梗 概
天気予報から鮫が消える日
一万年前、エベレスト山頂の氷解に伴い巨大な古代鮫メガロドンが復活し、その呪いで鮫が空から降るようになった。中生代脊椎期を風靡した猿人は鮫の降雨により滅んだという。現代、腹側動物が有脊椎動物に代わり地球の頂点に君臨した。その要因は、彼らに寄生する住血線虫のもたらした中枢神経の発達である。寄生虫により腹側動物は中枢知能を発達させ、ナメクジ・カタツムリが地上に、ウミウシが海底に巨大都市を築き上げた。
相次ぐ大降鮫により、海底では鮫による被害が多発していた。多くの鮫は水面での衝突により死亡するが、数が多ければ海底都市まで辿り着く鮫も多くなる。降鮫問題は深刻であった。そこで、ウミウシ族は古代伝承をもとに降鮫の原因であるメガロドン討伐計画を立案する。海底都市で最も腕の立つ剣士、藍銅(らんどう)が勇者として選ばれ、伝説のサーベルを手に地上へとメガロドン討伐の旅に出発する。
一方、降鮫を食料源とするナメクジ族はウミウシ族の計画阻止を企てた。そこで、下級のカタツムリ族に妨害するよう命令する。カタツムリ族はコンクリートジャングルから石灰を切り出す木こりのハヤシをエベレストへ向かわせた。表向きはウミウシ族の勇者と協力し、裏で妨害工作を働こうという計画である。ハヤシはチェーンソー一つでおびえながら旅立った。
二人でエベレスト山頂を目指すこととなった藍銅とハヤシ。ナメクジ族の未来都市を探索し、古代ザメ信仰過激派の襲撃などを乗り越えながら次第に仲が深まっていく。エベレストの中腹では狂暴化した降鮫との戦闘もあったが、どうにか彼らは山頂に辿り着く。
山頂でメガロドンに邂逅し、ハヤシは自分がスパイであることを明らかにする。藍銅、ハヤシ、メガロドンの三つ巴の戦いは、藍銅の説得により腹側動物 vs 鮫に戦況を変える。ナメクジ族に支配されたままでいいのかという藍銅の問いに、ハヤシが応えたのだ。そして見事、二人はメガロドンに勝利し、その首を手に入れる。
海底都市への帰路で立ち寄ったナメクジ族の未来都市にて、古代ザメの血液と寄生虫の関係が明らかとなる。古代ザメに特有で、降鮫には一部含まれる紫色の血液が、彼ら腹側動物の知能を発達させた寄生虫には猛毒であったのだ。地上では降鮫の血液を直接浴びない限り知能に影響はないが、海中には降り注いだ鮫の分だけ紫の血液が混じっていく。これにより、ナメクジ族・カタツムリ族とウミウシ族の間には知能に格差が生じていた。ナメクジ族は、降鮫の消滅に伴うウミウシ族の知能発達及び陸上進出を危惧し、ハヤシをエベレストへ派遣していたのだ。
藍銅とハヤシはこれまでの旅を通じて高レベルの中枢知能と支配欲の相関に気がついていたため、全腹側動物が知能から解放されることを願い、手に入れたメガロドンの首を花火として打ち上げた。膨大な紫の雨が降り注ぎ、地球上からあらゆる中枢知能が消滅した。
文字数:1186
内容に関するアピール
鮫が出てればサメ映画!という信念のもと、サメ映画ネタをやりたいなあと思い機をうかがっていたら結構な終盤になってしまいました。でも、小雨村雨春雨、雨という字はサメと読みます。お題が私に、サメ映画をやれと言ってきたのです。
これまでに生み出されてきた様々なサメ映画の魑魅魍魎に小説で立ち向かうべく、特撮映画では予算上難しいだろう人外を主役に据えました。また、文章だけで B 級映画感を出すべく、実作では小物やネーミングに造語をふんだんに盛り込む予定です。あと、反中枢知能の例として植物やタコをエベレスト登頂の道中に登場させます。彼らの知能は分散型です。
好きな食べ物を全部混ぜたらもっと好きな食べ物になる、そんなお子様プレートを目指した私的には極上の闇鍋を味わっていただけると幸いです。
文字数:337
天気予報から鮫が消える日
一万年前、エベレスト山頂の氷塊に伴い巨大な古代鮫メガロドンが復活し、その呪いで鮫が空から降るようになった。中世代脊椎期を風靡した猿人は鮫の降雨により滅んだという。これを鮫の血の色になぞらえて紫雨(しう)の大災害と呼ぶ。
現代、住血線虫の寄生により中枢知能を発達させた腹足動物が、有脊椎動物に代わり地球の頂点に君臨していた。
「ですから、僕はしがない木こりです。生まれてこの方、コンクリートジャングルでチェーンソーを振り回すしか脳のないひ弱なカタツムリ族なのです。そんな僕がゆ、勇者様を騙すだなんて、そんな事できません。下等なウミウシ族と言えど、僕なんて一ひねりのイチコロです」
鋼鉄の宮廷で、不似合いなおんぼろ殻のハヤシは声を荒げた。緊張のあまり、タコのようにきゅうとなった喉からキンキンと甲高い声が絞り出される。玉座に悠々と座るナメクジ族の軍隊長は機械的にもう一度、同じ言葉を繰り返す。それしか言う事を許されていないのだ。軍隊長は機械なのだから。
「ハヤシ、あなたは海底都市から訪れる勇者様を討伐してきなさい」
「何故、何故ですか」
「ウミウシ族が、我々の貴重な食料源である降鮫を止めようと企んでいるからだ」
「ここ数年の大降鮫には僕たちカタツムリ族も殻をボロボロにされて困っています。ウミウシ族が勝手にメガロドンの呪いを滅ぼしてくれるなら、むしろラッキーじゃないですか」
「降鮫は我々の貴重な食料源だ」
軍隊長の言葉は変わらない。
「ハヤシ、あなたは海底都市から訪れる勇者様を討伐してきなさい」
これ以上の問答は無意味だろう。ハヤシはちらと宮廷の周囲を見回した。壁という壁にナメクジ軍のロボット兵が整列し、塩剣を携えている。その切っ先は皆、彼に向いているのだ。逆らえば殺される。自身も、故郷に残してきた愛しい家族も、花卉農家の夢も。花の受粉を手伝うポリネーターとして、穏やかな日々を過ごしたい。そんな彼の夢は、大降鮫の被害で壊滅的だというのに。
伝説の勇者には伝説のサーベルが望ましい。さぁ、見たまえ、このウェジウットブルーに輝く勇ましいサーベルを。ウミウシ族で一番に腕の立つ藍銅(らんどう)が勇者の証を高く掲げると、海底都市の全てが歓声を上げた。グレーメタルのブレイドに民衆の歓喜が、希望が響く。勇者の旅立ちだ。海中が久方ぶりの宴に煌々と輝いていた。
「王様、わたくしがかの憎きメガロドンの呪いを討伐し、必ずやこの海に平和をもたらしましょう」
舌の先まで鍛え上げられたかの勇ましい声で、藍銅はウミウシ族の王へと深く頭を垂れた。大粒の真珠をあしらった王冠に、珊瑚の杖を携えた王は上機嫌な頬で優雅に微笑む。
「藍銅、お前の剣の腕はウミウシ一、いや、海底一、世界一かもしれん。期待しておるぞ」
ウミホタルを詰めたランプが波に揺れ、揺れる。幻想的な宴は夜通し続き、降鮫被害の傷跡を忘れるがごとく誰もが夢見心地であった。
そして翌朝、日差しの鋭いドーンピンクの方へと藍銅は旅立った。朝焼けには一粒のヴァイオレットパープルが垂れている。
コンクリートを切り落とすにはコツがいる。力任せにチェーンソーをぶつけてもこちらが負けてしまう。チェーンソーの歯が折れるだけなら良い方で、最悪、悪い倒れ方をしたコンクリート材にこの身が潰される。上手に伐採するには丁寧に丁寧に切れ目をつけ、少しずつ刃を入れていくのだ。だから、ハヤシの作戦は決まっていた。筋骨隆々なウミウシ族の事だ。それも勇者となれば、コンクリートよりもよほど凶悪だろう。ひ弱な自分では真正面からぶつかれば羽虫のごとく潰されてしまう。少しずつ、少しずつ切れ目を入れるのだ。
そのためには、敵の懐に入り込むことが手っ取り早い。
「勇者様、お噂はこの地上にも轟いております。古代鮫メガロドン討伐のためはるばる海底都市から旅立ってくださったとも。このハヤシ、ナメクジ・カタツムリ族の代表として、あなた様にお供いたします」
「勇者の藍銅だ。協力、感謝する」
藍銅と名乗る男は、想像の倍は筋肉でできていた。木の根よりも太い腹足なら、素足でもハヤシなど簡単にぺちゃんこだろう。名前の通り美しい青色の身体。そして、彼はその巨体と並び立つ大きさの巨大なサーベルを携えている。縮み上がる臆病心を必死に隠しながら、ハヤシは深く頭を垂れた。ウミウシ族は敬意の表れとして頭を下げる事を知っての動作だ。全身がぶつぶつとヤモリ足だつ。鶏はもう滅んでいる。
「古代鮫メガロドンは地上の最高峰、エベレストに棲んでいます。まずは麓の町までご案内いたしましょう。こちらの電気自動車にお乗りください」
ナメクジ族から特別に貸し出された自動車が走り出す。あまりの速度に震えが止まらず、ハヤシは深く深くアクセルを踏みしめた。
風を切り刻む勢いで到着したのは、シャンパンゴールドの美しい町。呪いの山脈に見張られたこの町は、どこか陰気で、静かだった。
「随分と豪華な町だが、驚くほど人気がない。古代鮫の影響か?」
「はい。皆、古代鮫を恐れているのです」
目に映るもの全てが藍銅にとって新鮮であった。天を除く全てが、メタルの光沢に彩られている。道も壁も鏡のよう。パールグレイの世界を照らすのは、人工的なタングステンの灯りだ。ウミホタルよりよほど手軽で、眩しい。未来都市みたいだ。
「まるで絵空事の世界だ。先ほどの車? もマグロの背に乗った気分だった」
「このように寂れた町での歓迎となり申し訳ございません」
ハヤシの目に嘘はない。彼らナメクジ・カタツムリ族にとってはこの光景が普通の田舎なのだと実感する。海底のどこを探したって、これほど発展した景色は拝めないというのに。
「宿を準備しております。エベレストは凶悪な山、この先は悪路を徒歩で進まなければなりません。まずは御身をお休めください」
ハヤシに案内されたのは、優しい湿り気の施された立派な宿だった。ウィローグリーンの柔らかなベッドは、海中を思い出すほどに身体を優しく包み込む。海からの遠い旅路が、眠気としてずしりとのしかかった。
出立の宴が終わった今、海底都市はまた陰気な暮らしに戻っているのだろうか。先日の大降鮫で、また何匹も鮫に喰われてしまった。愛しい紅水晶も、俺は救えなかった。可愛らしいコーラルピンクの鰭が、無残にも喰い千切られていた。僅かに残された破片を、藍銅は大事にロケットペンダントへしまっている。凄惨な夢に目を覚ました藍銅は、静かにロケットへ接吻をした。案内役のハヤシは身を丸めて眠っている。そっと、布団の落ち葉をかけ直してやる。
その時、不審な足音が屋根から漏れ出した。己の直感に突き動かされて、藍銅はサーベルを深く突き刺す。
屋根から落ちてきたのは、野蛮な格好をしたナメクジ族の集団であった。全員、紫のバンダナを巻いている。
「な、なんだこいつら。聞いてないぞ」
飛び起きるハヤシを背に、藍銅はサーベルを構える。
「我ら紫印(しいん)結社。偉大な古代王メガロドン様をお守りするため、貴様らを成敗する」
「我が名は藍銅。我が伝説のサーベルに勝利を誓おう」
雄叫びから、何一つ藍銅は負けなかった。嵐のごとき剣さばきで、文字通りナメクジたちはなぎ倒されていく。サーベルのウェジウットブルーが描く軌跡だけが、流星のごとく美しい。
「口ほどにもない。ちょうど良い目覚ましだ」
藍銅が肩を鳴らせばちょうど夜明け。二匹は、アメジスト一つ残っていない爽やかな朝焼けを背に山頂へと向かった。
おぼつかない通信機器が、雑音混じりにもどうにか軍本部と接続する。軍隊長は相変わらずの塩対応で、ハヤシは心が先に萎びてしまいそうだった。
「ですから、ナメクジ族に襲われたんです」
「降鮫は我々の貴重な食料源、当然だろう」
「作戦はお伝えしましたよね? 協力者を装って油断を誘い、エベレストを登ってから暗殺すると」
「成果報告を待っている」
無慈悲にも通信は切られてしまう。断線の喧しさが耳に残った。今の音で、藍銅が目覚めてやいないだろうか。恐る恐る振り返れば、藍銅はいびきを立てて眠りこけている。こちらも相当にけたたましい。ふうとハヤシは触角をなで下ろした。
どうにかエベレストの中腹までは辿り着いた。もうじき、登山病であの藍銅と言えど少しは弱ってくる頃だろう。寒さをしのぐ焚き火がカラカラと燃え上がる。湿を求め、焚き火の周囲へと水を注ぎ足した。充電式の暖房すら渡されていない。自分はナメクジ族にとって使い捨ての駒なのだと、この乾きと寒さが物語っていた。
それは、この勇者様にとっても同じだろう。山道が整備されているのはここまで。つまりは案内役が正しく機能するのはここまでだ。この先、自分はコケムシの役にも立たない。いっそ、ダメ元で、いま。
「さて、よく寝た。休まれたか、ハヤシ?」
チェーンソーのスイッチに手をかけたところで、藍銅がむくりと起き上がる。岩が起き上がったかの巨体に、当然、背筋が凍り付いた。
「神妙な面持ちで、相棒を携えていかがした?」
「こ、これは、その、手入れをしていたのです。チェーンソーはきちんと扱ってやらないと、使用者に牙を向きますから」
「であれば、ハヤシはそのチェーンソーを大切にされてきたのだな」
「まさか。ナメクジ族から割り振られた仕事が木こりだっただけです。ハヤシという名前も、仕事と共に与えられたものですから」
「そうだったか。ウミウシ族は自ら名を決める。貴殿もハヤシという名を望んで付けたものとばかり」
「勇者様は、どうして藍銅と?」
「この、色濃い青の模様からよ。我らウミウシ族にとって、美しい身体は誇り。だから、宝石の名を借りる。その名に恥じぬよう生きるために」
藍銅はぐいと胸を張って見せた。自信にはち切れんばかりの筋肉が、宝石の名に劣らぬ輝きを見せる。
「みな、思い思いの名を名乗る。黄玉に翡翠、紅水晶」
藍銅が胸元のロケットを握り締める。しがない木こりでも気がついている。あのロケットペンダントこそ、藍銅の心臓であると。
「見てくれ、ハヤシ。美しい桜色だろう。あいつは降鮫に襲われ、これしか残らなかった」
花吹雪を思わせる柔らかな鰭の破片。じいと見つめてから、握り潰さん勢いでぎゅうと、藍銅はペンダントに祈った。
「すまない、つい話し込んでしまった。出発しよう。俺は勇者として、夢を果たすのだ」
誇り、夢。ハヤシには縁遠い言葉ばかりで、目眩がする。うっすらと思い描く理想の生活なんて、寝ぼけの欠伸よりも儚いはずなのに。藍銅の真っ直ぐな言葉が、視線が、ハヤシには酷く羨ましく、妬ましかった。
おんぼろ殻の最奥に潜ませた爆薬が不意に香る。最後の手段として、無理心中を行うために渡された爆薬だ。自分の生命も、夢も、こんなにもちっぽけで、吹けば文字通り飛んでしまう。
スノーホワイトに覆われた地の果てに、山頂が見えてきた。手を伸ばせば星に届きそうな遠くへ来てしまった。燃え盛る藍銅の誇りばかりが、行く先を照らしている。凍てつくほどの寒さ、胸のつかえる空気の薄さを振り切って、勇者一行はエベレストの山頂へと近づいている。
羽虫の一つも産まれぬ孤高の地にて、突如、沈黙が破られた。
真っ先に振るわれたのはカッパーレッドの図太い触手であった。かわして一太刀、藍銅は触手を切り落とす。あふれ出るウルトラマリンの鮮血に手応えを感じた刹那、背後から次の触手がこちらへと向かっていた。
「ハヤシ、危ない」
切り落とした一本目の触手に気を取られたハヤシを、藍銅が突き飛ばす。まさに今、ハヤシのいた場所こそが触手の軌道であった。ぐさりと深く、触手の先端が藍銅の右肩を突き刺す。
「勇者様、どうして」
「触手はまだ来る。伏せていろ」
殻にくるまったハヤシは、その殻ごと上空へ放られた。三本目の触手だ。鈍い音を立てて着地したハヤシに向かう四本目を、藍銅のサーベルが切り落とす。
「こいつ、タコか。鮫と共にこの山脈で目覚めたというのか?」
藍銅の問いに応じてか、ぎょろりと二つ目のこぶが、八つの足を携えて彼らを見下ろす。波打つ触手で身を守る海の賢者だ。その巨体に似合わぬ俊敏さで振るわれる触手は、正確に、こちらを突き刺してくる。ハヤシが右へ転がれば二本の触手が、藍銅がサーベルを振るえば左へ三本の触手がもたらされた。
「タコは無数の脳を体中に散りばめています。二手に分かれた程度ではなんのまやかしにもなりません」
ハヤシが殻の奥から、声を振り絞る。腹足動物のように脳という中心を持つ知性と異なり、タコは脳を全身に分散させている。要は、触手の一つ一つが攻撃手であり、司令塔だ。二対八では分が悪い。ハヤシは退却を提案した。
しかし、力強いバイオレットの炎を瞳に宿した藍銅は決して、敵へ背を向けたりしない、
「であれば、大穴を一つ開けるのみ」
藍銅は他の触手と比べひときわ色褪せた一手の付け根を狙った。先端を少し千切る程度ではびくともしないが、大きく一つ、切り落とせば。狙い通り、体中に分散した知能が、一斉に非常事態の対処へと当たる。結果としてタコはその巨体を支えきれなくなった。その隙を見逃す藍銅ではない。力強く地面を蹴り上げると、タコの頭部へとサーベルを深く突き刺す。
コバルトブルーの飛沫を高く噴射し、全ての触手が地に伏した。藍銅の開いた大穴、切り落とした触手にはロイヤルパープルの傷跡が見える。
「これは、メガロドンの歯形です」
「鮫血の紫だったか」
その時、天地が切り裂かれ口となった。大顎にたらふくの血を滴らせ、雲間の星はぎろりと獲物を射貫く。エベレストの山頂に棲まう、古代鮫メガロドンの襲来だ。
「さぁ、来るがよい。我が使命を果たそう」
メガロドンは想像を絶する巨体であった。鮫が空を泳いでいるのではない。鮫こそが空なのだ。禍々しく聳える無数の歯、地を喰らう大顎。邪悪を凝縮した瞳は新たな獲物に歓喜の輝きを灯している。
威風堂々と藍銅がサーベルを構える。背側突起が使命でできているかのごとく、身じろぎ一つ見せない。対して、ハヤシは。
「今こそ、最大のチャンス」
ハヤシはチェーンソーのスイッチに手をかけた。雄叫びを上げてソーチェンが回転する。コンクリートジャングルを切り倒せる凶悪な相棒だ。肌に触れれば、ひとたまりもないだろう。藍銅が見せてくれた、無残な桜色の鰭を思い出す。たかが降鮫に噛みつかれても木っ端微塵となる。その歯を大量にチェーンへぶら下げて、モーターで高速に回転させているのだ。たとえあの藍銅と言えど塵芥と化すだろう。
「助太刀感謝するぞ、ハヤシ」
何の疑いもなく、藍銅は先陣を切る。自慢のサーベル一つで巨悪のメガロドンへと飛び込んでいく。ハヤシにそんな勇気はない。今、この愚かな勇者を裏切る一歩すら踏みとどまっているのだから。
藍銅の真っ直ぐな思いがメガロドンに斬りかかる。眉間の傷から紫雨をまき散らし、メガロドンの巨体は痛みに怒り震えていた。我を忘れた暴走鮫の背鰭に切り込みを入れる。腹に深くサーベルを突き刺す。恐れを知らぬ切っ先は、正確にメガロドンの急所を突いていた。このままでは、本当にメガロドンが討伐されてしまう。
「ご、ごめんなさい」
情けなさを極めた声に足を滑らせながら、ハヤシは藍銅めがけてチェーンソーを振りかぶった。突然の裏切りを、藍銅は躱しきることができない。先ほどの戦闘で受けた肩の傷が響いたのだ。放り投げられたサーベルはエベレストの山腹へ。藍銅の誇りが、夢が氷樹の何処へと消えてしまった。
「ハヤシ、お前」
「僕は、メガロドン討伐を阻止しに来たスパイなんです」
「それが、お前の夢か?」
ナメクジ族の命令を守る事が? ナメクジ族の食料を守る事が? そんな訳ないじゃないか。花卉栽培を生業にして、温かな湿地で愛しい家族に囲まれて、穏やかな生活を。
「叶わない夢より、命令の方が」
「そうか、残念だ」
正面にはチェーンソー、背には巨大鮫メガロドン。この状況下でなお、藍銅はふうと安らかな笑みを浮かべた。命乞いの一つでもあれば、あと一歩が踏み出せたのに。藍銅は最後の時まで、己の使命と、夢と対峙するつもりでいる。
「僕だって、ナメクジ族の支配から解放されたい。花に囲まれた暮らしが僕の夢だ」
「立派じゃないか。ならば、踏み出す一歩は夢に向けて」
藍銅が隆々とした腕を振り回す。ハヤシの背後に迫っていたメガロドンの尾びれが剛腕に弾かれた。代わりに、メガロドンの大顎が藍銅を襲う。
「ら、藍銅さん」
「今だ、ハヤシ」
我武者羅に振りかぶったチェーンソーは、藍銅もろともメガロドンを斬り殺した。
血液は第二の海である。身体という何十兆個もの細胞が暮らす惑星にもたらされた恵みである。太古の有脊椎動物に流れる海はルビーレッドであった。我々腹足動物であればサファイアブルー。そして、鮫の血はおぞましいアメジストパープルだ。
カブトガニの血液が病原菌の検出に有用である事はウミウシ族ですら知っている。カブトガニに流れる大海が、病原菌に有害だからだと。
ならば、鮫の血液、紫雨に溺れたら?
我々の知能の源である住血線虫は、この大海を泳げるのだろうか?
??? 胎児よ、胎児よ、なぜ踊る ???
遙か遠い祖先の、優しい二枚貝の記憶が甦ってくる。
何も考えぬ、柔らかな世界へと、今。
転げ落ちたメガロドンの首から、どうにか藍銅を引き抜いた。肩から胸にかけてチェーンソーの傷が酷いが、まだ、息がある。メガロドンの首からは絶えずだくだくと紫雨が流れ続けていた。ひとまずは紫の濁流から逃れ、ハヤシは必死に、藍銅へと呼びかける。
「勇者様、あなたの夢が叶ったんですよ。憎き古代鮫を殺したんですよ」
「胎児よ、胎児よ、なぜ踊る」
藍銅の目は虚ろ、どうにか口端から溢れた言葉も、意味を成してはいない。まるで、藍銅の内に宿る意思の炎がどろりと溶解していくようであった。肩口の傷から、メガロドンの血が藍銅に染みこんでいく。
ごふりと藍銅が紫苑色の泥を吐き出した。と同時に、藍銅の頭が萎んでしまう。まるで、今まさに知能を吐き出したかのように。支えを失ったロケットペンダントが、藍銅の夢見る花園がエベレストの断崖へと転がり落ちていく。
「遅かったか」
聞き覚えのある声。横たわる藍銅を見下ろすのは、紫バンダナを巻いたナメクジ族であった。
「あなたは、紫印結社の」
「鮫の血液は、我らの知能を滅ぼすのだ」
ナメクジが指さす亡骸には、知能の宿る頭部の膨らみが全く残っていない。
「まぁ、よい。ウミウシ族の知能をまた一つ潰せたのだから」
「また、一つ?」
「下位の種族は建前しか知らんか。我々が降鮫を崇める真の目的を」
戸惑うハヤシの眼前に、柳のごとしレイピアの塩剣が向けられる。
「偉大なる古代鮫様の首を渡してもらおう。ウミウシ族が今のまま、愚かな存在で有り続けるために」
「まさか、鮫の血が中枢知能に有害なんですか?」
「海には神秘の降鮫により紫雨が溶け込む。さぁ、古代鮫様の首を渡してもらおう」
つまり、ウミウシ族の知能発展を妨げるべくメガロドンの呪い、降鮫は利用されていたのだ。そしてこのナメクジは、その仕上げにメガロドンの首を利用しに来た。崇拝とは名ばかり、彼らナメクジが守りたいのは、中枢知能による絶対的な支配権だ。
もう、ナメクジによる支配はこりごりだ。花に囲まれたささやかな生活すら、叶わないのだから。
「だったら、僕は僕の夢のために」
ハヤシはメガロドンの大顎へと飛び込み、殻の最奥へ仕込んだ爆薬の起爆スイッチを押した。ナメクジの制止も間に合わず、メガロドンの首が空高くへと舞い上がる。星より鋭い閃光煌びやかに、地という地に、海という海に猛毒の鮫血が降り注ぐ。
慈雨であった。
こうして、地球上からあらゆる中枢知能が消滅した。
文字数:8030