水溶性のダンス
01.
——私がその体をしつらえ終えると、揺合はとじていた両眼をすっと見開いた。シーツの敷かれた施術台からひらりと立ち上がり、大きな鏡の前に立って自分のすがたをたしかめる。やわらかな羽毛のような模様をきざみこんだ頭から首、両肩にふかく切れ込んだ関節、そこからすらりと伸びた二本の腕。頬にはくれないの顔料で描き入れたあざやかなラインが走り、もえるような瞳がそのうえでらんらんとかがやいている。目立たない蝶番をたくさん仕込んだなめらかな胴、とりわけ強力なばねをひめた両脚。全身にくりかえしかさねた淡色の塗料は部屋のわずかな灯りをぼうっと集め、それ自体がうすい虹色に発光しているようにも見えた。
体をまわしたり曲げたりして関節や蝶番の動きを確かめながら、揺合は短い烟草に火をつけてさっと吸い切った。あの煙を吸ったあとの揺合はますます恐れ知らずになって、失敗すれば脚を折りかねないような跳躍をいくらでも恐れずにくりだすようになる。
そうして——揺合は踊りはじめた。真夜中に、私ひとりだけを観客にして。
揺合の踊りはいつでもすばらしかったけれど、その晩はたしかに格別だった。祈るような目で宙をみつめたあと揺合は憑かれたように動きだし、その体は空間をまるごとさらっていった。暗い灯りしかないその部屋に、腕や脚が空を裂きながら弧をえがくたびに色彩がみちて、ひかりの花が一斉に、毒々しいくらいはれがましく咲いてわらっているかのようだった。複雑でとらえどころのないステップが体をくるおしく揺動させ、高く伸べられた腕はそのたびに虚空をつかむ。優美で強靭な脚は体をかろやかに跳躍させて、次の瞬間には床にたたきつけられて壊れるのではないかと危ぶむけれど、揺合は奇跡的になめらかに、どこにもない空を悠々とわたってはまたつぎの飛翔へとむかいゆくのだった。
その絶頂で、揺合はにわかに静止した。終わりの予兆はなかった。ただそれは唐突に打ち切られて、つぎの瞬間にはそこはただのうすぐらい、筆やら刷毛やらの散らばったいつものアトリエに戻ってしまった。
私は壁際で膝をかかえてそれを見ていた。どうしたの、と呼びかけたかったけれど聞くに聞けなかった。目元のかがやきはぷっつりと絶えていた。両腕を高く上げてゆるやかに深く膝を折り、どこかにいるらしい透明な観客にむかってひえびえとしたお辞儀をした。そして——身をひるがえし、背筋をきれいに伸ばしたまま揺合はアトリエを出ていった。
しばらくのあいだ呆然としていた。強すぎる余韻が私を支配していた。
我に返ってとびらに駆け寄り、がらんとした通りを見渡したけれど、そこにはひとつの人影もなかった。空のふちがわずかにあからんでいた。夜明けが近かった。
*
寝室にあがってすこしだけ眠った。夜の帷はすっかりあがって、あくる日の朝には街じゅうに真っ白の霧が満ちていた。
うそっぽいこぎれいな街並みにうすい光がさしていく。寝室の窓辺から私はそれを見下ろしていた。まばらな人影が霧のなかをさやさやと歩き、その数は次第に増えていった。それぞれの職場や、職場のようなかたちをしたところに向かってしずかに移動してゆくひとびとの群れ。
街じゅうの教会堂が、頭のわれそうな音でいっせいに鐘を鳴らした。
揺合が消えてしまったのだとは思わなかった。
私はだらだらと階段をおりた。アトリエは雑然としていた。塗料を溶くのに使っていたニスの蓋がずれ、きつい匂いが充満していた。樹脂製の鋳型が作業台のうえやしたに投げ出され、揺合の旧い体をこわしたときに出たくずが床に散らかり、施術台のシーツは皺だらけだった。筆が乾いて固まり、へらや柄杓には硬化したあとの雪花膏がもったりとこびりついていた。
まだ営業中の看板を出していないのに、だれかが玄関先のベルを鳴らした。とびらをあけると、それは銀行員のようなかたちをした客だった。体の表面にはきれいな背広を模した装飾がきざみこまれ、頭のうえにはまんまるの山高帽がしつらえてある。右手からは伸びるのはつやめく硬質なステッキ。
アトリエが片付いていなかったので、私は客を待合室に案内した。ひとめ見ただけで、たいした容態ではないとわかった。たしかに腐食の範囲はひろいけれどもまだ浅いらしく、表面がてらてらとした桃色にひかりはじめているだけだった。腐食した傷口から独特の甘い匂いがふわりとただよっている。
霧の日の仕事はいつも忙しかった。私たちの体はきわめて水気に弱い。霧の水分にふれるとゆるやかな腐食がはじまってすこしずつ体がくずれはじめてしまうので、それを修繕したり取り替えたりするためにさまざまな客がやってくる。
頭がぼうっとしていた。なにかがずっと不安だった。目にうつるものの現実性がふっと希薄になって、私はざわざわと不安を感じた。揺合があざやかに踊る光景が目の前にちらついていた。いまにもなにか間違ったことをしでかしそうな気がして、自分の手首をそっとうらがえし、そこに直接書き込んでいる台詞をたしかめた——アトリエの客にむかっておかしなことをいわないように、話すたびその小さなメモを参照するのが仕事をするときの習慣だった。
≪大丈夫です。型をとって埋めればすぐに直ります≫
≪腐食が深部に達しています。パーツを作りなおした方が良いですね≫
≪新しいひとをつくるのには三日ほどかかります。よろしいですか≫
≪それは大変でしたね。〈白紙化〉することを強くお勧めします≫
私は夢うつつのままでアトリエを掃除して、銀行員のかたちの客をなかに通した。手首のうらをちらりと見やりながら「大丈夫です。型をとって埋めればすぐに直ります」と私はにこやかに言って、客を施術台のうえに寝かせた。
取り替えたばかりのシーツにまた深い皺が寄った。寝かせた体にへらを這わせて、腐りかけている部分をこそげ落とした。私たちの体は痛みの感覚をもたないから、客は眠っているかのように目をつむりじっとしているだけだった。粘土をあてがって削った部分の型をとり、簡易な鋳型をつくった。あたらしい雪花膏の袋を開封して、水の張られた容器にそっとふりいれた。ゆるやかな硬化反応を起こしつつあるそのどろりとした液体を鋳型にそそぎこみ、固まるのを待つ。
客の体に合わせた紺色の塗料が必要なのに、戸棚をさぐっても正しい色が見つからなかった。代わりの顔料をいくつか混ぜてそれに近い色をつくり、接着したパーツを着彩した。光の加減によっては色がわずかに違うのがわかってしまうけれど、客はそのことに気づかなかった。
銀行員を見送った玄関先には、もうつぎの客が二人も来ていた。頬やら脇腹やらをきれいな桃色に腐らせて甘ったるい匂いをさせている。少々お待ちくださいね、と私はあかるく言った。霧はいまだに白く、石畳がかすんで見えていた。
客がつぎつぎとやってきて施術台に横たわり、腐りゆく体を私のまえにさらけだしていく。居眠りをしているとき頬におおきな亀裂をいれてしまった貴婦人風の見た目のひと。仕事中に誤って水にふれたせいで、二本の指をまるごと溶かして鉄の骨組みだけになってしまったひと。腹の部分が腐りはじめているのをずっと放置して、ついには中の機械仕掛けが覗き込めるようになってしまったひと。
ずっと調子がおかしいので私は自分に辟易した。鋳型を見繕うのに時間をかけすぎて、雪花膏がいつのまにか容器のなかで固まっていた。腐食部をけずっていたはずなのに、まだ白く丈夫なままの組織まで破壊していた。関節の向きを逆にとりつけているのを客に指摘されて付け替えた。やたらと失敗するせいで対応に時間がかかり、うつろな目つきの客たちが待合室に滞留していった。
まがりなりにも一人でアトリエを構える設計師だというのに、頭をからっぽにして作業をするのはまったく得意ではなかった。
目の前に体を腐らせた客がいるのにうまく歯止めがきかない。現実性の均衡がことさらにおかしくなってゆく。なにもうまくいっていないのに焦燥感はなく、現実はどこまでも上滑りしていた。どの客もうっすらと曇った玻璃のむこうがわにいるようで、揺合のことばかりが頭を離れない。
昨晩の揺合はほんとうにきれいだった。あの強靭で、なおかつどこまでも優美な体をしつらえたのが自分であるのがうれしかった。どうしようもない不安が胸の中にずっとくすぶっているにもかかわらず、そのことを思うと強いよろこびが込み上げてきて、できることなら目の前の客にすべてを話して聞かせてしまいたいほどだった。
「大丈夫です。あなたの腐食はまったく大したことありません。何日かあとで来てください。そんなことより揺合というすばらしい踊り子のことを知っていますか」
もちろんそんなことを言いはしない。かりに言ったとしても、決まり切った言葉しか持ち合わせない客たちがまともに応答できるはずもなかった。私の言うことをうまく理解できずに、おかしなことを言い募る私を怪しむだけだろう。
日暮れ前、毎日きているのに今日もわざわざ「薬問屋です」とあらたまって名乗りながら、留架が裏口から入ってきた。
「ここに置いておきますね」とまじめくさった口調で言って、雪花膏やらその他の薬品や塗料のつめこまれた木箱をアトリエの隅にどさりとおろした。街に住む大部分のひとたちとは異なって、留架もまた複雑な言葉のあやつりかたを知ってしまったひとだった。
留架と揺合のふたりを除いて、過剰な言葉をもつひとを私は知らない。言葉をもつひとがほかに皆無であるはずなどないけれど、私たちは表向きにはみんなからっぽであることになっていた。多くのことを喋りすぎれば「体をきちんと直してくれる」アトリエにいくよう勧められるか、それを拒めばもとの自分にそっくりのもうひとりのだれかが直ちにつくられて代役を果たすことになっている。
私はそのとき客の足のねじを内側から締めようとしていて、回しても回してもはまらないのにずっと回し続けていた。「ちがうんじゃない。サイズが」と留架が声をひそめて言った。客はなかば眠るようにして私の目のまえに横たわっていた。「ほんとだ。おかしいと思ってた」と私は小さくためいきをついた。
「どうしたの。調子悪そう。なにかものすごくいいことでもあったの」と留架は耳もとでふざけるようにささやいた。「さあ。どうだろう。べつに。わからない」と私はぼんやりしたままささやき返した。いいことなどあっただろうか。あったかもしれない。いいことではないかもしれない。「なんでもないかな——」
そのとき客が台のうえでもぞもぞと動いたのを見て、私たちは言葉をふっとのみこみ、留架はさっときびすを返した。
よく晴れていて暇な日ならば私たちは仕事をやめて屋根裏部屋にあがりこみ、すきずきに烟草を吸いつつお喋りに興じたに違いないけれど。霧がこんなにも深いので、たぶん留架もいそがしいのだろう。
その晩、揺合はアトリエにやってこなかった。次の日も、そのまた次の日も。毎日来ると約束しているわけではなかった。これまでも数日間ふらりとどこかに消えてしまうことがないわけではなかった。ただアパートの自分の部屋にひきこもって踊っているだけかもしれないし、気分をかえようとフェイク・グリーンの森に出向いているのかもしれない。
揺合があまりにきれいだったので私は不安だった。揺合だけが精彩をはなっていた。揺合だけがまぎれもないほんもので、この世のものではありえないと思った。このくすんだ街にあるものすべてが、まるごと揺合に置いていかれてしまったような気がした。
02.
休日だった。ひとびとはまたさやさやと流れをなして石畳の道をゆき、職場ではなく教会堂のほうに向かっていったけれども、揺合がまひるまから教会堂を訪ねるわけがなかった。私はひそかに流れにさからって揺合の部屋へとむかった。
途中で留架とすれちがった。「どこいくの——」と訊ねるしずかな声がうっすらと聞こえて、ざわめきにつつまれて遠ざかっていく。
揺合は繁華街にすぐ面したアパートの、うすぐらい半地下の部屋に住んでいた。そこに住んでいるはずだった。
部屋はもぬけの殻だった。大した広さの部屋ではないので、だれもいないことはすぐに分かった。窓のない部屋だった。くすんだ色味のデスクにはまだ吸い殻ののこった灰皿と、空になった烟草の箱が散らかっていた。戸棚のうえや絵画の額縁のふち、アップライトピアノにも埃がたまってそのままになっていた。壊れた体の断片を放ったらかしにしていたのか褐色の床に白い粉と繊維がところどころ散らばっており、そのうえを歩くとおかしな足跡が残った。
ベッドのうえの毛布をはがして、そこにだれもいないことを確かめた。壁際の戸棚をすべてひらいてみたが、中身はほとんど空っぽだった。それらしい白い粉で満たされた砂糖壺も、ビスケットのような塊の放り込まれた硝子瓶もなかった。ほんものそっくりの皿やボウルもスプーンも鍋もやかんもなく、ただ揺合が自分で巻いたのかもしれない烟草の入った缶が乱雑にしまいこまれているだけだった。
そんなところを探ってみたところで揺合が見つかるわけがなかった。
壁際にはおおきな書棚があり、中身のびっしりと印字された書籍がぎっしり詰め込まれていた。この街の書店にはなにも書かれていないまっさらの書籍しか売られていないはずだから、真夜中の行商人と取引して手に入れてきたものだろう。頁の角がしおり代わりにたびたび折り曲げられているせいで、本全体がうまく閉じなくなっていた。書棚のとなりには蓋のひらきっぱなしのピアノがあった。鍵盤のあいだに埃が入り込み、音程はどこかおかしくなっていた。絵画もいくらか飾られていた。暗い色の壁にきちんと吊られているものも、壁に立てかけられているだけのものもあった。からっぽの額縁だけではなく、ほんとうに絵の具が乗っていた。
額縁のなかでおおきな鳶が丘のうえをなめらかに越えて飛んでいた。幸福そうな気球や凧の絵画もあった。カンバスのなかの葉陰で蝶々がひそかに羽をやすめていた。
部屋の一角には鏡があった。頭から爪先までをゆうに映しだすことのできるほど大きな鏡。言うまでもなく——揺合はこの鏡の前で踊りつづけていたはずだった。街のひとが揺合の踊りに関心をしめすことは決してなかったし、かつて勤めていたダンスカンパニーからはしばらく前に追い出されていたから。
揺合はいなかった。部屋には何もなかった。どこにいるのかわからなかった。
私は鏡の前に立ちつくした。映るのはもちろん揺合ではなかった。目元はくらく、覇気がなかった。顔にも手足にも色はなかった。まるで端役のように貧相なたたずまい。頭にはいかにも職人然とした頭巾のかたちを彫り込んでいた。その頭巾もその他の衣服を模した部分も、おおむねねずみ色の塗料でおおわれていた。
どうすればいいのかわからなかった。半地下の部屋からつづく階段を駆け上がって外に出た。どこか近隣の教会堂からひとびとのうたう清らかな声が聞こえてきていた。霧は去り、空は粗悪な塗料のようにまっさおだった。
建物の影になっているところに黒づくめの行商人があぐらをかいてぼんやりとしていた。真っ黒の布切れがその体をすきまなく覆い尽くし、目と手先だけがわずかに覗いていた。布のはざまにあらわれたねっとりした表面を見れば、かれらが私たちとはまったく異なる素材からできていることはすぐわかる。
たいていの行商人はインクのように黒い馬をつれているけれど、馬はどこかに出掛けているのかそのひとはひとりぽつねんと座り込んでいた。
道ゆくひとの群れがさやさやと道をみたして去っていく。だれも行商人を見ていなかった。行商人はいつもそこにいるのに、昼のあいだはいないということになっていた。取引をのぞむ奇矯なひとたちは、息をひそめて暗転のときを待つしかない。
でも私には行商人が見えていたし、見えないふりもしていなかった。このアパートの目の前でしばらく商いをしていたならば、揺合のことを知っているのではないかと思った。あかるい光の照りつける道を渡って、行商人の目の前まで移動した。
「あの——」
声をかけると、まどろんでいた行商人はひどく不機嫌そうにこちらに顔を向けた。私たちの後ろをまたひとびとの群れが通り過ぎ、いないはずのだれかに話しかけている私のことを怪しんでいるのが声色でなんとなくわかった。
「人を探しているのですが。揺合という名前の踊り子です。このアパートに住んでいたはずだと思います」行商人が黙りつづけていたので私は早口でつづけた。「見た目はすぐに変わってしまいます。私が何度も体をつくりなおしていたから。でも、すくなくとも最後に見たときには、虹色の光をおびた体をしていました——」
これが単なる商品の取引であれば、一方的に欲しいものが何なのか告げればよいだけだった。行商人がそれを持っていれば手渡してくれるし、持っていなければ荷物の袋を覗き込んだあとできっぱりと首をふる。
人探しとなるとそれほど単純な話ではなかった。行商人はなかばうつむいたまま低い声でなにかを説明しはじめたけれど、私にはその言葉は難しすぎた。
「部屋の中にいないことは確かめました。街のどこかにいるのでしょうか。それとも田舎や森のほうにでかけたのでしょうか」
行商人はかぶりを振った。めったに嗅ぐことのないすえた匂いがただよってきた。私の言葉はこの街ではあきらかに過剰なのに、行商人と話すのに足るものではなかった。
烟草屋に行こうと思った。揺合が通っていた烟草屋がこの近くにあるはずだった。
繁華街を歩くのはいつものようにむずかしかった。同じような店がなんども繰り返しあらわれるうえに、半分くらいは看板が掲げられているだけのはりぼての店だった。看板しかない店のとびらを何度も叩いた。一見どこにでもありそうな烟草屋なのに、よくみると窓に烟草屋の内装らしい絵が書かれているだけなのだった。
ほんものらしい烟草屋にたどりついたころにはまたしても現実性がひどくぐらついていた。まわりにあるものは空も建物もひとびともすべてにせもので、私だけがどうしようもなく場違いだった。揺合がここにいればいいのに。
軋むとびらをあけるとそこには店番がいた。その顔にははじめから笑みがにっこりと彫り込まれていた。「いらっしゃいませ」とほがらかに言う。全体がまるみをおびて、腕のあたりの意匠はふわりとふくらんだ袖を模していた。腰から足にかけてドレスのひだのような造形が作り込まれ、あわい褐色の塗料が全体をまとめていた。
ちいさな声で「お邪魔します」と言ったあとに私は手首をそっとうらがえした。その言いかたが正しいのか確かめたくて反射的にそうしたけれど、もちろん仕事につかう以外の台詞まですべて書き込んでいるわけではなかった。
店番はずっとほほえんでいた。
とつぜん話しかけるのはためらわれた。烟草を物色しているふりをして、私は店内をうろうろと歩いた。狭いところに棚がいくつも押し込められていた。ひかりの灯ったランプをあやうくひっくり返してしまいそうだった。烟草の葉の缶や葉巻が棚にずらりと並んでいた。きらきらとした烟草ケースの見た目がやたらときれいで、そんな場合ではないのに欲しいと思った。
欲しいものは買いたくなかった。あえて当たり障りのなさそうな葉巻をひとつ手に取って、店番のいるほうにまた近づいていった。
「お買い求めありがとうございます。かろやかでありながら渋みも残るバランスの良い銘柄です。お楽しみくださいませ」
すらすらとしゃべる店番の瞳を私は見つめた。その硝子玉はうっすらと曇っていて、なにを考えているのかわからない。
迷っていても仕方がなかった。「揺合という踊り子を見ませんでしたか」と私はなるべくわかりやすい言葉ではっきりと訊ねた。
「揺合という踊り子ですか」
「ええ、この店にたびたび来ていたと思うのです」
「ああ、あの踊り子ですね」店番は一息置いた。「いつも烟草を買い求めにいらっしゃいます。今日もさきほどお見えになったばかりです」
あっさりとそう言われるとは思ってもいなかったので、私はいろめきたった。当たり前のように揺合は今日もここに来ていたということなのか。
けれども店番はべつの揺合のことを話しているのかもしれなかった。揺合がダンスカンパニーを追い出されたあと、昔の揺合とそっくりのあたらしい揺合がどこかのアトリエですみやかにつくられていたはずだった。
私は慎重に言葉をえらび、「虹色の体を持つひとは来ませんでしたか」と訊きなおした。店番は首をかしげて、とぎれとぎれに言葉をくりだした。
「にじいろのからだ。昨日は見ませんでした。一昨日も見ませんでした。でも、その前に一度だけ見ました。そのことは——忘れていましたが、いま思い出しました」
大多数のひとたちは時間の感覚がとてもとぼしい。かれらは回転木馬のようにおなじ時間を繰り返し、なにか普通ではない出来事はすぐにうやむやにしてしまう。
「私はそのひとにアトリエを紹介しました。安心してくださいと言いました」店番は急に調子をとりもどして、よどみなくさきを続けた。「なぜならこの街には、体をきちんと直せるアトリエがいくつもあるから。そこに行けば、そのおかしな着色をきれいに直してもらえるはずだと言いました。もしも悲しいことがあるならば心を〈白紙化〉してもらうとよいでしょうと教えてあげました。そのひとは私に感謝してどこかに行きました。アトリエに行ったのかもしれません」
〈白紙化〉とは、胸中に蓄積された言葉をきれいに洗い流してしまう処置のことだった。複雑な言葉の操りかただけではなく記憶までもがすっきりと失われ、うまれたてのひとと同じまっさらなはりぼてに戻ってしまう。
「——わかりました。どうもありがとう」
悲しかった。なにを言うべきか分からなかった。なにごともなかったかのように店番に烟草の代金を差し出した。おかしなことを言いつのれば、この店番は私にまで良きアトリエを紹介してくれることになるだろう。
「いつもありがとうございます。どうぞごゆっくり煙をお楽しみくださいませ」
店員は最後までずっと笑んでいた。
03.
この街に雨が降ることはほとんどなかった。まれに来る嵐のときには、今宵は外に出てはならぬとラジオがしつこく警告していた。あまりに天気が悪いとかえってだれもが慎重になって、部屋に湿気の入り込まないようにすべての窓や戸をぴったりとしめて引きこもるので、アトリエの仕事はひまになるのが常だった。
揺合がはじめてやってきたのは嵐の晩だった。
私はアトリエの床をきれいに掃除して、へらにこびりついた汚れをこそげおとし、未使用の雪花膏が水気を吸ってだめになってしまわぬよう袋の封をしっかり閉じた。使い終えた鋳型をきっちり番号順に棚にしまい、かたちのゆがんでしまった鋳型を処分し、粘土と樹脂をうまく使ってあたらしい鋳型を手際良く用意した。思えばあのころは、私もまだかなりていねいに仕事をしていた。
真夜中すぎに、寝室の本棚から文字の書かれている本を一冊抜き出して読みはじめた。たしかそれは、革命の最中に繰り広げられる恋愛譚のようなものだった。かつて行商人から買い求め、それ以来なんどもくりかえし読んでいた。どの本を買ったところで、外からくる言葉はいつも私には難しすぎた。
本を手に持ったまままどろみかけていて、そのとき唐突にベルが鳴った。
体を起こし、寝室の窓から玄関をたしかめようとしたけれど、窓をひらけば雨が降り込んできそうなので躊躇した。ためらっているうちにベルがふたたび鳴った。この降りかたの雨にあたればかなり急激に体の腐敗は進行し、胸の中枢にまで水が侵入すれば〈白紙化〉すらはじまってしまうかもしれない。
もしもあのとき眠気に身をまかせていたら、なにもかも違う結末になっていただろうか。揺合はその場で体を芯まで腐敗させ、あらゆる言葉も記憶も、あのかろやかな身のこなしも、すべて跡形なく雨に溶かしてしまっただろうか。私は揺合のことをなにも知らないままで、嵐の去った翌朝に歯車や鉄骨のかたまりをあつめ、余計な言葉をひとつも持たない揺合をつくりだし、ダンスカンパニーに送り返していただろうか。
でもねむりつづけることはしなかった。たとえはりぼてのひとであったとしても、記憶をすべて洗い流されてしまっては生活に困ることはそれなりにある。体をベッドからひきずりだし、ゆらゆらと階段を降りてアトリエのとびらをあけた。
そこにはぼろぼろの踊り子が、鮮烈な芳香につつまれて立っていた。
きれいだった。たったそれだけの光景があまりに美しかったので、いっそ体を直さずに半壊したままのすがたを見つめつづけたいと思ったほどだった。腐敗する表面はつやっぽく桃色にひかり、とりわけ深くえぐれた穴からは細かなばねやら歯車が剥き出しになっていた。いかにも踊り子らしい、塗料をつかわない純白の仕立てのうえに腐敗の桃色があでやかに映えていた。まだ腐りはじめていない表面は濡れそぼり、軒先の青っぽい灯りをちらちらと反射していた。硝子の双眸がはげしく輝いていた。眠気はどこかへ吹き飛んで、ほれぼれとしながら踊り子を見つめた。
長くこの仕事をしてきたけれど、これほど傷んだ体を見たことはほとんどなかった。このまま放っておけばまもなく、胸の内部にまで水は侵入してしまうだろう。
アトリエのなかによろよろと入ってくるなり「〈白紙化〉してください」と踊り子はきっぱりと言い、私は予想外の注文に言葉をうしなった。
私が黙ったままでいると、「〈白紙化〉してください」と踊り子はおなじ言葉を繰り返した。「嵐が来たので自分でできるかと思ったけれどなかなかうまくいかないのね。どうにも時間がかかって恐ろしくなる」
私はそっと自分の手首をうらがえして、この客にかけるべき言葉をたしかめた。いつもの通り、そこには小さな文字で〈白紙化〉を勧めるための台詞が書かれていた。本人がのぞんでいるのにあえて引き止める理由などないはずだった。
踊り子は揺合と名乗った。私は揺合をアトリエに案内し、施術台にそっと寝かせた。容器にわずかな精製水をみたし、胸郭をひらくための小型の鋸を用意した。すでに体のあちこちが軟化していたから、施術はきわめて簡単に終わるはずだった。私は鋸を踊り子の脇にあてがった。
アトリエはくらくらするような芳香に満ちていた。
体についた雨粒がいまも腐敗を進行させていた。揺合は目をつむらずに、天井をぎらぎらと睨めつけていた。
〈白紙化〉の施術には慣れているはずだったのに。
揺合からは見えないところで鋸をへらに持ち替えて、腐敗の進行した部分をきれいに取りのぞいていった。桃色をこそげ落とすと、真っ白で穴だらけの体があらわになった。まだ腐っていないところもいたるところが劣化していた。
「早く処置してください。体を直すのは後でいいから」揺合にはなかば勘づかれてもなお、手をとめることができなかった。差し出がましいことはわかっていた。
「心配しなくていいんです。ぜんぜん怖くないから」と揺合は粘り強く言った。かなり遠いところで雷鳴が鳴っていた。
「惜しくなってしまって」と私はまぬけな返事をした。気の利いた言葉が出てこなかった。「すごくきれいでした。とけているのが。体が」
「へんなことを言うのね。設計師なのに」と揺合は笑い声をあげた。「間違ったところに来てしまったみたい。〈白紙化〉できない設計師なんて聞いたことがない」
「腕は立ちますよ」私はむっとして言った。
「あらそう」と揺合は言った。「直したいなら直してください。お好きに」
投げやりで、なににも興味のなさそうな声だった。
お好きにと言われたところで、踊り子の体のかたちは決まっているので考えるべきことはあまりなかった。ほっそりとしていて均整のとれた白い体をつくるだけ。棚から選び出した鋳型は腰のあたりがやわらかく膨らんでいて、肩から膝のあたりにかけて細かな花の紋様をきざまれていた。きらりと光る鉱石の粉をふりかけることで、舞台照明にもよく映えるようになる。
体はひどい状態だったので、ほとんどのパーツを作り直さなければならなかった。私は刷毛に水をとり、揺合の体からいらない組織を落としていった。揺合は目をとじて、なされるがままになっていた。嵐は遠ざかっていった。アトリエの窓から薄いひかりが差して、どこか空の高いところで鳥が鳴いているのが聞こえはじめた。
最後の部品をはめこむと、揺合はゆっくり起き上がった。なんどかその場で飛び跳ねて、体のきちんと動くことを確かめた。体のできばえを揺合が気にいるかどうか、私はすこし不安だった。
けれども揺合は細かなことはあまり気にしていなかった。刻み込まれた花の紋様も、光を反射するための仕掛けも、たいして目に留めていなかった。アトリエの大きな鏡できらきらとした自分のすがたをざっと確かめ、「残念。踊り子の体に戻ってしまった」と言ってため息をついた。私は漠然とした罪悪感におそわれた。
その体はまっしろで、きれいで、なにも書かれていないからっぽの本のようだった。
「留架。見つけてしまったみたい」揺合が帰るなり、私は留架に電話をかけた。「話せるひとをひとり見つけてしまった」
「そう。でもほら、話せるひとってすぐにつぶれてしまうから」留架はまだ眠そうだった。明け方だった。「あんまり期待しないほうがいいよ」
私が言葉を持ちはじめたのは比較的最近のことだったけれど、おそらく留架は私よりはるか前からそうだった。言葉の過剰さにすっかり慣れているのかいつも平然としていて、さみしそうに見えたことは一度もなかった。
「まあね」と私は言った。「たぶんもう二度と来ないと思う。施術が気に入ったわけでもなさそうだったし」
「いまごろべつのアトリエにいってるんじゃない」
「そうかもね。でもね。すごくきれいだった。雨でとけていて。ぐずぐずで。体が」
「なにそれ。たいへんじゃない」
「たいへんだったよ。ほんとうに」私は繰り返した。「ほんとうにたいへんだった」
代わりのアトリエならいくらでもあるはずだった。どこか見も知らぬアトリエで、はりぼての設計師の手がその胸をひらいて、精製水を流し込んでしまったに違いないと思っていた。あんなふうに目を輝かせ、からだじゅうを腐敗させながら嵐の晩に出歩くひとに巡りあうことは二度とないだろう。
けれども揺合はふたたびやってきた。まだあのときの記憶をはっきりとたもったままで。嵐の日からほとんど間をおかずやってきたから、自分のつくった体のつくりが悪かったのかと案じて肝を冷やした。たとえば体をつくるときになにか不純物が入り込んで、腐敗の速度をはやめてしまったのだろうかと。
「直してください。大したことではないけれど踊りすぎるとこうなるの」と揺合は説明した。見れば両足のつま先だけが過剰に摩耗して、早すぎる腐食がはじまっていた。
これまで踊り子の体の手当てをしたことがなかったわけではない。たしかに踊り子のつま先はほかのひとよりは潰れやすい傾向があるけれど、それにしてもこれほど著しく損傷するのは見たことがなかった。
揺合はいつもアトリエの営業時間の終わったあとにやってきた。待合室で屈託のない客と鉢合わせるのがいやだったのかもしれないし、昼間はダンスの稽古で手一杯だったのかもしれない。それとも慌ただしい昼間とはちがって、施術後に私と言葉を交わせることがわかっていたからか——そんな風に思ってしまうのは、いささか妄想めいているかもしれないけれど。
はじめのうち揺合は体の修繕をおえるとそそくさと去っていっていたけれど、そのうちに少しずつ長居するようになっていった。そしてあるときから、揺合はアトリエの鏡のまえで踊ってみせるようになった。はじめは照れがあったのか、いかにも動作確認のついでといったように控えめに跳ねたり回転したりしていたけれど、そのうち踊ることへの衝動をほとんど隠さなくなった。
揺合は浮かされでもしたように、床を蹴り出してはつぎからつぎへ跳躍した。どこまでも高く跳んでいるときだけが幸せなのだとでもいうように。跳んだかと思えば体を床に横たえて、祈るかのようにそのながい両腕をとおくへ伸べた。
「昨晩も揺合がきていて」私たちはがらくただらけの屋根裏部屋でくつろいでいた。その日はよく晴れていて、私も留架も仕事がひまだった。アトリエを閉めて、ソファに体をふかぶかと沈めて葉巻を吸っていた。
「どおりでぼんやりしていたのね。今日は」留架は呆れて言った。留架が薬を卸しにきたとき、私は床に水をこぼして客の顰蹙を買っていた。「あんまり仕事の手を抜くと怪しまれるよ」
「ものすごくきれいで。揺合が踊ると」そのことをうまく言えなかった。もっと言葉を惜しみなく費やして揺合のことを話したかった。
「まだ〈白紙化〉してないの。そのひとは」
「だいじょうぶだよ」私はうっとりとしたまま言った。「喋るとき、最初よりずっとおだやかになっていていい感じ。うまくやっていけるはず。ずっと」
「それならいいけど。おかしくなりそうだったら教えて」
揺合の踊りかたでは仕事に障るのだろうということは私にも予想がついた。ダンスカンパニーを追い出される日も近いのだと言って、揺合はよく憂鬱そうにしていた。揺合はほとんど毎日、昼間はかわりばえのしない稽古にいそしみ、夕方になるとソワレに出演し、無数の真っ白い踊り子たちとともにきよらかなダンスを踊っていたはずだった。
揺合が自分の公演に私を招待しようとしたことは一度もなかったし、その理由はかんたんに察することができたから、私も取り立てて揺合が仕事で踊るのを見に行こうとしたことはなかった。
揺合と出会うよりもずっと前に、街の劇場でやっているダンス公演を見に行ったことは幾度かあった。はりぼてのひとたちの踊りもそれ単体では決して悪いものではなかった。純白の体をもつひとたちがくるりと跳ね、着地し、両手をひろげる。どれだけたくさんの踊り子が舞台に出ていても動きがみだれることはなく、完璧に指先までを同期させる。どこかで聞いたことのあるなつかしい旋律を楽隊が演奏し、黄色っぽい照明の光が舞台をぼんやりと照らし出していた。
04.
疲れていた。揺合は見つからなかった。現実性はますます薄れ、目に映るもののすべてが霞んで見えた。
アトリエのとびらに臨時休業の報せを貼って、私は留架に電話をかけた。
「ごめんねここのところはいそがしかった。どうしたの」
「今日は私は仕事をしない。晴れてるし留架もそうしようよ」
「午後ならいいよ。迎えにいくね」そう言って留架はあっというまに電話を切った。
留架が来るまでのあいだにフィルムを見たいと思った。揺合が踊るのを私はときどき撮っていた。揺合の姿はいつも違うのに、そのたびに一度きりしか見られないのが惜しかったから。
いまこそそれを見るべきだった。フィルムは寝室にしまっていた。何冊かの本を立てかけた戸棚のなかに木箱があって、そのなかに撮りためたフィルムをまとめていた。映写機は屋根裏部屋に片付けていると思っていたのになぜだかどこにも見つからなかった。屋根裏部屋にはおそろしく古い鋳型がいくつも転がっていて、映写機はその奥に隠れていたのかもしれなかった。鋳型の樹脂がだめになって溶けかけていて、それが私たちの体に少し似ていた。毛先がわれたり曲がったりした古い刷毛もたくさんあった。このあたりにあるものを全部まとめて捨てたほうがよさそうだった。
屋根裏部屋で葉巻を吸った。揺合を探しにいった烟草屋で買ったもので、匂いは思った通りぱっとしなかった。鋳型やその他のがらくたの下から古い小説がでてきて、それもまた真夜中の行商人から買ったものに違いないのに、いつのことだか思い出せない。ソファに腰掛けて少しだけ頁を繰った。真夏の海岸の物語だった。少女が大学生に恋をして、その父親は聡明できれいな女と再婚しかけていた。
海というものは文字の上でしか知らない。私たちの体を一瞬でとかしてしまうに違いない途方もない量の水。文字の上でしか知らないものが多すぎる。
ベルが鳴った。留架がきていた。私は階段を一気に駆け降りた。
丘に出かけることにした。街はひだのような丘に取り巻かれていて、そのうちのどれでもいいからのぼろうということになった。「きっといくらかましな気分になるよ」と留架は言った。さやさやと道ゆくひとたちに聞こえないよう、私たちはひどくちいさな声で話した。きょうの空もかわらず青くて、どことなく塗料めいていた。
「うそのようだけどうそじゃない。うそのようにみえるだけ」留架は安心させるように何度もそう言った。だいじょうぶではないのに「だいじょうぶだから」と私は言って、「だいじょうぶだけど」と付け加え、その先が続かなかった。
私たちはしばし街を歩いた。はりぼてのレストランがいくつもあって、豆の煮込みや焼いた茸のように見えるもの、それに燻製肉のようなものがサーブされ、客がものを食べるふりをしているのが窓越しによく見えた。食事のための器官をもたないひとたちがさまざまな皿を前にして歓談している。中身のない本を売る書店があり、映画館もいくつかあった。外から見ただけではその映画館が映写機をそなえているのかわからない。場所によってはモノクロームの映画がほんとうに上演されているので留架とともに見に行ったことがあったが、いつも同じ映画だったから次第に足が遠のいた。
揺合がかつてダンス公演を行っていた大きな劇場をゆきすぎたとき、私はとたんに街を歩くのがいやになった。
「歩くのやめようよ」「どうして」「飽きた」「設計師のくせに弱いのね」と私たちは適当なことを言いあってタクシーを探した。ここには機関車も飛行機もない。ひどく燃費のわるい樹液を燃料にしたタクシーが街中をのろのろと巡回している。手を高くあげてそれを呼びとめた。
「どちらまで行かれますか」と運転手のかたちをしたひとが訊ねた。
「そうね——」と言って留架は間をもたせ、「どれにする」と私に小声でささやいた。背のひくいはりぼてのたてものの向こうにうっすらとした緑の丘がつらなっていて、正直なところどれでも同じだと思った。
「あの丘まで」と、私はわざとタクシーが来たのとは真逆の方向にある丘を指さした。
「頂上までは燃料が足りないのですがよろしいですか」と運転手がいうので、私は思わず笑いそうになってしまって、それを堪えた。
丘には自分でのぼるのでふもとまでで構わないけれど、その代わり帰りのタクシーを手配しておいて欲しいと運転手に伝えた。
歩くよりは速かった。車両はしばらくすると街を離れて、いくつのもの煙突がならぶさみしい住宅街をくぐりぬけ、田舎のほうへと向かっていった。窓から見える大地はおおむね緑で、おそらくそれはフェイク・グリーンとほんとうの草木のいりまじった土地だと思う。農場のような景色があって、緑や黄色の作物がゆれているようにも見えたけれど、私たちは多くの水をあつかえないのでそれもはりぼてのはずだった。
エンジンの音がやけに大きいので私たちは運転手の耳を気にせずに話した。
「それで。なにがあったの」「どこかにいってしまったみたい」「だれが」「揺合が」留架はまったく驚く様子をみせなかった。「探したの」「まあね」「見つからないのね」「残念ながら」「わかっていると思うけど。そういうことが起きるのはべつにめずらしいことじゃない」「わかってる」私はかなしくなった。
「また白紙化しにきたひとがいたよ。このあいだ。アトリエに」「だれ」「さあ。見た目は郵便局員みたいな感じだった」「どうだった」「しあわせそうだった」「そうでしょうね」「すごく感謝されちゃった。ふかぶかとお辞儀をして」「ずいぶん礼儀正しいことね」
タクシーは相変わらずのろかったし、道の状態がわるいせいでひどく揺れていた。まっくろの鳥が空をすべるように飛んで、私たちをさらりと追い抜いていった。田舎町にも教会堂がぽつりと立っていて、時計台の鐘がにぶくひかっているのが見えた。日没まではまだしばらくある。
「このあいだ来なかったよね。お祈りに」「揺合をさがしてた。その日に」「私は祈ってたよ。ふたりが末永くいっしょにいられますように」「うそでしょ、冗談よしてよね」ふたりというのがだれとだれのことなのかわからなかった。「きょうのひかりぞあすもこのちにふりそそぎたし」留架はわざとふざけた声色で聖なるうたをうたった。
私が神様だったらこんなおかしな世界ではなく、きちんと細部までまともな世界をつくるのに、と思ったけれど留架には言わなかった。言うまでもなく、留架だってそっくり同じことを幾度となく考えたことがあるだろう。
丘をのぼった。いやになめらかな丘だった。たいした高さではないように見えたのに、自分でのぼると時間がかかった。乾いた青草がびっしりと生えていた。快晴で、おもちゃのような雲が浮いており、風がものすごく強かった。
ここから見下ろすと、幾重もの丘が私たちの街を閉じ込めているのだということがよくわかる。そのはざまに田舎町が点々とあり、細い道がそれをつないでいるけれど、こんなに足場のわるい道をどこまでもたどれるひとはいないだろう。
街の逆の方面にもおなじような丘陵が規則正しくくりかえされて、奥のほうはかすんで消えていた。うっすらとした獣道だけがかろうじて刻まれていた。
「絶景というほどのことでもないけど思ったよりはきれいでしょう」
「はりぼての画家の絵よりはましかもね」
「まあ大した景色ではないけど——遠くから見ると少しだけほんもののような気がするかもしれない。しないかもしれない。どうだろうね」と留架がまどろっこしく言い、その優しさがかえってひりひりとした。
「ここに来たことあるの」と私は留架に訊いた。「あるよ」「いつ」「ひみつ」「秘められし過去が——」「最高にロマンティックで」「そんなわけないでしょ」「ほんとうだよ」
ざあっと風が吹いて草並みがこきざみにゆれて、少しきれいだと思ってしまった。
「ほんとうに来たことあるよ。ずっと昔に。いまも覚えている」と留架は言った。留架がきわめて慎重に自制したまま、ずいぶん長いこと言葉をたもとうとしつづけてきた理由がわかってしまったような気がした。
〈白紙化〉してしまえば楽なことがいくらでもあったに違いないのに。
「どうしたら見つかるのかな。揺合は」「だいじょうぶだよ。戻ってくるから」「適当なこと言わないでよ」「ほんとうだよ。待ってればいいんだよ」「うそ言わないで」「案外近くにいるのかもしれないでしょ」「探したんだから」
「探さないでよ。お願いだから」と留架はすこしだけ気色ばんだ。そしてあっというまに平静になって、突き放すようにつづけた。「どうしようもないんだから。だれも教えてはくれないけれど知っている。遠くまでいきすぎてしまえば戻れない」
「べつに戻れなくても——」
「だいじょうぶだよ。いずれ穏やかに思い出せるようになるから。うそのようだけどうそじゃない。うそのようにみえるだけ」
留架は子どもをあやすように、なかば歌うようにそう言った。いったいだれをなぐさめているつもりなのだろう。
泣くための器官があったなら思い切り泣いてしまいたかった。
*
帰りのタクシーで私たちは無口だった。首をがっくりと折り曲げている留架はもしかするとねむっているのかもしれなかった。陽が昏れて空があざやかな赤に染まって、それからゆっくりと暗転していった。
私のほうがさきに降りた。臨時休業の紙は剥がさなかった。灯りをつけないまま寝室にあがった。私は寝室の窓をうすく開いて、タクシーが視界からすっかりきえるまでを見送っていた。タクシーは並びたつ街灯に照らされながらのろのろと道を下っていった。
映写機は、なぜか寝室のほうの戸棚にしまわれていた。
もういちど木箱を手に取った。大きな箱ではないけれど充実していた。フィルムのひとつを手に取って映写機にはめこみ、部屋の灯りを落とした。
映写機の使いかたにあまり自信がなかった。揺合にむけてカメラは何度も回してきたけれど、見返したことはほとんどなかった。迷いながらいくつかのボタンをそっと押すと、かりかりと音を立てながらフィルムが巻き込まれていった。
白い壁にましかくの映像がちいさく浮かび上がった。つまみをいくらひねっても輪郭はぼやけたままで、撮るときからすでにピントがあっていなかったのかもしれない。映像はひどく拙くて、自分の腕前にすこし落胆した。カメラは揺れたり斜めになったりした。踊っているひとの体がときにフレームの外に逃げていった。
それでもじっとながめていると次第に像がくっきりとしはじめた。少なくとも私にはくっきりとしたように思えた。まともに撮れていないことはたいした問題ではなかった。それはまぎれもなく揺合だったから。映像はぼやけていてもすべておぼえていた。みみたぶに、のどもとに、ゆびさきに、どんな細工をほどこしていたか。ちいさなフレームのなかで揺合は変幻しつづけた。フィルムをつぎつぎに取り替えながら私は夢中で映像に見入った。見終えたフィルムが床にいくつも散らばってゆく。夜は更け、あたりは静まりかえって、映写機だけがあたたかな音を立てていた。
05.
自分で予言していたとおり、揺合はほどなくしてダンスカンパニーを追い出された。そして当たり前のようにどこかのアトリエで大急ぎであたらしい揺合がつくられて、いままで揺合の踊っていたパートを踊ることが決定された。そのことを揺合はたんたんと報告して、笑い声のような音をからからとたてていた。
これまで一度も私を劇場にさそったことなどなかったのに、いっしょに出かけようと唐突に言い出した。
休日の午後、私たちは連れ立って劇場まで出向いた。劇場のように見えるだけの建物とほんとうに舞台のある建物をうまく見分けることができずに、自分で道順を把握するのをあきらめて揺合に道案内をまかせた。
たどりついたのは思ったよりもずっと立派で、おそらく街でもっとも大きい部類にかぞえられるようなホールだった。揺合の勤めていたのはずいぶんと格式高く、そして大規模な団体だったらしい。
招待券などもちろんあるはずもなく、私たちはカウンターで当日券を買ってホールに入った。ずらりとならんだ赤いベルベットの客席に、こぎれいな体をもつひとびとがぎっしりと腰掛けていた。私のようにわびしい感じの頭巾の彫り込まれた体のものはいなかったのですこし気後れしてしまった。
揺合はすたすたと中に入っていき席にすわった。固く腕組みをして開演のブザーの鳴るのを待った。私たちが買ったのは壁に近いほうの席だった。
公演がはじまってからも揺合は姿勢をくずさなかった。そしてあるタイミングで舞台の一点をさっと指差し、声をひそめるでもなく私に耳打ちした。
「見て。あそこにいるでしょ。あたらしいわたしが踊ってる」
突然声をかけられた私はおどろいて、揺合の指しているほうに目を凝らした。たしかにその踊り子は揺合のかたちにそっくりだった。もっとも、すべての踊り子のすがたはそれなりに互いに似通っているけれど。
あたらしい揺合の踊りは巧くて、あざやかで、その瞳の奥はまっくらだった。
舞台全体はよく整っており、あいかわらずどのダンサーの動きもぴたりと揃って、既視感はあったけれど見応えはあったのだと思う。公演がおわると踊り子たちがふわりと舞台上につどって、ほっそりした両腕をあげ、膝を折ってお辞儀をした。客席からはかちゃかちゃと手を打ち合わせる音がして、ふと横をみやると揺合はきれいな白い手をぱらぱらと合わせ、平然と拍手の群れに加わっていた。
揺合は落ち込んでいるような様子を見せなかった。辞めさせられる前は憂鬱そうだったのに、それが起きてしまったあとでは吹っ切れてしまったのだろうか。
「踊り子の体をすっかりやめてしまおうと思う。手伝ってくれるよね」
アトリエに帰ってくるなり揺合はあかるい声で言って、わがもの顔で私のアトリエの棚からスケッチブックやペンを取り出した。
揺合は意外なほどのなめらかさで、スケッチブックのうえに体の図解をさらさらと描きだしていった。その図が驚くほど正確だったので、なぜ——と思ったけれど、踊り子が体の仕組みに自覚的であるのは必然なのかもしれない。
「私たちの体は退屈すぎる。もっとできることがあるはずなのに」
あらゆる関節の可動域をおもいきり伸び広げるべきなのだと言って、揺合は図にいろいろな矢印を書き込んでいった。望ましいダンスのためには股関節と肩、首がもっと自由にひらかれるべきだということを細かく説明していった。
「それに、脚にいれるばねはもっと強度の高いものにできるはず。うまく仕入れることができればいいんだけど。脚の外殻のこわれないぎりぎりの強さのばねを入れるの。そのぶんだけ傷みははやくなるかもしれないけれどそれは構わない」
揺合の言う改修が実現可能なことなのか、そのときの私にはわからなかったけれど、おおむね提案は正しかったということは後になってからわかった。
さらに揺合は、白くてほっそりとしてきれいな踊り子の体がまったく好きではなかったのだといまさらあっさりと言い切って、踊る体にきざまれるべき無数の紋様、踊るのをなるべく邪魔しないままかろやかに映える装飾、白ばかりではない艶やかな色合いについてとめどなく思い描いては話しつづけた。
揺合があまりに熱っぽく語るので——もしかしたらそんなふうに自由な体を、自分だってはじめからつくりたかったのではないかという気すらしはじめた。ただそんなことが可能だということに、いままでいちども気づいたことがなかっただけで。
「留架。仕入れる塗料を増やしたいんだけど、いい?」
「いいけど。なにがほしいの」電話口の留架は怪訝そうだった。
「まだ決まってない」「なにそれ」「いろんな色を持ってきてもらってもいい? 実物を見てみたい」「べつにいいけど」
「あとね。ばねも他の種類がほしくて。もっと強いのってあるのかな」そう訊くと、留架はさすがになにかに勘づいたようだった。
「仕事と違うことをしようとしてるなら、私は手を貸せない」留架はきっぱりと言った。「絶対にろくなことにならないよ」
「そんなに派手なことをするつもりはないけど」と私はでまかせを言った。留架が売ってくれないのなら、行商人のところに行けばよかった。
「そう。ところで揺合はどうなの」「元気そうだよ」「仕事は?」「やめた」「やめさせられた?」「そうかもしれない」「たいへんじゃない」「だいじょうぶだよ」「気をつけたほうがいいんじゃない」「そうだねえ」
私は話をうやむやにして電話を切った。それ以来しばらく留架とはあたりさわりのない話しかしなかった。揺合がいなかったころのように無駄口ばかりきいて笑った。
施術は、その体をこわすところから始めることになった。腐敗して悪くなったところを取り除くだけではなく、水をふくませた刷毛で体をぬらし、わざと傷みをはやめて脆くなったところの組織をへらで掻きこわし、内部のばねや歯車を露出させてゆく。酷使された揺合の体はたいていもろくなっており、水をふくませたうえで力を込めれば甘やかな匂いとともに組織はぼろぼろと崩れ落ちた。
来るたびごとにさまざまな箇所をつくりかえるので、揺合の体の表面が完全に入れ替わってしまうのにそう時間はかからなかった。あたらしい体のパーツを切らしてしまうことのないように、私は来る日もあたらしい体の鋳型をつくるために粘土をひねりつづけた。すべてのパーツは限りない変数を秘めている。太さ、ほそさ、長さ、曲面、平面、うねり、突起、陥没、穴、空洞、ひだ、膜、棘、なめらかさ、ざらつき。へらと指先とを粘土のうえに滑らせながら、静かな高揚のためまともに眠ることもできないまま、かつてまだ姿をあらわしたことのないかたちの数々を夜な夜な出迎えた。かたちを決めるあらゆる要素について検討すれば、まだ私たちの見たことのない体がじつは無数に存在しているのだということは容易に了解できた。そんなことはずっと前からわかっていたはずなのに、どうしてあたらしい体をつくろうとしたことがなかったのだろう。
見たこともないような装飾を揺合はつぎつぎにアトリエに持ち込んだ。うすい光もあちこちに乱反射させるクリスタル、つややかな曲面にとじこめられた硝子のビーズ、くらい夕陽をすくってかためたような半透明の琥珀。それらのなかには、あきらかにこの街では手に入れられないもの、この街どころか、いくつもの街や田舎町、その先にあるなにかの境界を越えて、このあたりとはまったく体質のちがうひとたちの住むところからはるばる渡ってきたに違いないものが含まれていた。白く、あるいはやや赤みをおびてくすんだ光沢をはなつちいさな石は、海に住む硬い生き物の腹に宿っていたものなのだと聞いて、私も揺合もいろめきたった。その輝きを身につけた体は、まだ見ぬ水底のゆらめきまでもをまとって踊るだろう。
おそらく揺合は、行商人たちと数えきれないほどの取引をしていたはずだった。私も真夜中にアトリエを抜け出してなんどかそれについていったことがある。揺合はおどろくほど流暢に行商人たちと言葉を交わし、望みの品を手に入れていった。装飾品だけでなく、たとえば雪花膏に混ぜ込むことで衝撃耐性をあげる素材や、いきおいよく飛び上がるときの恐れをなくすために吸う薬品のように、より激しく踊るための材料も含まれていた。
その薬品を揺合は非常に気に入って、いつもの葉巻のなかにまぜこみひっきりなしに吸うようになった。あおっぽい煙につつまれた瞳はいっそうかがやき、ほそく強靭な脚はますますしたたかに地を蹴った。
いろとかたちをあらんかぎりに氾濫させて、私たちにつくりだせないものなどなにひとつなかった。緑の葉とうすい灰色の枝に全身をとりまかれることも、淡い色をモザイクのようにあしらって日の出そのものになることも、原色や黒々としたラインを組み合わせてこわれたおもちゃのようになることもできた。あるときほとんど冗談半分に、うすくて巨大なつばさをつくりあげて揺合の背中と接合してみたこともあった。こんな儚い翼を背負っていては空を飛ぶどころかまともに跳ねることもできないじゃないかとはじめは文句を言いつつ、それでも揺合はどこかうれしそうで、ますます強力になる脚に力をこめて跳ね上がればその体は案外かるがると宙を舞った。目をうばわれているあいだは時がすっかり止まってしまったかのような気がして、だからあのとき揺合はたしかに飛翔したのだということが、つまりその体のまわりに抜けるような青空の幻想をありありと呼び寄せたのだということが私にははっきりとわかった。あれ以来私たちは跳躍のために役に立つわけでないことを知りながら、あたらしい翼のかたちを作り出すことに夢中になったりもしたのだった。
つねに最も高い跳躍が繰り出されようとしているのに、そのたびごとに異質な緊張が走るのはどうしてだろう。揺合が踊りはじめると、そのすがただけが照らし出されるように私はそっとアトリエの灯りをしぼった。隅のほうで膝をかかえながら茫然と踊りに見入り、かろうじて片手でカメラを持ちながらその姿をフィルムにおさめた。
ごくたまに私の存在を思い出した揺合が、いっしょに踊ってと言いたげに手を差し出してくれることもあったけれど、私はそのたびにちいさく首を横に振った。少なくともあのころは、揺合のように踊りたいと思ったことは一度もなかった。ただ揺合を、さみしげに宙を高く舞うすがたを見つめつづけていたかっただけ。
揺合が跳んでいるとき、私もおなじだけ幸せだった。それ以上に語るべきことはなにもない。たぶん傍からみれば、幸福とよべるようなできごとはなにひとつ起きていないだろう。幸せが呼び込まれる気配はなかった。揺合は〈白紙化〉の機会を逸してしまったし、私の言葉は揺合のおかげでますます過剰になるし、留架は穏やかだった話し相手をうしなってしまうのかもしれなかった。
けれども私はかまわなかった。なにもかもが希薄なこの街で、匂い立つように踊りつづけるひとがいたのだということだけで満たされていた。そのひとがよろこびを迸らせながら、自分の目のまえで踊っているということが信じられなかった。そのような奇跡は言葉の向こうがわにだけ、つまりどこか遠い世界の果て、たとえば恋愛とよばれる情動やなにか誇らかであるらしい革命、抜き差しならぬ戦争、喪失と奪還、勝利、死と結婚、悠久の歴史、なみだとよばれるかなしみの水、虹、ねっとりとして湿った素肌、痛み、あざやかな色、温度、味覚、陶酔のあるところにだけ起こり得るのだと思っていた。つまり——どこにもないところ、行商人のもってくる書物のなかにしか存在しえぬ空間に。
幸せであればあるほどにますますこの街ははりぼてめいて、私にはただ揺合のことだけがほんとうであるように思えてしまう。
06.
ふと顔をあげると、頬のあたりの組織がぼろぼろとくずれおちて床をよごした。私の目の前で、最後までフィルムをまわし終えたあとの映写機がからからとちいさな音をたてて空転している。それを見てゆっくりと、揺合の不在のことを思い出す。それが夢でも悪い冗談でもないことを、性懲りもなく確かめてしまう。
立ち上がろうとするとこんどは腿のうらがわが小さく欠けた。ねずみ色の塗料をのせていたはずの左腕の表面が、桃いろに変色してひかっていた。自分の体の腐食してゆくのがうっすらと香っていた。
まえの晩に留架を見送って以来、窓が開いたままになっていたらしい。外をみやれば、濃霧が街中に満ちているのがわかった。部屋のなかにも湿気が入り込んでべたべたとしている。思えばここしばらくのあいだ、自分の体の手当てをいつにも増して怠っていた。
体をぶつけないように注意しながら階段をゆっくり降りた。アトリエは唐突に店じまいをしたあと放ったらかしにしたままで、かつては毎晩かならず掃ききよめていたはずの床にも白い雪花膏の粉や塗料がとびちっていた。
ガラス戸棚にずらりと並べられた鋳型をながめる。揺合だけではない、これまでここにやってきたひとたちのさまざまな体を直すために、あるいはまあたらしいはりぼてのひとをつくるために用意したかたちの数々。自分の体を直すときにいつもつかっている貧相なかたちの鋳型がすぐそこに片付けてあるのはわかっている。
揺合のためにさいごに用意した鋳型のひと揃いが、まだ作業台のうえにとりのこされていた。それ単体では無骨なばかりの鋳型をながめやりながら、私はそこに雪花膏をながしこみ、彩色したときにできあがるかたちを細部まで思い浮かべた。雪花膏は光を通さない真っ白の素材なのに、たしか揺合は陽光を七色にわかつ水晶のようになりたいのだと言って、無理な注文に頭をなやませながら私はそれを設計したのだった。
——自分の体を揺合そっくりにつくりかえてしまいたい、とそのとき唐突に思った。体だけではない、顔立ちまでもを完全に複製して、私が揺合になりかわってしまえば。
それを思いついたとたん——私は途方もないよろこびに満たされてしまって、もしもここに留架がいれば、そんなことはやめるべきだとすぐさま諭しただろう。でも、私にはうまくいなすことができなかった。見つからない揺合を探しておろおろしつづけるのではなく、私自身が揺合になってしまってよいのだとしたら。そんなことをする設計師のことなど一度も聞いたことがないけれど、同時に揺合でもある私はとてつもなく充足した存在になれるに違いない。この体そのものとして揺合をいだくことができるのなら、さみしくなることはもう決してないだろう。
これ以上体が湿気にやられてしまわないうちに作業を進めてしまわなくてはならなかった。自分の体を直すのには他人の場合よりもなにかと手間がかかる。私は表に出て、臨時休業の看板がとびらにかかっていることを念のため確認した。こんなにも不審な休業をつづけていたら、だれかが勘づいて私を白紙化するか、あるいは新しい代理の私をつくってしまうに違いなかったけれど、そのこともどうでもよかった。
いつものように清潔な容器に精製水をそそぎこみ、あたらしい雪花膏の粉末をそっと振り入れる。へらを差し入れて静かに雪花膏を練り、ゆるやかに固まりはじめるのを待つ。適正な粘度が得られたところで鋳型にそそぎいれ、型の内側にきれいに組織が付着するように回転させる。慣れた手つきで淡々とこなすことのできる作業だが、全身のパーツの数だけくりかえさなくてはならない。それだけでずいぶんと時間がかかった。鋳型ひとつひとつに雪花膏を流し、アトリエの床にずらりと並べてゆく。
新しい粘土を切り出して、揺合の顔にあたる部分の母型をつくった。揺合の顔を補修したり装飾をくわえたりしたことはあってもそっくり作り替えたことはなかったから、いま初めて私は揺合の顔の鋳型をつくろうとしているのだということになる。記憶を頼りに揺合の顔を再現するのは簡単というわけではなかったけれど——とはいえ、じつのところ揺合の相貌を印象的にしていたのはその瞳の燃え立つようなきらめきであって、顔立ちそのものではなかった。いかにもかれんな踊り子らしい涼やかさをそなえてはいたけれど、そんな顔立ちの踊り子ならばほかにもいくらでもいた。
あたらしい母型のまわりにあたためた樹脂を流し入れて鋳型をつくり、その鋳型にまた雪花膏を流し込んで、顔にあたる部分のパーツをつくる。完全に硬化したパーツの表面に、最後に見た揺合のすがたを思い描きながら色をのせてゆく。白い雪花膏のうえに光のような色味を持たせるためには顔料を透明なニスで溶いてくりかえし重ねる必要があり、それもまた手間のかかる作業だった。そっけない頬には鮮烈なくれないのライン。途中で筆をにぎる自分の指が欠けはじめたけれど、私は満ち足りた気分でいた。目の前にふたたび揺合がすがたを現しているのだということがうれしかった。同じ鋳型でつくっているのだから当たり前ではあるけれど——頭の先からつまさきまで揺合とまったくおなじかたちの体が、すぐ手の届くところでかがやきはじめている。
腐りかけた自分自身の体の組織に水をふくませ、順番に破壊して取り替えていった。客ならばベッドの上でおこなうのだが、道具の取り回しがうまくいくようにアトリエの床に座り込んで施術することにした。
両脚の組織をとりのぞいて中の支柱やばねをむきだしにし、そしてまあたらしいきらめく脚をとりつける。同様にしてなめらかな関節に腿をつなぎ、さらにその関節のさきに腰の組織をつなげてゆく。さらにはよくしなる腹と背を、胸を、両腕を、先端まで細やかにうごかせるすらりとした繊細な両の手を。ほそい首、そして澄ました踊り子の表情をしたちいさな頭を。
私はゆっくりと体を起こした。ほとんど丸一日が経っていた。床に腕をつき、足に力をこめて立ち上がる。これほどの施術を自分のために行うのは初めてだったから不安ではあったけれど、思いのほかすんなりと立つことができた。
アトリエはひどく散らかっていた。からっぽになった鋳型と、古い体の残骸が床じゅうにばらまかれていた。片付けもそこそこに、壁にある大きな姿見に自分をうつした。
いつも揺合がしていたようにその場で何度か軽くとびはね、くるくると回転してみた。体のなかに仕込んだばねまで取り替えたわけではないから、揺合のようにどこまでも高く跳ぶことはできない。それでも鏡の中には揺合がいた。装飾のできばえは上々だった。巧みにカットされた宝石のように細かな直線がおりなす、複雑でどこかよそよそしい造形。七色に光をふくむ塗装のおかげで、体がなかば透けているかのように錯覚しそうになる。
私は揺合だ、と呟いた。あたたかなよろこびが押し寄せる。私はもうひとりではない。
*
アトリエの窓に曙光がきざしていた。私はしあわせで、揺合そのものとして街を歩きたいと思った。あたらしい日にぴったりの冴え冴えとした朝で、なんだかうまくいきすぎているような気がした。それは祝福だったのだろうか。
ひんやりとした空気がしずかにそよいでフェイク・グリーンをゆらしていた。
非の打ちどころのない夜明け。私は一本の葉巻を、ほとんど味わいもしないまま吸い尽くした。それからかろやかに階段を降りて、アトリエのとびらを押しあけ表に出た。見上げると空の大部分がまだ深い藍色で、薄桃の光が低いところににじんでいる。
あたりは静まりかえっていた。黙り込んだ白っぽい住宅。だれもがそれぞれの寝室で眠っているのだろう。空の高いところからうっすらと鳥の声が降ってくる。石畳に足を踏み出すごとに、自分の足音がうつろな道にひびく。見下ろした自分の両脚はあけぼのの光をうけて、真珠のように淡い七色をおびている。
街道にそって繁華街のほうまで向かう。いくつかの住宅地や住宅地のように見えるはりぼての群をゆきすぎ、フェイク・グリーンの木立を抜けて、さらにその先へ。薄赤いれんがの積み上げられてできた街並みが見えてくる。いくつものにせもののレストラン。動かない自動車をショーウインドウにならべた販売店。固くシャッターをおろしたままの銀行。それらしく加工したガラス玉を陳列した宝石店。路傍でうとうとしている行商人と大きな黒馬。烟草屋。インテリアショップ。どの店もまだ営業をはじめていない。
だれもいない街並みをゆく足並みが、しだいにうきうきとしたリズムを帯びはじめる。なにかステップのような、ステップ未満のようなものを刻みながら歩いてみる。動かしてみればそれは意外なほどすぐに体になじみはじめた。だんだんその動きを大きく、複雑にしてゆく。唐突に体のうごかしかたがわからなくなって時折ぱたりと転げたりもするけれど、まだかなりの強度のたもたれているつくりたての体は、地面に打ちつけられても傷ひとつ負わないままするりと立ち上がる。
ひかえめな褐色の景色のなかで、私だけが場違いなほど幸福なあかるさに満たされている。右へ、左へとおおきく逸れながら進む。ステップに慣れてきた足先が体をまえへうしろへとこきざみに、はらはらとふりそそぐ花びらのようにとらえどころなく揺れさせる。可動域をとりわけおおきく設定した関節が、長い脚をリボンのように放ってしならせる。腕をふりあげて高く伸ばし、そのまま体を回転させる。とりわけ頑丈につくった爪先がこまの先端のように地面と交いあって、そのままいくらでも回りつづけることができそうな気がする。地面をちいさく蹴ると、体はのびやかに跳び上がった。かりそめのこの体で、たぶんたいして高く跳べたわけではないのだろう。それでも体が地面から離れているほんの一瞬のあいだは私はだれよりも自由で、揺合はこの感覚にとりこになっていたのだということがはじめて腑に落ちる。
07.
でも——はじめから分かっていたような気はするけれど、そんなひとときは長くは続かなかった。街は無人だと思い込んで踊りつづけていた私はだれかの体に真正面からぶつかり、その反動でからからと音をたててながら地面に転がった。
仰向けになって空をみるとすっかり青く、もう陽がのぼっているのだとわかった。逆光になっているせいで、ぶつかった相手の姿をうまくとらえることができなかった。
「おや。大変失礼いたしました。これはどちらの方ですか」
だれかに聞かれた。どちらもなにも、ずっと昔からここに住んでいますが——ということを私は人影に向かって言った。地面に手をついて起き上がり、あらためて相手を眺めやれば、それは門番のかたちをしたひとだった。私はどうやら街の教会堂のまえにいて、その門扉をあけにきた門番にぶつかったらしい。
門番はとても背が高かった。くらい目元が私の体の、てっぺんからつまさきまでをいかにも物珍しそうにながめた。
「大丈夫ですか。体のぐあいが良くないのでしょうか。でも安心してください。この街には体をきちんと直せるアトリエがいくつもありますから」
門番は優しくそう言った。私はいつもの癖で自分の手首の内側をちらりと見やったが、まあたらしい体にはなんの覚書もしるされていなかった。私はしばし口籠もり、慌てて礼を言ってその場を立ち去った。
いくら私たちが目をかがやかせて作った体も、この街ではあわれまれ、すみやかに修繕されるべきものとして扱われるだけだということはもちろんわかっていた。
時計台の鐘がびりびりと空気をふるわせ、不協和音のような響きが体じゅうに染みこんでゆく。私は踊りながら歩くのをやめた。まっすぐに伸ばした体で足早に路地を歩いた。陽が高くなり、人通りはだんだんと多くなってゆく。決まりきった言葉をもつひとたちがざわめきながら道をみたし、私とすれ違うときだけ揃いもそろって喋るのをやめ、ぐるりと首を回転させて私を見送る。
裏通りにあるうすぐらい喫烟店を探した。このままの姿でアトリエに帰る道中をわたってゆける気がしなかった。きっと親切なひとたちがよってたかって体を直す方法を教えてくれるのだろう。うまく切り抜けなければこの手を曳いて、ほんとうにどこかのアトリエに案内されてしまうのだろう。このままふらふらしていたらいつか留架とすれ違ってしまうのではないかという気がして、見つかればひどく心苦しく思うことになりそうだったからそれも嫌だった。
早々に見繕った喫烟店の隅に身を落ち着け、なるべく長く燃えつづけそうな烟草を注文した。店員となるべく会話しないで済むように、私はずっとうつむいていた。火をつけると白濁した煙が薄闇にふわりとこもり、愛すべき体の輪郭をあいまいにする。
*
——おや、戻ってきたんだね。そうなるとは思わなかった。
おどろいて夜道を振り返ると、道端に座り込んだままの行商人がどうやら私のほうを見ている。おかしなことに、行商人がなにを言っているのかすぐにはっきりとわかった。向こうがあえてやさしい言葉をつかっているのか、それとも私のほうの言葉が強くなってしまったのか。行商人のとなりにはインクのように黒々とした美しい馬が、なめらかな脚をちいさく畳んで眠たそうにしていた。
私は陽が落ちたあとの街を歩いて、半地下の揺合の部屋をもういちど訪れようとしていたところだった。部屋へとつづく階段を降りはじめようとしたとき、唐突にうしろから声をかけられたのだった。
戻ってきたんだね。その言葉の意味するところを考える。いまの私は揺合なのだから——つまり行商人は、揺合の失踪のことを知っていたのだ。前に話しかけたときには、行商人の言葉が意味をむすばなかったけれども。
——もうたどり着いた頃だと思っていたのに。
私は言葉に詰まった。なんと答えればよいのだろう。揺合の消息を聞きだしたい、という絶望的な衝動はふしぎと消えていた。私は揺合を取り戻したかったのではなくて、揺合とおなじところに行きたかったのだということがいまならわかる。だから私は揺合の居場所を聞きだすのではなくて、自分がどこへゆけばよいか尋ねればよいだけだった。
道に迷ってしまって——と私はささやいた。揺合に似た硬質の口調で——辿り着けなかったんです。もう一度助けていただけませんか。
行商人のほうをまっすぐに見据えながら、なにもかもがうまくいくことを願った。私はすでにもう揺合なのだから、きっと取り合ってもらえるに違いない。行商人は目深にかぶった帽子のかげから、私をじっと眺めていた。今日すでに多くのひとがそうしたように頭からつまさきまでを観察し、そして諦めたようにかぶりをふった。
——もう一度お行き。道なら馬が覚えているよ。
黒馬がゆるりと頭をもたげた。馬に乗ったことなどただの一度もなかったけれど、私ははっきりと頷いた。行商人がなにを考えてそう言ったのかわからないけれど、私には関係のないことだった。私はただ、先行して去ってしまったもうひとつの体と同じところにいかなければならないだけ。
馬はものすごい速度で街道を駆けている。
いまさら悟ったところでどうすることもできないけれど、揺合は、私ではないほうの揺合は、街のどこかに潜んでいるわけではなかった。となりまちに逃げ出したり、田舎の納屋にかくれようとしたわけでもなかった。もちろんフェイク・グリーンの木立のなかで気ままに踊りつづけているわけでもない。それよりもはるか遠いところに向かってしまった。このしらじらしい空間の外部をひた目指して。きっとそれは、ねっとりとした体表をもつ行商人たちの生まれた場所だろう。水に濡れても生きてゆけるひとたちの暮らす場所だろう。
仮にそのような外部までいきつくことができたとしたら、そこにはほんとうの世界がいろあざやかにひろがっているのだろうか。つたない模倣や漫然としたくりかえし、はてしのない惰性とは無縁の場所で、借り物ではない言葉を話すたくさんのひとたちと出会うことができるのか。私たちの言葉も、体も、踊りも祝福されて、あたりまえのように昨日とは異なる明日を暮らせるようになるのだろうか。
そういうことにはならないだろう。はりぼてのひとたちがにせもので、言葉を持ってしまった私たちだけがほんものだという根拠はどこにもない。言葉は言葉を借りること以外に起源をもたないし、さいしょの言葉の発明者など世界のどこにもいるはずがないのだから。どこまでいっても同じ、模倣物がまた模倣され、惰性があたらしい惰性を呼びつづけるだけ。体の素材がなんであろうと、耐水性であろうとなかろうと、食事をするものもそうでないものも。私たちにとって街のひとびとははりぼてに見えるけれども、かれらのことをはりぼてと呼んでもよいならば私たちだってもちろんある意味でははりぼてだ。ほんものとにせものとをはっきりと分かつことなどできるはずがない。置かれた水準の現実性にあわせてうまくやれない私たちが悪いのだろう。私たちから見てはりぼてに見えるひとがいるように、私たちもまた別の場所から見られたときにはあきらかなはりぼてになるのだろう。世界のほんとうらしさは程度の問題にすぎない。それぞれの土地のほんとうらしさの水準に自分を合わせなければならないだけ。それがうまくいかないときに、すべてがにせもののようにおもわれてしまうだけ。それなのに自分のことだけがほんとうであるようにしか思えない。そんなものだという諦念に身をゆだねることができない。ひとたびなにかを狂わせた私たちは、にせものとして迫り来る世界から逃走すること以外に生き延びる術を知らない。この体に満ちているのとおなじ言葉のあるところまで。現実性の濃度がほかのひとたちと均衡するところまで。そのような逃走なるものが果たして可能なのかどうか、私には知るべくもないけれど。
黒馬は丘を越えてゆく。ひだのようにつらなる大地を私は切り裂いて進む。暗いので周囲はあまり良く見えないが、ときおりすれ違うのはたぶん黒ずくめの行商人だろう。街が遠くなってゆく。街が。生まれ故郷が。愛すべき日常にみちた世界が。いまなら引き返せる、とだれかがささやく。まだ間に合う。戻ってやり直すことができる。いますぐに馬を乗り捨てれば。さだめられた姿のまま、さだめられた言葉を話すことを受け容れるなら。この街ならきちんと直せるアトリエがいくつもありますよ。胸のなかにひとさじの水をそそぎこみ、すべて忘れることをいとわないなら。決まり切った言葉で生きるのも、決して不幸なことではないはずだった。もしもいまどうにかして引き返し、アトリエに戻ったならば留架はきっとすぐさまそれに勘付いて、私のもとを訪ねてきてくれるだろう。揺合とおなじかたちをした私を見てはじめは混乱するにしても、説明すれば込み入った経緯もわかってくれるだろう。そして元通りのねずみ色の体に戻して、ついに〈白紙化〉するつもりだと思うのだと打ち明ければ——はじめは引き止めようとするだろうか。〈白紙化〉をうまく避けながら、現実性だけを巧みに調整できるよう、やさしく、歌いかけるように説き伏せようとしてくれるだろうか。うそのようだけどうそじゃない。うそのようにみえるだけ。
うっすらと空気が湿り気をおびている。自分の体から甘い匂いが立ち上っているのがわかる。揺合の体をつくりかえるたびにかおったあの芳香だった。体が水分に冒されてゆく。痛みはない。痛みをもたない体はにせものだろうか。濡れてこわれてしまう体ははりぼてだろうか。どこまで行ってもおなじなのか。馬のひづめの蹴る地面が水気をふくみやわらいでいるのがわかる。風を切る音の向こう側でなにかが低くうなるようにざわめいていて、あれはおそらくフェイク・グリーンの葉擦れではない。この動物の足の速さに慄く。かなり遠くまで来たらしい。
夜が明ける。大地にひかりがさしてゆく。そうして私は果てを見た。はるか上空からまるでなめらかな緞帳のように、水のヴェールが地平を覆い隠している。
それを見ても私は落胆しなかった。確かに外部はそこにある。半透明の水のヴェールの向こうにある。そのことがわかっただけで安心する。ただ私たちの体が耐えきれないのだというだけで、ほんとうらしいところはまだどこかにあるのかもしれないと。
馬はヴェールに向かって突き進んでゆく。後方へとつぎつぎと飛び去ってゆく地面に目をおとせば、真っ白の粉と繊維のどろりとした残骸、すっかり錆びついた歯車やばねやぜんまいまでもがあちこちに散らばっているのがわかる。馬の蹄はちいさな部品を泥のように蹴飛ばしながら進みつづける。こわごわと手綱を引いてはみたものの馬はとまらない。思い切って足を抜き、がらくらだらけの地面に転がり落ちる。馬はいななきながら高く跳ね、あっというまに水幕と大地の間隙を越えて行ってしまった。
ヴェールの手前でもうひとりの揺合が踊っている。そのまま天にとびあがって消えてしまうのではないかという気がして、私は夢中で駆け寄った。ひかりを受けた水幕に極彩色の円環がいくつも浮かび上がっては消える。私たちを迎えてかがやいている無数の虹。水は大地にきれこむ割れ目に向かってまっすぐに流れ落ちてゆく。頭の割れそうな瀑声があたりにみちている。水幕の向こう側はやたらと暗くて、こちらからはなにがあるのか見通せなかった。この幕が晴れればよいのに。そして何事もなかったかのように、平然と幕の向こうへ降りてしまうことができればよいのに。
揺合が私に気づいて動きをとめる。この場所でどれほど踊りつづけていたのかわからないけれど、その瞳はあいかわらずらんらんとした焔に満ちていた。
出口は目の前にあるのにどこにもない。ほんとうの世界はすぐそこにあるのに、この脆弱な体はたぶん幕を越えられない。ひとたびこの水幕に体をあずければ、すっかりこなごなになって溶け消えてしまうことしかできない。それでもかまわなかった。
私たちは高く両腕をあげる。ヴェールの向こうの暗がりをまっすぐに見据え、膝を深く折ってお辞儀をする。うしろは振りかえらずに、たがいに目を合わせることすらもしないで——なにをするつもりなのかはもうわかっていた。ふたりは手をとりあう。地面をかろやかに蹴って体を浮かせる。そしてとめどない水幕の一部となって、ゆるやかに体を、記憶を、言葉をうしないながら——私たちは底なしの亀裂の奥へと吸い込まれてゆく。
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内容に関するアピール
ある王が自分の理想の女性を彫刻し、恋をして、ついに生命を与えられたその女性を娶ってしまったというかなりグロテスクなギリシャ神話の物語がありますが、この逸話は物語をつくる/創作をする者がいつか向き合わなければならない問いと関係しているはずだと思います。そんな大それた問題がやすやすと解けるのかどうかはわかりませんが、つくられた対象へとむかう欲望を照射しうる物語をどうにかひとつのかたちに落とし込みたいと思って、このはりぼての世界のことを書きはじめました。
作中に二冊ほど実在の小説がひっそり登場するのですが、一冊目は『存在の絶えられない軽さ』で、もう一冊は『悲しみよこんにちは』のつもりで書きました。どちらも強烈なリアリティに貫かれた恋愛小説です。
文字数:325