梗 概
アリアロンドの雲に還れ
七つの〈月〉がある世界。
骨を構成する主要元素スカルシウムは負の質量を持つ唯一の元素で、骨格を持つ生物が死に肉が分解されると、骨片は天に昇り集まり雲となり、発達した雲の中でスカルシウムは水に融解し、雨となって地上に戻る。そして新たなる命の糧となる。
スカルシウム建材で造られた天上都市アリアロンドは世界で唯一の空中都市国家で、同元素を利用した空輸システムの展開により小国ながら栄華を極めていた。空域保全隊の女性隊員ヴァレリーの仕事は、雲を食らって外骨格を成長させ続ける、巨大な害鳥・甲殻鳥の討伐。彼らの死骸は雲となり雨をもたらし、地上に蔓延するスカルシウム欠乏症(体が重くなり、やがて地に伏し動けず死に至る)も抑える。アリアロンドのスカルシウム独占を問題視する地上国家との軋轢がある中で、甲殻鳥討伐は国交に関わる重要な問題。しかし、ヴァレリーは私怨のために戦っており、隊では浮いていた。気象学者だった彼女の姉は球雲観測中に甲殻鳥に襲われ死亡したらしい。頼りにできるのは、姉の上司でもあった気象学者フェルドくらい。アリアロンドでは死者の骨を雲に還し、その雲が雨を降らすのを見届ける「雨葬」が一般的で、姉を食ったであろう甲殻鳥を雲・雨へと還すことは姉への弔いだったのだ。しかしどれだけ雨を降らせようとも、心は晴れなかった。姉の死の真相は未だ闇の中だったからだ。
ある日、巨大球雲近くに甲殻鳥の群れが確認され、ヴァレリーは単騎で向かうも、何者かの妨害を受け負傷し、その者らの飛行艇に捕縛される。彼らは地上の反アリアロンド勢力で、甲殻鳥の保護に動いていた。彼ら曰く、雲を食らうことで球雲の過剰発達を防ぐ甲殻鳥の排除を続ければ、球雲は成長を続け高度を増し、やがて〈月〉となる。つまり、巨大球雲は〈月〉の幼体だった。〈月〉が七つ未満だったことを示す歴史的文献もあり。〈月〉になると雲に戻り雨を降らす例は過去になく、地上で欠乏症は更に蔓延する。突飛な話だが、生前の姉の言動に思い当たる節があったヴァレリーはアリアロンドに戻って調査を始める。すると、姉も同じ考えに至っていたと判明するも、姉の上司だったフェルドに気づかれ、反アリアロンド勢力に内通したとして拘留される。同じく真相を知っていた彼は、公表を試みた姉を甲殻鳥の襲撃に偽装し死に至らしめていた。秘匿にした理由は、地上のスカルシウム総量の制限による、アリアロンドが誇る空輸システムの独占を維持するため。(正確には、その見返りに空輸システム役員から受け取る報酬が目的)
だが、甲殻鳥の群れがアリアロンドを襲撃。混乱に乗じて脱獄。騒動は反アリアロンド勢力が誘発したものだった。ヴァレリーは彼らと協力し、フェルドらの妨害をかい潜りながら、第八の〈月〉の幼体を破壊する。球雲は広い範囲に霧散する層雲となり、スカルシウム不足に悩む地上に大量の雨が降る。その雨は、姉の雨葬でもあった。
フェルドらは処罰され、アリアロンドでは、既に〈月〉となった球雲を雨に還す計画が発足。甲殻鳥の生態系維持も検討され、ヴァレリーもそこに注力することになる。
文字数:1287
内容に関するアピール
雨を構成する主要な物質は「水」ですが、それ以外の物質ならば一体どんな世界が出来上がり、どんな生物が生まれ、どんな社会が出来上がるかという疑問を出発点にしてみました。雨の持つ「(水の)循環」という性質に着想を得て、他に循環するものをということで生命を選びました。魂ではありきたりに感じたので骨としました。ただ、骨が上昇して雲になるのは考えづらいので、その構成主要元素として、架空の物質スカルシウムを導入しました。
そのスカルシウムの性質から、当初の疑問に則り、空中都市と空輸システム、球雲とその終極たる〈月〉、雨葬、甲殻鳥、スカルシウム欠乏症など、トップダウンで多様なカテゴリの設定をつくりました。〈月〉の幼体を破壊するクライマックスの大雨は、世界にとっても主人公にとっても救済を、読者にとってはカタルシスをもたらすものとして描きたいです。全てが円満に解決され、そして雨が上がり、雲の合間から差す薄明光線を見ながら。新たな目標が設定されるポジティブな雨模様となります。
文字数:432
雷月の空に捧ぐ
双月が沈み、暦が第七月・雷月を迎えると、姉さんの言葉をいつも思い出す。
「雷雲の絨毯を見下ろしながら空を翔けてね」つられて、耳の奥で遠雷が蘇る。「群青の空が日の出と共に燃え上がり、明滅する雲脈の峰々が朱に染まる。二つの世界の狭間で、雷の月が静かに座っているのを見るのが好きなの」
あの日の景色は忘れられない。北東の空低く、太陽と共に雲平線から昇った七番目にして最後の月は、右半分を陽光に熱く輝かせ、左半分は夜の静寂に飲まれて、鎮座していた。まだ雲喰らいの鳴き声さえ響かぬ早朝、防風衣さえ貫く朝の鋭い風。眼下の雲海の谷間を迸る稲妻。それら全てが姉の言葉と共に、記憶にと刻み込まれでいた。本来は一人乗りの空走艇を勝手に盗んで二人で乗ったのがフェルドさんにバレたときは雷を落とされて、小さかった私がフェルドさんを見ると今でも肩に力が入るのはそれがきっと原因だろうけど、そんな苦い思い出も含めて、雷月の出は私たち姉妹にとっての原風景だったはずだ。それ故に私たちは雲に生き、雲に死に、そして雨となる。
けれども、姉が本当に雨になれたのか、十度目の雷月を迎えても分からなかった。
私は今も、第七月の空に姉を探している。
「雲喰らい――すなわち骷髏鳥を殺せば、オスチウムを含む骨は雲となり、やがて雨となって地に還る。オスチウム欠乏症に悩む雨乞いの地上民に恵みをもたらすことができる。それが唯一の天上都市国家たる我々アリアロンドと、地上の諸国家との良好な関係へと繋がるのだ」
空域保全隊に入隊した日、熱く大義を語る総司令官の言葉に同期たちは目頭を熱くしていた。気真面目そうな男のカイトは涙ながらにうんうんと頷く始末。そんな中、私は一人、どう姉を探すかばかりを考えていた。
――骷髏鳥の群れに襲われた。
姉の調査隊の唯一の生き残りは肩を震わせてそう言った。あの雲喰らいの金切り声を空の底に落とす理由なんて、他にはいらない。国交とか、地上に蔓延する病とかどうでもいい。私はただ、姉の雨葬を完成させたいだけだ。CFに入隊すれば、私専用の空走艇が与えられる。骷髏鳥を殺す槍が与えられる。
「シーレのことは残念だった……けれども、ヴァレリー、君は君の人生を歩むべきだ」
新人歓迎会の盛り上がりに馴染めず、端のテラスから薄く伸びる層雲の上に冷たく輝く第三月・銀月を眺めながら酒をちびちび舐めていると、わざわざ車いすを移動させてきたフェルドさんが声をかけてきた。雲相学者の彼は、こういった場に常々顔を出してくれる。
「姉の悲劇を繰り返させないことが私の生き方です」
九割嘘ではあったが、彼の口を黙らせるには十分だった。あの調査を許可したのが他でもないフェルドさんである以上、彼も責任を感じているのだろう。
骷髏鳥を雲に還す日々が始まった。各地の浮島に敷設された気象観測施設からの電信を受けて、司令部が討伐対象を決定し、待機中の隊員に出撃命令が降る。そして数名体制で各々の艇に跨り、空へと駆け出すのだ。
空走艇は細長い白亜の流線形の車体に推進機関と浮沈機関だけを搭載した、水平移動特化の一人用ホバークラフト。空気より軽い唯一の素材たるオスチウムの結晶をふんだんに使用し、乗り手と合わせて空気中の相対質量を限りなく0に近づけることで、空を低燃料で滑るように移動することができる。昔みたいに、姉と私の体重の合計がフェルドさんとほぼ同じだから彼の空走艇を勝手に拝借することは大人になった今はできないが、今の私には自分専用の機体がある。初めて跨ったとき、心が震えたのを覚えている。これで、再び空へと飛び立てる。
最初の出撃任務は南西方向に四半日。雲一つなく、眼下にリヒーダ平原の広大な緑を見下ろせる空域だった。資料によれば、一帯は近年は雨不足に悩まされ、住民の二割がオスチウム欠乏症、地上民の言うところの落髌症を患っているか、その予備軍だと言う。
「ヴァレリーは落髌症患者を見たことがあるか」
通信機に前を飛行するカイトの声が入った。総司令官の言葉に涙を流した正義漢だ。地上に降りたことのない私は「いや」と返すと、彼は勝手に身の上話を始めた。
彼の母は地上の出身で、父はアリアロンドが諸国に展開する空輸業者、〈CW公社〉の社員であるらしい。それ故にアリアロンド人でありながら地上にも頻繁に出入りしていた彼は、母の故郷での落髌症蔓延を目の当たりにしたのだという。
「髌ってのは膝の皿を指す。体のオスチウムが不足して体が重くなり、膝から崩れ落ちるように立てなくなる。やがて地に伏し死に至る。人々が地を這うしかできなくなる様は、もう見たくないんだ」
だから、骨の主要構成物質たるオスチウムを外殻に大量に貯め込んでいる骷髏鳥を殺して雨にオスチウムを融かして降らせば、地上の落髌症蔓延は緩和できるらしい。カイト含め部隊の多くが地上の惨状を目の当たりにした過去があり、社会正義に目覚めた者ばかり。ずっと雲の上で暮らしてきた私には空域保全隊の掲げる正義に情熱を注げなかった。私が雨を降らすのは、姉のために過ぎない。
行く手の空に白い塊のようなものが見えた。一瞬、西の空に沈みかけている銀月に見えたが、本物のそれはまだ東の空で光っていた。
艇の通信機に部隊長の声が入った。「あの球雲が雲喰らいの巣だ」
直径百人長は越える程にまで成長した四等球雲が視界を広く埋め尽くすところまで接近すると、エンジンを逆噴射して空走艇を静止させた。球雲は雲と言いながら半ば固体化しており、既に内部のオスチウムは結晶化しているのか、遠目には白濁色の玉に見えた。そして何より目に付いたのが、周囲に群がる五つの白い影。人など軽く飲み込めてしまいそうな大きさの怪鳥、骷髏鳥。双眼鏡を通して見ると、その頭は棘だらけの頭蓋骨で覆われていた。骨で出来た牙も二つあり、体も翼を除き棘だらけの骨格で覆われている。大量のオスチウムを摂取し、貯め込んだ証。彼らは自らの外骨格を成長させることで、巨体と空気中での相対質量0を両立している。
「訓練の通りだ」と隊長が言う。「羽毛が露わの翼を狙え」
狙いをつけたのは、大きな嘴を雲に突っ込んでいる二羽。同時に倒すべく、私たちは二手に分かれた。最も軽い私が一番前に進み出た。大きく曲がりながら球雲に接するような軌道で走り、骷髏鳥が気づいて振り返るよりも早く、艇の車体脇に差していたオスチウム結晶を芯に使った槍を投げ、その翼を貫かせる。そいつは金切り声と共に翼をばたつかせ槍が抜け落ちるが、この槍も切っ先の金属と合わせて空中での相対質量を0に近い水準にまでオスチウムを使用した特別製。槍は宙を回転しながら水平移動するのみで、旋回用のサイドエンジンをふかして方向転換すれば、再び自分の手に戻すのは難しくなかった。もう一度槍をその骷髏鳥に向けようとしたそのとき、風音に紛れてもう一つ悲鳴が上がった。他方も奇襲に成功したようだ。そして私が追撃をかけるよりも早く、後続の二人が、先の骷髏鳥の翼に更にもう二つの風穴を開けた。
奇襲を免れた別の一羽が、後続の二人目掛けて降下してくるのが見えた。その一羽目掛け全速力で近づき、翼目掛け槍を伸ばし、引くように左右に薙いだ。金切り声と血飛沫が空に舞う。その個体は耳をもつんざく程の声と共にバランスを崩し、球雲の方に突っ込んで動かなくなった。
「三羽倒した」と二手に分かれた他方から連絡が入った。
「こちらも二羽」と私は答える。周囲を哨戒したが、まだ戦える力のある骷髏鳥は残っていなかった。
後は解体作業だった。空中でうまく羽ばたけずもがく骷髏鳥に慎重に近付き、槍を骨格の隙間から入れて絶命させると、懐の小刀を骨と肉の間に入れ込み、骨を引きはがしていく。やがて肉塊が草原へと落ちて言ったが、剥がした外骨格とその破片は付近を漂っていた。日が傾く頃には球雲を囲うように骨の輪が出来ていて、その間に結晶化しつつある球雲を中心部まで掘り進めていた隊長は、そこに散雲弾を仕掛けていた。
十分に距離を取ってから、隊長が起爆した。球雲の赤道部から衝撃波が飛び出したかと思うと、散乱する骨片を巻き込んでそれは白い波となった。球雲は赤道部へと吸い込まれるように潰れ、やがて全てが白い波と化すと、水平方向に拡散していく波は私たちの頭上を越えて、リヒーダを広範囲に覆う薄い層雲となった。
「四等球雲と五羽の骷髏鳥からこれだけの雲が」
カイトがぽつりと漏らしたのも束の間、私の頬に冷たい何かが当たった。あ、と私が漏らしたときには雨が降り注いでいた。
「球雲には大量の水分とオスチウムが含まれている。三等以上のそれなら、外縁部の柔い結晶から艇や建材が作れる程だ」隊長が言う。「骷髏鳥を巻き込んで広範囲に広げれば、地上に雨の恵みをもたらす」
「これで、地上の落髌症も改善されるんでしょうか!」雨に髪を濡らしながら、カイトが叫んだ。そうだ、と隊長が答えると、カイト含め他の三人は歓声を上げた。隊長も祝勝会は帰ってからだとたしなめつつも、その声色は随分と穏やかなものだった。
一方の私は静かに眼下を見下ろしていた。姉は雨となれたのだろうか。
けれども、地上に落ちていく雨粒をいくら見送ろうとも、それが姉の魂の欠片だとは、とても思えなかった。
「ヴァレリーは何が不満なんだ」
初任務成功の打ち上げは、同じ状況の別隊と合わせて隊舎で行われたが、オラスから取り寄せた羊肉や、市井には滅多に流通しない浮島葡萄の雲内醸造酒も振舞われ、同期らが酔いながら世界への貢献を嬉しそうに語っていた中で、私は淡々と料理をつまみ、粛々と酒を流し込むのをカイトに見つかった。
「俺らは、苦しむ地上民を救い、諸外国との友好な関係維持に貢献している。昨今じゃ、〈雷雨戦線〉だったか、反アリアロンド勢力が〈CW〉の空輸櫃を襲撃したって話もあるが、どうしてお前はそんなに呑気なんだ」
「たった一回、雨を降らせたくらいで浮かれ過ぎ。私たちにとって、これが仕事。これが日常でなければならない。毎回毎回酔っ払って悦に浸る余裕なんてないはず」
場が凍り付いた。隊長は「まあそういうことだ」とカイトをなだめて笑っていたが、他の同期たちは溜息をこぼしていた。その後、隊長が話題を切り替えたものの、どこか酒は温く、場も当初の盛り上がりを取り戻せなかった。
以来、骷髏鳥退治と雨を降らせる日々が続く中で、同期たちが次第に結束を深めていく反面、私を避ける人は増えていった。〈CW〉に対抗する空輸業者たる〈極北空輸〉を北方の複数の国家が連合して作ったというニュースや、見つけた無人の浮島の大きさ比べに一同が盛り上がっている時も、私はただ、自艇のフレームを磨いていた。
誰かが言っているのが聞こえた。ヴァレリーには正義感がない。
フェルドさんにもそれとなくたしなめられた。孤立するような振る舞いは止めるべきだ。
別の任務の後、先輩に面と向かって言われた。お前は何のために戦ってる?
私は何のために空を駆るのだろう。どれだけ骷髏鳥を雲に還そうと、どれだけ雨を降らせようと、シーレ姉さんがまだ空のどこかに囚われているような気が抜けないのだ。
だから、第五・六月の双月が連れだって昇った頃、お世話になったミハレおじさんが亡くなって上層の雨葬場に参列したときも、純粋に彼を送る気持ちになれなかった。事故死という悲劇にもかかわらずだ。勤務先の〈CW〉の仕事で地上に長く降りたためにオスチウム欠乏症予備軍となり、自艇との重量バランスを崩し、墜落したらしいというのに。
上空に雨雲が立ち込める日、髐灰の儀は執り行われた。上層の縁、大空に面した広場にて彼の亡骸は燃やされた。肉が煙となって消えると、赤い火の中から煤けた骸骨が浮き上がってきた。やがてそれは空気に融けるように骨片へと遊離し、やがて灰となって天上の雲間へと吸い込まれていった。雨が降るまでその場に留まり死者を語りながら食事をするのが通例だったが、ミハレさんの人柄のなせる技だろうか、皆が食べ終わるのを見計らうように雨が降り始めた。誰かが泣き崩れ、誰かが彼との思い出を雨に向かって叫んでいた。アリアロンドの縁に立ち、天上より舞う雨粒が遥か眼下へと消えていくのを、私は黙って眺めていた。
シーレ姉さんのとき、雨は降らなかった。遺体がなければ雨葬は行われない。だから、フェルドさんの発案で、姉さんのノートをここで燃やして髐灰の儀とした。次の儀の喪主に追い出されるまで、降らない雨を待ち続けた。
家族ともども仲良くしてもらったからミハレさんはちゃんと送り出したかったというのに、姉のことばかり考えてしまう自分が憎かった。背中を打つミハレさんの雨が優しくて、温かかった。私が彼を送るべきなのに、彼に慰めてもらっているような気がして、自分が情けなくて泣いた。
そして十一度目の雷月がやって来て、遠雷の音が届くようになった頃、私は自宅で辞表をしたためていた。自分の人生を歩むべきとのフェルドさんの助言の通りだと思っていた。
書き終えて、自室を出て玄関に向かう途中で、姉の私室の前に差し掛かった瞬間、私は立ち止まってしまった。雲間に消えた雷月の日から、本と埃で溢れかえった姉の部屋はそのままだった。立ち入ったのもたった一回だけ、遺体がなくとも見送りをしたい私のためにと、フェルドさんを招いて姉の研究ノートを焼くために取りに入ったときだけだ。あれで雨葬は完成した。完成した、はずだった。でも、あの日、雨は降らなかった。遠雷の音さえ聞こえなかった。私はずっと、雷鳴の轟きを空に探している。稲光を眼下に見下ろしながら、降りしきる雨を求めている。
その時、玄関扉がノックされた。車いすのフェルドさんだった。手に持ったままの辞表を背中側に隠そうとしたが、一瞬体が強張って、隠すのが遅れた。彼は息を吐いた。
「少し散歩でもしようか」
アリアロンドの街はオスチウム建材で多階層に渡って造られた空に浮かぶ城のような構造になっている。日光を浴びられるのも、雨を受けられるのも、縁か上層のいずれかだ。その一つ、大空に面した個人用ガレージに向かって、薄暗い路地を車いすを押しながら歩いていた。この沈黙をどう潰せばいいのかまるで分からず、そんな時、私はいつも仕事の話をしてしまう。
「〈CW〉の外部顧問を引き受けたと聞きましたが」
フェルドさんも姉と同じく昔は各所の空域を飛び回る雲相学者だったが、足を悪くして空走艇に乗れなくなってからは、専ら空と雲についての知見を活かす方に舵を切っていた。空輸システムを展開する同社にとって、気象の専門家の力が必要だったのだろう。
「〈極北空輸〉の話は聞いただろう? 特に雨量の少ないネルデレスの国王は我々を目の仇にしている。学者として雲を読めばいいだけの時とは考えるべき物事が随分と増えてね、難しい選択を迫られることもあるよ」
自分で訊いておきながら、それ以上深く突っ込む気にはなれなかった。表面的な質問で時間を潰し、間もなくガレージに着いた。フェルドさんの空走艇――昔、姉さんと一緒に勝手に拝借したもの――は隅で埃を被っていた。
「君とシーレがこれに勝手に乗っていったと聞いたときは本当に焦った。まさか君たちの合計体重が私と一緒だったとは。事故にならなくて本当に良かった」
「事故に遭っていたら姉さんは雲相学者になっていませんでした」
フェルドさんは少し目を細めて、東の空で西日を受けて輝く雷月を見やった。
「そういえばリヒーダの複数の街から感謝状が届いていてね。軽度の落髌症患者の病状が改善したそうだ。これも君たちCFの働きのお陰だ。雲相学者として、骷髏鳥がオスチウムの不均衡をもたらす存在と突き止めて、こういう形で世界に還元することが出来て良かった」
「でも、私には正義感がありません。アリアロンドのオスチウム独占が世界をオスチウム欠乏症に追い込んでいることにも何も――」
と言いかけて、私は口をつぐんだ。フェルドさんが歩けなくなったのは、雲の調査のための長旅が祟ってオスチウム欠乏症になりかけたからというのを失念していた。
「私のことは気にしなくて良い」と彼は首を横に振った。「ただ、信念がどうであれ、君がリヒーダの人々を救ったのは間違いないんだ。その事実は誰にも奪えない」
軽妙な返しであしらいたかったが、何も思い浮かばなかった。群青に染まる東の空で赤く燃える雷の月が目に焼き付いた。
フェルドさんは「破いていいね?」と私に訊いた。紙は貴重品だから、と返すことさえできなかった。彼は十秒待ってからそれを破いた。紙きれは風に乗り、アリアロンドの大空へ消えた。
翌出勤日は骷髏鳥討伐の案件もなく、CFの詰所で各々が道具の整備や他愛もない会話で時間を潰していた。待機室で盛り上がっていたのは、例の〈極北空輸〉の話だった。ネルデレス王国が中心に四国が連合して〈CW公社〉に対抗する空輸会社を作ろうとしている。〈CW〉はオスチウムをふんだんに使った大規模輸送船・空輸櫃による運輸網を展開し、大量の外貨を獲得してきた。アリアロンドが小規模ながら強い影響力を持つ国家となった立役者だ。地上国家に余剰なオスチウムを抱える国家はないが、連合すれば、アリアロンドの空輸業独占に一石を投じられる。CW外部顧問のフェルドさんも頭を悩ませる存在だ。
もちろん、私は話の輪には入れないので、その話に耳を傾けながら空走艇の手入れをしていたのだが、その時、詰所の受信機が救難信号を拾った。
「……の襲撃に……た。助け……」
空気が止まった。けれども、私は防風衣に袖を通し、すぐに出動の用意を始めた。空域の問題解決も仕事の一つ。襲撃と聞こえたが、空の暴漢といえば骷髏鳥だ。負傷者の救助に備え、空走艇におもり、担架、一級の高純度オスチウム結晶体を括り付ける。相対質量を0に保ちつつも、おもりを捨てれば担架に怪我人を載せられる。医療用空輸櫃到着までに一人でも多くの命を救えるはずだ。
そのとき、待機室の方から笑い声が聞こえた。彼らは談笑を続けていた。
「出航準備はしないの」
「命令は出ていない」とカイトが返した。
私は準備を続けたが、いくら待てども出撃命令は降りなかった。
「何をしているんだ、ヴァレリー」とカイトが言う。「当該空域の観測浮島からは骷髏鳥の報告は来てない。雨を降らせないと、困ってる地上人は救えないんだよ」
「困っている人は今、その空域にいるの!」
気がつけば私は吠えて、空走艇に跨っていた。待てと呼ぶ声振り払うように、空へと滑り出す。
雷月にしては珍しく、積雲がまばらに浮かぶだけの穏やかな空模様だった。「帰ってこい」とうるさい通信機も電源を切れば、空の散歩には良い塩梅だ。行く手の東方向の低い空に、雷月が浮かび、その上半分が太陽に照らされているのが見えた。
違和感を覚えたのは、半刻程後のこと。陽光を受けて輝く上弦の雷月だが、その弦の一部分だけ下方にずれているように見えてきたのだ。基本学校でも訓練校でも習った覚えのない類の蜃気楼だった。救難信号の発信地点と思われる座標はちょうどその方角だった。二弦の蜃気楼目掛け、空走艇を最高速に至らせる。
もうしばらく進むと、蜃気楼の正体に気がついた。ちょうど雷月と私の間に、球雲があったようだ。球雲も上部だけが太陽に照らされて白く輝いているが、明暗の境目が雷月のそれと違っていたことが二弦の原因らしかった。
球雲はやがて、その向こうの雷月をすっぽり飲み込み、視野に収まりきらない程の大きさに見えるようになった。一級か、いや、それ以上か。こんなにも巨大な球雲は初めて見た。更に近づくと、球雲の周りを行く白い影を複数認めた。骷髏鳥か。いや、出現報告はないとカイトが……。影が二つこちらに向かって来た。
私は肩の力を入れたが、すぐに息を吐いた。影の正体は空走艇だった。私と同じスリムな防風衣をまとっていたが、胸にはアリアロンドの外観を象ったマークの徽章が輝いていた。
政府直属・憲兵。
彼らが守るは、アリアロンドの本島と、同国の資金源たる鉱雲。地上に還元する必要のない地域上空で成長する球雲から、アリアロンドはオスチウムを採取していた。
「政府管轄の大東海鉱雲に空域保全隊が何用で参った? 骷髏鳥の出現報告は受けていないが」
この巨大球雲の先に出撃する道中だと説明すると、出撃命令の有無を本部に確認することもなく通過を認められた。
脇を飛行しながら球雲の方を観察する。結晶化した雲の壁の一部が掘られるようにして通路が敷設されていた。通路には憲兵の姿も気象局の職員らしき人の姿もあった。
大東海鉱雲を通り過ぎ、さらに半刻程。信号の発信元座標付近に来ると、薄く空を覆い始めた雲の向こうに歪な形状の影が見えてきた。オスチウムを含む石を大量に湛えた浮島だと私は直感した。
予想通りだった。直径百人長程度の小さなそれに降り立つと、出迎えたのは遺跡だった。苔むした石畳の回廊、石造りの家屋の残骸。人の気配はとうに時の流れに飲まれ消えていた。通路が空中に向かって途切れていることから、かつての大きな浮島の一部なのだろうと予想できた。アリアロンドだけが空中都市国家として生き残った空地戦争の名残かもしれないが、歴史に疎い私には判断がつかなかった。シーレ姉さんなら嬉々として遺跡の分析を始めるのだろうかと思って、フェルドさんから姉さんの浮島遺跡を勝手に探索する悪癖について相談された遠い日の出来事を思い出した。
しばらく散策すると、通路脇に浮島葡萄の木を見つけた。近づいたが、見つけたのは房がもぎ取られた形跡と、下の草地に捨てられた種の数々。食べられて日が浅い。
更に奥に進むと、オスチウム製らしき純白の人工物の欠片が散らばっていた。その先には、破損した白亜の巨大な箱――恐らくは飛行艇だ――と、アリアロンドでは見られない、赤や青といった原色の貫頭衣に身を包んだ人々が倒れているのが見えた。息絶えた彼らには皆、銃創や裂傷があった。ここに不時着をし、最後には食糧を奪い合って殺し合いでもしたのだろうか。血のこびりついた剣も近くに転がっていた。
――落髌症に悩む地上世界ではね、オスチウムを求めるがあまり人を襲う骨盗り賊になる人や、墓荒らしが後を絶たない、人が人を殺し、奪う世界なんだって。
小さい頃、地上世界の書を呼んだ姉さんからそう聞かされて何日も悪夢に苛まれたのを思い出した。彼女は、地上世界も含めた気候に興味を抱き、その研究の一環と地上の文献を多く仕入れていた。アリアロンドでは紙は贅沢品だというのに、姉の部屋は本で溢れかえっていた。ある時は、北方に伝わるとされる古ネルデレス占星術で占ってくれたこともある。五大光のうち、私は第三月・銀月の相にあって云々と。雷月の生まれの私は不満だったが、姉曰く、五大光とは太陽と第一月・天月から第四月・夕月のことを指すらしい。
――古の占いだからそういうものなの。
姉さんはそう笑っていたけれど、雷月が省かれたことに幼かった私は憤慨し、八つ当たりをしてしまったっけ。
いや、思い出に浸っている場合ではない。懐かしい日々の記憶を振り払うように首を横に振ると、風音に紛れて声がした。
「助けて……」
そちらに目を向けると、同じく藍色の貫頭衣に身を包んだ、雲のように白い肌の男が岩にもたれかかっているのが見えた。私は息を飲んだ。白亜の外壁とは対照的に褐色の肌を持つアリアロンド人ではない。紛れもない、地上世界の人間だ。彼も骨盗り賊か、あるいは墓荒らしか。
「今、医者に見せるから」
けれども、気がつけば私はそう言って、空走艇を取りに戻っていた。担架を展開して彼を載せる。最初は貫頭衣で気がつかなかったが、左腕の肘から先がなく一瞬ぎょっとした。地上世界の人間なのだ。きっと、腕の骨でも盗られたのだろう。重しを落としつつ担架に彼を載せると、舵をアリアロンドに切った。
地上世界の人間の存在にカイトらは腰を抜かせたが、病院の医者たちは彼の状態を見て、何も言わずに病室に運んでいった。総司令官は勝手な出動について叱りながらも、言葉尻はきついものではなかった。助けたのが誰であれ、人命救助をしたという事実は誰にも奪えなかった。
むしろ総司令官に手痛く雷を落とされたのは、待機室で座ったままのカイトたちだった。
「命令がなくとも、いつでも動けるようにしておくべきだろう!」
怒号は総司令官室の外にまで響いていた。あとでカイトと廊下ですれ違ったとき、彼はぼそりとこぼした。「偽善者め」
私は聞こえなかった振りをした。するだけの余裕があった。
私が助けた隻腕の地上人が意識を戻したと連絡が入ったのはそれから数日後、非番の日のことだった。
病室の前に赴くと、二人の男が立ちはだかった。銃剣を背負い、城を象る徽章を胸に掲げた、銀の光沢のある鎧姿。白亜の天空城を守る憲兵の本来の姿。飛ぶ必要がない本島だからこその、相対質量を無視した重装備。怪我人とはいえ、不法入国者を政府は注視しているらしい。
CFの隊員証を見せると中に通された。アリアロンドの質素な白い布地の服の男はベッドの上から鉄格子越しに窓の外を見ていた。私に気がついて彼は振り返る。薄鈍色の虹彩に、オスチウム建材のように白い肌を持つ男は、私に向かって一礼した。
「ラルセムと言います。その節はありがとうございました」
私にとって、彼は初めて話す地上人だった。国土の大半が高地に位置する南方のオラス公国の出身らしい。
異邦人とどう話すべきかなど知らなかった。オラスの羊肉が美味だった話をして、それから隻腕のことに触れた。
「相当昔の話ですよ」彼は淡々と話し始めた。「落髌症で滅んだ故郷から逃げるとき、一緒に逃げていたボルドムも――弟も発症して立てなくなって。だから、自分で腕を切り落として砕いて粉にして、水と一緒に弟に飲ませたんです。後遺症もなく今も息災なのだから後悔はありませんよ」
その平然とした口ぶりに私は返す言葉を見つけられなかった。骨盗り賊や墓荒らしの話もえげつないとは思ったが、自ら腕を切り落とす選択ができる地上人が同じ人間とは思えなかった。
――雨葬はね、地上人からしたら信じられない贅沢みたいなの。
いつだか、シーレ姉さんが言っていたのを思い出した。
いや、きっと、このアリアロンドが恵まれすぎているからなのだろう。
「すみません、変な話をして」
とラルセムはすぐに話題を切り替えてくれたが、話の筋が、どうして彼が浮島にいたのかに差し掛かると、途端に彼の言葉は歯切れ悪くなった。
「骷髏鳥に艇が襲われて」
大量のオスチウムが使われている飛行艇を雲と勘違いされて襲われることは珍しくない。空輸櫃も、外側に骷髏鳥を追い払うための設備や人員を配備している。
一瞬納得しかけたが、すぐに矛盾に気がついた。あの場の遺体には銃創や裂傷があったはず……。口を開こうとしたその時、
「そこまでにしてもらおうか、ヴァレリー隊員」憲兵が病室に入って来て、私を制止した。
「怪我人であれ、彼は不法入国者に当たる。経緯の調査や事後の対応は憲兵が対応する」
反駁の言葉はなかった。「命に別条がなくて良かったです」とラルセムに一礼すると、私は病室を後にした。
その後の顛末は詰所の噂話に耳を傾ける以外に知る由はなかったが、忘れ始めた頃、事件は起こった。
下弦の雷月が東の空に光る夜、連絡を受けて飛び起きた私は、家を出て、病院が見える縁の高台に登った。政府のある中央棟から円錐状に広がるアリアロンドの街の一角から、火の手と煙が上がっていた。ラルセムの入院する病棟だった。
彼が見張りの憲兵二人をなぎ倒し、病室を脱走した。病院の前で野次馬に紛れて憲兵たちの声に耳を傾けると、そう聞こえた。私はすぐにCFの詰所に向かった。私がラルセムなら、一刻も早くアリアロンドを離れる。そのために、どこかのガレージに忍び込み空走艇を盗む。空に犯罪者が放たれたとなれば、私たちCFも無関係ではない。
だが、夜の閑散としたガレージで準備をいくらしようとも、出動命令は降りなかった。
代わりに、夜番のカイトがガレージにやって来た。
「逃げたオラスの地上人なら、憲兵がそのまま追うらしい」
「憲兵が?」
鉱雲の保護以外には城から出ようともせず、重い鎧を見せびらかすのが趣味の彼らが自艇を駆り出すなんて。どうにもきなくさい。
「ああ、給油中の一般人から空走艇を強奪して逃走したと。まあ、三割くらいしか給油できていなかったそうだから、オラスに着くまでに墜落するだろうが」
三割と聞いた私は、頭の中の空図にアリアロンドを中心とした円を描いた。ラルセムを救助した遺跡の浮島は円内だ。
その時、遠く東の空から遠雷の音が轟いてくるのが聞こえた。アリアロンドより低高度に広がる雲の層に、青い稲光が迸るのが見えた。
――自分で腕を切り落として砕いて粉にして、水と一緒に弟に飲ませたんです。
ラルセムの話を思い出す。どんな理由で彼が強引に脱走したのかは分からない。だが、そこまでのことをして肉親を助けられる人間がどうしても悪人に思えなかった。逃げ切れず憲兵に捕まれば、最悪の場合は死罪。何とか彼から事情を聞き出し、彼の罪を小さくできればと思った。
「おい、待て!」
カイトの声を振り払い、稲光の巣の上に広がる夜の空へと駆け出した。
私は雷鳴を背後に流しながら、迷わず東方、ラルセムを救出した遺跡の浮島に向かっていた。そもそも彼の出した救難信号は、彼の仲間に向けられていたはず。それならば、救助隊が来るはずのあの浮島に戻る可能性が高い。
夜空に白く妖しく佇む、相変わらず綺麗な球形を保つ大東海鉱雲の脇を通り過ぎ、遺跡のある浮島へと降り立った私は間もなく、雷月光に輝く見慣れた型の空走艇を見つけた。近くを探すと、岩場の影にぐったりと座り込む彼の姿があった。
「お早いお着きでしたね、アリアロンド人」
彼は息を吐き、薄鈍色の眼をこちらに向けた。私は小刀を抜くと、切っ先を彼に向けた。「ヴァレリーだ」
「それでヴァレリーは私を殺しに?」
「どうして逃げた?」
「おや、ヴァレリーは聞いていないんですか。あ、そうか。鎧の連中の仲間ではないと」
私は唇を噛んだ。アリアロンドの体制について話すつもりは毛頭なかったが、肯定するのも癪だった。「だったら何だ」
「それなら、どうして私を助けられたのですか? 何の目的で空に?」
「決まっている。オスチウムを蓄える骷髏鳥を討伐し雨を降らせるため」
「討伐?」彼は顔をしかめた。「まさか、あれの正体も知らずに?」
ラルセムはそう言って、私の背後を指差した。振り返ると、雷雲の上に鎮座する大東海鉱雲があった。
私は眉をひそめた。あの球雲は雨をもたらすための核。だからあれを散雲弾で霧散させることで、その不足に悩む地上にオスチウムを還すのだ。ただ、あの球雲が鉱雲として運用されているのは、真下が大洋であるからで、だからこそ遠慮なく採掘を――。
そこで私は、あの鉱雲の形状が綺麗な球形だったことを思い出した。二等以上の鉱雲の中心部からは高純度のオスチウム結晶体が採取できるが、外縁部の柔い準結晶体も艇のフレームや白亜壁の原料にはなる。つまり、鉱雲は採掘が始まれば、必ず外縁部が削られ、球形は崩れる。
つまり、あの鉱雲は採掘が進んでいない。
私はラルセムの方に振り返った。「一体何を知っている?」
彼は弱弱しくも小さく笑うと、顔を伏せ、静かに語り始めた。
「地上の歴史的文献にヒントはいくらでもあります」
彼はそう言って、幾つか実例を語った。リヒーダには、かつて蛮行で悪名高い遊牧民族がいて、六つの有力な首長はそれぞれ天月やら水月やら月の名にちなんだ名を冠していたものの、最後の七番目たる雷月を冠する首長がいなかったこと。古ネルデレス占星術の言うところの五大光には双月と雷月が存在しないこと。落髌症で内戦となり滅んだベスベル帝国の暦は、一年が六月で構成されていたこと。そして、ベスベル内戦の引き金となった、旧帝都での落髌症の最初の蔓延が、雷月の記述が出現した頃と同時期であること。
「何が言いたい……?」
「分かりませんか、アリアロンド人。空に浮かぶ月は、かつては七つではなかった。それらはいずれも、大量のオスチウムを抱え込み天へと昇った、球雲の終極なのです。骷髏鳥たちは雲を食らうことでその球雲の成長を抑制しているのに、あろうことかあなた方は彼らを討伐した。そうして月が増え、より多くのオスチウムが天に固定されれば、地上の落髌症患者が増える。つまり――」
と再びラルセムは私の背後の大東海鉱雲を指差した。
「あの巨大球雲こそ、第八の月の幼体なので――」
雷鳴と共に言葉はそこで途切れた。世界が再び静寂に戻ったとき、彼は目を見開いていた。口元からは血が垂れ、気がつけば胸の真ん中の辺りが赤く滲んでいた。彼の名を呼ぶより早く、そこに崩れ落ちた。
背後に気配を感じ振り返ると、宙を走る三機の空走艇。乗っている男たちの格好は空域保全隊の防風衣と酷似していたが、胸には徽章が輝き、彼らは槍ではなく銃剣を携えていた。
憲兵だ。
着陸した彼は私から小刀を取り上げ、倒れたラルセムから少し離れた場所に移動させた。
「押収した私物から、あの男が反アリアロンド勢力〈雷雨戦線〉の所属と分かった。お前は彼をアリアロンド内に運び、彼は強引に逃走した。その後、出動命令もなくお前は出撃し彼に追いついた。〈雷雨戦線〉と関連がないとどう証明する?」
そのまま尋問が始まった。私は正直に話したが、月の幼体の話題になると彼らは嘲笑った。
どう信じてもらおうかと考えあぐねていると、空の向こうから大きな白い塊が飛来してくるのが見えた。細長い箱型の機体に、風をいなすための翼が三対。数十人規模で人を移送できる空輸櫃だ。憲兵の一人が本隊に連絡を寄越したのだろう。
バーティカルが浮島の縁に止まると、憲兵に押されて、車いすの男性が降りて来た。
「フェルドさん!」
やっと話の分かる人が来た。安堵の息を吐くと、彼は他の憲兵と少し会話してから、憲兵らを去らせた。その一人が私の小刀を持っていきそうになったが、それはヴァレリーのだとフェルドさんは凄み、その場に置かせた。
「――それで、フェルドさんがどうしてここに」
「彼は、何かを言っていたかい?」
「え」と気の抜けた声を出してしまった。「確かに、私が彼の遺言を聞いたようなものですが、随分と突飛な話でした」
私の話をフェルドさんは黙って話を聞いていたが、聞き終えると、小さく吹き出した。
「随分と奇怪な話だね。地上人は想像力が豊かであるらしい」
ですよね、と頷きつつも、私はどうしてもラルセムの話が妄想とは突っ撥ねきれなかった。古ネルデレスの占いが第四月までなのも、昔は月が四つしかなかったからだと考えれば……。
――古の占いだからそういうものなの。
占ってもらったときの姉さんの言葉を思い出した。その時は昔のものだから間違っていたとしか思わなかったが、その発言が「月が四つしかなかった時代のもの」と解釈すれば……いや、どうして姉さんがそれを知っている?
頭の中の変な連想を振り払おうとして、思いつくのはそれを支持する証拠ばかりだった。地上の文献が好きで、同時に雲の研究をしていた姉さん。気がつくだけの余地は、十分にある。
「そうか」とフェルドさんは俯いて、私は表情に出していたことに気がついた。
「君には、ずっと雲喰らいだけを追っていて欲しかったんだが」
私は息を飲んだ。彼は続ける。
「〈極北空輸〉の設立は〈CW公社〉にとって打撃だった。アリアロンドの優位性は地上のオスチウム不足故のもの。つまり、その不均衡が加速すれば、アリアロンドはさらに繁栄する。分かるだろう、空走艇も、君たちの槍も、空輸櫃も、そして私たちが住む白亜の天空城も、途方もないオスチウムで作られている。ただ、シーレは頭が良いが、国益に反することを平然としでかす程に倫理観が欠如していた。第八月・新月の月の出計画に反対したんだ」
「月の出計画?」
「決まっているだろう! 球雲の月化に欠かせない骷髏鳥討伐の短期的な雨量増加という側面を全面に押し出して、地上国家のオスチウム不足を解消させると見せかけつつ、雲喰らいのいない空域で球雲を育て、オスチウムを天に固定する。だが、シーレはそれを地上の諸国家に密告しようとした! 一アリアロンド人として、売国奴を許す訳にはいかない。だから、骷髏鳥の仕業に見せかけて空の底に落とした」
フェルドさんは怒りに顔を赤くしながらも、大粒の涙をこぼしていた。そして今度は充血した目で私を睨んだ。
「だからヴァレリー、君には無垢でいて欲しかった。こんな結末になどなって欲しくなかった!」
「政府は本気でこんな暴挙を推し進めているの」
「まさか! 彼らは甘すぎる。空地戦争で他の空中都市が滅ぼされた歴史をもう忘れようとしている! 大東海鉱雲も私がそれらしい理由さえつければ、採掘開始はいくらでも延期してもらえる。政府の甘い無能どもが気がついたときには、もう月の出は完成しているのだ!」
そう叫び散らかした彼は、草地の上の私の小刀を拾い、切っ先を自らの肩に突き刺した。
「刺された! 憲兵!」
彼の悲痛な叫びに舞い戻った憲兵たちは私をあっという間に取り押さえ後ろ手に縛ると、銃剣を突きつけてきた。
「そいつは売国奴だ!」フェルドが叫ぶ。
終わりかと思った、その瞬間。
爆風が吹き荒れ、私に銃口を突きつけた憲兵がうめき声を上げると、その場に崩れ落ちた。彼の背中には、矢が刺さっていた。芯はアリアロンドでは貴重な木製。地上の矢だ。
顔を上げると、見慣れぬ飛行艇が浮かんでいた。そこから白い肌の地上人たちが下りてきて、憲兵たちを睨んだ。
後から、将校らしき人物が降りて来た。藍色の貫頭衣に、ラルセムと同じ薄鈍色の瞳の彼は、目を細め、高々と宣言した。
「地上世界を守るため、〈雷雨戦線〉が今、参った」
数の差が勝敗を分けた。稲光の絨毯の上の浮島で、〈雷雨戦線〉の兵団の前に憲兵たちは敗れ去った。足が悪いフェルドはすぐに気絶させられ、取り押さえられた。後ろ手に縛られ抵抗できない私にも兵団は矢を向けたが、薄鈍色の瞳の男に「ボルドムでしょ」と呼びかけると、兵たちが弓を持つ手を震わせた。
「何故、俺の名前を知る」
憲兵の死体から剣を引き抜いた彼は血を拭ってから私を睨んだ。その覇気に呼応するように、他の兵たちも肩に力を入れた。
「ラルセムから聞いたから」
彼は答えなかった。
私は事の経緯と、病室で面会したときにラルセムから聞いた話を続けた。彼を救助したこと。病室で聞いた腕喪失の経緯。弟のボルドムは今も息災であること。そしてこの浮島から見える巨大球雲が第八の月の幼体であるということ。月と雲の関係に気づいた自分の姉が消されたこと。
私が話し終えると、薄鈍色の瞳の男は弓を下ろすよう命じた。
その時、別の場所に行っていた兵が戻って来て、膝をついて報告した。
「同士ラルセムを発見いたしましたが、息はもう……」
「そうか」ボルドムは淡々と答えた。「島の捜索を続けてくれ」
了解と兵が消えると、彼は再び私の方に目を向けた。
「そんなことだろうとは思っていたが、兄さんは骨盗りの賊に襲われたと言って聞かなかった。真実を教えてくれて感謝する、アリアロンド人」
彼はそう言うと、兵を引き上げさせた。ラルセムの遺体も飛行艇に運び出し、通信機を使って他の場所にいるらしい仲間と話し始めた。「ああ、兄は回収した。あとは、月だけだ」
撤収を終えると、ボルドムは私の腕を縛る縄を切断した。
「兄を救ってくれた恩だ。今回は見逃そう」
そして去ろうとする背中に、
「待って。あとは月だけって、あの月の幼体を破壊するの」
「それが我ら〈雷雨戦線〉の目的。もう、悲劇は繰り返させたくないんだ」
「私も協力する」
私は立ち上がり、空の中心に鎮座する白い球雲を睨んだ。
「あの雲を雨に還す。それがシーレ姉さんの願いだったから」
分かった、とボルドムは頷くと、頭蓋程の大きさの球体を手渡してきた。
「球雲を霧散させるための連鎖還元装置、お前たちの言うところの散雲弾だ。あの球雲は憲兵に守られている。だから、誰でもいい、その中心に辿り着いた者がこれを設置し起爆する」
私は頷いて、自らの空走艇に跨った。
〈雷雨戦線〉の飛行艇と共に、鉱雲に――第八の月の幼体目指して空に翔け出した。あの雲を雨に還せば、やっとシーレ姉さんの髐灰の儀は終わる。雷雲の絨毯の上に待ち焦がれていた雨が降り、雨葬は完成する。
東の空が白み始めた頃、一足先に大東海鉱雲に辿り着いた私は、近寄って来た憲兵にフェルドの使いと告げると、球雲外縁部に彫られた通路に案内された。幸い、ラルセムの件は彼らには連携されていなかったようだ。小刀の帯刀と散雲弾を入れた鞄の所持も咎められなかった。視察先を最奥部と伝えると憲兵は疑いもせず奥部へと続く坑道に案内してくれたが、突如怒声が背後から響いた。
「そいつが裏切者の空域保全隊だ!」
カイトだった。
隣の憲兵が反応するより早く私はそいつを気絶させ、カイトの方に小刀を構えると、ちょうど彼が切りかかってきた。刃を刃で受け止めて、
「どうしてここに」
「正義漢のない好かない輩とは思っていたが、まさか〈雷雨戦線〉と内通していたとはな。おまけに鉱雲の憲兵が顔を知らないことをいいことに堂々と乗り込んでくるなんていい度胸だ」
その後彼は大振りで何度も切りかかってきたが、狭い坑道だったのが私に味方した。
彼の小刀の切っ先が天井に食い込み、彼の腹ががら空きになった。すかさず蹴りを入れる。彼はそこにうずくまったが、数人の憲兵が坑道に入ろうとしてきた。
分が悪い――そう思った次の瞬間、彼らは吹き飛んだ。煙の向こう、空に〈雷雨戦線〉の艇が浮かんでいるのが見えた。外の銃声や爆音は一気に激しさを増していた。この機会を逃す訳にはいかなかった。
緩やかな坂道の坑道を下り、球雲の深奥へと向かう。坑道も最初は薄暗く、壁に吊るされたランプの灯りが頼りだったが、中心に近づくにつれ、純白の壁そのものがうっすらと光るようになった。その光に誘われるようにして坑道の中心に辿り着くと、そこはあらゆる輪郭や細部が光で上書きされた真っ白な世界が私を待ち構えていた。
白と黒、光と影だけが存在を許される場所。
これが球雲の中心。
第八の月の幼体の核。
ここで散雲弾を起爆させ、この球雲を雨に還せば、フェルドの月の出計画は無に帰し、そして大量のオスチウムが地上に還る。真下が海だけに時間はかかるだろうがオスチウムは世界を巡り巡って、やがて地上で窮する人々の元へと辿り着く。
弟のために自ら腕を切る兄の悲劇は、もう生まれない。
そして、歴史書から真相に辿り着いた亡き姉の悲願も、ようやく成就する。
鞄から散雲弾を取り出し、添付された起爆手順の通りにいじっていると、背後で何かが軋む音がした。
振り返って音の正体を捉えるより早く、肩に衝撃が走って地面に押し倒された。数秒の後に息を取り戻して、肩を撃たれたのだと分かった。
無事な方の腕を使って体を起こすと、純白な世界に黒い人影が浮かび上がっていた。それは車いすに乗った人の形をしていた。
「フェルド……」
「もうフェルドさんとは呼んではくれないのかい、ヴァレリー? 折角〈雷雨戦線〉の面々を振り払ってまで追いかけて来たというのに」
「姉さんを奪っておいて、よくそんなことが言える!」
声を張り上げ飛び掛かろうとしたが、今度は銃弾が右肩を撃ち抜いた。銃声か雷鳴かさえも分からない。全身に迸る痛みにのたうち回った。意識が飛びそうだった。
「どうして分からない、ヴァレリー? やはり君も正義感がないのか? 売国奴なのか?」
「私は空域保全隊の隊員だ……」掠れる声で答える。「その正義は、雨を地上に還すことによる、地上世界の病気の抑止。あんたの正義とは、真逆なんだよ」
「そんなものは方便だと言っただろう! 骷髏鳥の討伐で雨を増やしたように見せかけて、球雲の育成に貢献してもらったのだ。第八月・新月が打ち上がれば、もうどの国家もアリアロンドには逆らえない。それが君らの正義だ」
「そんな正義なら、いらない」
「何を……!」
フェルドはそう言って再び右腕で銃を構えたが、彼が引き金を引くことはなかった。黒く浮かび上がる彼のシルエットから、銃が離れ地面に落ちた。
彼の向こうに、もう一つ人影があった。
「今の話は本当なんですか、フェルドさん」
腹を押さえたままのカイトが立っていた。
「いや」と振り返ったフェルドは首を振り、落とした銃を拾おうとしたが、足の悪い彼はバランスを崩し、車いすから転げ落ちた。その脇にカイトが立った。
「よくも……よくも俺らを騙したな!」
カイトはそう吠えちぎると、刃を振り下ろした。
鉱雲付近の戦闘は〈雷雨戦線〉が勝利を収めたようだった。浮島のフェルドを回収した部隊の応援もあったようだが、フェルドの侵入こそ許したものの、周囲の憲兵らは打ち倒せたようだった。
私は〈雷雨戦線〉の飛行艇で銃創の応急処置を受け、月の幼体が散雲弾によって雨に還る様をデッキからボルドムと共に眺めていた。カイトは私の蹴りが内臓にダメージを与えていたらしく、治療が続いていた。
遠く雷雲の絨毯の上に鎮座する球雲が音もなく吹き飛び、白い巨大な結晶体は瞬く間に薄い層雲となって広がり、夜空を覆う天幕となった。
その雲間を見ようと顔を上げたと同時、私の頬に一つ、冷たいものが当たった。
「雨だ」
その言葉を皮切りに、雲は大量の雨を吐き出した。
「アリアロンドでは」髪を伝いこぼれ落ちる水滴に目を細めながら、ボルドムが口を開いた。「死者を雨に還すと聞いた」
「雨葬って言うの」と私は頷いて、痛む腕を開いて、全身で雨を体に受けた。その鋭さが、冷たさが、今だけは不思議と心地よかった。
私たちは雲に生き、雲に死に、そして雨となる。
姉さんがどの雨粒かなんて、探す間もなかった。この雨全てが、シーレ姉さんを還す雨そのものだった。
「球雲を月として打ち上げる計画を知った姉がいたと言ったな。それならこの雨は……」
「そう、姉さんの雨葬。同時に、ラルセムの雨葬でもある」
ボルドムは一瞬目を見開いてから、すぐに頷いた。「ありがとう、アリアロンド人」
私たちは並んで、雨粒の一つ一つが空の底へと落ちていくのを見送った。
層雲が薄くなる頃、東の空が赤く燃えているのに気がついた。間もなく日の出だった。
――雷雲の絨毯を見下ろしながら空を翔けてね。
遠き日の、姉さんの言葉が蘇る。どこかにまだ残っていたのだろうか、遠くから雷鳴が呼応する。
――群青の空が日の出と共に燃え上がり、明滅する雲脈の峰々が朱に染まる。二つの世界の狭間で、雷の月が静かに座っているのを見るのが好きなの。
そして日が出でて、姉が愛した世界が私たちの前に顔を出す。
もう、雨は完全に上がっていた。朝日に照らされたデッキで、私はボルドムと顔を見合わせ、互いに頷いた。
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