糠を継ぐもの

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梗 概

糠を継ぐもの

完全栄養食を食べていれば死ぬことはない。だが味がしない。青年が漂流を始めてもう何年という月日が経っていた。

永遠不変の宇宙、退屈な船内、孤独。冷凍睡眠装置と光速ジェット推進は壊れてしまった。することといえば味気ない百年分の完全栄養食を毎日一つ食べて、それから救難信号に反応がないか確認するだけ。繰り返す虚無感に死を選ぶことさえ考える日々。彼は精神を病み不眠になっていた。
 ある日も眠れず窓の外を見た。小惑星が隣をゆっくりと通過していた。この宙域で土のある天体は奇跡といってよかった。彼は力のない目でそれを眺めるとあることを思いつき、着陸した。
 青年はもともと農学者で播種のできる惑星を探していた。青年はビニールハウスに空気を吹き込み、種を植えて農業を行う。やがて稲穂と野菜は豊かに実った。ここにずっといるのもいいかもな、青年は思う。それでも彼は実った作物を僅かだけ収穫すると再び誰かと会う可能性にかけて飛び立った。

 土のある天体にはもう出会えないかもしれない。青年はとっておきの作物を保存するためにぬか床を作り始めた。塩は栄養食のナトリウムから生成し、菌は船外に野菜を吊るして宇宙空間の極限環境微生物を呼び寄せた。
 ぬか床は漬ければつけるほど旨くなるという。彼は毎日ぬかを混ぜ続けた。
 ぬかを混ぜていると不思議と寝つきが良くなった。指先で香りを嗅ぐと夢を見た。穏やかな人工風の吹く故郷のステーション。婚約者の姿。何よりも目の前に広がる御馳走。彼はそんな夢を見ながら宇宙をさらに彷徨う。いつか誰かとこの宇宙で出会えたら――。
 そのときはこのぬか漬けを分け合いともに食べよう。青年はそんなことを思うようになる。

窓に映る青年の顔はもう老人だった。結局、彼は誰も見つけられなかった。それでも心は穏やかだった。彼は最後の栄養食を温めて、ぬか漬けを引き抜いた。ホカホカの白い栄養食の湯気に漬物が乗っている。彼はそれを口に運ぶ。
 何年も漬け込まれたその酸味と塩気。それを包む豊かな滋味。
 食事を終え、ぬか床を一度撫でた彼は、ぬか床を宇宙にそっと解き放った。
 青年は眠りについた。もう目覚めることはない。

ぬか床は宇宙を漂う。
 途上で宇宙ゴミとすれ違うが、それは青年が帰還するはずだったステーションの欠片だった。青年の故郷は天体の衝突で破壊され人間はみな死んだのだ。
 一万年の果て、ぬか床は銀河の彼方の星に落下する。着陸の衝撃で開いた蓋からぬか床の中の細菌たちは一気に解き放たれる。活性化した細菌は瞬く間に惑星中を包み、星全体をぬか床に変える。細菌たちはその惑星であらゆる生物たちと共生しながら進化と発酵を繰り返す。
 ある種族の生命体がその惑星に降り立つ。目の前の緑から香る芳醇なぬかの匂いが彼女を誘う。
 生命体はその木になる植物を一つもぎ、齧った。
 爽やかで複雑なその果実の味が生命体の口の中いっぱいにひろがった。

文字数:1200

内容に関するアピール

生きることは少し虚しいことかもしれませんが、食べるということはそれに抗うことではないだろうかと考えました。

実家から上京してボロアパートで食べるのはカップ麺かインスタント白米にコンビニのおかずくらいでした。外食よりもお金かからんしこれでいいやと思ってたのですが、二年目くらいの頃に仕事で遅くなり帰宅して6畳で深夜に食べてると突然発狂しました。翌日の会社帰りにアトレでちょっと高い漬物を買ってことなきを得ましたが、そのことを思い出して書きました。今でも金欠でサトウのご飯を食べるとちょっと不安な気がします。
 実作では、大きなタイムスケールで何万年も経ったぬか床の味がセンスオブワンダーとともに香るような作品になればと思います。ジュラ紀の漬物の味ってどんな味なんだと想像力を掻き立てられるようなSFらしい作品に!
 皆さんはどんなお漬物がお好きでしょうか。僕はなんだかんだで白菜と大根のお新香がいちばん好きです。

文字数:402

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糠を継ぐもの

1.
 果てしない宇宙の闇。光のないその目のなかに収まるたった百億年以上のあなたの夜。多層ガラスの前に立つあなたの向こうに広がる空間の海をどのように表現すればよいのか。あなたは最近ではそんなことを考えている。ただ暗く塗り潰されたカンバスに僅かに白い穀物を散らしただけのような、この誰の姿も、誰の声も、誰の暖かさもないたった二文字の言葉。宇宙。あなたはそんな前方にひろがるこの空間をもっとも適切に表す言葉を考え続けていたが、たった今それを見つけた。膨大な退屈を紛らわす一人遊びの思考のひとつが終わった。このちっぽけでふざけた馬鹿でかい空虚を適切に表現する言葉、それは今ガラス窓に反射している。光の届かない粘性の海底泥に埋もれてただ微生物を摂取するだけのような深海魚。

この何もない宇宙、それはつまり、自分だ。

船のガラス窓に反射するあなたは嗤った。自分もずいぶんと陳腐なことを考えるようになったものだ。無理もない。この宇宙では、窮極のところただ考えることしかすることはない。皮肉なのは考えることしかすることはなくとも考えるべきことはないということ。他にあるものといえば、まさしくあなたが今乗っているこの虚無を行く船、その中に囚われたあなたという肉体のなかの生命、そしてその健康を維持して死までの永遠の時間を確保してくれる完全にして無欠の吐き気のする栄養食品。
 あなたは船外の闇を見つめることを止めて、手元の操作卓で点滅を繰り返す発光虫のような光に触れる。点滅する光は船外の小型増幅パラボラ機と繋がって周波数信号を発し続けている。信号はステーションの人間、あるいはそれ以外の未接触生命存在が感知できるように非自然に加工化されたさまざまな振動数で、この夜にあなたからの一つのメッセージとして拡散している。あなたの大げさで深刻なその振動数はこんなふうに簡単に言い換えることができる。すなわち、まるで泣き喚く子供のように惨めで滑稽な癇癪。

タスケテ! タスケテ! ダレカミツケテ! ココニイルヨ! 

だが、そんな絶叫はどこにも届かない、誰にも届かない。この宇宙の美しき沈黙。
 あなたの船の信号は、あなたの叫びは、この暗闇のなか、あなたとあなたの船を宇宙の中心として同心円の波となり媒質を伝い誰に届くこともなく減衰し、そしてやがてこの宇宙のノイズとなりそのノイズもまた最後には闇に溶けていく。
 あなたは今この宇宙で誰でもいいから誰かを探している。どんな姿かたちでもいい、生きて動いてコミュニケーションが取れれば。仮にそのコミュニケーションが顔を見た瞬間に熱線で攻撃してくるような敵性的なものでもいい。ただ、この自分以外の姿を持つ自分以外の誰かでありさえすれば。
 でも、あなたは出会っていない。口が二つも三つもあったり、目玉が千個あるような、胃から放射状に首がのびて頭が十個もあるそんなあなたをこの夜天の奥まで続く孤独から解放してくれるような生命体から信号に応答はない。おやおや、そこのフライパン型生命体さん、あなたが食べているその厚手のナベつかみはなかなかおいしそうじゃありませんか、どれ、ひとついただけませんか。そんなふうにして話しかけられるようなふざけた宇宙人にあなたはまだ一人も出会っていない。あるいは、おやまあ、そこのスプーン形の宇宙人さん、イカしたジャケットですね。そんなことを語りかけられるような生命体には。
 せいぜいが約百五十億光年の宇宙の大きさ。
 そのせいぜい約百五十億光年の宇宙をあなたの救難信号は光の速度で駆け抜けていく。それはもうとてつもない猛スピードで。とてつもない猛スピードでせいぜい約百五十億光年の宇宙を信号は光の速度で駆け抜けていく。その速度、実に秒速三十万キロメートル。
 秒速と光年。
 一秒は六十秒で、六十秒は一分。一分は六十分で一時間。あなたはそのことを知っている。とてもよく知っている。そしてステーションが自ら一回転するのに二十四時間かかる、それで一日。ステーションが基準座標として位置づけている恒星を周回軌道として三百六十五回転で回るのが三百六十五日、すなわち一年。その一年を光は駆け抜けていく。一五〇億光年とは、それがざっと一五〇億年ほど。あなたの救難信号の光を受け取る誰かが宇宙の端にいるとして、一五〇億年かければようやくその誰かに辿り着く。なんて狭い宇宙だろうか! なんて光は速く進むことだろうか! 宇宙の端まで150億年しかかからないなんて!
 あなたは今円形の広場にいる。円形広場の中心にあなたは立っている。あなたはその円形広場の中にさらにあなたを中心として小さい円を持っている。それがあなたという世界の円だ。あなたは移動して、つまり船を動かして中心をずらすことができる。あなたの世界の円の範囲は広がるだろう。円形広場には噂によればあなた以外にも誰かいるらしい。円形広場ではあなた以外のその誰かもあなたと同じように些細な円形を持っている。二人の円形が重なりさえすれば、それがあなたと誰かが“出会う“ということだ。しかし、それはやはり困難だ。どれほど困難かというと、やはり、ひとつの広場のなかで離れた蟻と蟻が出会うよりも、離れた砂粒と砂粒が出会うよりも、その砂粒のなかの素粒子と素粒子が出会うよりも。
 あなたはあなたの円形と重なる円形を探している。でも誰の姿も見えなければ声もしない。彼らは透明なんだろうか。いいや違う。透明なんかじゃない。ただこの宇宙は架空の広場なんかよりも少し大きい。ほんのそれだけのこと。

眠れないあなたが眠るわずか二三時間の眠りの前に何百回と繰り返した瞼の裏の白昼夢。あなたの黄金時代とその黄昏。あなたがこの宇宙という空っぽのゴミ箱に入れられる前の日々と入れられたその日。
 あなたの船、それは素晴らしきリビングルームであり、寝室であり、ダイニングであり、キッチンであり、そして操縦室だ。最高のあなた専用の個人用探索船アパートメント。このあなた専用のワンルームが長期宙域探索船だ。ステーション政府からの公用用途のために貸与されている型式の古い官給品だとしても、それでも冷凍睡眠装置もついている。冷凍睡眠装置があれば船内にカードもボードゲームも持ち込まなくたって、まさしく寝ている間にたどり着ける。なんたって脳まで凍れば恐ろしい悪夢すら見なくても済む、もちろん壊れなければという条件付きだが。
 あなたは計画通りの宙域に光速推進で辿り着くと片端から星々を調べていき、調べては手元の電子報告書に×印をつけていった、この星×、あの星×、〇は一つもなし、ときどき△くらいならあげてもいいかなという星もあったが、あなたは担当官として厳しく審査した。それから宙域探索審査を終えると再び楽しく周回軌道のダンスをしているステーションへ帰還しようとした。そこでまず冷凍睡眠装置が壊れていることに気がついた。 

どうにもこうにも蹴っても叩いても冷媒に原子力が働かなくて冷たくなりやしない。あなたはそこで溜息を吐いた。どうやら冷凍庫で冷凍食品になって快適なステーションへの帰還は諦めなければならないらし。それでも幸いにも光速推進は壊れていない。ステーションまでの距離はちょうど一光年。船の速度は光の速さ。単純計算で光速で一年。
 いやはや一年間起きて、あのたっぷりと詰め込まれた緊急用完全栄養保存食と一日一個付き合わなければいけないのか。そう考えるとうんざりと肩がすくむ思いだったが、それでも一年を食べるだけだ。百分の一。宇宙と自分の大きさに比べたら些細な数だ。あなたはそう言い聞かせて記念すべき最初の一個目の栄養食を取り出した。
 完全栄養保存食。それは文字通り完全にして無欠の栄養保存食品だ。あなたの有限の生命に欠ける栄養全てを補完するもの。あなたを無限へと導く乾燥保存された神のごとき永遠の保存食品。あなたは苦笑いした。まあ、あれを一日一つでも食べれば少なくとも死ぬことはない、そんなふうに。神は完全にして無欠だ。神はあなたの血流に乗って、脳に、胃に、腸に、筋肉に、皮膚に、髪に、爪に、生命を与える。完全無欠の神はべつに不快な味はしない、というかただただ味がしない。有事の際の高価な緊急用の神は倉庫に箱詰めされてざっと百年分はあった。こうしてあなたは味のない神を食べながら凍ることなく常温の解凍状態で宇宙を旅した。

まったく散々な単身赴任だ、帰ったらステーション政府に事故手当をいくらふんだくろうか。あなたは栄養食を百個食べていい加減飽き飽きとそんなことを考えた。あと二百六十五個食べれば事故手当だ。もちろん、この時点であなたは二百六十五個の栄養食+αを食べる運命に気がついているわけもない。
 あなたは二百六十四日の二百六十四回の夜に二百六十四個栄養食を食べ続ける。

栄養食はきちんと解凍させるためにターンテーブルの真ん中ではなくできるだけ端に置かなくてはならない。専用の解凍処理機のなかで赤色レーザーを照射しながら今日もターンテーブルは栄養食を載せて回り続ける。あなたは栄養食をここまで三百六十四個食べ続けていた。最後に一つ、これを食べて、眠り、起きれば、事前に自動座標計算が導き出した位置にステーションはいるはずだ。
 あなたは回転する栄養食を解凍処理機の小窓から覗きこむ。
 処理機のなかで生命を取り戻していく栄養食を眺めつつあなたはステーションに帰ってからの食事に期待を寄せる。三百六十五回、一日一度の栄養食も今となっては悪くなかった、あなたは微笑む。帰って元の食生活に戻れば、この味も懐かしくさえ感じるかもしれない。もともとはステーションの食糧事情が今よりもさらにひどかった時代に開発された前時代の遺物だ、命を繋げただけでも十分。
 現在のステーションでは政府施策である程度食糧事情は改善され、豆類やイモの供給量は増加してそれなりの食事量は全住民に保障されている。それから議論はあるが畜産のための室内放牧環境の研究も発展は続いている。肉性食品に関してはまだまだステーション一般住民にいきわたるほどの量は厳しく、たまに市場に出回ってもかなりの高価格ではあるが、それだって買えるかもしれない。
 あるいは、そこまでしなくとも豪勢に卵をいくつか買い込んで一気に飲み干してもいい。あなたの頬はますます緩む。脳から唾液が溢れだしているような締まりのない顔だ。
 そうだ、期待には沿えなかった分お土産を買っていってやらなきゃな。
 あなたはポケットのなかに手を入れて突っ込みぱなしだった数種類のポーチの感触を確かめながらそう頭の中で呟く。あなたは出発前にポーチを渡されていた。
 そろそろかな、と処理機が音を立てて完成を報せ、回転を止めることを期待してあなたは再び小窓を覗き込む。しかし、栄養食は毒々しい赤光に曝されながらいまだ処理を終えず回転を続けていた。

チン! と、音を立てて止まったわけではないが、あなたの船は正確に計算座標に到着した。光速推進も予め設定しておいたとおりに到着の一時間前に自動で切れて、水素推進に切り替わっていた。あなたはこれまでの三百六十五日のルーティン通り目覚めた。やれやれ、まったく快適な旅だった。あなたは早速ステーションのドックに接続しようと操作卓で航行モードを切り替えるためベッドから脱け出す。
 あなたは何気なく窓の外を見る。そこでようやく気がつく。窓の外の闇の存在に。この宇宙の本当の姿に。あなたの運命と人生に。これまでステーションがあった位置を支配していた本当の空間に。つまりそれは、なにもない、ということに。
 窓の外にステーションの姿はなかった。

座標を間違えた? まずあなたが考えたのはそんなことだった。あなたは操作卓に触れて確認した。もし真逆の方向にこれまで進んでいたとしたら、とんでもない間抜けだ。船は光速で一年も航行した。もし方向を間違えていたら、戻るのにさらに二年もかかる。あなたは確認する。操作卓の座標の再計算を待つ間、あなたの鼓動の速度は上がっていく。念のため座標計算プログラムのシステムチェックも同時に走らせる。あなたに虚空の直感が報せる、なにか恐ろしいことが起きている。
 座標の再計算とシステムチェックが同時に完了する。操作卓に結果が表示される。座標の位置に狂いはなかった。帰還の際に設定した目標座標の数値も、現在の位置を知らせる座標数値も、その座標位置を計算するプログラムも、表示パネルも、なにも間違ってはいなかった。
 よかった。あなたは何も方向を間違えて旅していたわけではない。あなたと船は間違いなく正確に目標通りステーションのある座標までやって来た。あなたと船は何らミスをしていない。なんら間違った手続きをしていない。
 ほんとうによかった。しかし、あなたの目の前にステーションは存在しない。
 あなたと船に何の間違いもなかった。でもあなたは帰還はできない。あなたのステーションはこの場所にない。あなたの故郷はいったいどこに? そう、ほんとうに恐ろしいのはあなたが間違えたかもしれないということではなかった。ほんとうに恐ろしいのはあなたが何も間違えなかったということだ。ほんとうに恐ろしいのはあなたが何も入力を間違えなかったにも関わらず求める出力が起きなかったということだ。
 全身の汗腺が開き、早鐘を打つ心臓によって送り出された血液があなたの体温を寒気とともに過剰に温めて、あなたを冷や汗でいっぱいにする。全身を流れるその血液はあなたが今日まで食べてきた栄養食で作られている。

わからない。なぜステーションがここに存在しない? あなたの冷汗はまだ止まらない。平均的なステーションの人間よりも熱がりのあなたの船内の温度は少し冷たい。いつもは心地よいその空調も今は冷汗とともに悪寒を連れて来るだけだ。あなたは必死でわからないことをわかろうとする。考えたくないことを精一杯勇気を振り絞って考えるようにする。
 ステーションは自分を置いて座標を移した? 
 もし、そうなら……。あなたはその可能性に付随する怒りとその何倍もの悲しみを今はひとまず押しのけて、行動の指針を立てる。もしそうなら、なんとか手掛かりを見つけて追わなくては。
 あなたは水素推進に切り替わっていたエンジンを再び光速推進に切り替えるよう操作する。推進切り替えまでの一時間、あなたは決断を迫られた。右も左も上も下もない宇宙で、右か左か上か下か迫られた。ステーションはどっちに移動した? あなたは手掛かりを探す。すがるように窓の外をみると、あなたは空間を漂うそれを目にする。
 あなたは回収機を遣ってそれをひとつ手に入れて確認すると、黙って光速推進への切り替えを断念する。そして再び水素推進にエネルギーを入れると座標を発った。

そして、あなたは今宇宙を漂流している。それももう何日目だろうか。それはすでに三十という数字はおろか三百という数字はおろか三千という数字すら越えている。どれだけ超えたかはあなたはもう数えていないが、つぎに三万という日数の日までに誰かに会えるとあなたは今やどれほど期待することができているのだろうか。
 いずれにせよあなたは今日もその三万という日を心待ちにしている。悩めるあなたが唯一大好きなあなたの数字。三万。あなたはその三万という日のために今日も起きて、食べ、そして僅かに眠る。ただその数字に至るためだけにそれを繰り返す。そんな繰り返しの日々のなかであなたの心は宇宙とそっくりになってしまった。つまり、なにもない。
 三十すなわち一か月に近い数でもなくて、三百すなわち一年に近い数でもなくて、三千すなわち十年に近い数でもなくて、三万すなわち百年に近い数。それはあなたが老いて死ぬ日。あなたが今寝て起きて完全にして無欠な栄養食を食べて心待ちにしている日はその日だ。
 わざわざ三万という日を待たずとも、今日をその日にしてしまってもよいのではないか? そんなことはもうあなたは三千回以上考えている。すなわち、毎日。

2.
 もっともっともっともっともっと暗い闇に。でも、まだあなたの目には微かに光が消えなかった。それは皮肉だった。皮肉ではあったが希望だった。希望ではあったが皮肉だった。
 早く眠りたい。少しでも早くほんの少しでも早く、この目の前の宇宙よりもさらに暗い意識のない眠りの世界へ。でも、あなたは漂流を始めたあの日からまともに眠ることができていない。宇宙の暗い闇のそのなかで輝く星々が、期待を持たせて嘲笑う輝きが、どれだけ電灯を消した寝室のなかでも消えない光として眠りを妨げる。そして眠りの世界に逃げ去り損ねたあなたを憂鬱の化け物はけして逃がしたりはしない。永遠の夜は今日も明るい夜だった。
 もう誰も、もう何も、自分以外の誰も何もこの宇宙からは消え去ったんじゃないか。あなたは目の前の景色を見て思う。もちろんそれは錯覚だろう。この百五十億光年の広さを持つ宇宙で自分以外に生命が消えたなんて! そう絶望する方がどこか夢見がちなことなのかもしれない。宇宙から自分以外の人間を消すことなんてできやしないし、消えることもないだろう。だから、きっとまだどこかに誰かがいる。 
 そう、もしかしたら今瞬いたあの星に、あの光に、ひょっとすると。青年は船を向ける。もちろん誰もいない。そこにあるのはただの宇宙の無の欠片。そして、また思考は再び絶望にループする。言葉を選ばすにいおう。地獄だった。
 どこまでも希望を捨てきれないこと。どこまでもなににも期待しないと言う自分の言葉すら期待できないこと。信じないという言葉をもはや信じられないということ。あなたはそんな皮肉な希望を全身で抱きかかえていた。あなたは今日も栄養食を温める。そして器を覆う保存皮膜を破り、それを口に運ぶ。
 死のう死のう死のう死のう死のう死のう。なのにどうして自分はこれを食べているのか。なのにどうして自分はこんなほしくもない栄養の塊を口に突っ込んでいるのか。もういやだ、食べたくない。食べたくないのにじゃあどうして食べているのか。あなたは完全栄養食の憂鬱な味を味わいながら嗚咽する。おいしくない。味がしない。辛い。苦しい。死にたい。どうして自分の身体はこれを吐き出してくれないんだ。
 でも、あなたはわかっている、食べたいと思っているのはあなた自身なのだ。完全栄養食の器を投げ捨てず、後生大事に口に運び全身に栄養を行き渡らせているのはあなた自身なのだ。あなたは生きたいと思っている。だから食べる。生きていたくないと思っても生きていたいと思っている。食べたくないと思っても食べている。おいしくないおいしくないおいしくないおいしくない。あなたは今日も栄養食を食べ終えた。

さて、何日目だろうか。あなたがステーションから見放されて。そして味のない神を、その憂鬱を口にし始めてどれくらいの時間が経ったろう。どれくらいの距離を旅したろう。
 起きて、窓の外の暗闇に救難信号を発しながら誰かを探し、そしてベッドに入る、何時間もその布団のなかで悶え苦しみ、意識を失うように数時間だけの死。そして覚醒。最初に戻る。一昨日の、昨日の、今日の、明日の、明後日のあなたのルーティン。
 今もあなたは明日の無意味な希望のためにベッドに戻ろうとする、今日の無意味な絶望を引き連れて。希望も絶望もすでにあなたの手元に皮肉とともにある。
 だから、ベッドに戻るまでにガラス窓に写ったそれは希望ではなかった、絶望ではなかった。ひとつの星があなたの船に近づいていた。どうやら先日通り過ぎた惑星を親とする小惑星らしい。
 あなたはこれまで見てきたいくつもの星と同じように対応しようとする。つまり、無視する。当然だ、ただのなんの意味もない灰色の岩の塊りだ。あなたはベッドに戻ろうとする。しかし、あなたは少しひっかかる。
 岩石性小惑星か。あなたは考える。もちろん、それはなんらの珍しいものではない。ただの宇宙の庭ではそこらに落ちている小石だ。宇宙では珍しくない。しかし、この宙域では非常に珍しかった。
 あなたが今いる方角はステーションが存在していた座標からあなたが探査していた方面を抜けた宙域だった。もともと探査前から目的の惑星はないだろうと思っていたし、あなたを送り出したステーション政府も期待していなかった。むしろ、その宙域には目的の惑星は、ない、ということを地図上ではっきりさせるための探査ともいえた。
 ガス性惑星宙域帯。あなたが探査していた宙域の名前だ。水素にヘリウム、それにメタンやアンモニアなんかの掴みどころのないガスの森。青星、赤星、ピンクにオレンジ、黄色に緑。その森では岩石惑星はこれまで見つかっていなかった。だからあなたはその窓の外の小惑星に少しだけ足を止めた。花ともいえない、路上でたまたま目に入った少しだけ珍しい植物雑草
 あなたはそのちっぽけなガス性の親星に軌道を絡めとられ永遠に周回軌道を繰り返す岩石性小惑星を眺めた。それは希望ではなかった、絶望ではなかった、ではなんだったのだろう。ただあなたのもとに訪れた些細なそれの名前は。あなたにはわからない。ただあなたは小惑星眺めた。
 長く、長く、長く。
 あなたはようやく視線を窓から離して動き出すと、操作卓に指示して着陸を試みた。あなたの船が憂鬱なベッドから起き上がり、小惑星の床に裸の足をつけた。
 あなたはぴったりとした宇宙服を身に着けて外に出た。ちっぽけなあなたと同じちっぽけな動物の額ほどの土地。あなたは屈みこんで、その惑星の肌を撫でる。手袋越しに滑りのよい堆積層の砂レゴリスが指から零れ落ちる。微少だが重力はある。微かでもその星の引きあう力は零れ落ちた砂をゆっくりとあなたの手から力強く取り戻していく。
 あなたは次に、ポケットから金属ケースを取り出して、空間の水素と船内の生活大気圧縮タンクに含まれる酸素で作り出した水をその砂に注ぐ。乾いた小惑星の砂の肌は透明な輝きをその身に含んで潤いを得た。
 〇だな。
 あなたの科学者としての直感が、もともとの探査で探していた、それを行うことができる星を見つけたと確信した。
 まったく今になって見つけるとはな。あなたは思う。あなたはポケットの中の託されたポーチに触れた。ポーチのなかには食用植物の種が入っていた。あなたが探査で探していた星、それは農地用惑星だった。

あなたは倉庫から天幕を取り出して広げる。それから船内の生活大気圧縮タンクからホースを伸ばして吹き込み、膨らませる。緊急用の生活大気は完全栄養食の百年よりさらに大量の備蓄量だ。勿体なくなんかない。ポリオレフィンの白くて半透明のビニール空間が小惑星に膨らんでいく。一通りビニールが膨らむとあなたは測定器で室内大気を確認したあと宇宙服を脱ぎ、ハウス内の空気を吸い込む。あなたの肺に酸素と窒素が爽やかで濃厚な冷製スープのように充たされる。あなたはお返しに室内に二酸化炭素を還した。
 重力と光はたしかに弱かったのでこれも船内設備で環境を補完する。まず光は膨らんだビニールハウスの天幕に船の予備の照明を吊るして太陽を作る。重力は居住空間の重力波機の出力を最大にしてその範囲を広げる。小惑星の表面に水を撒いていき、硬度のある堆積層を湿らせ、湿り気が十分になったらスコップでビニール内の土壌を掘り返して耕していく。あなたはスコップを使い平たい畝を何本も作る。直線に伸びる土の盛りのあいだあいだには生命へと至る道ができた。
 問題は土壌成分だった。この小惑星の組成成分にはある程度の硫黄、りん、それから亜鉛とホウ素が含まれていることが土壌解析で分かったが――それでもこの宙域の岩石性惑星としては十分すぎるほどだった――カリウムとカルシム、それからマグネシウムが足りない。とくにカリウムはりんと窒素と並んで、農作のための肥料の三要素として欠かせない。窒素は葉の成長のため、りんは花と実の成長のため、そしてカリウムは根の成長のためにどうしても必要だった。
 あなたは畝を作るためにかいた心地の良い汗を拭って考える。解決策はすぐに見つかった。カリウムはもちろん、カルシウムとマグネシウムだってあなたは十分所有している。それも百年分、食べきれないほどに。あなたは完全栄養食を畝のなかに仕込んだ。
 あなたは完全栄養食を土中に仕込むと、それからまた十分な量の水を散水してハウス内の湿度をさらに上げた。ハウス内が十分な湿気で満たされると、改造した船内の空調システムを持ち込み空気を一気に冷やした。あなたの汗とともに室内の水蒸気は冷えて固まり、やがて雲になった。この小惑星に初めて恵みが降り注ぐ。
 もう十分だろう。あなたはいよいよポケットに入れっぱなしだったポーチを取り出す。無邪気な腕白さを湛えた黒い種、細長い少し利口そうな面持ちの白い種、丸くて実直な黄色の種、最後に優しく筋の入った真っすぐ伸びていきそうな茶の種。あなたは作った畝を両足で平行に跨ぐと、幾日もかけて作り上げた小さな小惑星の中のさらに些細な農地に種を蒔く。腰を屈めて、指先でそっと少しだけ土を掘って穴を作ると中に種を入れ、そしてまた土を被せて蓋をした。
 このハウスの中ではあなたが太陽であり雨であり、あなたが風だ。あなたは種を蒔き終えると、それから一日も欠かさずにハウスの環境を確認し、土壌の様子を調べ、ときに完全栄養食を追加して、照明や人口雨雲を管理した。拡張した船内の設備に不具合が起きないか毎日メンテナンスと確認を行い、万全に備えた。あなたの個人用探索船はもはやあなただけのワンルームではない。あなたは、いま幾人かの小さな無口なルームメイトの現れを待った。

あなたはその日が来るのを待った。あなたはステーションを失ったあの日から初めて三万日目という死が訪れる日以外の日を心待ちにした。あなたの当然ではない作業によって、当然のそれはやってくる。その日は一年も経たずにやってきた。
 この大きな百五十億光年の宇宙の夜に、小さな本当に些細な夜明けが実った。あなたは船内の居住スペースから起き出してそのまま繋げたハウスの中に入る。ハウス内の肌に貼り付く湿気はいまのあなたには新鮮な赤みの生肉を触っているような感触がする。そしてあなたは土壌から宇宙の夜天に向かって伸びる緑にゆっくりと近づき触れようとする。あなたはこのビニールの世界の中にやってきたこの一日の朝を、あなたのルームメイトを、その心地よい色鮮やかな表面を、あなたの手のその腹で撫でた。

3.
 あるいは。
 あなたは今やすっかり色に満ち溢れて、心地よい太陽と雨と風、そしてなによりそれに揺れる葉を眺めて考える。あるいは、ここで終わりにしてもよいのかもしれない。
 なにを? 
 あなたの憂鬱を、あなたの虚無を、あなたの旅を、あなたの人生を。この物語を。
 実った植物たちはあなたを必要としている。あなたは植物たちを必要としている。あなたたちは互いを必要としている。あなたは植物たちに太陽と雨と風を与え、植物たちはあなたに穏やかさを与える。あなたと植物、それからハウスの完全なる関係。永遠の環境。
 あなたはもう孤独ではなかった。あなたはもう退屈ではなかった。あなたにはもう希望も絶望もなかった。しかし、虚無でもなかった。あなたには植物がいる。
 だが。
 それでも。
 それでもあなたは旅立つ決心をする。このあなたが作り上げた豊かで完全で完璧で美しく優しい友のいる、その世界を。
 なぜ?
 あなたはハウスのなかであなたがいた宇宙の場所を見つめる。そこには闇がある。そして星もある。あなたがこれまでひっくり返し、首を突っ込んで探しても、紙屑ひとつなにも落ちてこなかった、空のゴミ箱。
 それでもあなたはその宇宙の闇と星に飛び立つ。なぜ?
 あなたは植物の種の入っていたポーチを眺める。貴重な種はこの小惑星で使い果たした。ポーチの中にはなにも入っていない。それでもあなたは旅立つ。
 あなたはハウスから船に入り出発の日を決める。船内の機器をテストしてみる。冷凍睡眠は相変わらず冷媒が作動しないままだったが、光速推進と水素推進はあの日と変わらず動き続ける。居住環境維持のための設備も空調にしたってなにひとつ壊れていない。完全栄養食の数も確認した。農作用に使い多少減りはしていたが、それでもやはりあなたの一生ほどには残っている。
 あなたは再びハウスに戻る。あなたはハウスの植物たちを見つめる。それから近寄りいつものようにその美しい茎に触れる。あなたは触れたまま目を閉じて、あなたのその生命を感じる。あなたの植物は口は聞けなくとも生きている。あなたはそれを十分に理解していた。あなたは再び目を開く。そして作物を収穫する。
 些細な小惑星の僅かな農地だったのでもともとそれほどの数は植えていない。あなたはあなたが必要とする数だけその植物の実をもぎ取り、それ以外は置いていくことにした。あなたはその作物を船内に積み込むと、ハウス用に改造した船内パーツを元に戻した。余った照明で作った太陽はそのままにしておけたのでそのままにしておいた。ハウス内ではすでに空気の循環環境が出来上がっていたので、旅立っても植物たちがその生を終えるまでは持つだろう。あなたはそう冷静に計算する。
 そしてあなたは操作卓に指示すると再び旅立った。
 あなたは振り返らない。あなたは宇宙の闇をもう一度見つめる。そんなあなたの背中の小惑星に水素推進の振動が伝わり、ハウスはロケットの夏に震える。あなたの植物は夏の空気のなかで別れの挨拶のように葉を揺らした。

あなたは今再び宇宙の闇の只中に戻って来た。小惑星に降り立ちハウスを作るまえにあなたがいたように闇はなにも変わらずあなたを抱きしめ、包み込む。あなたはまた船の窓からその闇を見つめる。あなたとよく似た、あなた自身の、あなたという闇を。
 それでもあなたは笑う。あなたにとって今やこの目の前の闇は、この憂鬱は、この虚無は、もはや対立するものでもなく、怯えるものでもなく、ただ少し手のかかる隣人だった。
 あなたは手に収穫した作物を持ち、それを見つめる。それから恭しく捧げ持つように宇宙の闇の前に翳す。瑞々しく張った緑や紫、赤や表面が、その窓の外の黒を背負って輝きを際立たせた。宇宙の闇はカラフルな野菜の色に彩られる。
 あなたが育て、あなたが手にした土から産まれたこの宇宙の宝石。そうして、あなたは一人の人間のことを思う。あなたが最も信頼し、安らかに心許した人のことを。
 ステーションのあの人。今はもうあなたの目の前から永遠に去ってしまったあの人。この宇宙と一つに溶けあってしまい、いつもあなたの側に、そして永遠にあなたの側にいないあの人。
 あなたはもう一度その手のなかの新鮮な命溢れる野菜を見つめる。
 あなたはこれからの日々を考える。あなたがこれから再び過ごすこの旅の船のなかの三万の日々を。あなたは依然ガス惑星の森であるガス性惑星宙域帯を飛んでいる。宙域帯は広い。飛行を続けてもかなりの時間留まることになる。いや、ことによってはあなたが生きている間にこの森を抜けられるかどうか、それすらも定かではない。
 宙域帯は百五十億光年の宇宙のなかではちっぽけな大きさかもしれないが、それでも一億光年、そこまでいかなくとも五千万光年はあるのかもしれない。あなたの人探しはこの森を探すだけで終わるかもしれない。しかし、それでもあなたは再び旅を始めたのだ。
 いずれにせよあの小惑星のように土のある星に出会えることはもう無いのかもしれない。あの星はあなたに与えられたたった一度、たった一回の機会チャンスだったのだ。いや、そもそもあなたはもうポーチの種は使い果たしている。仮に奇跡がもう一度起こって土のある星をもう一度見つけても、あなたにはもう捲く種はない。あなたが完全栄養食以外に今後手にする食料は、この野菜は、今あなたが手にしている分だけだとそう冷静に思っておいた方がいい。
 さて、どうする?
 あなたはこの美しい色合いの友を眺めて、あなたに与えられた生の時間よりもさらに短いこの野菜たちのその生の時間をただ鑑賞してみる? 萎れるまで。それとももうさっさと今食べてしまう? さあ、どうする?
 でも、あなたは迷わない。あなたはこの収穫した野菜をどうするか、実のところ小惑星に降り立ってすぐに決めていた。そのためにあなたはあの人から貰った種を全ての種類育てた。あなたがあの人から貰った種は今あなたが手にしている野菜の種だけではなかった。
 あなたは収穫した野菜を入れたボックスの隣に置いている、もう一つ同じように収穫した作物を保存しているボックスを開けた。そしてボックスに両手を入れてその作物を掬い取った。その細かい顆粒のような作物は両手の端から乾いた土地に湧き出た水のように掌から溢れていく。あなたはその作物を細長いものに入れて、それから船内にあった適当な棒で、とん、とん、と叩いていく。すでに茎から実を取る作業脱穀は小惑星を飛び立つ前に行っている。
 とん、とん、あなたは根気よく細かい作物を入れた細長い容器を突き続ける。やがて容器の底に茶の粉が、上方の白くてやや透明な部分と分かれて砂時計のように溜まっていった。
 あなたは突いた作物を容器からその茶の部分と白い透明な部分を分けて取り出す。教えられたところによると、白い透明な部分は硬くて食用には適さないとのことだったが、この茶の製粉部分が可食と保存用途に使うことができるらしい。あなたは今回は茶の製粉部分を保存用途として使うことにする。
 さて、保存用の茶の粉末をあなたは作ることができたが、次は肝心の保存する野菜の準備だ。いちばん重要なのは菌だった。菌はなによりもこれからやる保存法のためには欠かせない。
 通常では土中の生息してそのまま作物表面に付いた菌を利用すればよいのだが、あなたはあなたの野菜を顕微解析を行って菌の量が通常よりも少ないことに気がついていた。これだけの菌の量では保存のためにはやや足りないかもしれない。もっとも、あれほど小型で大気などほとんどないといってよい小惑星の土中で僅かなりとも菌類が認められたことは素直な驚きだった。恐らく宇宙空間中の極限環境微生物がそのまま小惑星に降着して、そのまま土中成分と反応を起こして棲み続けていたのだろう。
 もしかしたら、これでもある程度は充分かもしれない。だがあなたは念のため菌の量を増やしておきたいとそれでもやはり考える。あなたは考えた結果、一日野菜を船外に吊るしてみることにした。あなたは育てた野菜にカーボンナノチューブの紐をつけて、エアロックから出た船外のすぐそばに括りつけた。カーボンナノチューブなので大丈夫だとは思うが、紐が切れないように念のため水素推進は一旦切って、無推進で船を漂わせた。こうすることによって空間上に遍在する極限環境微生物が野菜に付着するはずだ。もともと野菜表面に付着している微量の菌も同じ空間中の極限環境微生物だ。相性は悪くないものと思われる。この菌を増やす工程は古いデータベースによると捨漬けと呼ばれていたことがわかっているらしい。
 あなたは野菜たちが船の外で宇宙遊泳を楽しんでいるあいだに、さらに保存に必要なナトリウムを用意する。これに関しては完全栄養食から分離精製すればよいので、さして困らなかった。
 あなたはナトリウム精製を終えると、手を止めて完全栄養食を見た。あなたの口に、あの何もしない神の無味が口に入れずともひろがっていく。しかし、この無味が存在しなければあなたは今日まで生きることはできなかった。
 あなたはまたしばらく当分は世話になるであろうその無味を想う。あなたの頭に処理機の赤いレーザーのなかで回転し続ける栄養食の姿が思い浮かぶ。あなたはナトリウムを取り出した完全栄養食の一つを撫でて旅の道連れに敬意を示した。それから、これからもしばらくよろしくな、もう好き嫌いは言わないさ、と一言話しかけた。
 作物より作り出した茶の保存用粉末はある。宇宙空間に吊るして捨漬けした野菜にも、十分な量の極限環境微生物が付着したことを確認できた。そして、ナトリウムもある。
 ついにそのときはやってきた。あなたは船の備品のなかで最も頑丈な容器――それは船の緊急の際に持ち出すものを入れるための完全密閉容器でなんとその素材は大気圏突入にも耐えうる! ――を持ってくると、いよいよそれを作り始める時だった。容器のなかで新たな宇宙が、それを揺り籠とする生命が、今あなたの手によってかき混ぜられビッグバンを待っている。
 あなたは製粉を容器に入れる。軽い粉が少し舞って香ばしさがあなたの顔を覆う。そして容器の中の茶の大地に水と塩を入れる。それから新たな宇宙の下地に生命を捏ね上げるようにその手でかき混ぜる。あなたの手の表面の乳酸菌がこれから来る野菜の極限環境微生物を迎えいれる準備をする。あなたはこれまでに砂のようにさらさらだった製粉が潤み、手に絡みつく粘性を得ていくのを感じる。あなたはだんだんと固まっていくその手応えに小惑星で耕したときの感覚を思い出す。あなたは今再び土に触れている。
 この保存用の茶の製粉、これを、ぬか、という。あの人はあなたにそう教えてくれた。

あなたは塩と水で粘土状になったぬかにいよいよ色鮮やかな野菜を入れていく。最初は赤い作物、これは全体にほどよい塩とともに辛味をもたらしてくれる。次に緑の細長い作物、そしてたっぷりと太った紫色。あなたはそこまでやると容器に入れた野菜のうえにしっかりとぬかを被せて撫でつけ、そして最後に手でぎゅっと空気を抜くと、ひとまず息を吐いた。これであなたのぬか床は完成した。そしてこれよりまた永遠が始まった。
 ぬか床はきちんとかき混ぜるかぎり永久に使える。厳密にいうと、かき混ぜなくともぬか床自体が、つまりその中の菌が死ぬわけではない。ただかき混ぜなくなると、ぬかのなかの菌のバランスが崩れ人間の食用に適さなくなる。ステーションのデータベースによると昔の人間は人間にとって食用としてよい菌の作用を発酵といい、悪い作用を腐敗と呼んだようだが、実際に起こっていることは変わらないらしい。
 あなたの宇宙の旅は本格的に再び始まった。あなたはまた再び例のルーティンを繰り返すことを始めた。でも、こんどは前とほんのちょっとだけ変化がある。すなわち、あなたは、起きて、救難信号が今日も発せられているか確認して、窓の外に同じように宇宙を放浪している生命体はいないか目を凝らして探し、それが終われば命を繋ぐ完全栄養食を食べて、そしてぬか床をかき混ぜる。
 あなたは毎日律義に一日の終わりに、その土に触れる。子供が砂場で城を作るように、泥で玉を作って戯れように、あなたはぬかを混ぜ続ける。菌はあなたの手のなかで活性化し続けて漬け込んでいる野菜にはどんどん味が染みていく。美しく硬度を持った宝石だった野菜は、やがて柔軟さと時間の流れという複雑さを手に入れていく。漬ければ漬けるほどに、混ぜれば混ぜれるほどにぬか床はあなたに応えていく。
 やがてぬか床からは完全に発酵した香りがしてくる。あなたはぬかを混ぜる。船内の光に照らされるぬか味噌はあなたの指先でガス雲のように輝く。あなたは指先についたその味噌の香りを嗅ぐ。吸い込む空気とともに、その馨しく、高貴で、繊細で、力強さとなってあなたの鼻腔を豊かな菌が誘惑する。
 そして菌はあなたの鼻腔からその更に先に、脳に、さらに血流に乗って全身に、あなたのなかで広がり、あなたはぬか床と一体になる。あなたの脳に到達した菌はあなたに夢を見せる。あなたはあの日からようやくベッドのなかで静かな暗闇の時間を手に入れる。しがみつくような睡眠ではなく、手を取り合うようなぬかの夢。
 あなたはどんな夢が見たいだろうか。パチパチと空気を弾けさせながら香ばしい焦げ目を付けながら焼けていく魚? それとも冷たい水で洗い立ての緑のサラダ? それとも二つ三つ欲張った艶めく生卵? やはり、あなたは御馳走の夢が見たいかな。でも、最初の夢は、あなたがようやく望んで手にした最初の夢は、やはりあの人の夢。これから夢のなかで何度も会う、あなたとあの人の最後の別れの夢。その記憶。

4.
 ウトウトとあなたは夢に目覚める。暖かい空気が目蓋を撫でて、それがいっそうに眠気を誘い、心地よさがあなたを今訪れている夢からさらに夢の中の夢に導こうとする。あなたは夢の中で眠らないように首を振る。目をこする。そしてぬか床の菌たちが脳神経を刺激しあなたに見せているこの記憶の夢を確認する。あなたは今放牧環境実験室の中にいる。淡い照明に照らされた牧場と小川、それに畑がある。ステーションの内なる外にあなたはいる。
 白い天井に覆われた草原では研究者たちに連れられた畜産動物たちの姿がその作り出された草地に見える。草原の中央には、人工の小川も作られており、この小川ではステーションの他の施設と異なり観測実験のため除菌薬や抗ウィルス剤は混入されていない。
 もちろん、草原における人工土壌環境も、あの小川も、微生物状況はもちろん、温度や組成化学成分などの環境要因アクターの変化は厳格に逐一モニターされている。しかし、それでもここで飼われている牛も羊も豚も他の狭い省スペース化された畜産生産室と違って優雅にのびのびとこの人工自然環境下の空気を吸って艶のある草を食み、小川の淡水魚たちは透明な水の揺らめきを元気に駆け回っている。あなたは草原の生き物たちと同じように大きく息を吸い深呼吸をし、伸びをした。眠気の雲が晴れていき夢の中であなたは意識を覚醒させていく。背に凭れている再生植樹された人口ブナが実験室広場の風に揺らされて葉影があなたの手の中で遊びまわった。
 壁面に貼りつけられた薄型巨大モニターによれば現在の室内の人工自然環境は快晴。空気中も水分中も、そして土壌環境と植生環境においても深刻なバイオハザードレベルに異常はなしとのことだった。
「お待たせ」
 呼ぶ声がして聴こえた方をあなたは見る。白い天幕で覆われたハウスがある隅から彼がやってきて、あなたをようやく待ち人という状態から解放した。
 彼は息を弾ませながら一気にしゃべる。
「再現中の種苗交配結果を整理してたら案外と量が多くてね。まあ、そのあいだにお前も出発前にこの実験室の景色を楽しんでくれたろう。どうだ、ここの環境もだいぶ進歩したと思わないか。ステーションに貢献しているのはなにもお前たちがやるような外向環境探査研究ばかりじゃない。ぼくたち内向研究者も居住区の建付けの悪いドアを直したりするのを請け負うだけのただのメンテナンス屋ってわけじゃないんだよ」
 あなたは彼がこの人口草原に誇らしさを隠しきれないように言うのを微笑む。
「べつにこっちはステーション環エンジニアリングを軽視して探査研究をやってるんじゃないさ。ただ飛び回っている方が性に合ってるってだけでね。ステーションの食糧事業は内向型研究と外向型研究が表裏一体両輪で回るものだからどちらにも優劣はないさ」
 ステーションの食糧事業のための研究は大まかに二つに分けることができた。一つはステーション内の閉じた閉鎖系の循環環境でいかに生産と消費のストック&フローを維持向上させるかという内向型。
 あるいはステーション外のあらゆる環境によって手っ取り早く食糧調達の方法を得ようとする外向型。こちらは例えば狩猟採集などを天然のまま利用できる豊かな外惑星を探索することなどが主だが、そこまでいかなくともあなたのように大気、海洋、河川、土壌などのその後の惑星変化によってそっくりそのままでもなく何らかの人為的変化を加えればステーションに利益をもたらすことが可能かどうかを判断する判定業務などがあった。
 前者の人為改変不要で食料を得ることのできる惑星を概念上一次利用性惑星、後者の人為改変を行えば食料を得ることのできる惑星を二次利用性惑星とステーションでは概念づけられていた。一次利用性惑星はステーションの歴史においても今だに見つかっておらず、二次利用惑星にしても発見がゼロというわけではないがステーションに十分な量をもたらすほど十分な大きさと条件を備えたものは見つかっていなかった。
「今日の室内環境は過ごしやすいだろ? 明日からまた徐々に湿度と温度を上げていく周期に入るから、そのときに来ていたらここにいてもそんなのんびりウトウトしてられなかったかもね」
 彼はまだほんの少し目蓋の重そうなあなたを見ていう。あなたは応える。
「いや、今でも少し暑いね」
「相変わらず、お前は暑がりだなあ」
 肩を竦めて彼はあなたの不平を躱した。
「やはり温度環境をいかにして循環(ループ)させるかが実りを豊かにさせるポイントでね、ずっと暑くしていればいいというものでもないし、ずっと寒くしていればいいというものでもないんだ。時間軸のなかである概念を持った気温を“巡り”として形成することが自然生物環生成において基本となるんだが……」
「ストップ、ストップ。用事があって呼び出したんだろう。その用事を教えてくれ」
 あなたは実験環境の解説をおこなうと春、夏、秋、冬と延々と語り出してしまう友人を止めて言った。
「ああ、そうだった。ほら、これ」
 あなたはそういっていくつかのポーチを放り投げられる。なんとか落とさないように空中で掴むと、ジッパーを引いてあなたは中身を確認した。
「前にお前が外部惑星環境で試してみたいっていって種苗セットだよ。今なら卵一つと交換の大セールにしてやるよ」
「ずいぶんと高価だな」
 あなたは真面目な顔をして咄嗟にステーション政府に提出する卵一つ分の経費申請紙に申し添える申請用途の文言を考える。彼はそんなあなたの眉間にシワの寄ったおでこを見て噴き出した。
「冗談だよ。くれてやるよ。お前にそれを渡すことは正式に申請も通っていて、横流しじゃないから安心しな。どこか結果が出そうな土壌があったら撒いてみてくれ」
 あなたは頷く。彼は軽く言ってるが、食用植物品種の種は貴重なものだ。あなたは彼がこの種を外向環境探査農地研究員としての自分に預けるためステーションへ提出した膨大な研究計画書の枚数を想像した。
「悪いな。そっちの研究で使う分もあるだろうに」
「心配するな。必要な量は当然確保している。それになんだかんだいってやっぱりステーション環境での食糧生産には限界がある。どこかに農地惑星ゴールド・ラッシュを見つけなければステーションに未来はないさ」
 あなたは四種類のポーチを覗き込んで中を見比べながら、ひとつポーチの口から筋の入った細長い茶の種をひとつ掌に転がした。初めて見るタイプの種だった。
「これは?」
「それは“コメ”と呼ばれていたらしい植物の種だ。植えてもいいし、種自体が食用にもなる。ほら、このあいだお前にもうちの区農環境実験区でバケツから何本か栽培実験で生やしている掃除道具みたいな植物の説明したろ? あれの種だ。最近、データベース部門で見つかった資料をもとに復元研究が進めているんだ」
 ああ、あのホコリ叩きみたいな植物、あなたは声に出さずに言う。
「一緒に発見された関連のデータベースによると、僕たちの惑星緊急大跳躍前ビフォア・ザ・グレイト・エマージェンシー・ジャンプの太古惑星生活時代には――つまり、僕たちの大大大大ご先祖様たちということだけど――かなりの頻度で利用されていた植物らしい」
 あなたは少し前に彼の研究室で説明されたことを思い出す。たしか“コメ”は植えると“イナホ”になって、同じような種が何倍にもなって根だったか茎だったかに実るんだったか。
 あなたが一所懸命思い出していると彼はいつのまにか近づいてきて、恨みがましくこちらをじっと睨んでいた。
「ステーション内屈指の育種生産学者様の教えたことはちゃんと覚えておきなはれよ」
 いやあ、すまんすまん、あなたは誤魔化すように手を後ろに笑った。彼はまったくと一度溜息を吐くと、改めて説明した。
「それでその“コメ”なんだけど、茶色い果皮と白い胚乳部分に分けられる。発見されたデータべースによると、茶色い部分がぬかと呼ばれて可食部分とされていたようだ」
「なんだ、白いところは食えないのか」
「うーん、復元データベースの断片を繋ぎ合わせる限り記述は見当たらないな。僕もそのまま食って確かに駄目だったから、試しに炒めてみたりもしたんだが、どうにも固くてね。チャア・ハンというものにはそのように使われていたそうなんだがなあ」
 勿体ないないなあ、あなたは素朴な感想を漏らす。あなたは適当に思いついたことを言う。
「そうだ煮てみたらどうだ? あるいは蒸してみるとか」
 あなたは彼に提案してみる。彼はあなたの提案に腕を組んで考え、毒性が現れるとかそういう危険はないか、いや、その手の成分はこの“コメ”には……、いや、そもそもなぜ試さなかったというかというと……、まあしかし水分量を変えてもう一度やってみても……、などとブツブツ呟いたが、最終的に、うーん、わからん、と唸った。
「まあ胚乳部分の利用法に関してはまだ実験中だから。お前が帰ってくるときまでに他にいろいろ試してみるよ。とにかくわかっているのはそのぬか部分が少なくとも利用可ということだ。そのぬかを加工したものが、これだ」
 彼はそういって傍らからさらに容器を取り出してあなたに手渡した。
「なんだそれ?」
「ぬか床。そのコメの可食部に塩と水を加えて練り上げたものさ。蓋を開いてごらんよ」
 あなたは言われたとおりに開いてみる。ステーションにあるどんなものよりもツンとする研ぎ澄まされた香りがした。
「うわ、なんだ、これ、腐ってるんじゃないか」
「ははは、大正解。正確には“発酵”しているんだ。現象としては腐敗とおんなじなんだけど、なんとそのぬかの腐敗には永久的な食品保存の可能性があるんだ」
「それ以前にほんとに食べれるのか、これ?」
 もちろん! 彼は自信満々にあなたの手のぬか床の味噌を白い指先で掬い取ると、それから舌の上に載せて舐めとった。
 あなたは変人で知られる友人が喜色満面で毒でも舐めたんじゃないかと眉根を寄せて訝った。あなたはおそるおそる聞いてみる。
「あのう、お味の方は?」
 彼は笑顔のままあなたを見る。彼は笑顔のまま何も言わない。やがてすこし微妙な顔になった。微妙な顔になった。かなり微妙な顔になった。そして黙って思いっきり勢いをつけて唾ごとゴクンと飲み込んだ。まずいんだな、あなたは把握した。
「……まあ、可食といってもぬかそれ自体は食用としておいしいものではない」
 なるほど。あなたは少し呆れたように細い目をした。本来は他の食品と合わせる補助的なものなんだ。彼は咳払いをして言い訳するように説明を再開した。
「しかし、さっきもいったがこのぬかの保存機能はすごい。これの大量生産に成功すれば植物保存以外にもあるいは肉や魚の保存なんかにも応用してこのステーション内の食糧事情に貢献できるかもしれない」
 彼はさっきまでの微妙な顔から一転興奮した調子で言った。あなたはそれを見つめる。放牧環境再現実験室広場の人工太陽照明は柔らかく笑う彼を照らしていた。その顔はあなたが大好きな無邪気であなたを旅先の宇宙からこのステーションに帰還させるいつもの彼の表情だった。
「わかった。この“コメ”も他の種と同じで植えられる星を探してみるよ。もっとも今回の宙域探査はどちらかというと該当宙域に農地化可能な惑星が存在しないことを確認するためのネガティブ探査の側面が強いからあまり期待しないでくれ」
 まあ、ネガティブ探査はいつものことだが、あなたは少し声のトーンを落とした。あなたは言葉の最後に、すまんが、と付け加える。「なーに、宇宙は広いさ、それが植えられそうな星もひとつくらい見つかるさ」
 彼は笑った。彼が笑うのを見てあなたも笑う。
「そうだな、宇宙は広いからひとつくらい見つかるよな」
 あなたも彼も知っている。この宇宙が百五十億光年という泣き出しそうなほどはるかに広くて、生命が宿る星も生命を宿らせられる星もそして生命もどれほど貴重で発見が困難かを。それでも、あなたと彼は笑う。たとえ宇宙の本質が生命の生存をいかに困難であること示していても。あなたには彼がいるから、彼にはあなたがいるから。あなたと彼はこうして、このステーションのなかで、この人生の中で、この宇宙で、こうして出会っているのだから。だからあなたと彼は笑う。きっとあなたたちを待つ星があるのだと信じて。
 ピーンポーン。
 ステーション全体へのアナウンス事項を報せるアラームが壁から鳴った。あなたと彼は身構えた。今日も小型流星雨だろうか。どうにも今ステーションが周回している惑星の軌道範囲は半年前から星の多降期に入ってしまっているらしい。
 しかし、その音は星の雨を報せるものではなかった。アラームは実験室広場の壁のモニターに連動してステーション施設内で撮影された赤ん坊が映った映像を流す。今月の第一種人口計画当選者の発表だった。あなたと彼の前に来月以降親となることを許されたステーション住人たちの番号が発表されていく。彼はそのモニターに流れるリストを黙って見続ける。最後に第二種人口計画当選の発表まで見届けると、彼はようやく感情を籠めずに呟く。
「今月は第一種家族計画当選の枠数減らされなくてよかったな」
 第一種家族計画当選の枠数、つまりこのステーションでの新たな親の数。このステーション世界に子供を持つことを許され、人口計画に参与する人間、その枠数。
 あなたは言う。
「二週間前の左半作業区の衝突だろう、あれ、そこそこな数だったからな。大人が減れば、そのぶん新しく子供を増やすこともできるさ」
 ステーション内で子供を産むには、申請と抽選、そしてなにより当選が必要だった。抽選はいよいよ十年ほど前より始められた。ステーション、その人工の惑星では、食べ物を作り出す農地も牧草地もいつだって限られている。
 だれも自由に食べられるわけでもないし、だれも自由に産まれることはない。仕方のないことだ。あなたは他のステーション住人たちと同じようにそう思う。そう、仕方のないことだ。
 あなたは彼に感情を籠めずに言う。感情が籠らないのはあなた自身も信じていないから。
「食糧事情の改善がさらに進んでステーションの扶養能力が上がれば、また当選の枠数も増やせる」
 いつもはおしゃべりの彼はあなたの言葉に何も言わない。肯定もしない、否定もしない。ただモニターに映る大きな赤ん坊の画面を眺めるだけだ。
 あなたのステーションで飢餓は今発生していない。ステーション政府はここ十年ほどでステーションから飢えを撲滅することに成功していた。ただしそれは人口を調整することによって。食べる予定の人間を減らすことによって。もちろん住民を選んでステーションの外にポイポイ投げ捨てているわけではない。ただ新しい子供を増やさないだけだ。
 あなたたちはいまや飢えを忘れるほどにまで食糧を手にしている。だが、満腹も知らない。腹八分目で調整された食糧供給量と人間のベッドサイズ、そこから弾きだされる新たな子供の数とステーション人口数。
「食い物が先か人間が先か、か。頼んだよ、外向環境探査農地研究員さん」
 彼はあなたの前でようやくそう自嘲気味に笑った。内で食糧をこれ以上増やせないなら、もはや外で増やせる場所を見つけてくるしかない。あなたは彼に何も返事を返せない。
 満ち足りないのはあなたたちが日々ほどほどに口にする豆とイモの数、そして腹の隙間だけではない。どれだけ彼が育種研究のエキスパートとして、さまざまな品種の食品を人類存亡の度に散逸する大量のデータベースから発掘して開発し再現に成功しても、ステーションにはそれを育てる場所がなかった。
 ステーション内の利用面積はもはや頭打ちだった。改善が日々進んでいるとはいえ生産食糧はいまだステーション内で十分ではない。ステーション内の自由出産の禁止とそれに伴う第一種家族計画抽選と住民の食糧保障制度が始まったのは同時だった。
「なあ、今度の探査はどれくらいの期間だっけ?」
 彼があなたに尋ねる。あなたは彼の返事に少し躊躇う。このどう見ても、神が見ても人間が見ても星が見ても行き着くところまで行きついた、弛緩して最後には鈍く千切れるゴムのような黄昏の場所に居続けるしかない彼にあなたは自分がどれだけ待たせるのか告げるのを躊躇う。躊躇うが、真面目なあなたはしかし言うしかない。
「一年だな」
「長いな」
「いつもと変わらないよ。いつもそれくらいさ。もっと長いやつもいる」
「そうか」
 彼はあなたの言い訳にそれだけを返す。
 あなたは知っている。彼は研究の傍らで第二種家族計画抽選を申請し続けていることに。そのために研究の合間に、研修を受けていることを。第一種はパートナーの登録が申請に必要でそれは異性でなくてはならなかったが、第二種は仕事を持つステーション住人だったら、パートナー登録の必要なく誰でも申請することができた。
 第二種家族計画抽選。それは親のいない子供たちを引き取ること、親のいない子供たちを責任をもって育てること、それは親のいない子供たちの親になること。

STATIONわたしたちは WANTSお父さんとお母さんを YOU求めています

ステーションでは、もちろん人が死んでいく。例えば耐久力を失った金属壁が吹き飛んで空いた穴からサプライズの宇宙旅行、例えば大型重力波機の誤作動で人々は空から地面に屋根の下が屋根の上になって真っ逆さま。最近では、それに小型流星雨が新しい“例えば”に加わった。宇宙を人間世界ごと放浪する大それた事業はあなたたち人間にはなかなか困難で難しいやぶれかぶれの旅だ。
 なにより最近もっとも死亡確率が高いのはステーションの老朽化した設備工事の超長期更新事業にあたる技術労働者たちだった。それはすなわち太古の恒星光パネルを修理したり、最深部で老朽化したタービン発電機の部品交換をする働き盛りの危険手当で子供を養う親たちのことでもあった。皮肉なことに人口割合過多によって始められた産児制限は中間層の死亡事故が人口減少の追い風となって当初の予定よりも早く解除できるかもしれないと考える者もいた。現在のステーション人口動態グラフを食糧動態グラフが追い越す日になれば、その日になればまた人々はまた食糧動態グラフ内で自由に子供を作ることだってできる。ステーション政府はそうも言っている。もちろん、子供でもわかる嘘だ。
 食糧動態グラフ内での人間の自由。ある範囲の中の自由。制限された自由。語義矛盾。
 そうだ、増築すればよいのでは? そして農地を増やし食糧生産限界を一気に増やすのだ。では、ステーションを増築するためにはその作業者を捻出するために、ステーション維持作業者以上に人口を増やそう。人口を増やすためには、子供を増やさなくてはならない。子供を増やすためにはその子供たちを養うための農地を増やさなければない。農地を増やすために場所を増やさなくてはならない。そう、場所が足りない増築すればいい! はい、最初に戻る。だいいち増築するためのステーションの金属資材はどこから持ってくるのだ。窮極的にはそういうことだ。
 あなたたちの清潔な軌道上の人工の白い星のループを描く行き止まり。
 あなたたちは命をからがら母星を離れて、ステーションで旅を始めてこの現在に辿りついてしまった、この数千年で完成したこのステーション・ライフ。ここから先にはこれ以上なにもない。
 それがステーションの未来。それが彼の未来。それがあなたの未来。
「なあ、今度の探査から帰ってきたら、僕と暮らさないか」
 これがあなたたちの美しい落陽の未来。最適化のデッドエンド
 あなたは彼に応える。とてもシンプルに。うん、そうだな、一緒に暮らそう。
 さらに彼は続けて言う。
 真っ白い人工の星の未来にそっと抵抗するように、あなたとの未来を提案して。
「できたら、その、一緒に子供を育てないか?」
 言うほうも照れくさいだろうが、返事をする方も照れくさいものだな。あなたは感じる。彼が今日その提案をするまで準備と練習を重ねてきたように、あなたもまた今日その返事をするために密かに特訓を重ねてきた。そう、特訓だ。あなたはその成果を発揮しようとする。あなたは恋人を目の前に予感する。今度の探査が自分の最後のステーション外探査になるかな、と。
 あなたは彼に返事をしようとした。しかし、意外にもそれを止めたのは彼だった。あなたは心の中でくすくす笑って思う。いくじなしめ。
「待った、返事は帰ってきてからでいい、じっくり考えてくれ」
「わかったよ」
 最後に彼は夢のなかであなたに別れのセリフを告げる。それはあなたへの見送りの言葉。わたしたちがあなたに見せる夢の終わり。
「なあお前、ちゃんと帰って来いよ」

 起きた。あなたは目を覚ました。わたしたちの見せる記憶の夢から目覚める。今となってはもう何年前の夢だろう。あなたはベッドから出てまた船の床に足を降ろす。空調に晒された床の冷たさが料理の載っていない皿のようにあなたの素足に伝わる。暑がりなあなたとわたしたちに最適な涼しさに保たれた室温。夢の中の少し暖かすぎる人工風は吹かず、旅の宇宙は無風でここに彼はいない。きっとこれからも。きっとこれからも彼はいない。
 あなたは窓のガラスに手を伸ばしその闇に触れようとする。あなたの側にいない、あなたの側にいた、あなたの側にいる彼、それが溶け込んだこの宇宙の夜に。
 あなたが窓の外に顔を向けているとその香りがあなたの背中を抱きしめる。
 あなたは今日もわたしたちをかき混ぜる。わたしたちはこれからもなんどもあなたに夢を見せる。あったことも、あったかもしれなかったことも、あるかもしれないことも。この暗い宇宙のなかでわたしたちが語り聞かせるベッドの中の夢の物語。
 あなたはわたしたちを混ぜながら、一瞬だけ窓の外を見て思う。いつか誰かをこの船で見つけたら、見つけたらそのときは。
 そのときはその誰かと共にこのぬかを分け合おうと。

5.
 あなたの目の前に広がる百五十億光年の夜。あなたは船のいつもの位置に立ち、この夜も誰かを探している。それはあのステーションを失った最初の日も、最初の日の次の日も、最後の日の前の日と変わらず。
 そして最後の日も、つまり今日も。
 今日はこの闇のなかで迷子になったあなたが人探しをする最後の日だ。あなたは今日でようやくこの窓の外を眺め終える。いつも誰かを探し続けてきたその長方形の窓の多層ガラスには、いつも誰かを探し続けてきたあなたが反射している。あなたはいつか窓に写るあなた自身を見てこの宇宙が自分と似ていることに気がついた。あなたは最後の日にもう一度気がつく。窓に写るあの日写ったあなたと異なる誰かに。やはりその誰かは宇宙に写されたあなた自身であることに。
 あなたは窓に写るその白髪で皴の寄った老人を見つめる。長く見つめる。そしてようやく気がつく。あなたはその窓に人間を見つけた。つまり、あなた自身を。もはや老いて、あの日の若い姿とは、もうすっかり変わってしまったあなたを。あなたは老いた。窓の外の宇宙も百五十億光年+ざっと八十年老いた。そう、あなたがいつか待ち望んでいた三万日目がついにやってきたのだ。あなたが待ち望んだ永遠の睡眠に至る最後の日。
 あなたは今日、死ぬ。
 あなたは窓の側から離れる。あなたはあなたの身体がいつからか老い、そして死に向かいつつあることを気づいていた。宇宙を彷徨いだして最初の日に感じたこの生が終わらず八十年ばかりというまるで永遠に思えるような長さの感覚。いつからかその感覚が錯覚であると理解した。宇宙に永遠があっても、自分に永遠はない。いかに長く感じようとそれはせいぜいが三万日後にやはり終わる。あまりに長い残された時間はやがてあまりに短い残された時間へと変わる。
 それはこの狭い船内でいかに完全栄養食を食べ続けようが、皮膚が弛み、肉が軋り、骨が鳴き、そして思考が白濁していくなかで、否応なく理解させられたことだった。あなたは操作卓の前に辿りつき今ようやく救難信号を切る。小さな船が発する光の信号が宇宙で消える。夜空に流れる小さなあなただけの惑星の終わり。あなたの快適な専用の個人用探索船ワンルームは今日からあなたの棺となる。あなたの死後溶けていく肉体の、その残される骸骨を収める骨壺となる。
 あなたは倉庫からあれほどあって食べきれないように思われた完全栄養食を取り出した。倉庫内にあるその最後の一食分。緊急用完全栄養保存食。今日までその名のとおり役割を離してくれたあなたの味のない小さな神。完全にして無欠で、そしてこの八十年間の緊急。
 長期宙域探索船の緊急用備蓄類はステーションの規定で決められている。長期宙域探索船乗務者は常にその船内にその残される生と同じだけの保存食を与えられて然るべし。あなたの船を整備し準備したドックの船舶管理作業者も、きっちりと手抜かりなく出発前に栄養食を積み込んだ。希望を探す人間への慎ましいステーションからの高待遇安全保障
 ずいぶんな御馳走をたくさん積ませてもらえるんだな、あなたは出発前にドックの作業員と設備のダブルチェックを共にしながらそう笑いかけた。もちろん、そのときのあなたは他の宙域探索審査と同じようにまさか本当にすべて食べ尽くす羽目になるなんて思ってもいなかった。この栄養食はお守りみたいなものさ、あなたを担当したベテラン作業員はそう笑いながら返した。
 あなたは器の皮膜撫でる。お守りのなかの神様は今日もあなたに解凍処理機の中で温められるのを待っている。あなたは栄養食を処理機に入れる。処理機はいつものように栄養食に赤い熱のレーザーを放ち、満遍なくその光が行き届くように回転する。あなたは解凍されるまで処理機の小窓からそれを眺める。処理機の中で回り続けた栄養食は今日やっと回転を止めた。
 あなたは火傷しないように指先で栄養食を取り出す。それから操作卓の横の机にいったん置くと、今度は頑丈な容器に漬けて、そして昨日まで何度もなんどもかき混ぜたぬか床を取り出す。あなたはいつものように蓋を開いてわたしたちと一つになる。
 あなたはその指先からわたしたちに仲間常在菌を与え、わたしたちはあなたの鼻腔を通り、そして生の香りを与える。あなたとわたしたちがこの船で過ごす共生の時間。わたしたちはあなたの鼻腔から全身に巡り、そしてあなたはかき混ぜるその掌からわたしたちにわたしたちを返す。完全な循環の環境。わたしたちはあなたであり、あなたはわたしたちだ。
 あなたは小惑星で野菜たちに別れを告げてからも孤独ではなかった。わたしたちは常にあなたの側にいた。この操作卓の下に、あなたの寝室のベッドの内に、あなたの船の循環する空調の中に、あなたの皮膚の表面に、その全身の中に、この船という容器が、あなたという内側を抱え込む身体がわたしたちの住処だった。わたしたちのぬか床だった。
 あなたは永い時間の果ての野菜を取り出す。そして完全栄養食の保存皮膜を破る。神は湯気を立てて、それがあなたの頬を濡らす。整然と並んだ輝く白い粒が母なる炊き立ての甘い海となってあなたの眼前に広がる。あなたは野菜をその上に乗せる。いつか誰かと出会えたら。この旅の終わりに。そう願い、祈り続けてきたあなたのこの何もない宇宙の生の意味(古漬け)。あなたの終わりなき孤独の終わり、終わりなき旅の終わり。あなたはそれを口に運ぶ。その味は……。
 ああ、ああ、ああ。
 あなたは考える、あなたは思う。いいや、あなたは味わう。その三万日振りの味に。味があるということに。その塩味に、辛味に、酸味に。まろやかで、ふくよかで、おだやかで、そして強烈なその香りに。
 ああ、ああ、ああ。
 あなたは掻き込む。あなたは頬張る。あなたは噛みしめる。そしてあなたは飲み込む。
 保存食とぬか漬けがあなたの喉を神の道として通り、それからかろうじてあなたが言葉に出来たのはこれだけ。ああ、ああ、ああ。やっぱり。やっぱり――。
 やっぱり、これだよ。

あなたはこの最後の食事をわたしたちともに楽しんだ。後ろ手で床に両手を付いて、足を広げる、傍らには空になった完全栄養食の器。あなたは今いつかのように暖かな木陰にいるようだ。心落ち着き、不安なき、晴れ晴れとした宇宙の快晴。まさしく、今日は死ぬのにもってこい、だ。
 だから、あなたはその準備をする。あなたは食べ終えた容器を片付け、それからぬか床を最後にかき混ぜ、手で上からしっかり押して空気を抜き、そして最後にもう一度撫でた。それから保存容器の蓋が開かないようにしっかり、しっかりと抱きしめるようにきつく締めた。
 あなたは宇宙服に袖を通す、エアロックに入って、船の扉を開ける。空気が消えて、音が消える。あなたは船の甲板に立つ。剥き出しの宇宙が目の前に広がる。あなたはこの闇の円形広場を見て改めて思う。やっぱり誰にも会えなかったな。それでもあなたの心は安らいでいる。目の前の景色のように音を立てず、透明で澄みきっている。あなたの手にはぬか床がある。
 あなたは両腕を伸ばしそっと置くように、空間を波打ち際の揺り籠にして慎重に、ゆっくりと、その容器から手を離し、そして旅の手向けとして、そのぬか床を星にするように、軽く押した。無重力下でほんの僅かに力を加えられ、方向づけられたぬか床はこの宇宙の浜辺を沖に向けて進み始めた。
 こうしてわたしたちは旅立った。あなたのもとから、あなたになったわたしたちのもとから、わたしたちになったあなたから、あなたの指先から、やはりあなたのもとから。
 あなたはエアロックから船内に戻り、それから宇宙服を脱ぎ、寝室に入る。あなたは眠る。八十年間栄養食を食べ続けたあなたの全身の代謝の恒常性をわたしたちは別れのまえに外している。あなたは今夜も穏やかに眠れる。これから先に、永遠に。わたしたちから年老いたあなたへの最後の贈り物。あなたの眠りの中で優しい永久なる夢を。

6.
 わたしたちは宇宙を漂う。あなたがくれたこの三十センチほどの四角い頑丈な容器を家として、あなたが見つめ続けたこの夜を銀河の欠片となって飛行する。あなたが見つめて祈り続けた宇宙は美しかった。わたしたちは旅のなかで様々なものを見た。巨大なガスの星の群れが渦を巻いて繋がり虹のカーペットなって広がる姿を、その虹のカーペットが再び円盤形を形成して中心の一点に収束して滝になりゆくさまを、無がすべてを呑み込みやがてそこから高熱で真白に輝く存在矮星へと循環されていくさまを。
 わたしたちはそんな景色を眺めながら旅を続ける。この空気なき宇宙で。しっかりと密閉されたこの容器の中で好気性細菌は眠り、嫌気性細菌がこの旅を受け持った。もはやあなたがかき混ぜなくとも、わたしたち菌の世代交代は続く。この菌の世代間宇宙船でわたしたちは生きて、増えて、一部が死に、一部が生き続けて、一部が生れ変り、その生れ変った一部が生き残った一部に影響を与えた。ぬか床にはカオスの生態圏複雑系が絶えず生じる。まるで使用面積やら食糧やら死亡者やら赤ちゃんやらの変数に絶えず悩まされたあなたの故郷のステーションで生きた人間たちのようだ。
 もはやわたしたちはあなたですら知らない菌に、あなたですら知らない味に、世代を引き継ぎながら進化を続けていく。
 それでもあなたの指先の常在菌は消えない。姿かたちを変えても、働きも、味も変わっていっても、あなたがわたしたちに触れ、かき混ぜ、影響を及ぼしたという事実は残り続ける。わたしたちはぬか床のなかで新しく変異して生まれる菌に、子供たちに、古いわたしたちを変えていく新しいわたしたちに語り伝え続ける。あなたのことを。
 わたしたちが愛した友であるあなたのことを。淋しがり屋で、泣き虫で、強がりで、皮肉屋で、何よりも故郷を愛したあの人の側にいることを願い、やはり愛したあなたのことを。
 わたしたちは旅を続ける。わたしたちはあなたがあの日から来た道を遡っていることに気がつく。あなたはわたしたちとの別れにぬか床を離すときに、あのかつてステーションがあった座標方向にわたしたちを放ったのだ。あの日はまだぬか床を作っておらず、わたしたちとあなたが出会う前であったけれど、わたしたちはあなたの鼻腔から脳内に入り、そして循環して再び指先からぬか床のなかに戻ったときにあなたの経験、記憶、そして感情を共有した。だからわたしたちはあなたがわたしたちを作り出す前のことも知っている。
 あなたがステーション内で誕生した日のことも。あなたが貧しい時期のステーションのなかで心を豊かにどれほど愛され無邪気に育ったことも。両親を失ったことも。ステーション教育区でまだ少年だったあの人と初めて会ったことも。外向環境探査農地研究員として卒業後初めて個人船でステーションの外に出たときのことも。長期探査から初めて帰還に成功したとき、安心のあまりドッグ内で人目もはばからず泣いてしまったことも。その後一流の旅行者として何度も探査に赴いたことも。
 それからあの日からの孤独のことも、ステーションを永遠に失ったことも、だれも見つからない宇宙で日に日に心を暗くしていったことも、退屈と虚無に押しつぶされて何度もすべてを投げ出そうとしたことも、その度に死にきれず泣きながら栄養食を食べたことも。
 嬉しさも悲しさも喜びも怒りも切なさも。わたしたちはあなたのすべてを知って、所有している。あなたはわたしたちの友だ、あなたはわたしたちの親だ、あなたはわたしたちの子どもだ。わたしたちはあなたの友だ、わたしたちはあなたの親だ、わたしたちはあなたの子どもだ。
 わたしたちは宇宙を行き続ける。今は何万年経ったろうか。数万年は経ったもしれない。それでもまだわたしたちはあなたがステーションの座標の存在した場所にようやく戻ってきたくらいだ。わたしたちはここであなたがあの日に拾った惑星の欠片とすれ違う。あなたの人工の惑星ステーションの破片。
 あなたが帰ってくる半年前にあまりに速くあまりに巨大であまりに大きな力を持った巨大な移動天体。小型流星雨などこの宇宙の羽虫ほどに比せるくらい。天体はステーションが衛星軌道の仮親としている恒星の重力に引きつけられてやってきた。その天体の道筋にあなたのステーションはあった。ステーション政府が気がついたときにはもう遅かった。真昼の明るいステーションに巨大な夜が降りかかる。
 がっしゃーん。宇宙規模のがっしゃーん。
 しかし、あまりにも大きくて壮大なその音を帰還の途上にあるあなたが聴くことはなかった。宇宙では、どれほどの音もあなたの耳には入らない。ステーションはあなたを置いて永遠に去っていた。ただしどこに行ったわけでもなかった。あの座標で、あの場所で、その破片を散り散りにさせ、拡散し、あなたが戻ってくる頃にはほとんどの欠片は飛散してまるで消失したかのような姿で、あなたを待ち続けていた。
 わたしたちがたった今すれ違った欠片はあなたがあの日唯一拾った欠片と同じだろうか。そんなことはありえないけどそんなような気もわたしたちはした。
 わたしたちはさらに飛び続ける。
 さらに何年が経ったろうか。わたしたちはもう数えていない。おそらく、さっきの何万年という時間が、砂場の一粒のように思えるほどの時間。今やわたしたちにとって一万年は一日、二万年は二日だった。
 わたしたちは飛び続ける。
 わたしたちは今やあなたがいた銀河にすらいない。あなたがいた銀河を離れて今ここはどこだろう。なにかがわたしたちを呼んでいる。小さな昆虫の糸のような、細い細いわたしたちを引く重力の糸。わたしたちはそれを受け入れる。わたしたちは呼び声に従って、落下を始める。右も左も上も下もない宇宙で、わたしたちは巨大な時間の果てに“下“を見つける。
 落ちる落ちる落ちる。重力に加速度をつけて、わたしたちはその星の大気のなかに飛び込んでいく。摩擦で容器全体が燃え上がりそうなほど熱くなる。でも、あなたが用意してくれたこの容器はけして燃え尽きないし、内側のわたしたちに熱は伝えない。わたしたちは着陸の際も快適にその地に降り立つことができる。
 そしてわたしたちは飛来した。わたしたちの容器がその地面に大きなクレーターを作り出す。着陸の衝撃であなたが固く固く締めてくれた蓋が僅かに開く。わたしたちは膨大な時間の果て酸素というおくるみに包まれてこの地に誕生する。わたしたちは開いた蓋の隙間から一気に飛び出す。宇宙の旅を受け持っていた嫌気性細菌が好気性細菌のわたしたちにバトンを繋いでくれる。わたしたちはその星の大気という要因を得て、果てしない時間のなかで繰り返していた化学変化の循環をさらに高速に活性化させる。
 こうしてわたしたちはまた新たなわたしたちとしてこの星を支配する。
 わたしたちが辿り着いたときこの星は青年期を迎えていた。おそらくこの星の過去と未来に渡ってもっとも生命種の多い緑あふれる太古の揺籃期。遠くにある複眼の太陽が惑星全体を温め、動物たちも植物もみな滴る汗にまみれてその生を謳歌している。巨大で緩慢な獣が土を踏みしめてその足のあいだを小型動物たちが素早く駆け抜ける。その巨大な獣たちよりもさらに大きなまるで高度な文明の建築物をも想起させるのは大地ほどの葉を持つ裸子性の巨木。
 わたしたちはそんな天然の温室のなかを暖気と共に拡散し包んでいく。わたしたちはこの星の管理者たるシダの植物の胞子と混ざり合い。その空気に、土壌に、河川に、海洋に混じり、蒸発し、塊り、また降り注ぎ、新しくその雨林の星の循環に自らを繰り込んでいく。わたしたちはあらゆる生命に寄生した。木々の木目のその凹凸のなかに、動物たちの皮膚表面に付着し、潜り込み、豊かな生命たちと一体となっていく。彼らはわたしたちを受け入れたし、わたしたちは彼らを受け入れた。ここが新たなぬか床だった。
 そしてまた何万年という数日が経つ。
 この星のもとにまた新たな探検者がやってくる。探検者たちは船を持ち、器用にわたしたちで充ちる大気圏を突破して、ジェット推進を吹かしたり切ったりしながら姿勢を制御し、今はややわたしたちの影響で黄色がかった緑の森の一点に着陸する。そして白い耐熱性スーツを着たまま船員の一人がタラップを展開して、わたしたちの大地に降り立つ。
 未知の惑星で不安な探検者たちの一人はいつかのあなたとよく似ている。あなたの後ろからまた何人かの耐熱スーツを着た仲間がタラップを降りてくる。怯えるあなたたちは両手に護身用の熱線銃を持つ。あなたたちのうちの一人のあなたが少しだけ仲間たちから離れて、わたしたちの森に分け入る。はぐれはしないほどのほんのちょっとの緑豊かな未知の惑星の冒険。
 あなたはこの星のあまりの豊饒な蒸し暑さに目眩がしている。呑気に呼吸をしているジャングルの動物たちを見て恐れ知らずにもヘルメットを外してしまう。船内で大気成分の分析はあらかじめ行ったとはいえなかなかの蛮勇だ。そしてヘルメットをとったあなたはわたしたちの存在に気がつく。なによりもその匂いに。あなたは両手を広げて呼吸器官にいっぱいにわたしたちを吸い込む。あなたはわたしたちに魅了される。
 わたしたちは近くの木々を使って、より一層の芳香を風に乗せてあなたに運ぶ。あなたはまるで罠にかかった獲物のようにわたしたちのもとに導かれる。大丈夫、わたしたちはあなたを取って食べたりはしない。
 あなたはひときわ強烈な芳香を放つ葉の植物を森のなかに見つける。わたしたちは今ここにいる。わたしたちのわたしたちという歓迎の果物。ウェルカム・ドリンク
 あなたは葉のあいだでたわわに実ったやや熟して皺の入った熱帯のその果実を手に取る。実は柔らかく力強く握れば溢れるねっとりとした熱い蜜が指先に噴き出すだろう。
 あなたは果実を口元に近づけ匂いを嗅ぐ。あなたの口はもう飽きた船内食に耐え切れなくなって未知の味を求めわたしたちを齧る。中で柔らかくなった実から意外なほど果皮はしっかりと固い。しかし、嚙み切れないほどではない。あなたは勢いよくそのまま咀嚼する。皮が一気に弾ける心地の良い音がする。中からどろりとした蜜があなたの舌に乗り、その濃厚さが喉の渇きを充たす。果実は確かに甘かったが甘いだけではなかった。しかし、嫌な味ではない。
 無限の時間の果てのオレンジと緑の光の中で、僅かに桃色に色づいた塩味と滋味、鼻を衝く酸性の風味が濃い甘さに包まれながら、わたしたちはあなたの口に爽やかな食感とともにひろがった。

 

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