上へ参ります、上へ参ります

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上へ参ります、上へ参ります

一.

遡ること十二年ほど前、明寿めいじ四十二年一月二十二日のことである。干支十二階の名で馴染みの凌雲閣最上階にて、奇妙奇ッ怪な事件が起きたと騒ぎがあった。
 一人の子供が、行方不明になったという。
 それも迷子や人攫いではない。大勢の者が見ている中、忽然こつぜんとその姿を消してしまったのだ。
日差しは暖かいが風の強い日だった。初詣ついでの客も少なくなってきた中、子供は休みの父に連れられ、他の兄弟たちと凌雲閣を訪れていたという。家族のお目当てはやはり、昇降機エレベーターでの過去の街覗きであった。
 塔の所有者が代わり四年前に大々的な修繕が行われて以来、凌雲閣はかつてを上回る程の賑わいを取り戻していた。相次ぐ故障で開業の翌年には操業停止していた国内初の電動昇降機――――当初はエレベートルと呼ばれていた――――を大幅に修理・改造し、明寿二十八年に英吉利いぎりすで発明された航時機タイムマシンなるものを国内で初めて導入しての営業再開である。
 頂上階まで延長された昇降機で十二階にまで昇れば、展望台の外には十二年前の景色が広がっている。二銭払って遠眼鏡を借りれば、五年前に死んだ婆さんが家の前で掃き掃除をするのも見えるかもしれない。
 開業から十年以上が経ち、ただ高くから街並みを見下ろすだけでは最早珍しがらなくなっていた人々も、物珍しさ懐かしさから再び塔に足を運ぶようになった。そのうち誰が言い出したか、年男・年女はその年のうちに凌雲閣にて一回り前の干支の景色を眺めると縁起が良いという噂が立ち、それに乗った経営者が新聞に広告を出したことで、客足は更に増えていく。こうして見事蘇っていった塔は、やがて元の浅草十二階の異名から名を変えて、「干支十二階」として親しまれるようになっていった。
 年男の長男の験担ぎにと塔を訪れていた件の家族も、エレベーターで昇った先の展望台にて、長男の生まれた明寿三十年の街並みを眺めていた。初め父親は上二人の子供のあれは何、これはどこと街並みを指さしての質問に一つひとつ答えていたという。
 そうしているうちに、それまで大人しくしていた一番下の子供が、外の玩具屋で売られていた独楽が欲しいと駄々を捏ね始めた。例え時間が巻き戻されていようが、興味が無ければ高いばかりの、触れもしない景色である。恐らくは眺めているのに飽きてしまったのだろう。なかなか大人しくならず、とうとう床に転がり泣き始めた幼子に手を焼いた父親が上の二人から目を離した時、ちょうど辺りで風が一層強く吹いた。
 無理矢理下の子を立ち上がらせようとしていた父親は、アッという周囲の叫び声に咄嗟に顔を上げた。
 その時既に視線の先では、展望台の手摺りから身を乗り出した、見覚えのある小さな着物姿が風に煽られてぐらりと傾いていた。叫ぶように子供の名を呼びながら父親が駆け出すのと、異変に気付いた近くの客が咄嗟に手を伸ばすのと、小さな体が手摺りの向こうへと倒れていくのは、殆ど同時だったという。
 他の客が伸ばした手は着物の袖を虚しく掠り、子供はそのまま十二階から真っ逆さまに落ちて行った。
 血相を変えて手摺りから下を覗き込んだ父親たちは、ただ子供が地上へと落ちていくのを成す術なく見ている他無かった――――
はずだった。
 まだ互いの顔が見える程の距離を落ちていた子供の体が、何もない空中で突如と浮きあがった。
 風に煽られたのだろうか。予想外の出来事に皆が目を丸くして二、三度瞬きをする間、子供はそのまましばらく宙に浮いていた。
 そして次に瞬きをした時には、目の前にいた筈の小さな姿はすっかり見えなくなっていた。
 風に攫われていったのを見た者はいない。鳶も近くには飛んでいない。
 ただ、煙のように子供の姿がかき消えてしまったのだという。
 しばらくの間、惚けたように展望台より宙を眺めていた人々は、やがてはたと我に返ると慌てて様子を見に下へと降りて行った。未だ青褪めた顔で残る二人の兄弟を抱きかかえた父親の代わりに、騒ぎを聞いて駆け付けていたエレベーターの車掌と、近くで助けようと手を伸ばしていた客が中心となり一階へと向かうと、下足番に預けていた履物を取るのも忘れて外へ出るなり、先ほどの自分たちと同じようにぽかんとした顔で四方を見回す人々に出くわした。
 悲鳴を聞いて顔を上げた彼らも、十二階から人が落ちて来るのを確かに見ていた。
 だが、落ちる子供は十階に差し掛かろうかという時に、やはり突如動きが止まったかと思うと、そのまま忽然と姿を消してしまったのだという。
 浅草の地に聳え立つ十二階から落ちたのだ、下から見ていて見失うはずもない。地面に落ちればそれなりの音もしようが、それも聞いた者がいない。それで皆が狐にでもつままれたような顔をして、あちこちを見回していたのだという。
 頂上階から下りてきた者たちと違い、彼らは事態をそれほど重く受け止めてはいない様子だった。中には新しい見世物にしちゃあ心臓に悪すぎるよと、そう十二階の車掌に苦情を言う者までいたらしい。
 途方に暮れたのは上から降りてきた人々と、彼らの知らせを受けた件の子供の父親である。どうやら子供を死せずに済んだらしいと安堵の息を吐いた一方、それではどこに行ったのだろうかと皆が揃って首を捻った。
 その日から丸々二日ほど、人々は子供の行方を捜して周囲を歩き回った。近くの木に引っ掛かっている可能性もあるからと、近所の鳶職の者や、凌雲閣のある浅草六区で連日興行をしている軽業師たちの助けも借りた。

 だが、どこを探しても、生きた子供も死んだ子供も見つからなかった。

 消えた子供の名前を、市川八重という。
 尋常小学校に入って程ない、七つになるかならないかの少女だった。
 この市川八重という子供が大層利発で賢いと、近所ではちょっとした評判であった。おまけに物覚えが異常に良く、昔から二ケ月前の新聞の記事をそっくりそのまま諳んじることすら出来たという。貧しい家の子供ではあったが、尋常小学校に入ってすぐに教師からは神童と称えられ、末は教師にでもなろうか、男に生まれていれば色々な道もあったろうに大層惜しいことだと言われていた。
 子供を直接知る中には、賢い子供であったからそのうち自分の足で家に帰ってくるだろうと言う者もいた。それを聞いた家族は祈るように毎日外を見ながら過ごしていたが、子供が長屋に返ってくることは遂に無かった。
 目撃者たちが見たままに、落ちる途中で消えてしまったとしか説明のつかないこの事件を、各社新聞は一斉に「奇術の如き人攫い」「現代の神隠し」などと報じ、偉い先生の論説から一般人の投書まで様々な憶測が記事を賑わわせた。昔の風船乗りのたぐいの見世物か何かに巻き込まれた。それこそ才を見込まれ天狗にでも攫われたのだろう。いやいや、明寿も四十年を過ぎて未だ天狗だなどと嘆かわしい。これは皆がたまたま見ていなかっただけで、やはり風か鳶にでも連れて行かれただけのことである――――
 記事の中には、そもそも過去の景色が広がる状態で外に出ればどうなるのかを論じた者もいた。外の景色の時間を変えるこの航時機という装置は、英吉利の発明者W氏とその共同開発者の文献によれば第四の次元なるものを移動するという。であれば子供はその第四の次元という場所に行ってしまったに違いない。家族には大変気の毒だが、もう二度と子供が我々の世界に現れることはないであろう、云々というのである。それとは別に、明寿三十年の景色が見える外へと落ちたのだから、単純に明寿三十年に行っただけだろうという者もいた。最もこの投書をした田島なにがしを名乗る男は、その証拠として二年前に悪戯でごみを外に投げ入れたらやっぱり消えたことがあるなどという与太話を付け加えたため、高所から物を投げ込むなどけしからんと方々から非難を浴びて終わった。
 あらゆる憶測が流れたが、皆の語る推論どれ一つとして、子供の発見に繋げられそうなものは無かった。
 そうして事件は一通り世間を騒がせた後、次第に他の出来事に上書きされ、人々の記憶からは遂に忘れ去られていったのだった。

 

 森田フミが事件のことを思い出したのは、干支十二階の入り口近くにいる幼い姉妹を見かけたせいだった。
 フミが立つ凌雲閣の一階は、入ってすぐの真正面に一台、回って裏側にもう一台の昇降機の乗り場がある。裏側の方はごく普通の十階まで止まる昇降機だが、手前の側は航時機つきの特別製だ。その特別な方の昇降機の扉の脇に立つと、ちょうど開かれた玄関口の小階段を下った向こうが見えるのである。
 上が七つ八つ、下が五つか六つだろうか。手前の小屋で親がきっぷ代を払っている間、二人は何やらおしゃべりに興じていた。その中で姉の方が得意げに浮かべた、どこかこっましゃくれた表情に、そういえばあの子もこんな顔をよくしていたなぁと、市川八重のことを思い出したのだ。
 尋常小学校に入って最初の年、フミと八重は同じ学校に通う同級生であった。
 入学して早々に神童と呼ばれ、教師すらも言い負かしてしまうほど賢かった八重に、あの頃フミたち同級生は皆憧れのような感情を抱いていたと思う。意地悪な上級生のガキ大将ですら、八重には一目置いていた。
 頭の出来だけではない。教室の中に座っているだけで、八重の姿は一際目立って見えた。
 その自信に満ちた立ち振る舞いや表情に華を感じるのだろうか。もっと器量よしは他に何人もいたけれども、とりわけ皆の目を引くのは、いつだって彼女だった。
 当のフミ自身は、八重本人とはさほど繋がりがある方ではなかった。それぞれ別に仲の良い友人がいて、一緒に遊ぶことも一緒に家に帰ることも結局一度として無かった。それでも級友ではあるから、短い間の付き合いで何度か言葉を交わしたことはある。フミはその度に自信に満ちた八重に憧れを強めていったけれども、あちらからはただの同じ学校の同級生程度の存在でしかなかっただろう。
 結局、件の事件のせいで、市川八重という女の子は「目立っていた同級生」から「神隠しにあった女の子」「塔から落ちた女の子」に皆の中でその存在を書き換えられてしまった。それも数年経つうちに少しずつ忘れられ、ただ教室に一人分開けられた座席が、辛うじてかつてそこにいた子供のことを定期的に思い出させてくれるのみであった。
 そんな大して関わりの無かった同級生の女の子とは、尋常小学校を卒業し、こうして凌雲閣干支十二階で働く今の方が、むしろ接点が増えたように思う。
 今のフミの職場で誰もが共有する、市川八重の行方不明事件に関わるあれこれは、凌雲閣干支十二階で働く者たちの手引書マニュアルの中で、比較的大きな頁数を割いて収められていた。
 曰く、屋上階の幼い子供を連れた家族連れには注意すること。子供が複数人いる場合は尚のこと気を付けて見張るべし。
 曰く、屋上階では男女を問わず、最低一人の昇降機の車掌が残るべし。不審な動きをする者、飛び降りようとする者、ものを外に投げ入れようとする者あれば直ちにこれを止めるべし。
 曰く、強風の日は注意すべし。あまりに風が強く落下の恐れがある時は、その日の十階より上を閉鎖とすること。
 事件からちょうど十二年経つ今でも、消えた本物の市川八重は行方不明のままだった。手引書には万が一市川八重を名乗る子供が現れた時の対応まで載っていたけれど、今のところその文言が役に立ったことは一度もない。事件の後すぐには、市川八重の偽物が現れるやら、塔に忍び込んだ悪戯者が昇降機を動かそうとするやら、色々なことが起きたという。果ては航時機が故障してしばらく営業を停止してしまい、厄年なのではないかと頭を抱えた経営者がどこぞの偉い神社に修理費と同じ位の額をはたいてお祓いを依頼したらしい。実に気の毒な話だが、その時のお祓いのお陰か否か、少なくとも四年前にフミが雇われてからはそのような類の問題はついぞ起こったことが無かった。
 もう一度、フミは幼い姉妹たちに視線を向ける。いつの間に喧嘩をしていたのだろうか、それともフミが目を放している間に、何やら悪戯でもしたのだろうか。姉妹は揃って、父親から拳骨を喰らっているところだった。それを眺めているフミの目が、すこしだけ微笑ましさで細められる。まだまだお冠らしい父親は、姉妹に揃ってお説教を浴びせ始めた。あの様子では、塔の中に入れるのはもう少し先になるかもしれない。
 フミの口元が再度綻んだその時、頭上で何かが動く気配がした。
 馴染みのある感覚に顔を引き締め、肩の向こうを振り仰ぐ。昇降機の扉の上に掛けられた時計そっくりの文字盤には、これまた時計と同じように一から十二の文字が書かれているが、短針も秒針もついていない。その代わりに二つの長い針が示しているのは、昇降機が今いる階と、時代だった。
 現在の昇降機の階数を示す真鍮色の長針は、一番上の十二の文字を指したままじっと動かない。代わりに黒く縁どられた方の長い針が、反時計回りにぐるぐると回転していた。
 昇降機の到着を待つ客が、せわしなく動く黒い針が十二の文字を何度も通り過ぎるのを物珍しそうに眺めている中、フミはじっとその回数を数えていた。
 十一回通り過ぎた後、最後にもう一度十二の文字に辿り着いた黒い長針は、ようやくその動きを止めた。
 それと同時に、針の中心真下に付いている下向きの赤い矢印に明りがつく。それまでじっとしていた真鍮色をした針が、交代とばかりに十二の文字からまずは十の文字を目指してゆっくりと左に動き始める。
 航時機が、現代へと戻ってきたのだ。
 そうなれば後は下へと降りるばかりだが、文字盤の中央左に『満車』の文字が光っているのを見る限り、こちらに降りてくるのはもう少し後になるかもしれない。昇降機を待つ客をにこやかに整列させながら待っていると、それまで数字のところに来るたび止まっていた長針が、四の文字を過ぎてからようやく滑らかに動くようになった。
 三、二の文字を通り過ぎ、一と書かれた文字を真鍮の針が指し示すのと同時に、扉の両脇の壁に備え付けられた『上リ』と書かれた電灯がパッと灯された。
 初めに外扉が開かれ、次に格子状の蛇腹扉が開かれるのを待ってから、機内に乗っていた客が次々吐き出されるように昇降機の外へと出てきた。全ての乗客が降り切ると、それまで隅で扉を操作していた同期の妙子がようやっと顔を出した。昇降機ガールや車掌の間で、接客中のお喋りは厳禁である。揃いの制服姿でお待たせ、と目くばせだけでこちらに合図をしてきた妙子に、フミも後ろで並ぶ客に見えないよう、こっそりと片眉だけ上げて返してみせた。
 手信号で合図をして交代した後、昇降機から歩み去っていく妙子を横目で見送りつつ、フミは昇降機を待つ列の前で一礼の後、背筋をピンと伸ばしてお決まりの口上を述べた。
「大変お待たせ致しました。只今より凌雲閣上階へとご案内致します。お並びのお客様は列を崩さぬまま、順番に中へとお入り下さい。尚、こちらの昇降機は十階より航時機タイムマシンにて頂上階へと参ります。航時機をご利用でないお客様は、裏側にも昇降機がございますのでそちらもご利用下さいませ」
 ぞろぞろと中へ入る乗客を全て納めると、ちょうど自分を含めて定員の二十人になるほどだった。扉の内側脇に立てつけられた操作台の前に立っていたフミは、足元に設置された小さいボタンを革靴で軽く踏んで、外の文字盤の『満車』の文字に明りをつける。
 正月が明けてからしばらくのこの時期はいつも混む。外に一礼の後蛇腹扉と外扉を閉じながら、最後に乗り込んだ乗客が先ほどの姉妹とその父親であることにフミは気が付いた。職業婦人の花形の一つとされる昇降機ガールを目の前に、まん丸にした目を輝かせる幼い姉妹の視線が眩しい。
 それににっこりと笑いかけながら、フミは操作台でハンドルを右手で握ると右の方へと傾ける。それに反応した昇降機が、少しの振動と音を立てた後、ゆっくりと上に昇り始めた。
 右が上昇。左が下降。把手を真ん中に戻すと停止。昇降機ガールの仕事は機体の操作だけではない。どの乗客がどの階で降りる予定かを頭に入れ、時折話しかけてくる乗客のお喋りに応じる。勧工場としてさまざまな店や展示の入る二階から十階では、元々乗っていた乗客を降ろすだけでなく、必要であればその階で昇降機を待つ客を拾って上に行かなければならない。新米の頃は航時機がない昇降機でもてんてこ舞いになっていたが、今では操作も体に染みついているし、話しかけられても周囲に気を配ったまま返すことだって朝飯前だった。

「十階。眺望室と休憩所でございます。当代の街並みをご覧になりたい方は、こちらでお降り下さいませ。螺旋階段を上った先の十一階でも、街並みをご覧頂けます」
 昇降機としての最上階である十階に辿り着くと、乗っていた客のうち数人が外を眺めに機体を降りた。中の乗客の案内を全て済ませたフミは、扉を開いたまま他の階と同じように一歩昇降機の外へと踏み出すと、十階の周囲に聞こえるように昇降機ガールの採用条件の一つであるよく通る声を響かせた。
「上へ参ります、上へ参ります」
 ――――航時機をご利用のお客様は、いらっしゃいませんでしょうか。
 十階で必ず尋ねる文句をひとつ付け加え、右手、左手へとそれぞれ顔を向けて見渡す。追加の乗客がいないことを確認してから「下りもう少々お待ち下さいませ」と一礼して戻ると、フミは昇降機の外扉、蛇腹扉を閉めた。
 最後に十階からしかない内扉を、既に閉まった二つの扉の間に無事に閉じれば準備は完了だ。
「本日は凌雲閣、干支十二階にご来館頂き、誠にありがとうございます。これより当エレベーターの航時機を起動致します。大変揺れますので、お足元にお気を付け下さいませ」
 やはりお決まりの口上の後に操作台に向き直ると、フミはハンドルの上の操作台のボタンを順序良く押し把手レバーを手際よく下に倒してから、真ん中で停止させていたハンドルを今度は左側、反時計回りへと回した。
 ガタン、と思わず肩を竦めそうなほどの轟音と共に一度揺れると、昇降機はゆっくりと上へと昇り始めた。背後の乗客たちが小さな悲鳴と共によろめくのが分かる。
 左に倒したままのハンドルから手を離さず、衝撃で倒れた者はいないことを確認すると、フミは振り向いて凌雲閣の航時機についての簡単な概要と注意点を乗客に説明し始めた。航時機はその構造上の問題から非常に大きくしか作れず、おまけに特許の関係もあり、大昭十年の現在でも世界中を見ても数少ないものであること。現在この国ではこの十二階の他に、大昭元年に開業した大阪の通天閣でしか導入されていないこと。普通の昇降機の二階分よりも、辿り着くのに遥かに時間がかかること。
「航時機はその名の通り、時を航り外の景色を変えることのできる装置です。この凌雲閣ではその名に因み、十二年前に時間を設定したものを導入しております。ですがあくまで景色を眺めるためのものであり、またその高さもあって、展望台より外は大変危険でございます。安全上の観点から、身を乗り出す、手摺りを乗り越える、物を外に落とすなどの行為は禁止されておりますので、十二階にて景色をご覧になる際はくれぐれもお気をつけてお楽しみ頂けますよう、ご協力をお願い致します」
 乗客の質問も交えつつの解説を最後にそう締めくくると、フミはもう一度操作台に向き直り、ずっと左に倒したままだったハンドルを少しずつ真ん中へと戻していった。
 軋んだ音を立てて減速した昇降機が、フミのハンドルを持つ手がぴったり真ん中に辿り着くのに合わせて停止する。航時機のハンドルは少しでも真ん中から右にずれれば不具合が起きてしまうから、航時機つきの昇降機を操作できるのは新人を卒業し、もう片方の昇降機の操作にずっかり慣れた者になる。再びガコン、と大きな音と振動が訪れた後、起動した航時機はようやくその動きを止めた。
「頂上階、十二階でございます。展望台からご覧頂けるのは、明寿四十二年の浅草周辺の街並みでございます。お足もとにお気をつけてお降りくださいませ」
 展望台の床に揃えて止められた昇降機の床から、乗客が次々と降りていく。
「ありがとうございました!」と可愛らしく声を揃えて挨拶をしてくれた例の姉妹に始まり、最後に一番奥にいた老紳士が出ていくのを見送ったフミは、視線の先の違和感におやと眉を潜めた。
 市川八重の落下事故以降、屋上階には交代で関係者が一人は留まるようになっている。今回の当番は、昇降機を操作する者を束ねる機長も兼任するベテラン車掌の松本だ。その松本が皆の定位置である昇降機のすぐ横を外れ、奥の手摺りの方にいた。何やら客の一人と言い争いをしている様子に、フミも昇降機の扉と操作台を固定してから速足で松本の方へと向かう。
 大して近寄らないうちに、滅多に怒らぬ温厚な上司の珍しく強張った声と、その何倍も張り上げられた客の声が言い争うのが聞こえてきた。後者の舌が少しばかりもつれているのを見るに、どうやら相手は十二階下の出店で酒を何杯か引っかけてきたらしい。入り口の切符売り場には泥酔客お断りの札もあるし、本来ならフミたち昇降機ガールや車掌も昇降機を利用する乗客の様子にはきちんと目を光らせている。通常はここまで来られないはずなのだが、うまいこと入れ込んだか、それとも昇っているうちに酔いが回って来たのか。
「――――ですからお客様、他の方々へのご迷惑にもなりますし、ここから物を投げ入れるのはお止め下さいと」
 尚も声を尖らせ、それでも最低限の礼儀は残しつつそう言いかけた松本に、うるせえと叫んだ酔客が掴みかかった。このままでは物どころか、松本を展望台の外に投げ入れかねない。すっかり周囲から人の引いた空間に飛び込むと、松本の胸倉を掴む客の腕を押さえつつ、ひとまず手摺りの近くから二人を引き離そうとした。それを見た周りの客のうち、数人かの若い男たちも加勢に入る。
 いっぺんに自分を囲む人が増えたことに狼狽したのか、酔っ払いは松本から手を離すと、今度は喚きながら遮二無二腕を振り回して暴れ始めた。もみ合い、へし合いしている中、加勢した若者の一人が何とか後ろから取り押さえる。
 これでようやく大人しくなろうと皆がほっとしたのも束の間、酔客はいよいよ呂律の回らぬ口で何かを大声で言いながら、身を屈めながら背中の若者の腕をグイと両手で引いた。対処できずに体勢を崩した若者の体が宙を舞い、そのまま手摺りを越えそうになる。
 展望台に、誰かの叫び声が響いた。フミは酔客を他の者に任せ、全力で手摺りの方へと向かう。これでも昔から運動は得意なのだ。あっという間に追いつき手摺りに片脚をかけると、走る勢いと自重をてこにして若者の体をグイと展望台の内側へと押し戻した。こういう時、洋装の制服は脚が上がりやすくていい。
 そのまま自分の体が姿勢を崩し、外に飛び出しそうになるのを感じつつ、突如先ほどの酔っ払いの言っていたことを今更理解する。
 ――――なめるなよ、俺は道場にも通っていたことがあるんだぞ。
 だからどうした、あまりにも不要な情報を後出しで処理した自分の頭にそう思いながらも、フミはひとまず手摺りのほうへと腕を伸ばした。
 だが、どうやら思った以上に勢いをつけてしまったらしい。
 伸ばした腕は掌一つ分足りず、追いついた松本が必死に自分の名前を呼びながらこちらに差し出そうとした手は、落ちるフミとは高さが合わなかった。
 どうやら落ちるときの人間というのは、余計な情報ばかりを考えようとするものらしい。親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている、今度は昔兄の本棚で読んだ本の出だしが頭に浮かんだ。あれは二階から飛び降りていたけれど、今のフミが落ちているのは十二階だ。今生の際に浮かべる言葉としてはあまりにも役に立たなさすぎる。いやまぁ、確かにもう少し考えて動ければ、自分も助かる方法があったのかもしれないけれども。
 そんなことを思いながら落ちていると、やがて自分の体がふわりと浮き上がるのを感じた。今日は風もそんなに吹いていないのに。今度は見下ろせるようになった展望台の方を見つつ、フミは自分の意識が少しずつ遠のいて行くのを感じる。
 展望台でこちらを見上げる人々の中に、あの生意気そうな表情を浮かべていた幼い姉妹の姉の方を見つけて、ああそういえばとようやくフミの頭は正しく昇降機ガールの手引書の情報を引き出してきた。
 市川八重の事件でも、こんな風に浮き上がってからあの子は姿を消したと書いてあったっけ。
 消えてどこに行くのかは分からないが、落ちて死ぬよりは痛くなさそうだ。
 いよいよ意識が遠のくのを感じながら、フミはハイヒールの片足が脱げているのに気が付いた。
 一体どこで置いてきたのだろう。手摺りを越えた時に脱げたなら、靴も一緒に浮き上がって消えたりするのだろうか。
 ――――やっぱり、最後に頭に浮かぶのは、何だかしょうもないことばかりだ。
 そう思ったのを最後に、フミはいよいよ残っていた意識を、ゴム風船の紐のように手放した。

 

二.

視界が開けるよりも前に、耳に喧騒が飛び込んできた。
 一拍置いて飛び込んできた目に映る情報と衝突し、頭の中で一瞬うまく処理しきれずに戸惑う。

 いつの間にか、フミは人混みから少し外れた壁の前に立っていた。

 ぼんやりとする頭を右に、左に動かして、何だかひどく見覚えのある景色に首を傾げる。
 まさかと背後を振り仰げば、フミの目には馴染みに馴染んだ煉瓦色の塔が、冬の青空を背に聳え立っていた。フミの立つ場所から少し離れた玄関口では、小階段を上る前の人々が下足番に履物を預けている。
 塔の正面に回ってみようと一歩進んでから、フミは自分の片足に靴が無いことに気が付いた。
 もう一度、今度は下の方を左右に見回す。フミの身長一つ分と少し離れたところに、ハイヒールの革靴の片方がぽつんと落ちていた。周囲の奇異の目にさらされつつ、片足立ちで何とか靴の落ちている方まで進む。手に取った孤独な靴は、履いていない方のフミの片足にすっぽりと収まった。
 改めて塔の正面玄関まで回り込む。入り口の上方に書かれた文字を右から左に読めば、案の定「凌雲閣」とその姿に恥じぬ名前が書かれているのを見て、フミははてと首を傾げた。
 自分は確かに、干支十二階凌雲閣の頂上階から落ちたはずだ。恐らくは記録にある市川八重の事故のように、あの場からは姿を消したに違いない。
 ところが目の前に広がる景色は、いくつかの違和感を除けばあまりにも見慣れた場所だった。
 それは塔の壁が少し綺麗になっている気がするとか、十二階の正門の向こうに広がる街並みが記憶の中と少し違うとか、正月明けとはいえいつもよりも更に賑わっているだとか。気付くだけでも山ほどあるが一つひとつはその程度のことでしかなく、別に天狗も飛んでいなければ閻魔様がいそうな場所もない。あの世にしてはずいぶんと代わり映えのしない光景だし、噂話のように天狗の世界に連れて行かれたにしては、やけに俗世に染まりすぎた街並みだ。
 それでも、その微かな違和感がいくつも重なって、フミの働く浅草六区とは違うであろうことが何となく分かった。
 もう一度、念のために頭上を仰ぎ見る。頂上階からは指を差して街並みを眺める人や、遠眼鏡でどこかを覗き込む人々はいるけれども、特段何か騒ぎが起きた様子もない。フミのいた十二階であれば、今頃はまたもや人が消えたと大変な騒ぎになっているはずだった。
「参ったな」
 ここは一体、どこなのだろう。
 呟いても詮無いことをひとつ呟くと、フミはひとまず答えを探すため正門を出て浅草六区の大通りへと足を運んだ。
 十二階前の興行街は、フミの知っている街と同じように人で賑わっていた。見世物小屋に怪しげな出店、博物標本を展示する店。土産物の十二階の塔の模型やら、独楽やゴム風船を売る子供向けの玩具屋もある。昇降機ガールの制服姿のままのせいか、道行く人々がじろじろとこちらを見ているような気がする。なるべく目立たないよう、通りの隅の方を選んで歩くことにした。
 合間を縫ってぽつぽつと、演芸場や活動写真館の看板や幟が掛かっていた。フミの知る浅草十二階の近くにはもっと沢山あった気がするが、こちらはずいぶんと数が控えめだ。それでも劇場の前は人で賑わっている。少しだけ自分の知っている浅草とは違う芝居小屋で何の演目が行われているのかが気になって、フミは人混みの隙間から「新春記念 明寿四十二年一月七日 本日の演目」と見出しのついた劇場の立て看板を覗き込んだ瞬間、思わずアッと大声を上げた。
 手前に並ぶ数人から不審そうな目を向けられ、首を竦めて両手で口元を押さえる。
 尚も叫びたいのを必死に抑えつつ、フミは今自分が見たものを確かめるため背伸びをすると、人混みの中からもう一度立て看板を覗き込んだ。
 黒々とした墨で書かれた見出しには、やっぱり「明寿四十二年」と書いてある。
 呆然としながら芝居小屋の前を離れて通りを歩きつつ、いつ屋上階で客に尋ねられても淀みなく説明できるようにと叩き込まれた、航時機で乗客を連れて行く十二年前の街並みの知識と一つひとつ付け合わせる。
 その全てが、フミの時代から見て十二年前――――明寿四十二年のものと一致するのを確かめて、フミは思わずよろめきそうになる足を無理やり踏ん張った。
 ――――十二年前の光景に落ちたから、そのまま十二年前の浅草に来てしまったのだ。
 何かの芝居か読本で見た、絵の中の世界に閉じ込められた人の話を思い出す。まさかそれと同じように、昔の景色の中に人間も行くことが出来るだなんて思ったこともなかった。そういえば英吉利で初めて航時機を開発した二人組は、しばらくしてその片方が未来に行くと言ったきり、そのまま行方知れずになったという。もしかしたら、その人も今のフミのように、未来の景色の中に入り込んでしまったのではないだろうか。
 でも、とフミは自分の顔から血の気が引いていくのを感じる。
 そうだとしたら、一体どうやって戻れば良いのだろう。
 途方に暮れて通りに立ち尽くしていると、少しずつ傾き始めた日が辺りを赤く染め始めた。それに合わせて菓子や玩具を出していた出店が少しずつ店じまいを初め、入れ替わるように怪しげな見世物小屋の看板が次々と上がっていく。
 ひとまず干支十二階の方へ戻ろうかと考え、すぐにいやと思い返す。昇降機ガールの採用が始まったのは、確かフミのいた大昭十年より十年ほど前だ。十二年前のこの浅草では、まだ昇降機の操縦は全て男性が担っていたという。採用を始めたばかりの時、女では航時機も昇降機も扱えまいとする反対意見に、いいや必ず出来ますと強く話を推し進めたのが当時の松本だったのだと、フミはいつだか先輩に聞いたのだ。
 そうであれば今十二階を訪れて事情を説明したところで、未来から訪れたというよりも前に、そもそも関係者だと証明することも難しいだろう。
 行く宛もなければ戻る術もない。立ち尽くすフミの耳に、辻占の声が聞こえてくる。
 ひとまずどこかで宿を探そうか。いや、こうなればいっそ当たるも八卦当たらぬも八卦で、占い師にでも相談してみようかと考えたところで、ふと数軒先の見世物小屋が看板を上げるのが目に入った。
 何とはなしに近寄ると、準備をしていた男が此方を向きにっこりと笑いかけて見せた。体つきから想像するに、恐らく初老の頃だろうか。歳にしては皺の多い顔のせいで、笑うと顔がくしゃくしゃに折り畳まれた紙のようになるのが、妙に愛嬌を与える男だった。
「いらっしゃい、運がいいよお嬢ちゃん。今日は久々に予言屋八重治やえじが出る日だよ。あいつの予言はよく当たるよ。ちょいと一つ寄ってって、未来で答え合わせでもしないかい」
 くしゃくしゃ顔のままそう言うと、既に軒先に立てかけられていた『予言屋八重治 今晩登場』と大きく書かれた看板を、片手で寄せてこちらに見せてくれる。小さく付け加えられた『皆より一足先に未来の出来事を知ろう!』と書かれた胡散臭い文句を見て、フミは思わず噴き出した。
 ――――おじさん、残念だけど、私は多分その八重治さんよりもうんと未来を知っているよ。
 何だかおかしくなってしまって、そう言うのをぐっと堪えつつもフミは思わず腰に下げた小物入れから小銭を取り出した。
 私は何をやっているんだろうと我に返ったのは、一人分の券を買って狭い小屋の中に入り、まばらに埋まっている席の一つに腰を下ろした後である。拍子木の音と共に入れ代わり立ち代わりで見せられる見世物の演目は、口上もよく練られていて見ている分にはそこそこ楽しめたが、物珍しいものはほとんどない。河童の木乃伊だと見せられた標本も、席のせいか頭や腕の継ぎ目がハッキリと見えてしまい、作り物であることが一目で分かる出来の悪いものだった。観客たちも一様に反応はするけれども、どこか前座を楽しんでいるという雰囲気のままだった。
 見世物の演目もいよいよ終盤になり、次は予言屋八重治の出番だよと司会の若い男が言うと、観客席の者たちは一様に興奮した様子でひそひそと話し始めた。どうやらこの小屋の目玉らしい。拍子木の音と共に幕が上がり、両手をついて平伏した派手な着物姿の女が現れると、今日一番の拍手が沸き上がった。真打登場というわけである。
 ゆっくりと起き上がった若い女の顔は、着物とは逆にほとんど化粧ッ気もなく、両目の上と唇の上に紅を一筋引いただけだった。そのちぐはぐさが、何だか余計に異様な雰囲気を醸し出しているのが、初めて見たフミにも感じられる。
 予言屋八重治はしばらく何も言わず、静かに真正面を見つめていた。それからゆっくりと頭だけを動かして、客席を右から左へと小さな笑みを浮かべたまま、一人一人の顔を見渡していく。
 たっぷり時間をかけて女が顔を真正面に戻した頃には、客席の空気はぴんと張りつめていた。フミも知らずに握りしめた掌を膝の上に、思わず固唾を飲んで八重治の顔を見つめていた。
 全員の視線を舞台に集めた女はそのまま静かに笑みを浮かべていたが、やがて何の前触れも無しに紅を引いただけの口を開いた。
「睦月が終わるよりも前に、浅草で小さい人が一人落ちるでしょう」
 ぽかんとして言葉の意味を図ろうとする客席の隅の方で、フミは今度こそアッと大声を出しそうになるのを必死に抑えた。
明寿四十二年一月。子供の落下――――予言屋、治。
 ここから見る限りでは、女はフミと同じくらいの歳に見える。ここから更に十二年前、明寿三十年に六つ七つで落ちたとすれば勘定も合う。それにしても、存外ひねりの無い名前をつけたものだ。
「五重塔か凌雲閣か。花やしきの奥山閣か。さて場所はどこだか申し上げられませんけれども、高いところから人が落ちるでしょう」
 どこか芝居がかった口調の女の口の端が、ニイと小さくつり上がった。その顔立ちと表情に、確かに遠い昔の面影が少しだけ重なる。
「私のこの目には小さな人影が、どこかから落ちていくのが見えました。この場にいます皆々様におかれましては、小柄な家族やご友人をお連れするのは、睦月を過ぎてからにした方が賢明でございましょう」
 くれぐれも、高いところにはお気をつけて。
 そう締め括って再度両手をつくのと同時に、まばらな拍手や観客の口々に言い合う声、そして拍子木の音に合わせて再度幕が下がる。
 頭を下げた八重治の表情は、舞台の上からは見えなかった。

 すっかり日の暮れた興行街で、先ほどの男に一か八かで市川八重さんにお会いしたいですと告げてみると、店じまいをしていた男はあっさりと承諾してくれた。
「何だい嬢ちゃん、あんた八重治の友達かい。人付き合いの悪い奴だから心配していたんだが、そうかちゃんと友達がいたんだなぁ」
 いやぁ良かった良かったと、一層顔を折り畳んで笑う様子は親戚の大人のようである。聞けばどうやらこの芝居小屋でそれなりに長い付き合いらしく、今まで昔の友人など一人も尋ねてこなかったのにと嬉しそうに言いながら、竹二郎と名乗る雑用係りの男は楽屋の裏まで案内してくれた。
 呼んできてやろうかという竹二郎の申し出を断り、入り口の横で待たせてもらうことにする。小屋の前の片付けに戻る竹二郎に礼を言って見送ると、フミはその場にしゃがみ込んでぼんやりと空を眺めた。
 一月の夜の肌を刺すような空気は、制服姿には少しだけ寒い。いつもならこの時間はとうに仕事を終えて着替えてから、家へと帰っていく最中である。向こうの皆はまだ私を探しているだろうか。自分が助けたあの客は、怪我などしなかっただろうか。あの酔っ払いも、少しは痛い目にあってくれただろうか。そんなことを取りとめもなく考えていると、すぐ隣の扉が開いて普通の着物姿に着替えた若い女が出てきた。足元にしゃがみ込む洋装のフミに気付いたのだろう、ぎょっとしてこちらを見下ろす紅も落とされた顔は、間近で見ると少しだけ草臥れていた。
 しゃがみ込んだまま相手の方を見上げたフミは、単刀直入に切り込むことにした。
「市川八重さんですよね」
「そうだけど、何?」
 立ち上がって真横に並ぶと、不審そうに顔を顰めた八重の方よりもハイヒールのフミの方が少しだけ背が高かった。
「あんた、今日客席にいたよね。何で私の名前を知っているわけ?」
 あの短い時間で、フミの顔も覚えたらしい。頭の出来は健在のようだ。そういえば読み本の内容を一冊丸々諳んじて見せたこともあったっけ。
 こちらを警戒してぶっきらぼうに返す八重に、フミはぺこりと頭を下げた。
「明寿四十一年から尋常小学校で少しだけ一緒だった、森田フミです。お久しぶり」
 覚えている? とこの相手に尋ねる必要もない言葉を付け加えると、八重の方は少しだけ考えた後ああ、と思い出したらしい声を上げてから、再度不審そうな顔をこちらに向けた。その両目は雄弁に、なぜ自分と同じ位の歳の森田フミがここにいるのだと問いかけている。
 こちらは見世物ではないのだ。勿体つける必要なんてない。だからここで八重を待っている間に、簡潔に、今のフミに分かる範囲のことを正直に伝えることに決めていた。
「大昭十年の干支十二階から落ちて、気が付いたら十二年前にいるみたいなの。戻る方法を探したいのだけど、助けてもらうことはできませんか?」

 

 大したもてなしは出来ないからねと念押しされて招かれた八重の住む長屋は、思った以上におんぼろだった。
 フミも全くといって良いほど裕福な家の出ではなかったけれども、流石にここまでのおんぼろ長屋は久々に見る。八重の生まれた家も、ここまでひどくは無かっただろう。それでもこんな状況で、屋根の下で休めるだけありがたい。お言葉に甘えてお邪魔しますと上がらせてもらうことにする。
 あの後「大昭」という言葉に首を傾げた八重を前に、説明をしようと口を開いたフミが代わりに盛大なくしゃみをしたせいで、話は途中で止まっていた。やはり寒空の下で待ち過ぎたらしい。こんなことなら竹二郎というあの男に頼んでせめて中で待たせてもらえば良かった。色々と聞きたいことはあるだろうに、ひとまずうちで今日は休みなよと声を掛けてくれた八重に早速助けられている。
 火鉢でようやく暖まり一息を吐いたところで、「それで」と八重がこちらに向き直った。
「大昭ってことは、今は年号が変わっているの?」
「うん、この時代から……ええと、三年後に」
 未来からきたフミに八重は色々なことを聞きたがった。家族のこと。今の十二階の様子について。通天閣に遡る時間を変えられる新しい航時機が出来たせいもあり、この時代の方が賑わっているかもしれないと教えると、八重は興味深そうな顔をした。世の中の出来事。八重は大戦の話もあれこれ聞きたがっていたが、フミの記憶力では新聞の内容を諳んじることは出来ない。必死に思い出せる限りを話した頃には、ぐったりとしてしまった。そしてフミの洋装姿。
「この時代じゃ、聞く限りあんたの時代以上に女の洋装は目立つからね。明日は私の着物を貸してあげる」
「助かるよ、いつまでも制服のままでいるのも落ち着かなくて」
 辛うじて財布はあるけれども、小物入れの他は何もない状態で落ちたのだ。今日一日で視線が少しばかり痛かったフミとしては、大変ありがたい申し出である。
「八重ちゃんは、落ちた後どうやってここまで生きてきたの」
 無事にこうして生きていたことは嬉しいが、フミと違って財布もない、齢六つ七つの子供である。いくら賢く木の強い子供であったとしても、一人で見知らぬ時代に投げ出されて心細くない訳がない。一人でご飯を食べていくのも、きっと難しいだろう。
 八重でいいよと返しながら、八重は夕飯の麦ご飯を半分よそってフミの方にも分けてくれた。ありがたく受け取り両手を合わせる。色々なことがあった一日のせいか、温かいご飯と漬物が腹にも胸にも染みるようだった。
「落ちて割とすぐに親切な人に拾ってもらって、しばらくはその人のところに世話になっていたよ」
 まぁ、もう死んじゃったけれどもね。
 その人は今どこにと尋ねるこちらに先回りするようにさらりと付け足されて、少しだけフミは寂しくなった。
「今はあんたが見た通り、こうして適度に未来のことを話したり、芝居小屋の手伝いをしたりしてお金をもらっている」
 昔新聞で読んだ内容から、適度に見繕って当たり障りのない範囲のことを話しているらしい。
「後は昔両親から聞いた話とかね。今日は割と分かりやすく言った方だけど、当たりとも外れとも言えないような言い方にしておけば、後からそんなに騒ぎにならないからね」
 駆け出しの頃、一度だけあまりにも正確に「当てて」しまったせいで後でちょっとした騒動になって以来、あまり直接的なことを言うのは止めにしたという。
 確かに物覚えの良さを生かした、立派な生計の道ではある。けれども末は先生にでもなろうかと言われ、フミの時代であれば文壇にあがってもおかしくないような神童の行きつく先としては、何だか勿体ないような気がした。
「あんたは? あっちの時代で今まで何をしてきたの」
「ええと、尋常小学校を卒業して最初の二年は工場に勤めて、それから昇降機ガールの募集に参加して、採用されて働いていたって感じかな」
 既に昇降機ガールの採用が未来で始まっていたことは聞いていた八重が、「そんなら十二からずっと、昇降機を動かしているわけか」と一人呟いたのを聞いて、フミはおやと首を傾げた。珍しく計算が合っていない。
「昇降機の仕事は、尋常小学校以上を出た十四からしか採用されないけれども……」
 え、と顔を上げた八重は数秒の思考の後、一人で合点のいったという顔をしてみせた。
「そういや二年前……ああもう、ややこしいなぁ。とにかく、明寿四十年に四年から六年に卒業の年が変わったのを忘れていたよ」
 初めて知った知識に、フミはへえと思わず声を上げる。この時代のフミが尋常小学校に入ったのは六つの頃だ。自分が四つの頃にそんな変更があったことを、あまり気にしたことは無かった。
「そんなら八重ちゃ……八重は、元の予定よりも二年早く卒業したのか」
 それこそ何だか勿体ないねと麦飯を口に運んだフミに、八重は少しだけ困った様子で「そうね」と笑った。

翌朝から、フミは十二年後に戻るために早速動き始めた。
 実のところ、戻るために何をすべきかという結論は、昨日の夕食の後には既に出ていた。
「私もフミも、同じように十二年前の景色に落ちたら十二年前に落ちたのだから、要はその逆をすれば戻れるのだと思うんだよね」
 早い話が、干支十二階の屋上で、十二年後の景色に向かって飛び降りろということである。
 あの高さをもう一度飛ぶのかと思うとぞっとしないが、それでも戻れる方法がこれほど早く分かるだけでありがたい。やはり八重に助けを求めたのは正解だった。
 幸い勤務中に落ちたお陰で、十二階に入るための鍵も昇降機を動かすための鍵も、フミはどちらも持ち合わせている。同じ型を使っているかどうかは賭けになるけれども、うまく行けば営業時間外に忍び込みさえすれば後は動かせる。
 ただ一つ、ではすぐに取り掛かろうと動けない問題が
「後は、航時機の動かし方さえ分かればいいのだけど……」
 ――――十二年後に行くための操作方法が、フミたちには分からないということだった。
 そもそも凌雲閣の航時機が未来に行けるのかどうかも怪しかった。操作を担う昇降機ガールも車掌たちも、「凌雲閣は十二年前の景色に航時機を設定している」と聞かされており、乗客にもそのように説明している。
 少しばかり聞き齧ったことのある乗客の中には英吉利イギリスで初めて発明された時には研究者は未来に行ったらしいという話から「凌雲閣は未来に行けないのか」と尋ねてくる者も確かにいたが、これに対する模範解答は「設備の事情で不可」というものだった。
「何それ、ずいぶん濁した書き方だね」
「元々の英吉利の発明家の方も、本当に未来に行ったかどうかは怪しいみたい。本人たちが話していただけだし、すぐに装置が壊れたせいで誰も他に見た人はいなかったから」
 もう一度作り直した航時機で証拠を見せようと写真機を片手に乗り込んだ方の研究者は、その後行方不明になっている。
「他の世界の航時機を見ても、未来の景色を見ようとすると大体すぐに故障してしまってうまくいかなかったらしいって、機長が前に話していたよ」
 行けないこともないかもしれないが、代わりに装置が壊れる恐れがある。
 一か八か、故障を覚悟で動かしてみるしかないだろうが、無暗やたらと航時機を動かして、未来に行くよりも前に壊してしまう訳にはいかない。そうなってしまったら、フミは突如放り出されたこの時代で、多額の弁償金を払わされる羽目になってしまう。いや、そもそも勝手に忍び込んだ時点で逮捕される。考えただけでめまいがしそうだった。
 そうであれば尚のこと、少しでも確実そうな方法を試したい。
 そんな訳でフミはこの時代の干支十二階について調べるため、八重の着物を借りて浅草六区を歩いていた。今日は見世物小屋で裏方の仕事があるのだという八重も、時間を見つけて航時機について考えてくれるという。「貸本屋がいたら、何か航時機について書かれた本が無いか聞いてみるよ」と言いつつ家をでた八重は、本当に頼もしかった。
 だが、初日の調査では成果はほとんど得られなかった。
 切符を買って、数年ぶりに乗客として十二階の航時機に乗り込んだフミは、昇降機を操作していた車掌にそれとなく航時機での未来への行き方について聞いてみたが、返ってきたのはフミたちの時代の手引書同様「設備の事情で不可」という言葉だった。最初の航時機についても問うてみたものの、フミが八重に話したような相次ぐ故障話ばかりで、成功したという話は一つもない。がっかりしたところで、フミは操作台の上に掛けられた担当者の名札が、フミの時代の機長と同じ「松本」であることに気が付いた。フミが機長に聞いた話と同じ内容なのも当たり前である。
 二日目、三日目と続けて通い、違う車掌を捕まえて話を聞いても、帰ってくる答えはほとんど同じだった。入り口も昇降機の機動も、使われている鍵はフミの時代と同じことが判明したのは良かったが、肝心の動かし方は分からず仕舞いである。
 少なくとも過去に行く時に押すボタンやハンドルの向きは同じだということが分かったが、知りたいのは未来の行き方だ。明治三十年に向かう航時機の中で、ハンドルを反時計回りの向きに倒している車掌の手元をフミは恨めし気にじっと見たが、そこから未来の行き方が浮かび上がってくることは勿論なかった。
 八重の方の調べものも、中々うまく進まなかった。航時機の開発や原理について論じた本や、歴史について論じた本はいくつか見つかったが、操作方法について書かれた本となると何もない。そもそも装置の大きさのせいもあり、気軽に設置できないような機械である。フミの時代と比べても、まだ世界に片手で数える程度しか公開されている建物はない。そもそも操作の出来る者が少ないのだろうと、八重は少し疲れた顔で言っていた。
 意外だったのは、八重ひとりで本を読もうとすると、いくつか彼女には分からない漢字があったことだった。神童と言われあれほど優秀だった人がと内心フミは驚いたが、四年制の尋常小学校では習わない漢字もあるのかと一人で納得した。今の見世物小屋で働いている限りでは、文字を読む機会もあまりないだろう。
 調べものの成果が芳しくない一方で、フミは少しずつこの時代の暮らしに慣れていった。
 働き口がないフミは、手持無沙汰になるとよく八重のいる見世物小屋を訪れては手伝いを申し出た。見世物小屋の面々は喜んで看板の手直しや座長が他の一座に書く手紙の代筆などを頼んできた。少しばかりの駄賃を恵んでもらいながら雑用をこなすと、仕事終わりの八重と共におんぼろ長屋へと帰っていく。
 それを見た雑用係の竹二郎に一度「姉妹のようだ」と言われたフミは、本当にちゃんと話すようになったのはたった数日前なのにと思わず笑ってしまった。けれどもこの時代に放り出された中で、唯一本来いるべき時代や元居た場所のことを互いに知っている人というのは、確かに姉妹よりも心強い存在かもしれなかった。
 共に行動をするようになった二人は、調べものや仕事だけでなく、遊びにも何度か出かけた。
 一度フミが強請って、喫茶店に行ったことがある。喫茶店なんていくらでも行ったことがあるんじゃないのと訝しむ八重を引っ張り、ここでないと駄目なのだと強く主張して入った店は、フミの元居た大昭十年には既に無くなって久しい店だった。
 『喫茶スズラン』と書かれた小洒落た看板の喫茶店は、興行街の途中の休憩所として置かれていた。中で紳士が紙煙草の煙を燻らし、観劇や見世物帰りの大人たちが珈琲を楽しむのを外から見ては、かつて幼いフミはいつか大人になったら行くのだと期待に胸を膨らませていた。だが、年老いた店主が隠居したか何かの理由により、喫茶スズランはフミが工場勤めをしていた最中に閉店となってしまい、遂に足を踏み入れることはなく終わってしまった。代わりに同じ場所に建てられたのはストリップショーか何かの劇場で、フミは横を通るたびに何となく悔しくて顔を顰めるのが習慣となっていた。
 どうせ明寿四十二年にいるのなら、昔行きたかったこの店に入って見たかったのだと、趣味の良いテーブルに座りはしゃぐフミはサンドウィッチと珈琲を、少しばかり呆れた顔で付き合ってくれる八重はミルクティを注文した。
 珈琲とミルクティは美味しかったが、サンドウィッチはぼそぼそとしていて食べづらく、全然美味しくなかった。
 一口一口食べ進める度に少しずつ口数の少なくなっていくフミに、興味を示した八重がひょいと手を伸ばして一切れ口に入れた。それに文句も言わないフミを前に咀嚼したサンドウィッチを飲み込んだ八重は、「なるほど」と何とも味わい深い顔をして頷いてみせた。言いたいことはよくわかる。閉店したのは隠居したせいだと聞いていたが、もしかしたらこの不味いサンドウィッチのせいかもしれなかった。
 「満足した?」と呆れ顔の八重に頷きながら、フミは無理矢理残りのパンを詰めこむ。最後に一口残しておいた珈琲は、同じ店とは思えない程美味しかった。
 記念に店の名前が書かれたマッチ箱を一つ貰ってから店を出る。数軒分歩いたところで、同時に足を止めた二人は顔を合わせて思わず噴き出した。
「あんなに不味いサンドウィッチ、初めて食べた。あれは、閉店になってもしょうがないよ」
 本当に、笑ってしまう程の不味さだった。飲み物が美味しいだけに、なぜああなってしまうのか本当に不思議でならない。
「そういえば、昔外から見ていた時、確かに飲物を頼んでいる人ばっかりだったかも」
「今更気付いても仕方ないじゃない。もっと早くに思い出さないと」
 更に呆れかえる八重と笑い合いながら、六区の興行街を抜けて長屋へと帰っていく。
 小学校の頃に仲が良かったら、こんな風に帰り道を過ごしたのかもしれないと、ふとフミは思った。

三.

見世物小屋は、珍しく客の入りが多かった。
 とは言っても、初めてフミがここを訪れた時と同じ程度という具合である。何度も手伝いに訪れて改めて分かったが、八重のいる見世物小屋はそれほど繁盛しているところではない。他の劇場と兼任しているという曲芸師の若い男が出ている時にはそれなりに客も入るが、ひどい時には狭い座席の一列分埋まれば上々ということもあった。どうやら座長が建物の主の親戚らしく、家賃をほとんど払わなくていいお陰で経営が成り立っているようだった。
 その見世物小屋に、まばらではあるが珍しくそれなり観客が入っている。
 喫茶スズランに行ってから数日後のことである。この日のフミは客席ではなく、竹二郎の手伝いで舞台袖から演目を見ていた。
 今晩、もう一度予言屋八重治が登場するという。
 前日に八重本人から「また出るから」と言われたため、見世物の最後だけ休憩をもらい、フミは舞台を見ていた。同じ月に二度予言をするのは珍しいのだと、竹二郎は準備の最中にフミに教えてくれた。前回、八重治は八重本人の干支十二階からの落下事件を予言していた。それ以外はその頭の中に入っている新聞記事の内容やら、昔両親から聞いた近所の事件やらの中から見繕って話していると言っていたが、今度は何を話すというのだろう。
 幕の裏側と舞台袖で合図が交わされた後、前回と同じように拍子木に合わせて舞台の幕が上がった。
 あらかじめ平伏していた派手な着物姿の「八重治」が、前にフミが客席から見ていた時と同じようにゆっくりとその面を上げる。
 これまたたっぷりと時間をかけて客席を見回した後、紅を引いただけの唇が口角を上げた。
「本日は、皆々様にお暇を告げに参りました」
 前の演目の道具を静かに片付けていた竹二郎が、足を止めて思わず舞台袖の方を見た。
 いつも予言屋八重治が何を言うか、見世物小屋の他の者も事前に聞くことはほとんど無いと言っていた。目をまん丸に見開いているせいで、皺だらけの顔の皮膚が珍しくぴんと引っ張られている。
「近々、何らかの形であちしは姿を消すでしょう」
 舞台袖で立ち止まって聞いていた竹二郎が、うっかり抱えていた道具箱を取り落としそうになった。
「神隠しか人攫いか、まあこんな身を攫う者なんざいないでございましょうが、ともかくあちしは居なくなります。この最後の予言を持ちまして、予言屋八重治は店仕舞いとなります」
 長らくのご贔屓、ありがとうございました。
 そう芝居がかった調子で再び平伏した八重治の表情は、舞台袖からみる横顔ではいやに平然として見える。周りの者も戸惑っているのだろう。初めに観た時よりも明らかに遅れてなる拍子木に、後を追うように慌てて幕が下りる。客席からも、戸惑った様子の囁き声が交わされるのがフミには聞こえた。
 皆が戸惑った様子を見せる中、予言屋八重治はずっと凪いだ表情で平伏をしたままだった。

「結局、消えるってどういうことなの?」
 店じまいを終えた後、小屋の中はちょっとした混乱に陥った。誰もが八重治の言葉に困惑し、その真意を尋ねようとした。
特に驚いていたのは竹二郎である。八重を気に書けることも多いこの初老の男は、お前どこかの川に身投げでもするつもりなんじゃねぇかと泡を食って尋ねていた。
 皆が困惑するなかで、当の八重はひどく落ち着き払っていた。竹二郎の問いにも「座長には言ってあるから」としか返さず、同じように困惑したままのフミに「行くよ」と一言だけ声を掛け、さっさと楽屋に引っ込んでしまったのだ。
二 人しかいない楽屋で着替えを手伝いながらフミが改めて尋ねてみると、八重はあっさりその理由を教えてくれた。
「もう、予言屋も出来なくなるからね」
 八重が予言できるのは、自分があらかじめ知っていた明寿四十二年の一月二十二日の出来事までである。自分が落ちた先のことまでは分からない。フミに尋ねるという手もあろうが、残念ながら八重と異なり、ごく普通の子供であったフミには昔の新聞の内容を覚えているなどという芸当は不可能だ。
 だから最後に一つ予言を残して、予言屋八重治としての仕事は止めにするつもりなのだという。
 考えてみれば、これまでこの見世物が出来たのは、八重の記憶力だけでなく本当に未来にいたという利によるものである。
 至極当たり前の理由に納得し、同時に竹二郎が危惧していたようなことはなさそうだとフミは一人安堵した。
「そんなら、予言屋を止めた後は何をする予定なの?」
 ここ数日のやり取りで、どうも八重にはフミと違って、元の時代に戻るつもりはあまりなさそうだということは薄々感じられていた。こちらの時代を十二年生き延びて、ささやかながらも暮らしの術もあるからかもしれない。
 この時代から二年後には昇降機ガールの採用も始まる。八重ほどの頭の出来ならばすぐに採用されるに違いない。これからの働き口の候補に無いならぜひ勧めようと尋ねると、いつもならすぐに会話を返してくる八重は、珍しく口を固く結んだまま押し黙ってしまった。
 そのまま無言で、八重治の派手な着物を手際よく畳んでいく。その伏せた目に何かをよく回る頭で考えているのだろうと予想して、フミは何も言わずに自分も帯を畳みながらじっと返事を待った。
 舞台の上の八重治よりもたっぷり時間をかけた後、「まぁ、あんたには話しても良いかな」と独り言のように呟くと、八重は畳んでいた着物を脇にやってフミの方へと向き直った。
「二十二日になったら、干支十二階に行こうと思っているの」
 過去の八重が屋上階から落ち、明寿三十年へと一人放り出されたその日である。
「子供の私が落ちる時に、事情が分かっている私が居合わせれば、例えば身を乗り出すのを止めるなり落ちる前に捕まえるなり、とにかく助けることができるでしょう」
 そうすれば、過去の八重は何事もなく、明寿四十二年より先の人生を生きることが出来るのではないか。
 以前より一人で考えて立てていた仮設だったが、こちらの時代に大昭十年から来たフミの話と出会って、半ば確信を得たという。
 八重の話に帯を畳んでいた手を止めていたフミは目を丸くした。
 考えてみれば、この明寿四十二年には楽屋にいる八重やフミだけでなく、元々生まれ育ってこの時代にいる幼い二人もいるのだ。当然互いに会うことも出来るし、会うことが出来るならその行動に干渉することだって出来るだろう。フミには到底思い付きもしなかったことに、やはりこの子は凄いのだと改めて確信した。
「なるほど。それは……もしも出来たら、すごく良いね」
 頑張ってね、何か出来ることがあれば手伝うからと言うフミに、八重は「ありがとう」と小さく微笑んで見せた。
 子供の八重を助ける。もしも出来たら本当に凄いことだ。
 助けられた子供時代の八重は、親兄弟と手を繋ぎそのまま帰っていくのだろう。そうして一家は悲劇に襲われることもなく、神童と言われた子供は明治三十年へと落ちることもなく、やがて尋常小学校を優秀な成績を納めて卒業する。八重ほど優秀な子供であれば、高等小学校も行くことができるだろう。そしてかつて言われていたように教師になるか文壇になるか、とにかく今とは違う暮らしを送ることになる。それは確かに、本来あるべき八重の行く先だとフミも思う。
 明治三十年へと落ちることもなく。
 そのことに何か違和感を覚えたフミは、とうに畳み終わって膝に乗せたままの帯を八重に渡そうとしてはたと気が付いた。
 明治三十年へと子供の八重が落ちないのならば、今目の前にいる、明治三十年から生きてきた八重はどこに行くのだろう?
 思わず帯を引っ込めて尋ねたフミに、受け取ろうと差し出した手のままの八重は「ああ、そのことね」とあっさり頷いてみせた。たっぷり時間をかけてようやく気付いたフミと違って、この方法を考えた時には既に結論が出ていたのだろう。一瞬だけ浮かべた「ばれたか」とでも言いたげな顔に、なぜかひどく不安になる。
「結果的に、明寿三十年に落ちた市川八重はこの世からいなくなる訳だから、私の存在はいたらおかしいことになるよね」
 恐らくは存在ごと消えるか、或いはよく似た違う誰かとして生きることになるか。運が良ければ何らかの理由で残れるかもしれないが、まあその可能性は大いに低いだろう。
「あんたが戻る手伝いが途中で出来なくなるのは申し訳ないけど、実はちょっと考えたことがあって。もしもうまく行かなくても、二年後には昇降機ガールの採用も始まるのでしょう? そこで働いて方法を見つけることだって――――」
「駄目だよ」
 なんてことのないことのように言う八重を、フミが何か考えるよりも前に自分の声が遮るのが聞こえた。
「何でよ、あんただって今良いねって――――」
「言ったよ! 良い考えだと思ったし、それで子供の八重が助かるのは確かだよ!」
 でも、今の八重が消えてしまうのは、それは駄目だ。
 うわごとのように駄目、と繰り返すフミに、八重は困ったように首を傾げた、
「落ち着きなよ。何がそんなに駄目だっていうの」
「だって、今の八重が消えてしまうのでしょう?」
 そんなの悲しいじゃないだなんて言っても、そんな感情的な話では八重は納得しないかもしれない。何とか理屈の通った説明をしようと、フミは必死に頭を動かした。
「だって、せっかくここまで生きてきて、それを全部棒に振ってしまうのでしょう。竹二郎さんたちとも会えなくなる」
「そうだね、確かに竹たちと出会うことはなくなる。でも代わりに小学校の友達や家族と別れずに済むんだよ」
「だからって、何も自分を消さなくても、今のままでも良いじゃない」
 ――――確かに苦しいことも多いし大変だろうけど、それは今の自分を犠牲にしてでも無かったことにしたいほどなの?
 そこまで言いかけてフミは、失敗した、と直感した。
 いつの間にか両手を重ねて膝に置いていた八重の、冷ややかな視線が全身に刺さる。真正面から目を合わせることが出来なくて、自分の膝の上に視線を落とす。自分を庇うように抱えた腕の中の帯に、皺になってしまうかもなんて思うけれども、抱え直すような身動きなんてとても出来なかった。
「あんたが私に、それを言うの」
 吐き捨てるように言う八重の声は、かつてないほど冷たかった。
「あんただって、勿体ないねなんて、呑気に笑っていたじゃない」
「でも、今からだって八重は色々なことが出来る筈でしょう。八重も十二階で働けば良いじゃない。そうすれば暮らしだって今よりもよくなるし――――」
「小学校も卒業していない奴は、採用なんかされないでしょう」
 縋る声を切り捨てた八重の言葉に、フミははっとして顔を上げた。
 その両目に静かに怒りを湛えたまま、八重はフミの反応に冷たく口角を上げて笑ってみせた。
「やっぱりね。余程の事情が無ければ皆が学校に行けたあんたの時代と違って、二年早く卒業するどころか、そもそも行ける女の子の方が少ないんだよ」
 だからそのまま、何も知らない土地で働くより他に道は無かったのだ。
 知らなかったでしょう? 青褪めるフミを鼻で笑いながら、八重は音もたてずに立ち上がった。
「本当なら違った筈なのに、自分に向いていない時代で、十二年も生きてきたんだ。本来いるべき時間で私の人生をやり直そうとして、何が悪いの」
 少なくとも、あんたに今のままでも良いなんて、勝手に言われる筋合いはない。
 両腕に抱えられたままの帯をフミから奪い取ると、八重は背を向けて荷物をまとめ始めた。
「今更出て行けなんて言わない。私がいなくなってからも、長屋の部屋は好きに使ったらいい。でも」
 ――――私の決めたことに、二度と口を出さないで。
 どこまで冷たい声のまま、口ぶりだけは淡々とそう告げると、八重は自分の荷物を持って楽屋の扉に手をかける。
「あんたに話した私が、ばかだった」
 そうしてフミを置いたまま、大きな音を立てることもなく楽屋の扉を閉めてさっさと帰っていった。

 一月二十二日になってしまった。
 先日の言い争いから早三日経つ。その間八重とフミの間で交わされた会話は、片手で数えられる程度しかない。
 互いが互いに居心地悪さを感じる中、それぞれが朝起きると逃げるように家を出る。そして夜に戻ってくると、飯を食べるか食べないかだけを確認し、そのままそれぞれがやっぱり逃げるように眠りにつく。
 昨晩もそうやって横になり、朝フミが起きるともう八重の姿は長屋のどこにも見当たらなかった。今日の朝にもう一度このことについて話そうと思っていたフミにとって、出鼻を挫かれた気分だ。八重のことだ、フミが明日どういう手段で話し合いに持ち込もうとするか、初めからお見通しだったのだろう。フミも早起きをしたというのに、八重はとうに家を出ていた後だった。
 一体どこに行ったのだろう。まさか事件が起きるまで、ずっと十二階の屋上にいるわけではあるまい。辺りを見回したけれども、八重が手紙を置いた風もなかった。
 こんな風にあっさりと、喧嘩別れしたまま八重に逢えなくなってしまうのは、ただ八重と別れるよりも寂しい。
 幼い八重が十二階から落ちるのは、午後の昼下がり。職場の手引書で何度も経緯は読まされたから、八重ほどの記憶力が無くても、フミは事件が起きた時間の何時何分まで正確に諳んじることができる。
 自分は八重を止めたいのだろうか。何だかよく分からなくなってきてしまった。
 夕飯の残りを混ぜた麦ごはんをかき込んでから、フミはひとまず家を出ることにした。午後まではまだ時間がたっぷりとある。考えながら歩き回って、もしも八重を見つけて許されるのなら、少しでも話をしたかった。八重を引き留めるかどうかは、その後に決めても良いだろう。
 長屋から出ると、日差しは暖かいのに風が強いせいで肌寒かった。時折風で煽られる裾を押さえながら当てもなくふらふらと歩き回っていたフミは、いつもの癖で自分の足が浅草六区の方へと進んでいくのに気が付いた。重い足取りの行く先に、すっかり見慣れた見世物小屋の、木の板に黒で書き殴っただけの看板が目に入る。
 店の前では、すっかり顔見知りになった雑用係の竹二郎が今日もしゃがみ込んで何やら作業をしていた。顔を上げてフミに気が付くと、くしゃくしゃの顔で笑っておおいと片手を振ってくれる。それに小さく手を振り返すと、フミは竹二郎の方へと近付き自分も腰を下ろした。
 竹二郎は今度の見世物の準備のため、舞台の背後に吊り下げる大幕を縫い合わせている最中だった。手持無沙汰でやることもないからと手伝いを申し出ると、また顔を皺だらけに折り畳んで何度もお礼を言われた。八重との会話がすっかり絶えた今では、たったそれだけのことがフミの身にひどく染みた。
 一人でやると手ばっかり動かして退屈なんだ。二人なら掛かる時間も短いし、針だけでなく口も動かせるだろう。そう嬉しそうに言う竹二郎は、ここ数日で気付いたがかなりのお喋り好きだ。話はこの辺りの道の昔話から天気のこと、瓢箪池の巨大な鯉の話まであちこちに飛んだ。
「そういえば嬢ちゃん、八重治と喧嘩でもしたのかい」
 それまで相槌を打ちつつ反対側からちくちくと針を動かしていたフミに、ついさっきまで、昔ぞっこんに入れあげていた芸妓の話をしていたはずの竹二郎が突然そんなことを言い出したものだから、フミは思わず針で親指を刺してしまった。あいたと小さく叫んで、思わず幕の布を取り落とす。慌てて見た指の腹は、幸いなことに血は出ていないようだった。
 風で飛ばされそうになる布を慌てて取り押さえてから作業の続きに取り掛かるフミに、「ああいや、すまんね突然こんなことを言って」と竹二郎は片手を振って見せた。
「この前まで仲良く姉妹みたいにしていた奴らが、ここ最近お互いを避けるみたいにこそこそと別れて帰っているもんだから、まぁ当然気になっちまってね。それにここ数日、八重治の奴が妙に機嫌が悪くて、新米どもがちょいと怯えちまっているんだ」
 そもそもがあんな妙な予言をしてみせた後だ。どうにも気になるがあの性格と不機嫌では、本人に聞いたところで反撃を喰らって仕舞だろうことは長年の付き合いでよくわかる。
「だから嬢ちゃんなら、代わりに何か知っているんじゃないかなと思ったんだがね」
――――どうかいと尋ねられても、何を何と説明したらよいのやら。
この人たちにとっては、航時機は昔の景色を眺めるためだけの機械なのだ。自分や八重のように時間をわたってしまった話をするわけにもいかないが、傍から見ても明らかに様子のおかしい自分たちについて、何でもないと答えてしまうのは無理があるだろう。
さてどうしたものかしらんと考えながら、フミは手を動かすのを止めずに「竹二郎さんは、八重と付き合いが長いんですよね」と逆に尋ねた。
「そうさね、あいつがここに来たばかりの、まだ小さい餓鬼の頃から知っているよ」
――――子供の頃から見世物小屋にいたのか。
驚いた顔のフミに、「何だぁあいつ、お前さんに言っていなかったのか」と竹二郎の方も眼を丸くした。
「出し物の準備をしている時に、独りで店の前に立っていたんだよ。ここはあたしみたいな子供でも働くことが出来ますかって。別に構いやしねぇだろうが、ここは見世物小屋だぞ。お前さん何か出来ることでもあるのか。無けりゃ俺みたいに雑用をやることになるぞって聞いたら、いくつか未来が分かりますって言うじゃないか」
変なことを言う孤児だと、当時の座長が面白がっていくつか話を聞いてみたらしい。すると近所の泥棒騒ぎと、その顛末を時期まで揃えてぴたりと当てて見せたという。予言屋八重治の誕生である。それで気に入られて雇われたのだが、どうにもムラのある能力らしく、予言も出来るときと出来ない時があったという。
「予言が出来なくて興行に出られない時でも、頭が回れば物覚えもやたらに良いってんで、帳簿やら何やら手伝わせていたよ。それはそれで大層役に立っていたんだけれどもな」
当時の座長としては、予言の出来ない八重はただのつまらぬ子供でしかなかった。未来を言い当てる子供と売り出して、一稼ぎする算段であったらしい。座長に強要されて無理矢理予言をし、外しては殴られることもあったという。
だから今でも予言屋八重治は、客の中では時々当たる占い師、といった扱いなのだという。
最近じゃ、当たる時しか出てきていないんだけどなぁ。そう言いながら縫い終わった大幕に色を塗り始めた竹二郎は、どうやら八重には何がしかの予言の力があるようだと、心から信じている様子だった。
「元々、当時の座長はそれなりに問題のある奴だったんだ。八重だけじゃなく、他の奴らともよく問題を起こしていたんで、結局その二年後に追い出されちまったよ」
孤児の八重は学校にも行けなかった。副座長が新しい座長に就任し、学校に行かせることをちらと考えたこともあったらしい。だが、その頃八重はちょうど十になったばかり。当時の尋常小学校を卒業するはずの年であり、今更入れることも出来ないと話は早々に無かったことになったらしい。
「あれだけ頭の良い奴だ。学校にも憧れていたんだろうな」
近所の通学する子供を見て、良いなぁ良いなぁということもあったという。
「けど、俺たちじゃあ教えてやれることなんてほとんどない。だからそこはかわいそうだったな」下駄の先まで顔料にまみれながら幕を青く塗る竹二郎の上から、点々と白い絵の具をフミが垂らす。

「ここに来るまでの八重のことも、竹二郎さんは知っているんですか?」
「いやぁ、あんまりよくは聞いたことがねぇなぁ。ただ、孤児になってからしばらく面倒を見てくれた人はいたけど、工場の事故であっさり死んじまってから一人だって言っていたっけか」
点々と、白い絵の具を垂らし続けながら、フミは「そうですか」と小さな声で返した。
「色々教えて下さり、ありがとうございます」
私、つい最近会ったばかりで、八重のこと全然知らないんです。
そう言うと竹二郎は大幕と向き合っていた顔を上げて「へぇ?」と素っ頓狂な声を上げた。
「意外だな。あんなに人と仲良く話す八重も珍しいもんだから、てっきり幼馴染か何かかと思っていたよ」
「そんなことないです。私とあの子は、まだ会ったばっかりで」
そのせいで私、八重に失礼なことを言ってしまったんです。
「だからちょっと八重を探して、ちゃんと仲直りしてこようと思います」
そう言ってひと段落した筆を置くと、竹二郎はまたくしゃくしゃに顔を折り畳んで「それが良いや。行ってきな」と笑ってくれた。
その笑顔に背中を押されて、ありがとうございますと再度告げてからフミはしゃがみ込んでいた膝を伸ばす。着物の裾に、小さく白い絵の具が飛んでしまっているのを見つけて、これも謝らないといけないなと小さく笑った。
竹二郎に別れを告げて、六区の通りを十二階に向かって進むことにした。手伝いをしている間にそれなりの時間がたったらしく、日は大分高いところまで昇っている。
それにしても、今日は本当に風が強い。一際強く吹いた風に煽られそうになる髪を手で押さえながら、この風で過去の八重は落ちてしまったのだなと何となく手引書を思い出していたフミの背後で、「嬢ちゃん!」と何故かひどく焦った調子の竹二郎の呼び声がした。
何だろう、何か忘れ物をしただろうか。それにしてはひどく切羽詰まった声をしていたけれども。
一先ず立ち止まって振り返ろうとしたフミの視界の隅で、何かがぐらりと傾いて影を作っているのが見える。
咄嗟に見上げた時には、斜め向かいの芝居小屋の立て札が目の前まで迫ってきている時だった。
避けることも出来ずに、風で落ちてきた木の札を思い切り頭で受け止めてしまう。視界で星が散るのを感じながら、フミは衝撃に意識が遠のいて行くのを感じた。
――――ああ、この感じ。一度だけ覚えがある気がする。
遠くの方から竹二郎の叫び声が此方の方へ近づいてくるのを聞きながら、何だったろうかと必死に記憶を手繰り寄せる。
駆け寄った竹二郎が何かを話しかけているが、くらくらしていてよく聞き取れない。代わりに脳裏にはっきりと聞こえてきたのは、副機関長の中村の怒鳴り声だった。
――――気を付けろ! 航時機の装置は繊細なんだ。誤作動を起こしたらどうする!
思い出した。
まだ航時機の昇降機の扱いに慣れていなかった頃、十階から先なのに、うっかり普通の昇降機と同じように右側にハンドルを回して昇ろうとした時だ。
航時機を動かす時にハンドルを右に回すと誤作動が起きる、というのは確かに最初に教えられていた。しまったと思った時には監督をしていた中村が慌ててフミの手ごと押さえてくれたお陰で稼働することは無かったが、その後の怒りようときたら物凄かった。雷の化身みたいな怒号と共に拳骨一発を喰らって、フミの頭はあの時も少しだけくらくらしたのだった。
すっかり竹二郎の声は聞こえなくなっていたし、視界も昔の光景ばかりが浮かんでくる。きっと今の自分は夢を見ているんだと思いながらも、フミは少しだけどうか走馬灯じゃありませんようにと、ひっそりと浅草寺に向かって小さくお祈りをした。
あの時は横で見ていた先輩の一人が、何もあんなに怒鳴らなくたって良いじゃないねと口を尖らせて怒ってくれて、その後フミを除いた航時機の昇降機ガール全員で中村に猛抗議をした。
四方八方からやいのやいのと言われた中村は、結局何故か人数分の羽二重餅を差し入れに買う羽目になりながら、それでもフミに念を押すように「いいか、絶対に航時機でハンドルを右に回すんじゃないぞ。誤作動が起きて故障したら、お前が弁償することになるんだからな」と、険しい顔のまま念押しをしてきた。
事情を聴いた松本も、中村の拳骨をたしなめながらも「昔それで故障が起きて大変だったから、中村君も焦ってしまったのだろう。森田君も次から気を付けるんだよ」と、穏やかにフミに注意をしていた。
そんなに怒るほどいけないのならば、最初から航時機の操作を普通の昇降機と揃えるか、或いはハンドルを別々に用意してくれていれば良いのにと、何だかひどく納得いかなかったことまで思い出す――――と、そこで何かが「あれ」と引っ掛かった。
故障。右側。昇り。
ただ怒鳴られて拳骨を喰らった記憶というだけの筈なのに。何だろう、何か今大事なものに気が付きそうだった気がする。
けれども回る脳内は遂に限界を迎え初め。フミの思考はそのまま中断された。
それにしても、振ってきた立て板と同じように痛いって、中村さんの拳骨はどれだけ威力があるんだろう。
そんな下らないことを最後に一つ考えて、フミの思考回路も今度こそラジオのように途切れた。

 

 

 

瞼を開けると、ここ数日ですっかり見慣れた長屋の天井が目に飛び込んできた。
二、三度の瞬きの後、背中の方がいやに柔らかいことに気が付く。寝転がったまま右に頭を傾けると、敷布団の白い布が見えた。
元々独り暮らしだった八重の家には、古い布団が一組しか置かれていない。それでフミが寝る時にはいつも、半纏や来ていない着物を重ねて布団代わりに敷かせてもらっていた。
昔は二組あったけど、一つは興行の売り上げが落ちた時に質に入れたから。そう申し訳なさそうに言う八重は、初めの日に交代で布団を使うことを提案してくれた。さすがに着る物も寝床も借りている身で家主から布団まで奪うことは申し訳ないと、フミの方から半纏だけ貸してほしいと申し出たのだ。
例え煎餅のように使い古されて薄っぺらなものでも、こちらの時代に落ちて以来久々の布団だ。こうして比べると半纏とは比べ物にならない程心地よかった。枕に頭を押し付けてから、そういえば質に売られたという布団は誰のものだったのだろうと考える。あの時は知らなかったけれども、竹二郎が言っていた世話をしていた人の分だったのだろうか。
もう使わないからと、親代わりの人の布団を手放さなければならないほど、八重たち見世物小屋の仲間たちには生活が苦しい時があったのだ。フミだって元いた時代でそれほど稼ぎが良い訳ではないけれど、それでも質屋にお世話になるような暮らしはしていない。高等小学校を出ていればもっと日給がもらえるけれども、そこから上に進める程のお金も飛び抜けた優秀さも無かったフミには、尋常小学校を出た者の給与しか与えられない。八重がもしも元いた時代に残っていたのなら、きっと先生の薦めや誰かの援助で、女高師に行くことだって、きっと簡単だっただろう。
確かに八重の言う通りだ。この時代は彼女に向いていない。
寝転がっているせいか、思考はうつらうつらと違う方面に飛んでいく。
喧嘩する前に言っていた通り、八重は無事に子供の自分が落ちていくのを止めることが出来たのだろうか。
もしそうなら、フミを助けてくれて、フミと喫茶スズランに行ってくれて、そしてフミが傷付けてしまった十九歳の八重は、今どこにいて何をしているのだろう。
それとも本当に、八重が言っていた通りどこかへ消えてしまったのだろうか。
そうしたら、この長屋はどうなるんだろう。私も出て行かなくっちゃいけないだろうけど、その前に八重の持っていた物たちは、果たしてどうすれば良いのだろう。物といえばこの布団もだ。せめてこれ位はもらっても怒られないだろうか。ああそもそも、いつもと違ってどうして布団で寝ているのだっけ――――
「フミ!」
四方八方を好き勝手飛び廻っていた思考は、叫ぶように呼ばれた自分の名前で突如打ち切られた。
誰だろう。ここ数日、とてもよく聞いた声だけど。
でもあの子は、この時代からいなくなってしまうかもしれないと、自分で確かに言っていた。
フミが声のした方に顔を向けるのと同時に、すっかり眉根を下げて困り果てた様子の八重の顔が、天井よりもすぐ手前に現れた。
「ああ良かった、気が付いた。痛みは無い? 口は動く? 気分は悪くなっていない? 前に練習中に落っこちて頭を打った軽業師の兄さんが、死ぬ間際にずっと吐いていたんだけど、あんたはそれは大丈夫そうかな。ああいや、別に不吉なことを言ったつもりはなくて。ええと、とりあえず白湯でも飲む? 起き上がれそう?」
矢継ぎ早に投げられる質問よりも前に、思わず八重の顔を見てしまう。てきぱきと手元であれこれ作業をこなす彼女は見たことのない表情をしているけれども、確かにフミのよく知る八重のようだった。その手に一度は盆から持ち上げられた湯呑が、所在なさげにもう一度戻されてカツリと音を立てる。
その光景を見た瞬間、半身を起こそうとしていたフミの目から、一粒涙が転び出た。
「うわっ、ちょっと、大丈夫!? やっぱりまだ痛む?」
ぎょっとしてこちらに氷を押し当ててくる八重に首を振ろうとするが、頭をがっちりと押さえられてほとんど意味を成す動きはできなかった。伊達に小屋でずっと力仕事をしていない。
ああ駄目だ、冬場にそんな風に氷を触ったら、手に霜焼けが出来てしまう。そう思う間にも、続けてほたほたと両眼から涙が零れ落ちる。
「ごめん、ごめんね。痛くは、ないの」
おろおろと手を動かす八重を止めようと出した声は、みっともなく震えていた。もっとすらすら話したいのに、どうしても喉の裏でつかえてしまう。
「ただ、良かったって、思って。八重が、消えなかったから」
子供のように泣きじゃくってしまうのは辛うじて耐え、代わりに一つ鼻をすする。ようやくフミの頭から氷と手を離した八重は、その言葉に少しだけばつの悪そうな顔をした。この前までの自分たちを、ようやく思い出したのだろう。あんなに怒らせてしまったのに、今まで忘れるくらい必死に看病してくれたことが嬉しくて、フミは知らず自分の顔が綻んだのを感じた。その拍子にもう一粒、ころりと涙が目の端から零れる。
「ごめんね、私。八重のこと何にも分かっていなかった」
分かっていなくて、あなたのことを否定してしまった。
本当は、ただ八重にいなくなって欲しくなかっただけの癖に、変な理屈を考えようとして、結果的にあなたを傷付けてしまった。
八重に言いたいことはもっとたくさんある筈なのに、つかえた声と頭ではうまく言葉が回らなくて、フミはたどたどしく頭に浮かんだことを言うよりほかなかった。
「――――十二階の入り口で、竹二郎が血相変えて探しに来て、あんたが飛んできた立て札で頭を打って倒れたって聞いて」
そっちこそ、無事でよかったよ。
私も、少しだけ八つ当たりした。あんたに言ってもしょうがないことだってあったのに、ごめん。
やっぱりきまり悪そうな表情のまま、口の端でぼそぼそと返される。先生に悪戯をうんと叱られた子供みたいな言い方に、フミは思わず笑ってしまいそうになるのを我慢した。両の目を右手で拭ってから、八重の方に向き直る。
「お騒がせして、ごめんなさい」
布団の中から頭を下げると、口をへの字にしたままの八重はそれでも「ん」と小さく頷いてくれた。

「本当に良かったけど、どういう理屈で消えなかったの?」

ようやく涙も引っ込んだところで、湯呑に入った白湯を受け取りながらフミは尋ねた。すっかり半身を起こすと、ぶつけた頭がまだほんの少しだけ痛むのを感じる。押さないよう気を付けて触ってみると、大きなこぶが出来ていた。これは無くなるまでに時間がかかりそうだと溜め息を吐きつつ白湯を飲んでいると、「いや」と氷枕を作りながら八重があっさりと返した。

「そもそも、私が落ちるのを止めなかったからね」
「えっ」
湯呑を取り落としそうになりながら八重の方を見やる。その目はひどく凪いでいて、数日前にあれほど怒りに満ちていた表情などどこにもない。何年も思い付いては考えて、ようやく待ち望んだ日付が来たのだと言っていたのだ。それをこうもあっさりと止めにして、気にしないままでいるはずなんてないのに。

どうして、と言いかけて口を開く前に、フミはその理由に思い当たった。
――――私のせいだ。
私が怪我をして、竹二郎さんが呼んだから。せっかく行った干支十二階から、引き返さざるを得なかったのだ。
どうしよう。八重が消えなかったのは良かったけれども、私が邪魔をしたようなものじゃないか。いや、止めたかったのは確かだけれども、こんな風に彼女を引き留めたかったわけじゃあないのだ。
血の気が引いていくフミを見ても、八重はやっぱり落ち着いたままだった。それどころか、泣いたり青褪めたりと忙しいフミの表情を見て、小さく噴き出してまでいる。
「さすがに怪我人を放っておいて消えるほど、私は冷たい奴じゃないよ」
それに、と尚も青褪めたままのフミに、どこか吹っ切れた様子の顔を向ける。
「竹の奴が走ってきた時、ああ、これはきっとうまくいかないなって、何となく予感がしたんだ。私が過去の自分を変えようとすると、何がしかの力が働いて邪魔が入る。多分そういう風に出来ているんだろうな。そうでなかったら、あの時間にことが起きる理由に説明がつかない」
そう笑って見せる八重の表情は、どこまでも穏やかだ。その表情はフミには吹っ切れたというよりも、むしろ諦めに近く見える。
「だからまぁ、もう決まったことで変えようがないんだろうなって。そういう風に思ったから。あんたは気にしなくていいんだよ」
それよりもこれからをどうしようね、八重治は消えるなんて言ってしまったし、これを無かったことにするのは恥ずかしいな。かと言って今から新しい働き口を見つけるのもねぇ。
腕を組んであれこれと考え始めた八重の言葉を、努めて声が使えるのを押さえたフミの言葉が遮った。
「――――そんなら八重も、私と一緒に戻ろうよ」
ぴたりと口を閉ざした八重の目が、大きく見開かれてフミの方を見た。そういえば、驚いた顔はあんまり見たことがないかもしれない。
「戻るって……どこに」
「だから、戻ろうよ。ここにこのまま残るんじゃなくて、私と一緒に、八重も大昭十年に行くの」
ぽかんと大きく開かれた八重の口からは、何の言葉も出てこない。
竹二郎から話を聞いてから、八重に逢えたら言おうと考えていたのだ。もしも首尾よく子供の八重が落ちずに済んで、それでもフミの友達になってくれた八重が消えずに済んだなら、一通り誤った後に提案してみようと考えていた。
「だって本来なら八重は、大昭十年にいたはずでしょ。それがこんなことになってしまって、過去をやり直せないなら、八重も向こうに戻って、これからの暮らしを変えればいいじゃない」
開かれたままの八重の口から、でも、だって、と珍しく意味のない言葉ばかりがしどろもどろに落ちていく。
「……けど、戻ったところで何が出来るっていうの」
「一緒に昇降機ガールをしようよ。八重なら物覚えも良いし、東京の歴史もお客様の希望の階数も簡単に覚えられるでしょ。それに、大昭十年の干支十二階は、ちょうどこの明寿四十二年の浅草が展望台で観られるんだよ。暮らしていた八重なら、お客様への解説も簡単でしょう?」
「だって私、尋常小学校も出ていないんだよ。雇用条件に合わないでしょ」
「十二階のせいで落っこちて戻ってきたのだから、ただの昇降機ガールよりよっぽど航時機に詳しいですよって売り込みにいこう。私も推薦状を書くから」
「操作だって、難しいでしょう」
「初めはね。でも、慣れれば簡単だよ。お客様と話をしながら操作することだって出来るようになる」

不安を隠すこともなく俯く今の八重には、幼い時にフミが憧れた、自信に満ち溢れた勝気な様子などどこにもない。
それが少しも気にならないことが、何だかちゃんと友達に慣れたような気がして、フミには嬉しかった。
一つひとつ、八重の不安が消えるように、丁寧にていねいに言葉を返す。
八重が希望を持って、本来いるべき時代へと戻れることが、フミにできるせめてもの罪滅ぼしのような気がした。
珍しくフミの言い分よりも弱弱しい反論を散々返した後、遂に根負けした八重はようやくうんと頷いた。
「戻って、みようかな」
元々、この時代から消え去るつもりだったのだ。それなら別に未来に行ったところで、同じことかもしれない。
思わず顔を輝かせて頷いたフミに、いつもの少しだけ呆れた顔を向けると、八重はでも、と続けた。

「戻る方法は一体。どうするつもりだったの」

まだ見つからなかったんでしょうという八重に、「そのことだけど、一つ思い付いたことがあって」とフミは気を失う前に思い出したことと共に自分の考えを披露する。
一通り話してから、そういえば喧嘩になる直前、八重が何か言いかけていたことを思い出したフミは、その内容について改めて目の前の八重に尋ねた。
じっとフミの話を聞いていた八重は、組んでいた腕を解くと「実はね」と少しだけ悪戯っぽく口の片側だけで笑ってみせた。
「同じことを考えていたんだよね」
その言葉に目を丸くしたフミが、まじまじと八重の顔を見つめる。
しばらくそのまま互いの方を見ていたが、やがて耐え切れなくなった八重が「驚きすぎでしょう」と笑い出したのにつられて、フミも思わず小さく噴き出した。
喫茶スズランを出た時よりは控えめな二人分の笑い声が、長屋の一部屋に広がっていった。

 

四.

そうと決まれば話は早い。
早速行こうと逸るフミを押さえたのは、「怪我人は安静にしていな」という八重の言葉だった。全く仰るとおりであると大人しく言うことを聞いて二日間しっかり休んだ後、二人はいよいよ凌雲閣へと忍び込むことになった。
前日は何だか眠れなかったと目を擦るフミが、八重と共にすっかり綺麗に片付けた長屋を後にしたのは、日の傾きかけた夕方になってからだった。
落下事故以来閉鎖されている凌雲閣には、人気が一切無かった。
行方不明の子供の調査も、今日の分は終えて皆引き上げたらしい。いつもなら客の並ぶ切符売り場の小屋も、今日は無人のようだった。窓のカーテンは閉め切られ、日が落ちかけているにも関わらず、明かりの一つも灯らない。
それでも見上げる干支十二階の上の方は、十一階のアーク灯のお陰で、既に眩しい位の光を放っていた。もう少し日が暮れたなら、暗い空に塔の上方が煌々と浮き上がって見えることだろう。

手持ちの鍵であっさりと正門と玄関を開けて中に入り込むと、フミはいつも朝番の時にやっているのと同じように、昇降機脇の扉を開けて手持ちの鍵を差し込む。
一、二、と番号の振られたボタンを押し、一番下まで下がっていた把手レバーと摘みを一番上まで上げる。最後にもう一つの鍵穴に別の鍵を差し込んで回すと、重い音と共に昇降機の外扉と蛇腹扉がゆっくりと開き、その広々とした機内をフミたちの前に現した。
巡回の者も誰もいないことを確認しつつ中に滑り込むと、フミは急いで操作台で二つの扉を閉めてハンドルを右に回して真っ直ぐ十階を目指した。
いつものように、上へ参ります、なんて声を掛けることもせずに昇っていくことに、何だか悪いことをしている気分になった。部外者が忍び込んで勝手に昇降機を触っている時点で、既に相当悪いことをしているはずなのだということは百も承知だ。それでも馴染んだ操作と振る舞いが合わないことへの違和感が、フミの中で一番強い背徳感を感じさせた。
とりあえず昇降機を動かすことは出来たことに安堵した二人の大きなため息が、他に誰もいない昇降機の機内に小さく響く。
けれども、問題は十階からだ。
十階でハンドルを正面に戻したフミは、二つの扉を一度開く。こんな時でもすっかり染み付いた習慣が、十階の床にぴったりと機内の床を揃えていた。
航時機の時に使う専用の中扉は、一度十階で全ての扉を閉じてからでないと作動しない。
どうか誰にも見られませんようにと念じながら外扉を閉め始めたフミたちを、不意に昇降機の電灯ではない明りが灯した。
「――――お前たち、何をしている!」
閉館後の巡回をしていたのだろう、明りを提げた制服姿の男が、怒鳴り声と共に向こうから駆け寄ってくるところだった。焦るフミと八重にお構いなしに、昇降機の扉は一定の速さを保ったまま閉まっていく。いつもなら早いとも遅いとも思わない扉が閉まるのを、こんなに苛立ちながら見守ることなど無かった。
男がこちらに駆け付けた時には、扉はフミの体の半分程度の隙間を残しているところだった。
このまま腕でもねじ込まれて止められてしまえばお仕舞だ。近付いたら叩き飛ばしてやろうと八重が腕を捲るのを横目に見ていたフミはしかし、男が残された隙間の小ささに踏みとどまるのが分かった。追ってこないと分かって気が付いたが、制服は車掌の着ている物だった。下手に止めようとすれば故障に繋がると分かっているからこそ、思い止まってしまったのだろう。
掲げた明りが照らす名札には、いつぞやと同じ「松本」と書かれていた。心の中で小さく未来の機長に謝罪をしつつ、フミは閉じ切られた外扉と蛇腹扉を確認し、最後に内扉を閉める。
いよいよ航時機の操作へと移る前に、フミはちらりと背後の八重の方を見やった。未だに捲り上げて振り上げていた腕をようやく降ろした八重が、硬い表情で頷いてくる。それに頷き返すフミは、自分の喉がひどく乾いていることに気が付いた。
いつも過去に行くときと同じように、ハンドルの上の操作台のボタンを順序良く押し、把手レバーを手際よく下に倒す。
そして真ん中で停止させていたハンドルを、いつも過去に遡るのとは反対の右側、の方向へとゆっくりと倒した。
航時機の時に右側に倒すと不具合が起きるからと、操作は厳重に注意されている。
航時機は、未来に行こうとすると故障する。
一階の文字盤は、いつも過去に向かう時、黒く縁どられた方の長針が遡るように反時計回りに回っていた。
それはつまり、右側―――時計回りにハンドルを動かせば、未来に上って行けることを示しているのではないだろうか。
二人で辿り着いた結論を実行しつつ、フミはどうか動いてくれと誰にでもなく祈った。
時計回りに動かされたハンドルが、一定の場所まで進められたその時。
ガタン、と思わず肩を竦めそうなほどの轟音と共に一度揺れると、昇降機はゆっくりと上へと昇り始めた。
「――――動いた」
思わず詰められていた二人分の息が、合わせたように同時に広い機内に小さく響いた。
ハンドルの向きを逆にするだけで、手に馴染んだはずの動きがこんなに緊張感を伴うものだとは思わなかった。それでも体に染み付いた感覚が、ゆっくりと上昇する昇降機が今どれほどの場所にいるかをフミに教えてくれる。
他の二階分よりも遥かに長い時間をかけて進む航時機が、後どれほどで頂上階へと辿り着くか。干支十二階の昇降機ガールならば把握していて当然だし、フミにとっても朝飯前の技術である。
それでもそれが未来に行くものかもしれないというだけで、少しだけ長いような気分になるのだから不思議なものだ。いつもなら定員ぎりぎりまで込み合う客室に二人ポツンと立っているから、余計心細い気持ちになるのかもしれない。今ならかつて対応した、大昭十年の干支十二階で不安がってばかりいた客の気持ちも、ほんの少しだけ分かるような気がする。
「……こんなに時間が掛かるものだっけ」
すっかり忘れていた。ぽつりと呟いたすぐ隣を見やると、八重の頭は上の方を向いていた。その視線は扉の上の階を伝える装飾を超えて、どこか遠くの方を見ている。きっと八重にとっては遠い昔の、そしてこの時代の人々には昨日の景色を眺めているのだろう。
フミは何か返事をしようと数秒考え、結局動かしかけた口を閉じた。こんな時に客室で気の効いた返しが出来ないなんてと、先輩たちがいたら呆れたかもしれない。それでもあまり反省する気にはならなかった。
航時昇降機は徐々に速度を上げて上昇していく。馴染んだ感覚が半ばを過ぎたことを伝えてきたところを見計らい、フミは努めてお道化て隣を覗き込んだ。
「お客様、十二階は初めてでいらっしゃいますか」
笑みを浮かべて自分を見やるフミに視線を戻した八重は、二、三度の瞬きの後、少しだけ口角を緩めてみせた。
「――――いえ。十二年前、父に連れられて来たきりです」
「ああ、ご幼少の時にですか」
「そうですね、兄と弟と一緒に」
「仲のよろしいご家族だったんですね」
「とんでもない、いつも喧嘩ばかりしていましたよ。特に兄とは何度も言い合いをしましてね。どちらも気が強かったものですから」
そのまま平然と澄ましたやり取りを続けていた二人は、少しばかりのこそばゆさに止め時を見計ろうとして互いと目が合い、そして二人揃って小さく噴き出した。
「いつもこんな話をしながら操作しているんだ。間違えそうになったりしない?」
「慣れれば平気だよ。十階から先はお客様の止まる階を覚えなくても良いし、いつもはもっと大人数を相手にしないといけないから」
「慣れるまでが大変そう」
「うん、先輩にも何度も注意されたっけ。でもまぁ、大丈夫だよ」
――――八重なら階を覚えたりお客様に話をしたりするのは簡単だろうし、きっと操作もあっという間に覚えるだろうから。
そう付け加えたフミの言葉を、八重はもう否定することはなかった。ただもう一度だけ柔らかな表情をこちらに向けた後、「なれるといいなぁ」と独り言のように声を零した。
航時機はどんどん上に昇る。取っ手を右に傾けたまま、以前いつまで昇るんだと客に苦情を言われたことをフミは突然思い出した。あの時は十二年も遡るのだからそれに比べれば余程短い時間だろうとムッとしたけれど、これも今なら何となく分かる気がする。
早く、早く辿り着いてほしい。行先が不確かだから尚のこと、早くこれで十二年先に行けると証明してほしい。八重を、彼女がいるべき時代に届けてほしい。
一人逸る気持ちを押さえながら、フミの頭と体は冷静に目的の時間が近いことを理解していた。手にした把手ハンドルを少しずつ左へ傾けて、右から真ん中へと近付けていく。うっかりいつもの癖で左から中央に戻しそうにならないか少しだけ不安だったけれども、存外少しも躊躇うことなく自分の右手は動いてくれた
音を軋ませて速度を少しずつ落としていった昇降機は、フミの手の中の把手がちょうど真ん中に収まるのと同時に、一層大きな音を響かせて数秒の後、ぴたりとその動きを止めた。一拍だけ置いた後、ガコン、と動き始めた時以上の大きな衝撃が機内を揺らす。視界の横で、八重が少しだけ姿勢を崩しかけたのが見えた。
昇降機を操作していた把手から手を放し、フミはまず格子型の蛇腹扉を、続けて外扉を操作して開く。
開かれた扉の先には、人っ子一人いない展望台ががらんと広がっていた。赤々と傾いた夕方の日の光が、昇降機の中からでもひどく眩しい。
展望台の床にぴったりと揃えられて止まる昇降機に密かに息を吐きつつ、却ってあまりにも見慣れた階の構造に、本当に目的の時代まで行けているのかと少しだけ不安になる。
そろりと右を窺えば、八重の方も不安だったらしい。音も聞こえていないのに、フミには彼女が唾を飲み込んだのが分かった。互いに目を合わせて頷き、恐る恐る昇降機の外へと足を踏み出す。
一歩、一歩と歩みを進める二人には、大して遠くない展望台の隅、手摺りまでさっさと行って下を覗けばすぐに答えが得られることなど充分に分かっていた。それでも本当に辿り着けているのか、確かめるのは少しだけ怖くて、フミは思わず薄目で辺りを見ながらゆっくりと足を動かした。客がやっていたら問答無用、大至急で止めに入る行為だ。八重にばれたら揶揄われてしまうかもしれない。
足元に気を付けつつ、密かに片目だけ開けて隣を見る。八重の両目はフミと違ってしっかりと見開かれてはいたものの、その顔は下を向いているし、足取りはやっぱり重かった。俯いて垂れた髪の隙間から、噛みしめられた下唇がちらりと見える。
視線を正面に戻したフミは、もう大分外の景色が見える場所まで来ていたことに気付き、慌ててもう一度目を細めた。そのままほんの数歩で辿り着いた手摺りを握りしめ、二、三度深呼吸をしたのち、覚悟を決めて両眼を見開いた。
無理やりすがめていた瞼がほんの少しだけ痛みを感じるのと同時に、それまでぼやけていた夕焼けの下の景色が突如、くっきりとした線と色とを伴い視界に飛び込んできた。
数日空いただけなのに、ずいぶんと久しぶりに高いところから街並みを見下ろした気がする。眼前に広がる小さな建物や花屋敷の動物舎、瓢箪池をほんの少しの間眺めた後、フミは干支十二階のすぐ下にある六区内の演芸場や活動写真館に目を走らせた。同時に頭の中で、この時代に来る前の自分が歩いていた街の光景を思い浮かべてなぞっていく。
昨日歩いていて見たのとは違うのぼり、いや劇場の演目がちょうど変わっただけかもしれない。通りを歩く人々は心なしか洋装の者は確かに多いが、遠眼鏡なしにはあの中に自分の顔見知りがいるか確かめられない。
確かに自分の見知った、大昭十年の街並みに近い気はする。だが、自信をもってそうだとは言い切れない。こんなことなら十二年前の景色だけでなく、一つ下の十一階で現在の街の景色も定期的に眺めておくんだった。
もっとハッキリ分かるもの、自分たちは確かに未来の景色を覗いているのだと分かるものは無いかと視線を動かしたフミは、ふと一つの建物に気付いてアッと声を上げた。
派手な色の、どぎつい看板。
さすがにいつものいかがわしいポスターは、この距離からでは見えないけれど、前を通るたびに何となく顔をしかめていたあの芝居小屋に、こんなところで助けられるとは思ってもいなかった。
咄嗟に指差したフミの視線を追い、八重も芝居小屋に目を向ける。この派手な看板に何があるのかと訝し気に顰められていた眉は、数秒の後「あぁ」と合点のいった小さな声と共に和らいだ。日々を暮らしている明寿四十二年の街並みと、頭の中で比べて分かったようだ。
「本当に閉まっちゃったんだね、喫茶スズラン」
「――――うん」
いつか大人になったら行きたいと、幼いフミが憧れていた喫茶店。
昇降機ガールになるより前に閉店となってしまったこの店に、明寿四十二年では行くことが出来て、フミは本当に嬉しかったのだ。
「もう一回、見納めに行かなくていいの?」
「いいよ、そんなに手持ちもないし。一度でいいから行ってみたかっただけだから」
お土産もあるしね、と懐のマッチ箱を見せるフミに、八重が少しだけ悪戯っぽく口元を吊り上げた。
「サンドウィッチも、思ったほどは美味しくなかったし?」
「本当にね」
思わず声を上げて笑うと、誰もいない展望台では思った以上に音が響いた。一緒になって笑う八重の笑い声が意外と控えめなことを知ったのは、明寿四十二年に彼女と再会してからだ。尋常小学校の時もそうだったのだろうか。それとも過去に落ちた八重が、フミの知らない時間を過ごした後の結果のひとつなのだろうか。
階下を眺めながらひとしきり二人で笑った後、展望台には沈黙が訪れた。
それぞれ不慮の事故でここから下に落ちたけれども、こうしていざ自ら飛び降りると思いながら下を覗き込むと、思わず足が竦むのを感じる。理屈の上では、この方法より他に未来に戻れる算段はどこにもないし、この高さから落ちても生き残れることは過去に経験済だ。それでも、この高さはやっぱり怖い。
――――飛ぼうとするのなら、尚更だった。
十二年前の自分と擦れ違った八重の話を聞いてから、八重よりは回らないだろう頭で、自分に出来ることは何だろうと、ずっと考えていたことがあった。
「あのね、一つお願いがあるのだけど」
話をするなら、八重も降りるのを躊躇っている今のうちだと思った。
「これを持って、先に未来に行っていてくれない?」
「はぁ?」
車掌の制服を入れた風呂敷包みを背中から降ろし、そう言いながら八重に押し付ける。素っ頓狂な声を上げながらも咄嗟に渡された包みを受け取った八重の、綺麗に吊り上げられた片方の眉が、いまさら何を言い出すのかと雄弁に語っていた。
「先にって……あんた、何するつもりなの」
「うーん、ちょっと過去に行こうかなって」
開きっぱなしだった八重の口が、「はぁ?」という形のまま、ますます大きく広がった。
「考えたの。八重は今の自分がいなくなるかもしれないと分かっていても、塔から落ちなかった自分で、もう一度やり直したいと思ったのでしょう?」
そう思いついたのは前からなのかもしれないが、最後にその道を選ぼうとしたのは、未来からやって来た自分の話のせいだろう。
けれどもこれまたフミのせいで、結局はやり直すことが出来なかったのだ。
八重を止められたことに、後悔など少しも無い。もっと器用な方法や、彼女を傷付けない言い方はあったろうと確かに思うけれども、こうして彼女を、本来いるべき未来に送り届けることが出来た。
――――では、苦しい思いをしたまま過去に取り残される幼い八重を、自分は置いて行っても良いのだろうか?
「だったら、過去の八重を助けてくれる味方が、一人くらい居ても良いんじゃないかなって」
そしてそれが出来るのは、きっと彼女の経緯いきさつを多少なりとも知っている、今の自分なのではないだろうか。
ずっと険しい顔を聞いていた八重の両目が、微かに見開かれるのをフミは見逃さなかった。僅かな手応えを感じつつ、頭の中に用意していた考えを吐き出し切ろうと話し続ける。焦る気持ちのせいだろうか、いつの間にかひどく早口になってしまっているのに気が付いたけど、どうにも戻せそうにない。
過去に降りても、明寿三十年はまだ凌雲閣の改築前だ。航時機タイムマシンも無しに、過去に落ちた幼い八重を元いた時代に戻すことなど不可能なのは分かっている。
「それでも、あなたが本当はどこから来たのかを分かっていて、八重が子供なのに独りで生きるために無理をしたりしないよう、代わりに働ける人が近くにいるのなら、少しは楽になるかもしれない」
そして出来ることならば、少しでも幼い八重が楽しく暮らせれば良い。尋常小学校を中退せず、存分に学んでくれればいい。あわよくば女学校にも行かせてあげたいけど、フミの力だけではきっと難しいだろう。どこかの偉い先生にでも手紙を書いて、お願いをしてみようか。もしかしたら、うまくいくかもしれない。
「その荷物の中に制服と一緒に、機関長宛の手紙も入れておいたの。すみませんけど森田フミはしばらくの間戻れませんから、代わりに市川八重さんを雇ってください、物覚えは私よりもうんと良いし、明寿四十二年の街のことは暮らしてきたように詳しいですよって」
だからあなたは先に行っていてほしい。いつか明寿三十年の幼い八重が大きくなって、またこの時代で自分と出会った時に、二人で一緒に未来へ戻るだろうから。
「そんなこと言ったら、あんたはどうするの」
おつむの出来か、航時機のことを考え続けた年季の違いか。一晩考えてからやっと自分で気付いたことを、八重は話を聞いてすぐに尋ねてきた。
「多分、二人の私が一緒に未来へ行くのは変なことになるし、それはとてもややこしいよね。だからそのまま、ここに残ることになるんじゃないかな」
何か言いたげに口を開いた八重を遮り「だから」と続ける。昔から先生すらも言い負かすことの出来た相手に、自分より遥かによく回る口を挟ませるのは得策じゃない。こちらだって伊達に千客万来の塔で、色々な客を相手に商売をしていないのだ。
「先に戻った八重が昇降機ガールになって、大昭十年のここから私を見守っていてよ」
今から十二年前に戻ったら、次に八重が見つけるときの私はちょうど三十歳。多分、毎日見ていれば見つけられると思うんだ。何なら毎日十二階の方まで寄って、屋上に手でも振ろうかな。こちらの八重は元気ですよ、元気にこの時代へ落ちてきた私と、未来に戻っていきましたよって。
過去に落ちて行った八重を変えて、今の八重がどうなるかは分からない。記憶が変わるのかもしれないし、違う八重がもう一人できるのかもしれない。自分が二人になるのもそうだけど、そうなったらとてもややこしい気がする。
それでも、自分を消してしまいたいと思うよりは、ずっとずっとましな筈だ。
「ね、だから、どうかな」
お願いします、と両手を合わせて拝んでみせる。これくらいしか、自分に出来ることが思いつかなかったのだ。どうかうんと言ってほしい。
恐る恐る出方を窺っているフミを前に、八重はしばらく動かなかった。
たっぷり十秒は過ぎた後、もう一度何か言いたげに八重の口が開かれた。
だが、予想していた反論の代わりに出てきたのは、長い長い溜め息だった。
体に溜まっていた空気を全部吐いたのではと思うほどの溜め息の後、八重はきつとフミの目を見据えた。
「傲慢だね。あんた一人の力で、昔の私を救えると思っているんだ?」
冷ややかな声と言葉に、思わずぐうと声が詰まる。当の本人にそう言われてしまっては、返す言葉が全くない。確かに、幼くても賢い八重に自分が出来ることなんて、たかが知れているかもしれない。
「で、できれば今のうちに何がしたかったとか希望を言って頂ければ……努力は最大限しますので……」
我ながらずいぶんと苦しい抗弁だ。結構良い考えだと思ったのになぁ。
しどろもどろになりつつ答えるフミはしかし、「名前は?」という短い言葉を耳にして思わず顔を上げた。
聞き間違えだろうか。今、反論でも罵倒でもなく、変な質問が聞こえた気がしたのだけど。
そっぽを向いて景色を眺める八重の表情は、こちらからでは伺えない。けれども、続けられた諦めと呆れ交じりのその声は、先ほどと異なりずっと柔らかいものだった。
「あっちに行って、名前はどうするの。確かによくある名前だけど、フミのまんまじゃあ、後から来たあんたと同じになってややこしいでしょうが」
「ああ、それもそうだよね」
さすがにそこまでは考えていなかった。さてどうしたものかと腕を組んで考える。あまり自分とかけ離れた名前だと、呼ばれた時に自分と分からないかもしれない。さりとて親戚や知り合いの名前を借りるのも、何だか変な感じがする。
首を傾げながら答えを求めるように街並みを見下ろしたフミの目は、自然と派手な色の看板に吸い寄せられた。喫茶スズラン、から取って、すず。良い名前だけど音が違うから、これも呼ばれ慣れるのに苦労しそうだ。困って横に視線を滑らせると、隣のがらくた屋の看板が目に入った。小さすぎてここからは見えないが、確か大きな富士山の絵が描いてあったはずだ。
そうだ。
「――――フジ、なんてどう?」
もう一度、空気を抜いたゴム風船よりも長そうな溜め息を深々とひとつ吐いてから、八重は一言「良いんじゃない」とこれまた呆れた調子で返してきた。
「……本当に、先に行っていてくれるの?」
自分から言い出しておいて何をと思われるかもしれないが、本当は一つ二つは八重に何か反論されることを覚悟していたのだ。あっさり承諾されるどころか名前のことまで心配され、却って少しばかり不安になる。
もう一度、恐る恐る八重の方を窺う。八重の視線は浅草を超えて、やっぱりどこか遠くを見つめていた。
「いいよ。あんた、このまま何か言っても到底聞きそうにないし。それにしても」
仮にも私の面倒を見てくれる人に、私がいいよっていうのも何だか変な話だよねと、八重はようやくこちらに向き直った。
「ありがとう。子供の私を、どうかよろしくお願いします」
生意気だろうけど、許してやってね。
深々と頭を下げてみせた八重に、「こちらこそ、よろしくお願いします」と頭を下げる。
それに小さくうん、と返すと、顔を上げた八重と目が合った。未だに少しだけ心配そうな表情をのぞかせる目に、大丈夫という意味を込めて笑いかけて見せる。何故だか少し渋い顔をされてしまった。
「それじゃあ、私は先に行くから。ちゃんと約束通り、生き延びて十二階に手を振るなり何なりしてよね」
無理はしない。危ないものにも近寄らない。私を助けようとして、あんたが倒れるとか御免だからね。
風呂敷包みをきちんと背負い、手摺りに手をかけた八重の言葉に「任せてよ」と笑顔で頷いて見せる。それに少しだけ安心したような顔を浮かべると、八重は手摺りを乗り越え、人の立つように出来ていない狭い縁へと降り立った。
そのまま手摺りから両手を離さないまま真下を覗き込んだ八重は、何も言わずにしばらくの間じっとしていた。
動く気配の無くなった八重に声をかけるべきか悩んでいると、「ごめん」と小さな謝罪が絞り出された。
「恥を承知で頼むのだけれど……決心がつくまで、手を握っていてくれない?」
さすがにこの高さは、少しばかりおっかなくって。
ばつが悪そうな少女の顔に、お安い御用だと片手を差し出した。
それにしても、自分の存在を消してしまうことにはちっとも躊躇いが無かったくせに、こうして飛び降りるときには誰かがそばにいてほしいと思うだなんて、どうにも基準が分からない。
少しばかり可笑しく思いながら出された手を、八重は「ありがとう」と片手で握りしめ――――そしてそのまま、ぐいと思いきり引っ張った。
悲鳴を上げたフミの体が姿勢を崩し、大きく八重のいる方へと傾く。踏ん張りの効かないまま投げ出された体は、もう片方の手を離した八重の落ちる重みもあり、あっさりと手摺りを超え展望台の外へと落ちて行った。
二人で手を繋いだまま宙に投げ出される中、にぃ、と歯を見せて笑う八重と目が合った。
「ごめんなさぁい」
その自信満々で勝気な表情は、久しく見ていない、尋常小学校の時の彼女の面影をよく残していた。
二人分の重さを伴って一度落ちた体は、ここに来た時と同じように、新聞で読んだ八重の神隠しと同じようにふわりと再び浮き上がる。
そのまま意識が遠くへとかき消えていく中で、フミは八重のやけに弾んだ声が聞こえたような気がした。

 

最初に「ちょっと過去に行こうかな」などと言われた時、八重は何を言っているのだろうと本気で耳を疑った。

実際、その気持ちは顔にも思いきり出ていたと思う。それでも目の前のフミは言葉を切らず、一晩かけて考えたのだという自分の提案を必死にこちらに示してきた。
ひとまず話だけは聞いて、終わったらさっさと言い負かして未来に連れて行こう。そう思いながら聞いていた八重は、話し続けるフミの一言に、気付けば両目を見開いていた。
「過去の八重を助けてくれる味方が、一人くらい居ても良いんじゃないかなって」
動揺が顔に表れてしまったことにしくじったと悔やむよりも前に、昔何度も言われていた言葉が、八重の中に蘇る。
――――大丈夫、私は八重ちゃんの味方だよ。
と名乗っていたその人のことを、八重は元からあまりよく知らなかった。今ではもう、顔も声も覚えていない。ただ、こちらにそう言って笑いかけるその人が、ひどく優しい顔と声だったことは何となく覚えている。その代わり、フジと交わした数少ない会話は、きちんと頭の中に入っていた。
教科書の文字や新聞の言葉なら、八重はいくらでも覚えていることが出来る。相手の話を、一言一句違わずに繰り返すなど朝飯前だ。
けれども覚えが良いはずの自分の頭は、会わない人の声や顔立ちを覚えることには何にも役に立たなかった。かつて家族や仲の良かった級友だけでなく、こちらに来てからの恩人の目鼻立ちも段々と薄れていくことに気付いた時、八重は悔しくて悔しくて、何日も見世物小屋の布団の中でこっそりと泣いた。
明寿三十年の浅草へと落ち、当てもなくさまよう七つの八重を最初に助けてくれたのは、「私も身寄りがなくて困っちゃって」と笑う、若い女の人だった。
そうだ、あの人は最初に出会った時、確かちょうど今の自分たちと同じくらいの年の頃ではなかったか。
荷物も何もなく着の身着のまま、無一文で家もないという怪しい大人を、初め八重はひどく警戒した。家の人があんまりひどいから逃げてきたのという割には怪我も無ければ所帯じみた素振りも無くて、詳しいことはちっとも教えてくれなかったくせに、八重の未来から来たのだという話をひどくあっさりと信じて見せた。
尋常小学校に行く手続きが進まないからと、あちこちから本を借りては読ませてくれ、見知らぬ子供であるはずの八重の分まで、当然という顔をして朝から晩まで工場で仕事をして飯代を稼いでいた。
そして何度も口癖のように、
「私は八重ちゃんの味方だよ」
「いつかきっと、未来からお迎えが来るよ。だからそれまで私と暮らそうね」
と、自分に笑いかけてみせた。そんなフジに、八重も少しずつ懐いていった。
貧しいけれども、少しずつ楽しくなっていった生活は、けれどもそんなに長続きしなかった。ゆくゆくは姉妹のように過ごせるだろうという期待交じりの予感は、ある日工場の事故でフジが死んだことで唐突に潰されてしまった。
人違いかもしれない、たまたま同じことを言い出しただけかもしれない。
僅かな希望を隠して名前はどうするのだと八重が尋ねれば、フミは散々悩んだ挙句に、閃いたと得意げな顔でこう言ったのだ。
「――――フジ、なんてどう?」
ああ、呆れる。何も気付かない様子のフミにも、きっと全部黙っていたのだろう『フジ』にも、いやそもそも、ここに至るまで気付けなかった自分にも。
こんなところまで全部全部、初めから巡り巡っていたことなのだ。
諦め半分、呆れ半分で思わず長い溜め息を吐いてしまう。言いたいことは山ほどあるけど、どれも言ったところで、きっと何も変わらない。
だからせめて、恐る恐るこちらを窺うフミに、過去の自分を託そうと頭を下げた。どうか彼女も生き延びてほしいと、少しばかり口煩いことも言った。
けれどもいざ、先に未来へ飛ぼうと手摺りの向こうに降り立ち下を見て、ふと戻った後の自分を思い浮かべた。
未来へと戻った自分は、まず家族の元へと向かうだろう。あの人たちのことだ、きっと喜んで自分を迎え入れてくれる。けれども自分がいない十二年間、家族に起きたことを八重は何一つ知らない。兄はもう結婚しているだろうか。弟は学校に通っているだろうか。そもそも、自分の知っている家族は今も同じ場所に住んでいるのだろうか。
こうして眺めているだけで、街並みもずいぶんと変わっているのがよく分かる。街並みだけではない。八重がこうして明寿三十年から生きてきた十二年間で、あちらは年号まで変わっているのだ。
フミは自分がすぐに昇降機ガールになれると言っていた。口添えの手紙も書いたと言っていた。
けれども、八重はまた一から知らない時代に足を踏み入れることになることになる。
そうしてこれから過ごす大昭十年の自分の横には、フミは存在していないのだ。
それが何だか、無性に腹立たしくなった。
だからほんの思い付きで、フミを騙して一緒に未来へと戻ることにした。
まんまと騙されたフミと一緒に落ちながら、チラリと頭を過った幼い自分に思いを馳せる。自然と浮かんだ笑みは、自分でも久しい種類のものだった。目が合ったフミの顔には、分かりやすく混乱と驚愕の表情が浮かんでいる。
その表情を見た瞬間、ひどく胸のすく思いがした。
――――ざまあみろ、だ。
初めから巡っていたことが何だ。例え定めであろうが何だろうが知ったことか。
これまで起きたことは確かに動かしようのない、起こってしまったことかもしれない。幼い自分が落ちていくのを止められなかった時のように、過去を変えようとすれば何らかの力が働いて、結局動かすことが出来ないのかもしれない。
だがそれを、未来を諦める理由にしてたまるものか。
過去がどうであれ、これから生きる自分のことも考えろと、そう言ったのはフミの方だ。だから八重は、今未来に戻る自分のために選んだだけ。
「ごめんなさぁい」
一応、形ばかりは過去の自分に謝っておこう。『フジ』のいない明寿三十年は、きっと自分の時より生き延びるのが難しいはずだ。
それでもきっと運が良ければ、生き残ることが出来るだろう。もしかしたら代わりの『フジ』が現れるのかもしれない。或いは違う生き方をする自分が現れるのかもしれない。途中で野垂れ死ぬ可能性も否定できない。
その時今の自分がどうなるかは想像もつかないけれども、特に後悔はしていない。
少なくとも、今目の前にいるフミが自分の横からいなくなり、過去で死んでしまうことは避けられたのだ。
十二年ぶりの体が浮き上がる感覚の中、手を繋いだままのフミが気を失いそうなのに気が付いた。未だにどうしてと言いたげな両目が、瞼の向こうに隠れていく。
どうせ向こうで、これからも友達として生きていくのだ。気が向けばそのうち全部教えてもいいかもしれないが、こんがらがった話だから、自分ももうすぐ気を失うだろう時に、一から説明するのは八重でも少し面倒臭い。
だから今は一つだけ、一番単純明快な理由を教えてあげることにした。
自分も両目を閉じながら続けた声は、自分でも思った以上に弾んだ調子になった。
「あんたがいなくなってしまったら、今度は戻った私がつまらないでしょ?」

《了》

文字数:49176

内容に関するアピール

梗概を出した後、どう練り直そうかとあれこれ唸りながら考えている中で、参考のためにと古いエレベーターの装飾が残っていると評判の上野の松坂屋に行ったところ、時計の文字盤のようなフロアインジケーターにすっかりテンションが上がりました。
そのままエレベーターについて調べていると、「日本で最初に有人の昇降機が導入されたのは浅草十二階」と書かれており、その二つを混ぜ合わせたら楽しいんじゃないかと思った結果、梗概から大幅に方向転換してこんな形に落ち着きました。
 タイムトラベルの概念の無い人たちがタイムトラベルをしたらどうなるだろう。タイムパラドックスについてはどう考えるだろう。タイムトラベルもの一年生らしい素朴な疑問を突き詰めるには時間も文字数も足りず大変苦労しましたが、ひとまず手動操作のエレベーターへの情熱だけは込めたつもりです。

 なんちゃってSFしか書けませんなんて言いながら参加しましたが、一年間とても楽しく過ごすことが出来ました。沢山学ぶことも多く、特に「自分が面白いと思ったことを相手に伝える大変さ」を身に染みて感じました。最終実作筆頭に難しくて半べそをかきながら書くことも多々ありましたが、それも含めて実り多い時間でした。
 本当はもっと沢山のお礼と感想を書きたいのですが、現在時間ギリギリなので、講師の皆さま、運営の皆さま(特に徳久さん)、そして同期や先輩の皆様へのお礼だけ最後に書かせて頂ければと思います。
 一年間、本当にありがとうございました。
 とても楽しかったです。

《主な参考文献》
『浅草公園 凌雲閣十二階 失われた〈高さ〉の歴史社会学』佐藤健二(2016)
『技術屋が語る ユーザーとオーナーのためのエレベーター読本』鈴木孝夫(2017)

文字数:725

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