家を出ることの難しさ

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梗 概

家を出ることの難しさ

大人になる前に、家から出なきゃいけない。
 7歳でそう教わり、妙はもう17歳になっていた。幼馴染たちはとっくに家を出て、火星で暮らしている。火星の青春は地球よりもずっと眩しい。滅多に晴れない地球と違って、火星では雨も降らない。
 相談員から火星に行かない理由を訊かれ、妙は言葉に詰まる。憧れの男の子、のぼる君、が地球に残るからなんて言えない。両親も妙に何も言わない。この家の子どもは妙以外、みんな12歳までに家を出ていた。
 黒い雨の日。仕事から帰ってきた両親は、何時間も除染しなきゃ妙と会えない。地球にはキーパーの仕事しかないし、それ以上に大切な仕事は存在しない。

”あなたたちが生まれる前に大きな戦争があった。戦争のせいで黒い雨が降るから、火星に逃げなさい。だけど火星は仮の棲まいで、いつかヒトは地球へ帰ってくる”
 地球に残るキーパーが、子どもに最初に教えること。
 免疫機構が完全に火星に順応しないように、郷愁を絶やさないように、ヒトは地球で生まれ育つ必要があった。しかし問題は山積みだった。キーパーの高齢化で自然妊娠は望めず、新生児や受精卵の火星から地球への移送は悉く失敗した。
 そうしてパンスペルミア・プロジェクトが始動した。
 保育器として建設された多くの人造湖。それらは人工羊水、そして戦前に凍結保存された卵子から精製されたリプログラミング・スープに満たされていた。精子が湖面に触れると極めて低い、しかしゼロではない、確率で精子が初期化され、精子からの単為発生が生じる。
 精子を封入した人工雨白い雨は晴れ間に人工衛星から地上へと散布される。白い雨は広範囲で膨大な回数の施行を可能にし、地球では年間数百人のヒトが人造湖で再生産されている。

地球の保全と除染に加え、黒い雨の影響をモニタリングすることがキーパーの仕事に含まれる。そのことは妙も知っていた。初めて突きつけられるパパの血液検査の結果に言葉を失いながら、妙はのぼる君のことを考える。のぼる君と一緒に地球で大人になって、二人して衰弱して朽ちていく姿を想像すると、美しい気がしてしまう。
 意を決して妙はのぼる君に告白する。そしてこっぴどく振られて涙目になった、まさにその夜。メッセージが届いた。火星の男の子に妙はいきなり告白された。優しくて顔が良かったから、妙はオッケーして、同時に家を出る決意をする。妙の青春がはじまった。

火星行きのカプセルが発射されるのは、いつも晴れの日と決まっていた。今日は白い雨も降っている。窓の外からはパパとママが手を降っている。「いってらっしゃい」。彼からメッセージが届く。「火星で待ってる」。気が付くと本当に大好きになっていた。それを早く伝えたいと強く思う。妙は雨にむかってつぶやく。「おかえりなさい」。そして世界を覆い尽くす雨のたった一粒を驚きをこめて言祝ぐ。パパとママの子どもになれるなんて、なんてあなたはラッキーだったのかと。「いってきます」と妙もバイバイって窓の向こうに手を振り返すけれど、その腕を降ろすことは成層圏を抜けるまでとうとうできなかった。
 火星の流行病ホームシックが自分にも発症していることを妙は思い知る。遺伝子に刻まれた、その不治の病を。

文字数:1327

内容に関するアピール

雨といえば別れの雨。一番グッとくる別れの雨は、と考える。そりゃ岡村ちゃんの永遠の名曲「あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろう」の2番でしょ!と聞いてみたら特に雨の描写はなかった。でも、あの場面では、絶対に土砂降りのはずなのです。きっと、絶対に。そういうわけで、宇宙規模の別れと、個人規模の別れと、そして両義的な、まさに岡村ちゃんの歌の主人公みたいな、様々な感情に引き裂かれた別れの雨を描きたくて、こうなりました。
 SF的ギミック、パンスペルミア=pan/sperm/ia、ああ、汎/精子ってことね、からかなり苦労してめちゃくちゃ考えました。キーパーの設定はレディオヘッド『キッドA』の時のトム・ヨークのアイデア、「自分が乗れないノアの方舟をつくるサウンドトラック」から着想。
 そして作品を貫くセンチメンタリズム(そしてそのままタイトルまで拝借した)は、この国の素晴らしきロックバンド、の素晴らしき最新アルバム、の素晴らしき最終曲から。

文字数:424

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