梗 概
ナイススティックのナイスな怪雨
「篠突く雨、とは激しい雨のことだと、知っていたかね、篠田」
放課後の美術室で顧問のN村に問われた篠田は、あ、そなんすか。と間の抜けた答えを返した。N村は近所の寺に頼まれて雨乞いの御札を描いている。よい副業になるらしい。しかし今日は久しぶりにひどい雨降りだった。帰宅するにしてももう少し小降りにならなければ、傘をさしたとて濡れるだろう。それは避けなければならない。篠田は流されやすい男だったからだ。
ここは県立K高校、篠田は一年であったが、すでに複数回の転校を余儀なくされている。いや、流れて行き着く先はいつもK高校、確かに同名の学校ではあるのだが、購買のパンの品揃えが毎回微妙にズレているのだ。つまり、俺は世界線を移動している、と篠田は思っていた。それも、雨に濡れる、という事象を通して。ささやかな雨ならささやかに、派手な雨なら派手に、パンの品揃えが異なる。篠田にとっては一大事だ。
そして今度の世界線はどうも、篠田の大好物の菓子パン〈ナイススティック〉がノーマルの一種類しかないようだ。篠田は絶望した。季節限定のあの味はもう食べられない。唯一の心の慰めは、同じ美術部の女子、高篠さんだった。高篠さんもやはりナイススティックをこよなく愛する同志だ。前回はそうではなかった。「ナイススティックのクリームが何種類もあったらって? へんなの……。ううん、ほんとに、そうだったらいいのにね」「わたしも(ナイススティックが)好き」その瞬間、篠田は恋に落ちた。君がナイススティックをくわえながら模写しているのが『我が子を食らうサトゥルヌス』だとしても、好きだー!
季節は秋の体育祭前、体育教師にしごかれまくる篠田。あいつはきっと昭和時代から流れてきたに違いない。疲れから放課後にうたたねしていた篠田は、高篠さんは他校に彼氏がいること、学校名物パン食い競走は楽しみだけれど体育祭の練習が苦手なことを耳にしてしまう。「もっと雨が降ればいいのにな……それか、パン食い競走のパンが全部ナイススティックになるとか」
その夢、俺がすべて叶えましょう!
篠田は飛び起きた。呪術に造詣が深いN村の助けも得て、校庭で雨乞いをする。雨が降りますように→ナイススティックが降りますように→ナイススティックのナイスな雨が降りますように……
果たして、ナイススティックのナイスな怪雨は来たる。期間限定安納芋あん&クリーム、夕張メロン&ホイップ、ブルーベリー&ミルク、ラムレーズン、チョコクリーム、塩ホイップ、ノーマル……全部、全部だ。高篠さんに捧ぐ。
篠田ぁ!上履きのまま校庭に出るとは何事かぁ! と駆けてくる昭和体育教師をよそに、ナイススティックの雨を一身に受け、篠田は全肯定ナイススティックbotと化した。俺は俺のままでいい!何度でも君を好きになる!俺は俺のままでいい!(以下∞)
かくして昭和体育教師の姿も怪雨の中に掻き消え、篠田はまた次なる世界線へと移動するのだった。
文字数:1233
内容に関するアピール
ナイススティックが好きです。ナイススティックとは、超カロリーのクリームが挟まった、ロングセラーで結構ロングな菓子パンです。どピンクのラインの入ったレトロなパッケージが目印で、カロリーをどれだけ摂取してもへっちゃらな高校生にぴったりなのですが、いまでもたまに食べてしまいます……
物語的には、映画や小説の中の雨といえば悲しいものやロマンティックなもの、美しいものが多い印象だったので、そのどれでもない雨を目指しました。菓子パン青春グラフィティです。
文字数:223
ナイススティックのナイスな怪雨
💧
ぽちりぽちりと雨の降る。
やがて雨足が激しさを増していく。だだっ広い校庭の天から地まで、長く筋を引いた雨が落ちる。雨音はキライではなかったけれど。
「篠突く雨、とはこういう激しい雨のことだと、知っていたかね、篠田」
放課後の美術室で顧問のN村に問われた篠田は、あ、そなんすか。と間の抜けた答えを返した。購買で買っておいた菓子パン、〈ナイススティック〉をもふもふと頬張っている。〈ナイススティック〉は、超カロリーのクリームが挟まったロングセラーで結構ロングな菓子パンである。どピンクのラインの入ったレトロなパッケージに引き寄せられる者は多い。
無国籍なあごひげを蓄えた美術教師N村は、〈雨降り〉と書かれた御札から筆を離し、窓の外を見た。水墨画のような山の絵をつけているのは、近所の寺に頼まれて雨乞いの御札(シール式)を量産しているためだ。よい副業になるらしい。
「もっとこう、しとしとしたおだやか~な雨のことかと」
篠田のぼんやりした的外れな言葉に、N村は、ふん、と鼻を鳴らす。大きな鼻から水っぽい音がする。
しかし今日は久しぶりにひどい雨降りだった。帰宅するにしてももう少し小降りにならなければ、傘をさしたとて濡れるだろう。それは避けなければならない。篠田は流されやすい男だったからだ。
ここは県立K高校、篠田は一年であったが、すでに複数回の転校を余儀なくされている。いや、流れて行き着く先はいつもK高校、確かに同名の学校ではあるのだが、購買のパンの品揃えが毎回微妙にズレているのだ。つまり、俺は世界線を移動している、と篠田は思っていた。それも、雨に濡れる、という事象を通して。
高校に進学してから、たしかに篠田は忘れ物が増えた。傘なんて特に、出がけに降っていなければ持って出ない。中学の頃は家が近かったからそれでもまあよかった。忘れ物があれば走って取りに帰れば済む話だった。だが、駅まで歩き、電車に乗って通う高校生活ではそうはいかない。ブレザーをかぶって走っても、雨に濡れる回数は増えた。
そうしてある日、気付いてしまった。菓子パンマニアの篠田にはピンときた。購買のパンの品揃えが素晴らしいのがこの高校の良いところだったはずで、終売となったものがあればすぐにわかる。
「おばちゃん、ナイススティックはノーマル一択になったの? いつも三種類は置いてくれてたのに。ほら、ジャム挟んだのとか、クリームの味が違うのとか」
「ん、なんだい、そりゃあ、美味しそうだね。けど、ナイススティックっちゅったら、昔から頑固にコレ一種類しかないさね」
まあ、若いから、お腹いっぱいになれば何でもいいでしょ、と奥から品出しをしてきたおじちゃんが笑った。つられて篠田も笑った。おじちゃんの抱えた箱の中には、ひたすらピンクのパッケージのナイススティックが整然と並んでいる。
いや、笑っている場合ではなかった。篠田はいつものように美術室にナイススティックを持ちこんで考えた。昨日と今日とで、違っていることなど何もなかった。さかのぼり、記憶をたどる。そうだ、今朝、まだ昨日濡れた制服が乾ききっていなくて、慌ててドライヤーをあてた。昨日は学校帰りに雨に濡れた。思いつくのはそれくらいだ。まさかそんな……
そう考えはじめると、もはや母親の顔のほくろの位置まであやしかった。ここは正しい世界か? かあちゃんの目元のほくろの場所ってもともと左だったっけ? 右にもあった?
「これはほくろじゃなくて、そ ば か す !」
帰宅後の母親に声をかけると、むちゃくちゃにキレられて終わった。
ささやかな雨ならささやかに、派手な雨なら派手に、パンの品揃えが異なる世界線へと移動している。篠田にとっては一大事だった。
💧💧
篠田は菓子パンマニアではあるものの、痩せ型だった。運動が嫌いなわけではなく、運動部が嫌いなために、おだやかに過ごせそうな美術部に入っただけだ。真夏の体育館でゲロを吐くほど球技をするのはもうまっぴらだった。
「よう、美術室直行かよ、体育館寄ってかね?」
放課後、教室を出るときに、バスケ部の川島が声をかけてきた。同じ中学だった男子だ。篠田はすかさず半身に構えたが、腹に軽いパンチを喰らった。これもおかしい。川島はなぜか必ず篠田の左肩を叩いてあいさつをしてくる男だったはず。いずれにせよ、篠田は他人との体の接触が得意ではなかったから、うむ、のような曖昧な言葉を吐いて川島を避けた。いまは誰の相手もしたくなかった。というより、篠田は絶望していた。
どうも今回は、篠田の大好物の菓子パン〈ナイススティック〉がノーマルの一種類しかない世界線らしい。おお、懐かしの三十センチ定規のように長く、超カロリーなクリームの挟まった俺のナイススティックたちよ。季節限定のあの味もその味ももう食べられないのか。篠田はもちろん、ノーマルも心から愛していたが、季節ごとに出る旬の味わいを愛でるのも楽しみにしていたのだ。いっそのこと、今度こそわざと雨に濡れてしまおうかとも思ったが、ナイススティックの存在しない世界線に流されたらそれこそ絶望と後悔しかない。ここは慎重にいかねば。
そんな近頃の唯一の心の慰めは、同じ美術部の女子、隣のクラスの高篠さんだった。部活でもなければクラスの違う女子となんて喋る機会はなかったが、高篠さんもやはりナイススティックをこよなく愛する同志だ。前回はそうではなかった。
「篠田くん。またナイススティック買ってきたんだ。あきないね」
「……高篠さんだって」
篠田が美術室に入るなり、高篠さんは窓際から振り返った。片手にナイススティックを携え、片手に絵筆というアグレッシブなスタイル。
「あのさ、高篠さん。もしもだけどさ、もしも、ナイススティックの種類がいっぱいあったら、うれしい? ほら、クリームがさ、時期によって、メロン味とか、ブルーベリー味とか、黒糖なんてのもあったり……」
「ナイススティックが何種類もあったらって? へんなの……。ううん、ほんとに、そうだったらいいのにね」
高篠さんは、ひと言ひと言、噛みしめるように言った。
「わたしも、(ナイススティックが)好き」
その瞬間、篠田は恋に落ちた。
高篠さんのその長い黒髪の、昆布みたいな結び目まで好きになった。
たとえ、君がナイススティックをくわえながら模写しているのが、『我が子を食らうサトゥルヌス』だとしても、
好きだーー!!
「うちね、」
「う、うんうん」
篠田は前のめりになって高篠さんの話に耳を傾ける。
「家が厳しくてね」
「うんうん」
そういえば、門限が厳しいとは聞いたことがあった。その点、美術部はガバガバなのでいつ来てもいつ帰ってもよかったし、現に今日はまだN村すら来ていない。
「ちょっと恥ずかしいんだけど……小さい頃なんか、スーパーとかで売ってる甘いお菓子もパンも、買ってもらえなかったの。おやつはぜんぶママの手作りで」
「うんう…ん、ちっとも恥ずかしくなんかないじゃん! うらやましいよ!」
篠田の母は女手ひとつで一人息子を育ててきており、その大雑把な性格上、菓子パンに子どもを預けていたふしがあった。
「うらやましい……? そおかな……?」
高篠さんは首をひねる。それから、ひねった首を小鳥のように振って篠田に向き直る。
「それでね、」
「うんうん」
「ナイススティックはずっと憧れのパンだったの」
「ほーぅ」
「それがね、高校生になったら、購買部で売ってるじゃない、ナイススティック! うれしくてうれしくて、毎日じゃないように気を付けてはいるんだけど、一本まるごと、がぶりって、食べるのにハマっちゃって」
「わかる~」
篠田はうなった。わかる~。頬張ったときの、あのクリームの油分がじんわりと舌に広がる感触。あれは、千切って食ったりしたのではわからんのだ。ふわふわのパン部分が唇に触れる官能的とも言える感触。あれは、千切って食ったりしたのではわからんのだ。
「そんな高篠さんに、おすすめの食べ方があります!」
「なになに?」
篠田は、美術室の片隅を指さした。N村がいつかどこかから拾ってきた小さな冷蔵庫の上に、これまたいつかどこかから拾ってきたトースターが設えてある。
「え、あれって、使えるの?」
高篠さんは一瞬、不安そうな顔になった。
「ご心配召されるな」
そもそもN村はほとんどこの美術室で暮らしているようなものだった。たまに洗濯物なんぞもバルコニーに干してある。
「こないだもN村先生と使ったばっかりだよ」
言いながら、そういえば女子はあんま冷蔵庫にもトースターにも近づかないな、と思う。高温で焼けばたいていの問題は解決するのに。
篠田はトースターの横に備えてある紙皿を二枚、机の上に出し、持参したナイススティックをパカリと開いてふたつに分けた。中に挟まっていたバター色のクリームがむき出しになる。
「それ、どうするの? 片っぽクリームついてないけど……」
「こうする」
上段の冷凍庫から、余っていたアイスクリーム用のスプーンを取り出すと、篠田はわかれたナイススティックの片側にだけついているクリームをもう片方にも等しくなるように塗りたくる。朝の食パンにバターやマーガリンを塗る要領と変わらない。
「そんでこれを、軽ーくトーストする」
「そうなの!?」
高篠さんの横顔が、トースターの明かりでオレンジになる。チンと鳴るまでの二分間なら、たぶん、その横顔を阿呆みたいに眺めていても怒られない。たぶん。
油絵の具のにおいに満ちた美術室に、束の間、甘ったるいバターの香りが漂う。高篠さんは、トースターに釘付けだ。ナイススティックの内側に塗り広げられたクリームが熱せられてしゅわしゅわと泡立つ。パンの縁がうっすらと焦げていく。
「うわぁ、これ、サクサクのジュワーになるやつ! 篠田くん天才では」
……俺が、ナイススティックを分け合うことができるのは、高篠さんだけだ。
チン。
「お、パン焼いてるのか。オレにもくれ。職員会議ってのはなんであんなに長いんだろなあ。腹へったよ」
篠田の夢のような時間は二分で終わった。
季節はもうじき体育祭。N村によって開け放たれた窓から秋の風が入る。
💧💧💧
つまり、篠田はもう雨には濡れたくないわけで。ナイススティックを愛する高篠さんのいない世界なんて、考えられないわけで。
しかし朝から苦悩する。
「なによ~、あんたが絶対雨に濡れたくないっつうからわざわざ奥から探してきたんでしょ~が~」
そして相変わらずかあちゃんはキレている。
「いぃでしょうよ、柏レイソルの雨合羽! あんたね、知ってる? レイソルってスペイン語で太陽王って意味なんだよ、これ以上の晴れ晴れした雨合羽はないよ。よ、太陽王! じゃ、行ってきまーす!」
篠田の母はJリーグ柏レイソルのファンだった。篠田もサッカーは好きだ。だが、母のようにスタジアムに観戦に行くほどではない。たしかに、スタジアムでこのレインポンチョを着ていればさまになるのかもしれないが、通学にはどうなのか。篠田は真っ黄色なポンチョを手に途方にくれる。太陽王と並んで歩きたい女子高生はいるだろうか。
通学リュックの中に折りたたみ傘が入っているのを確かめ、篠田はポンチョをそっと玄関に置いた。
幸い、その日は雨にならなかった。
だがその分、校庭での体育祭の練習には熱が入ったようだ。K高校は近隣では珍しく、体育祭にも力を入れる学校だった。イベントが盛り上がるのはいいことだけれど、篠田に理解ができないのは体育教師の熱血指導ぶりだった。これはなんだ? あの教師は昭和時代から流されてきたのか? あれは何年前のこの学校のジャージだ?
「男ども、気合いを見せろーーー! 伝統の騎馬戦だぁーーー!」
生徒側の応じる声は少ない。
「篠田ぁ、早く、上を脱げ!」
「なんでですかね。日焼けしたくない……」
よせ、篠田、とクラスメイトたちが袖を引いてくる。
「気合いが足りん! 校庭十周してこい! 篠田と同じグループの奴らもだ!」
うぃ~、と周り数人が返事をして、篠田の腕を引いていく。
「え、なんかごめん」
外周を走らされているのは篠田のグループだけだ。他のグループは騎馬を組み始めた。
「いんだよ、てれてれ走るのきらいじゃないし。あいつにつべこべ言われながら騎馬戦やるほうがイヤだね」
川島が言った。
「すまんな……」
篠田たちはその後、三十周走らされた。
放課後、篠田は誰より先に美術室に飛びこんで寝た。ナイススティックにかぶりつく気力もなかった。
「……しのだ、篠田よ……」
夢うつつにN村の声がする。
「なんです…か……」
油くさい大きな机に突っ伏したまま顔もあげられない。
「……マスク…ライフマスクを、とらせてくれ」
なんだ、それは……。
「女子はやらせてくれんのだ、まつ毛や眉毛がいくらか抜けるからってな。今日は他に誰か部活にくるか? 高篠あたりか。まあ、おまえでもいい」
ナイススティックを握りしめた高篠さんの笑顔がまぶたの裏に浮かんだ。
「やります」
むくり、と篠田は起きた。高篠さんのまつ毛や眉毛を犠牲にはできない。
「でも、なにを……?」
「これを頭にかぶって、作業台の上に横になるがいい」
差し出されたのは水泳キャップ。ブルーシートで覆われた作業台が目に入る。
「泳ぐんですかね」
「まあ、息はできんな。だが安心しろ、鼻にストローを挿してやる」
「なんて?」
「だから、ライフマスクだと言ったろう」
「なんですか、それ」
「デスマスクの生きてるやつだな」
説明が雑すぎる。が、篠田はおおむね理解した。
「そういえば先生の専門って、彫刻でしたっけ」
「そのとおり。近頃は札ばかり描いていたからな。立体もやっておきたい」
「横になっていればいいんです?」
「そうだ。寝ていていい」
了解。木の作業台の上は堅くて冷たいが、それも含めて、高篠さんにやらせるわけにはいかない。上履きを脱ぐと、タオルとビニール袋で肩を覆われる。言われたとおりに、台の上に寝転んだ。観念して目をつむる。
……なんだか顔の周りに粘土のようなものを、もんじゃ焼きの土手の如く貼り付けられた感触がして、それから宣告どおりに鼻にストローが挿し込まれる。かと思うと、何か、ドロッとしたものが顔に満遍なくかけられ、粘土の土手がそれを食い止めているのがわかった。
「目を開けるんじゃないぞ。口もだ。何かあったら手を挙げろ」
遠くのほうで、ぅわ、という女子たちの声を聞いた気がする。ケーキ作ってるみたい……というつぶやき。そうなの? 篠田はちょっと不安になる。顔面がケーキなの?
「シノ、汚れちゃうよ、近づいたらだめじゃん」
シノ。
「え、でも、これ、この人、篠田くんですよね、先生。置いてある上履きの名前、」
紛れもなく、こちらは高篠さんの声だった。
「そうだが」
N村は手を止めない。だんだんと顔面があたたかくなってきた。それにやたらと顔が重たい。
「だいじょうぶなんですか」
高篠さんが聞く。
「篠田はもう寝てるだろう」
N村がすげなく答える。それから、あ、そだそだ、ともう一方の女子の声が言った。たぶん、高篠さんと同じクラスのおかっぱギャルの子だ。とはいえ、彼女は兼部だったからこちらにはいないことのほうが多い。
「今日、男子たち大変だったらしいじゃん、騎馬戦の練習。彼ピが言ってた」
「え、そうなの?」
と高篠さん。女子たちはたしか、体育館での練習だったはずだ。
「めっちゃしごかれたって。外周走らされたグループもいるらしいから、たぶん、篠田、それじゃない?」
「じゃ、寝かせてあげないとだね……」
心なしか、篠田の耳には高篠さんの声が残念そうに聞こえる。
「シノさあ、ちょっと前から思ってたんだけど、篠田のこと、、」
篠田には会話のすべては聞こえない。足がつりそうなのは疲れからに違いない。鼻から息を吸うのだけで精一杯だった。
「もーぅ、だから、前も言ったじゃん」
けれどなぜか、高篠さんの声はくっきりと聞こえる気がした。
「同じ学校に好きな人がいるなんて、恥ずかしくって無理なんだってば」
おかっぱギャルの子が相づちを打っている気配がした。
「あー、シノの彼ピはよその学校にいるんだったっけ? あたしならさみしくてムーリー」
「さみしくなんかないよ。駅で待ち合わせしてるし、連絡も毎日向こうからくれるし」
いつもよりちょっぴり早口な、高篠さんの声がそう言った。
それから、高篠さんをからかうような、甲高い声がして、N村がうるさいとかなんとか言い、お、そろそろかな、とつぶやいた。石膏の上から篠田の顔をつつく。それから、ベリリベリリと型が剥がされていく。ひんやりした空気がようやく篠田の肌に触れる。
「でもさ、体育祭の練習っておかしくね? あたし、祭りに練習は要らない派」
「そうだね、わたしも、運動は嫌いじゃないけど、体育祭の練習は好きになれないかな。パン食い競争だけは楽しみだけど」
「出たよ、ナイススティック」
んふ、と高篠さんが息だけで笑う音がする。篠田の目はまだ開かない。まつ毛をだいぶ持っていかれた感がある。涼しい。いや、むしろ、顔が寒い。お肌がすべすべになったぞ、篠田、とN村の声。鼻のストローも抜け、思い切り息を吸う。と同時に、高篠さんの耳に心地いい声。
「ああ、もっと雨が降って練習がなくなればいいのに……それか、パン食い競争のパンが全部ナイススティックになるとか」
目が開く。その夢、俺がすべて叶えましょう!
篠田は飛び起きた。
「わ、びっくりした」
「え、なに篠田、起きてたん」
高篠さんたちの声が重なる。篠田は振り向かなかった。もう、型取り剤にまみれていようが、石膏のカスがついていようが、どうでもよかった。水泳キャップをかなぐり捨て、肩からさげていたビニール袋もタオルも投げ捨てた。
彼女の夢を、俺が叶えてみせる。
なぜなら、高篠さんには毎日幸せに過ごしてほしいから。毎日幸せに学校に通って。体育でなんか、悲しまないで。美味しくナイススティックを食べて、部活で好きな絵を描いて、彼氏と駅で待ち合わせしてくれ。
篠田は何ごとかを叫びながら校庭に飛び出した。裸足だった。空は広く、鈍色だった。
さあ、雨よ降れ、どれだけでも降るがいい。もう俺は恐れたりしない。
膝を突き、両手を広げ、天を仰ぐ。奇怪なものを見る目でこちらを見やる野球部とサッカー部を目の端に捉えた。
「篠田よ、」
いつのまにかN村が校庭の真ん中まで追いかけてきていた。
「これを持て」
「え、なんです」
手渡されたのは、N村が描いた御札のひと束だった。
「ライフマスク収集に付き合ってもらった駄賃だ」
次いでN村はパラボラアンテナのごとき焚き火台の準備を始めた。アウトドアグッズのあれである。篠田はキャンプに行ったことはなかったが、それくらいは知っていた。
「校庭で火を焚いて大丈夫なんですかね」
思わず真顔で聞いてしまう。そもそもN村が教員勤めをしていることが以前から不思議だった。
「今日は芋を焼く許可を校長に申請してある」
「なるほど……」
「おまえはそんな心配をしている場合ではなかろう」
そうだった。雨乞いの御札を握りしめる。
雨が降りますように。雨が、降りますように。
祈るうち、焚き火は燃えあがり、天に向かって煙を吐き出しはじめた。
「御札をばんばん火にくべろ」
N村はそう言うと、あふり~あ~ふり~、と奇妙な節を付けて火の周りをぐるりと巡る。片足で跳ね、両手は棒を持つような仕草をして天に突き上げた。
「天に祈りが通ずるように声に出せ」
「雨が降りますように」
「体育祭のその日まで、雨が降り続きますように」
篠田は懸命に祈った。腹から声を出した。
「雨が降りますように、雨が降りますように!」
あふり~あ~ふり~、というN村の節回しが続き、外の部活動の生徒たちが集まってくるが、篠田は気にしない。
「雨が降りますように、雨が降りますように、ナイススティックが降りますように……!」
御札はとうに燃え尽き、組まれた薪の炎もやがて落ち着きをみせる。不思議なほどに柔らかな色の煙が増えていくさまは、まるで雲を作り出しているかのよう。
N村はアルミホイルに包んだ芋を持参の袋から次々に取り出し、熾火に突っ込みはじめる。その間にも、焚き火台から作り出された色付きの雲が天へと昇っていく。
「雨が降りますように、ナイススティックが降りますように、ナイススティックの……ナイスな雨が降りますように!!」
県立K高校上空、鈍色だった天に、ついに激しいピンクの雲が満ちた。
💧💧💧💧
「ナイススティックの、あのパッケージのピンク色だ!」
篠田は天を仰いだまま叫んだ。
ぽすん。
ぽすん。ぽすん。
ぽすん、ぽすん、ぽすん……
ぽすんぽすんぽすんぽすん……
斯くして、ナイススティックのナイスな怪雨は来たる。
期間限定安納芋あん&クリーム、夕張メロン&ホイップ、朝採れブルーベリー&ミルク、いちごクリーム&生ホイップ、白桃ゼリー&クリーム、シャインマスカット&ホイップ、りんごジャム&カスタード、完熟マンゴー&ホイップ、シチリアレモン&ティークリーム、ピンクグレープフルーツ&ホイップ、梨ジャム&ヨーグルトクリーム、黒糖&黒蜜&マーガリン、粒入りピーナッツクリーム、珈琲&バニラクリーム、こしあん&マーガリン、渋皮マロン&ホイップ、マヌカハニー&クリーム、スイートポテト&マーガリン、キャラメルクリーム&キャラメルホイップ、宇治抹茶ホイップ&粒あん、ラムレーズン、メープル&バタークリーム、Wチョコクリーム、塩ホイップ、クッキー&クリーム、チョコ&バナナクリーム、チーズケーキクリーム、練乳増し増しミルククリーム、白いナイススティック、ノーマルナイススティック…………全部、全部だ。高篠さんに捧ぐ。
「篠田ぁ、校庭でなにやっとるかあ!」
昭和体育教師の声が響いて近づいてくる。
「焼き芋を、焼いとります!」
N村が野太い声で言う。
ああ、校庭に降り注ぐ一面のナイススティック。ポンチョを着ていればあるいはこのままでいられたのか? だがもう遅い。
篠田は両手を広げたままナイススティックの雨を一身に受け、全肯定ナイススティックbotと化した。俺は俺のままでいい! 何度でも高篠さんを好きになる! 俺は俺のままでいい!(以下∞)
遠く、美術室のバルコニーに、両手を胸の前に握りしめたままじっとこちらを見つめる彼女の姿がある。篠田の心はナイススティックのように一筋だった。この先、どんな世界線に流されたとしても、きっと高篠さんを好きになる。それがどんな高篠さんであったとしても。きっと。
そうして昭和体育教師の姿も怪雨の中に掻き消え、篠田はまた次なる世界線へと移動するのだった。
[了]
文字数:9337