夏
私が声変わりする少し前のことだ。
祖父は、若い時分は宇宙船の操縦士だった。
客船でも武装船でもなく、ちいさな恒星間の運搬船をもって仕事をしていたのだが、ロケット乗りには違いない。その後いろいろな仕事を転々とし、その頃はもう、利息と年金で悠々自適の生活を送っていた。
それまで年に一度程度しか会ったことのないこの母方の祖父については、むしろ父が私に、よく話をした。ロケットに乗っていたことなどはすべて父から聞いたのである。母は、自分の実の父であるのに、祖父に関して口にすることは殆どなかった。私が彼女の気に入らないことをした時など、奇妙な目で私を見て「おじいちゃんみたい」とか、血は争えないとかつぶやく位だった。
祖父の家は、辺鄙なところにあった。ある都市から、一面の風力発電と光発電の畑になったかっての住宅地を超え、谷間に入りこんでいった一帯は、もともとがなにかの鉱山だった。その後地形を利用した遊園地に一時期なっていたらしい。施設間はドローンでつながれ、枠組みが新建材で長持ちするというジェットコースターが谷を跨いで走り、売りものは深い採掘坑を利用した無重力マシンだったという。宇宙を実際に渡航するには金がかかるし、リスクもある。十分な金はなく、宇宙に上がるにはちょっと臆病で、それでも仮想体験だけではあきたらないという人々に、景気のいい時期に計画が立てられたものだったのだが、その想定対象群が列を作ってここまでくるわけもなかった。採掘坑はその後水をためて冒険ダイビングに使うと発表されたそうだが、それきりになった。
結局は、施設が残ったまま雑草の茂る荒れた谷間に放置されて、これを祖父が買い取った。縦穴は埋め潰し、上流で暗渠にしてしまっていた川を再び地表に通し、一帯に植樹をした。
私の記憶に残っているのは、尾根近くの祖父の家である。丸太と硬化ガラスを多用したその家は、ジェットコースターのレールだけが撤去されずに残る緑の谷を見下ろして、眺めも風通しも大変良かった。広くて静かな以外何の役にも立たないと笑っていたが、広くて静かな以外に祖父に何が要ったとも思えない。
家には、谷の側に10m四方程の張り出しがあった。風のある夕方には、私は、安楽椅子にそっくりかえって向こうの山に落ちる陽を、ぼんやり見ていたものだ。張り出しの下は急斜面で、背の低い木がせせらぎというには少し広いくらいの川まで続く。あちこちで急に流れてはよどみ、蛍もでる、渓流釣りには丁度良く仕上がった川だった。私は祖父とよく釣糸を垂れた。魚が居つくまで随分苦労したそうだ。張り出しから谷までは簡易式のロープウェイが設置されて、その籠が、唯一の釣り客である我々を載せて行き来していたのである。
その後数年にわたって私は毎夏祖父のところで過ごすことになるのである。
はじまりは父の事業の失敗だった。たまに帰ると顔色も悪く、あまりゆっくり話をしようとしない父のことを、なんとなくおかしいと私が思っているうちに、母は嘗ての実績と資格とコネを活用して専門学校の講師におさまってしまった。
ある日、父は帰ってこなくなった。しばらくして、学校から帰ると荷造りがもう済んでいて、私は茫然としたまま、母とともに、母の職場の近くに引っ越した。トラックについて走る車の中で、彼女は、父の現状と、離婚について口にした。転校はそのついでにひとこと言われただけだった。
夏休み前、母が、休みが始まったらすぐおじいちゃんの所へ行きましょうと、さりげなく私に言った。顔を見ると、眼をそらした。引っ越す前の友人の所に遊びに行きたいとは結局口に出せなかった。
着替えを詰め込んだ旅行鞄を引き摺って、飛行機からレンタカーに乗り換える。派手さのない白いシャツと灰色のパンツをはいた母の運転で、発電畑を通り、丘から尾根伝いに祖父の家に辿り着いたのは夕方近かった。車が家の前のひろい車留めにつくと、知らせた気配もないのにがっしりして背の高い人影がドアをあけて出てきた。運転席の母は、運転席の窓をあけながら、後部座席の私に、荷物もって降りなさいと言った。後部ドアが滑るように開き、湿った外気が入る。
「儂はこういうのは好かんぞ」
祖父は、渋い顔で運転席をのぞき込み、のっけから母に言い放った。
「お父さん、そんな言い方、可哀相じゃないの」
うすい紫の半袖に白っぽいズボンをはいた祖父は、荷物を引きずり下ろしたまま後部ドアのそばに立ちすくんでいる私のところへ来て、鞄を持ち上げた。日に焼け、父よりも動きがよい。
「好かんのはおまえのやり方で、それこそ、この子が可哀相じゃないか」
不興げに鼻を鳴らしながら祖父は私を家に促した。家に向かう我々に、母の声が聞こえた。
「私は可哀相じゃないと言うの」
祖父は答えず、居間に鞄をおろした。
「冷蔵庫を見て、なにか飲んでおいで」
「うん」
居間の隣の台所の隅の冷蔵庫を覗き込んでいると、家の外から母が私を呼んだ。返事だけして物色を続けると、しばらくして、少し高いトーンで再び私を呼ぶ。祖父が家に入らんかと居間から声をかけると、もう帰るから、と答えた。
私は驚いて戸口から出た。母は運転席から、もっともらしい顔で私を見た。
「おじいちゃんを困らせないのよ」
「もう 帰るのか」
祖父が呆れ顔で出てきた。母は首をすくめた。
「ここは飛行禁止区域の奥だから車でこなくちゃいけないでしょ、時間がないのよ。夏休みのおわりに迎えに来るわ」
彼女はさっさと去っていってしまった。祖父は苦り切っていたが何も言わず、私の肩をだいて家に戻った。
母は祖父と会うときは、いつも身構えていたように思う。
それがわかる程度には、むしろ、祖父に対して気を抜いていたのかもしれない。たまに、母が仕事関係のひとといるのに立ち会ったとき、私がめったに見ないような笑顔で応対していて、感心することがあった。
その笑顔は、たまに、私にも、たいへん効果的に使われた。成人してずいぶんたつまで、母が私を愛してくれているのか疑問を持ったこともなかった。
母は、自分のもつ愛情の量がよくわかっていたのだと思う。それをよくコントロールして私を育ててくれた。
祖父の家には、数日に一回、ハウスキーパーがやって来る。辺鄙な場所まで来てもらうのに随分な金を払っていたのだろう。たいがいは同じちょっと太った女性だったが、若い男のこともあった。掃除と洗濯をし、冷蔵庫のものをチェックし、簡単な食事を冷凍しておいてくれる。燃やしたり埋めたり出来ない塵芥はワゴンにのせて帰っていく。
到着して数日、私をどう扱っていいかわからなかったのだろう。午前は夏休みの課題に費やした。風通しのいい居間のテーブルにタブレットおき、それを必要があったら壁面モニターに拡大した。祖父は後ろで時々居眠りしながら、勉強をみるというより、見張るのだった。
午後には、祖父は、昼寝をした。残りの時間で、祖父は、チェスしたり、紙の本を読んだりする。ウェアラブルディスプレイのついたメガネでなにか観たり、誰ともわからない相手と世間話をしたりもする。居間いっぱいに音をならして音楽をかけたり、壁面モニターでドラマやスポーツを観ることもあった。
この調子ですごす祖父のそばで邪魔にならないよう、手元で子供向けプログラムや本をみていたのだが、これでは飽きてしまう。
陽が傾くころに、張り出しに出て、谷をみていると、祖父が出てきた。
「広々としているだろう」
谷には、白いレールが張り巡らされている。
「あれはなに」
「むかしの遊園地の名残りでな、けっこうしっかりできているからもったいなくておいてある」
なにが勿体ないのだろうと思いながら、私は谷を眺め、どこかにでかけないのか尋ねると、少し反省したような顔になった。
「暇かね」
うん、と答えると、祖父は、そうだろうなあとつぶやいた。
「じつは、やっていることがあってな、手伝ってくれるようならいいんだが、どうかな」
祖父について、張り出しの横から斜面に出る。潅木をぬけると、ジェットコースターの、昔の乗り場があった。この発着場が、コースのなかで一番高い場所にある。枠組みは丈夫というのだが、走行する仕組み自体は重力だけがたよりの、むかしのままのものである。ここから急な斜面を滑り落ちる勢いで、そのまま谷間をいっぱいに走り回るのだ。下の降り場は谷底の川の少し下流の土手にある。そこから空っぽのコースターがまたこの乗り場にあがってくる構造になっているという。
その辺のレールは変に輝き、その輝き方にもむらがあった。ぼろきれの残骸がレールに引っ掛かっていた。引込線の奥にレールにかぶさるようにちょっとくすんだ軽素材の倉庫があり、扉から入る光に照らされて手前にずんぐりした作業台車が鎮座している。更に奥には二人乗りの小型コースターが二台縦に並んでいた。
「何、これ。使えるの?」
「使えるようにする」
祖父はそのまま倉庫に入っていった。薄暗い隅には私の身体ほどの大きさの、三本の腕の突き出た半球が木箱の上においてあった。
「これが台車の上に乗って、レールを点検しながら動いていくんだ」
「どうやってのせるの」
「自分で乗るらしいんだが、セットがよくわからんのでな。いや、それよりも説明書が読みにくいのだ、専用機じゃないから、ここにあわせるのにいろいろ切り替える必要がある」
面倒臭くて手を出さなかっただけだったのだろう。設定詳細をタブレットに呼び出し、自動的に読み上げさせると、祖父は、おまえが読んでくれという。何度も聞き返されながら、数時間で、点検機は動きはじめた。のろのろ身体をずらして台車に乗り、自分で自分を固定する。作業台車はゆっくりレールの上を動きはじめ、倉庫から出てきて、まずレールに引っ掛かったぼろ切れをつまんで捨てた。そこから、レールを磨きはじめる。
点検機の乗った台車は本線に入ってゆく。ゆっくりゆっくり進む。レールを磨きながら、継ぎ目毎に点検機は三本の腕をつかって、ときには身をゆすりながら、安定をチェックしていくのである。最初の急な下り線でもまったくスピードを変えず、のろのろ遠ざかって行った。気が付くと夕暮れである。
全部磨くのに丸一日かかるだろうと祖父は言った。
寝る前に張り出しから谷を見下ろすと、谷間の暗い中に、赤い光が点滅して浮かんでいた。
次の日の朝からは、下の降り場から上までコースターを上げるモーターとベルトを手入れした。こちらは既に祖父がかなり使えるようにしていて、作動を確認し終わったのは昼下がりである。シャワーをあびて居間のソファに寝転がっていると祖父が奥から長いものを抱えてやってきた。
「釣りに行こう」
私の答えもきかず、祖父は手にするものの説明をはじめた。まずは竿である。長いのや短いのやを繋いだり延ばしたりし、しなりやらについていろいろ講釈を垂れた後、こんなもんでいいだろうなどといって、私の背丈の3倍程の、そうよくもなさそうな釣り竿を私に寄越した。
更に、今度は毛針についていろいろ言う。このあたりにあわせるのに苦労したなどといい、挙句に、お前はとりあえず針にイクラでもつければいいだろうなどと、竿に同じくらいの長さの糸を付けた。
祖父は自分の使う道具を手入れしはじめた。ぼうっとながめていると、下に降りて、ロープウェイの見えなくならないあたりで練習しておいでという。滑るから気をつけろと言われながら、私は、竿を持ち、イクラの入った小瓶はポケットに入れ、軽い上っ張りに貼りつけたマジックテープに針を何本かつけて、ロープウエーの籠で谷におりた。
流れに沿ってすこし上がり、糸に針をしばりつけ、イクラを針につけると、皮が破れて中身が流れ出す。こんなものにかかるんだろうかと思いながら、ちょっとしたよどみに竿の先をぶら下げてみたのだが、何もかからない。竿を振り回すうちに、岸に張り出す枝に糸がからまって外れなくなった。
谷底の陽はあっという間に翳る。苛立って引っ張るとそのうち糸が切れた。竿の先で川面を叩く。ぱしゃぱしゃいう音が途切れると、川の流れの音が急に大きく感じられた。
いきなりケーブルの動く音がして、ロープウェイの籠が、揺れながら上がっていった。祖父が降りて来るんだろうと思った。家は張り出した木々に遮られて見えない。空を見上げる。梢の間に見える、張り巡らされたレールに、作業車がへばりついていた。輝く3本の腕が動いていた。
低い音をたてて籠が降りてきた。そこからおりてきたのは祖父だけではなかった。
釣り竿を持った祖父のうしろから、私の父がおりてきた。私は走り出した。
「足元に気を付けて!」
祖父が私に大声を出した。
母は、大学を出るまで面倒を見てくれた。私は半分働いていたが、母はそのことを知らなかった。言えば即座にもっと面倒を見てくれたろう。時々会うとき、我々はお互いに気遣いあう、なんとも模範的な母子だった。
今ならわかるのだが、私はいつも母を恐れていた。だが、私にとって父は違った。実に無防備に私を可愛がったし、私は、父のところに飛び込むことにためらいはなかった。理想化もあるのだろうが、そういう記憶しかない。その父が消え、私は「期待」するのをやめた。
こういったことは無論意識していたわけではない。離婚に関しても、母に関しても、常に正当化を用意していた。何よりも自分を傷つけたくなかったせいだ。
失敗した父を母は捨てたのだが、失敗した事はきっかけに過ぎなかったと思っている。父は母より背は低く、随分歳も離れていた。好景気にのって調子よくいろいろ手を出していたころに出合ったのだ。父が母に惚れ込んでしまったことに巻き込まれたというのが結婚に対する最終的な母の評価であり、失敗したことで、そのころの母にとっての父の唯一の長所となってしまっていたものが消えうえせたのである。
母にとって父は過ぎ去った冗談のようなものだったのだ。
「うまいもんだな」
毛針をあやつる祖父が遠ざかっていく。私と父は少し大きな岩に座り込んで、祖父を見送った。父は釣りはしたことがないという。私の竿を手にして重さを確かめ、不器用な素振りで振ってみせて、私に返した。
むかし仕事に出る前によくみた、青い上下を着ている。シャツも青いが、空や瀬の色を映しているようだった。長身でやや精悍な祖父や母と違って、彫りは深いが肉付きがいい。最後に見たときよりもさらに太り、髪は薄くなっていた。
「いい谷になったよ」
木立の底から谷を見回す。
「すごいものだよ」
独言のようにつぶやいてそのまま黙り込んでしまった。私は久しぶりに会った父と何を話していいのか分からず、離れるのもなんだかで、結局斜面からの照り返しで白く光る水面を釣り竿の先で叩いていた。
父はぽつんと、
「お母さんは元気みたいだな」
「うん」
「お父さんの話しをするかい」
全然、とは言えず、うん、と生返事をする。
「仕事がうまくいったら、またちゃんと話せるかもしれない」
どうなんだろうと思いながら、私は、父の背中に手を回して、力を入れた。
「一緒に暮らせないの?」
父は、黙ってすこし微笑んで、首を傾げた。
木立の上の空は明るいのにあたりは薄暗くなってきている。谷中にめぐらされたレールにも陽は当たっていない。
父と一緒に祖父の消えたほうへ、下草の中を辿る。川のそばを何度も離れ、ゆっくり歩く父を後ろに引き離して、その小道はよどみに出た。
どんどん暗くなる中で、腰までの長靴をはいた祖父は、竿と毛針を持ち、分厚いメガネをかけてじっと顔を水面にむけていた。私が近づこうとすると気づいて手で制し、少し離れた岩の上を指差して、水音で殆ど聞こえないくらいの声で
「もうひとつスコープがあるからかぶってご覧」
滑らないように岩の上のずた袋に寄っていき、竿を置いて、手を突っ込むと、双眼鏡のようなメガネのついた頭巾があった。額の部分に黒っぽい半球がある。被ると、明るい視界がいきなり広がった。
私の出てきたあたりの木立が揺れた。
「おうい、どこだい」
父の大声に祖父が顔をしかめた。父は祖父に気づいた。
「こりゃ釣りやすそうなところになりましたね」
祖父は答えず、ゆっくりと見渡している。私の目からはその辺が昼間のように見えたが、かなり暗くなってきたはずである。水面の下がよく見えた。魚がすいすいあちこちから出てくる。せせらぎの音に、魚のたてる音が混ざる。
父が溜息をついた。
「こりゃすごいや」
祖父が動きだした。毛針が水面をすべって飛ぶ。魚が食いつく。
何匹も釣ってから、祖父は緊張を解いて、ざあざあとこちらに向かってきた。魚影がさあっと遠ざかる。
「上がろう。山の陰はあっというまに暗くなる」
メガネを外すのにつられて頭巾を脱いで、思わず声をだした。
暗い中で薄緑の光の点がそのあたり中に無数に満ちていた。風はなく、光はゆれながら点滅し、漂っている。
「すごいなあ、すごい蛍だよこれは」
父が私にささやいた。祖父が川から上がってきた。
「帰ろうかね」
「つれたことしかわからなかったんですが、でかいですか、どうです」
父にはほとんど見えていなかったのだ。
「お父さんの手をひいておあげ」
祖父の声に、私は再び頭巾を被った。たちまちあたりは昼間になった。
父のぼったりした手をひく帰り道、かがんでとか、石があるよとかいう私の声にうんうんと父は答える。どちらの汗だか、手が湿っていく。何時の間にか小走りになっているが父は何もいわずついてきた。
ロープウェイの下で一息ついた。父はハンカチで首筋を拭いて、眼のあたりにもあてた。私は頭巾をとる。たくさんの蛍がゆらゆら川面を飛び過ぎていく。
上がりのロープウェイの籠は、父と私の二人であがった。3人ではさすがに重いだろうと祖父がいったのである。張り出しについて籠から出た後、父はそこから動かず、やがて上がってきた祖父にすまなさそうに言った。
「すみません、足が」
スコープをつけたままの祖父が首を振った。
「革靴がひどいことになったな、手入れの道具はあるよ、強化はしてあるのかね」
「一応は。とにかくこれしかまともなものが」
そこで黙ってしまい、祖父もそのまま、家の方に頭をしゃくってみせた。
釣った魚を祖父が手早く処理してフライにし、3人で全部平らげた。祖父と父はリビングで一服している。張り出しに出ると、木々の間に、出発点の引込線まで戻ってきた作業車の赤い光の点滅が見え隠れした。風はなく、谷底は何も見えない。満天の星である。
二人のところに戻り、祖父に
「帰ってきたよ」
祖父は変な顔をしておかえりといった。
「違う。ロボットが」
「そうか、そうだろうな、あしたはテストしてみるか」
「何です、それは」
「この谷に残ったジェットコースターの線があるだろう」
「ええ」
「あれを使えるようにしとるんだ」
「はあ・・・ずっと残してるのは知ってましたが、いまさらなんでまた」
祖父は答えず、流しに戻って、スピリットとグラスを持ってきた。父に勧め、私にも、冷蔵庫をみてほしいものをとるよう言った。ソーダ水をもって戻ると、祖父が私をちらっと見て、父に言った。
「当分戻ってこんのかね」
父も私をちらっと見た。
「ええ、借金がまだ若干あるうえに元手もありませんのでね」
「それなら尚更、勝手の分かったところでやり直したほうが良くはないか」
「いやまあ、いろいろ」
父はグラスをあけた。
「ええと、お父さん」
祖父はかすかに首を傾げた。
「どういうふうに宇宙で稼いだか、参考に教えて頂けませんか」
祖父は少し眉をひそめた。
「人にいうような話でもなし、参考になるような話でもないが、そうだな」
グラスを置く。
「時間を売ったのさ」
「どういうふうにです」
「いるべきときにその場にいない、その時間が金になったんだ、金になる仕事というのはたいがいそうじゃないか、特に若い時間が高く売れる」
父は少し鼻白んだ。
「金になるだけましじゃないですかね」
「仕方なくやっとったのだ。まあ売るべき時に売れたからまだよかったと思っているよ」
「また飛びたいと思いませんか」
「あんなところに戻るもんかとずっと思っていたよ。でもなあ、忘れられんのだなあ」
「ツアーが出てるじゃないですか。どうですかあれで」
「あのなあ」
祖父はうんざりした顔になった。
「大金を払って人にのせられて窮屈な席で運ばれるのは好かんよ。好きに動けるわけでもなし」
「はあ、自分で飛ぶのはそんなにいいですか」
「いいとかいうもんじゃなくて、独特なんだ。荷物を積まない運搬船の飛行能力というものは、あれは乗った者にしかわからん」
「今でも免許はあるんでしょう」
「乗り物のほうに年令制限があるし、こう見えても体はがたがただよ、たぶんGにもたない」
父は子細らしくうなずいて、話題を変えた。
「この谷も、随分手入れしたもんですねえ」
付け足したような台詞に祖父は苦笑し、
「本物になるまでまだまだなあ」
私は訊いた。
「本物って、どういうこと?」
「昔むかし、育ったところが谷間でな、地球の反対側で、もう跡形もない」
私をじっと見た。
「ここにあるものを、本物だと思わないほうがいい。この谷は作り物だよ。苦労して木を植えて、川を通して、魚を増やして、蛙や蟹やら山椒魚に、蛍までいるけれどな、この有り様は偽物だよ、ほんものはもっといい加減で、汚くて、どうしようもないものだ」
父がグラスを置いた。
「なにむきになってるんです。あの、荒れ果てた谷間がこんなになったというのは大したものですよ」
「君が来たときはもうかなり手が入っていたさ。もとの荒れ果て方はすごいものだったし、あのまま放っておいたほうが、本来の姿だと思うこともある」
「荒れ果てさせたのも人間のやったことじゃないですか」
「戻り方はちがうだろう」
「私はこの方が好きですがね」
祖父は、物分かりが良すぎるんじゃないかと唸りながら液体を啜った。父は再びグラスを手にした。
二人はこの調子でだらだらしゃべり続け、私はひどくまぶたが重くなった。うつらうつらしながら、何時の間にか母の声が聞こえていた。
「早く帰ってきてね」
随分若い。それに明るい。
「早く帰ってきてね」
途切れるとぼそぼそ低い男の声が二つ、響いてくる。良く分からない。
自分がソファの上に横になっていることに気が付いた。部屋は暗い。テーブルの方でゆらゆら何か光っている。
祖父と父が、その光の間近に顔を寄せている。
「もう一度見せてくださいよ」
「部屋の光の充電だからそう何度ももたないぞ」
「出してきたのはお父さんですよ」
「もうお父さんじゃなかろう」
「だって私はあなたの孫の父ですよ」
「わかったわかった」
テーブルには酒瓶が何本も空になっていた。
「いくぞ、ほれ」
光が揺らいだ。テーブルの上に私と同じくらいの女の子の、腰から上の姿が立ち上がった。黄色い服がひらひらする。
「誕生日のプレゼント、ありがとう」
とそいつは言った。母の声だ、が、幼い。画面の外から大人の女の声で
「それだけかい」
女の子は仕方なさそうに、
「早く帰ってきてね」
ぎこちなくうふっと笑って静止した。
中年男と老人は、うっとりと見入っていた。私は出ていってはいけないような気がしてソファに横になったままじっとしていた。
「こんなだったんですね」
「こんなころもあったのさ」
祖父にとって、父が気の合う相手だったとは思わない。しかしこのときは、楽しそうで、お説教臭さもいつの間にか影をひそめていた。
母という一点においてこの二人は結び付いていたのだと思う。遠くへいくという父を前に、祖父が、酒が回るほどに、大昔の母から祖父あての、母の画像が立ち上がって語りかけてくるメールプリントを、私や母の姿のプリントアウトの並んだ、使いもしない暖炉の上からひっぱりだしてきて、父に見せることになったのも、ありそうなことだ。
祖父がその時父にしゃべった内容は大体は覚えている。更に私自身が祖父から聞いたり、母の態度から察したりして私なりに分かったのはこうである。
祖母には持病があった。遺伝子診断上起こる確率の低い脳血管奇形で、安全な形に整復するだけの金が、祖母の親にも、祖母にも、祖父にもなかった。
断れなかったと祖父はいったのだが、報酬もよかったからその気になったのだろう。急に入った仕事で出かけ、そのあとをこの、母の立体画像のついたメールがおいかけてきたのである。恒久保存用にハードプリントアウトしたのはずっとあとのことだ。
それはある小惑星群内のコロニーに物資を運ぶ仕事だった。そのコロニー内での紛争がらみだと祖父は知らなかったのである。祖父の運んだ爆着物質をつかってある少数民族ごと星が一つなくなり、追撃戦に巻き込まれた祖父は小惑星帯の中で中途半端な亞光速飛行を余儀なくされた。
戻ったときには、地上で数年が過ぎていた。その間に妻、つまり私の祖母はなくなっていた。
祖父の運んだ物資で結果的に虐殺が行われたことは知られてしまっていた。祖母の死は、持病によるものだったというのだが、しつこい運動家の嫌がらせもあり、自殺と思い込んでいる人もいた。
祖父は、何度もの喚問審査で不問を宣告はされた。祖父の手元には、大金と、ちょっとややこしい娘が残った。
その娘は、自分の父親を、金にひきずられて娘の誕生日もすっぽかしてありあわせのプレゼントをおくりつけたまま数年も恥ずべき仕事に出かけて、挙句に持病のある母をストレスで死なせた、と、再会のしょっぱなにきめつけた。
しかし、その前からも祖父は娘、つまり私の母をかまいつけるほうではなかった。そういう祖父に、いろいろ文句をつけるしか、母は祖父とのかかわり方を思いつかなかったのかもしれない。
祖父は、どう接していいか分からなかった上に、事業にかまけてしまって、心を開かせようとはしなかった。その祖父にあうたび恨みをたれ流しながら祖父からいろいろな援助を受け続けた母も、祖父に甘えていた。一方で、父と暮らすことで一度は切れたキャリアを、その後難なくつないでみせるだけの努力と能力が母にはあった。
結局この二人は和解することはない。今から思うと、祖父と母は、互いに安全で快適な距離で、相互不信の関係に甘えて、じゃれあっていただけではなかったのか。
父と祖父は楽しげに私の母の思い出を話し続けた。彼らにとって妻、娘の思い出を。
自分も宇宙で稼ごうかという父の冗談は、無理だよとの一言で片付けられていた。私はまた眠ってしまい、起こされたら次の朝だった。
祖父は今度は事前に連絡してくれよと言った。父は、すぐまた会えるよ、おじいちゃんを困らせないんだよともっともらしく私の肩をたたき、祖父に挨拶して去った。
祖父は、酒がまだ残っているとぼやいてシャワーを浴びに行った。テーブルの上は散乱したままである。その真中あたりに名刺大のメールプリントがおきっぱなしになっていた。プリントされた幼い母の顔がこちらを向いている。シートの角を押すと画像が立ち上がるのである。ゆっくり見ようと、酒でテーブルに貼り付きかかっているそれをはがして腰のポケットにいれたところで、祖父が身体を拭きながら、昨日釣竿はもって帰ったのかと大声で私に訊いた。
慌ててロープウェイで川原に降りた。風が出てきていた。釣竿は祖父の釣りを眺めたよどみのそばの、岩場にあった。拾い上げて石伝いに歩きはじめると、頭上で空気を切り裂く音がした。
見上げるとコースターが走り回っていた。
あたふたとロープウェイの所までいくと、籠が上がってしまっている。コースターがしげみの向こうに降り切った。沢沿いにそちらにいそぐ。途中で滑って、瀬の中に尻餅をついた。腰から下をずぶぬれにして、靴をぐしゃぐしゃいわせながらコースターの降り場に上がった。
コースターには誰ものっていない。
そこでやっと、ポケットの中のメールに気が付いた。うめきながら引っぱり出す。表面がうっすら濡れ、へりが水でにじんでいる。乾かそうと、降り場の狭いプラットホームの端の日当たりのいいところに風を気にしながら竿と並べて置いたところへ、ロープウェイでおりてきた祖父が、灌木を抜けてやってきた。私はメールプリントが祖父から見えないように立とうとする。
「うまくいってるじゃないか、じゃあ上に行こうか」
コースターに乗り込んだ。私も一緒に乗り込ませられた。安全アームをロックし、手にした端末を押す。ベルトが動き、コースターが傾斜をぐんぐん上がり始めた。
うしろの座席の祖父を振り返ると、昼近くの太陽を見上げた。
「こんな近くにくるってのもたまらんなあ」
「何が」
「太陽が近すぎる」
「暑いの?」
「まあそういうことだ」
そして、胃から空気を吐いた。コースターは上の乗り場までやってきて、停まった。
「このままいこうかな」
祖父は端末を再び操作した。
コースターの前方から空気が噴き出す音。
「なに」
「空気隔壁だ。雨や虫やらが当たらんようにな、これでむしろレールの抵抗をおとすと書いてあった」
ストッパーが外れてコースターは動き出した。私は歯をしっかりくいしばった。そのまますーっと落下する。
「ひゃう」
コースターはくるんと上にあがり、太陽に向かってすっとんだ。
勢いが失せると同時に横に曲がり、そこから又宙返りしながら自由落下。
太陽が上下左右にくるくる回った。
下の降り場でショックもなくすっと停まり、風にあおられて案の定メールプリントが飛ばされた。アームを外してホームの端まで駆け寄るが、メールは既にせせらぎにうかんで流されていく。
「どうした」
祖父が隣に立つ。
メールプリントが突然ばりばり音をたてて、光が水上に盛り上がった。幼い母がこちらを向いてどんどん遠くへ流されていく。
「早く・・・早く」
映像は揺らぎ、歪み、声はノイズだらけだ。川の上に立ち上がった映像はぱくぱく口を動かして、渓流の段差でひっくり返り、じゅうっと煙を吹き上げて、消えた。
「ありゃあ・・・手遅れだな」
呆気に取られた祖父は、私を見下ろして、少々怒気を含んだ声で、
「持ってきたのか」
「干してたんだけど」
祖父はいろいろ言いかけたが結局低い声で、
「ご免は?」
「ご免なさい」
祖父はため息をついて私の頭をこづいた。そして、根本的に手遅れだからもういいかなどと口の中でいいながらロープウェイに向かった。私が少し離れてついていったら、竿を回収しなさいと言われた。
上がる籠の中で、祖父は顔をしかめて、口をぐっと閉じていた。汗をかいているのがわかる。リビングに入ると、何もいわずソファに横になった。
「ううむ」
私は、おとなしくなっていて、テーブルについて黙って祖父を見ていた。祖父が何かの持病にうめいていたのか、ただの二日酔いがくるくるまわったせいで一気に悪化したのか、今でもわからない。
しばらく苦しそうに息をしていた祖父は、やがて少し青い顔をして、深呼吸した。額に汗がにじんでいた。ゆっくり立ち上がると、少し休むと言い捨てて祖父は寝室に消えた。
夕方近くになって祖父はやっと出てきた。リビングでタブレットを見てしおらしくしている私に、コースターはどうだったねと感想をきいてきた。すごいねというと、結構出来はいいがやっぱりなあ、などと応えた。
「やっぱりって、どういう事?」
「まあ、言ってもわからんかな」
だったら言うなよと思いながら、私は、張り出しに出た。椅子に座って背もたれにもたれた。
空はやがて、茜色から暗くなっていき、星が見え始めた。風が強くなっている。
谷を覗き込むと、底にはうっすらとした光が微かに見える。昨日より増えたのか、相変らずの蛍だろう。
風で、木立が動き、ざあっと音がした。
祖父が張り出しに出てきた。
「今日は飛ぶかもしれない」
「何が」
「みていてごらん」
そのまま谷底を覗きこんだ。私も立ち上がって手すりにもたれ、目を凝らした。
木々がまた、ざあっという。
谷底で光が蠢いている。
空には星が増えていく。
「何なの」
「すこしお待ち」
風が強くなってきた。と、谷底の光が、周期的にぼうっ、ぼうっと瞬き始めた。
また風がふいた。
谷底の光が、水底から沸き上がるあぶくの様に、ふわふわ浮き上がり始めた。
空はどんどん暗くなる。
ふいたりやんだりする風に乗って、蛍が、一斉に谷底から広がって谷中に溢れた。浮かんで流れ、たゆたい、頭上の星の下で蛍たちは地上の星のように飛び回った。私は言葉もなく、光の乱舞に見入った。
「星みたいだろう」
「宇宙に出るとこんなふうなの?」
「そういうときもある。飛んでみたいかい」
私は躊躇した。一瞬の間をおいて
「うん。僕、ロケット乗りになれるかな」
この返事はむしろ祖父に対する迎合に近く、多分それを感じ取った祖父は、失望とも何とも言い難い表情で、
「そうだな」
黙ってしまった。暫くしてから、
「おまえのお母さんはロケット乗りがきらいでなあ」
つぶやくようだ。鼻で少し笑い、
「それでもおまえのお母さんは結局儂によく似たよ」
祖父について張り出しから暗い斜面に出た。スイッチを入れ、乗り場が照らしだされる。宇宙空間に突き出したカタパルトのようだ。
強い照明を後ろにして、私には祖父の姿は、黒い影にしか見えない。顔の辺りから低い声が湧き出てきた。
「あそこは、独特なんだ」
影はつぶやき続けた。
「たとえば、衛星軌道から飛び立つとき、全天星の海の中に滑り墜ちていく時に一瞬上下がわからなくなって、それでもノズルがしっかり船を支えているのだ。感じるんだよ、背中に」
祖父は私の肩に手をおいた。
「そして、小惑星群にとびこんで、四方八方からくる岩の塊をくぐりぬけながらいつ来るかわからない終わりに向かって飛び続ける時、本当に永遠に続くような一瞬に、いろいろ思い出しながら、ここで終わってもいいんだと思ったよ。あとで、いくらすまないと思ってもあの時こそは、止まってもいいくらい美しかった」
祖父はこんな言い方をする人だったのだろうか。祖父は頭がまだぼうっとしていたのかもしれないし、酒が残っていたのかもしれないし、私の記憶違いかもしれない。私が、こういう祖父を見ることは、その後二度となかった。
「あの時、いろんなものを置きっぱなしにしてな、それでもあの時見たものに似たようなものを、ここでもう一度見られるかと思っていた、仮想のつくりものじゃ、ダメなんだ、まあこれもつくったといえばそうなんだけどな、おまえがきたから、最後までできたんだよ、ありがとう」
祖父は一台目のコースターに私を促し、端末を操作した。
すわあっと音をたてて、私をのせたコースターが動きだした。照明につつまれた乗り場はあっという間に背後に遠ざかる。そのまま蛍の海に滑り墜ちていく。
コースターは蛍の星座の中を駆け巡った。蛍は、視野を横切り、舞い上がり、星のように瞬きながら私を包みこんだ。私は、祖父の話も父や母の顔を思いだすことすらなく、蛍のつくりあげる宇宙空間を駆け抜けた。
無限に思える宇宙飛行を終えて、コースターは一番下に辿り着いた。そのまま動かずじっとしていると祖父をのせたもうひとつのコースターも滑ってきて、止まった。私と祖父は、コースターから動かず蛍の乱舞する様を見上げていた。
眠ってしまったのだろう。気がつくと私は布団の中にいて、体中虫に刺されて痒かった。
この夏別れて以来、父の消息は知れない。
数年間、私は夏を祖父のところで過ごしたが、二度とコースターにのることはなかった。祖父が乗った形跡もなく、コースターは再び古ぼけて行った。
そして私は成人し、結局ロケット乗りになどならなかった。あの時の祖父はそれを見越していたのだろう。祖父は、多分自分の孫がロケット乗りにはならないだろうと思っていたし、もしかするとならないで欲しいとさえ思っていたろう。そして、たまたまやってきた孫に、自分の嘗て見たものに少しでも似た何かを、見せておきたかったのだろう。
祖父の死後、住む人もなく廃屋同然になったあの家の、張り出しから見渡す谷に夕陽が照りつけ風が吹き渡り、やがて夕陽の最後の紫も消えた後、その谷底に満ちるぼんやり光る大粒の空気の渦が時として風にあおられ吹き上がる有様を、私は、今も、その時期になると思い浮かべるのである。
文字数:14752
内容に関するアピール
かなり以前にごく内輪で一度形にしたのですが、若気の至りの部分がかなりあったので、このたびもうちょっと広いところに出すべく手を入れました。
短い作品です。
宇宙を忘れられないらしい祖父と、遠慮しながら育つらしい孫の話です。
仮想現実では満足できないというのがいまどきでは説得力どこまであるんだろうという気もするのですが、蛍の星の海を走り回る、ロケットならぬジェットコースターというイメージが、どうしても使いたかったのでした。
文字数:208