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かたまり化する記憶

文學界2017年8月号に掲載された保坂和志の新作短編『花揺れ土呟く』は、「私」が鎌倉の駅から実家のある長谷まで歩いているときに足からはじまり体全体が怠くなる、という描写からはじまります。別の機会に同じ道を歩いている時にも体が重くなります。その道は五十年前の小学生時代に毎日歩いた道でした。「私」はその道は思い出すことが多すぎて脳のどこかで体を重くする物質が分泌されていたのだと断言します。記憶によって、物質的に体が重くなるというのです。この記憶の重さというものがこの短編のキータームとなります。本作は記憶というものが時間軸に沿って整理された細かい断片としてではなく、重量感を持った一つのかたまりとして実感される現象を、言葉の上で読者に追体験させる試みなのです。

この上下組で二四ページの作品には、いくつもの回想が重ねられています。上記の鎌倉から長谷の道を歩いた小学生時代、妻と夜の千鳥ヶ淵を桜を見ながら歩いた一九八六年、今いる場所に引っ越してきたばかりの一九九九年、以前は見かけたコウモリを最近みかけなくなったと話した二〇一〇年、空き地の菜の花と桜の花は誰かが世話しているということに気付いた二〇一一年四月。年代が特定されているものに限ってもこれだけの回想が含まれていますが、ややこしいことに回想の中に「私」の今の意見や感情が入り込み、さらには「そのときは」「その頃」といった指示しかされていない年代の特定できない回想も現れます。時には全く時制がわからない箇所も目に飛び込んできます。たとえば、一九九九年に引っ越した家の路地の入口に駐車場があったという記述の後にその場所でガマガエルをよく見たということが語られます。

 

この駐車場でよくガマガエルを見た、大人の男の手のひらぐらいの大きさだったか、梅雨の頃だったかには井戸とは別の一角に何匹も集まって、ゲコゲコ鳴いていた、たぶん井戸があることが理由ではなかった。

ガマガエル?いやヒキガエルかと思って調べると、ヒキガエルがガマガエルのことだった、「水域依存性が低い」と書いてあった。高く広がる欅を目印にくる道から住宅街をぐねぐね曲がっている道はずうっと緩い傾斜になっている、歩くぐらいでは気づきにくいが自転車だとわかる、ずうっと緩く上ってきてこの駐車場のところになる。

(強調部は筆者によるもの)

 

ガマガエルのことを「調べた」のは一体いつなのでしょうか?小説を書いている今?駐車場でガマガエルをみた頃?文章を読む限りでは判別がつきません。別の箇所では二〇一〇年頃にコウモリを見なくなったと「私」が友達に言った話と、朽ちかけた木造二階建てのアパートの様子を語る様子が連続して書かれるのですが、アパートの話は二〇一〇年の時点のものではなくそれ以前のものです。明確な指示のないまま時間軸が移動しています。アパート描写にコウモリの舞う様子が描かれることで時間関係がわかるのですが、そのコウモリの描写にくるまでは時間軸が全く不明瞭な状態なのです。

さらに、小説には「私」が生きた記憶以外の時間も重ねられます。今の場所に引っ越ししてから経った「十七年」に「私」は強いこだわりを感じ、ジョン・レノンがストロベリーフィールズで過ごした五歳から二二歳までの十七年、日活ロマンポルノが誕生してから終了するまでの一九七一年から一九八八年の十七年が重ねられます。別の場面では、一九八六年に千鳥ヶ淵で話しかけてきたおばあさんの年齢についても思考をめぐらし、一九〇五年頃生まれと推定して、当てずっぽうの生まれ年から「生きていれば百十二歳だ」などと考えてみせます。小説の最後には『昼顔』という映画に出演したミシェル・ピコリが続編の『夜顔』に出演するまでに経過した三十八年という年月にも触れています。他者の生きた時間にも言及することで、読者の意識は時間へと向かいますが、「私」の語る記憶は時間軸がぼやけているため、時間に対して年表図のようなクリアな概観を得ることができません。時間認識が曖昧なまま、次から次へと現れる新たな回想を読むことによって、奥行きを欠いた、質量としてのみの記憶が読者の上にのしかかってくることになります。記憶がただの重みに変わっていくのです。このようにして、読者は「私」が鎌倉の道で感じたかたまりとしての記憶の重みを追体験することになるのです。読売新聞に連載された『朝露通信』も時間軸のはっきりしないかたちで記憶を描いていましたが、そもそも年代をほとんど明記していないことと、回想が少年自体に終始していたこともあって、記憶の描かれ方が断片的で、それぞれの描写には生き生きとした軽やかさが宿っているように感じられます。渾然となった重さを産み出す本作とは対照的です。

『花揺れ土呟く』のもうひとつの特徴は回想の中に大木がいくつも登場することです。いまの家から見える二本の大きな欅、家近くの狭い路地でアスファルトを押し上げるように咲く太い桜、空き地の一角にあったほとんど左右対称の樹形の百日紅。この百日紅は空き地に二棟のアパートが建つ際に伐られることになります。なかでも印象深いのは広い空き地に立つヒマラヤ杉の末路です。三階建ての建物よりもずっと高い、見事な左右対称のヒマラヤ杉は近所一帯どこにいても見えて、「私」はこの辺りの土地のシンボルのように感じていました。ところが、ある日チェーンソーの激しい音で目が覚めると、ヒマラヤ杉が伐られている様子が目に飛び込んできます。いよいよ空き地にマンションが建つのかと思ったが、どこかおかしい。作業がどうにもたんたんとしている。作業している人に声をかけると、カラスが木に巣を作ってうるさいと近所で言った人がいるためだけに伐られるのだそうです。たったそれだけの理由で長い時間ここに立っていたヒマラヤ杉が伐られることに、「私」はやりきれない怒りを感じている様子。ところが、ヒマラヤ杉がなくなって、そこに空が広がっているのを見えた時に「私」は思いがけずせいせいするのです。読むものはここで驚きます。ヒマラヤ杉が伐られたことがネガティブに描かれていたのに、突然ポジティブな事象へ反転するからです。

大木というものは、人工的に伐られたり天災に遭わない限り、何百年という間そこに立ち続けるものです。大木を眺める、あるいは存在を意識するだけでも、そこには時間の重みがあります。本作に見られる、大木の幾度にもわたる登場、ヒマラヤ杉が伐られたあとの突然の開放感は、大木の存在が本作において時間の重さのシンボルであることを指しているように思われます。本作が記憶の重みをシミュレートする作品である以上、その連想は決して恣意的なものでありません。

概観すれば、保坂作品にとって時間は常に重たい意味を持っていました。石川忠司は『現代小説のレッスン』の中で保坂の小説を「近現代の孤独を踏まえつつ、同時にかつての物語にそなわっていた喜ばしき共同性(中略)を「回復」する」ものであると語っていますが、時間は共同性にとっては両義的です。共有する時間が長くなることで共同性の結びつきは深くなりますが、時間によって、つまり死や別離によって共同性は失われます。保坂和志の小説において、時間は常に最愛の恋人であり、最大の敵でした。それは今でも変わっていないことが『花揺れ、土呟く』を読むとわかります。渾然一体となった時間、記憶の重みを読者にぶつけて、読者の体にひとつの反応を与えること。それが保坂が本作で試みたことなのです。

 

文字数:3067

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