印刷

一人称を意識にちかづける

 映画の始まる前の予告編を見た時に、それだけでその作品を見終わったような気持ちになることはないだろうか。予告編でおもしろそうだなと思って本編を見たら、予告編と同じ内容で(予告なのだからそれはそうなのだが)見終わった感想が予告編と本編でそれほど変わらなかったという経験はないだろうか。もっと言ってしまえば、短い分だけ予告編の方が本編よりおもしろかったという作品すら私にはあったりする。あくまで想像だが、そういった作品はA4一枚の企画書から始まり、そこに書かれた魅力的な筋書きと興味をそそられるキャラクター、俳優のキャスティングにより製作が決まるのではないのだろうか。その企画書を面白いと思った人がお金を出資することで映画が成立するのであれば、その企画書が一番面白いという可能性すらあるのではないのだろうか。その映画作品をエンターテイメントとして観客に消費させるのが、その作品の目的であるならば、食事代替品のサプリメントのように栄養分だけを凝縮し、要点だけを観客に伝えれば目的は完遂する。そしてそういった明確な目的を持った消費活動を促進していった結果、プロセス(作品)すらもいらなくなってしまうのではないのか。イギリスのコメディグループのモンティ・パイソンのスケッチ(コント)『全英プルースト要約選手権』は、15秒間でマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』という長編小説を要約するコンテストという内容で、要約しようと必死になる人、どもる人、コーラス(輪唱!)で行おうとする人たちのバカバカしさに笑ってしまうのだが、そのことに素直に笑うことができない自分もいた。それは作品に対する自分の接し方で、美術館で絵画よりも絵画の横にあるキャプションを読んでいる時間が長かったり、家で早送りで映画を見たり、本を飛ばし読みしたりするということを考えると、自分自身の考え方、生き方も含めて、この要約しようとする人たちよりも、自分はつまらない生き方をしていると思ったのだ。そう思うきっかけになったのは、文學界2017年8月号に掲載された保坂和志の『花揺れ土呟く』の以下の箇所を読んで、私は可笑しくなり、そこを読み飛ばそうとしていた自分がとてもつまらないことをしていると思った。

 

 私は今住んでいる家に引っ越してもうすぐ十八年になる、十七年経ったところでちょうど六十歳になったことが理由か、たんに私は十七年という数字が好きなのか、十八年より十七年としてその歳月を私はこのところずうっと考えてきた、(中略)

 その一九七〇年は日活ロマンポルノの第一作が十二月二十日に封切られたと、NHKのBS番組で言った。それまでの路線では立ち行かなくなった日活が撮影所存続の策としてやむにやまれず成人映画に路線転換した、これが大当たりした、ロマンポルノは一九八七年まで作られつづけ、そこで幕を閉じた、というのを見ていて、あ、ここでも十七年だと思った。
気づく人は少なくないだろう、一九七〇年十一月二十日というのは三島由紀夫の自決が十一月二十五日だからわずか五日前だ、二つは無関係だが関連づける気になれば現代史の一冊か二冊は書けるだろう、両者は『潮騒』でつながりもする。(中略)―と書いたら、日活ロマンポルノは一九七〇年でなく七一年だった、七一年から八八年までの十七年だった、三島由紀夫とのつながりはどうなる? もともとどうなりもしなかったと言いたいために私は数字を一つ間違えた? なくはない。

 

 書き出しで「今住んでいる家に引っ越してもうすぐ十八年になる」と言った上で十七年について書き始め、日活ロマンポルノの十七年と重ね合わせ、その日活ロマンポルノの始まりの年を三島由紀夫の自決と紐づけてから、その年は実は間違いだったという思考のプロセスの時間経過が、私がこの文章を読んでいる思考のプロセスの時間経過と同じリズムで流れていると感じられたのだ。それは始めから結論やゴールが決まっているものではなく、行きつ戻りつ、時には関係ないところへ移っていく意識をそのまま記述しようとしているようにも思える。このことに関して、保坂和志は以下のように書いている。

 

 小説では、風景や人の仕草などを綿密に書くという作業を通じて、作者の意図が乗り越えられ、作品着手以前には考えもしなかった姿に作品が発展してゆく。つまり、作者はテーマを事前に決めて、作品を主体的にコントロールするのでなく、受け身になって、競技者がそのつど状況を切り開くように書き進める。ということは、小説の展開の決定権は作者にあるのではなく、小説それ自体にある。私がこういうことを言うと、「信じられない!」と思う人が多いのだが、作者の仕事とは、書き進むにつれて小説が個別の作品として開始した運動を必死になって追いかけていくことなのだ。(日経新聞 「プロムナード」2010年6月3日(木)夕刊)http://www.k-hosaka.com/nonbook/nikkei-6-3.htmlより転載

一人称となる以前の状態を意識といま呼んでいるんだとしたら、語りかけが順調に行ってそれが少し長くつづくと意識の中で「私」の像があらわれてきているような気がする。像となった私は、一人称でなく三人称のように感じる。(中略)一人称はそれを抑圧し、単純化し、伝達可能であるかのように思わせる、小説を三人称で書いていたらそれが問題とならない、一人称を意識にちかづける、私の関心はそういうことになってきた。 (「みすず」2013年7月号、『試行錯誤に漂う』、後に同タイトルで単行本化)http://www.k-hosaka.com/nonbook/misuzu14.htmlより転載

 

 この「一人称を意識にちかづける」という言葉を読んだ時に、私はサンプルという劇団が今年の6月にKAATで上演した『ブリッジ』という作品のある場面を思い出した。この作品は、モツコスモという人間の内臓を信仰対象としている新興宗教のセミナー会場で観客はそのセミナーを見に来た人という設定で展開される。そのセミナーの後半で、新興宗教の信者たちによるワークショップのようなことが行われる。その内容は欲望を声に出して、その直後にその言葉を否定するという内容なのだが、ここの場面だけ事前にセリフがあるようではなく、その場の俳優が無意識に思ったことを発話しているように見えた。例えば、「見たい! でも見たくない!」「触りたい! でも触りたくない!」といったような、何か行動をひとつすることすらも、場合によっては動作の後から(ふと右手を見てしまって「右手を見たい! でも見たくない!」のような)発話と、それに付随する動作をしていた。その光景は、どこかその配役以前の俳優自身の発話、身振りにも見えたが、過去にそれぞれにトラウマを持つ新興宗教の信者という役も相まって、より病的に見える効果があった。このように、自分の意識の流れを声に出して発話し続けると病的に見えるのだが、保坂和志の小説における意識の流れにはそのような病的な要素は一切感じない。それは演劇と小説という違いもあるのだろうが、それだけではない。内容的にも『ブリッジ』に関連がある大便についても書かれている『彫られた文字』(『地鳴き、小鳥みたいな』に収録)では以下のような箇所がある。

 

「大便もお金もどっちも黄金色なんです。」
 とSさんは言った、私は大便を黄金色とも金色とも思ったことはない、大便は黄土色だ。
 しかし黄金色と黄土色は誤差の範囲と言えば誤差の範囲だ、子どもはクレヨンや絵の具に金色がなければ黄土色で塗るだろう、そして塗った子ども本人が「なんかウンチみたいになっちゃった……」と、自分の絵にがっかりするだろう、隅田川沿いにビルの上に金色の雲みたいなオブジェをのせたあれはたいていみんな「ウンチみたいだ」と思う。

 上記のような文章の意識の流れと揺らぎの中で、この短編作品の中では、木版画に彫られた文字、『ケルズ書』という装飾的な聖書の写本、王義之(西暦4世紀の中国では、石を彫り、そこに紙を置いて拓本を取られたものを書としており、内容は政治文書が多かった中、彼が筆に墨を付け、紙に書くことを彫ること以上とした初めての人物で速書きの草書や行書で、「足が痛い」「眠れない」といった書を残している。この作中では別の文脈で触れられている)、フロイトや深沢七郎、アナーキズム、大杉栄、そしてヒサについて、要約できないような思考のプロセスをたどりながら、それぞれが微妙な共鳴をしながら書かれている。この微妙な共鳴について私が「この小説を書く時にどんな気持ちがしましたか?」(この質問自体、何を質問していいかわからなくなって無理にした質問のようだ)と質問したら、他の作家であれば、原稿料のことを考えていた、または締め切りに間に合わせるために書いたと言うかもしれない。しかし、保坂和志であれば、「書いている時の気持ちはもうそこに書いてあるだろ」と言うのかもしれない。そこに書かれているのは誰にも強制されているわけでは決してない、保坂和志自身の書きたいという自由な欲望であり、その文章を読むときに私は自分の本の読み方、ものの考え方、生きていく姿勢を大きく揺さぶられる。

文字数:3780

課題提出者一覧