リリの話

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リリの話

その歓声が実際に参加者たちの声拾ったものなのかどうか、テオにはよく分からなかった。些細な疑問だったが、どうも気になってこれからステージ上で始まろうとしていることに集中できない。注意深く耳を傾けていると、指ぶえが鳴らされる間隔に特徴的なパタンをいくつか認識できた。それが定期的に繰り返されるのを聞き届けて、やはりあらかじめ用意されたループ音源だったのだとようやく確信を持つことができる。おかげで少しスッキリした気分にはなったが、たとえそれが作り物の演出だからといって、このステージを楽しもうとしている者たちにとってはどうでもいいことだろう。例えば、テオの視界の端に映り込んでいる男などがその良い例である。——三日月シグマ、テオにこのライブを観ることを強要した大学の先輩だ。

 

「リリちゃん! リリちゃーーん!」

 

まだ登場してもいないアイドルの名前を叫ぶシグマの大声がテオの耳元のスピーカーを震わせる。VRゴーグルとヘッドセットを身に着けていなかったら思いっきり眉根を寄せたいところだったが、今は黙って音量を少し下げるしかなかった。ひとりで観てもよく分からないという理由で、通話を繋ぎながら参加したいと頼んだのはテオの方だったので文句は言えない。しかしこの様子ではシグマから何か実のある解説が聞けるとも思えず、テオは早速後悔していた。シグマの頼み通りにただVRライブを黙って視聴し、最後の投票でシグマがひいきにしている「リリ」というアイドルに満点を付けるだけで良かったはずなのだ。それなのにVRライブ会場の機能である「友だちと参戦」を選んでしまったため、ライブが終わるまでの間は通話だけでなくずっとシグマのアバターの身振り手振りが視界の端に映っている。それだけでももう全然集中できない。現実のシグマと同じように、彼のアバターは長身だ。何をしていても視界がうるさい。静止している時でさえ、立ち位置の座標が微妙にぶれているのか小刻みに揺れている。その動きはいかにも安物の3Dモデルのそれでしかないのだが、どういうわけかそんなところまで現実のシグマにそっくりだと思えてくるので不思議だった。

 

「おい、テオ、ちゃんとステージの方を見てろよ」

彼の視線が自分に向いていることにシグマが気付いた。

「まだ誰も出てきてないじゃないですか」

そう口答えしながらもテオは視線を戻す。精巧に作られた仮想のスタジアムの中央には、きらびやかなステージが築き上げられていて、薄暗い照明の下で主役たちの登場を待っている。シグマとテオが位置しているのはライトスタンドの二階席だった。仮想空間なのに、客席の座標は参加者ごとに指定されていてそれぞれ違うらしい。同じ料金を払っているのに見えるものが違うのでは不公平になるのではないかと思うのだが、シグマに言わせればその運不運で一喜一憂することも楽しみの一つなのだという。

「もうすぐだ。いいか、始まったら、リリちゃんのことだけを見てくれ。観客の視線も集計されて評価に繋がるんだ」

「分かりました。赤い髪の子でしたっけ」

「バカ、白い子だよ! 白百合がモチーフだからリリちゃんだ」

「ああ、なるほど……なんだか古風ですね。僕の祖母も確か5色のマスクを付けた男性グループに夢中だった時期があったと言っていた気がしますが、そっくりですね」

「テオのばあちゃんが戦隊モノのファンだったとは初耳だが、全然違うからな。……ばあちゃんには今度、話を聞かせてくれって伝えといてくれ。俺、今度そのあたりも研究領域にしようかと思ってるんだ」

「シグマさんが来てくれたら祖母も喜ぶと思いますよ。「シグマさんは顔が良い」が祖母の口癖なので」

「まあ、テオのばあちゃんにはしょっちゅう内緒で小遣いもらってたし、多少は恩返ししないとな。元気してるか」

「はい、至って健康で、内臓の若さなんて僕とそれほど変わらないくらいです。医者もあと七十年は何の心配もないって」

「そうか。百五十歳の記念で国から賞状もらえるといいな」

 

そうじゃなくて、とシグマがテオの注意をステージに戻す。

 

ほぼ時を同じくして、観客席の歓声がぴたりと鳴り止んだ。周囲が暗転したかと思うと、程なくしてバッ!という舞台照明が上がる音(が実際にするはずはないので、これもそういう効果音をわざわざ再生しているのだ)とともにステージ上がライトアップされ、足下から眩しすぎるくらいの発光パーティクルがスモークとともに噴きあがった。その中から、五つの人影が浮かび上がってくる。赤、白、青、ピンク、緑の衣装をまとったVアイドルたちだ。登場と同時に、明るく愉快な楽曲のイントロが流れる。音響は耳に直接届くのではなく、スタジアムの中の反響が再現されていて、きらびやかなステージ演出と合わさると、さすがに臨場感があった。

 

「おおおおおお!」

 

シグマのうなり声が発されるのと、客席の歓声が再び盛り上がったのは完全に同時だった。演出が計算されつくしているのか、はたまたシグマの身体にそのタイミングが染みついているのか。おそらく後者だろうということは、楽曲の合間合間に上がるシグマの合いの手のような叫び声によって察せられた。かつては《オタ芸》と呼ばれたその様式について、先日どこかの協会が無形文化遺産に登録を進めようとして物議をかもしたニュースはテオも耳にしていた。もしそれが実現したら、シグマにも声がかかるのだろうか。当事者としてか、あるいは研究者としてなのかは分からないが。

しかし今シグマがわざわざ声を出しているのは完全に無意味な行為だ。観客からライブ会場へのフィードバックの中には音声も、身振り手振りも入っていない。《オタ芸》にあたるアクションは簡易化され、ゴーグル内に表示されるガイドをタイミングに合わせて目で追うだけで空間内の自分のアバターが良い具合にリアクションを取る。うまくいくと目の前で小さな数値がポップして、アニメーション演出を伴いながらステージ上空のディスプレイに吸い込まれていく。数値は観客の興奮度としてスタジアム全体で合算され、ステージが進むにつれて数値はどんどん大きくなっていく。一定値を超えるごとにディスプレイの周りにエフェクトが吹きあがって、ステージをさらに盛り上げる仕組みになっている。

 

「リリちゃん! リリちゃんッ!」

 

楽曲の間奏でまたシグマがうるさくなる。ステージの方では、五人のアイドルたちが各自の見せ場を持たされているパートに入ったらしく、一人ずつステージ前方のお立ち台に駆けて行っては、三十秒ほどソロパフォーマンスをおこなっていた。白の「リリちゃん」が駆け出すのと同時に、シグマとの通話音声の中にカチャカチャという操作音が混ざって聞こえてきた。ほどなくして、シグマのアバターから大きな「リリちゃん!」という吹き出しが飛び出してくる。その吹き出しはその場ではじけて、シグマの声が再生される。それは通話の音声ではなく、スタジアム内の声として他の観客にも届いているようだった。というのも、シグマの向こう隣の参加者からも同じ吹き出しが出てきて、同じように見知らぬ男の「リリちゃん!」という雄たけびが聞こえてきたためにそれと知れた。客席全体を見回しても、同じようなポップが無数に湧き出てきている。テオは自分にも同じことができるのか視界の中にあるUIボードの中のメニューを素早く眺めたが、どうやら有料メニューらしいということが分かった。値段を見ると、一番少額のものでも、いつもシグマと一緒にとっているランチ三回分の値段からだったので呆れた。しかし上には上がいるようで、少し遠くの客席からでも目立つひときわ大きなゴールドの吹き出しはきっと高額メニューなのだろう。その吹き出しがはじける時だけ、「リリちゃん」の視線が一瞬そちらに向けられる。シグマも彼が博士課程の学生で、正真正銘の貧乏でなかったらきっと同じものに迷わず金を払っていただろう。

テオの目から見ても、観客のリアクションが一番良いのはシグマが推している「リリちゃん」だった。その様子に安心したのか、さすがのシグマも二度目の有料コールに手は出さず、テオの視界にはもう吹き出しが映ることはなかった。

そんなことをしながら三曲ほどアップテンポの明るい曲を聞かされたあと、バラード風のしっとりした曲が続けて二曲披露された。曲調に合わせてステージもがらっと変わり、深海をイメージさせる青一色に染め上げられた舞台の上で、五人のアイドルが人魚の姿に変身して空間上をゆらゆらと泳いだ。確かに仮想空間内なので、常にステージ上に立っている必要も、人間の姿をしている必要もないことに気が付いてその点テオは感心する。それから短い幕間があり、一度ステージ上から全員が姿を消したかと思うと、客席の間からそれぞれのイメージにそった乗り物に乗って客席の近くを周回しながら浮遊しはじめた。「リリちゃん」もテオたちの近くに来るだろうか。シグマがどれだけ興奮して大声を出しても良いように、テオは通話の音量を最小にセットした。

やがて「リリちゃん」が近づいてくる。彼女は白くふわふわした雲のようなものに乗っていた。白いワンピースのスカート部分はボリュームがあって、ふんわり広がった形で足元の雲と裾が溶けあっている。柔らかな笑顔が魅力的な、どちらかというとお嬢様タイプのキャラだ。品のいい物腰で観客席に手を振っている。

 

ついに「リリちゃん」が二人の至近距離にやってくる――その瞬間に、また例の有料の吹き出しが一つはじけて、知らない男性が彼女の名を呼ぶのが聞こえた。それと同時に、ぼふん!とコミカルな効果音と演出とともに彼女の衣装がセーラー調のワンピースに変わる。どうやらそれも有料機能の何からしかった。本来ならシグマに微笑みかけてくれるはずのタイミングで、「リリちゃん」はその衣装チェンジ機能に金を払った観客の方を向いて手を振った。

 

「ありがとう! ****さん!

 今度はみんなの前でも呼べる名前にしてくださいね!」

 

 テオは思わずシグマのアバターの方を振り向いた。しかし当然のことながらアバター越しでは、待ちに待った瞬間をレギュレーション違反で名前も分からないユーザーによって搔っ攫われた彼がどんな顔をしているかは分かるはずがなかった。

「……テオ、視線をリリちゃんに戻せ。評価に関わる」

絞り出すような声でそう言った後のシグマは、終演までずっと静かだった。

 

ゴーグルとヘッドセットを外すと、額に少し汗がにじんでいた。現実に戻れば、ここは学内の院生室だ。斜め後ろに視線をやれば精魂尽き果てた様子で椅子にもたれかかり、身体が斜めになっているシグマの後ろ姿があった。まだゴーグルをつけたまま、VRの空間に居残っている。他の学生の姿はない。あれだけシグマがうるさくしていたら当然だろう。テオは自分まで恨みを買っていないか少し心配になった。しばらくして、シグマも機器を頭から外すと、クアッと威勢よく欠伸をしながら手足を伸ばした。現実のシグマは長身で、腕も脚も事務作業用の椅子から少しはみ出て窮屈そうだ。

「三日月シグマ」

院生室の扉が突然開き、女性の低くドスの効いた声が聞こえた。

「——荒戸教授!」

思わず声を上げてしまったのはテオの方だった。荒戸ハナ。彼らの所属する研究室の教授、すなわちボスだ。未来文化研究科。未来とは名ばかりの、創立百年を迎える古い研究科で、今や教授の椅子に座っている者も荒戸を含めて四人しかいない。敢えて白く染めた髪を無造作に後ろに流したヘアスタイルとパリッとした濃紺のスーツがトレードマークの荒戸教授は、どこにいても目立つ。というよりも、学内で多少きちんとした身なりをしている人間は総じて人の目を惹きやすい。そんな教授が口をへの字に曲げて腕を組んで扉の所に仁王立ちになっているのだから、その威容たるやなかなかのものだった。名指しされたシグマではなくテオの方が震えあがってしまったが、教授は彼の方をチラと見て「神野くんも一緒だったか」とつぶやくだけで、すぐにまた視線を用のある相手の方に戻す。

 

「院生室では静かにしろ。隣の部屋の学生からも苦情が来たぞ。
 守れないなら院生室でのVR端末の利用を永久に禁止する」

「教授、どうもすみません。どうしてもここしか場所がなくて。
 アパートの大家さんにも次うるさくしたら退去だって言われていて困ってるんですよね」

「ライブを見るなとは言ってない。ぎゃあぎゃあ叫ばなければいいだけだろうが。大家さんにも迷惑をかけるな」

「でも、教授がお若いころだったら、実際にスタジアムで当たりまえにしていたことでしょう? なにしろ歴史のある楽しみごとですから、当時の流儀どおりに楽しみたいんですよねえ」

 スタジアムで最後の興行が行われたのは二十年以上前のことだ。それこそ昔のマンガだったら、こめかみに青筋が立つような表情で教授はため息をつく。

「だいたい三日月、キミだけだぞ。夏の研究誌用の読み合わせ原稿が未提出なのは。ちゃんとやってんのか」

「いやあ、この頃立て込んでまして」

こういう時に少しも悪びれた様子を見せないところが、シグマの強みでもあり、博士課程在籍が五年目に入った要因でもあるとテオは思っている。おそらく荒戸教授も同意見だろう。彼の様子に、教授は呆れ切った顔をした。

 

「三日月に限っては、趣味と実益が一致していてよかったな。そうじゃなかったら、今頃破滅してるだろう」

「そんなこと言ったらテオだって同じじゃないですか。毎日昔のゲームばっかりしてるんだから」

「……シグマさん、僕はゲームで遊んでいるわけじゃなくて、メーカーが紛失した古いゲームデータの収集と復元をしてるんです。それにあれはちょっとした副業で、専門はゲームデザイン史ですよ」

「そうだっけ?」

「神野くんがやっているゲーム作品の復元プロジェクトは、企業の協賛も得て学内の学生の良いアルバイト口になっている。それにどこかののんき者と違って、きっちり読み合わせ用の原稿も提出済みだ。この調子だと学位も彼の方が先になりそうだな」

それで、と教授は言葉を継いだ。

「話は変わるんだが、私の古い友人が、三日月のような人間に頼みたいことがあるようでな。謝礼も出るようだから話を聞きに行ってくれないか。ついでに研究のネタもそこから拾ってこい」

「俺にですか?」

「キミが論文の代わりに日夜せっせと書いているらしいイベントレポートの記事を読んだんだそうだ」

「イベントレポ……ってことは「リリちゃん」のライブ関係者ですか⁉」

 

 シグマが勢いよく立ち上がる。その反動で腰かけていた椅子のキャスターがカラカラとむなしく音をさせながら50センチほど彼の背後に転がっていった。

「関係者どころか、生みの親だ。」

 教授の言葉に、シグマの喉からひゅっと声にならない息が漏れた。芝居がかった様子で二、三歩後ろに後ずさると、そのまま仰向けに床に倒れた。

 

「シグマさん⁉」

テオが慌てて駆け寄ると、シグマが目を閉じたまま片手をあげて静止する。

「大丈夫だ。これはある種のステロタイプなリアクションを再現してみたんだ。

 ——教授、その話、詳しく聞かせてください」

「あのな、三日月。キミにはまだ分からんだろうが、ほんの二、三十年前のことなんて、別にそれほど古くも昔でもないんだぞ。

 それはともかく、連絡先を教えてやるから、後は本人と話をつけてくれ」

 

 

 対面の場には、シグマの頼みでテオも同伴することになった。

「それで、その依頼主の「テル」さんって人、どんな方なんでしょう」

「さあな。何も聞いてないから全くわからん」

「シグマさん、緊張してます?」

「当たり前だ。相手はリリちゃんの産みの親だぞ!

 開口一番に伝えたい感謝が多すぎて考えがまとまらない……」

 

待ち合わせに指定されたのは大学キャンパス内にあるコーヒーショップだった。休日なので、学生の姿はほとんどない。二人は店の外の四人掛けのテラス席についている。全国どこにでもあるチェーン店だが、窓ガラスのそこかしこには学生がやったと思しきデジタルスプレーの落書きが吹き付けられており、こびりついた画素が延々と「儲け主義」「戦争反対」「学内にオシャレな場はいらない」などといった空疎な文字列を点滅させながら流し続けていた。さっさと清掃されないのはそうしてもキリがないからなのか、ある意味、それによってキャンパス内の風景に溶け込むことができているからか。

 シグマが両手で顔を覆いながら背を丸めていると、少し離れたところから石畳を叩くカッカという靴音が耳に入ってきた。テオがそちらに視線を向けると、日傘を差した女性がこちらに近づいてくる。夏の暑い日差しに似合わず、全身黒いワンピースで、胸のあたりまで伸ばした髪は真っ赤に染められていた。足音を立てていたのは高さが10センチほどはあるかというレースアップのブーツで、そのどれをとっても現実にはまず見かけないファッションだ。

「——テルさん?」

二人の座るテーブルに近づいたところで、その人の持つ日傘の角度がぱっと上がる。しかしちょうど昼すぎの太陽が背中から差し込んで影を作り、顔がよく見えなかった。テオが目を細めていると、一呼吸おいてシグマがのけぞるようにしてその場から立ち上がった。

「あ、あ、あんた………「世田谷グレーテル⁉」」

シグマがすっとんきょうな声を上げるのを意に介さず、テルさん――世田谷グレーテルと呼ばれたその人は日傘をたたんでテーブルの席についた。

「お知り合い……ですか?」

「バカ言うな。世田谷グレーテルといえば、伝説的な地下アイドル「ワンダークック」のメンバーで……」

「地下……?」

「あら懐かしい。そんな時代もあったわね。

 今はグレーテルとだけ呼んでくださるかしら」

 グレーテルはほんの少しだけ口角を上げた表情で小首をかしげてみせる。それをみてさらにシグマは感極まった様子で身体をわなわなと震わせる。

「そ、そのスマイル……本物だ……」

テオとしては、人間の表情筋をそんなに局所的に自在に動かすことができる人間がいることの方が興味深かったが、とてもそんなことを言いだせる雰囲気ではなかった。手元の端末でこっそり「ワンダークック」なるものについて調べをつける。メンバーは世田谷グレーテル、杉並エリーゼ、中野ラウラ、目黒フリーデ…と二十三人続いており、ライブ衣装はエプロン姿だ。

(要するに都内の区と料理のCOOKをかけて……?)

テオには到底わからないセンスだったが、当時の活動記録を見ると、シグマの言う通り過去にはかなり有名だったようだ。だれかがアップした写真を見てみると、今とほとんど変わらない姿のグレーテルがステージ上で歌っている様子が映っていた。しかし、その日付はテオたちが生まれるよりも前の時期のものだった。何度目をこすっても見間違いではない。

 

テオの混乱をよそに、シグマとグレーテルは話が弾む一方だった。

「つまり、グレーテルさん……活動引退後はVアイドルのプロデュースに回っていたってことですね……確かに考えてみれば合理的だ。ステージに上がったことがある人間にしかわからない勘所も学習させることができる……ああ、もっと早く知りたかった!」

「気持ちは嬉しいけど、このことはずっと内緒にしていたの。リリを、私のコピーのような存在だとは思われたくなくて。今回、私が彼女の産みの親だってことを人に伝えるのも初めてよ」

「俺がリリちゃんに夢中にさせられた理由がよく分かりましたよ。俺が憧れてやまない、21世紀前半の魂がリリちゃんにはこもっているんだ!」

 

シグマの熱のこもった言葉に、一瞬グレーテルの眉がぴくりと動いたのに気が付いたのはテオだけだった。

「そうね……私がかつて積み重ねてきたものをリリが受け継いでいるのは、強みのひとつだと思っているわ」

でも、と言葉が続く。

「それだけでリリを終わらせたくないの。Vアイドルの人気が続くのは、これまでの数値だと良くて三年ほど。リリが生まれたのは五年前だけど、波に乗ってきたのはここ数年よ。変わるなら今がチャンスなの」

「しかし、急な変化はせっかく増えた固定ファンを一定数振り落とすことになるのでは」

「三日月さん、あなたとはマーケティングの話をしにきたのではないの。——こちらのイベント、ご存じかしら」

そういいながら、いつの間に取り出したのか一枚のフライヤーを二人の前に見せる。そこには「アイドル大進化 文字通りすべてを賭けたアイドルたちの戦い」という文字が記されている。

「もちろん知ってますよ。先日のユニットライブで見事リリちゃんが一番高得点をたたき出したから、参加権を得られたんですよね。今まで、Vアイドル全体で人気順を競う選挙型のイベントは数多くありましたが、一対一のトーナメント式はありませんでした。そういう意味で、また新しいドラマが生まれること間違いなしでしょう」

「その通り。でも、このイベントで対戦に負けたアイドルがどうなるかはご存じないでしょうね」

「負けた方? イベントからリタイアするのではないのですか」

グレーテルは静かに首を振る。

「負けたら引退よ。それが出場の条件」

「引退⁉ たった一度の勝負で?」

「そう。ただ、それだけじゃないの。

 実際には、アイドルがこれまでに蓄積してきたリソースの権利をすべて対戦相手の事務所に譲渡する取り決めになっているのよ。楽曲、衣装、振り付け、それに、今までの学習データ、すべてをね」

「法的に問題はないのですか?」

遠慮がちにテオが口をはさんだ。

「参加者の間で事前に合意を交わしていれば、問題ないわ」

「リリちゃんもその勝負に……」

「そう。それで、少しでもリリが勝ち残れる確率を上げるために、三日月さんにもぜひ協力してほしいの。あなたの知識で、リリに過去のアイドルのデータをできる限り多く学習させたいの。それに、できれば、神野さんにも協力をお願いしたいわ」

「僕もですか?」

「ええ、神野さんはソフトウェアにもお詳しいと聞いていますので。Vアイドルも、本質的にはソフトウェアですから……」

「あーーっと、待った! 待ってくださいよ!」

グレーテルの言葉を、シグマが強い口調で遮る。

「俺は! リリちゃんのことをただのソフトウェアだとは思ってません!」

「三日月さん?」

「話しかければ、答えが返ってくる。しかも、その内容は彼女が経験してきたことによって日々変化する。もしリリちゃんが二人いたとして、別々の経験をしたら返答が異なるわけでしょう。それってすでに人の手を離れていませんか」

「でも、複製したリリが経験したことは、あとでマージできるわ。どちらかのリリをマスタにする選択が必要ではあるけれど」
シグマの語気がどれほど荒くなっても、グレーテルの方は動じる様子はない。「だけど…」とシグマの口が何かを言いかけたところで、赤い爪を長く伸ばした彼女の人差し指がそのくちびるに押し当てられ、続く言葉を封じた。

「でもそうね、三日月さんがリリのそういうところに魅力を感じてくださっているのなら、そうなのかもしれないわ。ありがとうシグマさん。リリはこれまであなたみたいな人たちに育ててもらっていたのね」

 

「こんにちは、シグマさん。お会いするのはこれで382回目ですね。嬉しいです」

入室のために市民カードを読み取らせると、受付に置かれたディスプレイの中からリリが微笑みかけてくる。グレーテルの案内で、彼らはリリの開発スタジオ、いわば「所属事務所」に来ていた。都心に建てられたこじんまりとしたビルの一フロアがそれだったが、何室かに区切られたそこからはパタパタと誰かが駆けだす音が聞こえてきたりと、想像していたよりもかなり活気がある様子なのが気配からよく伝わってきた。

「ずいぶん多くの人が関わっているんですね」

受付のリリと嬉しそうに会話し続けているシグマを横目にテオがそう呟くと、グレーテルが微笑んだ。

「そうね。衣装デザイナーや楽曲のコンポーザー、ダンストレーナーの力が必要なのは昔のアイドルと変わらないわ。それに加えて、会話のための学習を手助けするエンジニアも多く在籍しているの。ライブを企画するための演出班や、プロモーションチームも併せたら結構な人数よ。そうそう、それに、最近は少し変わったお客様もトレーニングにお招きするようにしているの」

「お客?」

「これから紹介するわ。きっとシグマさんなら部分的にはご存じの方のはずよ」

そういいながら彼女が二人を招き入れたのは「ダンス室」と書かれた広い部屋だった。とはいえ、部屋名から想像できる、フィットネスクラブの一室のような部屋ではなかった。あたりには所せましと様々な機械が並び、中心には3D映像投影用の3メートル四方ほどの四角いスペースがあり、そこに等身大のリリが立っていた。指示を出しているのはダンストレーナーだろうか。細身の女性が身体を動かすと、リリもそれに続く。トレーナーがそれについて言葉で修正指示を与えると、リリは頷きながらそれを聞いている様子だった。その光景は、ほとんど生身の人間と同じ印象を与える。

「自然言語でフィードバックを与えられるんですね」

「そうよ。そのための専門の学習エンジンを導入しているの。そのおかげで、技術のことに詳しくないトレーナーでも、彼女にダンスを教えることができるようになったの。でも、覚えが早いから本番までに何週間もかけてレッスンが必要なわけじゃないのよ」

「舞台裏がそんな風になっているなんて、知りませんでした。ここにいるのはリリちゃんだけですか?」

「そうよ。Vアイドルに不可欠な学習エンジンは他社からライセンスを貸与してもらっている形なの。結構な額だから、今はリリだけで手いっぱいね。

―—見て、もうすぐ一曲通しての練習が始まるわ。うまくいくかしら」

 

グレーテルの言葉と同時に、リリが気を付けの姿勢をとると、曲のイントロが再生され始めた。皆の視線を集めながら、リリが曲に合わせて身体を動かす。時々トレーナーの指摘が入り、顔の向きや表情など、細かいところが調整されていく。最初から最後までミスのないなめらかな動きは、完璧であるがゆえにどこか単調さがぬぐい切れていないが、それでももうステージで披露しても差し支えないくらいには完成されていた。

「リリちゃん……可愛い、可愛いよ。尊い……好きだ……早く世界遺産になってほしい……」

一曲踊り終えたリリを見て、感極まった調子で声を震わせているのはしかし、シグマではなかった。

 

「——誰⁉」

テオとシグマが声のする方に視線を向けると、ラフな格好をしたずんぐりとした体つきの男性がリリの姿にくぎ付けになっていた。

「ご紹介するわ、ええと――」

「ここではひとまず《ぶた肉》とお呼びください。差支えのないほうの名前です。お初にお目にかかります」

「そうでしたわね、《ぶた肉》さん。こちらはシグマさんとテオさん」

「これはどうも」

「その声は!」

シグマは《ぶた肉》と名乗った男性の声を聞いて、何かを思い出したらしい。

「あ、あんた……この前のライブでリリちゃんの衣装チェンジ件購入したやつだろ!」

つまり、ライブ中に一度きりのリリの目線チャンスの機会をシグマから奪った相手というわけだ。

「いかにも、あれをやったのは自分ですが……何かお気に召さないことでもありましたか」

「召さないもなにも、あんなタイミングで変えるか、普通!」

「まあまあ、シグマさん。

 《ぶた肉》さんはここ最近のライブで、リリの一番のファンなんですよ」

「ファンに一番も二番もあるものか!」

「あるわ。ライブ中の購入額というものが」

「うぐ……俗にいう廃課金ってやつか。《ぶた肉》さん、あんた結構稼ぎもいいのか」

やっかみ半分のシグマの質問に、《ぶた肉》さんは「いやあ」といいながら頭をかいた。

 

「今はオフィスビルの警備員です。大企業の花形部署であくせく働いた時期もありましたが、心身の健康を損ねてしまいましてね。仕事が生きがいだったのに、働けなくなってしまって目の前が真っ暗だった時にリリちゃんに出会って、なんとか立ち直ることができたんです。

 月並みですが、リリちゃんに救われた命みたいなものですからね、全財産捧げてもいいと思ってるんですよ」

「《ぶた肉》さんのような方にそう言っていただけますと、リリも私どもも報われる思いです。ライブ参加時のお名前にNGワードが入っていなければ、もっと広くご紹介したいくらいなのですが」

「すみませんが、もう何十年も使っている名前なので今や本名よりも愛着があって……。昔は問題なかったんですよ。今は使ってはいけない言葉が多すぎるんです」

ハハハと笑う《ぶた肉》さんは悪い人間には見えなかった。グレーテルいわく、これからリリにあらゆるデータを学習させてチューンナップしていく過程で、彼のようなコアファンからも意見をもらって、彼らが好きな「リリちゃん」の像はブレないようにしたいのだという。それを聞いて、シグマは「それなら俺の方が適任のはずです」と口を尖らせたが、グレーテルは笑ってそれを受け流した。

《ぶた肉》さんを置いて、三人はダンス室のさらに奥にある準備室に入った。誰でも入れるというわけではないらしく、グレーテルのIDでドアロックを開錠すると、二人は入室のための認証なしてこっそり招き入れられた。リリの頭脳ともいえるデータベースにアクセスできる端末が置いてあるらしい。テオとシグマ、それぞれ個別に端末を手渡され、席に着いた。

「ダンスコーチみたいに、リリと直接会話しながら学習させることもできるんだけど、イベントまであまり時間がないから、ここから直接学習データを読み込ませてほしいの。今、それぞれの端末の中にいるのはリリの本体から切り離したブランチよ。思い通りに学習させて、良い感じになったら本体と合流させます。あなたたちの手でリリがどんな子になるか、楽しみに待っているわね」

 

リリが部屋からでていくと、残されたシグマはいつも院生室で見せるのと同じ姿勢で椅子の背もたれに体重を預けて天井の方を向いた。

「リリちゃんのための学習データか……」

「シグマさん大丈夫ですか? 流し込むためのデータの加工なら、ある程度お手伝いしますけど」

「いや、いい。さっき聞いた話だと、リリちゃんは普通に話せば学べるんだろ」

「そうですけど、それだと効率が良くないと思いますよ」

そうは言いながらも、テオにとっても現役のVアイドルのデータに関わるのは初めてだったので、試しに自分のコレクションから、リリの学習用端末にいくつかデータをコピーした。簡単なスクリプトを書いて、それぞれリリに「閲覧」させる。そこから何を学ぶかはリリに任せてみることにした。

選定したデータは、過去のゲームキャラクタのモーションや演出などのうち、権利上問題がなさそうなものと、マンガやアニメ作品もいくつか選んだ。人が楽しむなら数年はかかる量のコンテンツをリリはほんの十分もかからないうちにすべて飲み込んだ。学習結果を試すために、いくつかリアクションを取らせてみる。読み込ませたデータから、リリは自分で「好ましい」と判断した身ぶりやセリフ回し、さらにはちょっとした演出を抽出したようだ。どこかで見たことがあるコミカルな身ぶり手ぶりで、その場で新しい振り付けを踊ってみせる。のみならず、ライブでは見せたことがないようなしかめっ面や、怒り顔など、いくつかの表情もトレースした。しかし、どこかわざとらしさが感じられて、それだけでは使い物になりそうにないのは素人のテオの目にも明らかだった。そのうえ読み込ませたものの中に青年向けの作品が混ざっていたようで、とても似つかわしくないポーズで急にしなを作り始めたのであわてて学習記録からそれを除外した。こんなことを覚えられてしまっては、あとでグレーテル女史に何を言われるか分かったものではない。もう一度慎重にデータを選択して、すぐに渡せるデータはほとんど読ませてやったが、結果はあまり変わらなかった。

「うーん、なんだか、何も知らない子供に趣味の悪い遊びを教えているみたいな気分になってきました。なんでも覚えさせればいいってものじゃないですね。アイドルに必要な「らしさ」が僕には分からないから難しいな……。シグマさんの方はどうですか?」

一方のシグマはリリにずっと話を聞かせていた。どうやらこれまでのアイドル文化の歴史を講義しているらしい。話は2020年代後半に入っていた。「……このころから有人ライブは急速に規模が縮小していったんだ。理由は単純で、国内の人口減で一つの場所に人を集めることで得られる収益がどんどん少なくなっていったんだ。かといって、現地で開催しているものを映像で配信してもその良さはほとんど伝わらない。VRライブそのものはありものの技術の組み合わせで簡単に実現できたし、それと同時に字幕を付けたり、副音声をつけたりして多言語対応に乗り出したから国境を越えて市場が形成されるようになったんだ。最初は生身の人間のパフォーマンスをVR空間に写し込んで、立体的に見えるようにしただけのものだった。そこからだんだん舞台装置も工夫が凝らされるようになって、2028年の大物声優のライブでは宇宙がテーマの360度ビューの舞台が作られて、ひとつの金字塔になった。一方で、舞台が仮想空間になったことで生身の人間が3Dモデルに置き換わるのはあっという間だった。最初は生身のアイドルの声や動きをキャプチャして演出するタイプが流行ったが、今では少数派だ。裏に人間がいると分かると、やはりどうしてもその人物の方に意識が行ってしまうからね。そうして生まれたのが、自分で学習してアイドルらしさを身に着けていくVアイドル、つまりリリちゃん、君たちなんだ」

リリは彼の言葉に反応して、時々頷いて見せている。彼女はどのようにその言葉を処理して、学習データとして格納しているのだろう。技術のことが多少分かるテオにはそれが気になったが、シグマにとってそんなことは興味の埒外なのだろう。本当の女の子に話しかけるのと同じように接している。もしかしたら本当に心底彼女の実在を信じているのだろうか。そういう考え方をする人間はたしかにいると思う。しかしシグマがそういうタイプでないことは、テオが一番よく知っていた。近所同士で、幼少のころからずっと一緒だったのだ。昔から気弱で人見知りの激しかったテオとは違って、シグマは人懐っこくて外交的な子供だった。あの頃はまさか、彼のような人間がここまでVアイドルに入れあげるようになるとは思ってもみなかった。そのきっかけになったかもしれない出来事についてもテオには心当たりがあったが、そのことを彼と直接はなしてみたことは今まで一度もなかった。

 

「——俺の言うこと、意味分かったかい、リリちゃん」

「はい。シグマさんはアイドルの歴史にお詳しいんですね」

「歴史だけじゃない。俺自身、中学に上がったばかりのガキの頃からずっとアイドルに夢中だったんだ。

いいかいリリちゃん、さっきの《ぶた肉》さんもそうだけど、アイドルに気持ちを救われる人は多然いるんだ。アイドルは人に元気を与えるものなんだ。だから逆に、他人からの評価なんてどうだっていい。なんならアイドルじゃなくたっていい。リリちゃんは、なりたいものになればいいんだ。この話は分かる?」

「リリには少し難しい話のようです」

「そうだよな。いや、いいんだ」

「ご期待に沿えず、すみません」

「シグマさん、これ」

テオが自分の端末からファイルをひとつ、シグマの手元に投げ込んだ。

「リリちゃんに見ておいてほしいデータがあるなら、その中にあるフォルダに入れてください。転送できるように設定してあります」

「お、ありがとな。
 そうだなあ。グレーテルさんは俺が集めた今までのアイドルのアーカイブを全部リリちゃんに渡してあげたら喜ぶんだろうけど、そんなことでリリちゃんが今よりもっと良くなるとは思えないんだよなあ」

テオも同意見だったが、そうはいっても他に彼らがリリにできそうなこともなく、シグマもしぶしぶといった様子で自分の秘蔵のデータのほとんどをリリに渡すことにした。読み込みはやはり三十分もかからないうちに完了する。

「一度、お互いのデータを学習したリリちゃんにアドリブで踊ってみてもらいましょう。それを僕たちの目からみて良いか悪いかフィードバックすれば、学習したデータからどんな要素を活かすかの方向付けができると思います。その状態でグレーテルさんに見てもらって、マスタデータのリリちゃんと比べた時に良い方向に成長できたかどうか、ジャッジしてもらうことにしましょう」

話ながら、テオは二人分のリリが踊れるステージを即席で設定する。そこにシグマの方のリリも招き入れた。

「すごいな、テオ! そんなこともできるのか」

「専門じゃないですけど、こういうのは得意なので……」

「そうか、二人一緒に呼んでもらってよかったな。俺はこういう細ことはさっぱりだからな。お前がいてくれると助かるよ」

 

思いがけずシグマに褒められて、テオは口元がゆるむのを彼に見られないように少し下を向いた。

 

「お二人には申し訳ないのだけれど……期待していたのとは少し違うわね」

三人のリリが踊る様子をみて、グレーテルが言葉を選びながらもそう告げた。シグマのリリはオリジナルバージョンよりも、よりステージ映えする大げさな身振りを好むようになっていたが、どれも時代がかっていて、今見るとひどく野暮ったい動きに見えた。ちゃっかり、現役時代のグレーテルのキメポーズもいくつか覚えさせたのだが、本人は無反応だった。あるいは、反応しないだけで内心嫌がっていたのかもしれない。生みの親のはずなのに、彼女はリリが自分に似てしまうことを恐れているようだ。

テオが学習させたリリの方はさらに悲惨だった。分かっていたことだがゲームやアニメから着想を得た動きは今のリリのキャラクターとはほとんどマッチしない。

「面目ないですが、僕たちの得意分野のデータはほとんど渡した状態です。ここからもっと細やかに学ばせる内容を選別すれば多少役には立つかもしれませんが、劇的に何かが変わるということは難しいと思います」

「そう……ごめんなさいね、急なお願いでここまでしてもらったのに。ブランチのリリ二人はそのまま凍結にさせてもらうわ。本体にマージするのはちょっと無理ね」

 

「いや!」

リリの声だった。その場にいた全員が、その言葉に耳を疑った。

「リリ……がしゃべったの? 今」

グレーテルの言葉に頷いたのは、シグマが学習させたリリだった。

「私、ステージに出たいんです。みんなに元気になってほしいの」

 

それはさっき、シグマがリリに教えた言葉だった。言葉の意味を「理解」しているとは思い難かったが、今この場でリリの口から出てくることには、不思議な迫力があった。まるで、生身の人間がオーディションで口にするような。

 

「……なるほど」

何かを思いついたのか、グレーテルが満足そうに口の端を上げた。

「私もすっかり鈍くなったものね。アイドルは、ステージ上のパフォーマンスだけがすべてじゃないってことを忘れていたわ。
 Vアイドルの人気が続かないのは、完成されたパフォーマンスには皆すぐに飽きてしまうから。ステージに臨むまでの間のストーリーがあれば、同じ演目でもきっと全く違うものに見えるはず。
 私自身は、それが大嫌いだったけど。人の努力を、みんな都合のいいように受け取って、「元気をもらいました」なんて言われたってちっとも嬉しくなかったわ」

「グレーテルさん?」

「でもリリは生身の女の子じゃない。そもそも、彼女自身には努力するということはできないわ。でも、誰かのためにステージに上がることはできる。それも、限られた人だけじゃない。リリは同時に、何人もの人のために歌うことができる。シグマくんと話した回数を、間違えることなく覚えていられるように、ファンの話もすべて覚えておくことができるはず」

グレーテルの指示で、エンジニアチームが招集される。その輪の中に、テオも招き入れられた。

「トーナメントイベントが始まるまでに、リリと会話ができるアプリを作ってほしいの。それをリリのファンに配布するわ。会話は記録することに許諾してもらって、その代わりにリリはその話を忘れない。すべてステージに上がる本体のリリに共有させる」

「でも、ファンとの自由な会話を記憶させる場合、その中にもし不適切な内容が混ざっていたとしたら……」

「それは問題ない」

心配そうなテオの手に、自身満々のシグマがぽんと手を乗せる。

「さっきのリリちゃんの言葉で確信した。
 リリちゃんはもう、十分にアイドルとしての自覚を備えている。

 もしかしたら俺が提供した、過去のアイドルの姿からも何か学んでくれたのかもしれませんけどね。なにせ、アイドルだって真のアイドルに共感しますから。グレーテルさん、たとえばあなたとか」

「ふふ……シグマくんにそう言ってもらえるのは嬉しいけど」

「望むと望まないとに関わらず、アイドルをやっている間はアイドルですから。俺もあなたの活躍はアーカイブでしか見たことがないが、ずっと尊敬していましたよ」

シグマの言葉に、かつて世田谷グレーテルと名乗った女性は目元をほんの少しだけ柔らかくした。

 

急なオーダーにもかかわらず、リリと彼女のファンとの会話を可能にするアプリはあっさりと完成にこぎつけた。Vアイドルのエンジンはもともとファンとのかなり込み入った会話を想定して作られていたし、おおよそのアプリの設計やデザインの大枠は、昔のゲームに詳しいテオの知識が大いに役に立った。まだAIと呼べるほどの機能がなく、決まりきった会話のパターンしか用意されていないキャラクターとでも、昔の人は大喜びで疑似的な会話を楽しんだものだったのだ。それにくらべれば、今のリリはほとんど生身の人間と区別がつかないくらいだ。案の定、アプリのリリース直後はユーザーにも「中の人」の存在を疑われた。しかし、一度話したことは決して忘れられないこと、複雑な話になると少しリアクションがおかしくなること、不適切な言葉をぶつけても嫌な顔一つしないことから、本当にVアイドルとしてのリリと会話をしているのだと次第に誰もが納得できた。もっとも、不適切な発言を繰り返したユーザーは、リリが許しても管理チームが許さず、検出した端からアカウントを凍結する措置を取った。

 

「会話ができるVアイドル」としてリリが次第に有名になるまでの間、テオとシグマはグレーテルの事務所に頻繁に出入りしていた。テオは引き続きエンジニアチームに交じってシステムの改訂やデータ分析の仲間入りをさせてもらっていたし、その間シグマはずっとリリと話をしていた。アプリからでも同じことができるのだが、引き続き彼専用のリリのブランチを借り受けていた。とはいえシグマのすることはリリにとっては何か特別というわけではなく、日を追うごとに増えていく膨大な会話データの一滴として時々思い出したかのように本体にデータを送ってマージしてもらうだけだった。

 

「アイドル大進化」イベント当日はあっという間にやってきた。

 

イベントでは、対戦カードごとに決められた課題曲で同時にパフォーマンスをおこなう。審査は主催会社の審査員が5割、観客の熱中度と投票が5割の割合で、評価が高かった方が勝ちだ。敗北したVアイドルは即引退、のみならずそのデータリソースは勝利したアイドルのものとなり、長所を組み込んで次の対戦に臨んでも良いというルールはそれなりに話題になった。

 

リリは特に策を講じなくても順当に予選を突破し、グレーテルのチームは三日後に行われる準決勝・決勝への最後の準備に追われることになる。そこにテオとシグマの姿もあった。今回のことは研究のネタ拾いに活用しても良いということは確約してもらっていたが、シグマはもちろんのこと、今はテオも真剣にリリの良く先を見届けたいと思っていた。

 

二人が事務所の扉をくぐると、入り口のディスプレイに見慣れない衣装とVアイドルの素体が描画されていた。二人の訪問をグレーテルが出迎えてくれたのであれは何かと質問すると、「過去の対戦相手よ」とそっけない答えが返ってくる。「エンジンのライセンスがないから稼働はできないの。かといって、部分的においしいところだけリリに組み込むのは嫌で……せめて飾ってあげたら良いかなと思ったんだけど、なんだか人さらいみたいで嫌な感じよね」

「さすがにそこまでは思いませんけど……」

「イベントが終わったら、各事務所に返却してあげたいと思っているの」

「それがいいかもしれませんね。泣いているファンもいるかもしれないですし」

「イベントの主催としてはそれが目的で、相手の特徴の一部を取り込めばそこにかつての「推し」の存在を感じ取ってファンも統合できるだろうって考えていたみたいなのだけど」

「そんな風に思えるかなあ……」

「仇にしか思えないわよね。もしもリリが負けたら私だって、相手の子を愛せる自信はないもの……」

「リリちゃんが……」

「大丈夫! リリちゃんは負けない!」

「シグマさん、声が大きいです。仮眠をとってるスタッフの人もいるのに」

そうは言いながらも、こういう時だけは、シグマの無駄に前向きなテンションはぴりついた周りの空気を和らげてくれるのも事実だった。二人は事務所に特別に割り当ててもらった作業スペースについた。イベントのフィナーレに向けての準備はほとんど完了しており、二人も今日は特に何か頼まれごとをしているわけではなかったので、シグマは今だに未提出の夏の研究誌に投稿予定の原稿の続きを、テオは後学のためにエンジニアチームの作ったソースコードの一部を覗き見していた。残る日数は何事もなく過ぎていくはずだった。例の《ぶた肉》さんがバタバタと足音を立てながら事務所に飛び込んでくるまでは。

 

「大変です!」

 

《ぶた肉》さんは、リリのよき一般ファンを続けながらも、時々事務所に出入りして率直な意見をスタッフと交わしあったりしていた。しかしイベントが始まってからは再就職先が繁忙期に入ったということでここ数日は顔を見せていなかった。それなのに今日は血相を変えて飛び込んできた。夜勤明けで直行したのか、警備員の制服の入ったカバンを背負っている。走ってきたのか、ぜいぜいと肩で息をついていた。

 

「あの、あの、大変です、みなさん、」

「《ぶた肉》さん、落ち着いて。誰かお水を持ってきてください」

「いえ、いいんです、すみません。それより、大変なんです。

 わた、わたし、実はリリさんが参加しているイベントの主催の会社で、警備を、しておりまして……そこで聞いてしまったんです」

水を差しだされ、それを受け取って一息に飲み干すと《ぶた肉》さんの呼吸も少し落ち着いてきた。

「廊下を通りかかったお偉がたが、「決勝までの勝敗はもう決めてある、審査員には話を通している」って……」

 

《ぶた肉》さんの声の届いた範囲のスタッフ全員が手をとめて彼の方を向いた。

 

「こんなことを話しては職務違反ですが……でも、リリちゃんのことを思うといてもたってもいられなくなってしまって……。皆さん、この件はどうか私が漏らしたとは……」

「もちろんです、《ぶた肉》さん」

グレーテルは落ち着いた口調でそう言うと、《ぶた肉》さんの背中をそっとさすった。しかしその手が、わずかに震えていた。

「他にお聞きになったことがあれば、教えてください」

《ぶた肉》さんはイベント運営の詳しい筋書きも聞いていた。優勝させたいアイドルはすでに決まっていて、それは最大手事務所の有名アイドルだった。対戦予定表では、準決勝でリリが勝負するのとは別の相手だった。だが、結局は準決勝に勝てば必ず決勝で当たることになる。

「つまり、審査員の間で、つける点数をあらかじめ決めているということですね」

「そのようです。集計点をごまかしたら、必ず誰かが仕掛けを暴きますから、抱き込むなら生身の人間が一番安全だと……」

「ということは、審査員の点数に期待はできないとしても、観客の評価の方には小細工なしってことか。《ぶた肉》さん、それならきっとリリちゃんは勝てますよ。談合済みの審査員だって、さすがにこっちに0点をつけるわけじゃないでしょう。不自然に見せないためには、せいぜい、二割か三割の差をつけるのがせいぜいだ。今のところ対戦に勝ったアイドルの観客評価の平均は50点満点中30点くらいだから、満点が取れたら目はありますよ」

「シグマさん、でも、満点なんてとても……」

「できます!リリちゃんなら。そのために今日まで準備してきたんでしょうが」

シグマの力のこもった言葉に、《ぶた肉》さんの不安そうな表情も少し和らいだ。

 

「アイドル大進化」準決勝をリリは危なげなく勝ち抜いた。相手はスタイリッシュなファッションを売りにしたクール系のVアイドルだったが、前の対戦でパンクロック系アイドルのリソースを吸収したせいで、一見すると不良少女のような装いになってしまっていた。やはり、運営の浅はかな思惑とは裏腹に、お互いの長所を掛け合わせたからといって効果が上がるとは限らないのだ。「会話アプリ」で潜在ファン層もたっぷり掘り起こしたリリの敵ではなかった。

 

昼食の時間を挟んで一時間後、ついに決勝のパフォーマンスが始まる。対戦相手は例の大手事務所の王道アイドルだ。「完璧」をテーマに、誰からも嫌われない、誰もが理想と認めるアイドルを目指すことがコンセプトのVアイドルだった。頭数でいえばファンの数はリリよりも多いが、対戦イベントに投票者として参加するほど熱心なファンの数となると圧倒的にこちらが有利だった。あとは審査員がどれだけ相手の得点に傾斜をかけるかと、観客から最高値の評価を引き出すかにかかっていた。

 

決勝の課題曲に決められた、有名歌手のヒット曲のイントロが流れる。やはりこれも王道中の王道ポップスで、ひと夏の大恋愛をテーマにしたものだった。リリよりも対戦相手のキャラクターイメージにぴったりの曲だ。リリのチームもぎりぎりまで考え抜いて振り付けと演出を作りこんだが、こうして二人並んでみると視線は白を基調にしたリリよりも、元気いっぱいのオレンジやイエローの衣装をまとった相手の方に引き寄せられてしまう。審判の不正がなくても、よもやと思わせる展開に、シグマ以外のチーム全員がじんわり冷や汗をかいていた。

 

対戦パフォーマンスには、それぞれソロパートが用意されている。ソロパートの間だけは、仮想空間上のステージを任意の演出で塗り替えても良く、それぞれ順番に独自の世界観を披露するパートになっている。専攻は相手の方で、さわやかな夏のステージからさらに海へと泳ぎだし、そこから飛び出したイルカにまたがって客席の間を自由奔放に泳ぎ回るというものだった。仮想の演出とはいえ水しぶきを掛けられ、至近距離でアイドルに微笑まれた観客たちの興奮は数値として集計されて、ステージに追加の演出を与える。

 

続いてリリの番だ。リリが片手を高く挙げると、そこから光が広がるようにステージを真っ白に染め上げる。さらに、音楽が少し遠くから聞こえるようにフィルタをかけた。視界にブラーがかかって、目の前に薄紙を一枚挟まれた感覚に陥る。気が付けば、リリが自分の目の前に立って微笑んでいる。

 

観客の多くはきょろきょろと左右を見渡したことだろう。しかし、リリは他でもない自分の前にしかいない。そして触れるかふれないかのところまで両手を掲げて近づいて、そっとささやきかけるのだ。

 

「**さん」

 

そこでリリはその人の名前を呼ぶ。もしもその人がアプリを通じてリリと話したことがある相手なら、リリはその時の話をしてくれただろう。パフォーマンスのクライマックス、一番の見せ場のソロパートの最中に。

本番ぶっつけのその演出が観客にどんな効果を与えたかは、両者のパフォーマンスが終わった瞬間にすぐ明らかになった。いつもなら得点発表までの間に例のやかましい有料の吹き出しが無数にポップするはずのところ、茫然としたように何も起こらなかった。

 

先に発表されたのが審査員評価。対戦相手48点に対してこちらは32点。続いて観客評価。対戦相手33点に対して――50点。満点だ!

 

勝者をたたえるファンファーレが鳴り響き、プログラム通りの閉会の演出をもってイベントは幕を閉じた。終演のアナウンスとともに画面が完全に暗くなるのをもどかしく待ちながら、テオとシグマの二人を含めて、事務所のメンバー全員がゴーグルを脱ぎ捨てて互いに駆け寄った。満点! イベントに勝利したことよりも、観客からの真の評価を得たことに誰もが喜んでいた。気を利かせただれかが3D投影ディスプレイを起動して、リリを呼び寄せた。

「おめでとう、リリ!」「リリ! ありがとう!」皆でディスプレイをぐるりと囲んで、口々にリリを祝福する。その言葉をリリは微笑みながら受け取った。

「ありがとう、みなさん。リリは皆さんに、元気をお届けできましたか?」

もちろん! と皆が口々に答える。

「シグマさんのあの言葉、リリちゃん気に入ったみたいですね」

「俺が教えなくたって、リリちゃんは最初からそういう子だったんだよ」

 

どこからともなくビールとシャンパンが持ち出されて、機材をぬらさないように気を付けながらもお祭り騒ぎが始まる。その様子をテオとシグマは少し離れたところから眺めていた。二人とも一般客と同じようにリリのライブを見ていたが、演出の仕掛けとなるコードを一緒に作っていたテオでさえもが、公演中にリリに名前を呼ばれ、いつか交わした会話の内容から自分だけの励ましの言葉をもらえたことには心の柔らかい部分が震える気分だった。今のその言葉が耳に残っている。

 

―—テオさん。シグマさんのこと、いつか気持ちを伝えられるといいですね。

 

「余計なお世話だよ、リリちゃん」

「何か言ったか?」

「いいえ」

 

「お二人には本当にお世話になりました。あなたたちの知識と若さと好奇心には、大いに助けられました」

改めての祝賀会の日、グレーテルは深々と頭を下げながら二人に感謝を伝えた。

「いやあ、何かお役に立てた感じになっていますけど、大変はチームの皆さんの努力の結果じゃないですか。あ、でも教授には少し色をつけて報告してもらえると助かります」

「僕も勉強になりました。もう少しエンジニアリングの知識もつけて、企業インターンにも挑戦してみたいと思います」

「それはいいわね。私でよければ、いくつか伝手を紹介できるわ」

「ありがとうございます、グレーテルさん」

「この名前、いつまで使おうかしら…」

 

審査員のやらせ疑惑は結局ぶた肉さんとは別のところから情報が洩れて、「アイドル大進化」イベントは当初の企画コンセプトも果たせないまま、アイドル史に一つの汚点を残すことになった。優勝したリリもそのために人気が爆発したりということはなく、ただ毎日の会話アプリのデータだけが日に日に増えていくばかりだった。開発チームはその会話データを暗号化し、第三者はもちろん彼ら自身も二次利用ができないように規約を改訂した。リリのファンは、彼女と完全な内緒話ができるようになったのだ。

 

シグマとテオは、ひとまず今日で事務所への出入りは最後ということになった。ほとんど同僚と同じように接してくれたスタッフたちからは別れを惜しむ言葉と花束を渡される。まだ夏なのに、卒業式のようで照れ臭かった。

 

最後に、グレーテルがシグマに一本のデータスティックを手渡した。シグマが不思議そうな顔をしていると、

「リリのブランチデータよ。あなたがここで毎日彼女と話していた記録がそのまま入っているわ。中身は見てないから信用してちょうだい」

といって彼女は片目をつぶった。さすがのシグマも驚いた顔をしている。

「この子にしか話していないことがあるみたいだったから。それにあなたに別のリリを託しておくのも悪くないと思うって」

「いいんですか」

「いいのよ、でもネットワークにはつながないでね。展開の仕方は、テオくんに助けてもらえばいいわ」

「ありがとうございます」

 

シグマは珍しく、神妙な顔をして手の中のものをジッと見つめた。

 

「私たちがリリの育て方を間違えた時には、シグマくんのリリに道を正してもらおうかしら」

「俺とだけ話していたらどんな子になるか分かりませんよ」

「どうなるか見ものだわ」

 

事務所のメンバー一同が笑顔で二人を見送る。この後、研究室に一度立ち寄って教授に顛末を報告する予定だった。

 

「シグマさん、本体のリリちゃんにもマージしなかったお話って、何だったんですか?」

大学の門をくぐったあたりのところで、テオが何の気もなくそう訊ねた。研究棟まであと少しだ。

「ん? いや、個人的なこと」

「もしかして……いや、やっぱりなんでもないです」

テオは脳裏で、幼いころにいなくなってしまったシグマの妹のことを思い出していた。たしか、テオと同い年の。シグマはアイドルに、大きくなった彼女の姿を想像して、イメージを託していたのではないだろうか。しかしそんなことを言っても、今の彼は否定するだろう。

「それよりお前、企業インターンいくってことは、学位取らずに就職するつもり?」

「それも選択肢にいれようかなと」

「そっかあ。お前に追い越されないようにするのを目標にしてたんだけど、張り合いがなくなるわ」

「待ってくださいよ、僕、二コ下ですからねシグマさん」

「二年くらい誤差だよ、誤差」

「教授の耳に入ったら呆れられますよ」

「お前が研究室出ていくってわかったらもっと泣くよ、あの人は」

「不人気研究科ですからねえ」

 

研究棟まではきたが、あいにく教授が留守だったので院生室に戻った。ここの機材に、ひとまずリリをインストールすることにした。勝手が分からないからと言って、シグマは自分の席に戻って原稿の続きに取り掛かる。

 

端末にデータを展開すると、専用のソフトを立ち上げる。通信は不許可だ。リリの姿が映る。端末に繋がったカメラがジジ、と動いて、テオの姿を彼女が認めた。

 

「こんにちはテオさん。お会いするのは3回目ですね」

「おいテオ!いつの間に俺のリリちゃんと2回も話したんだ?」

「ええ…? 覚えてません」

 

シグマが立ち上がってこちらにやってくる。彼が不在にしている時、彼女に話しかけたら、こっそり彼の秘密を打ち明けてくれるだろうか。それとも、そういうことをしないのだろうか。彼がこの先、自分だけのアイドルにどんな言葉をかけて育てていくのかには興味があった。

 

「シグマさん」

「なんだ」

「僕も時々、この子に話しかけてもいいですか」

「え? いいけど。変なこと教えるなよ」

「分かってますよ。僕も時々、元気がほしいだけです」

 

扉の向こうから廊下の床を叩く靴の音が聞こえる。教授が戻ってきたようだ。院生室でアイドルライブを見ながら騒ぐのは禁止だが、当のアイドルが住み着いたと知ったら、教授はどんな顔をするだろうか。

 

文字数:23906

内容に関するアピール

梗概ではうまく話を組み立てることができなかったので、100年前に未来と呼ばれた社会に生きる若者のことを書いてみたいというところだけ残して違う話に変えました。

楽しい話にしたいと思っていたのですが、ここ最近の現実のことを考えると、少しのんき過ぎたかもしれないと思っています…。

しかし、今までで一番楽しく書くことができました。学ぶことの多い一年でした。ありがとうございました。

 

文字数:185

課題提出者一覧