梗 概
速さを求めて
少子高齢化が長らく続き、日本人口の4割以上が高齢者となった未来。超高齢化社会は介護業界を圧迫し、パワーアシスト装置が広く採用されることとなった。アシスト装置は一般家庭にも普及し、高齢者たちは家族に大きな負担をかけることなく、認知症にならない限りは通常通りの生活を送ることができた。技術開発を担う企業「アーケイン」の相談役である笠原鈴香はアシスト装置により救われた過去を持っていた。
父を亡くし、病により寝たきりとなった母と二人暮らしを送っていた彼女の生活は、補助金で家庭に導入されたアシスト機器により激変した。母はかつてほどではないにしろ、動き回ることができるようになり、鈴香は自分の人生を取り戻すことができた。
当時中学生であった彼女は自分の思い描く未来を創るために勉強に精を出した。優秀な成績で大学へと進み、やがて機械工学の母として長年日本の技術を支えることとなる。研究職を引退して数年。体のあちこちが痛み、すでに自宅ではアシスト機器の世話になっていた。結婚もせず研究に打ち込んできた人生。アシスト機器の技術革新のためにすべての時間を研究に費やした彼女は、莫大な資産をもう一つの夢を叶えるために使おうとしていた。
鈴香はかつての教え子を集め、アシスト装置技術の限界を超えた強化走行スーツの開発に着手した。だが、その完成には長い時間を要した。彼女は持ちうる資産の大半をつぎ込み、特殊なスーツ開発のために専用の研究施設まで建設した。アスリートでもない普通の人間が、オリンピック選手を超える速度を手に入れるのには、それほど時間はかからなかった。
だが彼女の目指しているのはそのはるか先だった。老齢ともいえる年齢に差しかかった時、ようやく彼女の満足するスーツが完成した。最初にそのスーツを纏うのは鈴香だ。彼女は重力と空気抵抗から身を守るアーマーを全身に装着し、陸上競技場で実験を開始した。試験走行に向けてトレーニングを続けてきたものの、重力に耐えられるかどうかは未知数だった。周囲の人間に止められたものの、彼女は反対を押し切ってその場所にいた。
彼女がスタートを切る。全身に搭載したモーターがうなりを上げ、空気抵抗に対抗するための姿勢制御のために微調整を繰り返した。彼女の流線型の体が残像が残るほどの速さに達する。とてつもない重力が彼女の体に襲い掛かり、意識が朦朧とするなかで、彼女はついに音の壁を越えた。
突然のにわか雨。すべてが静止する世界で、彼女に向かって大粒の雨が降り注ぐ。彼女は雨の一粒一粒が体に触れるのを確かに感じた。アーマーにぶつかる雨が、粘液のように形を変えて、張り付くのを感じた。警告音が発せられ、速度が徐々に低下する。雨で転倒することを恐れたスタッフが緊急停止システムを発動したのだ。彼女は立ち止まり、雨雲の通り過ぎた空を見た。そこには虹がかかっていた。
文字数:1186
内容に関するアピール
映画などの映像作品において、雨が降ると何か悲しい事件が起きる、というのはもはや周知の事実になっていますし、雨というのはネガティブなイメージに捉えられがちです。今回のテーマを聞いた時、雨自体が変化する、あるいは変化した雨が人に影響を与えるといったようなアイデアを考えていましたが、結果的に、雨そのままを描写したうえで、人の心に変化を与え、かつ明るく締めくくるような物語を書くことにしました。わたしの身近でも体の不自由な人はいて、この先歩行をアシストするような機械がどんどん作られていくのだろうなという予感があり、今回の話に盛り込んでみました。人が自分の終わりを見据えた時に、いったい何を思うのか、何を達成しようとし、何をあきらめなければならないのか、書く過程でそんなことも考えていけたらと思っています。
文字数:351
雨の先には
笠原涼香が走ることを志したのは、六十歳を過ぎたころのことだった。彼女はその時、自室で一人本を読んでいた。窓の外は大雨が降っており、雨粒が激しくガラスを叩いていた。
涼香は本から顔を上げ、窓の外を見ようと考えた。彼女が座っているのは最新式の車椅子で、右手の操作パネルに触れると最低限の駆動音だけで、窓の方へと移動した。
窓の近くに着き、彼女は立ち上がろうとする。腰から足にかけて体に設置した部分が彼女を優しく包み込むように持ち上げ、無理のない姿勢で彼女を立たせた。彼女は視界を閉ざすほどの土砂降りの雨を、しばらく眺めていた。
涼香の頭に一つの言葉が浮かんだ。
そうだ、わたしは走りたかったのだ。
言葉を認識して、受け入れるまでが長かった。
今なんと言った? 走りたい? 何故、わたしが、走らなければならないのだろうか。アシスト機器に頼るような年齢になって、どうして走る必要があるのだろうか。
だが、心のどこかで、自分が走ることに、強い願望を抱いていることを知っている。自らが叶えたい夢はすべて叶えたはずだったにもかかわらず、それでも、走るということが、頭から離れない。
走る。走る。走る。
言葉を思い浮かべるだけで、言葉から連想するイメージを頭の中で並べるだけで、なんだかワクワクしてしまう。初めて家にアシスト機器が来た時くらい、彼女の心は騒いでいる。
マラソンでも観てみようか。
ニュース映像や大会の映像が、動画サイトにはいくらでも転がっているだろう。
あるいは、直接見に行ってもいいかもしれない。
世界では、いつもどこかしらでマラソン大会が開かれている。走っている姿を見れば、この気持ちは収まってくれるのだろうか。彼女の影響力と財力があれば、電話一つで、ヘリコプターでも、プライベートジェットでも、望みのまま手配することができる。
いや、そうではない。
涼香は一人首を振った。
わたしは人が走っているのを見たいのではない。わたしは、自分の足で立って、そして、地面を蹴って走ってみたいのだ。
しかし、そんなことが可能だろうか。彼女は自問する。
自身の体は最盛期を過ぎ、歩行に支障はないが、疲れやすくなっているためアシスト機器の世話になっている。研究で座ってばかりで運動してこなかったことは、後悔していないでもない。
歩行は問題ないとしても、走るとなれば話は別だ。以前走ったのはいつ頃だったかと考えてみても、まったく思い出せないほどなのだから、やめておいた方が賢明だろう。
とはいえ、涼香は考えることをやめなかった。もしも幼いころの彼女であれば、金銭面、あるいは身体能力を理由に、簡単にあきらめてしまっていたはずだ。今の彼女には、彼女の願いを実現させる資金と、彼女に協力してくれる人々がいた。
彼女は車椅子に戻り、自分の机へと戻った。
PCの電源を入れ、構想をまとめるためにアプリケーションを開いた。計画を具体的なものにすることは容易い。これまで仕事でいやというほどやってきたことだ。
プレゼンを作り、大勢の前で発表し、関係各社の根回しを万全とし、資金確保に奔走する。大変なのはこの部分で、準備が整ってしまえば、あとは時間をかけて目標を達成する。
涼香はPCの画面を前に、自分が笑っていることに気づいた。長らく現場から離れていた彼女にとって、久方ぶりに、自らの力を存分に振るえる機会がやってきたのだ。
彼女はキーボードに指を走らせながら、かつての自分を思い起こしていた。
涼香の生まれた家はごく普通の一般家庭だった。
裕福でもなく、貧しくもなく。共働きではあったけれど、両親は忙しいことを理由に彼女を放っておくことはしなかったし、休日には地域の催しに家族で行き、帰りにレストランで食事をした。
保育園から小学校に上がり、周囲の子どもたちと自分を比べることができる年齢になっても、彼女は自分の境遇に十分満足していたし、両親のことを尊敬していた。
小学生の頃の彼女は無敵だった。
勉強はできたし、運動だってできた。クラスでふざけて男子と力比べをしても、負けることはなく、周囲の女子たちだけでなく、涼香がいるとクラスの雰囲気が明るくなると、教師からも頼りにされていた。
涼香は学校の誰よりも優秀で、両親が彼女の成績をみて、私立に行かせなかったことを後悔したほどだ。
けれど彼女は、そんな事どうでもいいと思っていた。クラスの生徒より自分が優秀などとは考えたこともなければ、周りの友だちたちを下に見たこともなく、ただ、彼女は、このままの生活が、ずっと続けばいいのにと思っていた。
両親は涼香にどこまでも優しかった。自分たちの子どもにしては優秀過ぎる彼女に、できることは少ないかもしれない。けれど、やれることはやってあげたい、そう考え、両親はできる限りの愛情を注いだ。
テストの結果や運動大会の表彰状を持ち帰るたびに、両親は涼香をほめた。自分たちの子どもがこんなに出来がいいなんてと驚き、ささやかなお祝いをした。レストランで良いものを食べ、そして帰りに彼女の好きなケーキを買った。
だが、ある時を境に彼女の人生は大きく変化する。
三人で車に乗り、地方の遊園地に向かっている途中のことだった。中学二年生となった涼香は、依然として勉強に励み、陸上部で活躍し、一目置かれる存在となっていた。
対向車線からふらつく車が近づいてきて、気づいた時には、三人の乗った車は横転していた。
父親は首の骨を折り、病院に運ばれて数時間で死亡した。助手席に乗っていた母親は、命に別状はなかったものの、足が動かなくなり、寝たきりの生活を余儀なくされた。
事故の原因は追突した相手の車両の点検不足と運転手の不注意、そして、視界を覆うほどの雨だった。
父と母が病院に運ばれた時も雨は降り続いていたし、父の死亡を知らされた時も雨が降っていた。母の足が動かないと知った時も、寝たきりの生活を送らなければならなくなったと医者から説明を受けた時も、ずっと雨が降っていた。
彼女の母親が、自動昇降ベッドとともに自宅に運び込まれた時にも、雨が降っていた。
この事故が起こってからというもの、涼香は雨が嫌いになった。
涼香の母親はいつも謝ってばかりいた。
「ごめんなさいね。わたしがこんな怪我をしてしまったばっかりに、あなたに苦労させてしまって」
そう言う彼女の眼には涙が浮かんでいた。
こんなはずではなかった。涼香のためにしてやれることがまだまだたくさんあると思っていた。しかし、日頃生活するうえで考えてみたこともなかったが、涼香の両親には親戚のつてと呼べるものがあまりにも少なかった。
そのことについて、涼香の母はどこまでも悲しんでいた。自分たちで、なんとかできると思っていたのに、今では、娘を苦しめるばかりだ。
「いいの。気にしないで。わたしがやりたくてやっているんだから」
涼香はそんな言葉を投げかける。嘘ではなかった。彼女は事故で失われてしまった母の自由を自分の力で補いたかった。学校にはまともに行けなくなってしまったし、自分の楽しむ時間も無くなってしまったけれど、それは、しばらく続けていれば慣れてくる。
母に食事をさせ、トイレを手伝い、体を拭いてあげる。これまでしてもらったことを返すつもりで彼女は懸命に母の世話をした。
ただ、涼香にも望みがあった。一日のうちに、自分の時間がもう少しあったらいいのに。
学校にも行けず、勉強の時間は限られている。
父の保険金と行政からの支援で食べることに困らないくらいの生活は出来ていた。しかし、先のことを考えるとお金はいくらあっても足りない。
母との生活を維持するため、彼女は早く社会に出て、稼がなくてはならないと考えていた。そのためには最低限の学力が必要なのだ。
家族の未来のための時間が欲しい。もしもその願いが叶うのなら、どんなことだってやってみせる。涼香の年齢にしてはあまりにしても大きすぎる覚悟を胸に、彼女は日々を過ごしていた。
だが、その願いは、ある日唐突に実現することになる。
希望は機械の姿をしていた。
涼香の家に、介護用アシスト機器が運び込まれたとき、彼女は呆然と、それを眺めていた。
当時の日本は超高齢化社会の真っただ中にあり、抜本的な対策が見えずにただやみくもに焦っている状況だった。
介護を必要とする高齢者が果てしなく増加する一方で、介護をする人員は足りていない。少子高齢化により逆ピラミッドの人口構成がますます加速する状況で、若い世代からの人材確保は望めなかった。さらにこの国は。海外からの人材を、ある一定数を境に受け入れることをやめてしまった。
もともと日本という国が持っていた閉鎖性に加え、外国人に対する差別感情がなかったともいえないだろう。結果として、介護業界の人材確保は、日本が最も憂慮すべき未来への課題となっていた。
そこで注目されたのが介護用アシスト機器である。自動昇降ベッドのみならず、要介護者の体を支えるロボットアームの開発に注目が集まり、そこに大量の予算が投入された。
外部的な補助アシスト機器に加えて、技術開発が進められていたのが、人そのものを包み込むパワーアシストスーツだった。
全国の各地域で介護施設の数が足りず、さらに施設があったとしても資金面で入所困難な家庭は多く、在宅介護率は増加するばかり。そのような状況のなかで、要介護者のためにも、介護者のためにも、安価に自宅で活用できるアシスト機器の開発は急務だといえた。
涼香の自宅にやってきたのは、試作段階のパワーアシストスーツだった。彼女の母のリハビリを担当していた医師が、涼香の姿に同情し、優先的にスーツの実用試験の対象家庭として申請を行っていたのだ。
涼香の目の前で、数人のスタッフが母親を取り囲み、下半身の動きをサポートする機器を取り付けていく。
筋肉の役割を持つバネが伸縮し、膝をゆっくりと曲げていく。すべてのパーツが母親の下半身を覆うように取り付けられ、スタッフが離れると、母親は恐る恐る足を動かした。
嬉しそうな母の表情を、涼香は見た。光が差し込む母親の部屋で見たその光景は、彼女にとって。救世主を描いた宗教画そのものであった。立つことができなかった者が、立つことができるようになる。これを奇跡と言わずしてなんと言うのだろう。
涼香は涙を流していた。
涼香の人生は変わった。
歩くことができる。これだけで、母娘二人の生活は明るくなった。母の体は完全に元通りになったわけではないため、涼香に完全な自由を与えることはなかったし、金銭的な安は消えることはなかったが、それでも、二人はようやく心から笑い合えるようになった。
彼女の母は、母親としての役割を取り戻そうとしていた。自分でできることは何でもやるようになり、涼香に謝る回数は激減した。
アシスト機器を装着した後は、二人の生活を成り立たせるために料理を作り、洗濯をし、掃除をするようになった。無理をしない範囲でPCの前に座り、簡単な文字入力や数値の入力の仕事を受けるようになった。
そのことがあって、涼香はようやく勉強をする時間を手に入れた。学校へ行き、授業を受けることの幸運を噛みしめた。
涼香は神に感謝した。神とは彼女にとっての機械技術そのものだった。彼女は水を得た魚のように参考書に向かった。天から得た恵みを全身で受け取ろうと必死だった。彼女に迷いはなく、持てる時間のすべてを勉強にささげた。彼女の祈りの対象は、母の体を支えるアシスト機器であり、それを作り上げた人類の英知そのものだった。
母は、涼香のあまりの入れ込みように、不安を感じていた。涼香は一刻でも無駄にしたくないとでもいうように机に向かい、立っている時間でも単語帳や参考書を手放さなかったからだ。
「涼香、あまり根を詰めすぎないようにね」
「お母さん、わたしね。夢ができたの。今までは、勉強するとき、お父さんとかお母さんに褒められたいって、それだけだったの。でも今は違う。わたしはお母さんを助けてくれた、その機械に携わる仕事に就きたいって思ってる。形は何だっていいんだ。今はどうすればいいのかわからないけど、学校での勉強は、きっとその先につながっているはずだから。わたしにはわかるの、このまま続けていればいつかはきっと、そこにたどり着けるって」
「でもね。わたしが歩けるようになった今。少しずつお金を稼げるようになったし、あなたにもっと、学生生活を楽しんでもらいたいのよ。学生時代は人生で一度しか体験できない。これまで苦労させたあなたには、勉強だけじゃなくて、もっといろいろなことに触れてもらいたいのよ……」
母の言葉に、涼香は笑顔を見せた。
「ありがとう。お母さんの言ってることはわかっているつもり。本当にその通りだと思う。でもね。わたしにだって、自分を止めることができないの。学校の授業の先にお母さんを助けてくれた機械があると思うとわくわくする。早く機械のしくみを知りたい。そのバネがどんな仕組みで動いているのか。モーターの出力調整はどうしているのか。関節部の滑らかさをどうやって実現しているのか。考えれば考えるほどわくわくして、勉強したいと思う気持ちを止めることができないの」
母はもはや、彼女を止めることをあきらめていた。涼香のアシスト機器に対する想いはすでに信仰の対象にまで高まっており、語る彼女の姿は凶信者のそれであった。だが、彼女の母は苦しい時に自分を支えてくれた娘の望みを叶えなければならないという強い想いがあった。
「そう。わたしも母親として娘がやりたいってことを応援しないわけにはいかないわね。頑張りなさい。ただ、体調にだけは気をつけてね」
「うん!」
元気よく返事をする娘の姿に幼さを見て、その合同とのアンバランスさに心を痛めなあらも、彼女の母は、優しげに微笑んだ。
涼香は研究室にいた。
すでに資金援助の根回しを終え、彼女は個人研究室で一人、PCの画面に向かっていた。個室にしてはあまりにも広いその部屋には、大量の書類と試作段階のパワーアシスト装置の各部位が、無造作に置かれていた。
ノックの音が響く。扉が開くと、そこには溝口耕平がいた。
「相変わらずひどい部屋ですね」
涼香は画面から目をそらし、車椅子を操作して振り返る。
「久々に会った恩師にかける言葉がそれ?」
耕平は微笑を浮かべた。そして、勝手知ったるように足元の資料をよけながら室内を進み、流れるような動きで椅子に積みあがった資料を移動させ、腰を下ろした。
「空港から飛んできたばかりなんです。座らせてもらいますよ」
「どうぞ。おもてなしはできないけれど」
そして二人は笑った。長い年月の隔たりが、その笑いで一瞬で消えてしまったかのように、部屋には穏やかな空気が流れた。
「よく来てくれました。忙しかったんじゃない?」
涼香が耕平に問いかける。
「わが恩師の助けの声が聞こえたら、駆けつけるのが弟子の役目でしょう」
「わたしには勿体ないくらいの生徒ね。ちょっと失礼だけれど。そこだけは育て方を間違ってしまったかしら」
「昔からこうだったでしょう。そしてだからこそ、ぼくもみんなも、あなたを慕った。能力さえあれば、どんな人材だって受け入れる。あなたがいなければ、今頃わたしは大学に閉じこもっていた。ほんとうに感謝しているんですよ」
「感謝の言葉くらいは言えるようになったのね」
「大人になりましたから」
耕平は研究室を見回した。
「なんでまた現場に戻られたんですか? あなたほどの功績があれば、遊んで暮らせたでしょうに」
「やりたいことができたの。ただそれだけ。何年も現場に出ていなかったのに手伝ってくれる人たちがいるわたしは幸せものね」
「それは謙遜ですか? われわれ介護用機器を開発する技術者にとって、あなたは目標であり、到達点なんですよ。そんなあなたから声をかけられて断れる人間なんているものですか」
「わたしを重鎮扱いしないで、まるで圧力をかけたみたいじゃないの」
「重鎮ですとも。あなたはいつだって開発の最前線にいたし、手を抜くこともなかった。あなた以上にパワーアシストという技術を愛した人はいません。稼働効率の向上だけでなく、部品の素材、バッテリーに至るまで、あなたは関連産業の分野まで技術革新を成し遂げた。唯一無二の存在です」
「わたしは夢中でやってきただけよ。だから世間で言われているような、福音をもたらす女神だとか、未来からきた大天才だとかいうのは、恥ずかしくてしょうがなかった」
「もう一つの異名を知っていますよ。技術革新の母。ぼくたちはいつもこの呼び名を胸にあなたを慕っていました」
「思い出させないで。そういうのが苦手だったから、足を悪くして現場に出ることができなくなった時、一切の研究をやめて引退したの。それがまた、ここに戻ってきてしまったわけだけれど……」
「よくぞ戻ってきてくれました。ぼくたちは全力であなたをサポートするつもりです」
「ありがとう。いつから開発チームに参加してくれるの?」
「明日からです。資料はある程度読みました。ぼくもあなたの夢を見せてください」
「ふふ。年寄りの道楽のような夢がどうなるかわからないけれど、わたしは本気でやるつもりだから、よろしくね」
「望むところです」
二人は再び笑いあった。
涼香はたった一人で、屋外競輪場のトラックに進み出た。車椅子の操作パネルから手を放し、会場全体を見回した。すべては彼女の注文通りだ。計画当初は国立競技場を借りる予定であったが、開発過程で変更を余儀なくされた。
涼香の後ろから大勢のスタッフが現れ、機材が運び込まれた。彼女はこれから知力、体力、財力、彼女の持ちうるあらゆるものをすべて投入し、自らの夢をかなえようとしていた。
彼女はトラックのスタートラインの前で車椅子を止めた。右手で操作パネルに触れ、体を優しく包む車椅子の力により、彼女は立ち上がる。背後に控えていたスタッフたちが彼女の周囲に集まり、車椅子を引き、体の全身にパワーアシストスーツのパーツを取り付けていく。
走行を妨げるもの一切をそぎ落とした流線型のフォルムは美しく、見るものを圧倒した。表面は白で塗装され、関節部に赤いラインが入っている。これは涼香の好みであると同時に、関節の動きを確認しやすくする効果を持っていた。
それはまるで、ハリウッド映画から飛び出してきたような姿だった。涼香もまた、このような姿は望んではおらず、計画段階では顔や体の一部は露出したままにするはずであった。だが、スーツの性能が向上するにつれて、体を完全に覆う現在のかたちに収まった。
スーツは開発初期の想定をはるかに超えた性能を実現していた。この技術を欲しがる人間は国内に、いや全世界に大勢いるだろう。しかし、彼女には特定の国家や企業に技術提供をする気など一切なかった。
これは、単に走るために作ったものだ。その技術が別の目的に使われるのはかまわないが、特定の組織や個人がこの技術を独占するくらいなら、いっそ全世界に公開したほうがましだと考えていた。
だが、少なくともそれは今ではない。すべては自分が走り終わってからだ。
涼香は両手を広げて空を見た。
頭部パーツ越しに見る景色は少しぼやけて、遮光効果により太陽の光が優しく降り注いで見えた。それは啓示であり、天からの祝福であった。この実験は間違いなく成功する。涼香は確信していた。
そして彼女は眼を閉じた。
年齢的にも、おそらくこれが最後のチャンスになるだろう。開発チームのメンバーからは、何度も別の人間に任せるべきだと提案された。けれど、こんなにわくわくすることを、人にやらせるなんて考えられない。
周囲のスタッフが離れ、ついに準備が整った。地球上でまだだれも達成したことがない未知の領域に、涼香は今まさに踏み出そうとしていた。
夢がようやく叶う。
そのことを思っただけで、彼女のこれまでの苦労。開発よりもずっと大変だった筋力トレーニングのことが思い出されたが、それも徐々に薄れ、ついに、パワーアシストスーツと一体となった。
パワーアシストの速度を上げるうえで最も高いハードルとなったのは、走行中のバランス制御だった。
各部の性能を上げることは、時間と資金があればなんとでもなる。むしろそれは涼香の開発チームの専門領域だった。これまで積み重ねてきた技術と、彼女の実績を利用して集めた莫大な費用によって、着実に開発が進められていた。
開発機材をそろえ、適切な素材を選定する。企業に所属していては手が届かない数々の設備を前に、チームメンバーのやる気は最高潮に達した。量産化を想定しない一台限りの装置。それは涼香だけでなく、技術者の夢でもあった。
表面を覆うのは旅客機でも使われるカーボンファイバー、関節部は精密機械工場で採用されるロボットアームの技術を取り入れた。人工筋肉の開発は涼香の最も得意とする分野であり、滑らかな歩行に関しては、人と変わらないレベルにまで持っていくのには、あまり時間はかからなかった。
だが、走行となると話は変わってくる。
歩行時には装着者の意思で、ある程度重心をコントロールが可能だ。人のわずかな動きをAIが感知し、重心に補正をかけることもできる。だが、走行では地面のわずかなへこみや風向きなどの不確定要素がバランス制御を困難なものにさせる。重心の変化が急激であり、装着者もAIも、情報を取り入れてから反応するまでのタイムラグで間に合わないのだ。さらに、直線であればまだしも曲がろうものなら遠心力にも対処しなければならない。
いかに発達したAIでも、走行中の膨大な情報を処理し、適切なバランス調整を行うことは困難だった。そこで、開発チームは走行中に起こりうるさまざまな状況を想定した実験を繰り返し、あらゆる状況に対応できるAIを育成する必要があった。
素材が完璧なものであっても、重量の問題を避けることはできない。装置の重量が少しでも変われば、重心や遠心力にも影響する。これは本当に厄介で、チームの頭を最後まで悩ませた。
例えば、カーブに対応するために、部品の一部に変更を加えると、それだけで全体の重心に影響し、そのほかのあらゆる部品の重量に関して再検討を行わなければならなくなる。
バッテリーも悩みの種だった。装置を独立させようとすれば、バッテリーを装置に組み込むほかはない。だが、この重量が重心を崩す原因となり、さらに制御を難しくさせていた。最終的にバッテリーはリュックを背負うように背中に搭載された。別の場所も検討されたが、すべて失敗に終わった。
最後の壁として立ちはだかったのが、空気抵抗だった。人の体は速度を上げるのに向いていない。いっそ前面を丸みを帯びた装甲で覆って、新幹線のような体になったほうがいいくらいだった。だが、当然その案は却下され、人の形を保ったまま速度を上げる試みが続けられていた。
それらの問題が解決し、パワーアシスト機器の装着による走行が可能となったとき、開発チームは沸き立った。走行できるというだけではない。世界新記録に並び立つ記録をたたき出したのだ。
だが、喜ぶ開発チームの中でただ一人、涼香だけは納得していなかった。彼女にとって、パワーアシストの技術はそんなものではなかった。人間の限界がなんだというのだ。技術というものは、人類そのものを超えて、完全な上位であらなければならないのだ。
涼香は研究をやめなかった。
人間の限界のその先へ、世界記録を超えて、人を完全に超える。彼女はさらに研究開発を深めていった。
周囲の人間は涼香を恐れ始めていた。
それは尋常ではない働き方だった。涼香はパワーアシストの限界を引き上げる研究を行いながらも、同時に自身の体も鍛えていた。彼女がいつ睡眠をとっているのか。誰も知らなかった。まもなく七十に届く年齢となった彼女は、開発チームからの心配をよそに、自らの信じる道を突き進んでいた。
誰も、彼女を止めることはできなかった。
スタートラインに立つ涼香に近づくものがあった。溝口耕平だった。
「ついにここまで来ましたね。緊張はしていませんか?」
涼香の手の動きに反応してモーターが稼働する。右手が頭部パーツの側面に触れると、彼女の顔が現れた。
「緊張というよりは、興奮のほうが勝っているかもしれない。今すぐにでも走りたくてしょうがないのよ」
「やはり、考えを改める気にはなりませんか?」
「どうして?」
耕平の言葉に涼香は首を傾げた。
「このようなことを女性に言いたくはないのですが、試験機の稼働実験をするには、あなたは年を取りすぎている。あなたの勢いに押されて、みんな一度は賛同しましたが、多くのスタッフから反対の声が上がっています。なかには実験をボイコットし、無理やりにでも辞めさせるべきだという者さえいます」
「それであなたはどう思っているの? 立場上、あなたは開発チームの二番手となっているわけだけれど」
「もちろん反対です」
「あら、あなただけは味方だと思っていたのに」
「もしもスポンサーや観衆がこの場にいたとしたら、絶対にやめるべきだと言うでしょう。あなたが怪我をしてしまったら、一体誰が責任をとるんです」
「わたしはあなたたちに迷惑をかけるつもりはない。だから非公式の場で実験することにしたの。すべてはわたしの責任になるようにね。不安だったら誓約書にサインでもしましょうか?」
「そういうことではありません。七十歳を迎える女性が自分の命をなげうってまで実験の被験者となる。成功すれば後世に偉業として称えられるかもしれませんが、失敗の可能性はゼロではありません。ぼくたちは、自殺の手伝いなんてしたくないんです」
「でもわたしたちは、その可能性を潰すために長い時間をかけて開発を続けてきた。このスーツが失敗することなんてありえない」
「想定外の事態が起こることだってあり得る。みんな、あなたを尊敬し、愛しているんです。だから反対しますし、力づくで止めようとする者も現れる」
「心配してくれていることはわかっているし、感謝もしています。だけどわたしは……」
そこで耕平は涼香の言葉を遮るように、
「ですが、ぼくの個人的な意見を言わせてもらえれば、ぼくは、あなたに、あなた自身の手で夢を叶えてもらいたい。事故が起き、あなたの命にかかわるようなことになることを考えると、身が引き裂かれる思いがする。けれど、あなたは目的のためにすべてを投げ出す覚悟のある人だ。そうでなければ、ここまでのことはできなかった。ぼくはわかっているつもりです」
と言った。涼香は驚き、そして、彼に向って微笑んだ。
「ええ、そうね。誰に何と言われたって、わたしは自分の意志を変えるつもりはない。わたしはこのスーツで走る。ただそれだけ。たったそれだけのために、自分の残り少ない命を削り、大勢の人の助けを借りて、ここまでやってきた。あなたたちには感謝している。こんな年寄りのわがままに付き合ってくれた。わたしはこの実験が終わったら引退します。二度と現場に戻ることはありません。だから最後に一度だけ、わたしのわがままを聞いてほしいの」
「強情ですね」
「あら、知らなかったの?」
「知ってましたよ。これはぼくたちの最後の悪あがきです。実験が始まって少しでも異常があればすぐに中止しますからね。簡単には死なせませんよ」
「実験をやらせてくれるのなら、ほかのことはなんだってかまわない」
そこで耕平は初めて笑った。
「では始めましょうか」
トラックに一人きりになった涼香は、クラウチングスタートのポーズをとっていた。競輪場にはふさわしくない姿と態勢であったが、彼女にとってここは観客と選手のいる陸上競技場であった。
「準備はいいですか!」
事前の指示で用意していたスターターピストルを持った耕平が声をかける。涼香はポーズを維持したまま、右手を挙げて合図を送った。
耕平がピストルを高く掲げ、耳を抑えて発砲する。
涼香は地面をけり、勢いよく走り始めた。彼女の体を重力が襲う。だが、これは始まりに過ぎない。速度はすでに時速四十キロメートルを超えている。緩い坂になったコーナーを駆け抜け、さらにスピードを上げていく。
スーツを通して、空気抵抗が行く手を阻んでいることがわかる。AIの微調整により前傾姿勢を維持しながら的確にバランスをとり、地面を踏みしめていることを実感する。
涼香はそこでようやく、緊張から解放された。
体の各部位に向かっていた意識が緩み、周囲に気を配る余裕が生まれる。彼女は走りながら流れる風景を見ていた。
わたしは今、走っている。自分の足で地面をけり、風のようにトラックを駆け抜けている。これがわたしの夢だった。技術が人の枠を超え、新たな時代を作り上げようとしている。
涼香の体は歓喜に震えた。
これだ。この景色を見たかった。二度と手に入れることができないと思っていた、走るという快感がわたしを高揚させている。パワーアシストスーツはわたしの想定を超え、世界でたったひとつの機械が、誰よりも早く走ることのできる力を与えてくれている。
涼香は世界のすべてを手に入れたような感覚に満たされていた。
速度が時速八十キロメートルに到達したころ、彼女の意識はすでにその場になかった。高揚感に飲み込まれ、彼女は中学生の頃の自分に戻っていた。母親が初めて歩いた、啓示を受けたあの時の感覚を味わっていた。
その時、雨が降ってきた。
晴れたままの空に現れた雲から降るにわか雨だった。
忘我の状態にあった涼香は、確かにその雨粒を見た。地面に落ちてくる水滴の一粒一粒を認識し、スーツの表面に当たるのを感じた。雨が粘着性のある物体のように空気抵抗を受けながら、球となって降り注ぎ、肌にべったりと張り付くのを、確かに感じ取った。
そう、これが人類の新たな姿だ。
人はいずれ機械と同化し、神となる。彼女は未来を幻視し、それが実現することを信じていた。
だが、その幻想は、警報音によってかき消された。
外部からの操作を受け、スーツが減速する。各部のモーターがうなりを上げて繊細なバランス調整を行いながらスピードを落とす。
安定した速度を保ちつつカーブを曲がり、さらに速度を落とす。涼香を包むスーツが歩き、そして立ち止まる。
耕平とスタッフたちが駆け寄ってくる。
涼香は耕平たちを見て、ようやくこれが現実であると知る。先ほどまで見ていた夢が失われた寂しさを覚えながらも、彼女は右手で頭部パーツに触れ、顔を見せた。
駆け寄った耕平とスタッフは心配そうに涼香の様子をうかがっていた。
「雨はいけません。スリップの可能性がある。ぼくの判断で止めさせてもらいました」
耕平が息を切らしながら言った。
「もう十分よ。みんな、ありがとう」
涼香の穏やかな表情に、スタッフたちは顔をほころばせた。
「見事な走りでした。あなたの偉業はこれから未来永劫、語り継がれることでしょう。完全に成功しましたね。あなたとあなたの作り上げたスーツは、ぼくたちの誇りです」
耕平の言葉を、涼香は聞いていなかった。雨の上がった空を見て、ぼんやりとした表情で笑っていた。
「よかった。ようやく雨を抜けたわ」
その時点では、誰も彼女の様子を不審に思う者はいなかった。
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