすら即物的に風景として書くこと、(2)ぼくが世界や人間について考えていることをできるだけたくさん書き込んでいくことの二つだった。」(『季節の記憶』の記憶とそれ以降、『アウトブリード』より)

 この辺りでいきなり日露戦後の自然主義文学の可能性を論じた文芸批評へと曲折するが、『「帝国」の文学』をめぐる渡部直己VS絓秀実の論争(『メルトダウンする文学への九通の手紙』に収録)で俎上に載っているように、円滑なストーリーテリングの経済性を離れた無為の細密描写は書く主体/書かれる対象(表象=再現すべきイメージ)の散逸・不純な断片化をもたらす。

 もしくは「湾岸戦争」を主題化した作品群を列挙した1991年の文芸時評で、尾辻克彦の『短編』を評して「対象の輪郭を明瞭に喚起するよりはむしろそれを積極的に擾乱し、あるいは、この擾乱相互の不透明な親和力のうちに、たんなる再現性をこえた産出的なテクスチュアリティーをもたらしうるもの」だと主張されているのが「抵抗としての否認の技術」でもある「描写」なのだった。

「そうした描写を不可欠の要素となす「小説」とはつまり、時間の加速性と空間の透明な再現性を旨とする「物語」にたいして、みずからの前提としてそれを認めると同時にこれにあらがう言葉の、繰り返すなら否認(フェティシズム)の欲望形式として定義されるべきものにほかならない。」(渡部直己『否定と否認 ーー今日の「戦争文学」』、『〈電通〉文学にまみれて』より)

 例によってこの時評で渡部は「存分にフェティッシュなものであるともいいがたい」と「それぞれのテクストにおける描写の欠如」を嘆いているのだが、ともかく「戦争とはむしろ、くだらぬことのために死ぬ自由を奪う悪しき事態として反対されるべきものだと考えているらしいこの「私」」の「いかにもとりとめない言葉たちは、そうすることによって(もしくは、そうとしかありえぬ嫌悪の表象性において)、どのような規範にも還元されず、したがって断固として交換不能な欲望のうちに現在の戦争を受けとめようとしている。」と一応肯定的な部分にも焦点が当たっている。
 なおかつそのテレビの戦争報道のような「紋切り型の何かを強制的に語らせる」力とセットになった「失語症(否定の態度)」に対して「その存在を認めつつそれにあらがう抵抗の形式」は尾辻克彦の代表作『肌ざわり』=触覚へと類比できるものでもあるような、フロイト的な「否認の仕草=フェティシズム」へと配送されていく読解になっている。やや脱線したが、ここでもファルス的享楽の男性原理、人間=男性であることの恥ずかしさ(ドゥルーズ)が絡んできてしまった。

 このようにして再び前半で提示した問題に戻って来るのだが、先の解説で石川忠司が身も蓋もなく「あきらめの悪い中年」の生き方を追求する小説だと括ってしまっている、「ポスト恋愛」「ポスト性欲」的なエロス=愛の技術という逆説。それは既成の主体(東浩紀が『写生文的認識と恋愛』で夏目漱石の分析から取り出したように、「正しい意図の解釈」に振り回される近代的個人は「他者の欲望を欲望する」三角関係の葛藤を基本単位にして成り立つ回路によって輪郭が固定されている)からの解放、「私の解体」(『小説の誕生』)に関わっているという仮説に接続できる。

 「時間がただ過ぎる無為の享楽」について最後に補足すると、2016年にリリースされた角田俊也の最新作『ソマシキ場』では、江戸時代に村々に置かれていた死んだ家畜(牛馬)の捨て場の周辺をレコーディング対象にして、現在の地図上の環境音だけで石碑に刻まれた約200〜150年前の「過去の場所の痕跡」をスケッチするという、記録する行為に時間軸上のスケールを広げた想像力を介在させたものだった。
 三浦半島南端の海辺に近い野原というロケーションも手伝って、最初はただの静寂に近かったざわめきのテクスチャーが、定点観測を記録した再生時間が経過するにつれて次第に、遠くで出航する船の汽笛の音、釣り人たちの海岸での会話、道路添いを走る車やバイクの走り去る音、草叢に潜んで飛び交う虫の音と上空で群れる数種の鳥・スズメやカラスやトンビたちが織り成す鳴き声のアンサンブルが織り成すきわめて豊かな立体的情景を呼び起こすものになっている。

 このような不定形な「人間がこれまで決して見たことも聴いたこともなかったような、言語的描写を拒むような」持続を記述・描写する運動は究極的には「死後の世界」へと連続しているのではないか。

 『カンバセイション・ピース』におけるように、「人が物音に耳を澄ませている」状況とは、端的に身体の活動が静止している。「静寂の文学」は行為主体となる登場人物の非活動という出来事を描く。ここから突然ブライアン・イーノが「アンビエント(環境音楽)」のアイデアを閃いたのは、事故で動けない体になってベッドで寝ている時に病室の外から雨音が聴こえてきた時だった、というエピソードを付け加えることもできる。

 残念ながらここで期限が来てしまったので、複数の小説・エッセイを跨いで繰り返し変奏されている「私が生まれる前から世界はあり、私が死んだ後も世界はあり続ける。しかし、この簡潔な事実を実感する努力を人はいままで怠ってきたのではないか。」というテーマを突き詰めると浮かび上がってくる「人間抜きの実在」の諸相、「私/人間がいない小説」と「聴覚的描写」の問題については、いずれ仕切り直して再チャレンジしたい。
 とりあえず、本になっている最新作の『地鳴き、小鳥みたいな』でも「空間に拡散した知覚を拾い集める」という言葉による音の捕獲が試みられているのは予告しておきたい。

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