梗 概
持続可能なトビ方
成田は高度1万mから飛び降りた。ウイングスーツを纏い滑空する姿はムササビだ。広がる空の景色の中、高度5000mに漂う巨大なひつじを見つけるとその背に降り立った。雲ひつじの反重力肉、エキゾチックマトンを手に入れるため。
通常、雲ひつじの背は体毛で覆われ着陸が困難だが、毛刈りを終えたこの時期だけは例外となる。
雲ひつじの背にはアルトゥス族が住んでいる。彼らは雲ひつじがもたらす全てに感謝し、敬いながら生きている。搾乳や春の毛刈りを生業とし、皮や肉は儀式をして最低限の量だけ取る。毛刈りを終えた雲ひつじの広大な背を駆け回る子供たちの姿が彼らにとって初夏を示す。
成田は新族長のフォルテンと話し合う。今年地上に持ち帰るエキゾチックマトンの量を決めるのだ。フォルテンは伝統を第一とし、地上との交流を快く思っていない。エキゾチックマトンは提供しないと言い切る。成田はエキゾチックマトンの反重力物質研究の重要性を説くも議論は平行線となる。
雲ひつじに滞在中、成田は一族からエキゾチックマトン料理を振る舞われた。特にルンダンが美味だ。地上では世界一美味しいとされているインドネシア料理だが、アルトゥス族では固有種の香辛料と羊乳で煮込む。調理法も独特で、反重力で浮く生肉を羊毛製の鍋で上から抑えながら加熱する。加熱で反重力物質が力を失う経過に合わせて鍋を正位置に返すのだ。味は絶品で、弾力があり、噛むごとに繊維がほぐれていく肉はほうばる幸せを詰め込んだ触感で、芳醇な香りやまろやかさが口内に広がり多幸感を与えてくれる。成田はルンダンを食すたび昇天しそうになる。その様子を周囲は面白がり、フォルテンも薄く微笑んだ。
晩夏、成田が地上に帰る日になった。結局持ち帰るエキゾチックマトンの量は例年の十分の一になった。
突如、上空から宇宙グモが襲来する。宇宙グモは例年秋にアルトゥス族を食べに来ることを成田は知る。同時に、その事を完全に受け入れているフォルテンに怒りを抱く。
皆を助けるため、成田は手に持つ生のエキゾチックマトンを宇宙グモに食べさせる。すると宇宙グモは浮遊し、意図に反して上空へと消えていった。エキゾチックマトンを捨てるような撃退法はフォルテンにとって衝撃だった。
成田はフォルテンに説く。雲ひつじはアルトゥス族にとってかけがいのない存在であるが、雲ひつじにとってもアルトゥス族は張った乳を搾り、伸びた毛を刈ってくれる大切な存在だ。共生における過度な自己犠牲は互いを滅ぼすことになると。
去り際、改めて成田に渡されたエキゾチックマトンは例年通りの量だった。
成田はアルトゥス族との友好な未来を期待すると共に、撃退した際に口にした宇宙グモの糸の美味を思い出し、宇宙グモの巣という未知の食へと思いを馳せた。
ウイングスーツを着て地上へ戻る。エキゾチックマトンを持った滑空はいつもよりゆるやかで長くなるだろう。
文字数:1200
内容に関するアピール
『相席食堂』という番組において、長州力さんがホタテの貝柱を食べ、カメラに向かって言いました。
「食ってみな。トブぞ!」
これ以上ない最高の宣伝文句だと思いました。レッドブルは翼を授けるし、料理バトル漫画では審査員が美味しすぎて昇天しているかのような描写をよく見ます。本当に美味しいものを食べたときは、人間トンでしまうのだと思います。
「世界一美味しい料理」と調べるとルンダンが出てきます。都内でも食べることが出来るお店がいくつもあるみたいなので、しっかり取材をしてから書きたいと思います。
【参考画像】
子羊のルンダン(最終確認日:2021年5月20日)
出典:https://www.flickr.com/photos/stuart_spivack/66053556/
文字数:330
持続可能なトビ方
朝靄が濃い。
民家のドアが開いた。ひとりの少年が出て来ると、ドアの脇に積み重ねられた薪をまとめ始めた。吐く息は白く、寝起きの身体を起こすように大袈裟な屈伸運動を挟みながら作業を進める。
山の斜面に広がる村を覆う靄は、山々から顔を覗かせた朝陽を均等に拡散させている。
少年は陽の差す方へ顔を向けた。クンビラはまだ見えない。もう少しして皆が起きてくる頃になれば靄が晴れ、その霊山は変わらぬ荘厳さを示してくれるだろう。シェルパにとって、クンビラは最も敬う神だ。神は常に自分たちを見守ってくれている。
少年は薪を固く結んだ。自分の分、弟の分、母の分。自分が背負う薪の量を母よりも多くしたのはもう何年も前のことだ。あと数年もすれば、トレッキングツアーのシェルパになれる。そうすれば母は薪運びを辞め、畑仕事をすることが出来る。畑仕事をさせてしまっている祖母は家でのんびりできる。みんなを楽にさせてやれる。
そのためには、もっと大量に薪を運べるようにならないといけない。30kgのザックを息一つ切らさず運べるようになれば、ツアー客からチップもたくさんもらえるようになる。
背後から複数の足音が聞こえてきた。
「スラジ」
父から声をかけられた少年は振り向いた。父の隣にいる日本人を目に留めると黙って会釈をする。
「ボクのコドモ」
少年を指差しながら父は日本人に笑顔で話す。日本語が話せる父は日本人のトレッキングツアー専門でシェルパをしている。父は、家では日本人観光客のことを「笑顔でいればガイドブックに書いてある金額通りのチップをくれる奴ら」と言っている。「ガイドブックに書いてある数字がもっと高ければ最高なんだがな」と言ってコップの水をあおるところまでが夕食後のお決まりだ。母はそんな父を見て「下戸だから酒代がかからなくて助かるわ」と楽しそうに笑う。
日本人は少年の顔を見て笑顔になった。何がそんなに楽しいのだろうか。少年はそう思いながらも笑顔を作る。もしかしたら少しくらいチップをくれるかもしれない。
しかし、日本人は少年の頭を撫でるだけだった。ガイドブックにはシェルパの子どもに会った時のチップの相場が書かれていないのだろう。
「モウスグミエル。クンビラは神のヤマデスヨ」
そういって少年の父がクンビラのある方を指すと、ちょうど靄が晴れてきたところだった。
すると日本人はポケットからスマートフォンを取り出し何かを調べ始めた。
「クンビラ、クンビラ……5761mの山なのか」
何かを呟き、日本人は山頂が見えてきたクンビラにレンズを向けて写真を撮った。どんなツアー客も、必ずスマートフォンを山へ向ける。少年はその姿を飽きるほど見てきた。少年も写真をいくつか持っている。家族の集合写真、サッカーをしている自分の写真、父がカトマンズで買ってきたクマリの写真。しかし少年には、写真の価値も写真を撮る意味もよく分からなかった。
「……ん?」
その時、三人はほぼ同時に靄の向こう側に巨大な影があることに気付いた。その瞬間まではクンビラの山影だと思っていたが、それにしてはあまりにも丸みを帯びており、何よりその影は移動していた。
靄の向こうに何かがいる。その事実を確信した日本人が喉を鳴らした。その異様に巨大な影に何を想像しているのだろうか。
影は、消えかけている靄の端にかかったかと思うと、その顔を、胴体を、全身を、現した。
「え……」
三人は絶句した。彼らはきっと巨大飛行船か何かを想像していたのだ。しかし、姿を現したそれはあまりにも空に似つかわしくなく、それでいて空に合っていた。
羊だった。
その羊は、三人が知っている羊よりも足は短く、全体は楕円形に近い。それでも羊だと分かるだけの特徴を備えていて、とにかく大きかった。クンビラが羊の一部を隠しているのだから羊の方が遠くにいるのだと分かる。分かるのだが、理性が邪魔をして遠近感を失いそうになる。
クンビラ山頂を全て隠せてしまえそうなほど巨大な羊は、朝陽を反射し黄金に輝いていた。
三人は空を漂う羊を見つめていた。羊が雲の中に消えていくまで、日本人はスマホを掲げなかった。異国の空気と現実味のない光景が、日本人に撮影を躊躇わせるほどの荘厳さを感じさせていた。
「今のは……」
そう問う日本人に対し、少年の父は我に返りぎこちない笑顔で答えた。
「あ……アレはクモ、ヒツジです。ミレタのラッキー。ミタトキにマワリのヒトにオカネアゲルトイイコトアルッテイワレテル」
少年の父はそう言うと、未だ呆然としている少年にネパール語で声をかけた。
「スラジ、いま金を持ってるか」
呆然としたままの少年は、父の意図が分からないままポケットを探り、1ルピー硬貨を取り出した。
「スラジ、日本人にそれを渡しなさい」
少し躊躇うも、父に言われるがまま少年は1ルピー硬貨を日本人に差し出した。母から貰った大切なおこづかい。どうして自分が日本人にお金を渡さなきゃならないのだと少年は混乱する。
少年から差し出された1ルピーを日本人は受け取った。なんで受け取るんだと少年は行き場の分からない憤りを覚えた。お前の方がよっぽどお金を持ってるのに! 子どもから金を奪うのがお前の趣味なのか!
すると、日本人は上着のポケットから50ルピー紙幣を取り出して少年に差し出した。
何が起きたのかよく分からない少年は呆然としたまま50ルピーを受け取る。
少年が父の顔を見ると、父は日本人に見えないようにウインクをした。
それからしばらくして、日本人向けのネパールガイドブックには「雲ひつじを見た時、周囲の人にお金を渡すと幸運がもたらされるという伝承がある。現地の人からお金を受け取った際は少し多めの額を返すと良いだろう」という文言が追加された。
これが、人類が雲ひつじを初めて観測した日の出来事のひとつであり、同日に他12件の目撃情報が公的機関に寄せられたと記録されている。
♈
セスナの窓から空を見つめる。
天候は晴天。上には遮るものがなく、初夏の太陽が燦然と輝いている。いつもより近い位置で見る太陽は大きさも輝きも段違いで、サングラス越しでしか見れないことに悔しさすら覚える。
高度10000m。そこは空の中で、眼下には数多の雲が漂っている。地上から見ている時はとても軽そうで簡単に霧散してしまいそうな印象を持つが、上空から見る雲は、雲同士の重なりが影を作り、ひとつひとつが確立した物体であることを主張している。ともすれば独立した領土であるかのように錯覚してしまうのは、今探している物と重ねてしまっているからだろうか。
「今のところ目視出来ませんね」
パイロットが無線機越しに報告してくれた。簡単な相槌を打ちながら雲を見つめる。そう簡単には姿を見せてはくれない。奴は常に大きな雲に紛れて漂っている。
3時間前にSNSで奴を発見したとの投稿を見てすぐさまセスナで飛び立って来たものの、探すあては風の流れと隠れやすそうな大きな雲といった曖昧なものしかない。
「どこにいるんだ……」
探し始めて小一時間になる。雲の流れに沿って飛行しているが、そろそろ領空を気にしないといけない場所にまで来てしまっている。
「天野さん、もうそろそろマズいです」
燃料的にもリミットが来たようだ。急なフライトだったから仕方ない。あと少しだけ粘って帰還しよう。今年はもう諦めるしかない。
「じゃあ、あと5分ネバっいた!」
見つけた興奮で謎の造語っぽい発言になったがそんなことはどうでもいい。今、しっぽの辺りが雲から飛び出ているのを見つけた。すぐに目標の雲をパイロットに伝え、距離を取った風上に移動する。本当に領空ギリギリだ。
「行ってくる。何かあれば連絡する」
酸素ボンベにつながれたヘルメットを装着し、セスナの扉をスライドさせる。
轟音とともに激しい風の流入出が起きる。扉の先には誰も助けてくれない自由な空がある。
私はノータイムでセスナから飛び降りた。
ウイングスーツを身にまとった私は、両手両足を広げて風圧を一身に受けた。風圧に負けないように、肩と太ももを体の前面側へ入れ込むように力を入れる。二の腕に緊張感を持たせながらも、肘より先はリラックスさせる。そうして腕に風圧を感じ、手先を少しずつ動かしてバランスを取っていく。体勢を維持するには常に微調整が必要だ。少しでも気を抜けばすぐに錐揉み状態になってしまう。
腕を動かすたび、ヘルメット越しに聴こえる風の音が少しずつ変わる。その音を頼りに自分がどれだけ上手く飛べているかを判断していく。
ムササビのようなシルエットをしたウイングスーツは、近年競技人口を増やしているエクストリームスポーツの1つで、今は全世界で5000人ほどが空を自由に滑空している。
飛んでいる時の感覚は何物にも代えがたく、400km/hにも迫る最高速度での滑空は爽快感抜群だ。一度飛んだ者の心を掴んで離さない魅力的な世界がここにはある。
叶うなら顔でも風を感じてみたいものだが、高速移動するためヘルメットは必須だ。その上、この高度になると酸素ボンベも必要になる。宇宙服にも使われている機材や素材を使ったウイングスーツは特注で、結構値が張った。当然セスナのチャーター料も燃料費もパイロットの人件費も全部自費だ。貯金がみるみる減っていくさまを見たくなくて最近は銀行の残高を確認していない。でも、後悔はしていない。
それだけの私財を投資してでも、辿り着きたいところがあるからだ。
前方3000m、高度2000mほど下方に目標のしっぽが見えた。奴がどの程度の知能を持ち合わせているかは不明だが、頭隠して尻隠さずという言葉を知らないことは分かる。
少し余裕をもってパラシュートを開いた。奴の全貌はまだ確認できないが、おおよその位置を推測しながら雲の中へと突っ込んでいく。雲の上端に足がかかり、そのまま全身が雲の中へと滑り込んでいく。冷えた水や氷の細粒が全身を包んでいく感覚がウイングスーツ越しに忍び寄ってくる。視界不良の中、大きな影を確認すると、パラシュートを操作してその背中部分と思われる位置へ向かう。
奴に近づくにつれて雲の密度が薄くなっていく。そのまま降下していくと、一気に視界が開けた。雲の中にぽっかりくり抜かれたような空間が出来ていて、そこに奴はいた。
雲ひつじ。横幅約1.5km、体長約2kmのデフォルメされたひつじのような姿形をした生物は、翼もプロペラも無いのに悠然と空中を漂っている。
普段、雲ひつじはもこもこの毛で全身を覆っているが、初夏になると大部分の毛が刈り取られた状態になっている。安全に着陸できる場所が確保されているのはこの時期だけだ。
慎重に雲ひつじの背に降り立った。十歩ほど足を着いて減速し、パラシュートが自分の前方にふわりと落ちる。雲ひつじが異邦人の来襲に気を留めた様子はない。
パラシュートを大雑把にまとめると、背負っていたバッグを取り外し、丁寧にパラシュートをまとめてそのバッグに収納する。この高度にしては風が落ち着いていて助かった。
バッグを背負い直し、大きく息を吸い込む。土草の臭いもない、澄み切った冷たい空気が鼻腔と肺を満たす。
酸素濃度も頭に入れ、目的地のある雲ひつじの頭部へゆっくりと歩を進める。
雲ひつじの反重力肉を手に入れるために。
♈
雲ひつじの背中を頭部側へと歩いていくと、高さ10mはあるだろう白い壁が見えてきた。そびえたつ巨大な壁はその大きさに対して圧迫感を感じさせない。それは、この壁の素材が全て雲ひつじの毛であるからだろう。この壁は、雲ひつじの毛を刈り取っている人たちが、あえて刈り取らず残したものだ。防風林の要領で、居住区の四方を雲ひつじの毛を生やしたままの状態にして彼らは強風から身を守っている。
その防風毛には各辺に二ヵ所ずつ通路がある。幅5m、高さ3mほどの通路を見つけ通っていくと、視界が開けた。
村だ。
ここに、雲ひつじの背で暮らす民族、プシリ族がいる。
歩いていくと、複数の人影が見えてきた。私が降りてくるところを誰かが発見したのだろう。私が来るのを待っていたようだ。
遠くから手を振るとその人たちは手を振り返してくれた。
「お久しぶりです」
見知った顔を見つけ挨拶をする。彼に挨拶をしなければここでの暮らしは始まらない。
「一年ぶりだな、アマノ」
150cmほどの小柄な老人が右の親指を突き出してきた。私はそれに倣い、手袋を外した右手の親指を突き出し、親指の先端同士を当てた。これがここでの挨拶だ。
シノス。雲ひつじの背で暮らしているプシリ族の長老は、二年前に初めて会った時から私を優しく包み込んでくれた人格者だ。
彼を補佐するように並び立つ男二人が頭を軽く下げた。それは紛れもなく「礼」であった。去年私が教えたことを彼女たちは覚えていてくれたようだ。私も彼女たちに礼をする。
「そろそろ来ると思っていたよ」
「一年ぶりです。また来れてとても嬉しいです」
今度は握手で互いを認め合う。初めて雲ひつじに降り立った二年前に二日、去年に一ヶ月ほど共に過ごしたことで、おおよそのコミュニケーションが出来るようになっていた。言葉は互いに慣れない英語を使っているためたどたどしいが、ボディランゲージやリアクションがあれば大抵の意志は伝えることが出来る。
「今回は長く居てくれるんだろう?」
「はい、もしよければ二ヶ月ほど居たいと思っています」
「大歓迎だ。なんならここの住人になってくれたっていいんだぞ」
シノスは朗らかに笑いながら私の腰にポンポンと叩いた。
気付けば10人ほどの老若男女が私を囲むようにして立っていた。シノスも含め、全員が雲ひつじの毛で作られた白いワンピースを着ている。腕にアームカバー、足にはロングソックスを着けている。夏とはいえ雲ひつじがいるのは高度5000mだ。気温は0度前後で、雲の切れ間から降り注ぐ直射日光は少しばかり厳しいものがある。多くの村人たちが体全体を雲ひつじの毛で覆っている。ひとりひとりを見てみれば、使い込んで服が灰色にくすんでしまっている人もいれば、赤色の幾何学模様が描かれている服を着ている人もいる。
「まずは族長に挨拶に行くといい」
「え、族長はあなたじゃないんですか?」
去年会った時はシノスが族長だったはずだ。
「この前代替わりをしたよ。今はヒスヒドが族長をやっている」
あやつは今ごろ頭にいるはずだ、とシノスは雲ひつじの頭部の方を指さした。
雲ひつじの肩から頭部にかけてなだらかな下り坂を降りていく。
視界の大半が雲に覆われた空というのは、何とも不思議な感覚になり、慣れていないと前後不覚に陥りそうになる。綺麗に刈り取られた道の左右は、雲ひつじの毛が高さ1.5mほどで均等に刈り取られている。急な強風に煽られる可能性を考慮した造りだ。その整備された一本道を歩いていると、自分が異界に来たのだという実感が湧いてくる。雲ひつじの頭部はより一層独特な空気のする場所のように感じる。
頭部に辿り着くとそこには、精悍な男が一人立っていた。その背中は、どこか遠くを見つめているように見えた。腕と足には何も着けていない。筋肉質で浅黒く焼けており、身体に一本の芯が通っているようだった。服は他のプシリ族と同じワンピースであったが、全体が赤黒く染められていた。
己の全てを雲ひつじの血で洗い、染める。それが族長になるための儀式であり、雲ひつじの血で染めた赤黒い服が族長である証になるのだと、シノスから聞いたことがある。
「族長のヒスヒドですか」
恐る恐る声をかけると、ヒスヒドは遠くを見つめたまま応えた。
「雲下人、お前は何をしに来た」
ヒスヒドの声は凛としていて、大きな声を出している訳ではないのに風を切るように私の耳まで届いた。寒さではない身の引き締まりを自覚した。
「……プシリ族の文化を知るために来ました」
急な質問に戸惑いながらも風音に負けないよう声を張って答えた。
ヒスヒドは黙っている。声が届かなかったのだろうか。
「そんなことではない。本当の目的を言え」
口を開こうとしたところで、ヒスヒドはこちらに振り返り、私の目を見た。
力強い。そう思った。ヒスヒドの目には、確信のあることしか話さない、話させない、という意志を感じた。
「本当の目的は……」
言葉を選ぼうとする。出来る限り誤解のないように伝えたい。
「肉、だな」
そんな私の思いは吐き出される前に四文字で片づけられた。
「……はい。もしお願い出来るのなら雲ひつじの肉を少しで良いので分けていただきたいと、考えています」
彼の気迫に負けている自分を自覚して息苦しくなる。絶対に素直に言い切った方が良いと分かっているのに、身体が頭についていっていなかった。
「それは出来ない」
そんな私を意に介せず、ヒスヒドは断絶を示した。
「……なぜ」
「お前らは我々の事を何も知らない。我々は伝統のもとにポバテオの背で暮らさせてもらっている」
「ここで誰かから肉を振舞われて食う分には仕方ない。だが、それを雲下に持って帰ることは許さない」
にべもない。取り付く島がない。論理が分からない。
「そんな……私はあなた方のことを知ろうとしています」
ここで素直に折れる訳にはいかない。そんな幼い反抗心が口をついて出た。
「知ろうとしてからでは、知ってからでは遅いのだ」
まっすぐな目で私を見据えながらヒスヒドは言い切る。これだけが真実なのだと言わんばかりの物言いでありながら見下すような色は見えない。
「どういう意味か分からないだろう。なら、分からないままでいろ」
「ポバテオは常に我々を守り、我々は常にポバテオに仕える。そこに雲下人が入り込む余地はない」
そう思っていない奴らもいるがな、とヒスヒドは呟いた。呟きすら、風音を苦にせず私の耳まで届く。
「今回の滞在は認めてやる。ただ、もう二度と来るな。お前に限らず全ての雲下人は我々と関わるな」
「待ってください、少し話を」
「もう一度言う。我々と関わるな。それが互いのためだ」
私の言葉を遮りそう言うと、ヒスヒドは黙った。
♈
雲ひつじと人類の邂逅は五年前に遡る。ネパールを中心に複数の目撃情報が入り、各国の国防機関は対応に追われた。
謎の超巨大空中移動物体。それがどこかの国の新兵器なのか、それとも地球外生命体の宇宙船なのか、あるいは未知の生物なのか。各国が慎重な検討と対応を取る中、すぐさま雲ひつじに接触したのは一人の冒険家だった。
グレイソン・シェイプはウイングスーツを使いこなすアメリカで有名な冒険家として有名であった。シェイプは自慢の滑空技術と少しの幸運で雲ひつじに降り立つと、プシリ族とのファーストコンタクトを果たした。彼の手記にはこう記されている。
プシリ族――私はのちにこの部族名を知ることになる――は地球外生命体ではなさそうだった。
見た目は人間であり、しかしながら新兵器を操縦している某国の人間と言うにはいささか野生的であり、
世界中を旅した私でも聞き覚えのない言語を使っていた。
『雲ひつじとともに』(グレイソン・シェイプ)
彼は、持ち前の明るさとボディランゲージで彼らと交流した。少しずつ互いの言語を理解し、二ヶ月後には片言の英語を話す者も現れていたという。
私とシェイプは同じウイングスーツ仲間だった。何度か雲ひつじについても直接話をしたことがある。その時の彼の眼はいつも輝いていた。
「アマノ、雲ひつじは本当に魅力的なところだ。プシリ族は野性的でシンプルな暮らしを何にも邪魔されず延々と続けているんだ。革新や発展を求めず、安寧が雲ひつじによって保証されている。プシリ族と雲ひつじは常にともにあるんだ」
そんな彼の言葉に私は怪訝な顔をしていたのだろう。彼は私の顔を見て笑っていた。
「それの何が面白いかって? 行ってその空気を感じれば分かるさ」
「特にその中でも、アマノにもぜひ食べて欲しいと思っているものがあるんだ」
いたずらっ子みたいな目をしたシェイプはこう続けた。
「雲ひつじの反重力肉。これを食べたらアマノ、世界が吹っ飛ぶぞ!」
そうして、彼はプシリ族と雲ひつじを世界に発信し、幾ばくかの混乱と議論を経て雲ひつじが独立地域として地上から認められたのが三年前になる。その間、プシリ族との交流が認められたのはシェイプだけであり、そのシェイプは三年前に雲ひつじから地上へ帰還中に行方不明となった。
だから私は、雲ひつじを目指した。シェイプが言っていた魅力を知るために。雲ひつじの反重力肉を食べるために。そしてシェイプに代わってそれらの魅力を世界中に伝えるために。
♈
ヒスヒドとの会話を終えシノスの元へ戻ると、シノスは仮住まいの家を紹介してくれた。
「アマノのために作った家だ。他の家よりは簡素だが、丈夫だぞ」
雲ひつじから生えている毛をまとめ固めて造られた立方体の白い家は、周囲の同様の家と比べ一回り小さく、簡素なデザインではあったが一人が暮らすには十分な広さを持っているようだった。
「ありがとうございます。まさかこんなものまで用意していただけるなんて」
深々と礼をする。顔を上げるとシノスは笑顔で礼を返してくれた。
「ところで、ヒスヒドはどうだったかね」
シノスは少し心配そうな表情をしながら質問してきた。
「あぁ、まぁ、一応滞在は認めていただけましたが……私たちの事があまり好きではないのかなと思いました」
私の曖昧な物言いに、シノスは二度ゆっくりと頷いた。
「そうだな。悪い奴ではないんだが、一族の伝統を重んじすぎるきらいがある。だからアマノたち雲下人の事をよく思っていない面があるんだろう」
シノスはヒスヒドが居るであろう方を見つめた。
「ヒスヒドは誰よりもポバテオと強く繋がっている。だからこそ誰よりもポバテオを敬服してやまないのだ。そしてそんなヒスヒドを我々一族は大いに認めている。だからこそ族長にした。ただ、その一方でヒスヒドの主張とは異なり、我々の多くはアマノたち雲下人を歓迎もしているんだ」
難しいと思うがヒスヒドの事も我々の事も分かってやってほしい、とシノスは頭を下げた。その姿を見て私は恐縮してしまう。
「とんでもないです。皆さんにも色々と事情があると思います。ヒスヒドにも言われました。「お前らは我々の事を何も知らない」と。本当にその通りだと思います。私はまだまだあなたたちの事を知らない。だからこそ、少しずつ皆さんの事を知れたらと思っています。なので、これからもどうぞよろしくお願いします」
深々と頭を下げる。英語は慣れないし、正しく言葉が伝えられているか分からないけれど、せめて誠意だけは伝わって欲しいと思えた。
「アマノ、顔を上げてくれ」
顔を上げるとシノスは笑顔だった。
「堅苦しい話はこれくらいにして、お楽しみの食事といこうじゃないか」
シノスに促され村の食堂に向かった。気付けば日が落ちかけていた。
道中には畑がある。雲ひつじが高山に接近したときに採取したという土や草と自分たちの糞尿を混ぜた腐葉土が広がる区画で、この畑で50人ほどの一族全員分の野菜を育てている。中には見たことのない野菜や知らない草も生えている。
畑では何人かが農作業を切り上げようとしているところだった。こちらに気付くと頭を下げてくれた。少し距離があったので、私は手を振って応えたが、手を振ってから反省した。向こうが頭を下げているのに手を振るだけで返したのは少し失礼だったかもしれない。シノスにそう伝えてみると「そんなことはない」と返ってきた。
食堂では火が灯され、何人かが食事の用意をし始めるところだった。シノスは彼らに声をかけた。
「アマノがやってきたぞ。皆、今日はアマノにノスティモを振る舞ってあげよう」
シノスの言葉に彼らは呼応した。すると、一人の男が奥の調理場からこちらにやってきて、私の前にある机上に肉を置いた。
いや、「肉を置いた」という表現は正しくない。正しくは、「男がお盆で肉を上から抑えている」のだ。
つまり、肉は浮いていた。
何度見ても違和感が拭えない。じっと観察するが、机とは接地していない。やはり浮いている。お盆や肉に粘着力がないことは過去に何度も調べている。
「やっぱり浮いてる……」
そう呟く私の隣でシノスが笑う。
「アマノがこれを見て驚く姿は何度見ても愉快だよ」
雲ひつじの反重力肉は、プシリ族にとって大切な栄養源だ。高度5000mという高地でプシリ族が健康的に暮らせている大きな要因になっていると彼ら自身が信じている。実際のところ、正確な年齢は分からないがシノスをはじめ、プシリ族は長寿であるように見えるのであながち間違いではないのだろう。
お盆で肉を抑えていた男は、シノスに何かを訊いた。正直、プシリ語はほとんど分からない。男の問いに、シノスは短く答えた。意味は分からないが、ノスティモを作るための反重力肉が目の前に用意されていて確認することは「回数」だけだろう。そしてそれが確認されたのなら、次に起きることは私も知っていた。
男は大きく息を吐き、軽くジャンプを三度して、気合を入れた。準備が出来たらしい。
そして男は慣れた足つきで、反重力肉に膝蹴りを入れ始めた。
パンッ パンッ パンッ パンッ
見事なフォームで肉に膝蹴りが入る。しっかりと体重の乗っかった重たい膝蹴りだ。
5回、6回、7回、とリズムよく膝蹴りが反重力肉に入っていく。
男の右膝には雲ひつじの蹄で作られた膝当てが付けられている。その膝当てで反重力肉に膝蹴りを入れると反重力作用が収まると聞いたときは、冗談を言われているのだと思って笑った。
パンッ パンッ パンッ パンッ
小気味いい音とともに膝蹴りの回数が増えていくと、男の持っているお盆の角度が変わっていく。
真上から肉を抑えていたお盆が少しずつ傾けられ、10回ほどで地面と垂直になる。更に膝蹴りが入っていくと、だんだんとお盆のあるべき向きに落ち着いていく。
パンッ パンッ パンッ パンッ パンッ パンッ
17回ほどでお盆は地面に置かれた状態になり、肉も浮いていないように見える。そこから3回ゆっくりと肉に膝を入れると、肉が載ったお盆を奥の調理場へと持って行った。男の額には汗が浮かんでいた。
「あれが今一番の膝蹴りの使い手のゴーナトだ」
春に行われた膝蹴り大会で優勝したばかりだという。族長も変わって、今プシリ族は世代交代が上手くいっている途中なのだとシノスは誇らしげに語った。
その言葉に、私は何となく反応する。
「世代交代ということですが、プシリ族は仕事の引退とかはあるのですか?」
引退の先は命の終わりがある。そこに興味はあるものの、流石にそこまでは訊けないと自制をし、シノスに質問を投げかけた。
シノスは私の質問に喜んで答えてくれた。
「引退、というのはよく分からないが、あらゆる仕事に従事している我々は、次の担い手が出てきたら自然とその役目を終えるものだ。ここではポバテオが自然であり、我々はポバテオに全てを委ねている。仕事だけじゃない、我々は死ぬまで何かしらの役目を背負い、それを全うするために生きている。それがポバテオのためになると知っているからだ。死してなお、ポバテオと共にあることが我々の幸せなのだよ」
そう答えるシノスはとても楽しそうで、その目は純然たる敬意に満ちていた。
その答えと様子に、思わず考え込んでしまう。つまり、プシリ族たちは自分たちがより豊かになるにはという考えが希薄なようだ。シェイプの言っていたこととも通じる。
常に雲ひつじとともにあるプシリ族。そういった部族は地上でも珍しいことではない。小さな島に暮らす部族、外部との交流を遮断し山の中で暮らす一族、領主の城を中心に文化圏が生まれた中世の都市国家や近世の武家藩。多くの人間が何かを自分たちの象徴として敬い、衰勢をともにしてきた。プシリ族もその例に漏れないということだ。
ただ、プシリ族がそれらの地上の人間たちと異なる点がある。それは、プシリ族はその象徴に自分たちの命を完全に握られているということだ。
雲ひつじが急に落下したり回転したりすればプシリ族たちは落下死する。急上昇でもすれば酸素が欠乏して窒息死もする。雲ひつじが死ねばその時はプシリ族の滅亡でもあるだろう。彼らはどこにも逃げることが出来ない。
全ては雲ひつじの御心のままに。言ってしまえばここは選択肢のない世界なのかもしれない。変わりたくないのではなく、変わるという選択肢が存在しない世界なのだ。
明日生きるも死ぬも雲ひつじ次第。そんな相手をプシリ族は心から敬服している。
ストックホルム症候群みたいだと思ってしまった。
しばらくすると、調理場から料理が出てきた。出来立てのそれは湯気が出ており、香辛料の刺激的な香りが鼻から脳へと届き、思わず唾を飲んでしまう。食べる前からそれが確実に美味しいものだと身体が反応している。
「ノスティモだ。好きなだけ食べると良い」
そう言うシノスは子供みたいな笑顔を見せる。何とも楽しそうだ。気付けば周囲にプシリ族の人たちが集まり始めた。
雲ひつじの反重力肉を使った料理、ノスティモ。反重力肉を雲ひつじの乳と香辛料で煮込んだ料理で、その調理法はインドネシア料理のルンダンに似ている。出来上がりもルンダンに似ていて、味に関しては世界一美味しい料理と言われているルンダン以上の美味でもある。
しかし、私はまだこの料理を完食したことがない。
「今回はしっかり20回膝蹴りを入れているから大丈夫さ」
全然そんなことを期待していない笑顔をしている。シノスはいつも笑顔でいるが、この時の笑顔が一番輝いている。
周りのプシリ族の人たちも期待に満ちた顔で私がノスティモを食すのを待っている。こうも期待されると食べたくても食べづらい。
それでもせっかく出された美食だ。食べない訳がない。
一度大きく息を吸い、吐く。覚悟を決めた。
「いただきます」
手を合わせる。持参した箸で調理された雲ひつじ肉を持ち上げる。肉は浮いていないが、見た目よりも軽く感じる。
一つの空間に20人もいるとは思えない静寂。外の風の音が聞こえてくる。
そっと雲ひつじ肉を口に運んだ。
肉、を、噛み、締め、る。
瞬間、宇宙の深淵を感じた。
野性的で刺激的な香りとともに触感が私に幸福を教えてくれた。雲ひつじ肉は弾力があり、噛むごとに繊維がほぐれていってとても美味しい。だが本質はそこではない。肉を嚙むたび、微かに残っていた反重力素が口内で広がってくるのだ。宇宙の深淵としか言えない何かが脳に直接響く。宇宙の深淵は脳内で徐々に振動幅を上げていく。世界が回り始める。同時に固有種の香辛料の香りが口から鼻へ抜け、得も言われぬ脱法感を抱かせる。ノスティモが体内を落下していく。口がとろけ、喉が溶け、それが胃に到達すると、ピンクと紫と黄色と赤がグラデーションとなって体中に浸透していく。身体が急激にハイへと遷移する。それでも私がどうにか壊れず耐えられているのは、それらを羊乳がワイルドに包み込み多幸感を与えてくれているからだ。身体が熱を帯びノスティモが指先足先まで届いた。分かった。分からされた。今、私は包まれた。これが食事の完成形なのだ。私はノスティモと一つになった。その感覚はまるで――――
――やわらかい灯りを感受した。少し遅れて、自分が目を開けたことを自覚した。
ぼやけて見える白い天井。そして騒がしい周囲。
やはりこうなったか。
トランスから抜け切れていない頭で現状を整理する。単純な話で、ノスティモが美味しすぎて私は気絶していたのだ。トンだのは一瞬だけだと思う。目線を泳がせると、プシリ族の人たちは手を叩いて喜び笑っている。中には涙を流して笑っている者もいた。
彼らにとって20回以上膝蹴りを入れた雲ひつじ肉は何の刺激も感じないレベルのものらしい。それを食して身体が驚き気絶するなんてことは有り得ないことで、とても可笑しいことなのだそうだ。おそらく、赤ちゃんが生まれて初めてレモンを舐めてとても驚くリアクションを見ているような感覚なのだろう。私が去年初めてノスティモを食べて以来、このリアクションはプシリ族にとってスマッシュヒットのコンテンツとなっている。私は気絶するほど美味しい食べ物を食べれて幸せだし、それを見てみんなが喜んでくれるのなら良いことだと思う。強いて言えば、食べた後の疲労感だけが欠点だが。
意識が回復してからも、しばらくそのままでいた。まだ浮遊感があった。
なんとか身体に力が入るようになると、ゆっくりと起き上がった。周囲から励まされ称賛されながら蒸かし芋と水をいただいて軽く挨拶しながら家へと戻った。
家に辿り着くと、地面――ではなく雲ひつじの背中――に寝転がり大の字になる。
「はぁ、疲れた……」
軽く息を切らし、独り言をこぼし、高度計つきの腕時計を見る。
高度5024m、時刻18時25分。
なんだか惜しい気持ちになってしばらく腕時計を見つめていたが、高度が上がる前に時刻が進んでしまった。ついでに高度は1m下がった。
再び大の字になる。背中が温かい。それもそうだ、雲ひつじの背中なのだから。
ようやく落ち着いて、雲ひつじが生き物なのだと実感する。
あまりにも大きく、動きが感じられないせいで、今自分が立っている場所が生物の背中の上であることをつい忘れてしまう。
生きているのだ。雲ひつじも。
今度はうつ伏せになって、雲ひつじの柔らかさと熱を手のひらに感じる。耳を当てると、奥深くでドクドクと血が流れているような音が聞こえる。もしかしたら鼓動音かもしれない。
「こいつはどこで生まれたんだろうな」
突如地球上空に現れた雲ひつじとプシリ族。その出自はシノスに訊いてもよく分からないと言われた。常に雲ひつじとともにいるだけの彼らは、雲でいつも隠れている眼下の世界に興味関心などなかったみたいだ。もしかしたら異世界から転移してきたのかもしれないし、長年発見されていなかっただけで太古からいたのかもしれない。残念ながら、それが分かることは永遠に無いのだろう。
「こいつはどうやって生きてるんだろう」
ぽんぽんと二度雲ひつじの背をたたいた。
プシリ族は雲ひつじから肉や乳を分けてもらって生きている。なら、雲ひつじはどうなんだろうか。生物なら代謝が行われているはずだ。地上のひつじは草食動物だが、雲ひつじは何を食べているのか。空気中の水分や二酸化炭素と太陽光とで光合成でもしているのだろうか。
以前にこのことを一度だけシノスに訊いたことがあるが、シノスもよく分からないらしい。だからこそ神格化されているという側面もあるのかもしれない。
「本当にここは分からないことだらけだ」
目の前に未知があふれている状況に心が躍る。プシリ族の言語も文化もまだまだ知らないことばかりで、雲ひつじに至ってはほとんど何も分からない。
だからこそ、プシリ族と交流して、雲ひつじの肉を地上に持ち帰ってしかるべき研究機関で分析してもらいたいと思っている。
個人間でも地域間でも国家間でも、友好関係を結ぶためには相互理解が必要だ。相手を知る努力をしなければならない。でなければ、生まれるのは断絶か闘争だ。
大仰な使命感を抱いている訳ではないが、冒険をして楽しませて貰っているのだから、少しくらいはみんなの役に立つようなこともやっても良いのではないかと思っている。きっとシェイプもそんなことを考えながらプシリ族と交流をしていたはずだ。
まずは彼のように長期間プシリ族とともに暮らして理解と友好を深めよう。そして二ヶ月後、少しでも認めてもらえていたら、もう一度反重力肉を分けてもらうお願いをしよう。
そう考えながら私は雲ひつじ滞在一日目を終えた。
♈
雲ひつじでの暮らしが一ヶ月を過ぎようとしていた。季節は完全に夏になっていたが、気温は上がるどころか下がっていた。雲ひつじは日本から緯度を上げ、現在はロシアの上空を漂っている。服も少し厚みを持たせるようになった。
私のためにと編んでもらった雲ひつじワンピースも所々に汚れが目立ち始めた。顔も手も日に焼け、見た目だけは立派なプシリ族になっていた。
今朝も食堂で簡単な食事を済ませると、集合場所へ向かう。
家、家、治療院、工房、家、食糧庫、倉庫、家、家、畑、畑、畑。
防風毛で四方を囲まれた村は、必要最低限の設備で50人程度のプシリ族が生きている。通貨は存在せず、食糧や雑貨の全てを平等に分けている。仕事も、各自が決められた役割に従事している。
私は、プシリ族の仕事を見て回るために一週間ごとに仕事を変えてもらっている。
先週は畑仕事をし、今日から雲ひつじの手入れの仕事をする予定だ。雲ひつじの側面を降りていって蹄を削りにいくらしい。高度5000mでの空中作業は想像するだけで身震いしてしまうが、リスクを重ねなければリターン(雲ひつじ肉)はきっとない。
そう覚悟を決め、昨日伝えられた集合場所へ向かっていると突如、甲高い笛の音が村じゅうに鳴り響き、プシリ族たちが慌ただしく動き始めた。
「何が起きたんだ……?」
「アマノ」
戸惑いを覚えていると、シノスが数人の男を引き連れて歩み寄ってきた。
「お前さんの同類が上空からこちらにやってきているようだ。一緒に来てくれ」
私は曖昧な返事のままシノスと数人の男たちのあとについていく。しかし、そこに族長であるはずのヒスヒドの姿はなかった。
上空からの来訪者は二人組のロシア人だった。
「ミハイルです」
ミハイルは私よりも流暢な英語とハグで挨拶をしてくれた。もう一人のマトヴェイは少し英語が苦手なようだ。ミハイルとマトヴェイは、どちらも30代中盤で、少し年上だ。二人とも雲ひつじに来るチャンスをずっと待っていたという。
二人はシノスの計らいで、プシリ族の家に一人ずつホームステイすることになった。
まずはくつろいで貰うため、二人を私の家へと招いた。久しぶりの地上人との交流は盛り上がった。
「一ヶ月もここで暮らしてるのかい!?」
ミハイルは私が話すこと一つ一つに驚き、色々と私から話を聞きたがった。一方のマトヴェイは目に映るもの全てをカメラに収めようと撮影で忙しくしている。この役割分担はずっと練っていたものなのだろう。ちょっとした所作にも、テレビのレポーターとカメラマンのように息のあった連携が感じられ、思わず感心してしまう。
聞けば、二人は雲ひつじがロシアの領空内にいる間しか滞在することが出来ないらしい。現在の雲ひつじの航行速度を考えると一週間程度といったところだろう。私も最初は同じ条件で滞在していたので、少し先輩風を吹かせながら知っていることを話した。
「ところで、アマノはなんで雲ひつじにやってきたんだい?」
ミハイルの質問に、私はシェイプとの思い出とともに、雲ひつじ肉を地上に持ち帰りたいという話をした。
「それで、雲ひつじ肉は持って帰れそうなのかい?」
「いや、来た時に族長のヒスヒドに断られたよ。あれはだいぶ時間をかけて信頼関係を築かないと許してもらえなさそうだよ」
そう言うと、ミハイルは少し陰のある笑みを浮かべた。
「なら、こっそり持って帰ればいいじゃないか」
急にマリーアントワネットみたいな事を言われて面食らう。彼は神聖ローマ帝国の血を受け継いだオーストリア出身フランス育ちなのだろうか。
「いやいや、ダメだろそれは」
「ダメではあるかもしれないけど、もしもう二度とここに来ないと決めたのなら、人類の科学進歩のためにも地上に反重力肉を持って帰ることはとても有意義なことだと思うよ」
天秤の問題さ、とミハイルは事もなげに言う。
反重力肉を持って帰ることだけが目的なら最悪そういった手段も取れるのはたしかだ。しかし、そんなことをしてしまえばプシリ族は二度と地上人を信用しなくなる。そうなったら、未知の物質を前にした地上人が取る行動は侵略だ。それは私の本意ではない。
私の意見にミハイルは頷いた。マトヴェイは黙って話を聞いている。
「まぁ、そうだろうね。僕だってそう思うさ。ただ、あくまでも最後の手段としてそういうことが、シミュレーション上ではあり得るという話だよ」
僕たちも出来れば祖国に反重力肉を持って帰りたいと思っているからね、とミハイルは思わせぶりな笑顔を見せた。
ミハイルとマトヴェイがやってきて2日が経ち、彼らがこの高度に順応したところで、プシリ族の生活を見て回ることにした。
「え、これで降りていくのかい……?」
ミハイルは信じられないといった顔をしている。マトヴェイも心なしか表情が暗い。
私も二人も、腰に雲ひつじの毛の命綱を巻き、腹と両腕に雲ひつじ肉を巻いている。その姿は浮き輪をした泳げない子どもそのものだ。反重力肉の浮き輪は、焼かれて焦げ目がついているが生臭い。これから雲ひつじの蹄の手入れを見学しに行くのだ。
「基本的には毛を掴みながら下に降りて、蹄を削ったら登って帰ってくることになる。ほぼ無重力になれるから落ちる心配はしなくて大丈夫だよ」
そう言って二人を安心させようと思ったが、かくいう私も数回やったことがあるだけで怖いものは怖い。
「風で吹っ飛ばされないように気をつけな」
二人の背後から蹄削の名人のコピオロが脅すように付け加えると、二人とも顔に力が入った。
毛を掴みながら、というより毛に埋もれながらといった状態で雲ひつじの蹄を目指して降りていく。蹄に降りていくルート以外は毛が刈り取られているせいで、今の雲ひつじを遠くから見ると不格好な見た目になっていることだろう。
毛を掴んで、自分を引っ張り下ろす。
腕と腰に巻いた雲ひつじ肉の反重力と自重が均衡して、疑似的な無重力状態になっている。少し力のベクトルを与えてやれば、文字通り縦横無尽に移動できる。
だからこそ、風は命取りだ。
雲ひつじの毛に埋もれて高度5000mの強風をやり過ごしていく。
ゆっくり2時間かけて足の根元までやってきた。ここから先は毛が薄くなり、身体が強風に晒されることになる。
しかしコピオロはそれを意に介せず身体を上下反転させると、蹄に向かって毛を掴みながら一直線に進んで行った。
私は安全のためにコピオロの腰に巻いている命綱を握ってはいるが、そんなのは気休めだ。強風が吹き荒れればコピオロも命綱を握っている私もどこかへと吹っ飛ばされるだろう。
そんな様子をロシア人二人は恐怖半分興奮半分で眺めている。
コピオロは両手の親指同士を突き合わせながら何かを唱えた。雲ひつじに祈りを捧げているのだ。雲ひつじから何かを得るときは必ず行われる儀式で、コピオロが行っているのはその簡略版だ。
一通りの祝詞を唱え終わると、コピオロは腰の革袋から鎌を取り出した。雲ひつじの毛を溶かし固めて作られた刃物は、雲ひつじ上にあるあらゆるものの中で一番固い物質となる。
その鎌で輪郭に沿って蹄を削っていく。雲ひつじの蹄は先端側が二股に分かれている。それらの輪郭を削り取っていくのだ。要領は人間の爪切りと似ている。刃を蹄に食い込ませ、てこの原理で輪郭を本体から切り離していく。
コピオロはその作業を黙々と進める。時折、程よい大きさに削れた蹄を反重力肉の浮き輪に突き刺している。持って帰って様々な素材に転用するのだろう。
一時間ほどで、二股の片側を一通り削り終えた。これを何回も繰り返して蹄を綺麗に整えていくのだ。コピオロが手を上げたので、三人で命綱を持ってコピオロを引っ張り上げる。採取した蹄の分だけ重さを感じた。
「少し怖かったけど、かなりエキサイティングな経験だったよ」
私の家に戻った後も、興奮気味にミハイルが語り続けている。三人とも疲労困憊だったが、やり遂げた爽快感があった。
「あと4日しか居られないのが残念だよ。来年は長期滞在出来るようにどこかの国に着陸許可をもらっておかないとね」
そういうミハイルはとても悔しそうだった。それでも彼の興奮は冷めない。ミハイルはマトヴェイと来年のことについて話し始めた。その感覚は私も強く感じているものだ。ここには、地上にはなく、大空を飛ぶ中にもない、固有の興奮と安寧が存在している。
私もその会話に混ざり来年の事を話していると、シノスが私の家を訪れてきた。
「三人とも、今夜はポバテオの肉を貰い受ける儀式をする予定となった。もしよかったら見てみてはどうかね?」
♈
深夜、白い防風毛の壁の外へ出て、松明が多く掲げられた儀式の場へ向かった。
シノスは大抵のことに関しては寛容だが、今回はめずらしく撮影禁止であると伝えられていた。神聖な儀式であることは我々も十分承知していたので、三人とも手ぶらだ。
「楽しみだね」
ミハイルは楽しそうに語りかけてきた。私も頷き返す。本当に楽しみだ。
「実は私もまだ見たことがなかったんだ」
そう言うとミハイルは更にテンションが上がった。マトヴェイとロシア語で話し始めた。マトヴェイは少し膨らんでいる胸ポケットに軽く触れながら頷いていた。その様子を見て私は嫌な予感がした。
「おい、もしかして……」
私がマトヴェイに向かって胸ポケットに入っているであろうものを指摘しかけると、ミハイルが手で私を制して口に人差し指を当てた。
「大丈夫、バレないよ」
ミハイルとマトヴェイの揺るがない瞳を前にして、私は黙るしかなかった。
夜風に負けず煌々と辺りを照らす松明は、近づくと汗が滲むほど熱い。シノスに促され、私たち三人は松明で作られた円より外側に座らされた。
松明で円形に囲まれた中心にヒスヒドが居る。ヒスヒドは目を瞑り佇んでいる。
30分ほど経っただろうか、ヒスヒドは目を開け周囲のプシリ族たちに言った。
「はじめよう」
周囲の男たちは手に持った打楽器を奏で始める。雲ひつじの皮で作られた打楽器は高音と重低音を同時に響かせ、打楽器同士が共鳴し合うように音を重ねていく。私の耳が震え、皮膚が震え、胃が震え、身体がその場に固まっていく感覚になる。
その中で、女たちが踊り始める。ゆったりとした手足の動きは不規則でありながら、踊り手同士が調和し、音楽とリズムをともにする。しばらくすると動きを加速させ、くるくると自らが回転しながらヒスヒドを中心に時計回りで移動していく。彼女たちの視線はヒスヒドに集中している。全員が三周し、元の位置に戻ると、今度は身をかがめながら空に右手をかざし、左手を広げ、雲ひつじの背に触れる。全身でリズムを取りながら、続いてその場で立ち上がりながら上半身を時計回りに回旋させ始めた。そのまま両手の親指同士を近づけていく。親指同士が触れた瞬間弾けるように飛び上がり、ヒスヒドに向かってひれ伏す。
打楽器は鳴り続けている。次第に男たちの腕の動きが大振りになっていき、一音一音が夜空に響き渡っていく。
ヒスヒドは、何かを唱えている。プシリ語で唱えられる祝詞が、私の中にも染み渡っていく。細かい意味は分からない。それでも、それがポバテオへの感謝と祈りであり、ポバテオへの申請と交渉と妥結とその先についての交信であることが理解できた。分からない言語が理解出来ている感覚に高揚感を覚える。
そこに、大剣を両手に持ったシノスがやってくる。
ヒスヒドは祝詞を唱え終わるとシノスから大剣を受け取った。
打楽器が更に激しく打ち鳴らされていく。テンポが上がっていく。
大剣が振り上げられると、音の重なりは最高潮に達した。私は一音ごとに頭が揺り動かされ、まともに座っていられているのかも分からなくなってしまっている。それでも、ヒスヒドからは目を離せなかった。
ヒスヒドが大声で叫んだ。打楽器たちの大合奏を打ち消すほどの信じられない声量で全ての音が消え、大剣が空気を切り裂く音だけがその場を支配した。
次の瞬間、視界が赤に染まった。
数瞬のうち、それが雲ひつじの血であることを認識する。
中心には、深々と大剣を刺し立てたまま両手を広げ、雲ひつじの血を一身に受けているヒスヒドが居た。その周囲で、男女が入り乱れて雲ひつじの背に鎌を突き立てて皮を剥ぎ、肉を切り取り始めている。
ひと時も目が離せなかった。おそらく隣に座っている二人も同じだろう。
血の噴水はしばらく続き、次第にその勢いを落とし始めた。ヒスヒドは俯き、両手の親指を突き合わせている。その周囲10mは皮や肉が剥ぎ取られ窪みとなって噴き出た血を溜め込んでいる。
血が完全に収まると、ヒスヒドは血だまりを渡ってそのまま村へと帰っていった。
それを見届けたプシリ族たちは、宴の準備をし始めた。
「どうだった?」
付着した血を拭き取りながらシノスがやってきた。
「すごかったです……本当に、すごかった…………」
どうにかシノスに焦点を合わせて言葉を絞り出した。ミハイルたちは無言で、まだ儀式の中心だった場所を見つめている。
「これから宴が始まる。もしよかったら一緒に飲まんか?」
雲ひつじの乳酒が用意されているらしい。しかし私は、儀式で完全に体力を奪われていた。本当に申し訳ないが、それは今度の機会にとシノスの申し出を丁重に断った。
ミハイルたちにも軽く声をかけたが、「あぁ」と気の抜けた返事だけが返ってきた。そんな二人の様子を見てシノスは「この場で少し休んで宴も見ていきなさい」と言ってくれた。
私はどうにか立ち上がり、ふらふらと覚束ない足取りで家路へとついた。戻りがけにシノスから「疲れているだろうから明日は仕事を休むといい」と労われたので時間を気にせず寝ようと思った。
それからどうやって家に帰り着いたか、寝てしまったかの記憶はない。
♈
起きたら家の中がオレンジ色に染まっていた。夕方だ。
大きく伸びをして、ゆっくり起き上がる。だいぶ寝てしまったようだが、頭はかなりすっきりしている。
立ち上がろうとして、少しふらつく。水分と、あとエネルギーも足りていないと自覚した。申し訳ないが、少し食べ物を貰ってこようと思い、食堂へ向かった。
食堂にはシノスがいた。膝蹴りのゴーナトと何かを話している。
「こんにちは」
声をかけると、シノスは少し驚いた様子でこちらを振り向いた。
「ようやく起きたか、大丈夫か? 腹が減っただろう」
ゴーナトに指示を出すと、ゴーナトは調理場へ行ってしまった。ご飯を持ってきてくれるようだ。
「はい、おかげさまで。でも、「ようやく」というのは一体……」
「ん? 気付いていないのか? お前さんは二日間ぐっすり寝ていたんだぞ?」
「えっ」
言われてみればかなりお腹は空いているし唇は渇いていると思ったが、まさか二日も寝っ放しだとは思わなかった。酸素濃度が薄くなって眠りは浅くなっている中でそんな長時間眠り続けられていたことが衝撃的だった。
「そうでしたか、ご迷惑をおかけしました」
そう言って頭を下げると、シノスは「いやいや、我々は何もしておらんから迷惑も何もないよ」と頭を下げ返してきた。少し礼の使い方が変だが指摘するほどでもないだろう。
「そう言ってもらえるとありがたいです。ちなみに、ミハイルとマトヴェイはもう起きましたか?」
二人の事が気になった。私以上にあの儀式に衝撃を受けていたのだ。もしかしたらまだ眠りこけているかもしれない。ホームステイ先で丸二日以上眠り続けているとなれば、私以上に気まずい気持ちになってしまうだろう。
「あぁ、彼らなら次の日の昼過ぎには雲下に帰っていったぞ」
「えっ、そうなんですか?」
意外な事実に驚いてしまう。私より早く起きたのは良かったとしても、まさか既に地上に帰還したとは。あれほど滞在期間が短いことを悔しがっていたのに、一体どうして。
「なんでも、あの儀式がだいぶ衝撃的だったらしいぞ。早く帰ってこの衝撃をみんなにも伝えたいと言って慌てるように帰っていったよ」
そう言ってシノスは微笑んだ。
「そうでしたか……」
たしかにあの儀式は衝撃的だった。撮影を禁止されていたのにも関わらず、恐らく撮影したであろう映像をプシリ族たちにバレないうちに持って帰りたいと思うのも当然だろう。
ゴーナトが食べ物を持ってきてくれた。蒸かし芋と雲ひつじのホットミルクだった。
軽く頭を下げてお礼を言ってから食べる。二日ぶりに食べたものは、ゆっくりと胃を満たしてくれた。
食堂を後にし、散歩をしていると、遠くにヒスヒドが見えた。いつも通り無表情で、ポバテオの頭部に向かっているようだった。
何となく、ついて行ってみることにした。あの儀式を見て、少しだけ彼の事を知れた気分になったせいかもしれない。今なら一ヶ月前の時よりも少しは建設的な話をさせてもらえるかもしれない。
目的地は分かっていたので、歩く速度の速いヒスヒドの姿が見えなくなっても気にせずゆっくり雲ひつじの頭部に歩いて行った。
予想どおり、ヒスヒドはポバテオの頭部でひとり佇んでいた。その背中は一ヶ月前とは違い、俯いていた。まるで何かに祈っているようだった。
下っていく一本道の先で、夕方の大空を背景にして一人の精悍な男が立っている姿は、信仰を喚起させる宗教画のようにも見えた。
「ヒスヒド」
両足でしっかりとポバテオを踏みしめ、お腹から声を出した。それが、一番の敬意の示し方だと思ったのだ。
「お前か」
ヒスヒドは振り返り私と目を合わせた。彼の眼には、なぜか微かな愁いを帯びているように見えた。
無言で見つめ合う。何を言えば良いのか、何を伝えれば良いのか。私は、自分の中に確信が生まれるのを待った。
「幾らかこの場に染まってしまったようだな」
「少しずつ、貴方がたの事を知っている途中です」
「そうかもしれないが、そうではない」
私の言葉にヒスヒドはゆっくりかぶりを振る。そこには、いつもの力強さが抑えられているように感じた。
「お前の中に、ポバテオが息づき始めている」
「それは、決してお前の幸福には繋がらない。我々の幸福にも届かない」
「何にも至らないのであれば、来た道を戻るのが賢明であり、勇敢と呼ぶにふさわしい選択だ」
「お前は、賢者であり勇者であるか? それとも愚者であり蛮族であるか?」
ヒスヒドの問いに懸命に応える。
「私は、賢者に、勇者になりたいと思っています。そして、プシリ族と繋がり合い、共存していきたいと願っています」
その答えに、ヒスヒドはふたたびかぶりを振った。
「それは叶わない願いだ。その意志と願望の先には深淵しかない。お前はここにいる誰とも繋がれない」
「……それが貴方の答えなのですか、それが決まりなのですか結論なのですか? この先には深淵以外には本当に何もないのですか?」
一ヶ月前にヒスヒドから示された断絶は、私の対岸にプシリ族がいるものだと思っていた。しかし、今ヒスヒドが言ったのは、これは断絶ではなく先には何も無い、虚無であるということだった。
何故そう言い切るのだろうか。少なくとも今、私の目の前にはヒスヒドが居て、対話が出来ている。それにも関わらず、私が進む先には誰もいないと言い切っている。それは、目の前に居るヒスヒドは、プシリ族たちは私と向き合っていないという事なのか、そもそも同じ目線にいないという事なのか。
「無い。それは絶対だ。何故ならこの場で私が一番ポバテオを繋がれているからだ。ここではポバテオが絶対だ。何物にも揺るがすことの出来ないものがポバテオだ。この場でお前に残されている選択肢は一つだけだ」
そう言うとヒスヒドは静かに告げた。
「今すぐ雲下に帰れ。それ以外お前に道はない」
♈
村に戻ると、シノスが待っていてくれた。
「ヒスヒドと会っていたのか」
シノスの問いに、私は頷いた。
「少しは彼の事もプシリ族の事も分かって気でいたのですが、「今すぐ雲下に帰れ」と言われてしまいました」
愚痴っぽく言葉をこぼすと、シノスは私の腰に手を当てた。
「気にするな。前も言ったが、我々はアマノを歓迎している。まだ時間はたくさんある。これからゆっくり我々の事を知ればいい」
シノスの言葉に黙って頷いて、頭を下げた。私はどれだけシノスに助けられ励まされたことか。感謝の念でいっぱいになる。
気にするな、とシノスはふたたび私の腰をポンポンと叩いた。
「さぁさぁ、そろそろ腹いっぱい食べたくなってきた頃だろう。今日はアマノもきっと完食出来るようにノスティモを丁寧に調理してもらったぞ」
食堂に着くと、大勢のプシリ族たちが食事をしていた。
私たちが食堂に入ると、みんながこちらに注目した。何か、静かな興奮がこの場に満ちているようだった。
「さぁ、今出来立てのノスティモを持ってくるからな」
そう言ってシノスは調理場に声をかける。多分「持ってきてくれ」と言っている。プシリ語の勉強をしている訳ではないが、何となく雰囲気で意味が分かるようになってくるのだから不思議だ。
いつも通りゴーナトがノスティモを持ってくる。毎度膝蹴りの達人に料理を運んできてもらうというのは何となく贅沢なことのように思える。有難い限りだ。
出来立てのノスティモはいつも通り私の鼻腔を刺激してくる。ただ、出来立てだからか香辛料の刺激とともに、口に含んだ時に感じる深淵の刺激も感じられるように思えた。
「さぁ、冷めないうちに」
シノスは期待に満ちた目で言った。今回はノスティモの刺激を抑えて完食させてくれるのではないのかと疑問に思ったが、いっそ一度気絶した方がすっきりするかもしれないと思い直した。
「いただきます」
ゆっくり手を合わせて、私は箸で調理された反重力肉を持ち上げた。やはりいつもより肉が軽く感じる。膝蹴りの回数が絶対に少ない。
反重力肉をゆっくりと口に近づける。近づけるだけで目がチカチカしてくる。脳がボーっとしてくる。腹の奥から高揚感が湧いてくる。心臓が早鐘を打ち、体温が上昇しているのが分かる。身体の全てがノスティモに期待している、あの宇宙の深淵を今か今かと待ちわびているのだ。
混沌とした高揚に包まれながら、私は反重力肉を口に放り込んだ。
そして反重力肉に歯が触れ――――
♈
寒い。
目が覚めると辺りは暗かったが、いくつかの松明で周囲が照らされていた。風が強い。
身体を動かそうとして、手首と足首、胴体に何かが強く巻かれ、拘束されていることを知る。
何が何だか分からない状態だ。しかし、肌が独特な空気を感じ、ここがポバテオの頭部であることを直感した。
すると、人影がひとつ近づいてきた。逆光で顔がよく見えない。
「起きたか」
聞き覚えのある声だ。
「シノス……?」
声がかすれている。一体私はどうして。
「アマノ、お前は「礼」がプシリ族にとってどういう意味を持っているか知っていたか?」
意識が混濁する中、無表情のシノスは語り掛けてくる。こちらはそんな場合ではない。それが今の状況とどんな関係が。
「プシリ族にとって頭を下げ、目線を下にするというのは、「お前は雲下がお似合いだ。私はお前を下に見ているぞ」という意味だ」
今までに聞いたことのないシノスの声色。強風の中でも直線的に私の耳に届く声。あぁ、やっぱりシノスもプシリ族の族長だったのだと、既知を再認識した。
「空想の存在だと思っていた雲下の人間が、ある日突然我々の目の前に現れて侮辱していたんだぞ。どれほどはらわたが煮えくり返ったか」
あいつもそうだった、とシノスは呟く。
「しかし、我々は賢い。短絡的に怒りを表にするようなことはしなかった。そうして思いついたのだ。雲下人が勝手にここに来るのなら、我々の代わりにポバテオの糧になってもらえばいい。そうすれば、我々が毎年してきた苦しい選択をせずに済むようになる。お前らにポバテオの肉を食わせるのは癪だったが、最後にはポバテオの元に還るのであればと思い堪えた」
そう言って、シノスは顔に作っていた深い皺を弛緩させた。
「ようやくお前がポバテオの中に還る。これで我々はお前の顔を二度と見ずに済む」
そう言ってシノスは近くにいた男たちに短く「やれ」と言った。二人の男が私に近づき、手と足をそれぞれ持って私を持ち上げる。
「さらばだ。愚かな雲下人」
シノスは松明を掲げ、祈りの言葉を捧げ始めた。
「母なる背、プシリ族の全てであるポバテオよ。また一年彼の恵みにより一族はポバテオと共に居ることが出来た。今、その恵みを還し、再びその身を黄金に輝かせ給え」
プシリ語で発せられたはずの言葉が、まるで母国語を聞いているかのように理解が出来た。いつの間にか自分が何者かに書き換えられてしまったのだろうか。疑念が寒気を呼んだ。
シノスの祝詞に反応するようにポバテオは口を大きく開けた。ぽっかりと開けた口の奥から重鈍な呼音が聞こえてきた。きっとその先には深淵があるのだと思わされた。
私はどうにか逃げようとする。しかし、足も腕も縛られ、くねくねと緩慢な動きしか出来ない。二人の男に腕と足を持たれている私は、雲ポバテオの鼻先まで運ばれる。
暗い空が一面に広がっている。寒さだけでない震えが身体じゅうに広がる。
私の腕を持っている男が口を開いた。
「だから言ったのだ。「我々と関わるな」と、「今すぐ雲下に帰れ」と」
ハッとして彼の顔を見つめる。小さく響いたその声の主は、ヒスヒドだった。暗くて表情は見えない。私は「助けて」と声を出そうとしたが、場に気圧されたのか声も出ない。
私を持った二人は三度反動をつけると、私を暗闇へと放り投げた。
「あぁ」
最期に、阿呆みたいな声が漏れ出た。
♈
一瞬の浮遊感。
落下。
私は着地と共に獣の臭いとぬめりに包まれた。
身体がコロコロと回転し、全身くまなく雲ひつじの唾液にまみれた。そうして何かが私の中に浸透し始め、神経が研ぎ澄まされていく。理解が及んでいく。
――この暗く温かい空間は、私がノスティモを食すたびに口腔内で感じていた宇宙の深淵そのものだ。
口腔内だけだった感覚が今は全身を包み込んでいる。身体が浮かび、回転し、逆転し、歪み、引き伸ばされ、縮む。二分され、ずらされ、捻られ、押しつぶされ、微かな反発。圧力が消え、解放され、揺蕩う。永遠にトンでいられる感覚。骨、筋肉、脂肪、身体のあらゆる構成物は、ただ邪魔な境界体でしかなく、ようやくそれらが分離し融解し霧散した。意識が直接ポバテオと繋がる。何かが変容する、理解する。いや、これは理解ではない、どこまでも広く深い受容なのだ。ポバテオ、Povatheo、⊖∺⊶⊟。そう、ポバテオは他の生物群が認識できるように無理矢理ポバテオという枠に収めただけのものでしかない。そこにはポバテオの片鱗があるだけで、我々には無理に反射させ可視化させた歪んだ何かしか見ることが出来ていなかったのだ。つまり、ポバテオはポバテオではない。ポバテオは「えん」だ。ポバテオは【円・縁・延・遠・艶・淵・咽・堰・衍・怨・婉・殷・――――――――――――
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