梗 概
狐のおこわ
冷えた足先にぬかるみの水が跳ね上がる。薄物の夜着はすでに夜半に降り続ける雨を吸って重い。もう走ることができないと何度も諦めかけながら、ようやく辿り着いた岩穴で玉藻前は眠りについた。
玉藻前は3500年前の中国で生まれた。見た目は普通の狐だった。けれど、その狐は全てを記憶することができ、そして忘れることがなかった。まだ名もないただのかわいい子狐だった頃、その狐は母狐、そして何匹もの兄弟たちと里へ降りていった。嗅いだこのない、魅惑的な香りが漂っている。たどっていった竪穴の家の中にあったのは大きな木の葉で包まれたおこわだった。狐は兄弟たちと必死になってそれを食べた。母狐が気づいて子供たちを逃がそうとしたのと、人間に気づかれたのは同時だった。雨の中、その狐と何匹かの兄弟はなんとか逃げ切れたものの、母と兄弟を失った。それから長い時を生き、その狐は中国の山奥で九尾の狐となって暮らしていた。兄弟たちも、何人もの夫も、子供たちも孫もひ孫も失っていたが、全てを覚えていた。しかし、ただ繰りかえすだけの暮らしの中で思い出すのは、兄弟たちと食べたあのおこわの味だった。
九尾の狐は変化の術を得て、人里へ降りる。もちろんおこわを食べるためだ。あらゆる場所でおこわを食べるが、あの味にたどり着かない。
「そんな旨いおこわなら、王様にねだるしかない」
そう言われて、殷の紂王のところへ行った。紂王は美しく、またなんでも記憶して忘れないこの娘を妲己と呼んで可愛がった。妲己はあのおこわが食べられればよかったが、王は世界中のありとあらゆる美味を取り寄せ、妲己に与える。しかしあのおこわの味に及ぶものはなく、落ち込む妲己を見て紂王は料理人や商人たちの首をはね、ますます狂ったように美味を取り寄せた。紂王の横暴に殷は滅ぼされ、妲己は九尾の狐とばれて山へ戻る。
それから長い時間、九尾の狐はおこわを求めて様々な場所を渡り歩く。その先々で様々なものを見聞きし、記憶し、一冊の壮大な書のような存在となってゆく。
日本へ渡り、鳥羽上皇のもと玉藻前として寵愛を受ける中、玉藻前の持つ世界中のありとあらゆる記憶に魅了された陰陽師・安倍泰成の弟子によって霊符を投げつけられ九つのしっぽを現されてしまう。
雨が降る冷たい森の中で、九尾の狐は兄弟たちと食べたあの温かいおこわを思い出す。陰陽師が壮絶に嫉妬した失われず劣化しない記憶が恨めしい。忘れてしまえれば、現在を生きられるのに。
九尾の狐は雨に降られ、いつまでもあのおこわのことを思っている。
文字数:1044
内容に関するアピール
雨はときに大切なものを流し去っていきます。それは辛いことでもありますが、恵みでもあります。悠久の時間を生きる九尾の狐の、失われない記憶の哀しみを、雨のシーンを通じて逆説的に描きたいと思います。
雨の描写を中心に5000字くらいの短編にする予定です。
文字数:123