幻雨げんうの空で約束を

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梗 概

幻雨げんうの空で約束を

雨に有害物質・阿幻あげんが混じり、幻雨げんうと呼ばれるようになる。人は幻雨に当たると美しい幻覚を見るが、阿幻が蓄積すると死ぬ。富裕層は地下に生活圏を移動させて都市をつくる。避難できない人々の大半は中毒で死ぬが、生き残った人の中で突然変異が起こり、幻雨の影響を受けなくなる。人は地上人と地下人とに別れた。

少年のりん至流いたる、少女の来栖くるすは地上の施設で暮らす。やがて至流と来栖は地下人の血が入っていると判明し、地下で暮らすことになる。別れの前日、三人は施設を抜け出し、植物が絡みついて半ば倒壊した東京タワーのふもとで再会を約束した。雨が降りはじめ、至流は眩暈を起こし、来栖は幻雨が虹色に見えると言う。

地上に残った倫は阿幻の研究者になる。最初に阿幻の耐性を持ったのは植物という仮説のもと、人に耐性を適用するべく研究を進めるが、地上人と地下人の複雑な恨みや差別意識はまだ残っていて研究を阻む。
 交流を試みる倫は、勤務先の旧筑波実験所に、地下から派遣された人間型ロボットのミライを受け入れる。ある日倫は、ミライが植物園で植物を採取する中で来栖の幻を目撃し、ミライが来栖と同じ言動を取ることに気づく。ミライのコアは来栖だと確信した彼は地下都市・東京新都芯へ潜入する。

倫は至流と再会し、話を聞く。来栖は高名な画家になったが体調を崩すようになり、エンジニアになった至流が地上派遣用の人間型ロボットを製作すると、コアとして自分を使ってほしいと頼んできた。来栖と倫の思いを知る至流が願いを叶えると、ほどなくして彼女は亡くなった。

来栖のアトリエには出世作の絵などが点在していた。倫は、来栖の出世作は再会を約束した情景を描き、彼女は幻雨からインスピレーションを得るため、秘密裡に地上へ出たのだと理解する。植物園で見た来栖は幻ではなかった。
 約束の日の情景が死のきっかけをつくったと知って苦しむ倫に、ミライとアトリエのコンピュータが連動し、来栖の遺言を語る。曰く、幻雨の幻覚に頼った自分は愚かだったが気づいた時は遅かった。自分の体は地上人と地下人の特徴が混在しているために差別もされたが、身体データをミライに託すので、倫に地下人が地上で生きられる薬をつくってほしい。

倫は至流と共に、来栖のデータと彼女が見た幻覚をヒントに仮説を実証し、阿幻対応の遺伝子治療と経口薬開発の手掛かりを得る。一方で地下人は、地上人に近づく遺伝子の利用や、地上人の功績を拒否する可能性がある。倫たちはミライの中に匿名で情報を残し、享受して存続するか、拒否して滅亡するかを地下人に委ねる。

二人は地上に出て、植物に占拠された元東京タワーのふもとで幻雨に打たれる。来栖はもうおらず、彼女が見た情景を地上人の倫が見ることはできない。倫は身を切る切なさに囚われるが、持参した来栖の絵を見て、来栖が見た虹色の幻雨を幻視する。

文字数:1200

内容に関するアピール

今回の課題から、序盤と終盤の二つの雨のシーンが重要な役割を果たし、同じに見える両シーンが、登場人物の心理的な成長や変化で印象が変わる話を書きたいと思いました。

二つの雨のシーンは「東京タワーのふもとで幻雨にうたれる」箇所です。
 最初の雨のシーンでは三人の、淡い希望と、目の前の寂しさと、約束を守ろうとする意志を、雨を通じて描きたいと思います。
 最後の雨のシーンでは残った二人の、葛藤を経て残った骨太の希望と、来栖を失った痛切な寂しさと、彼女の遺言を守り抜いた固い意志を、雨を描写することであらわしたいと思います。

セールスポイントは、どちらのシーンの雨も美しいという点です。最初のシーンは耽美で線の細い美、後のシーンでは力強い美という、質の異なる美を鮮やかに描きたいと考えています。
 来栖が描いた絵に対して倫が抱く印象や思い入れは、雨のシーンの印象と連動させて変化をもたらすつもりです。

文字数:391

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幻雨げんうの空で約束を

1.
 荒れ果てた草地にぽつんと佇むその建築物は、ただ「学園」と呼ばれていた。
 りんは、いたるところがひび割れて黴臭いその建物が嫌いだった。
 ある日のこと、倫たち学園の生徒が教室の掃除をしていると、担任が新入りの子どもを二人連れてきた。少年は眼鏡をかけており、丸い背中に短い首がうずもれている。少女はひどく痩せていて、赤みがかった髪が細い背中に流れている。
 少年は至流いたる、少女は来栖くるすと名乗り、二人とも倫と同年代の十代前半くらいいに見えた。新入りの二人の案内は倫に委ねられた。新生活に必要な場所を一通り案内し終えると、倫は二人と共に建物の外に出た。
 破れた塀に沿って歩き、壊れた建物を通り過ぎると、丸い屋根の廃墟がある。倫は固く締まった入口ではなく、大きな窓から潜入して二人を手招きした。まず身軽な来栖が窓から入る。それから倫と来栖は、窓を乗り越えようとする至流を引っ張り上げた。
 もともと教会だったと思しきその廃墟は、ドーム型の屋根は半壊しており、奥の木製の十字架は腐食し、祭壇には金色のろうそくの欠片がはりついているなど、荒廃が進んでいる。しかしその空間には退廃的な魅力があった。
 内部を見渡した来栖は、小さく呟く。
「きれい」
 その声には、歌うような抑揚があった。
「ここは秘密の場所で、他の人に教えたのは初めてなんだ」
 倫が嬉しくなって告げると、来栖は頷いた。
「ありがとう。初めて見るのになんだか懐かしい。ずっと前からこんな場所に来たいと思っていた気がする」
 来栖の顔が揺れ、前髪に隠れがちな瞳が姿を現す。倫は思わず目を反らして言葉を探した。
「どんな場所から来たの?」
「高層マンションの真ん中の階だった。身内がいなくなったから、ここに来たの」
「ごめん」
 俯いて告げる倫に、来栖は首を横に振る。
「いいよ。学園にいる人は、みんな身寄りがないんでしょう」
 その言葉に、至流が口を挟む。
「そうか。来栖はいいところに住んでたんだな。俺は仲間と一緒に雑居ビルを占拠してたけど、つかまってばらばらにされちまった」
 無造作な物言いに、倫と来栖は思わず笑ってしまった。
 倫が秘密基地にしているその建物は、他の二人にとってもお気に入りの場所になった。倫は植物の標本や種などを置き、機械いじりに長けた至流はコンピュータを持ちこんだ。来栖は常に鉛筆や筆を持ち歩いていた。施設から持ち出した紙に絵を描き、色鉛筆で彩色する。色が欠けている時は、既存の色を混ぜ合わせるか、煉瓦や岩を砕いて顔料にし、欲しい色をつくりだすのだ。
 来栖の絵には、不思議な魅力があった。
 彼女は、対象を正確に捉える眼力も、それをかたちにする描写力も供えているのに加え、崩れた像や半壊の建物が醸し出す雰囲気のような、場が持つ空気感を捉える才があった。
「僕もそれくらい描けたらいいのに」
 倫が呟くと、来栖は言葉を選びながら言った。
「ありがとう。でも、もっとうまくなりたい」
 あまり表情を示さない来栖が頬を染めている。倫は懸命に視線をずらした。

至流と来栖が来てから、倫の生活に彩りが増した。
 ある日、現代史の授業があり、教師は淡々と語った。曰く、ここ数十年で雨に有害な物質が混じるようになった。隕石の影響や、環境汚染、火山の噴火、異常気象、氷河の溶解によるウイルスの蔓延といったさまざまな説がとられているが、はっきりしたことは分からない。雨の有害性は次第に深刻化し、人は雨にあたると幻覚を見るようになり、しまいに亡くなる事例が増えていった。有害化した雨は、幻を見せるために幻雨げんうと呼ばれるようになった。
 話の途中、倫は顔を上げて質問した。
「みんな死んじゃったんですか」
 倫の言葉に、教師は首を横に振って答えた。
「地下へ逃げられる人は移住しました。地下には都市がつくられ、学園の下には東京芯都心があります」
「地上に残された人たちはどうなったんですか。あと僕は、幻雨に打たれても何ともないですけど」
 教師は倫をじっと見た。
「残された人々の大半は亡くなりましたが、幻雨にあたっても生きられる人が出てきました。そういう人だけが残って地上人と呼ばれるようになりました。だから私たち地上人は、幻雨に打たれても問題ないのです」
 そう告げると教師は、倫をじっと見つめた。
「地下の人は幻雨に打たれると幻覚が見えるんですね。対策はないんですか?」
 倫が尋ねると、教師は考えながら口を開いた。
「幻覚を見せるものは、阿幻あげんと呼ばれています。ただ成分が特定されたばかりで、それ以上のことは分かっていません。地上と地下の往来も制限されている状況です」
 教師がそう告げると、その日の授業は終わった。

ある日、新入りの二人が呼び出された。至流は戻ってくると、教室の椅子に座ってぼんやりしている。倫は隣に腰掛けると、小さな声で話しかけた。
「ねえ、何かあったの?」
 寝転がっている至流は、灰色の天井を見つめたまま口を開いた。
「俺と来栖、地下人なんだってさ」
 倫が思わず居住まいを正すと、至流は頭を掻きながら告げた。
「今の言い方はあんまり正確じゃないな。地下人の血が入ってるんだって」
「至流の母さんか父さんが、地下人かもしれないってこと? どこで出会ったんだろうね」
 倫の言葉に、至流は頷いて言った。
「どっちかが抜け出したんだろう。親のこととか今更どうでもいいんだけど、ここから出ていかなくちゃいけないらしい」
「じゃあ、来栖も?」
 そう尋ねると至流は頷いた。来栖の部屋をノックしたが応答はない。秘密の場所を尋ねると、来栖が十字架の夜空を眺めながら、手元の鉛筆を走らせている。倫は黙って来栖の隣に腰掛け、肘をこつんとぶつけた。至流は床に座り、腕組みをして呟いた。
「俺、地下人の血が入ってるって言われたよ。来栖もだよな?」
 来栖は小さく頷いた。
「そうみたい。そんな自覚はないのに」
「二人とも、今まで幻雨に当たっても問題なかったの?」
 倫の言葉に、至流は首を横に振る。
「ここに来る前は、ドームで囲まれた地域にいた。外に出ることがあっても、すごく短い時間だった」
「私もそんな感じ」
 二人はそう告げると黙り込んだ。沈黙の後、来栖が呟く。
「ここは楽しかったのに。どこにも行きたくない」
 倫はおずおずと提案する。
「ねえ、良かったら、旅行してみない?」
 来栖は一瞬目を丸くすると、頷いて笑みを浮かべた。至流は噴き出して告げる。
「逃げるんじゃなくて、単に旅行ってのがいいな。当てはあるのか?」
「前から行きたかった場所があるんだ。アーカイブで見ただけなんだけど」
 そう告げる倫に、至流はコンピュータを示した。倫が古びたキーボードで何やら打ち込むと、モニターにオレンジ色の鉄塔が浮かぶ。
「なんだこれ?」
 そう告げる至流に、倫が告げた。
「東京タワー。もともと電波塔で、別の塔に取って代わられてからは予備の電波塔になった。その役割もとっくに終わってるんだけど、未だにオブジェとして残ってる」
「このレトロな感じ、いいね」
 来栖が画材をまとめて袋に放り込むと、至流も小型のタブレットを準備する。至流のモニターで東京タワーの場所を調べると、三人はいったん学園に戻り、手近な食料などを荷物に放り込んでから、忍び足で抜け出した。
 ところどころ残った線路を頼りに、目的地に向かう。肩先を前後に揺らすような独特の歩き方をする至流のリズムと、小刻みで軽快な来栖のリズムを体感しながら、倫の足取りは軽かった。
 次第に廃墟の数や、不法滞在者の姿が増えていく。やがて東京タワーのふもとに到着した。
 既に明け方近くなり、東の空は白み始めている。画像では鮮やかな朱色と白色だった塔は、今や鮮やかな緑色の蔦や灰褐色の蔓、茶色の枝などに覆われ、オレンジの色味が隙間から見える。植物が全体を覆うさまは、まるで鉄の骨組みに緑のみずみずしい肉がついているようだ。
「すげえ。無機物が有機物の塊になってるぞ」
 至流が大きな体を揺らして言った。
 来栖は銅像の縁に腰掛け、スケッチブックを開くと、白い紙に細い線を重ねていく。
 邪魔をしてはいけないと思った倫が離れようとすると、来栖は倫の服の裾をつかんで引き留める。倫が来栖を見ると、彼女は無言でじっと見返してくる。その瞳の深さに魅入られた。
 線を描く涼やかな音、色をのせる淡い音、指でこする鈍い音。来栖の生み出すリズムを聞いていると、辺りは明るくなり、やがてまっすぐな光が東京タワーを照らし出した。
 周囲の崩れた建物の中で、タワーはひときわ大きかった。スケッチブックを見やると、絵はほとんど完成している。来栖の絵の中の東京タワーは、黎明の光の中で強い存在感を放っていた。
 倫の顔に冷たいものが当たり、頬を濡らした。手を差し出すと、掌にぽつぽつと雫が溜まる。幻雨だった。二人が幻雨に当たってはならないことを思い出した倫は慌てて辺りを見渡し、屋根のある場所を見つけた。
 倫が来栖に駆け寄ると、彼女は誰に言うともなく呟いていた。
「きれい」
 秘密の場所に案内した時と、同じ言葉。
 来栖はまばたきもせずに一心に見つめている。
 幻雨があたる植物は艶を帯び、全体の輪郭が白く光る。尖塔は雲を突き刺さんばかりに伸び、光を求めているようだ。
 倫は思った。
 今、来栖の目に写っているものは、自分が見ているのと同じものだろうか。
 来栖はぽつりと呟く。
「私、地下に行かなきゃいけないって言われた」
 その言葉を聞いて、倫は思った。
 地下になんて行ってほしくない。しかし彼女は、幻雨に濡れると発症する体質なのだ。
「行かないでほしい。でも、病気になってほしくない。来栖は絵を描きたいだろうし」
 考えながら、倫は付け加えた。
「地下人が、地上で活動できるようになったらいいのに」
 倫の言葉を聞いて、来栖は鉛筆を握り締める。
「ねえ倫、なったらいい、じゃなくて、なるようにして。約束だよ」
 そう告げると来栖は、儚い笑みを浮かべ、白い小指を差し出してきた。倫は胸の高鳴りを抑えながら自分の小指を絡めた。
 細い指のシルエットが、明け方の光の中で浮かび上がり、雨に濡れる。
 倫が来栖の手を引こうとすると、至流がやってきて訴えた。
「眩暈がする。気持ち悪い」
 我に返った倫は、二人を屋根の下に誘導した。至流の顔が赤らんでいる。来栖の手もひどく熱いことに気づいた。
 来栖が目を見開いて周りを見渡し、至流と倫がいるのを確認して呟いた。
「どこにも行きたくない。どこにも行かないでほしい」
 来栖に、倫は首を縦に振りながら言った。
「僕は地上に残る。だから、いつかまた、ここに集まろう」
 三人は手を重ね、固く頷いた。

旅は東京タワーを鑑賞したところで終了した。倫は、幻雨に打たれながら移動するのは不可能だと判断し、学園に連絡して迎えに来てもらうことにしたのだ。
 倫は二人とは別のエアカーを案内された。一緒に乗りたいと告げたが、二人は人間の医師と、人間型のロボットであるHIHuman Inteligemceが看るから邪魔になると言われ、従わざるを得なかった。学園に着いた後、倫は心労からか、しばらく病床についていた。級友の幾人かは見舞いに来てくれたが、至流と来栖が顔を出すことはなかった。倫は来訪者に聞くまでもなく、もうここで二人と会うことはないのだと悟っていた。
 翌日から復帰できるという日、教師の一人が尋ねてきて、倫に封筒を渡してきた。首を傾げながら中身を見た倫は、思わず息を止めた。それは来栖の東京タワーの絵だった。別れてから加筆したのだろう、幻雨に打たれるタワーの輪郭は輝きを帯び、まるで希望が滲んでいるように見えた。

2.
 倫は敷地を見回りながら、植物たちの健康状態を確認していた。
 ここ筑波実験所は、地上で生き永らえている動植物を集合させて調査している場所だ。来栖の、地下人が地上で活動できるようになったらいいのに、という願いが忘れられなかった倫は懸命に勉強し、ここで研究者の籍を得たのだ。
 池の縁では、ひょろりと背の高い男性が足元を見つめている。先輩の椎葉だ。
「何してるんですか?」
 声をかけると相手は振り返った。ぼさぼさ頭に無精髭の椎葉は、その風貌に似つかわしくない可憐な花を手にしている。
「ナズナを別の場所に植え替えようと思って。一度屋外に出してから戻すと、生命力が強くなる」
「外に出すと、幻雨で弱りそうなものですけど」
 倫の言葉に、椎葉は頷いて告げた。
「僕にとっても意外な結果だった。ところで、君の研究は進んでいるのか? 免疫学だと、実験用のマウスの調達も大変だよね」
 その言葉に、倫は俯いて告げる。
「実証が難しいというのもあるんですが、費用が出なくて。餌代もバカにならないものですから」
「その点、植物は優秀だよ。水と光があれば生きていけるから」
「羨ましいですね」
 溜息をつく倫に、椎葉は取りなすように告げる。
「まあ植物も、温度調整とか防水とか、大変な部分はあるけどね」
 先輩の言葉に、倫は考え込みながら頷いた。
 実験所の研究者は複数の役割を兼任していたが、倫は植物の管理を手伝っていた。もともと植物が好きだったし、三人で見た東京タワーの植物が忘れられなかったので、喜んで手助けしたのだ。あの別れの後、倫は大学、そして研究機関へと進む中で、つらい時は来栖の絵を眺めて彼女の願いを思い返した。
 幻雨によって地下に逃げた富裕層は、生活圏に資源を持ち込み、地上にいた頃と遜色ない技術を発展させていると聞く。一方で地上人は、免疫を獲得した体と地上に残ったリソースを活用しながら文化を再構築するというスタイルで発達してきた。
 地下人が移動した当初、地上人は地上に取り残された恨みを、地下人は逃げた後ろめたさと地上人への差別意識を持っていたと聞く。地下人と接する機会がない倫は、昔の人が抱いた負の感情は、想像はできるものの理解はできない。しかし、地上と地下の断絶は慣習として続いている。
 来栖の願いである、地下人が地上で暮らせるようにするための手掛かりとして、倫は、地上人が持っているであろう阿幻への免疫機能を研究しようとした。地下人が持っておらず、地上人が持っているはずの機能を調べるには地下人の協力が必要だが、交流がないため、実現のめどが立たない。
 倫は藻に覆われた水面を見つめながら、ふと思った。
 家畜が持つ阿幻に対する免疫は、あまり強くない。野生動物も、なるべく雨を避けている。
 そんな中、幻雨に最初に晒され、影響を受けたのは、動くことができない植物である。
「先輩、幻雨は植物にとっては有害ではないのですか?」
 倫が尋ねると、椎葉は考えながら告げた。
「雨は菌を含んでいるから、恵みをもたらすと共に有害でもあるんだ。もともと植物は雨に対して抵抗力があるんだと思う」
 そう語りながら、椎葉が手で建物を指し示した。
「そろそろ昼だよな。お客さんが来るらしいから、迎えに行こう」
「来客? 珍しいですね」
 倫の言葉に、椎葉は頷いた。
「今回は特に珍しいお客さんだよ。地下の東京芯都心から研究協力で来るんだって」
「地下から? 地上と地下は往来が制限されてますよね」
 思わず声が大きくなった倫に、椎葉は当惑したように言った。
「よくわからないが、研究者、という形で入ってくるらしい」
「昔の使節か大使みたいなものですかね」
 その会話の数分後、倫は地下から来た研究者の自己紹介を聞いていた。
「地下の東京芯都心から研究のために来ました。私のことはミライと呼んでください」
 複数の女性の声を合成させたような、心地良いが無個性な声だった。
「予め言っておきますと、私は人間型のロボット、HIHuman Interfaceです」
 ミライの言葉に、倫は納得した。幻雨に打たれると発症する地下人が地上に来れば、行動に制約が出る。その点、HIであれば問題ないし、交流が失敗した時の害が少ない。
 ミライはよどみなく語った。彼女は地上の動植物の研究のために来ており、それを元に地下の食糧の研究を行う予定なのだという。地下の環境はコントロールされており、安定した収穫が得られるが、変化が少ないので伝染病の発生などを恐れているという。そのため、混沌とした地上の生態系の中から新しい発見を見込んでいるそうだ。
 研究員たちはすぐにミライの存在に慣れていった。倫は、ミライが頻繁に植物ゾーンに現れることもあり、よく話をした。植物のデータだけではなく種苗も持ち帰れるように聞いてみようか、と倫が告げると、ミライは言った。
「大変ありがたい申し出です。そんなことができるとは想定外でした」
「地下と地上の交流は制限されてるからね。僕はそういうの、なくした方がいいと思ってて」
 倫がそう言って研究員たちに掛け合うと、今後はもっと地下と関わった方がいい、という倫の言葉が正論に聞こえたようで了解を得られた。

ある日、実験所のドームの外で幻雨に濡れる植物を観察していると、人影が見えた。
 細い体に白い顔。遠目なのではっきりとは分からないが、来栖によく似ているようだ。倫は慌てて人影を追いかけた。すると相手は身をひるがえして駆けていく。その小さな体は植物の間に紛れやすく、すぐに見えなくなった。周囲を見渡していると、誰かに呼び止められた。ミライだった。
「どうしたのですか?」
「知人の人影が見えた気がして。でも見間違いだったのかもしれない」
 冷静に考えると、来栖は地下にいるはずだし、彼女は幻雨に打たれると症状が出るはずだから、ここにいるわけがないのだ。
「この辺りは、めったに人が来ませんしね」
 確かに人の気配がない場所だった。気づけば幻雨はやんでいて、雲間から光がほの見える。周囲に散らばるガラスの欠片や廃棄された家具が、日光を受けて煌めいた。
「きれいですね。初めて見るのに懐かしいです。ずっと前からこんな場所に来たいと思っていた気がします」
 独り言のようなミライの声を聞いて、倫ははっとした。
 初めて秘密の場所に案内した時、来栖がそう呟いた言葉。
 思えば、あの時初めて、来栖のことを強く意識したのだ。
 思いが溢れそうになり、倫は必死で言葉を探した。
「似たような映像を見たんだろう」
 何とも間抜けな発言だと、倫は自分を恥じたくなったが、ミライは真剣な表情で頷いた。
「私の中にある情報は、私を設計した人が入れたものです。だから私の知っている景色や私の発言は、誰かが見た景色や言葉である可能性があります。」
 倫はミライの顔をまじまじと見た。
 ウェーブのかかった黒い髪にアーモンド色の肌、黒い瞳が輝いている。明るく力強い雰囲気は、来栖とは似ても似つかない。しかし今の言葉は来栖のものだ。ミライの中に、来栖の過去が、来栖の言葉があるというのか?
「教えてくれ。君の中に、来栖という人の記憶はあるか?」
 胸が高鳴る。さきほど見かけた来栖と思しき人影を、頭の中で何度も反芻する。
 ミライは倫を見つめた。
「私の中にあるデータは、元データに紐づいておりません。だからデータの元が何かの媒体なのか、誰かの記憶なのかは分かりません」
 ミライの口調に、心なしか申し訳なさそうな色が混じった。
 HIは人の気持ちに合わせて表情や声色や仕草を変える。地上のHIはまだ不自然さもあるが、目の前のミライは人と遜色なく対応している。倫はその時、地下の技術の革新性を実感した。
「私にできることであれば協力します」
 それを聞いた倫は、考えながら口を開いた。
「じゃあ、君を設計した人を教えてもらうことはできるか?」
 その質問に、ミライは首を傾げていたが、やがて言った。
「私の中の情報に、設計者のデータは見当たりません」
 倫が落胆して俯くと、ミライは告げた。
「ですが、場所とデータを照らし合わせれば、私が疑似意識を得た場所を確定することは可能だと思います。ただそこは地下ですし、地下と地上の移動は限定されています」
 ミライの言葉に、倫は頷いて言った。
「ありがとう。地下へ行く手段を探したいが、君が戻る時に隠れて同行することはできないか?」
 ダメでもともと、という感覚で告げる倫に、ミライは意外な回答をした。
「私の体は人の体と組成を似せているので、移動の時は人間と同じ方法を採ります。私は半年程度で地下に戻りますが、手荷物に入っていただければ、安全面で問題はないと思います」
 有難い申し出だった。倫が驚いて礼を言うと、ミライは微笑みを浮かべて告げた。
「植物の採取ができたのは、あなたの提案のおかげです。今回はその荷に隠れていただくので、ご自身の行いのおかげですよ」
 倫はミライの計画に従った。期日が来ると、彼女は積み荷を工夫し、大きな手荷物にスペースをつくってくれた。倫は疑われないように数日前から休職届を出し、ミライとは地下へのゲート付近で落ち合い、荷物の中に隠れた。
 ミライは倫が入ったケースを持ってすみやかに移動した。地下への乗り物は箱状のもので、簡略化して言えば長いエレベーターとのことである。積み荷の中で身を潜めていると、ふわっと浮き上がるような感覚を覚えた。
 どれくらい経っただろうか、しばらくして積み荷が移動する気配と共に、唐突に眩しい光を浴びた。眩んだ目で何も見えない状態のまま、倫はミライに手を取られて足を踏み出した。そこは初めての地下世界、東京芯都心だった。

3.
 東京芯都心は整った都市で、整備された道、区分けされた街、清掃された公園、行きかう人々も小奇麗な格好をしている。ミライについて歩く倫は戸惑いを覚えながら歩いた。
 やがて白い建物の前に来ると、ミライは倫に告げた。
「ここは私が最初に疑似意識を得た場所ですので、手がかりを探そうと思います。向かいの公園に座って待っていてください」
 倫は公園のベンチに座り、ミライが入口から建物に入っていくのを見送ってから、ビルを行きかう人々をなんとなく眺めていた。
 舗装された道路を通るのはエアカーで、傷一つないボディを輝かせながらすいすいと走り去っていく。道行く人々の服装もきれいで整っており、余裕のある生活をしているように見える。
 目の前の白い建物は、断続的に人の出入りがあった。倫はミライが出てくるのを待ちわびながら、人の流れを何となく追っていた。そんな中、胸がどきんと高鳴った。肩先を前後に揺らすような、独特の歩き方。遠い昔、東京タワーへと旅した時に目にした頼れる背中。至流の後ろ姿だった。しかし一方で、歩き方以外の要素は変わっているようだ。背は更に高くなり、横幅はあまり増えずにすらりとしている。
 倫はミライのことを忘れて至流の後をつけた。至流はしばらく歩くと空に向かって手を上げた。すると無人のエアカーが空から降りてきて止まった。
 乗り物に乗られてしまっては、追うことができなくなる。倫は賭けに出ることにした。至流の目の前に走り出て、相手を呼び止めたのだ。もしも本人だったら反応するだろうし、違ったら謝って逃げるつもりだった。果たして至流と思しき相手は目を見開き、目をごしごしとこすって告げた。
「もしかして、倫? ……ほんとに? どうやって来たんだ」
 地下で治療を受けたのか、眼鏡はかけていなかったが、すぐに現実を受け入れる柔軟性は相変わらずだ。倫は思わず少し笑ってしまった。
「そうだよ。至流、久しぶり。また遭えてうれしいな」
 倫のその言葉に至流は破顔したが、周囲を少し見渡すと、エアカーを呼び止めて倫を招き入れた。車が出発すると至流は目的地を告げ、倫の方を向いて言う。
「地上から来たんだろ? なるべく見られない方がいい」
「ありがとう、確かに人に見られるとまずいかな」
 そう告げると、倫は一通り至流に説明した。今は地上の実験所に勤めており、地下から交流の一環としてHIのミライが派遣されてきたこと。彼女は地上の動植物のデータ採取のために来たこと。ある時ミライが来栖と同じ発言をしたため、倫はミライと共に地下を訪れる決意をしたこと。
 そこまで語ると、倫は至流へ向き直って告げた。
「なあ至流、あのミライのコアの部分をつくったのは君なんじゃないか? ミライは地上の屋外で、初めて見るのに懐かしいって言っていたが、あれは至流と一緒に聞いた来栖の言葉だ」
 倫が告げると、至流は前を向いて告げた。
「後で説明する。家に着いたから入ってくれ」
 至流が手で指示したのは、白い箱のような家だった。至流が近づくと穴のような入口が現れ、中に進むとリビングに出た。
「きれいな部屋だな。昔の散らかし癖は治ったんだな」
 倫が溜息をついてから告げると、至流は顔をしかめて言った。
「散らかったままでいいのに、ハウスキーパーAIが勝手に整えていくんだ。ものの位置を変えるからむしろ困っていて、書斎と研究室は鍵をかけている」
 倫は、部屋も机の上もひどく散らかしているのに、片付けると怒り狂い、しばしば教師を当惑させていた至流を思い出して笑ってしまった。
「自分の手でやらないと、かえって不便なんだな」
 そう言って倫が勧められるままにソファに腰掛けると、至流も隣に来た。
「何から話せばいいのか迷うけど、思いつくままに言う。わからなかったら聞いてくれ」
 そう言うと、至流はとめどもなく話し始めた。
 あの別離の後、至流と来栖は地下に連れてこられ、身寄りのない子どもたちが身を寄せる施設に入れられた。その施設は学園とは比較にならないほど豊かできれいだったが、清潔で整った場所を苦手とする至流はしょっちゅう脱走していたという。
 賢い至流はやがて里親に引き取られたが、彼は里親の家では更に脱走を繰り返した。結果、里親も業を煮やし、施設に戻された。それでも至流は勉強ができたので、更に上の教育機関に進み、エンジニアになったのだという。一方で来栖は、絵や音楽といった芸術方面が得意なのが幸いしたのか、かなり早い段階で里親が決まり、それ以来しばらく会うことがなかった。
 やがて至流が経済的に自立し、技術者として働くようになると、空間広告や物質デザインの作家として来栖の名を見かけるようになった。風の噂で、彼女は画家としてキャリアを築いていることを知った。うまくやっているんだろうと思っていたところ、本人が突然連絡してきたそうだ。
「来栖に、HIの人格のモデルになってほしいって頼んだのか?」
 倫が尋ねると、至流は首を横に振って告げた。
「俺が頼んだんじゃない。これからつくるHIが向かうのは筑波実験所だって言ったら、来栖の方が自分の情報を使ってほしいって言ったんだ。事前に知ってるみたいだったから、俺が何をしているか調べてたんだと思う」
「なんでそんなことを」
 首を傾げながら倫が呟くと、至流は彼をじっと見つめて言った。
「分からないか? 俺は分かる気がするよ。お前たち、お前はよく筑波実験所で働きたいって話をしていた。来栖は、もしかするとお前がそこにいるかもしれない、って思ったんだろう」
 記憶の中のあの日々が甦る。倫の目の奥が痛くなった。
「それでお前は、ミライの人格のコアの中に、来栖の記憶を入れたのか」
「ああ。地下人の活動はログ化されているから、どこで何をして、どんな情動を得たのかはデータとして取得できる。でも地上の活動は来栖に聞くしかないから、来栖に言われたままの記憶と、怪しいところは来栖に質問して反応を見て推測して入れた」
 至流はそう答えると、考えながら告げた。
「あと来栖は、ミライが戻ってきたらログを見せてくれって言ってた。お前とミライが関わることを見越してたんだろう」
 言いながら彼は、指を振って空中モニターを呼び出し、パネルに入力していく。
「これが最近の来栖。すぐにヒットするのは有名人だからだ」
 映像の中の来栖は、何かのインタビューらしきものに答えていた。髪はさらに伸び、話し方も昔より落ち着いている。それでも、青ざめて見えるほどに白い肌と思慮深い眼差し、熱が入ると手を握りしめる癖などは昔と同じだった。
 映像を見ていると、実験所の屋外で見た人影が脳裏に浮かぶ。
 細い体に白い顔。遠目なのではっきりとは分からないが、来栖によく似ていた。もしかして、あれは本当に来栖だったのだろうか?
 思いに耽っていると、空中モニターを切り替えていた至流が言った。
「ミライが到着する」
 そう言っているうちに、告知音が鳴った。モニターを見るとミライの顔が写っている。至流がパネルを操作すると、そのままミライが入ってきた。
「こちらにいらっしゃいましたか。手間が省けました」
 その言葉に、倫が頷いて呟く。
「君の中には、来栖がいるんだね」
 ミライは至流の方を見た。
「俺が君を設計したことは知ったよな。もう倫に話してある、大丈夫だよ」
 至流が告げると、ミライは頷きながら言った。
「では、来栖さんという方は、私の中にあるのですか?」
 ミライの問いに、至流はゆっくりと頷いた。
「君の人格のコアに、来栖がいるのは間違いない」
 説明を聞いて、ミライは倫の方を向いて語った。
「あなたの推測は正しかった。私の答えがかつての来栖さんの言葉になるのなら、何なりと質問してください」
「いや、せっかく地下に来たんだ。来栖に直接聞くよ」
 そう言う倫に、至流は表情を消し、首を横に振った。
「それは出来ない」
「どういう意味だ?」
 至流は、目を見開く倫を落ち着かせるようにゆっくりと告げた。
「来栖は亡くなったんだ」

自動運転のエアカーの中で、三人は黙っていた。
 倫はポケットから小さな紙を取り出して至流に渡した。それは来栖の描いた東京タワーの絵だった。
 至流はその希望が滲んでいるような絵に見入ると、視線をずらして顔を上げた。倫には彼の表情は見えない。暫くの後、至流は深いため息をついて話し始めた。
「画家として成功した後、来栖は悩んでいたらしい。有名になった作品を超えるものが描けない、と言っていたって聞いた」
「でも、いろんな仕事を手掛けていたんだろ?」
 倫が尋ねると、至流は頷いて言った。
「ああ。来栖の作品はすぐに売れたし、直近の仕事でも評価は得ていたはずだ。本人の中の問題だろう」
 倫は頷いて、エアカーの車窓から外を眺めた。澄んだ青い空に真っ白な雲。どういうしくみの映像なのかわからないが、かつて地上で見ることができた清浄な情景がここにある。
「納得していないのは来栖だけなら、評価基準も自分だから、解決も難しいだろう」
 倫の呟きに、至流も頷いた。
「そう思う。訃報を聞いた時、俺がもっと頻繁に会っていたらこんなことにはならなかったのかもしれない、って思った。でも」
 言いかけて至流は、自嘲気味に呟いた。
「そんな思いもうぬぼれなのかもしれない。俺がいても」
 それに続く言葉は何だろう。
 それとも、自分が身近にいれば、結果は違ったのだろうか。
 そう思った倫は、急速に、大事な時にいられなかったことに対するどうしようもない憤りと悲哀に支配された。
 エアカーは大きな屋敷が並ぶ一帯に入った。中でもとりわけ敷地が広い家の前に到着すると、三人は車を降りてその邸宅を眺めた。
「ここが来栖の家なのか」
 倫が溜息をついて言うと、ミライが頷いて口を開いた。
「ええ、来栖さんは画業で成功し、富を築き上げました。今ご案内しているのは、私が地下に戻ったらここに来るようにと、来栖さんから伝達があったからなのです」
「来栖は、自分が死んだらミライがここに来るように、遺言で指定していたそうだ」
「どういうことだろう」
 倫の言葉に、ミライも当惑したような口ぶりで告げた。
「私にもわかりませんので、これから確かめるところです。私のIDで入れるそうですので」
 ミライが入口から入ると、壁の一部が開いて中に入ることができた。倫は内部に進むにつれ、懐かしいにおいを嗅いだ。煉瓦の欠片、何かの樹脂、松脂の匂い、何かの薬剤など。恐らく来栖が画材に使っていたものだ。そこに来栖の本質がある気がして、倫は先頭に立って進んだ。すると天井が硝子の吹き抜けになっているアトリエらしき場所にたどり着いた。
 倫は部屋に進み出た。ミライが巨大な空中モニターを呼び出してアーカイブを参照する。至流はモニターを覗き込むと、指さして告げた。
「来栖の作品だな」
 至流はモニターを示しながら倫に説明した。地下で人気の仮想世界のデザインや、各種機器のOS Operating Systemの背景にもなっている作品。皆に愛されているキャラクター。来栖の原画は小さな絵すら、熱心なコレクターがついているのだという。
「こんなにたくさん描いていたのか……」
 倫はモニターから視線をずらし、アトリエに置かれた絵を眺めた。具象も抽象も混ざっていたが、素人の倫の目にも、来栖が更に腕を磨き、技巧に優れて個性もある画家になったのだと分かった。
「もし知っていたら、死因を教えてもらえないか」
 倫が尋ねると、至流は遠くを見る目をして言った。
「病死と聞いている。自死じゃない」
「そうか。どこか悪かったのかな。来栖はどうして死ななきゃいけなかったんだろう」
 その言葉と共に、突然、空中モニターの映像が切り替わった。そこに写っているのは来栖その人だった。痩せて憔悴した表情だが、目の光は昔のままだった。
「久しぶり、倫。この映像は、あなたの声が私の名を呼ぶと流れるようになっています。一方的に話しかける形になってしまって、本当にごめんなさい」
 倫は目が熱くなった。映像の中の来栖が続ける。
「陳腐な物言いで申し訳ないけど、今、私はもう既に死んでいることになるね」
 その時倫は、来栖がベッドに横たわり、介助用と思しきHIに支えられながら話をしていることに気づいた。
「私の体は衰弱していて、もう治らないって言われてる。体を壊した理由は……順を追って話すと、私は画家として成功した。そして一番有名になった絵は、三人で幻雨に打たれた時の幻覚を描いたものだった」
 来栖は少し俯いて休むと、顔を上げて続ける。
「もっといい作品を描こうと努力した。でも私は、自分の新作が昔の絵を超えていないことが分かっていた」
 来栖の声に、悲痛な色が混じる。至流がぼそりと呟いた。
「昔から生真面目だったからな。そこそこうまくやれればいいのに」
 それができないのが来栖だったのだと、倫は思う。モニターの中の彼女は言葉を続ける。
「行き詰った私はこっそり地上へ行き、幻雨に打たれた。そうすれば、昔みたいな情景を見ることができると思った。確かに幻覚は見えた。でもそれは、三人で見たような豊かなビジョンではなかった」
 それはそうだろうと、倫は思う。
 あの日見た情景が特別だったのは、三人で見たからだ。
「何度も地上に行って幻雨に打たれた。その結果、体を壊した。後戻りするには遅すぎた」
 多分来栖は焦っていたのだろう。最初の栄光を超えたいという気持ちはわからないでもない。しかし手段を選ばなくなってしまっては、破滅が待つばかりだ。
「私は愚かだった、でも多分、結果を知っていても同じことをしていた。地上に行ったのは絵のためだけではなくて、倫に遭えるんじゃないかと期待していたんだと思う」
 自分の名を呼ばれて、倫は心臓がびくっとなった。
 あの日、筑波実験所で見た人影、あれは本当に来栖だったのだ。
「だから至流に、ミライのコアには私の記憶を入れてもらえるように頼んだ。ねえ倫、今ここにいるのは、ミライの中に私の面影を見つけたからでしょう? それだけで私は嬉しい」
 そう告げる来栖の顔は、微笑んでいるように見えた。倫は目を離せない。
「それで、倫にお願いがあるの。ねえ、地下の人間が地上に出られるようにしてもらえないかな? 過去に約束したよね」
 甦る。地下人が、地上で活動できるようになったらいいのにという来栖の言葉。それを実行してほしいという来栖の願い。交わした約束。
「そうすればきっと、地上と地下で別れて悲しい思いをする人間もいなくなる」
 映像の来栖はそう懇願すると、美しい笑みを浮かべた。映像は暗転した。

4.
 倫は呆然としていた。
 来栖の死因は、幻雨のせいだった。
 幻雨の中毒になり、衰弱して亡くなるまで、地上に出て幾度となく打たれたのだろう。来栖を高名にした絵が、絵に描かれたビジョンが、結果として彼女の枷になったのだ。
 空間を見渡した。アトリエには天井のガラス窓から光が差し込み、中央に置かれたカンバスに金色の筋を投げかけている。
 倫はゆっくりと近づいた。小さな絵だった。画布に近づくと無数の色味が滝のように流れ、揺らめいているように見える。少し離れると、緑の塊は植物で、隙間から橙の色味が覗いているのが分かる。それは緑に覆われた東京タワーの輪郭を、空から差し込む光が覆っている情景のようだった。角度によっては絵全体が虹色の塊のように見える。
「来栖を有名にした絵だよ。そのイメージはさまざまな場所で流布したんだ」
 至流が呟くように告げると、倫は衝動に憑かれて絵に手をかけようとした。至流が駆け寄って手を抑える。
「何するんだ。それは来栖が遺したものだろ」
「でもこの絵が、来栖を苦しめた」
 倫は吐き出すように言った。言葉が止まらない。
「あの日、学園から出るんじゃなかった。東京タワーなんか行かなければよかった。あそこで幻雨に打たれなければ、こんなに来栖が苦しむこともなかった」
 そう言って再び拳を振り上げると、頬にすさまじい痛みを感じ、横転して床に転がった。目の前には至流の怒りに満ちた顔がある。
 倫は唖然として至流を見る。
 至流にそんなことをされたのは初めてだった。そして、至流がそんな形で感情を行動に結びつけるのも初めてだった。額から流れる汗と、口に広がる鉄の味に、奇妙な現実感がある。
「じゃあ、あの日の約束はなくていいのか」
 低い声でそう告げると、至流は倫の胸倉をつかんで引き寄せる。昔よりも細くなったのに、腕はむしろ強い力を帯びていた。
「一緒に過ごした時間を否定するのか。そもそも出会わなければよかったのか。お前は自分が苦しまなければ、後悔しなければ、それでいいのか」
 見上げるとぶつかる、鋭利な光を帯びた瞳。
 その言葉で、倫は至流が、来栖のデータをミライに登録していたことを思い返した。
 仕事がどの機関の依頼なのか知らないが、大きな組織であることには違いない。至流はある程度の裁量は持っているだろうが、恐らくもろもろの調整や根回しがが必要だったはずだ。それは至流が、倫と来栖の関わりを見守っていたからやってくれたに違いなかった。
 至流は不意に力を緩め、小さく告げた。
「俺がやってきたことは、なんだったんだ」
 やってきたこと、という言葉には、時の経過を感じさせる。
 至流の思いは、蓄積されたものだったのだろうか。
 倫は俯き、ぽつりと呟いた。
「ごめん」
 至流の感情は、今の倫には推し量れない。
 しかし、至流の努力と思いを無下にしかけていたのは分かった。
 至流がやってくれたことを、来栖の思いを倫に伝えるというその行為を、決して無駄にしてはいけない。三人が関わった濃密な時間を忘れてはならない。
 ゆっくりと身を起こす倫に、畳みかけるように告げる声があった。
「来栖さんは、むしろ、あなたにその絵を見てほしいと思ったはずです」
 ミライだった。彼女の手が倫の手に触れる。細い指だった。
 手の感触から、倫はふと、来栖と交わした小指の約束を思い出した。あの時来栖は、地下人が、地上で活動できるようにしてほしい、と主張した。そして今、地下の人間が地上に出られるようにしてほしい、と言っているのだ。倫はその言葉と対峙しなければならない。
「至流、僕は来栖の遺言を守る」
 そう告げると倫は、天窓から降りそそぐ光に顔を向けた。
「地下人が地上で暮らせるようにするという話か。だとすれば、人間を変えるか、気候を変えるかだけど、気候を変えるのはリスクが大きすぎる。だったら人間を変える方になるな」
 そう尋ねる至流に、倫は首を縦に振る。
「地上人しか持っているはずの身体機能を調べるには地下人の協力が必要だけど、地下との交流がなくてできなかった」
「手掛かりはないのか?」
 そう言われた倫は、画布に満ちる緑の色味を見つめた。
 地上で椎葉は、植物はもともと、雨に対して抵抗力を持っている、と言っていた。
 では、植物が持つ幻雨への免疫の手掛かりを知ることはできないだろうか。
「思いついたことがあるんだけど。地下で植物を研究できる施設はあるかな?」
 倫の言葉に、至流よりも早くミライが反応した。
「筑波実験所に似た新地下植物園があります。以前そこに所属していたので、出入りできます」
「ちょうどがいい。今から訪問可能かな? 地上の植物と比較したい」
 倫がそう尋ねると、ミライは少し黙った後、首を縦に振る。
「大丈夫です。施設の予約が取れました」
「ありがとう」
 倫が言うと、ミライは微笑んで頷いた。
 三人は新地下植物園に赴いた。地下のコントロールされた天気の中で、植物は均一に形よく育っていたが、心なしか地上のものより大人しく、勢いがないように思えた。
 そんな中、ミライは地上から持参した植物を取り出した。モデル植物は生活環が短いナズナや、構造や生理機能がナズナと正反対でゲノムサイズが小さいイネなどである。
 ひときわ色鮮やかなアサガオが倫の目に留まった。ミライに尋ねると、彼女は赤や青、水色や紫など、様々な地下のアサガオが咲き誇る場所に導いてくれた。倫が地上と地下のアサガオを比べると、遺伝子にわずかな変異があるようだ。両方のアサガオに阿幻を垂らして反応を調べてみる。
「どうするつもりなんだ?」
 至流の言葉に、倫が頷いて告げる。
「アサガオのゲノムは均一だから、遺伝子変異を検出しやすい。地上と地下のアサガオを調べると、地上の方は雨が降るとより強く免疫が発動しているみたいだ。地上のアサガオだけが持つ免疫細胞が判明するかもしれない」
 至流が感心したように頷く。
「来栖の言葉に近づいた。そんなことが分かるんだな」
「比較できるから分かったことだ。ひょっとすると細胞治療だけじゃない、遺伝子治療薬を開発できる希望だってある」
 倫の呟きに、ミライが返した。
「私が命じられた研究対象は、植物を食糧として活用すること、でした。地下人が地上で暮らせるように、という目的は含まれていません。それは恐らく、地下人が地上で暮らすことを想定していないのでしょう」
「そもそも可能だと思っていなかったし、今の時点で要望もないってことか」
 至流が唸る。倫は頷きながら聞いた。
「来栖の願いが特別だったってことになるのか?」
「地下人には、来栖が願ったようなことの発想自体がなかったということだろう。地下に住み始めた頃はあっただろうが、生活が安定すると問題にもならなくなったのかもしれない」
 至流がゆっくりと告げる。
「もしも、地上人である僕や、もともと地上にいた至流が研究を進めても、見向きもされない可能性もあるんだろうか」
 倫が呻くように言うと、至流がゆっくりと頷いた。
「残念ながら恐らく」
 そう言った後、至流は考えながら付け加えた。
「むしろ反感を買う可能性もあるな」
 その言葉に、倫が至流の顔を見ると、遠い目をしていた。
 倫は思い返す。
 至流は自分のことは感情を交えず話していた。恐らく彼は、見えない差別などにも対面してきたのだろう。その過去に、その思いの深さに、一瞬触れたような気がした。
 倫は地下の整った施設と、窓から見える管理の行き届いた植物園、そして地下に属する新しい存在、ミライを見つめた。
「この情報は、ミライ、君に託したい。君が地下の誰かに伝えるのでも、潜在的に情報を持っているのでもいい。できれば地下人に発見してもらい、発展させてほしいと思う」
「わかりました。ただ……」
「難しいって言いたいんだろう。分かってる、それが果たされない場合は、いずれ俺が地上から働きかけるよ。そのために地上で実績を出す。免疫学でも植物学でも、なんだってやるさ」
 倫がそう告げると、至流が口を開いた。
「俺も地上に戻る」
 倫が驚いて至流を見ると、彼は続けた。
「地下では教育を提供してもらった。それは感謝している。でもここで一通りのことは学び終えた気がするんだ。俺が行くことで倫の助けになるなら、一緒に行きたい」
 その言葉に、倫は至流の手を取った。その掌は昔の柔らかさはなく、固く骨ばっていた。

二人はミライの手引きで積み荷に入った。別れ際、ミライは倫に小さな包みを渡した。少し開いてみると、それは倫が破壊しようとしかけた来栖の絵だった。
「これを持っていってください。私の中の彼女がそれを望んでいます」
 ミライは驚く倫にそう告げると、微笑みを浮かべて地下へと戻っていった。
 倫はその表情を見て来栖を思い返しそうになり、懸命に上を向いた。目に入るのはどんよりとした空。今にも雨が降りそうだった。
「なあ、これから、東京タワーに行かないか?」
 倫の唐突な提案に、至流は目を見張ったが、数秒後に大きく頷いた。
 地上を歩いていると、土の臭気、植物の香り、埃の臭みなどが混然一体となって漂ってきた。倫にはその淀んだ空気が、地下の漂白された空気よりも心地良く感じた。
 やがて東京タワーが見えてきた。昔よりも巨大化している気がしたが、近づくにつれ、更に植物に侵食されているのだと分かった。かつては葉の間から橙が見えていたが、今は完全に緑の塊に見える。黄緑や深緑、ペールグリーンやモスグリーン、エメラルドのような輝かしい緑や翡翠を思わせる艶めいた翠。この世のあらゆる緑と生命を集結させたかのような塊を前にして、二人はただ息を呑んで立っていた。
 ふいに、顔に冷たいものを感じた。雨である。隣の至流を庇おうとしたが、彼は手で軽く倫を制して言った。
「俺にとって毒なのは分かってる。でも少しだけ、こうしていたい」
 倫は頷いてその場を離れた。至流を一人にしておきたかったし、一人になりたかった。
 幻雨があたる植物は艶を帯び、全体の輪郭が白く光る。塔は雲を突き刺さんばかりに伸び、光を求めているようだ。
 三人でここに来た日と同じ光景だ。
 ただ、来栖が、ここにいない。
 ほてった頬を、熱い雫と冷たい雫が混然一体となって滑りおちていく。
 どこにも行きたくないと言いながら、一番遠くへ行ってしまった彼女に思いを馳せる。
 倫はミライが渡してくれた絵を眺めた。明るい色調だ。しかし倫には、来栖を高名にしたその絵には、彼女が地上で最後に描いた絵のような希望を感じることができなかった。
 雨から庇いながら絵を見つめていると、涙で視界が滲み、絵の中の東京タワーも溶けていく。輪郭を失った塔は、風景と混然一体となって虹色の涙のように流れていく。
 混乱する視覚と触覚に身を任せながら、倫は急速に理解した。
 来栖の目に写っていたものは、今、倫が見ているものとは違うのだ。倫は、絵の情景を、虹色に濡れて輝く東京タワーを見ることはできない。それが倫の味わう孤独なのだ。
 倫は心の中で来栖に呼びかけた。
 あの日、三人でここに来ると約束した。でももう君はいない。だからここに君の絵を持ってきた。
 出会わなければ苦しまずにすんだ。でも出会わなければどこにも行けなかった。
 一人佇んでいると、後ろから肩を叩く手があった。至流だった。
 倫の心に、ふと想念が浮かんだ。振り返って至流の目を見つめる。
「なあ、僕たちは、どこかへ辿り着けるのかな?」
 至流の抑制した感情、来栖の抱えた苦しみ、倫自身の形にならない想いは、いつか互いの心に届くのだろうか? 
 そう思いつつ倫は、心のどこかで、過去にも未来にも、どこにも答えはないことを理解していた。
 そして過去の約束と、これから辿り着くべき未来への遺言を反芻した。
                                  了

文字数:19405

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