片頭痛の戯れと呪縛

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梗 概

片頭痛の戯れと呪縛

視野の一部がきらきらと歪み始める。閃輝暗点せんきあんてん、激しい片頭痛の予兆。やがて生まれた激痛に雨野は苦しむ。今日は雨らしい。低気圧は片頭痛をもたらす。肉体を捨てて仮想現実に生きる移行者になりたいと願うが、まだ廉価なサービスは存在しない。

ある日、馴染みの脳神経内科医から仮想現実に関する試験への参加を勧められる。報酬は仮想現実への移行権。雨野は快諾する。
 試験施設にて試験責任者で気象学者の江崎に会う。なぜ気象学者が仮想現実を? 訝しむ雨野に江崎は説明を加える。仮想現実では過去実際に起きた天候データをランダムに再生する。ある仮想現実サービスではコスト削減のため低解像度で天候再生を始めた。すると移行者の多くが別サービスへ転生していった。移行者専用のデジタル身体である幻身体ファントムへの身体所有感が弱まったことに起因しているようだった。
 江崎は身体が確かにここにあると感じさせる要素の一つが片頭痛であり、特に天候に応じて体感させることが重要だと考えた。今回の試験ではその仮説を検証する。雨野は同意書にサインをする。以降、血流などの生体データの取得と片頭痛の主観記録の提出に協力する。

季節が一巡し試験が終わる。江崎から雨野の天候同調率が高水準にあったと伝えられ、高水準者を対象にした追加試験への参加を打診される。雨野は再び同意する。追加試験には同調率最高値の高見、江崎の子であるジンがいた。
 江崎の研究はやがて実を結ぶ。天候データに紐づけられた仮想片頭痛をインストールした移行者は頭痛持ちとなる。一定期間暮らすうちに幻身体への身体所有感はむしろ上がることが分かった。移行者になれば捨てられると思っていた片頭痛が捨ててはならないものだった事実に雨野は落胆する。
 追加試験の協力者はデータ化した自身の片頭痛をそのまま仮想現実に移行できるほか、貢献度に応じてよい暮らしが保証された。高見はすぐに肉体を捨て移行者となった。

数ヶ月後、高見と連絡が取れないと江崎から知らせが入る。雨野はVRグラスから高見のいる仮想現実へログインする。雨野が経験したことがない程の暴風雨が吹き荒れていた。雨野と同じビジター姿の神と合流する。胸がざわつく。突然、晴れ間に変わる。江崎が天候を強制的に書き換えたようだ。湿気の中を進み、高見の住居へ到着する。
 神が扉を開ける。そこに下半身が落ちていた。輪切りの胴から靄が立ち、空中へと分散している。やがて高見と思われる幻身体は消滅する。
 後日、江崎から報告がある。高見に発生した頭痛が許容量を超え、他部位を攻撃した痕跡があったらしい。高見は現実で最も身体と天候が結びついていた。仮想現実世界でも天候と高見の仮想片頭痛は強固に紐付けされていた。想定以上の嵐が再生された結果、高見の幻身体は片頭痛に耐えられず散った。江崎は移行者から頭痛を消去し研究を凍結した。高見の死に直面した神は行方知れずとなった。

梅雨。今年の雨はしとしとと降り続いており、絶え間ない片頭痛が雨野の頭で鳴り響いている。片頭痛を消去された移行者たちは、返してくれ! と今日も訴えている。

文字数:1290

内容に関するアピール

二十年以上も片頭痛に悩まされています。年に数回、閃輝暗点に見舞われ、痛みや吐き気でダウンすることも。周りの理解が得られないことも多く、憎い対象です。しかしながら頭痛の程度は体調や睡眠時間、気圧のバロメーターにもなっていて、私自身の生活と切っても切れない関係になってしまっています。まあうまく付き合うしかないのだという諦めの境地です。デジタル化して仮想現実世界へ移行する作品は前例があるかと思いますが、身体性を感じるために必要な要素が片頭痛だったら、と考えてみました。
 自身の経験も込めながら雨の状態に合わせて頭の痛みを密接に描きたいと考えています。雨という自分の外で起こる現象が、頭の中という自分の内部とリンクしている奇妙さを表現したいです。また、付き合うしかないのだという諦観や、仮に手放した時に再び欲してしまうのではないか? という感覚も物語に乗せたいです。

文字数:381

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片頭痛は誰のもの

馴染みのない街をなぎは指先の振動に促されるままに歩いている。街が一望できる丘を目指していた。目標座標に飛ぶことはしなかった。友人の玲が暮らし始めた世界をこの目で直に感じてみたいと思った。
 よくできた街だった。都会でもない田舎でもない適度な心地よさを存分に再現している。現実世界にいた頃と地続きに暮らすことがこの世界で長く生きるコツらしい。すれ違う人々はたとえ技術的に可能であっても生身のまま空を飛んだり、腕を四本にしたり、巨人になったり、透明になったりはしない。
 背の高い建物はすぐに視界から居なくなった。剥き出しの肌に陽光が注がれる。凪はまぶしさに手で庇を作る。腕の動きにあわせて鮮やかな赤が視界を横切る。この赤は訪問者の証が見せる残像だ。今、凪の手首から肘に向かって十センチメートル程はぐるりと一周、深紅に染まっている。
 この世界には二種類のヒトが存在する。凪のように現実世界から箱を通じて遊びに来ている訪問者、そして玲のように現実世界の肉体を捨て去って仮想世界のデジタル身体――幻身体ファントム――に精神を乗せて住民となった移行者。
 凪の肉体は現実世界の箱の中に閉じ込められている。ゲームをプレイしている感覚に近い。移行者とは異なり、訪問者の仮身体アバターで感じられる情報はずいぶんと制限されている。頭上の太陽が肌を焼く熱を感じることも、どれだけ足を踏み出しても靴が皮膚を擦ることもない。もし疲労感を感じるのであれば、凪は丘まで歩く選択さえしなかったかもしれない。
 視界の端に滞在時間が表示されている。これだけは表示をオフにすることができない。どこに首を振っても追従してきて鬱陶しい。現実世界の肉体は動いていないだけで箱の中でこちらの世界と同じだけの時間を過ごす。長期滞在は危うく、ある程度の時間制限が設けられている。
 凪は利用料金を呼び出す。まだ十分予算内だ。訪問者の利用料は仮想世界の維持費に回される。
 三差路にさしかかる。指の振動が強くなり右の道へ引っ張られる感覚をうける。この辺りから勾配が出てきている。振動ナビゲーションは問題なく、丘へ向かわせているようだ。
「お兄ちゃん、よけてえ!」
 緩やかな坂道の先から大声が届く。自転車に乗った十歳にも満たないだろう男の子が勢いを殺さないままに下ってくる。男の子の手首を見やる。赤く染められてはいない。移行者だ。凪は念のために歩みを止め、左手の壁にぴたりと張り付いて男の子のために場所を空けた。目の前を自転車が勢いよく通り過ぎていく。
「ありがとう!」
「怪我しないようにな」
 言った傍から男の子はハンドルから片手を離し背中越しに手を振った。
「こら、気をつけろって」
 凪が怒鳴ると男の子は肩を竦める。坂道を終えた自転車の速度は落ちていく。男の子は先ほどまで凪が歩いてきた方へ曲がり、姿を消す。
 幻身体と精神を紐付けるために、移行者は仮想世界内でも怪我をする。訪問者の場合は最悪ログオフすればよいが、移行者の場合はそうはいかない。多少現実より許容幅はあるが死、つまり破損によるデータ消失も起こり得る。
 踵を返して坂道を登る。勾配は徐々に増していく。凪はぼんやりと進んでは振動に道を正されながら丘へと向かう。幼い子供の移行者は稀だ。肉体を捨てれば二度と現実世界に戻ることはできない。原則的に未成年の移行は禁止されている。
 特例措置が下りたということは、すなわち彼が病気であったことを意味する。移行さえしてしまえば病変自体の進行はなくなる。彼は元気な内に許可が下されたのだろう。付き添う家族も補助金で安価に移行しているはずだ。
 振動パターンが変わる。住宅街は途切れ、先は木々が生い茂る公園になっている。木は風になびいて揺れているように見えるが、訪問者の頬では風を受けることはできない。だが進んだ先の見晴らしは風がなくとも匂いがなくとも素晴らしい景色だった。地平線が見えるが、そう見せているだけで実際の世界は平面に続いている。
 以前母が仮想世界で送った暮らしを思い返した。玲には仮想世界を穏やかに生きて欲しいと願う。アラートが鳴る。凪が予め設定していた時間だ。そろそろ父の航基が帰ってくる。凪は左手首の上に右手首を置いた。
『ログオフしますか』
 両手首の赤を重ね合わせることでメッセージが浮かび上がる。凪はメッセージの下方に示された内の左側、『YES』表示を見つめ瞬きを三回行った。両手の先からきらめく澱となってこぼれ落ちていく。視界は暗転する。
 相変わらずの暗闇だったが、がっちりと固定される頭部や身体の感覚から現実世界へ帰ってきたことを自覚する。暗闇は徐々に光を取り戻し、白色光に満たされた箱であることが分かる。ぼんやりとした意識がはっきりとしてくる。仮想世界から現実世界へ順化させるこの時間を凪は嫌っていた。
 両腕が解放される。凪は腕を折り、手を握って開く動作を何度か繰り返した。緩い袖口から覗く手首は赤に染まっていない。すぅと鼻から箱の中の空気を吸う。グリスやゴムの匂いに混じり、箱に留まった凪自身の臭いが鼻腔を満たす。現実に戻ってきたのだ。
 箱の蓋部がスライドして開く。箱の外もまた立方体の小さな部屋になっている。この部屋で再び順化を行う。部屋に備え付けられたディスプレイに凪宛ての動画が届いている旨が記されていた。動画を開く。先ほどまで会っていた玲からだった。
『おつかれ、今日はわざわざこっちまで来てくれてありがとう。――また連絡する。直接こっちにこれなくてもビデオ通話でもいいから』
 小部屋を出た先の更衣室で着替えて、店の外に出る。順化したとはいえ、太陽光は強く五感を刺激する。端末機を取り出すと今回の利用料金が記されていた。凪は表示を消すと玲へ無事に現実に戻ったことを伝えるメッセージを送る。すぐに返信が返ってくる。
 文字や音声でのコミュニケーションは無料で出来るとはいえ、仮想世界の訪問のあとだと妙にもの寂しく思える。振動ナビゲーションも必要ない慣れた喧騒の中を、凪は肩を縮めながら帰路についた。

凪が帰宅して一時間もしない間に航基が帰ってきた。
「凪、ただいま」
 航基の声がわずかにうわずっているいることに凪は気づく。わざわざ名前を呼んだこと自体にも違和感を覚えた。航基を見やると妙に落ち着きがない。
「手を洗って、テーブルに着いて。晩御飯、作るのが面倒だったからデリバリー頼んどいた」
 少し仮想世界に滞在しすぎた。思いのほか心身は疲れていて夕食を作る余裕がなかった。
「ああ、ありがとう。一緒に食べるか?」
「うん、そうしようかな」
 凪の返事に航基は口元を緩めた。何か伝えたいことがあるのだろう。凪にはそれがなんの話であるか、容易に想像できた。一通り食事を口に運んで腹を満たした頃、航基は話しはじめる。
「父さんが今進めている研究のことは知っているだろう?」
「気象学だろ?」
 あえて凪は曖昧に問う。こう聞けばすぐに本題に入ることはない。頭では否応なしに母との思い出が浮かんでは消えていった。航基はなぜ妻を思い返すような研究を進めているのだろうか? つらくはないのだろうか?
「今は、現実じゃなくて仮想現実内の気象の研究をしている」
「そうだ。ごめん、ちょっと薬を飲んでいい?」
 仮想世界へ行った疲れの影響か、それとも航基の話を聞き続ける事へ心理的負荷を感じている影響か、凪の頭を鈍い痛みが襲った。凪はイブプロフェン錠を二錠口に放ると、ミネラルウォーターで流し込んだ。さらっとした冷感が喉を抜けて胃に入る。母と同じ薬。凪も母もロキソプロフェンを飲むと薬疹が出るので避けていた。
「今夜から気圧が下がるからな。早めに飲んでおくといい」
 幼い頃から何度も聞いたフレーズだった。航基は全く頭痛を持っていない。航基が頭痛について語る言葉は母から受けた受けた言葉そのものだった。同じ片頭痛で悩む息子の凪に航基は妻の面影を重ねている。凪は急がずにゆっくりと航基の座るダイニングテーブルへと戻る。
「現実世界で気象と頭痛は密接に関わり合っている。これはこれまで私が証明してきた通りだ」
 航基は風変わりな気象学者だった。災害をもたらす竜巻などの気象現象、地球環境問題など大きなテーマには関心を示さない。気象制御や気象予測などの技術的なテーマにも興味がない。
 医学や生物学からではなく、気象学からヒトへアプローチした。こと細かに気象ごとに炎症性サイトカインの発現量が異なることを見出し、さらに対象を片頭痛患者に絞って、SNP――個体間におけるDNA上の一塩基が異なる現象――から気象と関連性の強い新規遺伝子座を発見した。
 何度か説明を受けたが凪に難しいことは分からなかった。一方で、ときおり迷信めいて語られていた気象と片頭痛の関係性は以前より明らかになってきているらしい。それも従来想定されていた時よりも強力な結びつきがあることが分かってきた。
 航基が風変わりな研究者になったのも、異様なこだわりをもって片頭痛へ執着したのも、理由はもちろん母にある。妻を理解したい、それだけが航基の動機だった。
「現実の片頭痛者では気象と頭痛は関係する。それは言い換えると気象と頭痛が密接に関係していること、そのことこそが片頭痛者にとっての現実なんだ」
 凪は目を瞬かせる。ここまでは何度か話を聞いたことがある。しかし、これほど雄弁に語る航基の態度は初めてだった。それは手にしているワイングラスのせいではなく、明らかにこれから語られることに起因していた。
「だから、母さんにとって仮想現実は現実になり得なかった。ようやく大規模ヒト試験の承認が下りたんだ。現実世界で片頭痛を持つ移行者には仮想世界でも片頭痛が必要だ。そうだろう?」
「え? 片頭痛の人のためのヒト試験?」
 航基が仮想世界の研究を始めた理由は、母に何が起きたのかを知りたいだけだと凪は考えていた。重度の片頭痛持ちの母は仮想世界に馴染めなかった。現実で病気の進行がかなり進んでいたことが直接的な原因だったと仮想世界サービスの管理会社は報告してきた。しかし航基も凪もそれを認めていない。
 現実の母は病気のことよりも片頭痛の事ばかり呟いている人だった。
『仮想世界に移行すれば片頭痛がなくなるなんて。考えただけで幸せ』
 しかし移行後の母は見ていられなかった。移行して日が経つにつれて母は訴えを強くしていった。頭を振り、ときには拳をぶつけていた。
『片頭痛がない。気持ち悪い。こんなのわたしじゃない。仮想世界に居たくない』
 しかし病に冒された肉体はとうに破棄されていた。母は仮想世界に生きるしかなかった。仮の片頭痛を母に体感させてみたこともあったが、全く意味をなさなかった。母は片頭痛がしない幻身体をどうしても自分の身体だと思えなかった。
 そして、母は死んだ。凪が知らされた時にはデータの海に消え果ててしまっていた。幻身体と精神を繋ぎ止めることができなくなったのだ。仮想世界に長く暮らしたあとや仮想世界内で大きな怪我を負った際に死が訪れることは知られていたが、母のような片頭痛がきっかけとなるケースは初めてだった。
 母のあとに数人、同じような重度片頭痛者の消失が発生し、問題となった。現在では重度片頭痛者の移行は推奨されていない。
 母の死後、航基は仮想世界を研究に組み込んで没頭した。風変わりな、母のことだけをいつも考えていた研究者だった。母に起こった真実を解明するつもりなのだと凪は思っていた。
「その研究をする理由は二度と母さんのようなヒトを出さないため? 片頭痛者でも安心して仮想世界に移行出来るように?」
「仮想世界でも気象と片頭痛を繋ぐ。そうすれば母さんのようにはならないはずだ。そのために研究をする。凪も母さんのような頭痛持ちだからな。ぜひ参加者として協力して欲しい」
「もちろん協力するけど」
 航基の説明によると、現実の片頭痛者を集めて訪問者として仮想世界内で気象と片頭痛の相関性を確認していく第一フェーズ、第一フェーズで見出した気象と連携した片頭痛標準データを既に移行を終えている者にインストールする第二フェーズ、最後に現実の片頭痛者の片頭痛をそっくりそのまま仮想データとして移行させる第三フェーズに分けられていた。第三フェーズは希望者のみだったが、第一フェーズまで一年、第二フェーズも半年と長い試験計画だった。
 航基がいなくなったリビングで凪は先ほどのやりとりを思い返していた。母さんのようにならないようにすると航基は言った。直前の凪の質問の解答になっているだろうか? 航基は凪に妻を重ねている。
「もしかしたら……」
 航基は凪を移行させようと目論んでいるのではないか? 理由は定かではない。母と同じ存在にするために?
「いや、もしかして僕が現実で母さんと同じ病気になる可能性が?」
 航基のいびきがリビングまで響いてくる。おそらく凪の疑問を問うてもはぐらかされるだけだろう。凪に出来ることと言えは航基の実験の参加者として最大限協力すること以外はなかった。
 ずきりと頭が痛む。薬を飲んでから四時間も開いていない。寝るにはいつもより早い時間だが、痛みを抱いたまま凪はベッドに潜り込んだ。

味覚も触覚も与えられていない訪問者の仮身体で飲むコーヒーに大した意味はなかったが、玲にだけ飲ませるのは気が引けた。
「もしかして今日は具合悪い? 雨、降ってきちゃったし」
 玲は現実にいたときのように凪の頭痛の心配をし、ちらりと店外を見る。凪もつられて顔を横に向ける。仮想世界にもにわか雨が再現されるらしい。
 今回の訪問で航基から与えられた片頭痛は現実であればさして意識もしない、むしろ心地よいとさえ思える程度の弱いものだった。
「いや平気。強いて言えば片頭痛があまりないのがちょっと気持ち悪い」
「片頭痛があっても気持ち悪いのに、なくても気持ち悪いってあるんだ?」
「今感じているのは仮想世界特有の違和感っていうのかな、天気が悪いのに頭痛がないのがちょっと変」
 仮想世界に長時間いることで、いかに片頭痛に依存して現実を生きているのかを痛感している。片頭痛は簡単に手放してはいけない。母が感じていた気持ち悪さの一端を理解できた気がした。
「なるほど。変な試験で大変なんだね。わたしは凪がたくさん来てくれて嬉しいけど」
 玲がグラスを置く。からんと氷がガラスの面を打つ。高音が仮身体に付与されていないはずの冷感を刺激する。
 どんな難しい試験が待っているかと身構えていたが、そのほとんどの時間を自由に過ごすことが出来た。試験らしい試験と言えば、現実に戻る前に受ける質問票とフリーコメントの記入のみ。訪問の度に痛みの種類が異なっていた。
「玲も毎回、施設の近くまで来てくれてありがとう。玲が居ない時は暇で暇で仕方ないから」
 仮想世界内には航基の研究のためだけに新しく試験施設が設けられていた。そこから気象が把握出来る範囲に留まることが参加者には強いられている。
「仕事は大丈夫?」
「移行してからは依頼も減っちゃったし、今はそんなに忙しくしてないから」
 玲はそう告げるが、今もSNS上で玲の新しいイラストを見る機会は多い。
「僕としても居てくれて助かるけど、本当に無理して長時間付き合わなくていいからね。帰りたくなったら帰りなよ」
「大丈夫だって。それより今更なんだけど、こんなに長く居て凪こそ大丈夫なの?」
 凪は首を傾げる。
「お金のこと?」
「いやお金は貰ってる立場でしょう。身体のこと。こっちへの訪問の後って結構きついって聞くし、試験で仕方がないとは言えこんなに長く居たら大変なんじゃない?」
 参加者はあらかじめ指定された施設に設置された箱からログインしている。凪の場合は、航基が勤める独立行政法人の研究所が指定された。
 仮想世界の変動する気象と複数用意された頭痛パターンの組み合わせに齟齬が起こらないかを試験の度に確認しているらしく、自然と仮想世界の滞在時間は長くなる。そのため滞在時間制限は解除されている。
「ああ、それなら大丈夫。悪くならないように栄養剤が投与されてるし、定期的に箱の中で身体を動かしてるみたい」
 初めて見た試験用の箱の大きさを思い返す。一般サービス用の箱の三倍の大きさはあった。初回のログオフ後、現実への順化時間は設けられていたが、いつものような疲労感や身体のこわばりを感じることは少なかった。
 静かな店内に来客を告げるベルが鳴る。玲が凪の肩越しに入り口を見て手を振った。おかげで誰が来たのか振り返らずとも分かる。
「邪魔か?」
「当然邪魔だけど許してあげよう。隣、座ったら?」
 現れたのは試験参加者の一人である高見だった。なにかと試験で顔を合わせる機会が多く、ぽつぽつと話しているうちに高見が同じ歳であること、凪と同じように強い偏頭痛持ちであることを知って仲良くなった。玲にも早い段階で紹介し、こうして三人の時間を過ごすことも増えた。
 高見の表情は冴えなかった。椅子に掛けると頭上を仰ぎ見た。
「大丈夫か?」
 玲は首を傾げている。高見と話す機会が増えたと言っても、試験の参加者としての高見について玲が知る由もない。
「試験施設で横になってたんだが一向に良くなる気配もないし、凪たちと話して気を紛らわせた方がまだマシに思えてな」
「無理をしない方がいいんじゃないか? 父さんに言ってログオフしてもらおうか?」
 眉根を寄せて苦し気な表情を浮かべる高見をみて凪は母を思い出した。今の高見は片頭痛がない! 気持ち悪い! と叫んでいた母の表情とそっくりだった。高見は首を横に振る。
「別に痛みを感じている訳じゃない。大丈夫だろう」
 凪は高見に向けていた顔を玲へと戻す。玲の目が説明を請うていた。凪は店の外を指す。
「現実での話だけど、高見は気象と片頭痛の相関が強すぎるんだ。つまり雨だから本当は片頭痛が酷いはずなのに全然しない。さっき玲に伝えた僕が感じている違和感ってやつが高見をより強烈に襲っている」
 片頭痛の頻度や強度は凪も高見も同じようだったが、事前の調査で気象との同調に関して言えば高見は参加者の中で群を抜いて高い値を示していた。この結果には航基も驚いており、高見に対して多大な関心を寄せている。
「なるほど、つまりめちゃくちゃ気持ちが悪いと」
 高見は玲の妙な言いぶりがおかしかったのか、声を出して笑う。
「そうそう、めちゃくちゃ気持ち悪いだけ。四方八方に何十回も回転した直後にまっすぐ歩かされるような、もしくはずっと落下しているような感覚?」
「うえ、それは気持ち悪いそう」
「でしょ?」
 初めて会った時はお互い随分と緊張していたが、今ではかなり打ち解けている。
 試験終了時間までの数時間を三人で過ごした。高見の調子が悪いのは確かなのだろう、気を紛らわすと宣言したように、高見はよく話したし、何度も味も感触もしない水を飲み続けた。泳ぎ続けないと死ぬ回遊魚のようだった。
「二人とも今日はありがとう。すごく楽しかった」
「いや玲さんがいてくれて助かったよ。凪相手に数時間喋り続けるなんて考えるだけで地獄だ」
「こっちのセリフだって」
 高見と凪の掛け合いに玲はからからと笑う。
「じゃあ、また」
 施設の入口で玲と別れを告げる。高見は玲の姿が見えなくなった途端に顔をきつく歪める。口元を手で抑え込んだ。まるでこみ上げる吐き気をぐっとこらえているようだった。
「まさか吐瀉物のデータなんて用意してないよな」
「冗談いう元気あるじゃん。早く質問票を終わらせて帰ろう。高見ほどじゃないけど正直僕もきつい」
 心の底から頭痛を欲したことなど、この時が初めてだった。

第一フェーズの一年間の試験ではほとんどを玲と高見と過ごした。試験日は多くて月に十日程だったので、多くの時間は現実にいた訳になる。それでも高見と現実で会う事は一度もなかった。お互いに相手を仮想世界の住民のように接していた。
 第一フェーズの試験も終わりに近づいてきた頃、ふとした拍子に玲が呟いた。
「早く仮想世界に来れるといいね」
「第一フェーズも終わるし、第二フェーズは半年。もうすぐだ」
 取り繕ってなんとか首を縦に落としたが、凪は二人の会話に違和感を覚えた。第三フェーズは希望する参加者を移行させる。通常、移行には多額の費用が必要となるため、それが免除されることになる。確かにメリットではあるが、全員が当たり前のように行きたいとかんがえているのだろうか? 現に凪は迷っている。
『気持ちが悪い!』
 突如、母が頭の中で叫んだ。
 第二フェーズの試験開始は当初予定から大幅に遅れていた。想定よりも第一フェーズのデータ解析に時間を要しているらしい。何もせず一日を怠惰に過ごすことが増えた。第一フェーズが始まる前に仕事を辞めていた。第二フェーズがいつ始まるか分からないため、再び職に就くことはためらわれた。何か短期のアルバイトでもしようかとソファに寝転がったまま端末機をいじっては、何度も顔の上に落とした。ひりひりと痛む鼻骨部分をさすりながら玲に電話を掛けたが応答はなかった。
 凪はふっと溜め息を吐く。緊張が緩んだ瞬間のことだった。視野の端がきらきらと歪んだ。慌てて身体を起こしてキッチンへ向かう。歪みはきらめきながらもじわりと視界を侵食していく。閃輝暗点、激しい偏頭痛の予兆だった。食器棚を開くが目的のものは見当たらない。手を突っ込んでみても結果は同じだった。ちょうど痛み止めを切らしていた。せめてと冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して勢いよく喉に流し込む。
 二階リビングからはめ込み窓を通して空がよく見える。厚い雲がかかっていた。これから強い雨が降るらしい。凪はトボトボと先ほどまでいたソファに背中から倒れ込む。視野を確認する。きらきらは視野全体に薄く引き伸ばされて目立たなくなっている。右手の人差し指を立てて視野の右側に持っていく。見えない。少しずつ動かしながら確認をしたところ右目の視野の右側約三分の一が欠けているようだった。
 凪は目を閉じ、やがてくる痛みに備えた。ずきり。頭の前方がわずかに痛みだす。ずきり、ずきり。二回、強い痛みがくる。どうして薬を切らしていたのか。仮想世界の移行を考え出してからどうも注意散漫になっている。ずきり、ずきり、ずきり……。ここから片頭痛が鳴りやむことは無かった。リズミカルに強度を上げてくる。やがて共振するようにこみ上げてくる吐き気と思考の鈍化。やり過ごすしかなかった。現実も仮想世界も関係がない。地獄のような片頭痛は死ぬまでずっとついてくる。諦めるしかないのだ。頭の中から誰かが飛び出そうと掘り進める。それは母のような気がしたし、父のような気もした。
 気が付くとうっすらとした暗闇の中に凪はいて、激しい痛みの波は去っていた。
「どうした、真っ暗なままで」
 航基が扉を開けて帰ってきた。随分と寝てしまったと慌てたが、端末機で時刻を確認すると思いのほか時計が進んでいる訳ではなかった。
「こんなに早い時間に帰ってくるなんて珍しいね」
「一区切りしたからな」
「標準化出来たの?」
 父の表情を見れば答えなど聞く必要もなかった。
「これで第二フェーズに進める」
 航基が室内灯のスイッチに手をかざす。部屋が黒から白に反転する。凪は目を細める。まだ弱い頭痛が残っている。眠気か片頭痛によるものか分からないが頭はぼんやりとしたままだ。
「晩御飯作ってない。食べた?」
「凪は食べたのか?」
 首を横に振る。航基はダイニングテーブルまでいくとどさりと手に提げていた袋を置いた。
「ちょうど良かった。総菜、買い過ぎてしまってな」
 テーブルに山のような総菜と赤白二本のワインが並ぶ。
「じゃあ米だけ炊くよ」
「助かる。ワインは……飲まないか」
 凪は首肯する。酒を飲んでいる最中はよいが、しばらく経つとひどい頭痛に見舞われる。まだ玲が現実にいたときには付き合いもあって少し飲んでいたが、玲が仮想世界に移行してからは酒を断っていた。
 酔いの回った航基はいかに第一フェーズの解析が大変だったかを繰り返し何度も語った。その中で、高見のデータがいかに片頭痛データの標準化と気象データへのリンクに役に立ったかを説いた。
「おそらく高見君の特性は母さんと近いものがあると考えている」
 航基の言葉に耳を塞ぎたくなる。代わりに航基の口を閉じさせることにした。
「父さん、試験がひと段落したなら明日母さんの墓参りに行かないか?」
 航基は凪の提案にぴたりと動きを止めた。
「どっちだ?」
「どっち? 決まってるこっちのお墓だよ」
 母の墓は二つあった。肉体を捨てた時の骨は現実の墓に保管されている。それとは別に母が公式に死んだ仮想世界にも一つ。仮想世界の墓は母の苦しみの象徴だった。穏やかな母は現実を最後にいなくなった。凪にとって母は苦しむデータではなく、物質的な骨だった。
 はたと気付く。母の様になるのが幻身体と精神が乖離することが怖いのではない。凪は仮想世界の人生を現実の続きと考えていないのだ。まるでゲームのようだと。
「すまん。試験が終わるまで忙しいんだ。終わったら必ず墓参りをしよう。母さんにちゃんと報告しないとな」

標準化された片頭痛データをインストールする試験協力に玲が手を挙げた。
「凪や高見君みたいに強い頭痛じゃないみたいし、アンインストールも出来るらしいから」
 第一フェーズの試験協力者の中の一部は第二フェーズの対照群の一つとして試験に参加することが出来た。凪と高見も標準化された頭痛が提示されていて、第一フェーズと同様に箱側の生体データも取得されている。一方移行者である玲は肉体計測がない代わりに種々の神経系データの信号パターンを取得されている。三人全員が第二フェーズの試験に参加している。
「わたしは片頭痛がなかったから、実は凪と一緒にいて少し羨ましかったんだよね。あーズキズキする」
 仮想世界には雨が降っていた。第一フェーズの気象と無関係にランダムに提示されていた頭痛に比べると随分と過ごしやすい。もちろん気圧データが低いときなど、片頭痛がひどい場合もあるが、それでも明らかに乖離しているよりはましだった。これが標準仕様ではなく凪固有の片頭痛を仮想世界に持ってこれるならば、悪くはないかもしれない。
 第一フェーズとは異なり、第二フェーズは試験も解決もスムーズに終えた。予想外のことと言えば玲が希望して標準化した片頭痛をインストールしたままにすると言い出した。当然、凪も高見も反対したが、三人で痛みを共有できることが嬉しかったらしい。
「難しいことは分かんないけど、片頭痛があった方が幻身体と精神の繋がりが強くなる可能性が高いんでしょう。いいことなんだから残してていいに決まってるでしょう」
 最後は玲に押し切られた。これまでの検討の中で航基はこの事実に確信を抱いているようだった。仮想世界の住民は気象と結びついた片頭痛があった方がよい。明確なメリットが得られたことで政府は航基の研究を支援した。追加予算が割り当てられ、航基は予定よりも高度な検討も並行して着手したようだった。
 思うところがありひっそりと研究資料を盗み見たことがある。航基は他者の片頭痛を違和感なく移行者の幻身体や訪問者の仮身体で感じさせようとしていた。航基は高見の片頭痛を、母に似た性質の片頭痛をどこかにコピーするつもりなのではないか?

第三フェーズの希望者が募集された。凪の予想に反して第一フェーズの参加者のおよそ七割が第三フェーズへ参加希望を出した。積極的にこの試験に参加している人の多くが仮想世界へ行きたいのはよく考えると当たり前だった。
 一方で凪は悩んでいた。第二フェーズの体感からすれば悪くはない。しかし母は現実で死んだのだと捉えていることは紛れもない本心だった。
「試験に必要な数の参加希望者は十分集まっている。凪、お前は第三フェーズの試験に参加させない」
 突然の航基の言葉に凪は戸惑う。航基の真意が分からない。
「なんで? あっちには玲もいる。それに高見も行くんだろう?」
「重い偏頭痛者は高見君がいるからデータは十分に取れる。彼ならば気象との同調率も高い。わざわざ結果がどうなるか分からない試験に参加する必要はない。凪は見込みが立った後に移行すればいい」
「父さんは僕をどうしたいの? 試験に参加させたり、させなかったり。どういうつもりかさっぱりわからない」
「凪はなんの心配もしなくていい。俺は考えなしに母さんを仮想世界へ移行させてしまった。片頭痛についてなにも知らなかったばっかりに母さんを苦しめた。俺が母さんを殺したんだ。仮想世界にはきちんとした片頭痛を作る。それが俺の償いだ」
 航基の力強い目は何かを達成しようと必死だった。論理の破綻や飛躍があったとしてもそこに凪が介入し、つまびらかにすることは出来ないように思えた。航基の研究成果を持って救われる人がいるならばそれで良いのかもしれない。仮想世界の住民は長い時を生きることが出来る。凪も航基も母を失ってから何かがおかしくなってしまったのだ。
 高見が自身の頭痛を持って移行した。航基の計算式は見事で、高見は仮想世界で現実とほぼ同じ片頭痛感覚を得た。他の参加者についても同様だった。第三フェーズ試験は何事もなく終了した。試験中に航基によって手が加えられ、高見の片頭痛と気象は完璧と言ってよいほどの同調を示した。たまに連絡を取る高見の状態は毎度、気象によって影響を受けていた。その振る舞いは母にそっくりだった。
公的に試験は成功に終わり、片頭痛を持っていたのに既に移行してしまった人々には標準化された片頭痛がインストールされ、これから移行する片頭痛者には現実の片頭痛を高い精度で変換して持っていった。試験は終わったはずなのに、航基はまだ研究を続けているようだった。
 何かがおかしいと気づいていたが、もう凪のことなど見ていなかった。そっと後を付けたことがある。航基はかなりの頻度で仮想世界に行っているようだった。

「わたしたち結婚することにしたんだ」
 玲から告げられたのは試験が終了して一年後のことだった。高見と玲が仮想世界で暮らして、凪が現実で過ごした一年間。高見は恥ずかしそうに頭を掻いていた。
「高見が駄目だったら、その時は僕を頼って」
 凪は玲と一緒に仮想世界に行けなかった。高額な費用が払えないから、なんていくらでも抜け道はあった気がした。それこそ結婚することだってできた。でもしなかった。母を苦しめた仮想現実を深層では恐れていた。
「大丈夫、立派な夫になるさ」
 玲は笑っていた。
 二人の生活になんの心配もいらなかった。凪はそれぞれからもう一方のことを度々相談されたが些細なことだった。航基が母の片頭痛を知らずによくケンカばかりしていたことを思い返す。一方で標準化された片頭痛を得た玲は高見の状態をよく理解した。当たり前だった。標準化された片頭痛のデータの主要部分は高見のものなのだから。
 航基の行方が分からない。探す必要がある。

航基の行方は分からないままだったが、凪は新しく仕事を始めながら一人穏やかに暮らしていた。ある日、凪の端末機に着信が入る。
「凪、助けて!」
 玲からだった。玲は泣き叫ぶように同じ言葉を繰り返した。玲の叫び声の間ではごうごうと吹き荒ぶ風と低く強い雨音が聞こえてきた。仮想世界は大荒れのようだった。
「落ち着いて。すぐに行くから待ってて」
 対照的に晴れ渡っている現実世界を駆け抜けて、最寄りの箱から仮想世界へログインする。視界は土砂降りの雨で満たされていて十メートル先ははっきりとしない。見たこともない荒れ模様に凪は予見していたことが起こったことを悟る。すぐに高見と玲の住居座標へと飛ぶ。
「凪!」
 慌てふためく玲に引っ張られてリビングに入ると、床でのたうち回る高見がいた。頭を押さえ、足をばたつかせて呻いている。
「高見! 大丈夫か?」
「がああ、痛い」
 高見には凪の声が聞こえていないようだった。
「急に、視界が! って叫んだと思ったら頭を押さえ出して」
 玲の目に涙が溜まる。
「なんなのこれ? 片頭痛なんだよね? 死んじゃったりしないよね」
「閃輝暗点だろう。おそらく片頭痛だ。玲、僕が高見を押さえるから、その間に玲はこれを高見に飲ませて」
 凪が手にしたものを見て玲は目を見開く。玲も知ったものだった。
「えっ、これって」
「そう。標準化した片頭痛データをインストールするための錠剤。高見の片頭痛を上書きする」
 凪は高見に飛び乗って、高見の手を顔から引き離すと膝の下にやり体重をかけて抑えつける。左右に激しく振る頭を両手で固定する。
「さっ、今のうちに」
 玲が高見の口内に錠剤を親指でねじ込む。すぐさま凪はミネラルウォーターを流す。水を吹きこぼしながらも高見は錠剤を飲み込む。やがて痛みが治まってきたのか徐々に動きが静まり、最終的に気を失う。凪は高見を抱えてベッドへと運ぶ。
「一体なにが起きたの?」
「高見は気象と片頭痛が繋がり過ぎていたんだ。それも仮想世界ではより密接になるように修正されていた。だからこの嵐に反応したんだ」
「そういうこと……。それで、わたしとおなじ標準化された片頭痛で大丈夫なの?」
「もしかしたらちょっと寿命が縮むだろうけど、標準化データの主要部分は高見のものだから、合わないことはないと思う。あのまま死んでいたかもしれないことを考えると他に手はなかった」
 玲はほっとした表情を浮かべた。緊張から解放された反動か、手先がぶるぶると震えている。
「錠剤は父さんの後に研究を引き継いだ人から貰ってきたんだ。僕は今そこで働いていて。もしかしたら標準化データよりはより高見にあった頭痛も作れるかもしれないから、今度相談しよう」
 玲は丁寧に頭を下げた。
「なにからなにまでありがとう」
「いやお礼をいわれることでもない。高見が無事でよかった。ごめん、もう一つだけこっちで用があるから僕行くね。嵐がひどくなると玲も具合悪くなるだろうから、今日は身体を休めて。じゃあ」
 凪は高見の住居をあとにする。気象情報を調べると凪は嵐の中心座標へ飛ぶ。

嵐の中心では、頭を押さえて呻いている父航基の姿があった。
「痛い! 苦しい!」
「父さん、一体何をやってるんだ」
「凪じゃないか! 父さんは今ようやく母さんを理解しようとしている。こんなにも母さんは苦しかったんだな。ああ、痛い」
 航基の顔は醜く歪む。涙も涎も全て嵐が流していく。
「それは高見の片頭痛だ。それも父さんによって都合よく書き換えられてる」
「違う! これは母さんの痛みだ。俺は母さんをわかってやれなかった。俺は償わなければならない」
「意味が分からない。こんなこと止めよう。いくら訪問者の仮身体といってもこれだけ精神をすり減らしていては現実の方に影響がないとは限らない。それにもう何時間こっちにいるんだ」
 航基は激しく何度もかぶりを振る。
「いいんだ。俺は母さんになるんだから。それにもう遅い。母さんになる儀式は終わった」
 ふと航基の顔が真顔になった。
「凪、元気で」
 航基は両手首の赤色をクロスさせて消え失せる。
「はっ、ログオフ?」
 何が起こったか一瞬理解ができなかった。思考を巡らせ、ある考えにたどり着く。航基は母になる儀式を終えたと言った。母になった先は?
「まさか」
 凪は航基と同じようにログオフする。しかし、航基がどこの箱からログインしたのか分からなかった。思い当たるところを探したが見つからず。ようやく航基が使った箱が判明してもそこに航基の肉体はなかった。
 嵐は航基によって気象データが改変された結果であることが後日分かった。
「あれは母さんになる儀式。強い偏頭痛を自分のものだと認識させた」
 嵐が最終的な仕掛けとはいえ、それ以前にも度々仮想世界に来て片頭痛と仮身体を徐々に定着させていったのだろう。

一か月後、高層ビルの屋上から飛び降りた航基が死体で見つかる。
 母は片頭痛のある現実からない仮想世界で生きて耐えられなくなった。生来片頭痛を持たない航基が母と同じ道を辿るにはどうすればいいのか。仮想世界で片頭痛を獲得し、ない現実に戻ってくることだ。

狂っていく中、父は母になれたのだろうか。
「なれてもなれなくてもどうでもいい」
凪は虚空に言い放った。晴れた空の先に雨雲が見えた。ずきり、と片頭痛が鳴った。

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