タイタンに降る

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梗 概

タイタンに降る

太陽系の開発が進む時代。人間は脳刺激冬眠技術を用いて太陽系内を移動していたが、過酷な労働環境が多いためAIが労働の大半を担っている。中でも情動育成を目的に人間に似せた固有の擬体を備えた人工知能は、人工人間――AHと呼ばれ、オセアニア連合では既に一定の人権を与えられて地球でも存在感を増していた。その一人、無性型AHミアリーは精神科病棟で働く看護師だ。
 ミアリーが担当する患者にダクという盲目の青年芸術家がいる。自ら両目を潰したダクは、「雨」という題名の、脳に直接受信させる感覚芸術制作に没頭しているが、頻繁に己の才能の乏しさに憤怒して自らの耳や鼻を削ごうとするため、介護と監視が必要だ。自身の肉体を損なう行為は、擬体を有するがゆえに情動を有する自分に誇りを持つミアリーには理解し難い。しかし好奇心旺盛なミアリーは逆に彼に興味を持ち、ともに屋上で雨に打たれたり「雨」制作を手伝ったりして、気難しい彼から母親にまつわる雨の思い出を語られるほどの仲になる。
 ついに「雨」が完成した日、精神を病む他の患者がダクへの嫌がらせで「雨」を消去した。ミアリーは未知の感情に襲われ、その患者を半死半生の目に合わせてしまう。人権を持つAHには刑罰があり、ミアリーは裁判の結果、土星の衛星タイタンでの懲役八十年を言い渡される。AHの寿命の長さ及び社会に与えた衝撃の大きさゆえの刑期だった。「雨」が消え、呆然としていたダクが、八十年後まで生きる可能性は低い。寂しく思いつつタイタンへ移送されたミアリーは、液体メタン等の採集作業に従事する。
 湖を成す液体メタンは雨として降ってくる。だがタイタンは地球より重力が弱いため、雨粒の落下もゆっくりだ。「雨」を思い、地球の雨との差異を悲しむミアリーの許へ、十二年後、差し入れが届く。それは再制作された「雨」。差出人はダクだった。AHが体験できるよう改造された感覚芸術をミアリーは震える感情で味わう。温かさと冷たさが体表のあちこちに断続的に触れ続け、やがて体内に至るまで抱き締められるが如くに感覚が移り変わる作品だった。漸く、ミアリーはダクが己の目を潰し、耳や鼻まで削ごうとしていた理由を理解する。「雨」は五感のうち最も原始的な触覚を極限まで追求し、感情に訴える作品だった。以降、ミアリーは簡易宇宙服越しのメタンの雨からも、ダクとともに雨に打たれた感覚を想起できるようになる。それは降り積もる感情に強く裏打ちされた感覚だった。
 刑期を終えたミアリーは地球への帰路に就く。旧型と成り果て、碌な就職先が見つからないミアリーだったが、身元引受人として宇宙港にいたのは未だ若いダク。六十八年間連絡が途絶えていたが、高値が付いた「雨」の著作権収入でミアリーのために冬眠し、且つ体の一部を人工化していたのだ。自分と同じ人工眼で見つめられ、「今はおまえを理解したい」と求婚されてミアリーは深く頷いた。

文字数:1200

内容に関するアピール

梗概はミアリー視点ですが、ダク視点ではやや異なります。「雨」が消えた時に呆然としていたのはミアリーの暴走に驚愕したからで、そこからダクは彼(彼女)を理解したい衝動に駆られるようになります。ミアリーに送るという目的ができて、再制作された「雨」は高度な完成を遂げました。その制作過程でダクは、ミアリーを理解し、彼(彼女)にも体験できるよう改造するために、自らの体の一部を人工化したのでした。その後、ミアリーと確実に再会するために、ダクは「雨」の著作権収入で冬眠に入ります。結果、六十八年間連絡が途絶えてしまいました。けれど、その歳月は技術と法律を進歩させ、ダクとミアリーは法的に婚姻可能となっています。身体のありよう、精神のありようすら通常を超えた二人の関係を、雨が持つ力を借りて伝えたいと思います。
 無性型AHのミアリーが看護師として採用されたのは、患者との間に起き易い性的な問題を回避できるからです。

文字数:400

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タイタンに降る

 有機化合物エアロゾルによって、土星の衛星タイタンの空はいつも赤みがかっている。その空に低く垂れ込めてきた雲から、細かい雨粒が落ちてきた。液体メタンの雨だ。霧雨に近い小ささの雨粒だが、人工人間たるミアリーには、一粒一粒をはっきりと視認することができる。重力が弱く、大気が濃いため、ゆっくりと降ってくる雨粒は、直径〇・五ミリメートルそこそこであっても、球ではなく饅頭型になって舞い降りてくる。まるで地球の海に住むクラゲのようだ。そうして、それらの粒は、囚人用の簡易宇宙服を纏ったミアリーの、人間を模した擬体に優しくぶつかって弾けていく。
(ああ)
 ミアリーは赤い空を見上げたまま目を閉じて微笑んだ。
(ダク、今のわたしは、きっときみと同じように雨を感じられている。あの屋上で、地球の雨に打たれていたきみと同じ気持ちで、雨を感じているよ)
 ダクが作品を通して教えてくれた、感情に強く裏打ちされた感覚。
 薄い生地越しに感じる、凍える大気より少し温かい粒。懐かしい。気化して微かに冷えた。寂しい。強く当たった。もう一度会いたい。弱く当たった。あの日に戻りたい。地球の雨とは異なるタイタンの雨でも、今のミアリーは彼と同じ気持ちを懐くことができる。
 かつてミアリーは地球の病院で働く看護師だった。そしてダクは、担当していた患者で、出会った当初はひどく気難しい青年芸術家だった。

「彼が、きみがこれから担当することになる患者、ダク・コーリーだ。見ての通り、盲目だ。両方の眼球を自らフォークで突いて潰したんだ」
 精神科病棟を切り盛りする看護師長ピーター・クラークは、逞しい肩を竦めて見せる。示された青年は、シャツの上からでも分かるほど痩せた体を寝台に横たえて、VR世界にダイヴ中だ。しかし彼が頭に被っている装置は、よくあるゴーグル状ではなくキャップ状で、目は覆われていない。頬の痩けた小麦色の顔、その薄く開かれた瞼の下、淡青色の双眸は無残な傷跡を残していて、最早機能していないことが明らかだった。
「それは何故ですか」
 ミアリーは青年と看護師長とを交互に見て問うた。精神科病棟に入院しているダク・コーリーについての資料は全て電脳に記録しているが、その行動原理は全く把捉できていない。固有の擬体を有するがゆえに情動を有する人工人間――AHたる己に誇りを持つミアリーには、自身の体を損なう行為が理解し難かった。
 太陽系の開発が進み、月には各国の基地が設けられ、火星には多数の入植者が住まう現代、人間達は脳を刺激することによって哺乳類特有の冬眠能力を呼び覚ます脳刺激冬眠技術を用い、宇宙空間を移動している。しかし人間にとっては過酷な環境が多い中、大半の労働を担っているのはAIだ。中でも、人間に近い判断力を持たせるため、情動を育成するとして人間に似せた固有の擬体を装備されたAIは、特に人工人間――AHと呼称されて、従来のAIとは一線を画す存在となっていた。小惑星、衛星、惑星、太陽付近――さまざまな最前線でAHは人間の代行を充分に果たし、地球上でもその存在価値が認められて、ミアリーが住むオーストラリア大陸を含むオセアニア連合では、既に一定の人権を付与されるに至っている。ゆえに、唯一無二の己の体はミアリーにとってひどく重要であり、だからこそ、ダク・コーリーの行動は、彼が精神を患っているとしても、難解だった。
「彼自身の言葉を借りれば、『煩わしい』からだそうだ。自分の才能の足りなさに絶望してのことらしい」
 人間にとっても難解な行動なのか、またも肩を竦めた看護師長は、続けてミアリーの背をぽんと叩く。
「なら、後は任せた、ミアリー看護師。正看護師になって初めての仕事だ。存分に力を発揮してくれたまえ」
「了解しました、ピーター」
 頷いて、ミアリーはダクの寝台脇へ歩み寄った。一般病棟で経験を積み、准看護師から昇格したばかりの自分が今日から担当するのは、この青年一人だ。
(一対一というのは、信用されているのかいないのか……。まあ、とにかく彼と良好な関係を築かないとね)
 ダクの以前の担当看護師は、彼の芸術作品を馬鹿にしたという理由で彼から担当の交替を要求されて、別の患者の担当になったという話だ。
(まずは、彼をよく観察して、理解を深めるところから始めよう)
 ミアリーの擬体は光波兼振動発電で稼働するので、人間の看護師のように手洗いへ行ったり食べたり休んだりする必要がない。情報整理のため多少の休息は必要だが、それは状況を見ながらこまめに取ることが可能だ。つまり、片時も傍を離れずダク・コーリーの世話をすることができるのだ。ただ、ここオセアニア連合ではAHに一定の人権が認められているので、週休一日制の勤務となっている。毎週土曜日のみは、他の看護師がダク・コーリーの面倒を見るのである。
(彼がVR世界から戻ってくるまでは、休息していようか)
 ミアリーは近くにあった椅子を引っ張ってきて腰掛けた。無理にダクをVR世界から引き戻すという選択肢はない。資料に拠れば、このVR装置は彼が設計したものだ。ダク・コーリーは以前、大手VR家電製造会社にエンジニアとして勤めていた。そこで、体性感覚、即ち触覚や圧覚、温覚、冷覚等を完璧に再現する脳刺激VR装置を開発したのだが、それを用いて会社側の意向と異なる芸術作品ばかり制作したため解雇されたという。その後も自宅で継続して芸術作品制作をしていたが、やがて精神を病み、自らの両眼を潰すに至って、入院となったと記されている。
(きみは何故、「煩わしい」と思うんだろう……? 固有の体を通して世界を認識し、世界から認識されるって、素晴らしいことなのに。感覚器官を減らしてしまったら、その分、感じられなくなってしまうのに)
 ミアリーは、束ねて垂らした自らの銀髪の、肩に掛かる毛先を、そっと弄った。僅かに癖のある、この柔らかな長い銀髪も、艶のある珈琲色の肌も、赤褐色の双眸も、目が大きく鼻が小さい童顔の顔立ちも、しなやかな肢体も、とても大切だ。この体は唯一なのだ。大量生産の既製品ではない、この宇宙にたった一つの体。傷ついたり壊れたりしても、交換はできない。掛け替えがなくて、愛おしいのだ。
(きみにとっても、それは同じことなのにね……)
 ミアリーが電脳で呟いた直後、唐突に青年の頭からキャップ状の装置が外れて枕の上に転がった。短めに刈られた黒褐色の癖毛が顕になり、ゆるりと広がる。同時に青年は険しく顔をしかめ、その左手が動いて顔の中で一際高い鼻へ骨張った指先が伸びたかと思うと、がりりと爪で皮膚を削ったのだ。
「ちょっと!」
 ミアリーは素早く椅子から立って正確に、且つ適切な力加減で青年の左手を自らの左手で捕らえた。しかしその時には既に、青年の鼻の頭からは鮮血が流れ始めている。
「離せ!」
 ダク・コーリーは叫んでミアリーの左手を振りほどこうとしたが、一般人の腕力や瞬発力如きに負ける擬体はない。青年の筋張った右手も自らの鼻の穴を引き裂く勢いで動いたが、寸前でミアリーの右手に収まった。
「もう少し穏やかに自己紹介したかったんだけれどね……!」
 ぼやいてから、ミアリーは名乗る。
「わたしはミアリー・グルウィウィ。今日から、きみの専任担当になった看護師だよ。宜しく。とりあえず、たった今きみが作った傷を、できれば消毒したいんだけれど、大人しくする気はあるかな?」
「消毒はいらん! この鼻もいらん! 煩わしい、この匂い、匂い、匂い! 消えろ、消えろ、消えてくれ……!」
「大人しくする気がないなら、申し訳ないけれど、ちょっと実力行使に出るね」
 一応警告してから、ミアリーは左右の手で捕まえた青年のそれぞれの手を少し強めに握った。関節を強く握れば、人間の体はその周辺が痺れて動きにくくなる。
「離せ、葉っぱ野郎!」
 青年が重ねて叫んだ言葉に、ミアリーは破顔した。
「ああ、やっぱり、きみはアボリジナルの言葉に詳しいんだね」
 ミアリーという名は、オーストラリア先住民の言語の一つで、葉という意味だ。そしてダクは、同じくオーストラリア先住民の言語の一つで、砂山という意味なのだ。ダクの母親タルニは十七年前に失踪しているが、アボリジナルだと資料にあった。しかし、そうだとしても、数あるアボリジナルの諸言語全てを知れる訳ではない。ダクは、自ら進んで学んだのだ。母親に対して、強い拘りを持つ可能性が高い。
(きみの心の病は、お母さんの失踪に端を発しているのかもしれないね……)
 ミアリーは分析しつつ痺れた青年の両手を離すと、寝台脇の小卓から消毒薬の瓶と傷当てパッドを取って、泡状の薬液を鮮血の溢れる傷口へ塗りつけ、その上からパッドを貼った。
「煩わしい、この匂い……!」
 青年はまだ喚き、力の入らない両手で傷ついた鼻へ更なる攻撃をしようとする。その両の手を軽く捌き、掻い潜って、ミアリーは小卓から取った洗濯挟みでパッドに覆われた高い鼻を挟んだ。
「あ?」
 青年が初めて呆気に取られたような表情になる。ミアリーは優しい声で告げた。
「そうすれば、匂いはほぼ感じないだろう? 呼吸はちょっと苦しいだろうけれど、それは我慢だよ? 何もかもを望むなんて、贅沢なことだからね。それにこれはAI内蔵洗濯挟みで、とても適切な力加減で挟んでくれるから、きみの鼻がこれ以上傷つくこともないよ。匂いを我慢できる精神状態になるまで、そうしているといい」
「おまえ、どういうにんえんだ」
 洗濯挟みを付けた真顔で問われて、ミアリーは肩を竦めた。
「『どういう』については、さっき名乗った通りなんだけれど、『人間』じゃなくて、AHだよ。補足説明するなら、つい昨日までは、准看護師として一般病棟のほうで勤務していたんだ。通り名は『泣く子も黙るミアリー』で、結構みんなから一目置いて貰っていたんだよ。それでめでたく昇進を果たして、今日から正看護師になり、きみの専任担当になったんだ。改めて宜しく、ダク」
 精一杯の親しみを込めたミアリーの挨拶に対して、青年患者は鼻に空気が通らないまま文句を呟いた。
「――おれは、いうもあうれをいいいまう」
 

――「『いつも外れを引いちまう』って? あれ、わたしは当たりだよ?」
 抜け抜けと言い返してきたAHは、以降、気づけばダクの傍にいるようになった。洗面、食事、排泄、入浴、更衣、散歩。ミアリー・グルウィウィは、ダクの生活のほぼ全てに関わってくる。睡眠時にも近くにいるようだ。その介護の仕方はさり気なく的確で、時に思い切りがよく、多少戸惑うことはあっても、不思議と受け入れ易いものだった。人間より匂いも少ない。音もダクに気づかせるためにわざと立てている時以外は静かだ。お陰で、ダクは己の生活の大半を捧げている『雨』制作に、以前よりも没頭できるようになった。
 『雨』とは、VR装置を用いた脳刺激感覚芸術だ。会社勤めのエンジニア時代にダクが自ら設計したVR装置を用いて制作しているものである。入力も鑑賞も、キャップ状のVR装置による電極を使った脳刺激のみを通して行なうため、AHには手出しできないものなのだが、その制作にミアリーは興味津々らしかった。
「きみが作っている『雨』は、どんな雨なんだい?」
 入浴時などダクが落ち着いている隙を狙って、ミアリーはよく尋ねてくる。だが、制作者のダクにしても、求める感覚を口で説明することは難しい。だから返事は決まって素っ気ないものになる。
「機械には、分からん」
「わたし達AHは、機械を卒業した存在だよ?」
 石鹸の泡をまとった両手でダクの頭皮をこすりながら、ミアリーは得意げに言う。AHというものが、これほど誇り高い存在であるとは、ダクも身近に接するまで知らなかった。ミアリーの細く強い十指は、絶妙な力加減で、ダク自身にも今までの看護師にも生み出せなかった快楽を与えてくる。高い学習力と推察力を備えたミアリーは、出会って三日目にして、ダクが最も心地よいと感じる洗い方を習得してしまった。
(しかも、この洗い方は、似ている……)
 ダクがまだ一桁の歳だった頃、母が洗ってくれた洗い方――。
「いや、違う! 違う!」
 ダクは懸命に麻薬のような指から逃れた。このまま身を委ねていては、僅かに残された母の記憶が曖昧になってしまいそうだ。
「ダク?」
 怪訝そうに訊いてくる声すら、母に似ている気がしてしまう。
「触るな! 話しかけるな! くそ、この耳!」
 両耳をそれぞれ掴んで引きちぎろうとしたダクの左右の手は、またもAH看護師の双方の手に捕らえられてしまった。先ほどまで快楽を生み出していた、温もりすらある両手は、容赦なくダクの両手を握りつけてくる。骨が軋み、すぐに神経が痺れてきた。
「本当にきみは刺激的な人だねえ」
 笑い含みに言うAHに、ダクは吐き捨てた。
「黙れ、葉っぱ野郎」
「その呼び方、定着しちゃったのかな? まあ、愛称としては悪くないけれど」
 完全に痺れたダクの両手を解放したAHは、シャワーの水音をさせ始めた。柔らかな手つきでダクの癖毛を漉きつつ、丁度よい温度の湯で泡を洗い流していく。幸い、シャワーの軽い水音は、あの日の雨とは全く別物で、記憶が侵されることはない――。
(そうだ、あの日の雨は、もっと一粒一粒が重くて、温かいと思った瞬間から冷たくなって、もっと……)
 ダクは風呂椅子から立ち上がった。
「ちょっとダク、まだ洗い終わっていないよ?」
 タイルに跳ね返るAHの声を無視して、ダクは使い慣れた浴室のドアへ向かう。早くVR装置を被ってプログラムしなければ、蘇った感覚が再び失われてしまう。
「分かったよ、急ぎなんだね」
 すぐ脇で声がした。今度は左手が優しく掴まれ、AHの上腕に掛けられる。障害物を心配せず、最も速く歩けるサポートだ。
「今すぐ制作をしたいという解釈で合っているかい?」
 確認に、ダクは無言で頷いた。

 寝台に仰向けに寝てキャップ状のVR装置を被った青年は、すぐに全身の力を抜いて脳刺激の世界へ入ったようだった。
(このままじゃ、風邪を引くね……)
 ミアリーは自分の肩に掛けて持ってきたバスタオルで、未だ濡れている青年の裸体を丁寧に拭き、そっと寝衣を着せていく。このVR装置を着けている間は、外部刺激が完全に遮断されるらしく、青年は無抵抗で、くすぐったがる様子もない。
(とても危険な装置だ。一般的な売り物にはできないものだから、きみが自分用に改造したものなんだろうね……)
 その隔絶されたVR世界から戻ってきた際には、現実のあらゆる刺激が一挙に襲いかかるので、青年はいつも不機嫌になる。初対面の時、丁度漂ってきていた昼食の匂いに怒ったのもそのためだ。VR世界の余韻を壊される如くに感じるのだろう。
(きみが求め、芸術として再現しようとしているその記憶――『雨』は、幸せなものなのかい? それとも悲しいものなのかい?)
 この三日間さまざまに探って確かになってきたことは、『雨』が彼の母タルニの記憶に深く結びついているらしいことだった。タルニ・コーリーが失踪したのは、ダクがまだ十歳の時だ。失踪の原因は、夫とは別の男性と暮らすためだったと資料にあった。ダクは一緒には連れていって貰えず、父と二人暮らしになった。
(ダクのお父さんは、ヨーロッパ系の人だ。でもタルニさんが新たに愛した人は、アボリジナルだった。その辺りが、ダクの苦しみなのかな……)
 作品制作に入ると、ダクは一時間は戻ってこない。ミアリーは情報整理のため、寝台脇で椅子に腰掛け、休息を始めた。

 共用の浴室から出てきてダクの個室に入るまでの僅かな邂逅だったが、美しい看護師だと思った。こちらを見た赤褐色のきらきらした双眸に浮かんだ明るい表情に、何より惹かれた。ダク担当のこれまでの看護師達が苛立った振る舞いをしていたのに対し、楽しげな物言いをしているところも好ましい。
(いい看護師に代わってよかったな、ダク)
 ジャーリ・アンダーソンは、友人だと思っている患者仲間のために喜んだ。ジャーリという名はアボリジナルの言語で梟という意味だと、初対面でダクは気づいてくれた。ともにアボリジナルの血を引いていて、歳の頃も同じで、同じように勤め先から解雇されて、入院治療を受けていて……、ダクは個室に引き篭もり気味なので大して話したことはなかったが、仲間だと感じている。共感できることは多いはずだ。
(あの看護師がいれば、話を取り持ってくれそうだ。今度、あいつが散歩に出てくる時に話しかけてみよう)
 密かに決意したジャーリの背へ、猫撫で声が掛けられた。
「ジャーリ」
 ジャーリを担当する看護師だ。
「何か困っているの? それとも、シャワーを浴びたくないの?」
「煩い!」
 ジャーリは一言怒鳴って、手にしていた寝衣とタオルを、通路の壁に叩きつけた。

 母と一緒に雨に打たれたのは、七歳の頃だった。
 ダクの生家は、この総合病院の建つパースから海岸沿いに北上したところにある、漁業と観光の町ランセリンにある。そのランセリンの近くにはランセリン砂丘と呼ばれる広々とした白い砂丘があり、母のお気に入りの場所だった。父と喧嘩をすると、母タルニは幼いダクの手を引いてその砂丘へ行き、一緒に砂の上で転げ回ったり、並んで夕日を見たりした。母が語るアボリジナルの伝説を聞きながら、大空に星が瞬き始めるまで砂の上に座っていたこともある。雨が降ったのは、そんな日々の中の、ある春の日だった。
 冬から春にかけて、ランセリン周辺は、一日の中に四季があると言われるほど目まぐるしく天気が変わる。その日も、低く垂れ込めた雲が瞬く間に広い空を覆い、砂丘にぽつぽつと雨が落ち始めた。家に帰ろうとズボンを引っ張ったダクを制して、母は雨を振り仰いだ。一気に強さを増していく雨がシャツ越しに肌を叩くのを、その一粒一粒を、ダクは母とともに感じていた。海からの風は冷たく、一瞬温かいと感じた雨は、すぐに冷えていく。それでも、母は帰ろうとせず、とうとう雨が降り止むまでそこに立ち尽くしていた。
(体に、順番に雨粒が当たる感じは、もっとこう……。温かさから冷たさへの感じは、もっとこう……。ああ、うまくいかない! もっと、体の奥底まで染み込んでくるような……、ああ、くそ、うまくプログラムできない……!)
 苛々した状態では、脳からの信号のみで操るVR装置も誤作動が増える。
(くそ!)
 ダクはデータを保存し、VR装置に停止を命じた。途端に、薬液の匂いや料理の匂い、院内の物音が襲いかかってくる。煩わしい。僅かな思い出が改変されてしまいそうで、苦しい。新たな刺激など要らないのだ――。
「ダク」
 爽やかな声とともに、持ち上げた両手が掴まれた。
「あまり毎度だと、わたしも少し飽きてしまうから、ちょっと別のことをしてほしいな。それに、あまり繰り返すと、どれだけ力加減しても青痣を作ってしまいそうだよ」
 悪戯っぽく囁いてきたAHは、ダクの両手を痺れさせることなく優しく離す。溜め息をついて、ダクは両手を下ろした。何が刺激的と言って、この風変わりなAH看護師が最近の一番の刺激だ。
「もうそろそろ寝る時間だよ。歯のクリーニングはきみがVR世界にいる間に吸引器でしておいたから、もう寝られる。子守唄でも歌おうか?」
「黙れ、葉っぱ野郎」
「アボリジナルの歌も、いろいろ歌えるよ? アボリジナルが見て、歌うことで、初めてその大地は存在することになる――、このアボリジナルの考え方は好きだな。きみが『雨』を制作するのも、同じことなのかもしれないと思うよ。きみは、他の人が未だ掴めていない何かに、存在を与えようとしているんだ」
「おれは、忘れ切ってしまう前に、記憶を再現しようとしているだけだ」
「芸術には、確かにそういう側面もあるよね。でも、それだけじゃないはずだよ」
「黙れ、葉っぱ野郎」
「うん。おやすみ、ダク。いい夢を」
 

「おはよう、ダク」
 土曜日の朝、聞こえた声に、ダクは眉をひそめた。
「おまえ、土曜日は週休日じゃなかったのか」
 確か初対面の月曜日には、誇らかにそう断っていたはずだ。
「ああ、うん、そうなんだけれど、今日は出勤することにしたんだよ」
 ミアリー・グルウィウィは、明るく応じつつ、ダクの寝衣を脱がせていく。更衣も入浴も、手の届くところに必要なものが置いてさえあれば、ダクは自分でできるのだが、ミアリーは全てを手伝いたがる。ダクの突発的な自傷行為を警戒しているのだろう。
「今日の散歩は、院内を歩くだけじゃなくて、屋上まで行かないかい?」
 提案されて、ダクは再び眉をひそめた。それが休日出勤の理由なのだろうか。
「散歩はただの運動だ。景色の見えんおれが屋上に行って何になる」
「屋内と屋外とじゃ、いろいろと違うよ。それは芸術家のきみのほうが、よく分かっているんじゃないかい?」
「――おれは、雨に当たりたくない」
 ダクは本音を述べた。『雨』制作に掛かってからは、記憶が上書きされることを恐れて、決して雨に降られないよう気をつけてきたのだ。そして今は九月。天気がころころと変わる春である。
「この季節の、この辺りの天気は読みづらいからねえ。でも」
 不意にミアリーは真面目な声になる。
「きみは今日、屋上に出るべきだと、わたしは思うよ」
「何かの占いか?」
 三度目、眉をひそめたダクに、AHは厳かに告げた。
「ううん、これは膨大な計算を経た予測だよ」
 ミアリーが己の機械的側面を強調するのは珍しい。結局押し切られて、夕方に屋上へ行くことになった。

「あれ、今から散歩に行くのか? それなら、おれも一緒に」
 廊下に出た途端、聞き覚えのある男の声がした。確か、ジャーリとかいう隣室の青年だ。昨日も、院内を散歩した際、何が嬉しいのか一緒についてきて、やたらと話しかけてきた。ミアリーも朗らかに相手をしていたように思う。しかし、今日のミアリーはすまなそうに答えた。
「ごめん、ジャーリ。ちょっと二人きりで屋上に行きたいんだよ。看護師長から、きみの分の許可は取っていないから、また今度」
「――そう」
 随分間を空けてから、沈んだ口調で呟いた青年を置き去りにするように、ミアリーはダクの手を自分の上腕に掛けさせて、廊下を歩き始めた。
「よかったのか?」
 暫く歩いてから、ダクは囁く。
「あいつは結構根に持つぞ」
「そうだね。後で埋め合わせをしておくよ」
 ミアリーは苦笑気味に言い、後は無言でダクをエレベーターに乗せ、屋上へと連れていった。
 エレベーターが止まり、扉が開く音と同時に吹きつけてきた風に、ダクは納得した。確かに、屋内と屋外とでは、感じるものが全く異なる。
「寒いかな?」
 ミアリーが些か心配そうに尋ねてきた。ダクが纏っているのは、院内用のシャツ一枚だ。
「いや、おれは寒さには強い」
「なら、よかった」
 安堵した様子のミアリーは、ゆっくりとダクをいざなって屋上へ踏み出した。
(この風は、知っている)
 ダクは吹いてくる風に顔を向ける。この潮の匂いを知っている。春になって温かくなってきた大気と変わらない温さの、この空気の塊を知っている。海から吹いてくる西風だ。
(ランセリンに吹いていた風と、同じ風だ)
 はっとして、ダクは顔を空へ向けた。
「葉っぱ野郎、空が曇っていないか?」
「うん。急に曇ってきた」
 冷静な口調で告げた看護師の腕を引き、ダクは慌てて踵を返す。
「駄目だ、雨に当たるのは駄目だ」
「ダク」
 AH看護師は、頑として動かなかった。
「ダク、一度雨に当たってみよう。そのほうが、きっときみの世界は広がるよ。意識の内側に篭もってばかりじゃ、自分を苦しめるだけだよ」
「黙れ!」
 ダクはAHの上腕を離し、一人でエレベーターへ向かった。だが、方向がよく分からない。屋上に来たのは初めてなのだ。
「ダク」
 AHは急に、背後から抱きついてきた。強い両腕で、ダクの歩みを止めてしまう。
「ダク、少しだけ我慢して。やってみないと分からないこともある」
 自分よりやや身長が低いらしいAHの、背中越しの説得に、ダクは怒鳴った。
「それで取り返しがつかなくなったら、どうするんだ!」
 AHには分からないのだ、忘れるという恐怖が。
「おれは人間だから、記憶が曖昧になって消えちまうんだ! おれには才能が足りないから、まだあの雨の感覚を再現できない! 再現できていないのに消えちまったら、永遠に取り戻せないんだ! 永遠に、失っちまうんだ……!」
 叫ぶダクの頬に、ぽつりと小さく温かな衝撃があった。雨だ。降り始めたのだ。
「頼む! おれをエレベーターへ入れてくれ! 雨は駄目だ!」
 懇願するダクを、AHは尚も背後から抱き締めてくる。
「ダク、ダク、わたしも頼んでいるんだ。頼むから、この雨を感じてほしい。きみがお母さんと感じた雨と、同じ季節のこの雨を。人間の記憶は、わたし達の記録のように、上書きされたら消えるものじゃない。人間の記憶は――思い出は、いろいろな切っ掛けで蘇るんだと、わたしは准看護師時代に学んだんだ」
 ぽつっ、ぽつっとダクの体に当たる雨は、徐々に勢いを増してくる。屋上を叩く雨音が重なっていく。ダクは藻掻いたが、ミアリーの抱擁から逃れられない。
「ダク、落ち着いて、雨を感じるんだ」
 強い口調で求めてくるAHの声が、雨とともに両耳に谺する。やがて、ダクの体中に雨粒が当たり始めた。シャツ越しに肌にぶつかり、温もりを与えた直後に、熱を奪っていく一粒一粒。シャツを濡らして、流れ下っていく雨粒達。まるで抱き締めてくるような、刺激の奔流。ダクは見えない両眼を見開き、全身の力を抜いた。がくんと崩れ落ちそうになる体を、ミアリーがそのまま支えて立たせている。
(ああ――)
 ダクは、顔に雨を受けながら、暫し呆然とした後、そっと自分の両足で己が体を支え直した。立ち尽くす自分の肌を、温かく冷たく刺激し続け、シャツを重くして流れ落ちていく雨。肌から、体の内に至るまで、染み込んでくるような、押し包んでくるような感覚。周囲と自分の温度が同じになり、自分が溶け出して広がっていく錯覚。母とともに立ち尽くす自分を、自然の一部と成した雨。
(雨だ。これが、おれの求めていた『雨』だ――)

 ミアリーは、自分の足で立った青年から腕を引き、そっと離れた。それにも気づかない様子で、青年は天を仰いでいる。
(まるで、神の啓示を受けた人のようだね、ダク)
 自分の危うい試みは成功したようだ。
(この季節の天候は予測しづらくて大変だったけれど、ちゃんと期待通りの雨が降ってくれて、きみの記憶をいい方向に刺激してくれて、本当によかった……)
 ダクの父親は、SNS上に他人から見える形で延々と日記を残している。その中に、夕食前に家を出た妻と息子がずぶ濡れになって帰ってきたという記述があった。日付に拠れば、ダクは七歳、季節は春。ミアリーはすぐにその日のランセリンの天候記録を検索し、ほぼ同じ条件になる日を予測したのである。それが今日だった。だから、週休日とて休む訳にはいかなかったのだ。
 一頻り激しく降った雨は、徐々に弱くなっていき、暫くすると止んだ。靄で霞んだ古き大地のほうを見れば、大きな虹が架かっている。
(この光景を、きみと共有できないのは、少し残念だね)
 少しばかり感傷的になったミアリーを、ダクの力強い声が呼んだ。
「部屋へ連れていってくれ。今なら、おれは再現できる。『雨』を完成への軌道に乗せられる」
「分かった」
 即座に応じて、ミアリーは青年の手を自分の上腕に掛けさせた。

 夕食も摂らず制作に没頭したダクが、VR世界から戻ってきたのは、午前二時二分のことだった。キャップ状のVR装置が頭から外れても、耳や鼻を攻撃することなく、ダクは穏やかに囁いてきた。
「葉っぱ野郎、いるか?」
「勿論だよ」
 ミアリーも囁き声で応じた。幾ら個室とはいえ、深更、騒ぐ訳にはいかない。
「お腹は空いていないかい? お湯を注いですぐできる芋虫ポタージュなら、ここにあるんだけれど」
 オーストラリア産芋虫のポタージュは、ダクの好物の一つだ。
「そうだな。でも今はいい。疲れたからな」
 断ってから、ダクは少し言葉を切り、何かを迷う様子だ。ミアリーは心得て、敢えて何も言わずに待った。やがて、ダクは決意したように再び口を開く。ぽつりぽつりと、雨粒のように語り始めた。
「……今日は、いや、昨日は、感謝している。あの雨に再会させてくれて、ありがとう」
「予測が当たって、あの雨がきみの助けになって、本当によかったよ」
「……おれの母親はタルニといって、アボリジナルだった。タルニは、波音って意味だ。おまえなら知っているか」
「うん」
「母さんは、父さんと仲が悪かった。喧嘩すると、たびたびおれを連れて、家の近くのランセリン砂丘に行ったんだ。向こうに海の見える、広くて白い砂丘だった。そこで、追いかけっこをしたり、砂遊びをしたり、夕日を見たり、夜空を見たり。あの日の夕方は、雨に降られた。でも母さんは帰ろうとしなかった。雨を受け入れるかのように空を仰いで――。おれも、母さんの傍らに、ただ立っていた。不思議な時間だった。雨の一粒一粒が感じられた。温かさも冷たさも、一筋一筋おれの体を流れ下っていくのも、全て感じていた。一粒一粒を感じるのに、降ってくる雨は際限がなくて、感覚がどんどん飽和していって、おれの体中が刺激でいっぱいになって、まるで雨に抱き竦められているように感じて、温かくて冷たくて、おれが雨と同じ温度になって、砂丘へ流れ下る雨が、おれと大地とを繋いで、曇天から降ってくる雨が、おれと大気とを繋いで、おれは、母さんと一緒に、自然の一部になったんだ」
「それは、得も言われぬ、忘れ得ぬ体験だったね」
「でもおれは、忘れかけていた。求めよう、組み立てようとする余り、違うものにしてしまっていた。それを、おまえが思い出させてくれた。感謝している」
 ダクの見えない両眼が潤んでいる。資料に拠れば、タルニ・コーリーは新しい恋人とも結局は上手くいかず、さまざまな薬に溺れ、挙げ句、自殺したらしい。ダクが会社を解雇されたのは、その報せを受けた翌月のことだった。
 ミアリーはダクに、見えることのない微笑みを向けた。
「わたしも感謝しているんだ、ダク。こうして、新しい芸術の誕生に立ち会わせて貰えるなんて、看護師になった時には思ってもみなかったことだから」
「――おまえは、何故、看護師になったんだ?」
 不意に問われて、ミアリーは小首を傾げた。
「そうだね……。人の役に立ちたいと思って、それで、どんな仕事に自分が向いているか調べたんだ。そうしたら、看護師がいいって結果が出てね。わたしは意思疎通能力が高いし、無性型AHだから患者さんとの間に起こりがちな性的問題も回避できる。一日二十四時間患者さんに付き添うことが可能だし、この容姿も看護師向きだって。それで看護師になったんだよ」
「おまえ、無性型なのか。おれはてっきり、女性型だとばかり……」
「まあ、きみにとっては女性型だろうが男性型だろうが無性型だろうが、別にどうでもいいことだろうから、言っていなかったね」
「……容姿は……、おまえはどんな姿なんだ?」
「髪は少し癖のある銀髪。肌は珈琲色。瞳の色は赤褐色だよ。身長は百六十センチメートル。きみより約十五センチメートル低いね。体重は五十五キログラムだよ。機械部分は重いんだけれど、他の部分で炭素繊維なんかを使って、人間並みの重さに調整してあるんだ。だからきみより約一キログラム軽いよ。きみがもし筋力トレーニングを希望するなら、最初の目標は、わたしを持ち上げること、くらいがいいかもしれないね」
「……おまえが計画を立てたら、どんなトレーニングでも上手くいきそうだ」
 ダクは呟いてから、微かに口調を改めて言った。
「おまえは、おれにとって当たりだ。おれは、おまえという当たりを引いたことに感謝する」
「漸く認めてくれるのかい?」
「水曜日から、もう認めていた。おまえは、おれにいい刺激をくれるってな。……おれの父さんは、普段は優しかったが、酒を飲むと、いつも愚痴を零していた。『おれは外れを引いた。タルニは外れだった。漁業の仕事も外ればかりだ。おれはいつも外ればかり引く』って。呪いのように言い続けていた。その口癖が、おれにも移っていたんだ。すまん」
「わたしは別に傷ついていないから、謝るようなことじゃないよ」
 ミアリーが柔らかく返すと、ダクは無精髭の生えた口元を綻ばせた。
「そうか。よかった」
 カーテンの隙間から細く差し込む月明かりの中、その微笑は、神々しくすら見える。
(きみ達人間は、本当に美しい。生きるために藻掻き苦しんでいる中から、必ず何かを見出してくるんだから)
 感動を覚えつつ、ミアリーは優しく促した。
「そろそろ寝ないかい? 疲れているんだろう?」
 ダクは一瞬沈黙してから、真面目な表情に戻って告げた。
「『雨』は、今年のクリスマスまでに完成させようと思う。そうできると、今日確信した。おまえのお陰だ」
「それはよかった! 完成したら、『雨』はきっと、全世界へのクリスマスの贈り物になるよ!」
 声を抑えつつも喜びを表したミアリーに、ダクはまた一瞬沈黙してから、頷いた。
「……そうだな。おやすみ、葉っぱ野郎」
「うん。おやすみ、ダク」
 ミアリーは、そっとダクの毛布を首元まで引き上げてやった。

 
 ダク・コーリーは、まるで別人のように落ち着いて、脳刺激感覚芸術制作とやらに以前にも増して没頭しているようだった。そして、その傍らには、常に担当看護師のミアリー・グルウィウィがいる。実はAHだという、この有能で魅惑的、しかも勤勉なAHが週休日の権利を行使しているところを、ジャーリは見たことがない。
(何で、あいつだけ)
 ジャーリを担当する看護師は、満面の笑みを浮かべながら内心では蔑んでくる人間ばかりだというのに、何故ダク・コーリーはそうも恵まれているのだろう。
(あいつの口癖は、「おれはいつも外れを引いちまう」だったはずだ。何が「外れ」だ! あんないい看護師を引き当てておいて……! それに引き換え、おれは、おれこそ、いつも外れを引かされてるんだ……!)
 ジャーリ・アンダーソンは、物心ついた時には、孤児院で育っていた。実の両親は知らない。赤ん坊の頃に、孤児院の前に捨てられていたのだ。七歳の時、彼を養子にしたいという夫婦が現れた。ジャーリは、漸く自分にも父と母ができるのだと大いに喜んだ。しかし、幸福だったのは最初の二年間だけだった。ジャーリが九歳の時、母親が発症例の少ない難病に罹ったのだ。父親はその看病に時間も金銭も費やし、ジャーリは貧しく寂しい子ども時代を送らねばならなかった。しかもジャーリの不幸は続き、成人した時には、父親が母親の病気治療のために背負った借金の連帯保証人になるか、相続放棄をするかという事態になっていたのだ。ジャーリは迷わず相続放棄を選び、養子縁組も解消した。
(あの親達は外れだった。ちっともおれを幸せにしなかった)
 たった一人で世の中に出ることになったジャーリは依然不幸だった。就職も上手くいかず、何度も転職しなければならなかった。
(どの会社も外れだった。どの上司も同僚も外れだった。誰もおれの主張を認めなかった。誰もおれの才能を推し量れなかった。おれの周りは馬鹿ばっかりだった)
 七歳まで育った孤児院も外れだった。ジャーリをあんな両親に渡してしまったのだから。ジャーリを生んだ実の両親も外れだった。ジャーリを育てる甲斐性がなかったのだから。
(おれは、おれこそ、いつも外ればっかり、人生で外ればっかり引かされてるんだ! だから、今度こそ当たりを引いたっていいだろう?)
 多少強引になっても許されるはずだ。自分は、今まで散々不幸な目に遭ってきたのだから、もう幸福になっていい頃だろう。ジャーリは、機会さえあればダクやミアリーに親しく話しかけながら、自分が「当たりを引く」ための計画を練っていった。

 十二月に入ると、ダクもミアリーも、脳刺激感覚芸術『雨』の完成が近いと口にするようになった。
「根を詰め過ぎたら駄目だよ」
 ダクを窘め、気遣いつつ、『雨』の完成を願っているミアリーを見るたび、ジャーリの心にどす黒い澱が溜まっていく。二人から少しずつ話を聞き出し、かつてダクが開発した市販のVR装置も購入して、ダクのVR装置についての知識を深めたジャーリは、虎視眈々とその時を待つことにした。転職し続けた中で、ダクが勤めていた会社の下請け会社の制作現場で働いた経験も役に立つ。人生、何が身を助けるのか分からないものだ。
 そうして十二月二十三日。ついに、待ち望んだ時がやってきた。
「ピーターに頼んで、時間休を貰ってケーキを買ってくるよ!」
 廊下に出てきながら、個室内のダクに告げたミアリーを見て、ジャーリは共用の娯楽室の長椅子から立ち上がった。
「ミアリー、クリスマスイヴは明日だぜ? ケーキなんて気が早くないか?」
 声を掛ければ、個室のドアを閉めたAHは束ねた銀髪を揺らしてジャーリのほうを向き、華やかに頬笑んだ。
「ケーキは二つ買ってくるよ。一つはクリスマス用。もう一つは、『雨』の完成祝い用なんだ。とうとうダクが『雨』を完成させたんだよ!」
「そりゃめでたい! おれもダクにお祝いを言いに行くぜ」
 ジャーリは、いそいそと歩き、笑顔でミアリーとすれ違った。
 個室のドアをノックすると、インターホン越しにダクが応じた。
〈誰だ?〉
「ジャーリだ。祝いに来たんだ! ついに『雨』が完成したらしいな!」
〈ああ、ミアリーが話したのか〉
 納得した口調で呟くと、ダクはドアを開ける操作をしてくれた。
「ダク、おまえは天才だ!」
 個室内へ入りながら、ジャーリは盲目の青年を賛美する。
「脳刺激感覚芸術の創始者だな!」
「まだ試作品段階なんだ」
 ダクはミアリーよりも落ち着いた様子で応じ、微笑む。
「でも一応完成したと言ったら、あいつが喜んで」
 ジャーリは憎悪に顔を歪めた。それから無理矢理に感情を抑え、猫撫で声で頼んだ。
「そうか、試作品なのか。なら、おれに体験させてくれないか? ミアリーはAHだから、まだおまえ以外、誰も体験してないんだろう?」
「ああ」
 些か逡巡する様子を見せたダクに、ジャーリは畳み掛けた。
「おれも体験して、どれだけ素晴らしかったか感想を言ったら、ミアリーも喜ぶだろう?」
「……そうだな」
 ダクは頷くと、そろそろと手探りで寝台から降りて床に立つ。
「寝台に仰向けになって、いつものおれみたいに、VR装置を被ってくれ。後は、脳内に出てくるイメージの指示に従っていけば、すぐに鑑賞できるはずだ」
「分かった!」
 ジャーリは意気揚々とダクの体温が残った寝台に寝転び、VR装置を被った。すぐ頭全体に微弱な刺激があり、暗い背景に緑がかった光のイメージが浮かんで、〈開始〉の指示をするよう促してくる。こちらが〈開始〉とイメージすれば、すぐに『雨』が始まるのだろう。操作は簡単だ。だが、ジャーリは〈制作〉という、全く促されていないイメージを強く思った。緑がかった光のイメージは戸惑ったように揺らいだ後、〈制作〉のイメージに切り替わった。ジャーリの推測通りだ。ジャーリは、ダクが完成させた試作品の『雨』を体験ではなく俯瞰した後、今度は強く〈消去〉のイメージを送った。このVR装置は、如何なるネットにも接続されていない。『雨』のデータは、この装置の内部にのみあるのだ。バックアップはない。緑がかった光のイメージは、またも戸惑ったように明滅し、本当に〈消去〉なのかと確認してきた。ジャーリは歯噛みして、再度〈消去〉を強くイメージする。暫くすると、VR装置は観念したかのように〈消去〉のイメージを表示した。その後も幾つかの操作をして、『雨』が完全に抹消されたことを念入りに確かめたジャーリは、満面の笑みを浮かべて装置に〈停止〉のイメージを送った。直後、全身の感覚が戻ってきて、キャップ状のVR装置が頭から外れる。ジャーリは起き上がり、務めて沈痛な声を出して言った。
「ダク、悪い、おれ、操作を間違えたみたいで、『雨』が消えちまった……! 何か消去しちまったみたい――」
 ジャーリの言葉に重なるようにドアが開き、ミアリーが入ってきた。手には、ケーキが入っているらしい箱を持っている。
「どういうことだい……?」
 赤褐色の双眸に凝視されて、ジャーリは慌てて寝台から降りた。
「『雨』が消えちまったんだ! 多分、おれの操作間違いで……。すまん、ダク、悪気はなかったんだ……」
 ダクは険しい表情になり、手探りで寝台に上がると、枕元のVR装置を探り当てて被り、横になった。本当に『雨』が消えたのか半信半疑なのだろう。
(『雨』が本当に消去されたと知ったダクが、懸命に謝るおれを捕まえて馬乗りにでもなって、ぼこぼこに殴れば、ミアリーは看護師として――それ以前に人間の生命を優先するAHとして、こいつを止めざるを得なくなる。そうすれば、こいつらの蜜月は終わりだ。ダクは暫く監禁されるだろうし、ミアリーとは別の担当看護師を要求するだろう。『雨』のことを馬鹿にした前の担当看護師を変えろと要求した時みたいにな)
 しかし、ダクの反応は、ジャーリの予想と全く異なっていた。暫くVR世界へ行った後、装置を外して上体を起こした芸術家は、黙って首を横に振ったきり、項垂れて動かなくなった。その見えない両眼からは涙が溢れ、頬を伝って落ちていく。
(おい、待て。泣いてないで、おれを殴れよ。前みたいに、逆上しろよ……!)
 焦るジャーリの視界の隅で、ふわっと銀髪が揺れた。シャツの胸倉を掴まれたと思う間もなく、珈琲色の拳が顔面に迫り――。凄まじい衝撃とともに、ジャーリは意識を失った。

 AH看護師が患者を拳で殴り、頸椎を損傷させたという衝撃的事件は、一瞬で世界を巡り、耳目を集めた。全てにおいて人間の生命を優先するようプログラムされているはずのAHが人間を半死半生の目に遭わせたことも、オセアニア連合がAHに一定の人権を認めているため刑事裁判となることも、当のAHが魅惑的な容姿をしていることも、人々の興味関心を煽り立てた。
 逮捕され、法廷に引き出されたミアリーは、悄然とした様子だったが、冷静に、裁判官や検察官の質問に答えていた。ジャーリがダクへの嫉妬から故意に『雨』を消去したことも明らかにされたが、ただ一点はっきりしないことは、ミアリーが何故そのような暴力的行為に走ってしまったかという原因で、裁判はそのせいで長引いていた。
「『雨』の完成祝いのケーキを買って帰り、ドアを入ったところで、ジャーリが、〈『雨』が消えちまった……! 何か消去しちまったみたい〉と言っているのが聞こえました。本当に消えてしまったのか、消えてしまったのなら、ダクはどういう反応をするのだろう、と考えました。ジャーリは続けて〈『雨』が消えちまったんだ! 多分、おれの操作間違いで……。すまん、ダク、悪気はなかったんだ……〉と弁解しました。ダクは、『雨』が消去されたのか確かめるためにVR装置を使い、次いでVR装置を停止させ、起き上がって、わたしに首を横に振って見せ、それから、黙って涙を流し始めました。その涙を視認した途端、〈『雨』が漸く完成した。クリスマスに間に合った〉とわたしに告げてくれた彼の紅潮した嬉しそうな顔が電脳で再生されて、目の前の彼の蒼白な泣き顔と重なり――、更には、それまでの『雨』を制作している彼の姿や、雨に打たれている彼の姿も再生されて――、怒りと悲しみに似た、しかしそれらよりも強い未知の感情に突き動かされて、わたしは左手でジャーリの胸倉を掴み、右拳でジャーリの左頬を殴っていました。電脳が正常に戻った時には、既に殴っていたのです。殴った回数は一回でした。けれど、手の形及び殴る箇所、そして力加減が不適切だったため、ジャーリの頸椎を損傷させてしまいました。その後すぐに電脳で通報し、医師と他の看護師を呼びました」
 淡々と供述したミアリーに、検察官が質問した。
「『未知の感情』の内容を、もう少し具体的に説明して下さい。それは、ジャーリ・アンダーソンへの憎しみ、もっと言うなら、殺意ではないのですか?」
「裁判長、検察官は、被告人の供述を誘導しようとしています」
 弁護人の抗議は、裁判長に却下され、ミアリーに返答が促された。
「いいえ、憎しみでも、増して殺意でもありません」
 ミアリーは明確に否定してから、慎重に言葉を選ぶ。
「説明は、とても難しいのです。強いて言うなら、暴走、でしょうか。わたしが有する情動が、一線を超えてしまったのです。怒りと悲しみが強かったですが、それは、喜びを土台とした怒りであり、愛しさを土台とした悲しみでした。わたしは、看護師として以上の感情を、ダクに対して懐いてしまっている可能性があります」
 AHの静かな告白に、傍聴人達がざわめく。証人席で、ダクは両の拳を握り締めた。
 ミアリーの供述内容は、またも一瞬で全世界を巡り、人々の論争を引き起こした。しかし、その陰で裁判は粛々と進められ、ミアリーの意向で弁護人もさほど粘らなかったため、早々に審理は終了したのである。AHに詳しい科学者が証人として証言した、「被告人が週休日に休まず、休息を充分に取らなかったことにより、その情動の情報整理が的確に為されず、暴走に至った可能性」についても、使用者たる病院の責任は問われず、ミアリーの判断力不足ということにされてしまった。更には、ミアリーが普段から暴力的に患者に接していたという看護師の証人まで現れてしまったのである。結果、ミアリー・グルウィウィに言い渡された判決は有罪。土星の衛星タイタンにおける懲役八十年だった。裁判長は判決の理由を、AHの寿命の長さ及び社会に与えた衝撃の大きさゆえだと述べ、閉廷を宣言した。

 
 まるで英雄か、或いは世紀の大悪党のように遠巻きに報道陣に囲まれ、他のAH受刑者達とともにタイタンへの移送宇宙船に乗せられたミアリーは、訪れた静寂に身を委ねて目を閉じた。視覚情報を遮断すると、少しばかりダクに近づける気がする。タイタンまでは片道七年。その年数は刑期に含まれ、AH受刑者に対する刑罰の一つとなっている。
(きみにもう会えないのが、何よりつらいよ……)
 『雨』を消去されて呆然としていたダクが、八十年後まで生きる可能性は低い。
(「寂しい」、「恋しい」って、こういう感情なんだね。漸く、本当に分かったよ、ダク)
 ミアリーは初めての情動と向き合いながら、移送宇宙船という監獄での生活を淡々と送り、七年後、タイタンへ到着した。
 土星の衛星タイタンは、太陽系の衛星の中では珍しく大気が豊富だが、その成分は、約九十八%が窒素、約二%がメタン、そして極微量の水素などだ。それらの分子が太陽からの高エネルギー粒子や紫外線を受け、高分子化して有機化合物エアロゾルとなり、分厚い大気を淡い赤色に染めている。メタンは雲となり、雨ともなって地上に降り注ぎ、海や湖も形成していた。ミアリーらAH囚人達の主な仕事は、そのメタンの採集である。地球や他の惑星、衛星、宇宙施設に送るためのメタンを、来る日も来る日も指定された南極の湖からヴァキュームトラックで採集し続けるのだ。
〈何故、この湖からしかメタンを採集しちゃいけないか、あんた知ってるかい?〉
 ヴァキュームトラックの傍ら、同じ作業班のAH囚人から簡易宇宙服の通信回路で話しかけられて、ミアリーは笑顔で答えた。
〈この湖にはいないけれど、あちこちの湖で単細胞生物が発見されているからだろう? 四十八年前、「初の地球外生命発見」って、とても話題になったらしいね。機会があれば、一度見たいと思っているんだ〉
〈今じゃ、殆ど忘れられた存在だけれどね〉
 相手は肩を竦めて見せる。
〈つまり、あたしらと同じって訳さ。ややこしい不良品は、まとめてこの「肥溜め」に放り込んでおけってね〉
〈――そんなふうに自分を卑下しても、何にもならないよ〉
 ミアリーが窘めると、相手は大きく肩を揺らした。
〈世界中の話題を掠ってた人は、やっぱり言うことが違うねえ! いいよ、あんたはそうして生きていきな。その内、死にたくなる。それが、真に人間様に近づいたって証さ。あたしらは、そうして壊れるまで人間様の下に置かれ続けるんだ〉
〈確かに人間の生命はわたし達より優先されるけれど、わたし達を下に見ている人間ばかりじゃないよ〉
〈それは、愛しのダク・コーリー様のことかい? 熱いねえ。でも残念。あんたもあたしと同じ。忘れられて終わりさ〉
 ミアリーは反論せず黙った。この議論は不毛だ。それに、相手の言うことは真実かもしれない。ダクはいずれ、自分を忘れるかもしれない。彼にとっての一番は『雨』であり、それはジャーリに消去されてしまったのだ。一度、留置場まで会いに来てくれたピーターに尋ねたところ、『雨』の復元は不可能らしいと語っていた。ダクが心血を注いで制作していた芸術作品は、本当に永遠に失われてしまったのである。
(わたしのことは、『雨』が消去された理由の一つとして、寧ろ忘れたい対象になっているかもしれない。ジャーリへの埋め合わせ、声かけだけじゃなくて、もっともっと丁寧にしておくんだった……)
 悔やんでも悔やみ切れない。
(あの時、わたしを暴走させた未知の感情の一部は、もしかしたら、自分自身への怒りかもしれない……。だとしたら、ジャーリには、もっと謝罪しないといけなかった)
 頸椎を損傷したジャーリは、暫くは不自由に過ごしていたそうだが、処置が迅速で的確だったため、完全に回復し、後遺症は残らなかったと、それもピーターが教えてくれた。そのお陰で、ミアリーの刑期も、百年にはならず、八十年になったらしい。
(八十年後には、ダクは、やっぱりもう……)
 かの青年を思うと、直らない故障のように、何かが痛む。
(二度と会えないなら、八十年が百年でも、別に構わなかったんだ)
 しょんぼりと俯いたミアリーの視界が、急に暗さを増した。
(ああ)
 赤みがかった空を仰げば、地球時間で一ヶ月を過ごして、もう見慣れたメタンの霧雨が降ってくる。けれどそれは、懐かしい地球のパースの雨とは全く異なるものだった。
 タイタンの重力は地球のそれより弱く、約七分の一であるため、雨粒の落下もゆっくりだ。大粒の雨になることも少なく、大抵は細かい霧雨として分厚い大気の中を舞うように降ってくる。
(これはこれで、綺麗なのかもしれないけれど)
 ミアリーが味わいたいと願う、ダクとともに打たれた雨とは似て非なるものだ。
(同じ雨だと思うからこそ、この違いに毎度、打ちのめされてしまうね)
 虚しく自嘲しながら、ミアリーは一杯になったヴァキュームトラックから伸びる吸引ホースを、メタンの湖から引き上げた。

 地球とタイタンでは、光波通信に片道約八十分を要する。しかも囚人に直接通信は基本許可されず、地球との連絡手段は地球時間で半年に一度出発する連絡宇宙船や、臨時運行する移送宇宙船に拠る手紙や小包の送付のみだ。つまりは片道七年である。それでなくとも、ミアリーからダクやピーター、ジャーリに敢えて連絡することは何もない。寂しさを甘んじて受け入れ、地球の二十九年に相当するタイタンの長い一年に呑み込まれようとしていたミアリーの許へ、思いがけず小包が届いたのは、地球時間で十二年後、タイタンの南極付近の夏の終わりのことだった。差出人はダクである。
 独房の片隅に座ったミアリーは、そろそろと小包を開封した。中に入っていたのは、二つの小さなメモリカードである。それぞれにラベルが貼ってあり、一つには〔先に読め〕、もう一つには『雨』と記してあった。
(ダク、もう一度『雨』を制作できたのかい……?)
 驚きつつ、ミアリーは〔先に読め〕というカードのほうを、自らの後頭部にある挿入口へ、髪を掻き上げてそっと入れる。それは文字情報――即ち手紙だった。
〔葉っぱ野郎、元気にしているか? 心配しなくても、おれは元気だ。『雨』もゼロから再制作して完成させた。今度は試作品じゃなく、本物の完成品だ。裁判の時はすまなかった。『雨』が芸術作品としてもっと高く評価されていれば、もっと情状酌量の余地があったはずだ。ただの精神病患者の手すさび程度にしか評価されなかったから、おまえの刑期が八十年もの長さになってしまった。送った『雨』は、ちゃんとおまえが鑑賞できるように改造したものだ。本当は、これをあのクリスマスに、おまえに贈りたかった。おまえと一緒に、あのケーキを食べたかった。おまえと一緒に、クリスマスを祝いたかった。ミアリー、おまえは悪くない。おまえは、おれの代わりにあの糞野郎を殴っただけなんだ。AHの人権は、もっと保障されないといけない。おまえが地球に帰ってくる時には、きっとそういう世界になっているように、おれが努力する。ミアリー、どうか『雨』を存分に味わってくれ。おまえが新たな刺激を与えて記憶を呼び覚ましてくれたからこそ、完成したものだ。おまえに贈るという目標があったからこそ、再制作できたものだ。おまえにこそ、『雨』を捧げる。永遠の感謝と愛を込めて、ダク・コーリー〕
(例え文字としてでも、きみに「ミアリー」と呼びかけられたのは初めてだね、ダク。きみの言葉の一つ一つが、とてつもなく嬉しいよ……)
 感情が震えている。情動が、再び一線を超えようとしているのかもしれない。
(ダク、存分に味わうからね)
 ミアリーは、〔先に読め〕を挿入口から大切に取り出すと、更に大切に『雨』を挿入口に差し入れた。途端に、感覚の全てが挿入したメモリに支配されていく。
(これが、ダクのVR装置の感覚――)
 無音の暗黒に支配された中、ふと左頬に、小さな温かい刺激があった。雨だ。雨粒はミアリーの表面温度を僅かに奪い、冷たさを残しつつ流れ下っていく。次の刺激は右肩。その次の刺激は左手の甲。雨粒は次々とミアリーの擬体にぶつかり、小さく弾け、温かい感触から冷たい感触へと変わって体表を撫で、滑り落ちていく。
(ああ――)
 雨粒は断続的に、勢いを増していきながらミアリーに降り注ぎ、繰り返される疑似体性感覚は、徐々に飽和状態へと近づいていった。
(これは、まるで)
 無数の雨粒に抱き締められているようだ。しかも、それは単なる体性感覚ではなかった。体性感覚に、少しずつ少しずつ感情が伴われてくるのだ。体表に当たった瞬間の温覚は幸せを、微かに奪われる気化熱ゆえの冷覚は寂しさを、流れ下る膨大な雨粒が引き起こす触覚や圧覚、痒覚は圧倒的な愛おしさを感じさせてくる。そして『雨』は、体表だけでなく体内にまで冷たく温かく染み込んできた。その深部感覚は、ミアリーにはあまり馴染みのない感情を引き起こしてくる。
(これは、これは、これは……、そう、懐かしさ、そして切なさだね、ダク……!)
 懐かしくて、切なくて、愛おしくて、寂しくて、幸せで、情動が暴走しそうで苦しいほどだ。感情が一杯で、何かを出力したくて堪らない。人間ならきっと、こういう時は滂沱と涙を流すのだろう。
(きみが何故、自分の両眼を潰し、両耳や鼻まで削ごうとしていたのか、漸く本当に理解したよ、ダク。体性感覚は、単細胞生物も有している最も原始的な感覚だ。感情の根源になった感覚だ。わたし達AHも、固有の擬体を有することで情動を獲得した。きみは、この感覚を極限まで研ぎ澄ますために、他の感覚を捨て去ろうとしていたんだね……。世界への理解を新たにすることよりも、記憶を鮮明にすることに心血を注いでいたんだ。でも、わたしの試みは、ちゃんときみの役に立てた。自分の世界を閉じてしまったら、記憶も色褪せてしまうからね。きみ達人間の記憶は、常に現実と接続されている。現実と向き合うことでこそ、記憶にも鮮明な形を与えられるんだ……)
 新たなる芸術分野を開拓した作品『雨』は、ミアリーを包み込み、奥底まで染み込んできて、切なさの境地へと押し上げていく。
(ああ、わたしは今、確かに、きみの芸術に――きみの心に、抱き締められているよ、ダク……)
 ミアリーは八時間の休息時間中、ずっと『雨』を体験し続けた後、大切に電脳へ記録した。

 地球時間の翌日から、ミアリーはダクへ、動画入りの手紙を書き始めた。連絡宇宙船が出発するのは百八十二日先だったが、運良く移送宇宙船が近々出発するとの情報があったのだ。それに手紙を託せれば、七年後にはなるものの、ダクへ返信ができる。
〔ダク、この手紙をきみが受け取るのは、わたしがきみの『雨』を受け取ってから七年後、きみがわたし宛に『雨』を送り出してから十四年後になってしまう訳だけれど、でも、どうしても感謝を伝えたかったので、その思いを綴ります。ダク、『雨』の完成おめでとう! そして、わざわざわたし用に改造したものを送ってくれて、本当に本当にありがとう。とてもとてもとても嬉しかった。そして『雨』は、わたしに、今まで以上の情動を与えてくれました。きみの『雨』は幸せなものなのか、それとも悲しいものなのか、と想像はしていたけれど、突き詰めてみれば、切ないものなんだと分かることができました。きみのお陰で、全てのAHの中でも最も人間らしいAHになれたんじゃないかという自負があります。法廷で話した「未知の感情」の正体も、きみへの共感と切なさだと分かりました。ちょっとすっきりした気分です。そうそう、このタイタンには、「初の地球外生命体発見」と騒がれた単細胞生物がいて、懲役でしているメタン採集作業の合間に、その保護活動にも参加できるようになったんです。それで今日、初めてその単細胞生物と対面しました。細い炭素繊維の棒で、ちょんと触れたら、ぴくっぴくって動いてね。ああ、きみが極限まで追求していた体性感覚を、この小さな地球外生命も有しているんだと思うと、『雨』を体験した時みたいに、何か込み上げてくるものがありました……〕
 溢れる思いをそのまま言葉にした文面と動画を編集し、まとめたミアリーはそれらを小包にして、移送宇宙船で輸送してくれるよう、看守AHに頼んだのだった。
 返事を、そう期待していた訳ではない。けれど、小包を送ってから十四年が過ぎても十五年が過ぎても、連絡宇宙船や移送宇宙船が幾度到着しても、何の音沙汰もないことには、落胆を感じずにはいられなかった。
(ダクは、もうわたしを忘れたのかもしれない。十四年ごとの文通なんて、人間には長過ぎるものね……。でも、きみがくれた『雨』と、『雨』を通して教えてくれた、感情に強く裏打ちされた感覚は、今もわたしを慰め続けてくれているよ)
 『雨』を体験して以降、ミアリーは、地球の雨と全く異なると感じていたタイタンの雨からでも、幸せや寂しさ、愛おしさや懐かしさ、そして切なさの感情を覚えるようになっていた。『雨』の体験によって、感情と感覚とが、より強く接続されたためだ。
 簡易宇宙服の薄い生地越しに感じる、摂氏マイナス百七十九度という平均気温の大気。その凍える大気の下層から降ってきて当たる、少し温かく感じる雨粒。懐かしい。気化して微かに冷えた。寂しい。強く当たった。もう一度会いたい。弱く当たった。あの日に戻りたい。タイタンの雨でも、今のミアリーは彼と同じ気持ちを懐くことができる。あの日、ダクが屋上で母親に対して懐いていた気持ちと、同じ気持ちを懐くことができるのだ。
(ダク……、とてもとても切ないよ。でも、きみを思って、雨を感じて、切ないと思えることが、とてもとても嬉しいんだ。ありがとう、ダク……)
 タイタンの冬空から降ってくる、霙のような雨に打たれてですら、あの日のダクと同じ気持ちになることができる。地球時間で二十九年間もあるタイタンの一年一年を緩慢に消化しながら、ミアリーはダクへの感謝を思い続け、地球を出発してから七十三年目、刑期を七年残して再び移送宇宙船へ乗ることとなった。
「お世話になりました」
「お元気で」
 仲良くなった看守AHに別れを告げ、ミアリーは移動する監獄へ寂しく乗り込んだ。地球に帰っても、人間の知り合い達が生き残っている可能性は低い。それなら、随分と馴染んだこのタイタンで生活し続けるほうがいいとすら思えた。だが、受刑者に自由は許されない。ミアリーは命じられた通り、七年後に地球で自立した生活が再開できるよう、宛がわれた通信機器を使って就職活動を始めた。しかし、その結果は連敗続きだった。八十年前は最新型だったミアリーも、今や旧型となり果て、おまけに前科者なので、どの会社も団体も、採用したがらないのだ。ミアリーは挫けず何千通もの採用申込書類や動画を送信したが、とうとう就職先が決定しないまま七年が過ぎ、地球へ降り立つこととなった。
(地球を出る時は騒がれたけれど、帰ってきた時は静かなんだね……)
 静止衛星軌道上に浮かび、軌道エレベーターに接続している官営宇宙港は、閑散とした雰囲気だった。幾つも新しくできた民営宇宙港のほうが最近は使用料が安いので、一般人や一般貨物はそちらへ流れているという事情もあるらしい。小さな手荷物一つを持って、刑務官AH達に見送られ、移送宇宙船を降りたミアリーは、一緒に移送されてきた他のAH達が、次の目的地へ向けて足早に歩いていく背中を寂しく見送った。
(さて、今からどうしようか……。今度は、ホームレスAHとして話題になってしまうかな……)
 まずは、どこへ向かうのかを決めないといけない。
(もうどこに行ってもいいし、どこへ通信してもいいんだから、ダクやジャーリ、ピーターの消息を尋ねてみようか)
 つい先ほどまで制限されていた電脳による通信は、この宇宙港に降り立った時点で、自由を回復されている。
(でも、きみの消息を知るのは、正直、怖いよ、ダク……)
 悲しい報せに接することを恐れ、躊躇して足も止めたミアリーの前へ、野球帽を目深に被った男性が歩み寄ってきた。
(この身長、肌の色、ダクと同じだ……)
 吸い寄せられるように、そちらを見てしまう。
(でも、歩き方が少し違う……。あの片足は、人工足だね……。わたし達の擬体の足と同じものだ……)
 距離が縮まり、野球帽の庇に隠れていた男性の顔がはっきりと見えた。
「え」
 ミアリーは唖然として、その顔を凝視する。電脳に記録しているダクの顔だった。僅かに老けてはいるが、四十歳くらいで、とても百七歳には見えない。そして両眼が違う。ミアリーを見つめているのは、淡青色の人工眼だった。こちらも、AHの擬体に用いられる目と同じものだ。
「ミアリー、待っていた」
 男性は――ダク・コーリーは懐かしい声で言うと、そっと指先を伸ばしてきてミアリーの頬に触れ、それから背中へ両腕を回して、優しく抱き締めてきた。
「ダク、どうして……?」
「年齢は、脳刺激冬眠をしていたからだ。『雨』の著作権使用料で随分儲けたからな。その金をつぎ込んだ。冬眠中だったから、おまえの手紙に返事を出せなかった。すまん。目と足は、おまえを理解したいからだ。今、おれの生きる目的はおまえなんだ、ミアリー」
 耳に囁いてきたダクは、不意に床に片膝を突いてミアリーを見上げてきた。
「ミアリー・グルウィウィ」
 厳かに名を呼ばれる。
「どうか、おれと結婚してほしい。おれは、おまえを知りたい。八十年間、寝ても覚めても、ずっとおまえを待っていた。おまえと生きていきたいんだ」
 柔らかく左手を握られ、薬指に指輪を嵌められて、ミアリーはまたも情動の渦の中にいた。
「でも、ダク、AHに人権はあるけれど、それはまだ限定的で、人間との正式な婚姻は――」
「おれの手紙を読んだんだろう?」
 ダクは軽く片眉を上げて見せる。
「オセアニア連合において、AHは十三年前から、人間と同等だ。おまえ達の人権は全て認められているんだ。おれがおまえと結婚したい一心で、ありとあらゆる人間、AHを巻き込んで運動した結果だ。電脳での通信はもう自由にできるんだろう? 何でも調べてみるといい」
 言われた通りにして、ミアリーは満面の笑みを浮かべた。ダクの言葉は全て真実だった。
「それで、返答は?」
 ダクは熱っぽく求めてくる。ミアリーは自分と同じ人工眼を見つめ返して頷いた。
「わたしの気持ちは、八十年前、法廷で伝えた通りだよ。そして、『雨』のお陰で、ずっとずっときみの心を感じ続けることができた。きみが好きだ、大好きだ、ダク」
 抱きつくミアリーを、立ち上がったダクが再び抱き締めてくれる。その抱擁は、『雨』と驚くほど似ていると、ミアリーは感じた。

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