ユキちゃんの結婚

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梗 概

ユキちゃんの結婚

白狐のユキちゃんは神さま修行のあいまに大学生をしている。神さまになれなかった時のため真面目に勉強しておくのだ。
 新聞配達の自転車に轢かれかけたユキちゃんは、運転していた人間の里中くんにお詫びとしてポストまでカゴに乗せてもらう。初めて自転車のカゴに乗ったユキちゃんは頬をきる風に感激する。

ユキちゃんは稲荷神社の神さまっ子として神主さん家から大学に通っていたが、里中くんはぼろアパート住まいで家族がいないという。里中くんは働いて学費を貯めてから大学に入ったので、ユキちゃんより少し年上だ。お金がかからないという理由でどこに行くにも自転車だった。ユキちゃんは里中くんの自転車のカゴに乗って、毎朝一緒に新聞配達をするようになる。里中くんはカゴにユキちゃん用の座布団をしいてくれた。

数年後、結婚を意識し始めた二人だったが、狐が人間と幸せな結婚をした話を聞いたことがない。将来のため、ユキちゃんと里中くんは神主さんへの挨拶の後、ユキちゃんの「もういっこの田舎」に行く。そこは狐の隠れ里で(ユキちゃんの通訳を介し)長老狐がいうには、古い言い伝えで「結婚式に天気雨が降れば人間と結婚しても幸せになれる」らしい。今のユキちゃんでは天候を操れない。ユキちゃんは同じ理工学部生のうさぎ、つくしに相談する。縁結びの神さまっ子のつくしは張り切って、事情を知った大学の仲間達(自転車旅行サークルだ)と「お天気雨プロジェクト」を立ち上げ祝おうとする。レンタルの放水車や噴霧器でこっそり雨を降らせる作戦だった。

ユキちゃんと里中くんは仲間の後押しで狐達に招待状をだす。大学構内での手作り結婚式がはじまった。晴れた空の下、沢山の狐達がやってくる。裏に隠れた仲間がホースを構えたその時、雨粒がユキちゃんの白無垢に落ちた。ユキちゃんに傘を傾ける里中くんが見上げる視線の先で、雨が確かに降りだしたのだ。水滴が地面を叩くたび、銀色に光る。

天気雨だ! しかしすぐ太陽に雲がかかりそうになってしまう。するとユキちゃんの体がむくむく膨らみ、甲高い狐の鳴き声が暗い雲を吹き飛ばした。ユキちゃんは本当は自在に大きくなれるのに、カゴに乗りたくて里中くんの前ではずっと小さいままでいたのだ。

「だまっててごめんね」

大きなユキちゃんが地響きのような声で謝ると、里中くんは大喜びで「どんなユキちゃんでもすてきだよ」と柱みたいな太さの足に抱きついた。
 そこに現れたのはもっと大きな、ユキちゃんの曽祖母である狐の神さまだった。尻尾が八本ある。彼女が雨を降らせたのだ。八尾の狐はご祝儀がてら空にたっぷり虹をかけて隠れ里へと帰って行く。

結婚しても里中くんは変わらず自転車でユキちゃんをどこにでも連れて行ってくれる。ユキちゃんはまだまだ神さま修行中だ。結婚式に天気雨が降らなくたって、きっとずっと幸せだったに違いない。ユキちゃんは里中くんにくっついて今日も微睡んでいる。

文字数:1198

内容に関するアピール

作中で初めて雨が降る、結婚式のお天気雨シーンをきらきらに描いて、ハッピーエンドを強く印象付けたいと思います。

雨ということで落ち着いた作品が多いかな? と思ったので、あえて神さまになる途中の動物達が人間に混ざって暮らす、おおらかで楽しいお話にしました。実作は狐を実際に見に行って、細かく観察してから書くつもりです。そしてユキちゃんをこれでもかと可愛く丁寧に描写したいです。

元気がありあまっていた学生のころ、夏休みは自転車で1日100キロくらい走っていたので、どこまでも自転車で行くことについては説得力を持って書けると思います! 自転車で30キロは近場です!

文字数:277

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ユキちゃんの結婚

 


 白狐ユキちゃんの朝は早い。
 まず目が覚めると自室の畳で伸びをして、それから舌で丁寧に真っ白な毛の手入れをする。空気のにおいをかぎわけるように、ツヤツヤに濡れた鼻先を少し上げると、ユキちゃんには今日のお天気がわかる。
 白い朝の光に、ユキちゃんのふさふさの尻尾が自然と左右に大きくふれた。

 今日は晴れ!

 じゃあフリルのついたやつにしよう。
 ユキちゃんが毎朝選ぶ朱色の前掛けは、人間界で修行する神さま候補の動物たち……すなわち「神さまっ子」の証だ。これを付けていれば人間に話しかけても驚かれないし、何より分かりやすい。いつからそうなっているのかユキちゃんもよく知らなかったけれど、ユキちゃんが生まれるずっとずっと前からの風習で、今から千年くらい昔の絵巻物なんかにも朱色の前掛けをしたいろんな動物たちが描かれているらしい。
 ユキちゃんが狐のお里から降りてくる際に持参した桐の衣装箱に、前掛けはきれいに並んでおさまっている。ユキちゃんがその中からひとつをそっと咥えて和室から廊下に出ると、夜中に降り続いた雨はすっかり止んでいた。中庭の木々の葉先から溢れる雫が、しきつめられた石に跳ねてぽつぽつ音を立てていた。五月の澄んだ風が明け方のやわらかい霧にまざって、ユキちゃんのきらきらと陽を含んだ毛を優しくなでる。
 神社の境内ではもう神主さんが竹箒で掃除を始めている時間だ。急いで玄関を抜けたユキちゃんがいつものように駆け寄ると、神主さんはきりりとした眉を下げて屈み、顔をほころばせてあいさつした。
「おはようございます。今日はそちらをお召しになるのですね」
「神主さん、おはようございます。お願いします」
 ユキちゃんは神主さんの足元をくるりと一回りしてふさふさの尻尾をその太い足首に巻きつけた。毎朝のお決まりのあいさつだ。
「お鼻を少し上げてくださいますか? そう、そのまま」
 神主さんが慣れた手つきで、前掛けの紐の両端をそれぞれユキちゃんの首のうしろにぐるりと回した。高さをまっすぐにして、すらりとしたユキちゃんの首元にきれいに結ぶ。ユキちゃんが自分の両の前足で結ぶことも勿論できなくはないけれど、神主さんが結ぶと、ユキちゃんがどんなに走り回っても夜まで解けたりしないのだ。転んで汚しても、神主さんの奥さんがタライで丁寧に洗ってからピンと伸ばして干して、綺麗になったものをまた衣装箱に入れておいてくれる。
「ありがとう。これでいいです」
「はい、今日もとてもお似合いです」
「何か私がお手伝いできることはありますか?」
「ではこちらの手紙をポストまでお願いできますでしょうか」
「あいわかりました。お任せください」
 お手紙は、前掛けの裏に縫われたポケットの中にちょうどおさまった。
 ユキちゃんら修行中の神さまっ子はとかく人間からの信仰心を集めることが重要だ。神力とはすなわち信力。人を助け、人に優しくし、人から思われることが神さまになるための最短のみち。ユキちゃんの他にも、修行として人間界で暮らす神さまっ子は多い。でも、ユキちゃんのように大学生をしている神さまっ子はとても珍しい。賢くても、人間のいう勉強——根気よく何かを記憶したり、いろんなものを読んで考えたりする——に適性のある動物たちは少ないからだ。ユキちゃんは里にいた時分から人間の作った本を読むことが好きだった。
 神さまになれなかった時のため真面目に勉強しておく。それが今どきの神さまっ子、白狐ユキちゃんのスタイルだ。

 


 稲荷神社の鳥居をくぐり、外へと飛び出したユキちゃんは一番近いポストへ走った。朝のひんやりとした空気がユキちゃんのほおの長く伸びた毛を揺らす。
 その時だった。角から飛び出してきた自転車がブレーキ音と共にハンドルを切り、ブロック塀へと勢いよくぶつかった。驚いたユキちゃんは飛び跳ねて電柱の裏へと引っ込んだ。
 自転車はどうやら朝の新聞配達終わりのようで、平たく大きな前カゴから垂れた固定用のひもが行き場をなくしてゆらゆら揺れている。

「あの、驚かせてごめんなさい。怪我はないですか? 」
 
 呼びかけてきたのは男性の声だった。ユキちゃんはおそるおそる、電柱の影から鼻先だけを出した。自転車を降りてユキちゃんの様子を伺っているのは若い人間だった。若いといっても黒い学生服を着てやいやい走り回っているような歳のころではない。目元の皺と、首元が大きくひらいてくたびれたシャツからもわかるように、二十代半ばといったところだ。
 ユキちゃんは警戒して、針のように光った銀色のヒゲをピンと伸ばして言った。
「どちらさま?」
「あ、えっと里中といいます。近所に住んでます。今はバイトが終わったところで、ちょっとぼんやりしてて、すいませんでした」
「……神さまっ子には慣れてるの?」
「ああ、いや、初めてお話しました。驚いてます。ほんとに。実物は初詣とかで遠目に見たことあるくらいで。あっブツとかいって申し訳ないです、すいません。お詫びって言っちゃなんですけど、どこか行き先があるなら送りましょうか? こんな朝早くからどこ行くんだろうと思って」

 里中くんはいつ洗ったのかよくわからないくたびれたハンカチをズボンから取り出すと、自転車の前カゴにしいた。そしてユキちゃんに向かって、どうぞと笑顔で言った。
「カゴに誰かを乗せるのは初めてだなあ」
「私もカゴに乗るのは初めて!」
 ユキちゃんは道の脇の塀に登り、どきどきする胸をおさえカゴの中のハンカチに向かって飛び込んだ。ユキちゃんの体重で自転車が少し傾いて、がしゃんと音を立てる。両手をハンドルに置いて車体を支えていた里中くんの体も一緒に揺れた。
「あの、落ちないように気をつけてくださいね」
 ユキちゃんがうなずいたことを確認して、里中くんは片足でペダルをぐっと踏みこんだ。ユキちゃんはカゴのふちに前足を置いて、思わず少しだけ身を乗り出した。走るよりも早く、ピンと立った両耳のあいだを風が抜けていく。びゅうびゅう吹き付ける音は、だんだんと遠のいていった。空気がぽんと張った膜のように耳を覆って、その外側で響き始めたからだ。
 なんてすごいんだろう。
 ユキちゃんは乾く目を潤ませ何度も瞬きした。もちろん、電車にも車にも乗ったことがある。それでもこんなふうに全身に風を受けて、毛という毛の全てが逆立つのは生まれて初めてだ。
 登りの坂道にさしかかり、一瞬車体が左右にふらついたものの、里中くんはこらえてそのまま重いペダルをしっかり踏んだ。風がおさまり、荒く短い人間の呼吸の音と心臓をうつ早鐘が、ユキちゃんの耳に届いた。舌をだして一生懸命走る犬みたい、とユキちゃんは思った。心地よい音だった。
 ポストにお手紙をだしたあと少しの時間、ユキちゃんと里中くんは並んでおしゃべりをした。里中くんは家族がおらず、アルバイトをして大学に行っていること。働いて学費を貯めてから大学に入ったので、ユキちゃんより少し年上なこと。そして何より、二人はおんなじ大学だってこと!

 ユキちゃんのために里中くんがカゴにしいてくれたハンカチは、次会ったときには薄い綿の座布団になっていた。死んだばあちゃんのだったんだ、といつの間にか敬語が抜けた里中くんは言った。毎朝5時過ぎの朝刊の配達終わり、里中くんはユキちゃんを自転車のカゴに乗せて、明け方の街をのんびり走った。まだみんな動き出すには早くて、二人だけでゆったり自転車を走らせる。
 大学にも、どこに行くにも里中くんは自転車を使った。
 お金がかからなくて、どこにでも行けて、あと単純に気持ちがいいから。里中くんがそう笑うので、ユキちゃんは、本当に本当にその通りだと思った。

 


 ユキちゃんが里中くんをすっかり気に入ってしまったことは、すぐに神主さんにばれてしまった。毎朝大学が開くよりうんと早くにいそいそ鳥居を出ていくものだから、それも当たり前のことだった。
 神主さんは怒ったりしなかった。ただ里中くんに、ユキちゃんは神さまっ子であること、狐の里からお預かりしていること、神さまになるための修行をしていること、そんないろんなことをきちんと一から説明した。里中くんも、メモを取ったり時折質問をはさんだりしながら、真剣に聞いていた。

 二人は大学の中でご飯を食べたり、芝生で昼寝したり、図書館で読書したりした。ユキちゃんが丸まると、そのふさふさの尻尾ごと、里中くんのあぐらの中にちょうどすっぽりおさまるのだ。学生たちの中でも、二人のことが段々とひろまっていき、遠巻きに笑顔で手を振られることも増えた。
 二年もすると、二人はいっしょに暮らしたくなった。暮らすなら、結婚しようかな。ユキちゃんはそう思ったけれど、狐が人間と幸せな結婚をした話がとんと浮かばない。とっても有名な狐たちのお話は、そのどれもが悲しい結末ばかりだ。ユキちゃんは全身をぶるぶる震わせて不安を振りはらった。昔そうだったからといって、この先もそうだとは限らない。
 ユキちゃんは里中くんを呼び出して、言った。
「結婚するなら、もういっこの田舎にもちゃんとあいさつに行こう。私もずいぶん帰っていないけど」
「もういっこの田舎?」
「うん、狐のお里だよ」
「お里! 人間も入れるの?」
「私がいれば大丈夫!」
 ユキちゃんがたっぷりと生えた胸まわりの毛を膨らませて胸をはると、里中くんは喜んで、自転車のタイヤに空気を入れ始めた。お里のある日光まで自転車で行くつもりらしい。なんてすてきなんだろう!

 


 ここだよ、とユキちゃんが声をあげたのは、立派な赤い鳥居の神社の前……ではなく神社の脇にある小道だった。里中くんは自転車をとめて呼吸を整えると、タオルで額の汗をぬぐった。
「お里に続く狐みちに入るにはちょっとしたコツがあるの」
「コツ?」
「みんな家に鍵をかけるでしょう。同じようなものだよ。里中くん、そこのほおずきの鉢から枝を折って。実のついた枝にしてね」
「こう?」
 里中くんが幹から枝を折ると、その小さなほおずきは里中くんの手の中で、むくむくと膨み始めた。
「わあ、すごい」
 朱色の実ははたかれた紙ふうせんのように里中くんの手の上で数度跳ね、サッカーボールほどの大きさになった。その実の中で音もなく、黄みがかった明かりがひとつ灯った。里中くんの頬高の顔がその灯にふんわりと照らされる。持ち手になる枝もそのまま大きくなっており、お祭りの際に飾る提灯そのもののようだった。
「そのまましっかり持っていて。それは里中くんの狐火代わりだよ」
「狐火って、ユキちゃんが暗いところで出してくれる、アレ?」
「うん。狐火で照らさないとお里の入り口は見えないの」
 里中くんのほおずきだけでは狐みちは暗い。ユキちゃんは集中して瞳をとじて、耳をペタンと下げると周囲にいくつか狐火を放った。生き物のように泳ぎまわる青白い光が、たなびいた尾でぼんやりとあたりを照らした。ユキちゃんは全身の白い毛皮にしゃんと神力を通わせて、呼吸を整えた。毛が逆立つのを感じる。お里に近づき、毛と肌の間にしみわたるような濃い神力の気配があった。
 お線香のような柔らかい煙のにおいが立ち込める。狐みちが里への門を開いたのだ。ユキちゃんは登り坂を駆け上がった。暗い中で里中くんが歩きやすいように、尻尾を大きく左右に振って誘導する。
「ユキちゃん」
「里中くん、こわい?」
「ううん、違うんだ」
 里中くんは緊張した面持ちでいったん言葉をとめ、立ち止まった。闇の中におぼろに浮かび上がる狐火が、背の高い鬱蒼とした木々をあいだを抜けていく。道の先で里中くんを振り返るユキちゃんのシルエットもどこかあわく光って見える。
「きれいで……」
 ユキちゃんはそんな里中くんに応えるようにしずかに尻尾を振り、引き返して里中くんの足元に駆け寄った。

 狐のお里の長老狐は立派なお髭をたくわえた、赤毛の小柄な狐だった。ユキちゃんが狐の声で話しかけると、同じようなかすれた狐の声でかえした。
 里中くんはというと、真剣な話だろうと背筋を伸ばしていたのに、聞こえてくる音は、ひゃーとかビャーとか、そんな少し気の抜けた楽しげな音なので、なんだか笑みがこぼれてしまって、ユキちゃんが里中くんに向き直ったときには、口元がにんまり上がることを抑えられなくなっていた。
「ごめん、それで、なんていってらっしゃる?」
「えっとね、お里の古い言い伝えで″結婚式に天気雨が降れば人間と結婚しても幸せになれる″んだって」
「天気雨?」
「晴れてる日に雨が降ることだよ」
 そう言いながらも、ユキちゃんは力なくうなだれた。長老狐も、なぐさめるようにやわらかくミャーとないた。
「私の力ではまだ天気を操ることなんてできないから……」

 


「ユキちゃん!」
 一匹のうさぎが、ユキちゃんのもとに鞠のようにぴょんぴょん跳ねて寄ってきた。ユキちゃんと同じ、修行中の神さまっ子である野うさぎだ。この大学にいま所属している神さまっ子は二柱。彼女こそが、その片割れだった。クリームの被毛にまばらに散った茶色の模様の通り、授けられた名前をつくしという。
「つくし、遅かったね」
「ごめんごめん、木のとこで昼寝してたら時間過ぎてたや」
 空に向けてピンと立った長い耳は小さな頭の上で忙しなく動き、レモンのような形をした両の瞳が午後の光に反射してきらきらしている。
「もう、心配したんだから」
「ごめんって。それで、どうだったの? 狐の里へのあいさつ」
「うん、それがね……」
 ユキちゃんが尻尾を垂らして事情を説明すると、つくしはうさぎ耳を何度も上げ下げしながら飛び跳ねた。
「なーにそれ、初めて聞いたよ。天気雨じゃなきゃいけないなんて大変じゃん!」
「うん、条件が難しいしもう別に無理しないで一緒にいられるだけでもいいかなって」
「だめだよ! だってだって人間なんてすぐ死んじゃうし! 里中もなんかぼんやりしたやつだから心配じゃん」
「まだ私も修行中なんだよ。それに天気の操作なんてうちの一族でもおおおばあさまくらいでないとできないし……」
「ボクが何のために人間の大学に通ってると思ってるの? こういう時に人間の技術を借りてどうにかするためなんだから!」
 つくしはそう言うと、胴よりうんと短い前足をブンブン振り回し、片方の後ろ足で地面を何度も叩いた。
「”お天気雨プロジェクト”でいい?」
「何が?」
「二人の結婚! どうにか当日晴れの中で雨降らせるってこと!」
 遠くから、学生たちが大きく手を振ってくる。つくしは少し引っ込み思案なユキちゃんと比べて、とっても目立ちたがりだったので、学内にたくさん知り合いがいるのだ。
「つくしさまー! 後で撫でさせてー!」
「お賽銭はー?」
「5円玉あるよー! あと学食で今からりんご剥く! それでいいー?」
「許すー!」
 つくしはユキちゃんの方に向き直ると、言った。
「ちょっと案があるからサークルのやつらとも相談しとくね! じゃーね!」

 


 ユキちゃんと里中くんは、せっかくだからと結婚式の招待状を二人で作ることにした。ユキちゃんの毛並みのようになめらかな白い紙を二つに折って、ユキちゃんの肉球にインクをつけて、シーリングスタンプみたいに封に押していく。開ける人はみんな、しゃんと座ったユキちゃんの姿を思い浮かべてきっと喜ぶだろう。招待状の宛先は、人間たちだけじゃない。お里の狐たちにもだ。
 大学構内での手作り結婚式を、大学側が許可してくれるとは二人とも思ってもみなかった。神さまっ子が通学していることによるご利益というのは、きっとみんなの想像以上にあるものなのだろう。

 そうして当日、天気予報通りのすっきりと晴れた空の下、見たこともないくらい沢山の狐たちがやってきた。茶色に赤毛、黄色、黒……その中に混ざると、主役のユキちゃんのまっさらな白さが、浮き上がるように際立っている。
 つくしのいう「案」とは、聞けば極めてシンプルなものだった。
 放水車や噴霧器をレンタルしてきて、式の最中にこっそり上から降らせて雨にする。以上。
 そんなので大丈夫なの、とユキちゃんが聞くとつくしが、逆になんでダメだと思うの? とまん丸の目をもっとくりくりとさせて聞き返してくるので、もうそのままやってしまうことにした。つくしのこういうシンプルなところがお里の狐たちと近しくて、ユキちゃんはなかなか彼女を憎めなかった。憎めないどころか、とっても好きだったのだ。

「ユキちゃん、きれいだよ」
「うん」
 ユキちゃんの白無垢は、神主さんと奥さんがユキちゃんの体に合わせて一針一針手縫いで作ってくれた。里中くんはというと、似合わないレンタルの着物にすっかり着られていて、遠足前の小さな子供のようにそわそわしている。ユキちゃんがその背をちょいちょいとつつくと、里中くんは屈んでユキちゃんの前足をにぎった。繋いだままのその手をぶらぶらと左右に揺らす。照れくさくて、気恥ずかしくて、こんな子供みたいなじゃれあいをいつまでもやめられない。そろそろ、広場に並んで待ってくれている参列者のところに行かなくては。
 二人の晴れ姿に、ホースを構えた仲間が、そのノズルの先を大きく振って笑った。里中くんは、着物と同じくレンタル品の大きな赤い番傘を開くと、ユキちゃんの方に傾けた。結婚式の始まりだ。
 まだ太陽は高くに上って、空は青々としている。普通の結婚式なら「本日はお日柄もよく……」とマイクの前で腰を折ってあいさつするところだ。
 ふっと、ユキちゃんの白無垢の袖に一滴、雨粒が落ちた。放水車が動き出した? いや、違う。ユキちゃんに傘を傾ける里中くんが見上げる視線の先で、細い糸のような雨が確かに降りだしたのだ。ぽつぽつと降る雨粒は次第に強く地面を叩き、陽を受けて次々と銀色に光った。

 天気雨だ! 

 しかし、同時にうす暗い小さな雲がつよく吹いた風に流されて、丸い太陽の端を隠しゆらめいた。このままでは完全に陽が陰ってしまう。
 みんながその光景に声を上げそうになったその時だった。
 ユキちゃんの白無垢が、体からはらりと落ちた。そうして、真っ白な毛の一本一本がハリネズミの針のように鋭く銀に尖り始めた。その針が一瞬光ったかと思うと、しなやかな体はむくむくと膨らみ、みるみるうちに家より大きな狐へと姿を変えた。真っ白な被毛に雨粒が反射して、眩しいくらいだった。
 その巨大な狐は空を見上げて一声、甲高く鳴いた。
 すると、太陽にかかった靄みたいな雲は、そのひといきで跡形もなく消し飛んだ。まんまるな太陽の輝きのもとに、雨はただ降り続けている。
 怪獣のように大きな、つやつやとした毛並みの真っ白な狐。それでも、立派なそのふさふさの尻尾はまさしくユキちゃんだった。
 ユキちゃんは本当は、自在に大きくなって、人間が一晩かけて歩く距離をひとっ飛びで進むことだってできた。それでもユキちゃんは、あの自転車のカゴにいつまでも乗っていたかった。里中くんの前では、ずっと小さなユキちゃんのままでいたかったのだ。ユキちゃんは、何かちゃんと言わなきゃとわかっていても、何ひとつ上手に言えなくなってしまった。おさえきれない力を、どう人間の言葉で伝えたらいいのかわからない。大きな大きな目から涙がこぼれそうになるのを堪えて言った。

「だまっててごめんね」

 地響きのように大きなユキちゃんの声があたりを揺らした。
 里中くんはユキちゃんを見上げ、顔ぜんぶをほころばせ、喜びを隠せない声で思い切り腹の底から叫んだ。

「どんなユキちゃんでもすてきだよ!」

 固唾をのんで見守っていた参列者たちが、わっと歓声を上げて拍手した。狐たちも、次々に飛び上がって尻尾を揺らす。
 慣れない下駄のまま走りだした里中くんは、スピードを落とさず、柱みたいな太さになっているユキちゃんの足に抱きついた。そしてそのまま真っ白な毛の中にゆっくりと顔をうずめて、照れくさそうに何度も何度も頬擦りをした。みんなの拍手が、割れんばかりに大きくなる。
 そのとき、また地響きがして急にあたりに霧が立ち込めた。霧の中に浮かび上がる影が、ビルのように大きい。もやから現れ出たのは今の巨大なユキちゃんよりさらに大きな、まばゆいばかりの金色の毛並みの狐だった。
「大おばあさま!」
 ユキちゃんが叫ぶ。その声色は純粋な驚きからだった。金色の狐の尻尾は八本もあり、それぞれが意思をもつかのように自在に動き回っている。その本物の「神」のまとう神力に、人間たちはただ立ち尽くすことしかできないでいた。
 ユキちゃんの曽祖母である、狐の神さまだった。彼女が雨を降らせたのだ。
 八尾の狐は、ただ静かにユキちゃんにうなずいた。それを合図にするかのように、澄み渡った空に誰も見たことがないほど大きな虹、一面の虹が広がった。
 ひたひたと、あたりの木々から雨粒のこぼれる音がする。
 人間も狐も、みんなそろって、ただ言葉もなく真青の空を見上げていた。

 


 白狐ユキちゃんの朝は早い。
 まず目が覚めて寝室の布団で気ままにごろごろ転がると、まだ寝ている里中くんにぶつかる。その大きな背中やお腹にひっついて、しばらくのんびりしてから伸びをする。そしてふわふわの尻尾を、里中くんの顔の上ではたきのように動かして起こしてやる。出勤まであと1時間だ。
 毎朝選ぶ朱色の前掛けは、ユキちゃん用の桐の衣装箱に変わらず並んでおさまっている。毎日、手洗いで丁寧に洗濯してくれるのは里中くんだ。箱の中からひとつを選んで里中くんの元に持っていくと、寝ぼけながらもいつもきれいに結んでくれる。

 結婚しても里中くんは変わらず自転車でユキちゃんをどこにでも連れて行ってくれる。もう自転車もだいぶガタがきていて、車体もあちらこちら傷だらけだ。それでもまだペダルを踏み込めばギシギシきしんだ音を響かせながら、じっくりじっくり前に進む。そのとろくささごと、二人の生活の一部になっていた。
 ユキちゃんはというと、まだまだ神さま修行中だ。天気なんかも、うまく操れなかったりたまにヒョイっと操れたりの繰り返しだ。里中くんの首にマフラーみたいに巻き付くユキちゃんに、里中くんがそれとなく、大きくなるのはどう? と聞いてみても、もうやらないよ、とすました顔で答える。それがいつものやりとりだった。

 結婚式に天気雨が降らなくたって、きっと幸せだったよね。里中くんがそう笑うので、ユキちゃんは、本当に本当にその通りだと思った。

 


 どうにも息苦しくて目が覚めた。視界を埋めているのは真っ白な可愛いふさふさの毛。くすぐったくて思わずアハハなんてまぬけな声が出る。
 おはよう、とどうにか動き回る尻尾を避けて僕が言うと、鈴を振るようなすてきな声でおはよう、と返ってくる。ユキちゃん、ユキちゃん、おはよう。

 ユキちゃんは真っ白な狐で、神さまっ子で、やがてみんなの大切な神さまになるだろう。彼女のその心映えからもそれは明らかなのだ。尻尾も大おばあさまみたいにたくさん増えたら、起こされる時にとても今みたいにはいかないに違いない。重みで窒息しそうなくらいになってしまうかもしれない。僕はその日が楽しみで、心待ちにしていて、毎朝コーヒーを淹れる時に、ぼんやりそんなことを思ったりする。やっぱり不安がないというと嘘になる。でも、でも僕の自転車に目を輝かせてくれたあの日からユキちゃんというのは何ひとつ変わらない。
 僕がどうしようもない気持ちになってふさいでいる日も、ユキちゃんは僕にぴったりくっついて離れず、丸まってまどろんでくれる。そうして静かにユキちゃんの背をなでて、尻尾を手で梳いていると、僕はだんだん落ち着いてくる。
 言葉なんてなくても、そうしていられる。
 僕の狐さん。ずっとずっと、ただ僕の大事なユキちゃん。おはよう。

文字数:9618

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