舌先の時差に約束を

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梗 概

舌先の時差に約束を

放課後に友達と遊んでいた小学三年生の志信しのぶは、突然口内にオレンジの味が広がり走るのを止めた。それ以降日常のあらゆる場面で、食べていないものの味を感じるようになる。
 深夜布団の中で揚げ物の味にお腹を空かせ、三時間目にひどい辛味で涙を浮かべる志信に下された診断は「味覚共有テレパレット」。二人一組で発症する現象で、互いの味を相手も感じるというものだった。一時はテレパスの実在が証明されたと騒ぎになった現象だが、味覚限定の上にサンプルは少なく、治療法もペアの組み合わせの法則も未だ不明。志信は仕方なしに見知らぬ相手と味覚を共有する生活に慣れていく。訪れる味の中には馴染みの無いものも多く、時には癖が強くて顔をしかめることもあった。

中学に入る頃、志信はネットで味覚共有者たちがペアを特定するための掲示板を見つける。一週間の味と日時の記録を上げてみると、時間帯や味から海外の人では無いかと他の投稿者に指摘された。姉の協力のもと海外の掲示板を探した志信は「レフ」という人物に辿り着き、連絡を取り合うようになる。

レフと知り合い、今までの知らない味は少しずつ知っている味になっていった。世界中を旅する年上のレフは、旅先で味を共有した食物の写真を送っては何の料理か教えてくれる。ただの癖の強い味と思っていたスパイス料理はいつしか苦手でなくなり、食わず嫌いで避けていたはずの羊肉はたまに訪れる美味しい味だったことを知った。ただの学生である志信が代わりに地元の美味しいラーメン屋や駄菓子屋のことを教えると、レフは充分面白がってくれた。

英語のやり取りにも慣れ、大学受験で慌ただしくなった頃、ずっと続いていたレフとのメッセージが突然途切れた。数週後、レフの家族からレフの失踪と、ここ数年思い詰めた様子だったので自殺を心配しているが心当たりはないかという連絡を受ける。ずっと繋がっていたレフが本当につらい時に何も知らなかったということに衝撃を受けながらも、志信は時折訪れる味覚からレフが死んでいないことを確信する。連絡も取れない相手に心配していることを伝えるため、志信は思い出を辿る料理を選んで食べる。

一週間後、久々にレフの味覚が流れ込んできた志信は、覚えのある味に思わず家を飛び出す。全速力で辿り着いたのは、いつか教えたラーメン屋。いつか写真で見た人物が店から出るのを呼び止めると、相手は立ち止まって数秒の後、ぽつりと君の教えてくれた店はおいしかったと話し出した。
 全てから離れて死のうと思ったのに、どこに行っても志信の存在が味と共に離れない。いっそ最後に志信の食べていたものを自分でも食べてから死のうかと思ったら美味しくて、今度は志信に自分が今まで食べた美味しいものを食べてみてほしくなってしまって、死ねなくなった。

そう困ったように笑う相手に、はじめましての挨拶も忘れ、じゃあ大学の卒業旅行で色々案内してよ、と志信は未来の約束をする。

文字数:1213

内容に関するアピール

異国のホテルで、一グループ一つまでという極上の焼リンゴを出され、気にはなるもののぐっと堪えて、滅多に来られない友人に今回は譲ることにした。友人が熱々の焼リンゴをかじるのと見たと同時に、何故か自分の口の中にも硬口蓋を火傷しそうなほどの熱や柔らかくなったリンゴの触感、シナモンの香りがいっぱいに広がった――――という夢を見たことがあったのを思い出し、そこから話を膨らませてみました。味覚だけ共有するテレパシーがあったなら、アレルギーのある食べ物も食べられるし良い気がしますが、味だけのタバコとか嫌いな食べ物だと嫌ですね。

見知らぬ場所で見知らぬものを食べるのが好きなので、この一年超は中々にしんどいです。最近は世界各国の料理店も都会のあちこちに出来はしたものの、それも中々気軽にはいけない……。せめて小説では様々な場所で美味しいものを食べて、それを誰かと共有したいと思っています。

 

文字数:388

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舌先の時差に約束を

1. 

ドッジボールの球を避けた直後、口の中に広がった味に思わず立ち止まった。
放課後の校庭は、今日もボールの弾む音やみんなの声でにぎやかだ。最近は少しずつ塾に行く子が増えてきているけど、それでもまだかなりの人数が参加している。担任の橋本先生は帰りの会を早く終わらせてくれるのが良い。お陰で今日も三年二組は校庭の一番いいところを確保できた。
 初めに口内いっぱいに広がる感覚で思い出したのは、一週間前に体育で顔面を打った時のことだった。結局大した怪我ではなかったけれども、口の中を切ったのと鼻血が出たのとで、あっという間に口の中が血の味になってしまったのだ。地面に叩きつけられた痛みが過ぎたら後は何ともなかった本人よりも周りの大人たちが大慌てで、あの時は大変だった。ただ一人、姉の恵実めぐみだけは大技に挑戦して失敗したと聞いて「何やってんの、バカじゃん」とケラケラ笑って済ませてくれた。普段なら言い返そうとするような言葉だったけど、あの時ばかりは慌てる周囲につられて、もしかしたらとんでもない怪我をしたんじゃないかと焦り始めていたから、逆にずいぶんとほっとしたのを覚えている。
 そんなことを思い出すよりも早く、感覚よりも一歩遅れて血の味じゃない、と志信しのぶの頭は判断した。
 ――――あまずっぱい。
 今日の給食はシチューごはんで、デザートは何もない日だった。昨日はヨーグルトが余ったから、ほしい子たちでジャンケンをして、最後の三人になったところで負けてしまった。
 何だろう。何も食べていないのに、覚えのある味がする。
 レモンよりもずっと甘くて、でも絶対にイチゴじゃない。おばあちゃんが送ってくれる梅干しも甘くてすっぱいけど、あれはもっとしょっぱいから絶対にちがう。甘酸っぱさと一緒に広がる、ひんやりとした感覚が走り回った後に心地いい。
 この味はたぶん、果物だ。
 ほんのちょっと更に考えてから、ああそっか、とようやく思い当たるものが分かり一人頷いた。
 オレンジとか、みかんの味だ。
 しかも、すごくおいしい。そう心で付け加えた瞬間、肩に勢いよくボールがぶつかって、志信の体はよろめいた。

食べていないものの味がする、と言った志信の言葉を、初め周囲は気のせいだろう、と真面目に取り合わなかった。
 あるいは、変なこともあるものだね、と少し不思議な一体験として聞き流した。
 当の志信自身も、初めは大して気にしていなかった。突然感じたオレンジかみかんらしい味は、むしろそのせいで外野になってしまったから、挽回しようと敵チームの内野にボールを当てることの方に必死になってそれどころじゃなかったのだ。何とか勝てたその後では、志信にとって転んでひざを擦りむいた程度の失敗でしかなかった。帰り道、一度だけ結局あれは何だったんだろうと思いはしたけれど、疑問はその日の夕飯にハンバーグが出たことで上書きされて、どこか遠くに行ってしまった。
 どうも変だな、と思い始めたのは、それから数週間経ってからである。
 夜寝る前、歯を磨いたはずなのに口の中でしょっぱい味がする。友達の家でポテトチップスを食べている途中に、ツンとするけど柔らかくて甘い味がする。一度など真夜中に揚げ物の味がじゅわりと口いっぱいに広がるせいでお腹が空いてしまい、すっかり目が覚めて眠れなくなった。
 そういったことが何度も続いて、ようやく何かがおかしいのではと大人たちに相談し始めた。
 食べていないものの味が今日もする。一昨日の味はおいしかったけど、今日の味は何か苦かった。
 これは何かの病気なの?
 志信以上に困惑したのは周囲である。
 それまでも志信の不思議な体験の話を聞いていた父や姉などは、今まで聞き流していた時よりも深刻そうな志信の様子にすこしばかり心配にはなったものの、それ以上は打つ手もなく、ただ話を聞くことしか出来なかった。
 定期的に面倒を見に来てくれる叔母は、気のせいにしては続く症状に何か深刻な病気の前触れではと家庭の医学を読み漁ったが、何も有益な答えを見つけられなかった。
 保健室の先生は、手当てすることも病院に行くことも勧められない症状に首を捻った。そもそもこれは症状と言っても良いのだろうか? 怪我もしていない、苦しんでいる訳でもない。ただ、少しだけ不便なことが時々ある。診察でどうにかなるものとも思えない。そうして周りが手をこまねいている間にも、食べた覚えのない、時には食べたこともないような味が何の前触れもなく突然やってくる。
 ようやく事態が動いたのは、その更に一週間ほど経った後、水曜日の三時間目になってからだ。
 その時の授業は理科で、橋本先生が昆虫のからだについて説明している時だった。あたま、むね、はらに塗り分けられた黒板の虫たちのカラフルなシルエットを描き写していた志信は、初め口の中に感じた塩気に「まただ」と色鉛筆を動かす手を止めた。しょっぱい熱がスープみたいにあっという間に広がってから、喉の奥へと通り過ぎるのを感じる。
 その熱の通り道が、通り過ぎたそばからひりひりと痛み始めた。
 あれ、と思う間もなく、二度目の熱と塩気が舌や口の裏の柔らかいところを通っていく。その跡の表面が、息を吸う度にまた痛む。ひりひりするだけじゃない。喉の奥も鼻の裏も刺されたみたいに痛いから、いつもよりもうまく息が出来ない。
 熱いお茶で舌を火傷したときとも違う痛みにうまく対応できないうちに、次から次へとまた熱と塩気と痛みがやってきて、症状はますますひどくなっていった。勝手に浮かんできた涙で、視界に映るノートの昆虫たちの色がじわりと横に滲む。
 大丈夫? そう隣の席の子が言っているのが聞こえるけど、口がうまく動かせない。
 先生、志信が具合悪そう。斜め後ろの席から別の子の声がした後、机の間を珍しく早歩きで進む先生が近付く気配がする。
 大丈夫ですか、という声に志信が何とか伝えられたのは「いたい」と「からい」の二言だけだった。
 授業を中断して連れて来られた保健室でも続いていた痛みは、特別ですよと渡された冷えたリンゴジュースのコップを飲み干してからようやく少しだけ落ち着いた。
 まだ口の中を小さく刺されながらも、話せる程度には痛みが落ち着いた志信の話を聞いた保健室の先生は、これは手を打つべき症状だとようやく確信をもって判断した。
 ただ覚えのない味がするだけなら対処は難しいが、痛みがあるなら話は別だ。何らかの診察を受けるべきだと言い切れるし、志信の家族にしても病院に相談しやすいだろう。
 その日迎えに来た叔母と共に早退した志信は、そのまま近くの小児科へと連れて行かれた。
 だが、ここからが更に難問だった。
 どの病院に行けば良いのか、誰にも分からない。
 初めの小児科では、熱の症状がないこと、毎日何を食べているかを確認された後、うちではこれ以上のことは分かりませんねぇと頭を捻られて終わった。続いて行った口腔外科ではレントゲンと口内の診察の後、診る限りでは怪我もないんですがねぇと言われてそのまま返された。次の内科ではそんな馬鹿なことがあるわけないだろうと冷たく一蹴され、その言い方に志信よりも付き添った叔母が怒って大変だった。
 不規則にやってくる謎の味の正体が判明したのは、一週間ほどかけて更に四、五軒回った先、三か所目の脳神経外科でのことだった。
「確証はありませんが、お子さんは『味覚共有テレパレット』と呼ばれるものかもしれません」
 二か所目の口腔外科から紹介された、電車の終点にある病院の先生は、手元のタブレットを叩くとウェブサイトの画面を志信の父親に差し出してみせた。横から画面を覗き込むと、英語で何かがずらずらと書いてある。時々挟まっている写真しか分からない。口を尖らせた志信の表情を見て、先生は「外国のニュースサイトだよ」と笑ってみせた。子供が苦手なのだろう、少しだけ笑顔がぎこちないし、笑うタイミングが明らかにおかしい。
「簡単に言うと、他の人が感じている味を知覚できるようになる現象です。二人一組で発症して、片方が何かを食べると、もう片方は食べていなくてもその味を感じることができる」
「ものすごく非科学的なことを言いますが、テレパシーみたいなもの、ということでしょうか?」
「その、味覚限定版だと思って頂ければ分かりやすいかもしれません。ただし相手は決まっているし、伝えようと思って伝えられるものでもない。分かっている限りでは、共有するタイミングもランダムなようです」
 どうやら志信に向かって話すのは諦めているらしく、横の父親の方を向いて話す医者の話に追いつこうと、志信は必死に頭を働かせながら考えた。なるほどどこかの誰かが食べたものだというのなら、食べたことがない味がしたのだって当たり前だ。もしそうだとしたら、あのものすごく辛い味も平気で食べていたってこと?
「数年前に発表された時には、星野さんが考えられたのと同じく、テレパシーが本当に存在していたとずいぶん話題になったんです。確か、日本のニュースでもやっていた気がします。その後すぐにそこまで便利なものでもない、と分かってからはあっという間に下火になってしまい、今ではほとんど話されなくなってしまいましたが」
「インチキ扱いされたり、とかでしょうか。ほら、昔テレビであったって言うじゃないですか。超能力少年とか、そういう事件が」
 心配性の父が、明らかにおろおろとし始めた。姉の恵実がこの場にいたら、ビビりすぎ、と呆れそうな声だ。
「いえ、それは大丈夫ですよ。現象としてはきちんと科学的に実証されていますから。世界的に権威のある雑誌にも論文が掲載されたことがありますし、日本にも一定数患者……いや、この場合は患者ではないか。とにかく、日本でも分かっている限りで数十名はいると言われています。単純に思ったよりもテレビ映えしなかった、と言うだけかと」
 ただ、と返されたタブレットを脇の机に置いてから先生は続けた。
「そのせいで、分かっていることが非常に少ないんです。まず事象のサンプルが少ない、研究も少ない、専門家もほとんどいないと言って良いレベル」
 指を折りながら説明する先生の前で、今度は志信がだんだんと不安になってきた。そんなに珍しいのなら、どこかの研究所とかに送られたりするのだろうか。家やクラスメイトから離れて暮らすのだとしたら、それは嫌だ。
「だから治療法も、どういう人たちが、どういう組み合わせの法則で味覚共有テレパレットのペアになるのかも何も分かっていないのが現状なんです。特に日本では命に係わるものでもないからと、後回しにされがちで。医師の中にも知らない人がいるくらいです」
何もかもが不明なままなのだという医師は、だからお薬は出せないんだ、ごめんねとそこだけ志信の方を向いて言った。
 帰りの電車に揺られながら、父は医者の説明をうんとかみ砕いて志信に話してくれた。話を聞きながら想像していたことと大体は一緒だったけれども、そのまま黙って聞いておくことにする。多分そうやって志信に話した方が、父さんが落ち着くだろうから。
「これ以上は、もう分からないかもしれないね。ごめん」
「いいよ、別に。死んじゃう病気とかじゃなかったし、何なのかは一応分かったんだもん。じゅうぶんだよ」
 結論から言うと、志信は研究所に送られずに済んだ。というかそんな話も出なかった。
代わりにノートを一冊手渡され、今度味を感じたらこれに記録を取っていって下さいとだけ指示をされた。
 どんな味がしたか、何時頃だったか。味の他に感じたことはあったか。それについて、どう思ったか。
 志信自身の代わりに、そのノートがもしかしたら研究所に送られるかもしれないと、医者はまた志信の父に向かって説明した。
「いつか志信のペアの人も、誰なのか分かったら良いね」
 せめてペアの相手くらいは分かりませんか、という父の質問にも、医者は難しいでしょうねと即答していた。
 ――――お子さんのように診察できている人の方が少ない状態です。研究もほとんど進んでいませんし。
 駅のホームで志信に説明をしていた父は、あれは多分プライバシーとか情報共有の問題もあるんだろうねと語っていた。病院での話よりもその独り言の方が、よっぽど面倒臭そうだし、難しそうだ。
 電車に揺られながら窓の外を見る父につられて外を見る。大きな川を横切る途中、河原の端で何人かが水切りをして遊んでいた。
「友達になれたら素敵じゃない?」
「友達は別にまぁ、どっちでもいいけど」
膝に乗せたリュックサックに顔をうずめる。キーホルダーについているアニメのキャラクターと目が合った。
「何を食べているのかは気になるかも。変なくさい料理とか、食べるのやめてって言えるし」
「え、そんなものも共有したの」
「した。超変な味がした」
 記憶の中の味を思い出して、思わず志信は顔をしかめた。不味いとはまた違う気がするけど、あのにおいの後味には慣れそうにない。それよりも最初に感じたオレンジの味とか、前に夜中に来た揚げ物の味とか。ああいう、おいしいものの方をたくさん食べていてほしい。
 知らない味を食べている誰かのことを知るのが先か。それとも研究が進むのが先か。
 いつになるかは分からないけれども、もうしばらくはこの状態が続くのかと思うと、志信はほんの少しだけ憂鬱だった。

 

2. 

7月22日 午前?時 たぶん真夜中。シチューみたいな味。ミートボールみたいなものが入っている。おいしい。目がさめたけどまたねた。
 7月25日 午後3時位 ジャムとパンとクラッカーの味。ブルーベリージャム? 味はふつう。
 8月5日  午後4時半 レーズン入りカレーのルーがないみたいな味。肉はおいしかったけど、パサパサした変なにおいのするものがたくさんはいっていた。ごはんに似ているけど、ちがうかも。レーズンはおいしかった。
 8月6日  午後11時 どろっとしたスープ。なんかすごく栄ようありそう。これも肉がおいしかった。ほかにも色々入っていたけど、わからない。たぶん、たまねぎとトマトと何か。

「はい、ありがとう。今回も特に問題がありそうなことはなさそうですね」
 脳神経外科の上田先生は、志信のノートに一通り目を通すとそう頷いた。
 何度も通っているうちに慣れてくれたのだろう。あるいは、志信が少しだけ大きくなったから前よりも話しやすくなったのか。初めは隣にいる志信の父とばかり話していた先生も、今ではちゃんと志信の方を見て話してくれる。ノートを返されるときもきちんと目を合わせてくれる。志信としても、今の方がだいぶ話しやすかった。
「また夜中に起きてしまうのが一回あったみたいだけど、大丈夫でしたか?」
「ぜんぜん、平気です。もう慣れたし、起きてもまたすぐ寝ちゃうから」
 知らない誰かと味覚を共有する生活も、三年経てばそれなりには慣れるものだ。時々感じる癖のある味も変なにおいもやっぱり気にはなるし、変な時間に味を感じて起きたり困ったりすることもないわけじゃない。それでも、初めに心配していたよりははるかに順調だ。
 最初に知らない人と味を共有している、と聞いてしばらくの間、子供たちの面倒を見にやってくる叔母は常によそ様にご飯を振舞っているようなものだからと、やたらと気合を入れた料理ばかりを作っていた。父にも姉にも志信本人に止められてもしばらくの間それは続いたが、叔母が結婚してあまりこちらに通わなくなるよりも前に、いつの間にか元通りになっていた。姉は姉で、初めは初めて知る症状を珍しがったが、そのうち突然顔をしかめたり口元を緩ませたりする志信にすっかり見慣れて何も言わなくなっていった。
 周囲も本人も慣れていった結果、共有する相手もわからないまま味覚共有テレパレットはすっかり日常の一部と化している。
「星野さんも来年は中学ですか。お昼は弁当になるんですか?」
「たぶん、給食です」
 無理やり子供用の受け答えをしなくなった先生に答えながら、あれどっちだったっけ、と少しだけ自信がなくなる。志信も先生も慣れたから、付き添いで来てくれている父は大事な話以外は診察室に付いて来なくなっていた。後で一応、聞いておこう。
「中学で生活リズムもまた変わるでしょうからね。何かあったら定期健診前に来てください」
「はい、ありがとうございました。またよろしくお願いします」
 相変わらず、味覚共有についての研究はほとんど進んでいないという。
 それでも何か大きな変化があってからではまずいからと、志信はこうして定期的に病院に通っていた。
 お辞儀を一つして降りようとした志信を、「ああ、そうそう。それと」と上田先生が呼び止めた。
「知り合いの先生が教えてくれたんですが、今度テレビで味覚共有についての番組をやるみたいです。再来週の日曜日辺りだったと思うので、良かったらぜひ観てみて下さい」
 少し難しい内容もあるでしょうから、ご家族とでも一緒に。
 最初の時の上田先生は、こういう時の言い方がものすごくヘタクソだった。気を使ってくれているのは分かる。それでも頑張って子供向けに話そうとした結果、こちらがバカにされているみたいな気分になるような言い方になってしまっていた。
 きっちり分けてカチカチにまとめられた上田先生の髪を見ながら、この人本当に小学生と話すの慣れたなぁと志信は一人勝手にしみじみとしていた。

 

上田先生の言っていたテレビ番組は、海外で作られたドキュメンタリーだった。
八月二十三日、日曜日。夏休みの宿題にまだ余裕のある志信は、居間のテレビの前で体育座りをして観ている。姉の恵実は今年は大学受験の年だが、受験勉強の息抜きだと言い張って、その隣にあぐらをかいて座り込んでいた。味覚共有テレパレットについて、志信よりも情報を集めることに熱心な父は、こんな時に限って急な仕事が入ったとかで午後から外に出かけている。
 後で絶対見るからと主張していた父のために録画マーク付きで流れてくる番組は、格好いい、ミステリアスな音楽と共に味覚共有について紹介していた。「世にも不思議な、珍しい体質」――――ナレーターの吹き替え音声で、これまたドラマチックに言われるのは変な感じだった。何だか自分のことじゃないみたいだ。
 ドキュメンタリーの内容は、味覚共有についてについて発表された数年前の話から始まり、過去、現在、そして最新の研究についても紹介していた。味覚を共有している最中の脳の活動を記録するという場面では、どこかの国の若い人の頭に配線だらけのヘルメットがかぶせられている映像が流れた。測定した脳の断面図のうち、赤く反応している部分をあっちこっち指さしながら、これまたどこかの国の学者が、本人の声と合わない吹き替えの日本語で説明している。
――――この通り、脳は舌で感じた味だけでなく、匂いの一部や口内で感じる触感を司る場所が反応しているのが分かります。不思議なのは、これが本人ではなく、顔も知らない他人の口の中で起きている出来事に反応していることです。こちらの部分も見て下さい。味覚共有テレパレットで味を共有している時、彼らは普段我々が普通に食事をしている時と違って、視覚や鼻の穴から感じる嗅覚、そして歯ごたえを感じるはずの部分が全く反応を示していないのです……
 確かに歯ごたえを感じたことはなかったし、言われてみればただの味だけでなく変なにおいを感じることもあったけれども、こうして行ったことのない国の偉い学者に説明されるのは、やっぱりちょっと変な感じだ。隣の恵実も、「志信の脳内、こんなになってんの?」とアイスを齧りながら何とも言えない顔をしている。いつの間に持ってきたんだろう。つられて食べたくなった志信は、レポーターが遠くでペアの人が食べたものを次々と当てて見せる味覚共有者に驚いている場面の隙に、台所に行くことにした。味の共有は今朝一番にあったから、多分しばらくないだろう。変な味が混ざる心配もないからと、ストックの中からクッキークリームのアイスキャンディーを選んで戻る。
 テレビ番組は場面が変わり、今度は味覚を共有する相手を探す女の人の話を始めていた。やっぱり知らない国の、叔母よりは少し年上だろう人が、味覚共有が始まった時の思い出や、相手を知りたいと思ったいきさつについて話をしている。
 女性が相手を探すのに使ったのは、味覚共有者たちがペアを特定するためのウェブサイトだった。掲示板に自分の共有した味と時間を載せ、それに一致するものを食べていた人に連絡をしようとしているという。
 テレビの中ではインタビューの続きを挟んで省略された時間の後、次のシーンでは相手がもう見つかっていた。相手の人の家へと向かう途中、車を運転しながらカメラに向かって興奮気味に話す女性。辿り着いた先の家で、ペアのおじいさんに迎えられたその人は、歓声を上げて満面の笑顔で抱き合っていた。
 ――――本当にうれしい。生き別れた兄弟に会えたみたいだわ。
「あのさぁ、志信」
 吹き替えの音声と共に涙を浮かべる女性から視線を離さないまま話しかけてきた恵実に、こちらもテレビの方を向いたまま「何」とだけ返す。
「この掲示板、日本にもあるの?」
「いや、知らないけど……。何で?」
 画面の向こうでは先ほどの女性から切り替わって、巡り合えたペアの方の人が、やっぱりニコニコしながらインタビューを受けている。
「いや、だってさ。それならあんたも探せるじゃん」
「――――あ」
 そっか、と上げた声は思ったよりも響いてしまった。うわ近所迷惑ぅ、そもそもの原因に言われて多少むかつきはしたけれど、今はそれどころじゃない。
 思わずテレビから目を離し、隣に座る顔を見上げる。
 病院では分からない、調べられないとずっと言われ続けていて、考えたこともなかったけど。
「自分で検索してみれば? もしかしたら、あんたと共有している人も既にいるかもよ」

 

掲示板は、思った以上にあっさりと見つかった。
 正直、実際に調べ始めるまでの方が大変だったと志信は思う。
 子供用の通信制限をかけられた志信のスマホでは調べるのに限界がある。だからテレビを観終わった後、その場で姉のスマホを借りようとしたところ「私のパケ代がかかるじゃん、嫌」と速攻で却下をされた。だからいつも調べものをしている時のようにパソコンを借りようとして帰宅した父に事情を話すと、今度は見知らぬ人と掲示板でやり取りをすることに心配した父が渋り出した。
 結局、恵実の監督の下でならという条件付きで許可を得て、今に至る。
 それでも、まさか二、三回キーワードを変えて調べただけで解決するとは思っていなかった。これぞネット社会、父がたまに言う言葉が思わず頭に浮かぶ。
 検索結果の一番上に浮かぶリンクに、パソコンの画面を覗き込んだ二人は揃って拍子抜けしていた。
「……もっとこう、めちゃくちゃ隠れた秘密の掲示板みたいなのを想像してた」
 ――――ちょっと分かる。
 少しだけがっかりした声の姉に頷きつつ、少しだけ緊張してリンクをクリックする。
 読み込まれた掲示板には、少ないながらも様々な人が居た。相手の味覚を共有したお陰で食べた気分になり、ダイエットに成功したと喜ぶ人。家の食事の時間と味覚共有が被らないよう、時間の打ち合わせをするために共有する相手を探している人。可哀そうなのは味覚音痴と共有しているらしい人で、昨日もバナナにマヨネーズをかけて食べていた、早くペアを見つけて文句を言わなければ気が済まないと怒り狂っていた。
 志信たちと考えることは同じらしく、ドキュメンタリーの放送の後から数件ほど投稿が増えている。感想や再放送の日程について話している人もいた。
 掲示板の先頭に書かれたルールを読むと、相手の探し方はテレビで観たものとそれほど変わらなかった。
 まず、自分の共有した味覚の時間と内容を投稿し、それを見た心当たりのある人が返事をする。その後に今度は相手の共有した味について教えてもらい、自分の食べたものの記録と時間や食べ物が一致してば確認を取れる、という流れだ。とはいえ食べたものの感想と共有した味の感想が一致しないこともあるし、そもそも全員が掲示板に参加しているわけではないから、中々ペアが見つからないことも多いようだった。
「どうしよう姉ちゃん、こっちの食べたものの記録とってない」
「ひねり出せ」
雑な解決法を一度提示した後、少しだけ真面目に考え直したらしい恵実が、掲示板の投稿をスクロールしたまま言った。「無理ならとりあえず、給食のメニューだけでも出せば? 献立表とかあるでしょ。後は覚えているものだけ入れていけば、一応何とかなるんじゃない?」
「姉ちゃん、頭いい」
「おう、もっと言って。そんで私に第一志望を受ける自信をつけさせて」
 とはいえ、まずは相手の候補を見つけなければ始まらない。一通りスクロールしてそれらしき人が見当たらなかった志信たちは、ひとまず味覚共有ノートの過去一週間分の記録を投稿することにした。
「こうしてみると、この人食生活滅茶苦茶だなぁ。志信、あんたのペアの人大丈夫なの?」
 変な香りのするカレーを午前三時に食べたり、朝食の時間にケーキを食べたりする顔も知らない人のことを、病院の上田先生も変な時間に食べていて心配だと言っていた。
 一通りリストを書き写した後、恵実が他の人の投稿文を真似しながら丁寧なあいさつを描いていく。ついでにリストの言葉も少しだけ書き換えられた。
「ガキだってばれたら舐められそうだしね。最初はあんまり個人情報のせないでおこう」
「姉ちゃんだってまだガキじゃん」
「ランドセル背負っているような奴の話をしているんだよ」
 志信からマウスを奪ったままの姉に送信ボタンを押された投稿文は、数日経っても中々返事が来なかった。一つだけ返事が来たものは味覚共有テレパレットについての知識が所々おかしい上、あちらの共有した味覚の内容が全然違っていたため、そのままお別れとなってしまった。どうやらテレビを観て掲示板を覗き始めたのは味覚共有者たちだけではないらしい。イタズラやなりすましに注意してほしいという呼びかけが、掲示板の一番上のルールに付け加えられるようになった。
 そのまま返事を待つうちに夏休みも終わりに近づき、志信は宿題を片付けるため、恵実は夏休み明け一番の模試の準備でバタバタとする日々が続いているうちに、掲示板のことはあまり気にしなくなっていた。やっと久しぶりにそういえば何か来ただろうかと思い出した二人が掲示板にログインすると、ペア候補からの連絡はなかったものの、代わりに何件かのコメントがついている。
 ――――これさ、時間的に海外とかじゃない? 単に生活リズム死んでいる人って可能性もあるけど、それよりも時差のせいって考えた方が自然な気がする。
 ――――国またぐペアとかあるの? 聞いたことないんだけど。
 ――――ヨーロッパとかだとあるらしいですよ。かなりレアケースではあるみたいですが。

 投稿者を抜きに続く会話に、二人は顔を見合わせた。
 海外ってどうすれば、と途方に暮れた志信が見上げた恵実の顔は、突然増えた手間への面倒臭さを隠そうともしていない。
 国際感覚など学校の英会話の授業程度しかない二人が真っ先に頼ったのは、あのドキュメンタリーに出ていた掲示板だった。
 掲示板、とテレビでは言われていたものの、実際に使われていたのは海外で人気のSNSサイトだったらしい。アカウントを持っているユーザーが、SNSで作成された味覚共有テレパレットのグループに参加し、掲示板に投稿していくというスタイルだ。基本的なルールは日本の掲示板と変わらないが、ペア候補の人へのコンタクトの取り方が、SNSの個別メッセージを使用する方法になっている。大半の人が本名で活動している中、姉と二人で迷った志信は苗字だけを少し変えてアカウントの登録をした。
 SNSの掲示板はずいぶんと賑わっているようだった。日本で数十人はいると言われているのだ。そもそもの味覚共有テレパレットの人数が少なくても、世界中の人が参加すればそれなりの人数になる。
「ここから見つけるの大変じゃない? 読むだけで時間かかりそうだけど」
 英語の波の中から他人の投稿を探すことは早々に諦めた恵実は、相手からの連絡を待つ方針に勝手に決めたらしい。ほとんどスクロールしないまま他の人の投稿文をコピーし内容をいじり始めたが、志信のリストを英訳する段階になって、「だめだ。英語の表現わかんないわ」とこちらも匙を投げてしまった。明日になったら、学校で英語の先生に聞いてきてくれるという。代わりに書いてもらっている以上、姉を責める権利はない。志信は大人しく頷いておいた。英語なんて、特別授業で教えてもらった自己紹介とか、好きな食べ物とかしか話せないし。
 数日後、先生の協力の元で本人曰く「完璧」なものをルーズリーフに書いた恵実が意気揚々と帰宅した後、志信のリストは投稿された。日本の掲示板の時と同様、そうすぐにはメッセージが来ないだろうと二人は気長に待つことにする。
 参加者が多いせいだろうか、メッセージは思ったよりも頻繁にきた。恵実や父の手が空いた時に内容を訳してはもらうものの、志信の味覚共有の相手は中々見つからない。
 そうして来たメッセージがもうすぐ十件になりそうな頃、受験勉強の休憩かつ英語の勉強という言い訳でSNSにログインした恵実がいつものように「志信、ちょっとこっち来て」と父の部屋から声をかけてきた。
「また何か来た?」
「来たし、何かすごい本格的なやつだから。もしかしたら当たりかも」
 台所で麦茶を注いだコップを片手に、父の部屋へと向かう。姉は頬杖をついたまま、芸能人の投稿を眺めていた。最近の恵実はこうやって、ペア探しを言い訳にSNSを開いては関係ない投稿をよく見ている。
 俳優の投稿を閉じた恵実が見せてくれた画面には、長い英語のメッセージと、その下に続く、これまた長いリストのようなものが映っていた。
 辞書取ってくる、と席を立った姉と入れ替えに、パソコンの前の椅子に座りメッセージを眺める。先頭のあいさつだけは何となくわかった。アカウント名の横に、どこか海外の写真のアイコンが映っている。小さくてよく分からないが、色や形から想像するに、塔か何かのようだった。
 キーホルダーをじゃらじゃらとぶら下げた電子辞書を片手に戻ってきた恵実が、さっそく内容を訳し始める。メッセージは志信にも分かったあいさつの後、旅行が趣味で世界中のあちこちの国を巡っていること、そちらで感じた味も時間もバラバラなのはそのせいだろうということ、こちらのリストも送るので答え合わせをしてみて、もしも合っているようなら個別にメッセージを送ってほしいという内容が続いていた。二、三文のカジュアルなあいさつと一緒にリストを送ってくる人もいる中、ずいぶんと丁寧な人だ。
 向こうの食べた料理のリストもあったが、旅先で食べたらしいものは名前だけではどんな料理かよくわからないものも多かった。ひとまず相手が感じた味の方で答え合わせをしてみようと、志信は味覚共有ノートを、姉はプリントアウトしたリストを用意する。日本の掲示板に投稿をした時から、志信はノートの反対側に自分が食べたものもなるべく記録するようにしていた。
 じゃあ始めるよ、と相手のリストと辞書を両手に胡坐をかく姉の正面に座り、志信はノートの最近のページを開いた。いつもの答え合わせと同じように、少しだけ緊張して、喉が乾いているのを感じる。こんな時にこそ、おいしいジュースの味とか共有してくれればいいのに。とはいえ、いつもと同じように違う可能性の方が高い。また少しだけがっかりするのは嫌だから、志信は自分の期待と緊張を追い払うつもりで唾を一つ飲んだ。
「九月二日。タイの時間で午後六時前。中華料理のディム? サム? ……は何のことかよくわかんないけど、とりあえずそれによくある、皮があってしょっぱい肉を包んだやつだって。あと、多分ご飯とスープ」
「――――合ってる」
 日本で何時だったかを確認するよりも前に、思わず志信はそう声に出した。
 ノートの記録では、その日の夕飯のメニューは餃子だった。いつも買う冷凍食品の餃子はおいしくて、その日もたくさんお代わりをしたのを覚えている。
「九月十一日。タイ時間、午前十時ごろ。しょっぱいライスとソースと、あとスープの味。えーと……、日本との時差が二時間だから、ちょうど十二時」
 給食が、わかめご飯と卵スープと焼き肉だった日だ。
「九月十九日。カナダのオンタリオ時間 午前六時半。野菜の入ったパンケーキ? ソース味。何か固いものが口の裏に刺さって痛い。時々パサパサした何か。えーと……日本時間で何時だ?」
 調べて計算した結果、日本時間で前日の夜七時半だった。その日の夕飯はお好み焼きだ。パサパサしたものと固いものは何だろうとしばらく二人で考えて、青海苔と小エビではないかという結論になった。
 恵実が相手のリストを一つひとつ読み上げる度、自分の声がわくわくと弾むのが分かる。正解が積み重なる度に、自分と味覚を共有する人が存在することを確信する。
 全てのリストの付け合わせが終わった後、志信と恵実はその下に更に続く二つの文章に気が付いた。
 ?マークの付いたそれは、質問であってあいさつでないことは分かるけど、特別授業ではやっぱり見たことのない並びばかりで、何と言っているか分からない。
 これまで辞書を片手に内容を訳してくれていた恵実も「無理。もう疲れた。宿題よりも過去問よりも英語やっているって何」と力尽きてしまったため、二人は過去に散々父が文句を言っていたことのあるウェブの翻訳サイトの力を使うことにした。猫の手も借りたいというやつだ。猫の方がかわいいけど。
 コピーアンドペーストとエンターだけで変換された日本語は、案の定おかしな文章になってしまった。

 ――――あなたは約三年前に重傷でしたね? 私はあなたが大丈夫だったらと疑問に思っています。

一つひとつの言葉の意味は分かるけど、文章の内容は分かるようで分からない。
「どう考えても後半がおかしいけど、要するに三年前の大怪我が大丈夫だったか心配ってこと?」
 翻訳サイトらしい歪な文章に、やっぱ使えねー、とため息交じりの暴言を吐く恵実の横で、志信は文章の内容に首を傾げた。
 約三年前。重症。そんなことあったっけ。
 三年生の頃にあった出来事で一番大きな事件といえば、この味覚共有テレパレットが始まったことだけれども。
 病院にいくきっかけになった、ものすごく辛い味のこと? あれは本当につらかったけど、それならきっと怪我なんて言わないし、自分が感じた味のどれが相手に伝わっているか分からないのは向こうも同じだから、きっと違う。
 三年前。大怪我をした覚えなんてない。リストを見る限りではこの人みたいだけど、やっぱり違う相手なんじゃないだろうか。そもそも、怪我の痛みは向こうに伝わらないはずだ。何を心配しているんだろう。
 心配、という言葉が通り過ぎた瞬間、何かが志信の頭の中で引っ掛かった。
 何だろう。何か思い出すような、思い出さないような。
「姉ちゃん。三年前って、味覚共有テレパレット以外に何かあったっけ?」
 それまで英語の辞書と文章と翻訳サイトを見比べて唸り続けていた恵実は、志信の言葉に顔を上げると、腕を組んでじっと画面を睨み始めた。しばらくして、文法を考えている時よりも早く「ああ」と小さな声が上がる。
「あれじゃない? 鉄棒から落っこちたやつ。あんた顔面ぶつけて口の中は切るし鼻血は出るしで、Tシャツ半分くらい血まみれになってさ。結局大した怪我じゃなかったけど、見た目のせいで周りが大騒ぎだったじゃん」

覚えていない? 腕組みをしたまま尋ねる姉の声に、引っ掛かっていた記憶が明確な形を取って脳内に再生される。
 ―――――思い出した。
 あの時は痛いのが落ち着いた後、口の中にだらだらと流れてきて広がる血の味がとにかく気持ち悪かったんだ。
 けどそれよりも周りがあんまりオロオロするから、何か段々とんでもない怪我をしちゃったんじゃないかってすごく自分も落ち着かなくて。考えてみたら、最近あんまり危ないことをしなくなったのは、あの時に痛さよりも血の味の不快さよりも嫌だった、その居心地の悪さのせいかもしれない。
 そうだ。味覚共有テレパレットになって、一番最初に感じたのはオレンジの味だった。
 放課後の、ドッジボールをしていた時間。あの時最初に思い出したのは、口いっぱいに広がる血の味の方だったのに。結局大した怪我じゃなくてすぐに治ったから、今までずっと忘れていた。
「父さんも大慌てで会社早退してずっと半泣きだったし、何でか父さんいるのに叔母さんまでパート抜けて家に来るし。まぁ、他の子と競争で大技挑戦して失敗したって聞いて私は『バカだねー』としか思わなかったけど」
 ああそうだついでに思い出した。あの時私も授業中に父さんからの着信で携帯鳴っちゃってさ、先生に没収されかけたんだった。緩い先生だったから何とかなって良かったわ。
 芋づる式に繰り出される恵実の思い出話にほんの少しまた肩身が狭くなりながら、志信は正面の画面に目を戻した。アカウント名は本名ではないらしく、シンプルに『レフ・S』という名前のみ表示されている。
 レフ。どんな人なんだろう。
 世界中を旅していると言っていた。世界中で、何を食べているんだろう。志信が前に共有した、変なにおいの料理。あれはどこの国の、何という食べ物なんだろう。
「姉ちゃん、この人に返事したい」
 志信すらも忘れていた三年前の怪我を、この人はずっと心配していてくれたのだ。
 間違いなく自分とつながる味覚の持ち主だ。何より、この人と友達になりたいと強く思った。
 恐らく志信の言葉を予想していたのだろう。嫌がる風もなく良いけどさ、と組んでいた腕を解いて恵実は大きく伸びをした。
「ただ、明日にしてくれない? 今日はこれ以上英語考えるの、マジで無理だわ」

3.

『こんばんは、志信。今日は何を食べましたか。こちらは今、ネパールにいます。面白い寺院や建物がたくさんあるよ。食べ物だと、モモという蒸し餃子がおいしかったです。君と共有できていればいいのだけど。そうそう、火曜日に共有していた味は、多分乗り継ぎの香港の空港で食べたオイスターソースの焼きそばだと思います。
今日のこちらははチーズとパスタと、あとクリームの味がしました。マカロニではないかなと思っていますが、当たっている? それでは、良い夢を』
 SNSアプリに送られてきたレフからのメッセージには、丸い餃子のような食べ物と、海外の街並みの風景の写真が付いてきている。その下に追伸、と続く言葉を見て、志信と一緒にメッセージを和訳してくれていた恵実がおっ、と声を上げた。
「駄菓子作戦、喜んでもらえたみたいじゃん。良かったね」
 言われて画面を覗き込むと、駄菓子屋の写真のお礼と共に、自分が感じた味がどの菓子なのか答え合わせをしていきたい、と添えられていた。
 最初にレフのメッセージが来てから、一年弱。SNSの個別メッセージで、姉と二人で頭を悩ませ、またもや英語の先生の力も借りて何とか返した返事はそのまま続き、定期的に共有した味や食べたものの報告をし合うようになっていた。
 初めの話通り、本当に世界中を旅しているレフは、旅先で味を共有した食物の写真を送っては何の料理か教えてくれる。そのメッセージがいつも面白いのに、対するこちらはただの日本の中学生で給食や家でのご飯の話ばかりだから、何かこちらも珍しそうなものを、と思いついたのが駄菓子作戦だった。通学路の途中にある駄菓子屋で見た目の面白いもの、食べていて面白いものを大量に買い、その写真と共に少しずつ食べて共有していくというアイディアだ。いつも部活の帰り道に小腹を満たす程度しか買っていかない志信が籠いっぱいに駄菓子を詰めてレジに来たので、店主のおじさんは目を丸くしていた。
 海外の人に、駄菓子について教えようと思って。詳細を濁して説明すると、「ずいぶんたくさん送るんだねぇ」と言われてしまい、厳密には送らずに自分が食べた味を共有するだけである志信は、まぁ、はいとこれまた曖昧に答えるしかなかった。何度挑戦しても隣の家の塀に貼られた派手なポスターが映り込む店の外見の写真と一緒に送られた駄菓子の山の写真は、狙い通り面白がってもらえたらしい。ほっとしながらメッセージを呼んでいると、「それで」と恵実が返信用の入力ボックスを開いた。
「今度の返事は何を書くの?」
「とりあえずマカロニグラタンで正解ですっていうのと、モモは感じなかったけどスパイスの効いたカレー? みたいなやつはおいしかったっていうのは絶対に入れる」
 味覚共有テレパレットの相手が分かって判明したことは色々ある。その中でも一番の収穫が、スパイスの存在だ。それまで志信が散々言っていた「変なにおいのする味」の正体は、その大半がレフが旅先で食べる料理に入ったスパイスだった。不思議なことに、料理の写真を見てレフに解説をしてもらった後だと、あれほど変だと思っていたにおいがあまり気にならない。最近では少しずつ、スパイスの入った料理の味でも共有したとき「おいしい」とまで感じることも増えてきていた。
「ああ後、あれも入れる。羊肉嫌だって。レフは羊肉食べたことありますかって聞く」
「まーだ言ってんのか、食わず嫌い」
 恵実が呆れた声を上げるが、嫌なものは嫌なのだ。今度校外学習で行く予定の牧場では、昼食にジンギスカンが出るという。何となく臭みがある、というイメージで羊肉に苦手意識を持つ志信にとって、少しばかり憂鬱な行事なのだ。
 結局、志信の要求通りに(少しだけ控えめな表現で)羊肉への憂鬱を加えた返信を送信することになった。SNSの画面を閉じる志信を見ながら、姉が少しだけ意地悪そうな笑みを浮かべる。
「これでまた豆料理事件みたいになったら、めちゃくちゃウケるね」
「うるさいな。さすがに二回目は無いよ」
 レフが中東で食べていたひよこ豆のペーストやコロッケがきっかけで、志信がずっと大嫌いだった豆料理をあっさりと克服することになったのは今でも家族の中で語り草だ。これまで何度もからかわれていた話題をまた振られ、志信は思わず口を尖らせた。
 数日後。
 ネパールの山の写真と共に送られてきたレフからのメッセージには、少し困惑した様子でこんなことが書いてあった。
『志信は羊肉が苦手なのですか? 前に味を共有したクスクスはラム肉入りだったけどおいしかったと言っていたし、それ以外に何度か食べた時も何も言っていなかったから、てっきり平気なのかと思っていました』
 隣で読んでいた恵実が爆笑したのは、言うまでもない。

「気持ちは分かるけど、いつまで泣いてんの」
「……泣いていないし」
「はいはい。じゃあ、いつまでしょげてんの」
 呆れた様子の、それでもいつもより少しだけ柔らかい声の姉の問いには答えずに、志信は「姉ちゃん、チャーシューも付けて」と少しだけ鼻の詰まった声でリクエストした。はいはい、と更に呆れた様子でもう一度返した恵実の指が、「トッピング チャーシュー」と書かれたボタンを押す。
「地区大会で優勝して、県大会の二回戦まで行けたんでしょ? 地区大会準々決勝とか止まりの例年に比べれば、充分すぎると思うけど。負けるのが悔しいにしたって、ちょっと落ち込みすぎじゃない?」
 二人分の食券をカウンターに出してから、先に志信が座っていた二人掛けの座席によっこらせ、と掛け声付きで座る姉に鼻声で年寄りじゃん、と呟くと、向かいの席から軽く頭を小突かれた。
 恵実の言う通りだ。部活の引退試合となる大会で、志信たち三年生の率いる中学は過去最高の成績を収めた。今日の試合で惜しくも逆転負けをして敗退したけれど、本来の予定よりも少し遅い引退試合は、誰が見たって良い試合だっただろう。分かるのだ。分かるのだけれども。
 ぐす、と小さく洟を啜りながら、まだ言葉にするのには少しだけ億劫だった志信は、注文の品が来るまで姉の肩越しに壁に貼られた手書きのメニューをぼんやりと眺めていた。特製豚骨醤油ラーメン、850円。頑固店主のこだわりの、辛味肉そぼろ入り。少し硬めから、硬めの麺がおススメ。
 駅前の商店街にあるラーメン屋は、志信が小学生の頃に店の名前が変わる前から、ずっと同じメニューを看板にし続けている。メニューの横に貼られた紙には、先代が生み出した秘蔵のレシピで、他の店とはひと味違うこだわりのスープなのだというようなことがつらつらと書かれていた。
 おまちどう、と二人の目の前に置かれた丼いっぱいのスープを、レンゲでひと匙掬って口にする。濃厚なスープの温かさが、疲れ切った身体にじんわりと広がっていくのを感じた。
 ――――おいしい。
 他の店との違いなどよく分からないけども、この豚骨醤油のスープがいつでも美味しいことだけは確かだった。なるべくスープに絡むようにしながら、割りばしで持ち上げた麺を啜る。一緒についてきたネギで、少しだけ青味のある味になった少し硬めの麺を噛んで飲み込んでから、ようやくひと心地つけた気がして志信は大きく息を吐いた。
 ちらりと向かいに目をやると、辛い物が好きな恵実は上に盛られた肉そぼろを少しずつ崩しながら食べているところだった。そのまま黙々と二人で食事を進める。麺類は伸びるよりも前に完食したい父の影響か、このラーメン屋に来たときは、いつも最後まで食べてから会話をするのが、志信の家での暗黙の了解だった。
 最後のスープのひと掬いを口にレンゲを置いた時には、湿ったささくれみたいな気持ちはすっかりどこかに消えてしまっていた。
 自分よりも猫舌なせいで進みの遅い姉にご馳走様でした、と両手を合わせた志信の声で、ようやく機嫌が直ったのが分かったのだろう。恵実は目線だけで頷きながら、やっぱりいつもより少し柔らかい声で「うん」とだけ言った。

 その日の晩、布団で横になった枕もとで小さな着信音がした。
 部活の仲間からか、と手に取ったスマホには、一人との通話でしか使っていないメッセージアプリの通知が浮かんでいる。
 急いでロック画面を解除して開くと、包み紙からほんの少しだけ覗く厚手のパンの写真と共に『本日の少し早い夕飯 鯖サンド』というシンプルなメッセージが届いていた。何度か送られてきて気が付いたけど、レフの写真はいつも包み紙ばかりが写っていて、肝心の中身がよく見えない。手で持つタイプの食べ物を撮るのが下手くそなのだ。
 声を立てずに笑った志信の口の中で、食べたことがないのにすっかり馴染んだ、硬めのパンの香りがふわりと広がった。少し遅れて、パンと葉物の味に混ざって、脂身の詰まった焼魚の味がする。
『写真、また中身が見えないよ。でも、おいしいね』
 少しだけ考えてから、分かる範囲の英語で感想を送ると、すぐにメッセージが返ってきた。
『ああ、今ちょうど共有が起きているんだね。もしかして、起こした? 大丈夫?』
『平気。まだ寝ていないから』
 焼いた魚をパンに挟むのって、面白いね。日本じゃ大抵、焼き魚はご飯とお味噌汁と食べるものだから。
 本当はそう伝えたかったけれども、辞書もなしにすぐに英語にして送れる自信があまり無くて、結局『今どこだっけ?』というシンプルな質問だけを送る。
 こんなことなら、もっと早くに独り立ちをすればよかった。
 部活引退したら、もう英語の面倒見ないから。ちゃんと一人でレフにメッセージを送れるようになりな。そう恵実に言われた時は突き放された気分になったけど、こうして一人でアルファベットを打ちこんでいると、その言葉の正しさが身に染みる。
『まだトルコ。今はイスタンブールだよ。大きい橋があってね、そこの名物で屋台がいくつかあるんだ。すぐそこで釣って焼いているそうだよ』
 返事の英語を考えていると、ぽこん、と間抜けた通知音と立ててチャットにもう一つ写真が送られてきた。画面いっぱいに広がる水路が、夕日を照り返してキラキラ輝いていた。その上を貫くように、話の通りに大きな橋が奥に向かって伸びている。人でごった返す橋の手前で、いくつかの屋台が何かを並べて焼いていた。
 味付けは薄い塩味くらいしか感じないし、パンだって舌で感じる限りではパサパサとしている。写真の中で見る限りでは、スーパーで売っていそうな袋に入っていたから、特に良いパンではないのだろう。
 普通のパンに、焼いた魚と少しのレタスを挟んだだけ。とてもシンプルな料理のはずなのに、獲れたての魚のせいだろうか。舌の上で感じるサンドイッチは、少しも薄味に感じない。焼き魚の味だけで充分おいしくて、かぶりつけないのが残念なくらいだった。
『トルコはあれも美味しかった。何かよく分からない、小さいつぶつぶと蜂蜜の入ったヨーグルト』
『一昨日くらいに食べた、ケシの実入りのやつかな。そっちを共有していたのかぁ』
 こっちのヨーグルトは粘り気があってかためだから、乗せたお皿を逆さにしてもすぐには落ちないんだよ。お店の人が売りながらパフォーマンスをしているんだ。
 そんな解説を聞きながら、メッセージの履歴を遡る。送られてきた写真はヨーグルトではなくて、チョコレートのかかった四角いお菓子だった。
 ――――サフランボルです。ここでしか買えない、チョコレートがけのロクムです。
 時代を感じる、色彩の少ない街並みの写真の下に続く解説。朝一番にメッセージを見た志信はロクムという言葉をネットで検索してみたが、結局味が訪れることが無かったから、どんな味かは分からないままだった。
『今まで食べたロクムの中で一番おいしかったから、共有出来たらいいなと思ったんだけども……残念だな。ああでも、歯ごたえがないと少し物足りないかも』
 半分独り言みたいな言葉の後、こちらが返事を打つより早く、続けてぽこん、とメッセージが浮かんできた。
『志信は今日は何を食べた? こっちの昼前に、ヌードルスープみたいな味がしたけど』
『ラーメンだよ。前に言っていた、近所のよく行く店』
 レフに倣って画像を送ろうとした志信は、スマホの写真フォルダをタップしてから、写真を撮らずに食べてしまったことに気が付いた。前に行った時のは、と記憶と共に一覧を遡るが、そういえばあの店で写真を撮ったことが一度もない。
 仕方なくメッセージの画面に戻ると、『なるほど、あの味が。美味しかった』という返事に続いて、『もう寝たかな?』とちょうどレフが尋ねてきたところだった。しばらく志信の返事が無かったから、時差を気にしたのだろう。レフは志信の生活リズムを崩すことをひどく心配する。直接体に入るわけじゃないから気にしなくて良いと何度も言っているのに、志信がまだ子供だからと、付き合い以外では酒すら飲もうとしなかった。元々そんなに飲む方じゃないみたいだけど。
『まだ平気。それより、おいしかったでしょ』
『うん、落ち込んだ時にはこれを食べると元気が出る、と前に言っていたのが何となく分かった』
 ――――まぁ、食べ始めるときは落ち込んでいたせいで、今回も写真を取り損ねた訳ですが。
 などとは言うのも格好悪いので、代わりにウェブで店のURLを探して貼り付ける。学校の情報の授業で先生が口を酸っぱくして言っていた「住所が分かるようなものをネットの知り合いに教えてはいけません」という言葉を思い出して一瞬指が止まったが、構わず送信ボタンを押した。ただのネットの知り合いじゃないし。それに、いつかレフにも本物を食べてみてほしいし。
『写真撮り忘れちゃったけど、このウェブサイトの一番上の画像のやつだよ』
『おー、これが。この黒い紙みたいなのは何? 飾り?』
『海苔だよ。えーと、乾燥した海藻?』
『ああ、寿司ロールにたまに巻いてあるやつか。こんな風にも使うんだね』
 世界中を回って、他に珍しい食べ物なんて味覚共有したものも含めて山ほど知っているはずなのに、レフは志信の身近な食べ物も同じように面白がって、楽しんでくれる。
『そういえば、たまに日本食レストランのメニューで似たような写真を見かけるなぁ。もっと茶色っぽいスープだけど』
『醤油ラーメンかな。スープの味が何種類かあるんだよ。今日食べたのは……えーと、ポークが入っているから。海外の国だと難しいのかも』
 国や地域で食べられない食材があることも、そのルールの理由も、志信はクラスの中でかなり詳しい方だと自負している。行く先々の写真と共に、レフが教えてくれたからだ。
『なるほど。いつもは志信と共有するから入ったことなかったけど、今度食べてみようかな』
味覚共有テレパレットできなかったら、どっちがおいしかったか教えてよ』
 そんなやり取りをしているうちに、鯖サンドの後味はいつの間にかどこかに行ってしまった。代わりに、少しずつ眠気が近付いてくるのを感じる。英語を考える時間が徐々に長くなっていき、レフを待たせているかなとは思うのに、意識はどんどん沈んでいく。考えてみれば、今日は試合であれだけ動いていたのだ。帰りのバスでも寝たけれども、それでも疲れているのには変わらない。スマホが手から落ちる度に目が覚めて、返事を考えている間にまた瞼が重くなっていく。
 ――――あ、まずい。
 返事の途中で、間違って送っちゃった気がする。
 そう思いながらも志信の意識は、確かめる前に眠りの中に落ちて行った。 

 

「誕生日おめでとう、志信」
「ありがと、レフ」
 通話越しに祝われた後、チャット画面の方に写真が送られてくる。スマホをタップして表示されたのは、見るだけでも濃厚な味がしてきそうなチョコレートケーキだ。滑らかに均された表面のソースをなるだけ崩さないよう控えめに置かれたプレートには、『ハッピーバースデー シノブ!』の文字。その横にはやっぱり控えめに、火のついた青と白の縞模様の蝋燭が立てられている。
「今年は地元の店のだよ。前も買ったことある店だから、もしかしたらあまり変わり映えしないかもしれないけど」
「何だっけ……どこか東ヨーロッパ当たりの移民の人がやっているって言っていたやつ? あそこのケーキ、おいしいよね」
「そうそう、好きなら良かった」
 互いの誕生日にこうしてケーキを食べるようになって、もう五年近くになる。
 連絡を取り始めた初めの一年は、特に何もせずチャットで誕生日を祝うだけで終わった。変化のきっかけは、二年目の志信の誕生日に、レフがサプライズで味覚共有テレパレットを使ってケーキの味を伝えて祝ってくれたことだ。
 ちょっとした思い付きだったんだけどね、うまくいってよかった。そうレフは言っていたけれど、最初に誕生日ケーキの写真が送られてきて、その日感じた甘くて柔らかい味と結びついた時には驚きと感動と喜びを一人で持て余して、志信は数日の間ずっと家族にすごい、すごいよねと自慢し続けていた。あまりにもはしゃぎ続けていたら、当時はまだ家にいた恵実が「そんなに嬉しいなら、レフの誕生日に自分もやれば?」と返してきて、それ以来、互いの誕生日にケーキを食べるのが恒例の行事になっていった。もちろん、味を共有するタイミングは自分たちでも分からないから、時にはケーキの写真だけ眺めて感想を聞いて終わるだけのこともある。それでも、こうして味と写真をシェアする時間は、家族や学校の友達に祝われるとのはまた違う嬉しさがあった。
「あれ、もしかして今食べている?」
「うん、半分くらい。味は来ていない?」
「そうっぽい。残念、あそこのケーキ久々に食べられると思ったのに」
 思った以上にがっかりした声が出てしまった。それを聞いたレフの、控えめな笑い声が小さい音量で返ってくる。よくよく聞くと、「それならまた誕生日以外に買おうか」という提案の後ろで、微かにフォークの音がしていた。
「ううーん……いや、大丈夫! 誕生日の特別に取っておきたいから、また来年お願いします」
 恵実が面倒を見なくなってからしばらくは苦戦していた一人でのチャットも、今ではほとんど困らずに打つことが出来る。最近ではこうして時間を合わせて、通話で話すことも少しずつ増えてきた。おかげさまで志信の英語は、読み書きだけでなくリスニングもめきめきと成績を伸ばしている。この調子なら、行きたい大学も狙えそうだ。
「日本はもう次の日になっているよね。家でのお祝いはどうだった?」
「焼肉に連れて行ってもらった。ちょっと良い肉も注文してくれてさ。おいしかったけど、父さんがこれ食べて受験も頑張ってって。誕生日にそんなこと思い出させるってひどくない?」
 思い出して少しだけ肩を落としながら、今度のレフの誕生日はどんなケーキにしようと考える。中学時代は父がレフの分として仕事帰りに買って来てくれていた。高校からは部活には入らずバイトを始めたから、自分で稼いだ給料で買っている。自分で選ぶようになって知ったが、それなりに良いケーキというのは高校生にとっては結構高い。それでもこの分は妥協したくないからと、志信は毎年きちんとリサーチをして奮発していた。
「そうか、志信も今年は大学の試験があるのかぁ。日本は何月に試験があるんだっけ?」
「一月とか、二月……」
「あと二ケ月もないんだ。もうひと踏ん張りだね、頑張れ!」
 レフの笑いながらの激励に、力なくありがとうと返す。自分で話し始めた内容とはいえ、あまり思い出したくない話題にうめき声を上げそうだ。
「ということは、今日で……ああ、昨日か。昨日でいくつになるんだっけ?」
「十八」
「十八?」おうむ返しに聞き返すと、レフは「十八かぁ」としみじみ呟いた。この前久々に家に来た叔母と同じような反応に、思わず志信は少しだけ笑ってしまう。
「大きくなったね。あっという間にもう大人の仲間入りだ」
「まだ大人じゃないよ」
 いよいよ親戚の人みたいなことを言い始めたレフに、志信は今度こそ声を上げて笑った。選挙権はあるけど日本ではお酒は飲めないし、成人式だってまだだ。高校だって、これから卒業するのに。
 何言っているのと笑う志信に、レフはやけに大真面目に「いや」と返した。
「もう、充分に大人だよ」
 これからは、今まで以上にたくさんのことを自分で考えて、たくさんのことを決めることになる。見える世界も、どんどん広がっていくだろう。
「改めて、誕生日おめでとう、志信。君のこれからの生活が、実り豊かなものであることを願っている」
 こういう時、レフは自分よりもずっと大人だったと思い出す。いつになく真面目な言葉に、少しだけ背筋を伸ばして志信は「ありがとう」と返した。
「……ごめん、誕生日に説教くさくなっちゃったね」
 いつもの柔らかい声に戻ったレフが照れ臭そうに笑うので、あっという間に少しばかりの緊張がほどけた志信もつられて笑う。
 その後は、日本の受験システムに興味を持ったレフにあれこれ質問を受けた他、レフの国の大学について教えてもらって通話はお開きとなった。結局最後までケーキの味がしなかったのは残念だけど、しばらくしてから感じたコーヒーの味が香り豊かで美味しかったから、その感想をチャットで伝えておく。
 返ってきた笑顔マークの絵文字を見ながら、そういえばいつの間にかレフもコーヒーを飲むようになったなと考えて数秒の後、自分がコーヒーを飲めるようになったタイミングと重なることに気が付いた。
 後二年経てば、ケーキだけじゃなくて一緒にお酒も飲めるようになったりするのかな。未だに志信に遠慮してあまり酒を飲もうとしないレフだけど、その時は声をかけてみようか。
 そんなことをあれこれ考えながら、明日の模試という現実に引き戻されていく。

レフからの連絡が途絶えたのは、それから一か月後のことだった。

 

 4.

レフからのメッセージが来ない。
 味覚共有テレパレットで共有した味の話も、旅先の面白いものや綺麗な光景の写真も送られてこない。
 志信の方から送ったメッセージは、ここ数日分全て未読unreadのマークがついたままだ。
 最後にレフから連絡が来たときは、また旅行に行くと言っていた。行先は未定。空港でフライトの掲示板を見てから、どこに行くか決めるんだと話していて、志信はそれに素敵だねと返したのだ。旅慣れたレフらしい、気ままな旅行だ。じゃあ、着いたら感じた味でどこら辺に行ったか当てるからさ、それまで行先言わないでいてよ。そんな話をして以降、レフからのメッセージはまだ来ない。
 それでも初めはそれほど深刻には捉えてなかった。中学時代、志信の部活の合宿先が電波の全く届かない山奥で、一週間ほど連絡が途絶えてしまったことがある。反対に、モンゴルに行ったレフが二日ほど音信不通になったこともあった。後で聞いたら、遊牧民の人と一緒に寝泊まりをしていて、連絡するタイミングがうまくつかめなかったらしい。意外と砂漠のど真ん中でも携帯が繋がることもあるとは聞いていたけれど、また同じような理由でレフの連絡が途絶えるのは何も不思議ではない。志信自身もちょうど受験の真っただ中、あまり返事が出来ない状態だったから、ついそのままにしていた。
 そこから二週間ほど経ち、大丈夫だろうか、とようやく少しだけ心配になった。
 電波の全くない場所に、珍しく長く滞在しているのだろうか。あるいは、どこかでトラブルになっていたりしないだろうか。例えば、旅先でスマホをなくしたとか。理由はあれこれ思いつくものの、返事が来ない限りは想像の域を出ないままだ。未読マークの付いた志信からのメッセージは、十七件になっていた。
 それでも味覚共有テレパレットがあったから、そこまでひどく心配はしていなかった。定期的に志信の舌に訪れる味が、レフの無事を知らせてくれる。いつもよりも少しだけ頻度が下がってはいるが、味覚共有のタイミングに波があるのはいつものことだ。食べているものも普通だから、入院していることもないだろう。
 ただ、共有した味の後にメッセージのない生活は、少しばかり味気ない。
 今の味はどこの料理だろう。今日自分が食べたもので、レフが共有したものはあっただろうか。今日受けた大学の入試試験、国語の文章題でレフの旅していた場所が出てきた話もしたかったのに。
 半ば呑気にそんなことを思っていた志信のスマホに一件のメッセージが来たのは、受験も後半戦に差し掛かった日の夜だった。
 それまで格闘していた赤本を閉じて一つ伸びをしてから、スマホを手に取った志信は珍しい、と瞬きをした。学校の友人たちとは使っていないアプリのアイコンの右上に、通知のマークが浮かんでいる。初めにレフと連絡を取り始めた時に使っていたSNSだった。ここ数年はアプリ側の問題の他、チャットがもっと使いやすいという理由で他のアプリに移っていたから、このサービスでやり取りをするのはずいぶん久しぶりだ。
 もしかして、今使っているアプリのパスワードを忘れたとか? らしくないとは思いつつ、タップを一つして久々にアプリを起動する。
 アップデートを数回要求された後、ようやく開けたメッセージはレフからではなかった。ジョシュア何とか、といかにも本名らしい名前の横に、友人だろう人と肩を組んで笑う写真のアイコンが浮かんでいる。
 知らない人からの連絡に落胆と警戒をしつつも、人違いで送られてきた可能性もあるからと念のためにメッセージを開封する。
 内容を読み込んだアプリがまず表示したのは、本文の上に添付された写真付きの画像と、その横に大きく書かれた『私たちの友達を探すために力を貸してください』の文字。
 写真の中の痩せた人物は、どこかのイベント会場らしき場所の段差に腰かけて、穏やかで控えめな笑みを浮かべている。
 あまり写真に写るのが好きではないらしく、普段送ってくる写真は食べ物や風景ばかりだった。だが、志信にねだられたり旅先で親切な人に撮ってもらったりしたからと、ほんの数回だけ送ってもらったことがある。
 だから志信には、例え画像に書かれた名前が見知ったハンドルネームではなくても、この画像が誰を指しているのかすぐにピンときた。
 それでもすぐには信じられず、一度画面を閉じると今使っているアプリを起動する。未読マークのままのチャット欄からすぐに画像欄に飛んだ。スクロール、スクロール。あの写真を送ってくれたのはどういう時だったっけ。そしてそれはいつだっけ。必死に記憶を辿りながら指を動かし、やっと見つけた鍾乳洞の前で少し困ったように笑うレフの写真を見つける。顔の部分をアップにしてまじまじと見てから、もう一度先ほどの画像の写真と見比べてみる。
 間違いない。レフだ。
 画像の下には、本文が続いていた。スクロールして内容を確かめる指は震えていないが、顔から血の気がどんどん引いていくのがはっきりと分かる。本文は、突然の連絡を詫びる言葉の他、アプリでレフの友達として繋がっている人全員にこのメッセージを送っていること、画像に書かれているよりももう少し詳しい説明に続いて、家族も自分たち心配しているから、どうか少しでも分かることがあれば教えてほしいという言葉でテンプレートのメッセージが締めくくられた後、追伸で送られてきただろう志信個人宛の連絡が続いていた。
 ――――こんにちは、シノブ。初めての連絡がこんなことになって残念です。君のことは、《レフ》から前に聞いていました。
 レフの長年の友人だというジョシュアは、レフと志信が味覚共有テレパレットのペアであることも知っていたという。いつも君のことを楽しそうに話していたよ、とも言われたけれど、こんな状況では少しも喜べない。
 ジョシュアは志信には何か連絡が来ていないか、例え来ていなくても、レフが生きているかどうか分かるだろうかと尋ねてきていた。
 ――――一緒に探している仲間は、誘拐や事件に巻き込まれたんじゃないかという方を心配しているけど、僕はそうは思わない。
 むしろ、レフが自ら命を絶っているのではないかと心配しているという。またもや信じられないような言葉に、志信は頭がくらくらするのを感じた。
 レフが? あの旅好きで、色々なところで面白いものやおいしいものについて教えてくれる、穏やかな話し声のレフが? 自殺?
 そんな話、聞いたことがない。
 いや、そもそもレフから悩みを聞いたことがあっただろうか。志信はテストが嫌だとか、気になる子がクラスの人気者と付き合っていたとか、姉とケンカしてしまったとか、あれこれ話していたけれど。
 そういえば、自分はレフのことをどれだけ知っているんだろう。共有する味を通して話したことの他に、自分が知っていることがあっただろうか。
 ぐるぐると思考が歩き回り始めた志信の混乱などお構いなしに、既に送られてきているメッセージは「君には知る権利があると思うから」とレフの過去について、詳細は伏せつつ話し始めた。子供の頃から家族との関係がうまくいっていなかったこと。そのせいもあって、ジョシュアたち数人を除いては周囲からの理解が得られにくかったこと。大きくなるにつれて段々と塞ぎこんでいったこと。自分が消えることへの希望が大きくなり、反対に死ぬことへのハードルが下がっていったこと。
 ――――昔は何度も危ないことがあったけど、ここ数年は、ずっと落ち着いていたんだ。あっちこっち旅行に行くときも、楽しそうだったし。だから僕たちも、まさかと思っていた。
 警察はまだ本腰を入れて動いてくれていないけど、せめて友達が生きているかどうかだけでも、君の体質で分からないだろうか。
 そう言って、今度こそ締めくくられたジョシュアからのメッセージを、志信はしばらくぼんやりと眺めることしか出来なかった。
 レフが、自殺しているかもしれない。
 そんなことを考えたことなんて一度もなくて、これまで呑気にどうしたのだろうと考えていた自分を思わず殴りたくなった。何も考えずに、いつも使っているチャットアプリを開いて通話ボタンを押す。
 何度呼び出し音を鳴らしても、やっぱりレフは出なかった。
 翌日の入試は散々な結果だった。前半の科目はほとんど手を動かせず、気が付けばぼんやりとレフのやり取りを思い返していた。どこかで気付けるタイミングがあったんじゃないか。何かヒントはあったんじゃないか。必死に記憶を遡っても、何も心当たりが浮かばない。
 試験科目も後半になり、小論文の残り時間が三十分を切った頃だった。
 ふわりと、志信の口の中いっぱいに何かが広がった。
 馴染んでいるはずのその感覚に驚いて、堂々巡りをしていた思考が引き戻される。
 口内に広がる味は、少し酸味のあるソースのかかったサラダのようだった。瑞々しいレタスの香りと、舌に乗った小さな半円状の何か。味からするに、きっとミニトマトだろう。
 ――――レフ。
 死んでいない。生きている。生きて、何かを食べている。
 頭に入ってきていてもほとんど理解が出来ていなかった、ジョシュアからのメッセージが不意に思い出された。せめて友達が生きているかだけでも、君の体質で分からないだろうか。
 分かる。当然だ。
 そのせいで、何も知らない馬鹿な自分は、ジョシュアからの連絡が来るまで呑気にしていたのだ。
 それまで目でなぞるだけだった問題冊子の文章が、ようやくちゃんと頭に入り始めた。短時間で書き上げた論文はひどい出来だったけど、今日一日では一番ましな成績だろう。休み時間に、SNSのアプリを開き、読んだきりになっていたジョシュアへとシンプルなメッセージを送った。
 ――――さっき、味を共有しました。レフはまだ生きて、どこかでご飯を食べています。
 試験の帰り道、当初の約束通りの場所で落ち合った恵実は、久々に会った志信の顔を見るなり「あんたひどい顔しているけど大丈夫? そんなに勉強していたの?」と尋ねてきた。どうやら昨日あれこれ考えて眠つけなかったせいで、ひどい隈ができていたらしい。
 一瞬、姉にレフのことを話そうかと考えて、志信はすぐに考え直した。代わりに何を食べたい、と繁華街を歩いていく姉を呼び止める。
「姉ちゃん、近くに本場のエスニック料理の店とか知らない?」
 味覚共有テレパレットでレフの存在が分かるなら、当然、向こうにだって志信の存在は伝わっている。
 だったら、志信にはもう一つ出来ることがあるはずだ。

買い物を頼まれたから、いつものバターではなくて発酵バターと書いてあるものを買った。
 モロッコでレフが教えてくれたそれは、志信の見知ったバターとは違い、ほんの微かな酸味がある。現地の薄いパンによく合っていておいしいのだと笑っていた。いつもより高いバターを差し出しながら、父には間違えたと言い張った。
 試験の帰り道にコンビニに立ち寄ったから、切手を買うついでにレフが気に入っていた中華まんを頼んだ。部活帰り、友達と通学路の坂道を上る途中で買い食いをしていた頃、レフが面白がるからと期間限定の味が出る度に試していた。お陰で志信は、今でも一部の友人に新しい物好きだと思われている。
 レフの誕生日になったから、ケーキを買って帰った。今年は新しい店じゃなくて、レフが前に好きだと言っていた味の店にした。少し高いケーキの中でも更に高めの、フルーツのたっぷり乗ったタルトのケーキだ。中学の時、父が仕事帰りに買ってきてくれたから知らなかったけど、思ったよりも電車を乗り継いで行く必要があった。構わなかった。それよりも、値段に釣り合うケーキの味が、ちゃんと共有されているかどうかの方が心配だった。
 久しぶりに駄菓子屋に立ち寄った。おじさんは志信のことも覚えていて、まぁまぁ久しぶりだぁねぇと掠れた声で迎えてくれた。レフが面白がっていた見た目や味の菓子を大量に買う。
 その量を見たおじさんがまた海外の友達にでも送るのかいと尋ねてきたので、前よりも自信をもってそうですと返した。ケーキを買った後だと、薄いビニール袋に詰められた駄菓子はずいぶんと安く感じられた。買った駄菓子は前のように一度にたくさん食べることはせず、毎日少しずつ食べていった。
 一つひとつ、思い出す限り、実行できる限りの範囲で、志信はレフとの思い出を辿った。
 アプリでメッセージを送れない代わりに、食べ物を選んでいく。どの味が共有されているのか分からないけれども、時々向こうの味が感じられる以上、こちらで食べたものもどれかは届いているはずだ。
 レフ、今どこにいるの。何しているの、何を食べているの。
 本当は心配しているよ、と言葉で送りたかった。
 それも叶わないから、せめて共有した味で、そのことを伝えたいと思った。
 それが無理なら、志信がレフのことを考えたということだけでも伝われば良い。

受験も終わりに近づいた日。
 赤本の丸付けをしている最中、口の裏に慣れた熱を感じた志信は小さく安堵の息を吐いた。
 良かった。まだ、レフはいる。
 生きていて、ちゃんとご飯を食べている。
 ジョシュアからのメッセージを受け取って以来、しばらく味の共有が起こらないだけで落ち着かなくなる日々が続いていた。一日跨ぐと、もう居ても立っても居られなくなる。そして何かしらの味を共有すると、ようやく胸を撫でおろしてジョシュアに報告する。物足りない、味気ないなどと言っていた、何のメッセージも来ない味の訪れが、今はとにかく待ち遠しかった。

小学校の時と違い、今ではメッセージが無くても何の味か分かる物も多かった。この味の広がり方と熱は、きっとスープか何かだろう。のたりと広がる後味は、脂身が多くて濃厚だから、あまり飲むと健康には良くなさそうだ。続いてつるりとした、少し硬い細い束が舌の上を通り過ぎる。
 おや、と思ったのは、そこに少し青味のある香りが加わった時だった。
 何だろう。いつも以上に、覚えのある味だ。
 レフが今まで食べていたものというよりも、むしろ志信自身の食べていたものに近い。
 そう思っている間に、再度スープの味が広がった。今度は少し辛味のある、ほろほろとしたものが混ざっている。
 頑固店主のこだわりの、辛味肉そぼろ入り。いつかぼんやりと眺めていた手書きの張り紙の文字が脳を横切る。
 落ち込んだ時はこれを食べるんだと、そう話したのはいつだっけ。
 慌てて立ち上がった志信は、ジャージを履き替えるのも忘れて部屋を飛び出した。
 玄関で上着だけ掴んで数歩踏み出してから、鍵のことを思い出して急いで踵を返す。玄関ラックに置きっぱなしだった鍵を手に取り回す時間すら惜しく、もどかしい。いつもなら一瞬で終わる簡単なことが、こんなに長く面倒に感じるなんて思わなかった。
 やっと鍵を閉めて走り出す。数ブロック走ったところで、今度は自転車のことが頭に浮かんだが、すぐに頭を振ってスピードを上げた。取りに戻っている時間なんてない。
 部活帰りに皆で買い食いをした坂道を下り、写真をうまく撮れなくて苦戦した駄菓子屋の前を通り過ぎる。春休みだから、少し先の通りにある小学校には人がほとんどいないらしく、いつもの歓声が聞こえない。晴れて日差しは温かいけど、三月の空気はやっぱりまだ刺すような冷たさが残っている。冷たい空気が入る口の中で、それとは違う温かい味がする度に、気持ちばかりが前へと急いでもどかしかった。
 近道だからと住宅街を突っ切って、ようやく駅前の商店街の向かいの通りに出る。車側の信号は丁度青に切り替わったところだった。舌打ちをしたくなるのを堪えて、意味もなく歩行者用のボタンを何度も押してしまう。
 青信号がようやく黄色になり、赤になり、目の前を走る車がいなくなった瞬間、歩道の信号が切り替わるのも待てずにもう一度走り出した。
 人にぶつからないようにと、先ほどよりは少しスピードを落として進む。
 商店街の半分を通り過ぎたところで、前方の目当ての店から人が出てくるのが見えた。
 最近では珍しくはなくなったけど、それでも観光地ではないこの駅前では、まだ少しばかり目立つ異国風の雰囲気。
 いつか写真で見た時の柔らかい笑顔はなく、どこか疲れて、草臥れた横顔をしているけど、間違いない。
 店を出たその人は、しばらくぼんやりとした様子で立ち尽くしていた。その間にいつも閉まっている隣の店まで追いつくと、やがて当てもなさそうに足を動かし始めた姿に向かって、志信は声を張り上げた。
「レフ!」
思ったよりも響いた声に、通りすがりの人が振り返る気配がするのも気にせず、志信はじっと前を見据える。聞き覚えのあるだろう声に立ち止まった相手は、数回瞬きをした後にゆっくりとこちらを振り向いた。
 シャッターの降りた店を挟んで向かい合ったレフは、写真で見た通りに痩せていて、そして思ったよりも背が高かった。
 走り疲れた心臓が、今更耳元で大きな音を立て始めたのを聞きながら、そういえば最後に自分の写真を送ったのはいつだっけ、とどうでもいいことが頭を過る。ここ数年で背が伸びたから、もしかしたら分からないかも。浮かびかけた不安はしかし、すぐに消えた。
 息を切らして自分を呼び止める、この国の高校生なんて、多分レフにとって心当たりは一人しかいないだろう。
 ああ、それにしても走りすぎて酸素が足りない。部活を引退して以来、こんなに全力で走ったことなんてなかった。ようやく会えたレフに言いたいことはたくさんあるのに、息継ぎに必死で全然声が出せそうにないし、そもそも頭が回らない。
 黙り込んで向かい合う二人の沈黙を破ったのは、中々息の整わない志信に「何か飲み物は要る?」と声を掛けたレフの方だった。

 

商店街を抜けてすぐのコンビニで買った飲み物を片手に、公園のベンチに腰掛ける。
レフが買ってくれたスポーツドリンクのキャップを捻って開ける。中身の三分の一程を一気に飲み干すと、整いかけた息と心臓がやっと完全に落ち着いた気がした。
「もう平気?」
「うん、ありがとう。結局お金出させちゃってごめん」
「気にしないで、君のせいじゃないから」
 通話の時よりも少しだけ低く聞こえるレフの声は、志信がこの気候にしては薄着なのも手ぶらなのも、全て分かっているようだった。
 元々自分の分はちゃんと払うつもりだった志信は、店内で自分が出すと言い張るレフを振り切りさっさとレジに行ったのだ。だが、気だるげな店員が商品をスキャンした瞬間、鍵以外は何もかも置いて飛び出してきたことを思い出した。固まる志信に全てを察したのだろう。追いかけてきたレフが自分の分と合わせて千円札を出してくれたおかげで、こうして飲み物を手にできている。一連のやり取りを思い出した志信は大きくため息を吐いた。
 自分の間抜けさに志信が一人うな垂れて気まずくなっている中、沈黙を破ったのはやはりレフの方だった。
「君の教えてくれた店、おいしかったよ」
 ぽつりと呟く声に顔を上げると、レフはこちらを見ずに自分用に買ったグリーンティのペットボトルを手で弄んでいた。伏せられた目は、ラベルに書かれた読めない文字をなぞっているようで、恐らく何も見ていない。
「しばらく連絡していなくて、ごめん」
 謝らないで、と言うのも、本当だよ、と言うのも何だか違う気がした志信は、しばらく迷ってからようやく「レフの友達から、いなくなったって聞いた」とだけ返した。
うん、と頷く声はとても小さい。こうして隣に座っておらず、通話で話していた時なら聞き取れなかったかもしれない。
「元々ね、三十になったら死のうと思いながら生きていたんだ。それまでも死のう、と思ったことは何度かあったんだけど、まだ早いって周りに止められていたから」
 それなら一通り大人として過ごしてから、区切りのある年齢でこの世を去ろう。生きていたってしょうがないけど、周りが言うのなら「まだ早い」歳じゃなくなるまでは待とう。
 それまでは世界中の行ってみたい場所を巡って、心残りを少しずつ消していこう。そう思いながら生きていたという。
 カメラ付きで話したことはほとんど無かったから、ぽつりぽつりと話すレフの声に合わせて口元が動くのが、何だか少し不思議な気がする。
「けど、三十になる手前で味覚共有テレパレットになったんだ」
 春休みの公園は、暇を持て余した小学生たちで賑わっていた。ちょうど志信が、あの子たち位の年齢の時の話だ。そう考えると、ずいぶん前のことのような気がする。それとは逆に、まだまだ最近のことのような気もする。
「初めて知り合った時に話したから覚えているかもしれないけど、最初に感じた味が、君が怪我をした時の血の味だったんだ。初めは知らない味なんか気にせず三十で死ぬ気だったけど、味覚共有のことを知って、あのものすごい血も相手のものかもしれないと思ったら、何だかすごく気になってしまって」
 その後も色々な味がしたから、寝たきりなどではなくそれなりに元気には暮らしているのだろうと想像はついたという。
 それでも本当に大丈夫だったか、後遺症や傷などは残っていないか。知らないままで死ぬのは何となく後味が悪い気がして、相手を知るまではと先送りにしてしまった。
「それで掲示板であちこち探して、やっと見つけたと思ったら、今度はその相手がまさか子供だとは思わなくて」
 自分のことを棚に上げて、会ったこともない子供に自分の死を悟らせることに罪悪感を覚えたレフは、その子が大きくなるまで死ぬのを諦めた。
「臆病なんだよ、私は。自分は生きてもしょうがないけれど、そんな自分のせいで子供が人の死を知ってしまうのは嫌だったんだ」
 その臆病さゆえに予定が狂ってしまったのだと小さく自嘲してみせるレフの口元をぼんやりと見つめながら、この人が初めに死のうと思ったのは何歳なのだろうと志信は考えた。
「だから、志信が十八歳になって、もうすぐ大学生になると聞いた時に、いよいよ潮時だと思ったんだ」
 日本の成人はまだ先だと聞いていたけれど、国によっては大人扱いされる歳。高校も卒業するし、区切りも良い。
「それで、全部から離れて今度こそ一人で死ぬことにしようと決めた。連絡も絶って、どこか遠い、知り合いのいないところに行って」
 春先の晴れた日とはいえ、空気はまだひんやりと冷たい。それでもうっすらと水滴の張り始めたペットボトルのラベルを指でなぞりながら俯くレフの眼は、やっぱり成分表示なんか見てはいない。
 レフのその判断を、間違っているとか正しいとか言えないことは、死のうと思ったことのない志信でも何となく分かる。
 けれどもやっぱり、いざ本人からそう聞くと、何だかとても寂しくて、志信もつられて思わず目を伏せた。舗装されていない公園の地面を、小さい蟻の列が通り過ぎていくのが目に入る。
「でも、駄目だったんだ」
 相変わらず零すような小さな声が、公園の子供たちの喧騒よりもはっきりと耳に聞こえて、志信は思わず目を見開いた。
「どこにいても、味覚共有テレパレットが起きるから。その度に覚えのある味が追いかけてきてね」
 他の全部は置いていくことが出来たのに、口にしていないはずの味と共に思い出される志信の存在が、どうあがいたって離れてくれない。何も食べる気が起きなくても、味覚が共有されれば腹は減ってしまって、それで結局何かを食べてまた生き延びてしまう。
「だからいっそ、最後に志信の食べていたものを自分でも食べてから死のうかと思って、日本に来てみたんだ」
 味覚共有が始まる前、昔京都に一回行ったきりだったしね。そう付け加えながら、レフはようやく手にしたボトルのキャップを捻る。が、特に飲む気はないらしく、すぐにまた反対方向に閉めてしまった。代わりに大きく息を一つ吐くと、蓋から離した手で目を覆ってしまった。
 レフはそのまましばらく黙りこんでいた。志信も黙って、項垂れるレフの襟元をじっと見ていた。
 やがて顔を覆ったレフの、唯一見える口元がそれでね、と小さく歪んだ。
「前に教えてもらった、唯一場所が分かる店に入ったんだ。そうしたら、志信を通して共有した時よりもずっと美味しくって」
 口元と同じように歪んだ声は、笑い出しそうなようにも、泣き出しそうなようにも聞こえた。
「それで今度は、志信に今まで自分が食べた美味しいものを食べてみてほしいなって、そう思ってしまった。駄目だね、私は。また、死ねなくなってしまったんだ」
 覆っていた手を外して顔を上げたレフが、困ったように笑ってこちらを見ている。
記憶にある、写真で見たあの穏やかな笑顔を少しだけ思い出しながら、「じゃあさ」と志信は久々に口を開いた。
「大学入ったら、休みの日に一緒に旅行に行こうよ」
 口約束になんかする気はない。
 バイトも続けよう。旅行代もちゃんと稼ごう。レフは足場の悪い遺跡にもよく行っていたから、体力もまたつけないといけない。
「それで美味しいお店とか、面白い場所とか、色々案内してよ。行ったことのある場所ばっかりじゃレフも飽きるかもしれないからさ、二人で新しい場所に行ってみても良いし」
 遠く離れた場所でそれぞれの味を共有するだけじゃなくて、一緒に何かを味わうのだって、きっとこの友人となら楽しいはずだ。
 味以外の経験だって、きっと。
 困っていたような笑顔のまま、更に眉を下げて「そうだね」と笑ったレフは、今度こそ手元のボトルを開けて一口飲むと苦い、と呟いた。それと同時に、志信の口内に馴染みのある渋みと、少しだけ甘い後味が広がっていく。
 あまりにも飲み慣れた、ペットボトルの緑茶の味だった。

 

<参考文献>
『「おいしさ」の科学 素材の秘密・味わいを生み出す技術』佐藤成美(2018)
『美味しさの脳科学 匂いが味わいを決めている』ゴードン・M・シェファード/訳:小松淳子
『新装版 海を渡った故郷の味』認定NPO法人難民支援協会 編著(2020)

文字数:34922

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