銀の滴降る降る

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梗 概

銀の滴降る降る

 砂漠でなくて土漠。砂じゃなくて、土でできた砂漠。標高2,900mの何にもない土漠の真ん中に、僕がいるアルマ天文台山麓施設は建っている。
 同僚の朱沐宸とビールを飲みながら夕焼けを眺めていると、屋外だべり組もう一人の仲間が顔を出した。
 と言っても人間じゃない。ビスカチャという大きな鼠みたいな生き物。本当はメスなんだけどあまりにおっさん臭くてセニョールという名前をつけられた。岩の上で気持ちよさそうに目を細めている。
 セニョールは右耳に切り欠きがあるからすぐ見わけがつく。お前もここでよく頑張ってるな、と何となく仲間意識めいたものを感じながら二人と一匹で夕日を見た。 

 ある日、セニョールの子供が大きなワシに襲われた。ワシは暴れる子供を扱い損ね、途中で落とした。子供は岩の上で完全に潰れていた。ペーパーナプキンで子供を覆って持ち上げると、動いた。小さな足が中から蹴っている。子供はペーパーの固まりから這い出てきた。すっかり何もなかったみたいな姿で。
 ペーパーに染みこんだ血を友人の友人の生物学者に無理矢理送りつけた。数日後、やたら興奮した電話がかかってきた。
「血液に見たことのない結晶構造がある。水分を与えると構造的に変化していくんだ、あれはなんだ、どこで手に入れた?」
 
 僕は、天文台の日誌を遡って読んだ。数年に一回、誰かがセニョールと子供のことを書いていた。遡る、もっと、もっと。10年、20年……そうしてある技師の落書きを見つけた。耳に切り欠きのある下手クソな生き物。書かれたのは今から25年前。
 ぼくは迷いながらもここまでの経緯を沐宸に話した。
「セニョールの巣を探そう。巣の入り口に糞が溜まっているはずだ。それを調べる」
 採取した糞からも結晶構造は見つかった。水を与えると折り紙を広げるように展開していく。非常に強固で柔軟、弾性性に富み、そして自己修復機能がある。
 僕らは顔を見合わせ、ほぼ同時に言った。
「ウィドマンステッテン構造に似ている」

 鉄隕石が残したクレーターで沐宸が何かを見つけた。
 炭酸水酸化銅に似た、ただもっと鮮やかな緑。水筒の水をかけると結晶は展開し始めた。レースペーパー、万華鏡、ルービックキューブ、テオ・ヤンセンのストランドビースト、鉱物でできた地衣類……だが容赦ない日差しと乾燥に水はあっという間に蒸発し、逆回しとなってまた縮んでいった。
 おそらく過去のどこかでアタカマに雨が降った。休眠していた植物が一斉に芽吹き、結晶も展開を始めた。それをセニョールが食べた。
「すごいよ、これで人類は永遠の命を手に入れた。もう病で苦しむ人も、死に怯える人もいなくなる」
「……違うよ」
 沐宸が足下の結晶に目を落とす。
「これは不死じゃない。これは永遠の停滞だ。人間だけじゃない、病原菌も同じように恒常性を得る。だから、病に苦しむ人は永遠に病に苦しみ、死への怯えは生への絶望に変わるんだ。子供はもう生まれなくなる。世界は、その瞬間で止まるんだ。それでも……」
 照り返しがサングラスを通して目に刺さるほどだった。
「それでも君はこれを福音だと思う?」
 アタカマにも雨が降る。
 いつか、また。


文字数:1297

内容に関するアピール

 雨がほとんど降らない場所を描きながら、雨を思うことができたらいいな、と思って書きました。
 世界でも最も乾燥した場所の1つであるアタカマでは、鼻の中が乾燥しすぎて毎日鼻血が出ていました。そんなところに運悪く落ちちゃった、絶対水が必要な生物って……
 もしこの結晶を体に取り込むなら、今頑張っている虫歯治療と、あと念のためピロリ菌と白癬菌の検査をしてからにしようと思います。

 ウィドマンステッテン構造は、鉄隕石に多く見られる特異な磁性によるテトラテーナイト層、です。

 アルマ天文台に勤めながらビスカチャの研究をしている友人は本当にいます。

文字数:267

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あのおとのようにそっと

あのおとのようにそっと

 

 

 

      あのおとのようにそっと(改題:銀の滴降る降る砂漠に)

                              柿村イサナ

 

 

 

 

 

 

 

  雨のおとがきこえる
  雨がふってゐたのだ
 
  あのおとのようにそっと世のためにはたらいてゐよう
  雨があがるようにしづかに死んでゆこう

                        八木 重吉

 

 

 

 砂漠でなくて土漠、と教えてくれたのは僕の三期上の先輩。砂じゃなくて、土でできた砂漠だから土漠。大地も空もがらんと空っぽで、ひたすらでかい。
 それなりにいろいろ整った町で育った僕は、この何もなさが最初は怖かった。自分の抱えている怖さがなんなのか確かめたくてスマホの辞書を見たけれど、茫漠とか、闊大、縹渺なんていう読めない漢字が見つかっただけだった。
 周囲100km、数えるほどしか人はいない。人が住める条件の揃った場所に、5000人くらいが集まっている。あとは鉱山施設、そして僕が今いる宿舎とか。
 標高2900mの高地の真ん中に、アルマ天文台山麓施設は建っている。そしてここから30km離れた5050mの山の上に、アタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計が並ぶ山頂施設が。
 空気が薄くて乾燥しきっていて、雲がない。周囲に町もないから、観測を妨げるノイズが少ない。たくさんの電波望遠鏡を建設させるための平たくて安定した土地もある。世界中から選ばれたベストな「観測最適地」、だけど、それはつまり超超超超僻地ってこと。一番近いサン・ペドロ・デ・アタカマの町まで車で1時間。チリの首都サンチャゴまでは飛行機で2時間。僻地って言うほどではないかもしれないけれど……でも心理的にはやたら遠い。
「次の休暇、何する?」
「ウィロウィロでも行くかな。亜熱帯雨林。いいホテルがあるよ」
 同僚の台湾人の朱沐宸と、高山病防止のコカの葉を噛み、薄いビールを飲みながら夕焼けを眺めて無駄話をするのがほぼ毎日のルーティン。ここは夕焼けと星空だけは素晴らしいのだ。だけは。
 今も目の前では紫とピンクの配分が静かに変わっていく。上の方はもう群青だ。少しずつ降りてくる夜の中で、小さく光る一番星と細い細い月がうっすらと見えてくる。アイフォンからは、マーク・アンソニーが「A veces llega la lluvia(雨が降ることもある)」と歌っている。アタカマは地球上で最も降水量が少ない場所だけどね。今日は雲が無いので、空は単調だ。それでも凄まじく美しい。こんなショーを毎日無料で公開している地球って太っ腹だな、と見るたびに思う。
「あ、セニョールだ」
 屋外だべり組もう一人の仲間が顔を出す。と言っても人間じゃない。ビスカチャという大きなネズミみたいな生き物。この棟の近くに住んでいるらしく、よく見かける。夕方になると、日の光でぬくまった岩の上に姿を現す。本当はメスなんだけど、その顔があまりにおっさん臭くて、セニョールという名前をつけられた。今も日の名残を浴びながら気持ちよさそうに目を細めている。
「セニョールって、ずっといますね」
「確かに。私がここに来た時からいると思う。”パイセン”だね」
 そこだけ日本語で言って、沐宸は笑った。日本のアニメが好きだという沐宸は、時々変な言葉だけ覚えている。
 セニョールは右耳に切りかけがあるからすぐ見わけがつく。お前もここでよく頑張ってるな、と何となく仲間意識めいたものを感じながら二人と一匹で夕日を見た。

 僕は技師だ。
 山頂施設のあるチャナントール平原は標高5050m。直径12mのパラボラアンテナが54台、少し小さい7mのアンテナが12台並んで、じっと空を見ている。視力6000のアンテナたちが受信した電波は、真空冷凍容器に収められた受信機カートリッジに送られる。日本の国立天文台が提供したそのBand4、8、10の点検と整備が僕の主な仕事。
 沐宸は同じように受信機開発の専門家として台湾中央研究院から派遣されている。
 月に一度、サンチャゴからアルマ天文台にデータのチェックに行く。高度順化もあるから、山麓施設での滞在も含めるとだいたい2週間おきにアタカマとサンチャゴを行き来している。沐宸とはそのタイミングがほぼ同じで、顔を合わせることが多かった。専門も近くて、何となく話があい(好きなアニメが同じだったり)、サンチャゴでも時々飲みに行ったりしている。
 経費の申請をしにサンチャゴオフィスに寄った時、雑談の合間に「セニョールパイセン」の話を出した。
「え? セニョールって代替わりしてるんじゃないの? だってさぁ、前の前の所長の時からその名前聞いてたよ? 2010年とか? あれ、でもビスカチャって寿命7〜8年じゃなかった?」
 だとすると、セニュールは今、最低12歳。それとも同じように耳が欠けているビスカチャが、たまたま観測台の近くに住んでいるのだろうか?
 一度気になると、それからちらちらとセニョールの様子を伺うことになった。ふっくら丸いわがままボディは、とても御年120歳(人間換算)とは思えない。
 ビスカチャはチンチラの仲間の齧歯類。体長50cm〜60cmほど。アルゼンチン、エクアドル、ペルー、ボリビア、チリなど、南米の限られた場所にしか生息していない。地面の中に10㎡〜20㎡にも及ぶ入り組んだ大きな巣を掘り、殆ど水を飲まず、草や種子、根を食べて生きている。目を細めた渋い表情と、もふもふの体が受けて、SNSでバズったこともある。だけど、基本的にはマイナーで地味な生き物だ。絶滅の危機に属している訳でもなく、人間に食用にされたり毛皮を取られたりすることもあまりない。ぼくも、アタカマに来るまでは知らなかったし。
 だけど今は何となく仲間意識もあり、外に出るとセニョールを探してしまう。
 
 その日、僕はセニョールの子供が大きなワシに襲われるのを見てしまった。
 山麓施設のカフェテリアからサンドイッチとダイエットコークを持って、外で食べようと出てきたところだった。頭の上をさっと影が通り過ぎて、視界の端で何かがすごい速さで岩山を駆け上がっていき、その影が降りてきて取り残された何かを掴み上げ、持ち上げた。僕はようやくその時になって、セニョールとその子供だ、と気づいて、サンドイッチとコークを持った腕を振り回しながら大声を上げて駆けだした。
 ワシは僕に驚いたのか、掴んでいたものを落とした。
 僕がすくんで何もできない内に、それは近くの岩の上に落ちた。
 子供は岩の上で完全に潰れ、ピンクと灰色と赤と茶色の固まりになっていた。
 僕が大声を出したからだろうか。でもそうでなくてもきっとこの子はワシに食べられていた。どうやっても助からなかった。仕方ない、逃げ遅れた時点でこの子の運命は決まっていたんだ。そう自分の中で繰り返したけれど、目の前で起きた小さな生き物の死に、僕はしばらくただ呆然と、子供だったものを見ていた。
 我に返ったのは、ワシが戻ってきてこの子を食べたらいけない、と気づいたからだ。もう死んでしまったのだから、ワシに食べて貰った方がいいのかもしれない。だけど、あのセニョールの子供、僕も時々挨拶をしていたこの子を放っておくことができなかった。
 埋めてあげよう。自己満足かもしれないけれど、文明人としてのセンチメンタリズムだろうけれど、でも、せめて。
 急いでカフェテリアにロールペーパーを取りに戻り、なるべく分厚く子供の体を覆った。こわごわと、なるべく子供の遺骸の感触がわからないようにそっと持ち上げる。
 そこではたと止まってしまった。
 どうしよう、埋めてあげるって言ったって、どこに? ここらへんは岩ばかりで、土は殆どない。岩が砕かれた砂利の中に埋めたって、ピューマやキツネが掘り出して食べてしまうかもしれない。観光名所として名高い月の谷まで行けば、砂丘があった。だけど、そこまでこの子をどうしたらいいんだろう。
 手で持ってしまった遺骸をもう一度置くわけにもいかず、僕はただただ固まったままおろおろしていた。
 手の中の子供は軽くて、ペーパーの固まりの中にさっきまで生きていた体が入っているなんて不思議だった。
 その時、手の中で子供が動いた。死後痙攣とかそういうやつかと思った。でも動いている。1回だけじゃない。確実に、感じる。弱々しく、でもだんだんしっかりと。小さな足が中からペーパーを蹴っている。身をねじって、もがいている。まさかまだ死んでいなかったの? でも、あんなぐちゃぐちゃになっていたのに……
 中から、小さな鼻がのぞいたところで限界だった。がたがた震えながら、僕はペーパーを目の前の岩にそっと置いた。中から子供が這いだしてくる。きょとんとした目をして。すっかり何もなかったみたいな姿で。
 岩山を駆け上がっていく子供をセニョールが待っていた。

 フェイスブックを遡り、元カノと行ったライブの写真を探す。あの時紹介された大勢の友達の中にウニベルシダッド・デ・チレの生物学者が……いた。しかもちゃんとタグ付けされてる。SNS中毒だった元カノ、ありがとう。
 友達の元カレ、しかも数年前に会っただけ、謎の日本人から急にメッセージが来てずいぶん驚いただろうに、人なつっこいチリ人はペーパーに染みこんだ血を分析すると約束してくれた。
 人なつっこくて親切だけど、同時に適当で気まぐれなチリ人のことだから、良い感じの返事をしたままほったらかしにされる覚悟もしていたから、本当に電話がかかってきた時はびっくりした。
「¿De dónde sacaste esa sangre? ¿Que demonios es?(あの血液、どこで手に入れた? なんだあれ?!)」
 ただでさえ早くて聞き取りにくいチリ訛りのスペイン語が、興奮しまくっていてさらに難易度が高い。何度も繰り返して貰ってわかったのは、血液に通常より赤血球が多い。だけど、これは酸素濃度の薄い地域の生き物にはよく見られる特徴だ。問題は、見たことのない結晶構造が含まれること。しかも、水分を与えると構造的に変化していく、ただ、あまりにもサンプルの状態が悪く、きちんとしたことはわからない。もっと調べたい。ちゃんとした血液を採取して、今すぐ送れ。採取キットを送る、住所を教えろ。
 わかった、後でメールするよ、と生返事をして電話を切り、すぐにフェイスブックで彼をブロックし、メッセージも電話も着信拒否にした。大丈夫、あいつ、一回も僕の名前をちゃんと言えてなかったし……きっと探し出せない。
 ちゃんと考えたわけじゃない。ただ、このままセニョールの子供のことが広まっていくのはまずい、そんな気がしていた。どこまでできるかわからないけれど、とにかく僕だけで調べてみよう。
 それから僕は、天文台の日誌を遡って読み込んでいった。時間も根気も必要だったけど、数年に一回、誰かがセニョールと子供のことを書いていた。
 遡る、もっと、もっと。10年、20年……そうして見つけた一番古い記録は、この天文台の建設地調査に訪れたカナダ人技師の落書きだった。下手クソな丸まっこい生き物、でもその耳には、切り欠きがあった。セニョールだ。1997年、実に今から25年前。
 25年、平均的なビスカチャの寿命の4倍以上。
 たまたま四代続いて、耳に切り欠きのあるビスカチャが山麓施設の近くに住み着いた。
 セニョールの家系はみんな同じ耳の形をしている。
 考えられる可能性をいろいろひねくり回していたけれど、本当はそうじゃないことはわかっていた。セニョールは25年前からここに住んでいる。もしかしたらもっと長いのかもしれない。
 それを確かめるには……
 ここで僕は行き詰まった。仮説を検証しようにもセニュールに近づく術がない。例え捕まえたとしても、まさか解剖するわけにもいかないし。グルグル悩んでいたら、沐宸にとっ捕まった。
「話せることなら、聞く」
 元カノと別れた時、酔っ払った僕の話を辛抱強く聞いてくれたその時と同じ顔で沐宸が僕を見ている。
「あ、いや、違うんだ。そうじゃなくて……」
 そうじゃないなら、なんて説明すれば良いんだろう。確かにここしばらく、僕はおかしかった。いつも上の空で、怯えていて、こそこそと1人で行動していた。セニョールの子供を見るのが怖くて、今までみたいに外でランチを取ったり、沐宸と夕日を見ながらビールを飲むこともなくなった。
 秘密の大きさはどんどん僕を押しつぶしていた。自分が見ているものの深さがわからないまま、手探りで踏み込んでいくのは怖かった。だから僕は、沐宸に半分持って貰えるかもしれない、と思ってほっとしたんだ。
 ここまでの経緯を説明する。沐宸は黙って聞いた後、きっぱりと言った。
「セニョールの巣を探そう。巣の入り口に糞が溜まっているはずだ。それを調べる」
「信じるの?」
「半分半分。でも、信じた方が面白そうだから。セニョールが不死身の可能性も”ビレゾン”でしょう?」
 ビレゾンが、微粒子レベルで存在、だとわかった時には、声を出して笑ってしまった。久しぶりに、気持ちが軽かった。

 僕たちはあちこちに赤外線カメラを設置し、セニョールの行動を追い始めた。間もなく、巣が見つかった。ビスカチャは巣の周りにあらゆるものをため込み、積み上げる。そこから採取した糞や抜け毛を今度は自分たちで分析する。チリ人の生物学者が興奮していた結晶構造は、糞からも見つかった。水を与えると折り紙を広げるように展開していく。非常に強固で柔軟、弾性性に富み、そして何より驚いたことに自己修復機能がある。もしセニョールの子供の全身にこの結晶構造が及んでいたとしたら……確かに不死身になれるかもしれない。
 僕らは顔を見合わせ、ほぼ同時に言った。
「これ……ウィドマンシュテッテン構造に似ている」
 鉄とニッケルを多く含むオクタヘドライト型隕石に見られるテトラテーナイト層。特異な磁性によるこの構造は、人工的に作り出すことが出来ない。斜めに交差する結晶構造はそれにそっくりだった。
「隕石の記録を探そう。セニョールの行動範囲内に落ちているはずだ」
 僕らがいるところは、世界最高峰の天文台だ。設立以前の記録も資料として残されていた。1995年、とりわけ大きな鉄隕石がこの近くに落ちていた。サンプルがサンペドロ・デ・アタカマのMuseo del Meteorito、隕石博物館に保管されているという。HPのギャラリーを見ていくと、それらしい写真が見つかった。
「展示はされていないみたいだね。鉄隕石は珍しいものじゃないから」
「3198g、Octahedrite fino、オクタヘドライトだ。切削されている……あぁ、ウィドマンシュテッテン構造だ」
 PC画面から顔を上げて、沐宸と目を見合わせる。
「行こうか、ここに」
 
 僕と沐宸は天文台の車を借りた。
 アタカマ砂漠を走る車は、赤い旗を高々と掲げている。地形が起伏に富んでいるので、走っている車が見えなくなることがあるからだ。旗をなびかせながら、僕の運転するニッサンが走る。 
 何もないだだっ広い土漠。高温で焼いた釉薬のような青い青い空、赤い岩と砂。赤と青、そして地面の白。チリの国旗の色だ。
 場所を探すのには苦労した。3198gの隕石が作れるのは、せいぜい数mのクレーターだ。資料に残されていた緯度と経度をスマホで確認しながら、最後は歩いて、目視で確認した。隕石自体はもう回収されてしまっていたけれど、落下の時のクレーターがうっすらと確認できた。もう10年もすれば、風化して他の場所と見分けがつかなくなるだろう。
「干上がった湖みたいだね」
 衝突でできた石英がきらきらと地面を覆っている。照り返しがサングラスを通して目に刺さるほどだった。
「これは?」
 沐宸が立ち止まった。その足下に少し違う色のものが転がっていた。銅鉱山の周りによく転がっている炭酸水酸化銅かと思ったけれど、もっと鮮やかな緑。よく見ると、そこかしこにある。
 僕は沐宸を見た。沐宸が頷き、無言で水筒の水をかけた。緑礬様の結晶は水がかかった途端に展開し始めた。レースペーパー、万華鏡、ルービックキューブ、テオ・ヤンセンのストランドビースト、地衣類……だが容赦ない日差しと乾燥に水はあっという間に蒸発し、逆回しとなってまた縮んでいった。
 一瞬の展開、そして収束。その動きは明らかに異質だった。
 沐宸が慎重に、僕らの疑念を言葉にする。
「これは鉱物じゃない……生き物だ」
 植物の生長を早回しにした映像、小学校の実験で育てた硝子結晶。鉱物でできた、生き物。
「隕石と一緒に落ちてきた、エイリアンってこと?」
「ここアタカマに来ちゃったのが運の尽きだね。もし海に落ちていたら、あっという間に増えることができたのに」
 もしもっと水の多い場所に落ちていたら。
 もし数十m、数kmのクレーターを残すほどこの隕石が大きかったら。
 もし微少な隕石となって降り注いでいたら。
 だけどその無数のもしが全て裏目に出た結果、この結晶はここで為す術もなく干上がっている。
「でも、最近はアタカマにも雨が降る。エル・ニーニョ現象のせいで、数年に一度」
「雨が降ると、ガラス質になったクレーターに水が溜まり、これは展開を始める」
「それを、水を飲みに来たセニョールたちビスカチャが食べ尽くす」
「もし残っても、すぐに水は干上がる。結晶はまた休眠状態に戻る」
 沐宸がつま先で結晶を転がす。
「地球上の誰も知らないところで、ファーストコンタクトはなされていたんだね」
 ただし、コンタクトしたのはビスカチャと他数種の生き物のみ。
「だけど考えてみてよ、これで人類は永遠の命を手に入れたんだよ。もう病で苦しむ人も、死に怯える人もいなくなる」
「……違うよ」
 沐宸が足下の結晶に目を落とす。
「これは不死じゃない。これは永遠のポーズ、停滞だ。人間だけじゃない、病原菌も同じように恒常性を得る。だから、病に苦しむ人は永遠に病に苦しみ、死への怯えは生への絶望に変わるんだ」
 僕は言葉を失った。僕の手の中でもがき、暴れ、出てきた子ビスカチャのことを思い出した。もしあれが僕だったら。繰り返し繰り返し死から蘇る。
「それに、子供はもう生まれなくなる」
「でも、セニョールの子供は?!」
「結晶を取り込む前に生まれたんじゃないかな。考えて。子供を作るということは、卵細胞が分裂増殖することだ。それが停滞したら? 不老不死って、そういうことなんだよ」
 真昼の太陽が照りつける。ここアタカマでは東京の十倍以上の紫外線が降り注ぐ。
「世界は、今この瞬間で止まるんだ。それでも……」
 沐宸が僕を見る。サングラスの奥の目は見えない。
「それでも君はこれを福音だと思う?」

 沐宸は台湾に帰った。
 僕もチリを離れ、今は三鷹の国立天文台にいる。彼とは時々、学会ですれ違う。その度に笑いながら、いつまでも若いね、と冗談を言い合う。

 ねぇ、セニョール。
 君は今日もあの岩の上で目を細めてひなたぼっこをしている?
 死なない体を持ち、そのことをなんの疑問も懸念もなく受け止め、ただ生きている?
 でもいつか、君も再生できないような死に直面するかもしれない。
 いつか、君の子供が今度こそワシに食べられてしまうかもしれない。
 いつか、降水パターンが変化し、アタカマに大雨が降るかもしれない。数百年間、雨が降ることがなかった地に降り注いだ水は洪水となって地表を押し流すだろう。
 ここから一万八千キロ。
 セニョール、君は今日も夕日を見ているんだろうか。
 
 いつか。
 アタカマに雨が降る。
 天と地を結ぶその雨の音を、僕らの世界を永遠に変えるその音を。
 聞いてみたい。

文字数:7985

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