梗 概
病天
凶悪な耐性菌群が空に住むようになって十年が経過した。地上で一旦駆逐されたかに見えた病原体は、寒冷な大気圏上層に耐えうる遺伝子を獲得し、人類の手が及ばない領域で、毎日眩しい日光を浴び、養分を糧に増殖の一途を辿った。雨が降る間だけ病原菌は地上に下り、人間の粘膜から吸収され、死に近い不健康をもたらすのだった。
はじめのうちは誰も本気で取り合わなかった。あまりの馬鹿馬鹿しさから「生物が優雅に雲で暮らしている」とメディアで揶揄されていたものの、既存の抗菌薬のほとんどが菌に有用な効果をもたらさないと判明し、民衆はパニックに陥る。唯一確かな事実は、雨天の後に有意に患者が増加し、その中の大部分が重い症状に苦しむこと。
住民は雨に抗う方法を探し求める。一部の者は乾燥帯への脱出を試み、航空機は連日満杯の有様。誰もが資金を持っているわけではなく、温暖湿潤気候の日本では、根本的に雨から逃げることは叶わなかった。雨に含まれる病原菌の分析が進められたが、いずれも強固な抗菌薬耐性を示した。
打ち上げられた飛行機を用いて、根本的に雲の駆除を試みた人もいた。しかし全く上手くいかない。塩素剤を撒いても、次の日には塩素に耐性のある菌が繁殖する。住民は次第に液体そのものに恐怖を覚え始める。地下の住宅が高値で売れ、値の逆転現象が起きる。誰も水道水を信用せず、脱水症状に襲われる人が続出する。
住民は雨と戦うことを諦め、代わりに全力で雨を避ける方法を模索した。半端な雨傘もレインコートも市場から全て駆逐され、全身を覆う服が流行る。彼らは次第に外出の予定を自分で立てなくなっていく。気候予測システム「快天」が住民の頼みの綱であった。
ある日、快天が誤作動を起こす。向こう三日間の晴れ予想は儚くも裏切られ、突然の豪雨に打たれた住民はことごとく体調不良を訴える。感染を警戒する病院は患者をたらい回しにする。屋外に放置された患者は、怒りのあまり雨水を屋内に持ち込み、打ち水のように浴びせかける。
民衆の心理的不安は限界に達し、「快天」開発者の笹山は巨額の訴訟を抱え込むこととなった。彼は怒りと苦しみのあまり、買い叩いた地下のシェルターへ逃亡することを決断。雨水の影響の及ばない静謐な空間で、彼は快天の改良を続ける。天気の完全な予測は難しく、成果は芳しくなかった。
五年後、騒動の収束を直感的に感じ取った笹山は、地上に舞い戻り、新しい街の姿を目の当たりにする。人間が活動的に動き回っているのだ。強化された菌類の猛攻に人体の免疫細胞が刺激され、全体的に弱まっていた細胞活性が息を吹き返した結果だった。人類の神秘に喜んだのも束の間、笹山は咳の発作に襲われる。長らく日光を浴びることを忘れていた彼の免疫機構は、弱り果ててしまっていた。やがて、彼の頬に一筋の雨が伝う。汚さに適応した民衆の下に、菌で満ちた雨が降り注ぐ。
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内容に関するアピール
ジブリの水分の描き方が好きです。普通ならありえないような、スライムのように粘り気のあるあの液体が目に入る度、私が見ているのは普通の映画ではなく「ジブリ映画」なのだな、と思います。というわけで、私の強みは「粘り強い描写」です。雨を雨として書くのではなく、さながらアメーバ様生命体のように描写するのが大好きです。
このような自分の強みから、本作の梗概を設計しました。もし雨粒一つひとつに生命のポテンシャルがあったら、世界の粘りはより強いものとなり、ことによると人間の秩序さえ変えてしまうのではないか、と思います。
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