ベイパーウェア

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1.

 全身の体重をかけた盾の一撃は立ち上がったイドラの足もとをふらつかせた。好機を逃さずユートは扱い慣れた片手剣で、イドラの急所の鳩尾を突き上げる。弾力のある表皮を剣の切っ先が突き破ると、あとは勢いだけで剣は深々とめり込み背後まで貫いた。

 ひょうひょうと悲しげにも聞こえる断末魔の叫びをあげて、ユートの倍は背丈のあるイドラはもとの土くれへと変化し崩れ落ちる。

 堆積した土砂の下から淡い光がかすかに見える。静かに手で払うと光は強くなり白い光を放つキューブが現れる。片手で包み込めるほどの「コトバ」の欠片を背嚢へしまうと、ユートは周囲を注意深く観察する。

 ほんの少し紫がかった暗い空には数え切れないほどの星が瞬いている。この世界──シニフィアの空はぼんやりとした薄明かりを常に地表へ投げかけている。安全な「ホーム」では灯りをともすが、狩り場で光を用いる時は注意しなければならない。ヒトのような姿をしたものから四つ足、虫のように体節を連ねたものまでイドラは様々な形態をとるが、総じて光には敏感だ。物陰に引っ込んでくれればいいが、数を頼みに群れで襲って来ることもある。

 石切り場と呼んでいるこの渓谷に最近現れたイドラはほぼ狩り尽くしたようだった。コトバの欠片も五つ手に入れた。十分な成果だ。

 ランプの灯りがホームを照らす。ベッドにハイマツの木で作った簡素な机と椅子。家具と呼べるものはそれだけ。ユートがこの世界に産み落とされたときからホームの様子は変わらない。誰かが使っていたのかもしれないが知る由も無い。この世界にユートは一人きりだ。それは意識を得て自分の存在を認識した時から持っていた記憶であり、新たなコトバを得た時に思い出す知識の断片も裏付けていることだった。

 ユートは今日集めたコトバの欠片を机の上に置き、引き出しに仕舞っていた欠片も取り出す。合わせて七つの欠片が並ぶ。比べてみるとそれぞれの形や光の色には微妙な違いがある。似ている四つを選び出し一列に並べる。

 ユートが期待した通りに四つのキューブは一体となって脈打つ光を帯び始める。一瞬虹色に輝くと四つの音からなる「コトバ」に変化した。カ・ナ・シ・イと区切られた音がホームの空気を震わせ、同時に「悲しい」という言葉の指し示す内容がユートの心の中に流れ込む。

 悲しいという感情をこれまで持っていなかったわけではない。ただ、コトバとして形を与えられないと人に伝えることはできない。ユートが地平線の先の先まで行っても世界には自分しか人はいない。だが、このシニフィアには無数の世界が存在し、そこにはユートのように孤独に過ごす者もまた数え切れないほど生活している。遠い昔に世界はいまあるように作り替えられ、共に暮らしていたという人々からは言葉が奪われた。

 しかし地下深くに封じられたという言葉はコールタールのように染み出して形を取り、光を恐れつつ時には人を襲うイドラとなった。イドラを狩るのはユートが好きでやっていることだ。生きていくだけならかすかな星の光で育つカラスムギとクロスグリで充分。たまに川でアメマスでも捕らえられればご馳走だ。

 だが、コトバを得て好奇心を満たすことはユートにとって何よりの喜びだった。

 ホームには出入り口の前に必ずポストが置かれている。もちろんユートも持っている。ポストには稀にメールが届く。薄い長方形の形に折り畳まれたメールを開くと、コトバが幾つか綴られている。たいそうな内容は書かれていない。近くのタールが枯れた、だの、俺は剣を二つ持っている、みたいな近況報告のようなものがほとんどだ。

 ただ、手紙を読むとそこで使われているコトバを手に入れる事ができる。おかげで少なくないコトバとそれに付随した知識を得ることができた。自分は孤独だが地上に世界は幾つもあり、様々な人が暮らしている。世界を知ることはユートにとって楽しいことだったし、その恩返しのためにコトバを綴ってはメールをポストに投函する。メールがどこの誰に届くのかは知らない。誰から届いているのかもわからない。

[悲しい]と[言う][気持ち]を[誰]か[知って][いる][?]

 思い浮かべたコトバを宙に浮かべ、意味が通るように並べてメールの形に折りたたむ。ポストに投函すると、メールの淡い光はすぐに失せて中を覗くともうそこには何もない。

 

2.

 ココロからの返信があったのは二日後の事だった。普段のメールとは様子が異なり金色の光を放っていた。

[川]で「魚」が「跳ねて」[一人]を[知る]と[悲しい][[ココロ]]

 コトバを二重に括って差出人の名前を入れることが出来ると知った。だがユートは自分の名を持ってはいるが、コトバの形で得た事はない。コトバを浮かべようとしてもユートの綴りは出てこない。

 ココロからのメールを綴じたり開いたり、目を眇めて見てみてもどうにも要領を得ない。眠りを二度取って目覚めた時に唐突に思いついた。何かコトバを取りだしてそこに同じコトバを重ねるとたいていは意味を失って消えてしまう。だが、重ねた時に別のコトバに変化することがある。右手に左手を重ねると両手になるような場合だ。

 ユートは[自分]を取りだしてそこにもう一度[自分]を重ねた。コトバは初めて見る淡い金色の光を発して[ユート]に変化した。これが正しい方法なのかはわからない。のちにココロに聞いたところでは、[心]に[心]を重ねたら偶然自分の名前と同じ[ココロ]に変化したのだという。名前は生まれついて決まっているものだから、こういうこともあるのかとユートは思う。

 ココロに宛ててメールを送る時はメールの最初に[ココロ]を入れるだけでいい。試行錯誤せずとも、それは直感で分かった。誰に届くとも知れないメールを送っていた間、頭になにか入れられるような感覚があったからだ。分かってみれば単純なことだった。

 要領が分かり、ユートは思いつくままココロにメールを送った。曰く。

 今日はアメマスを三匹捕まえた。

 昨日は生まれてから五千回目の睡眠だった。

 以前から目をつけていたイドラの尻尾から剣が出てきた。

 イドラを狩るのは好き?

 甘いクロスグリはどれか分かる?

 コトバはいくつあるんだろうね。

[君]は[なぜ][自分]に[メール]を[出した][の][?][[ユート]]

 ココロはユートのメールの内容に答えることもあったし、自分の事を書いて寄越すこともあった。

 食べられる土があることを知ってる?

 空の星はたまに動くよね。

 悲しいは冷たいと似てる。川の水と似てる。

 温かいって分かる? 血は痛いけど温かい。

 あなたは狩りが好きなの?

 お腹の大きなイドラはたくさんのコトバを持っているよ。

[あなた]は[私]との[メール]が[楽しい][?][[ココロ]]

 ユートはココロの知っていることが知りたいし、ココロ自身のことも知りたい。

 ココロはどちらかというと自分の言うことに同意して欲しい。

 互いの声も姿も知らないが、二人はメールを交わすことでコトバを増やし、世界について知識を深めた。ココロはイドラを狩るのは得意ではなかったが、色々な人からコトバを聞いて、ユート以上にイドラの生態に通じていた。

 歳を取った大きなイドラほどたくさんのコトバや品物を抱えていること。

 イドラは土から染み出して生まれるが、大きなイドラが小さなイドラを産む事があること。

 腕に覚えがあれば、イドラが産まれるのを待って大きなイドラを簡単に狩ることもできること。

 それを知って、ユートの狩りは上達し、コトバを集める効率も格段に上がっていった。

 

[青い]と[言う][コトバ]を[見つけた][どんな][色]か[知ってる][?]

 

[血]は[赤い][メール]は[白い][空]は[暗く]て[黒く]て[少し]「紫」

 ユートとココロの住む世界「シニフィア」はコトバの豊かさに比べてあまりにも単純な環境だった。

[ココロ][きみ]は[コトバ]を[よく][知っている]けど[物識り]では「無いね」

 

3.

 検証機でメッセージを送ったのを見計らっていたかのように、社内SNSに金子巧から個人チャットが入った。

>TO 岸祐人さん

 ちょっとコーヒーでも飲みに行きませんか?

 俺が返事をタイプするより早く、正面のパーティションから背の高い男がのぞき込む。

「岸さん、軽く立ち話できます?」

 エンジニアの金子は人好きのする笑顔で声をかけてくる。

「……話ならチャットでいいだろ」

 俺の表情は最高に無愛想だったに違いない。人付き合いが悪いことは重々承知している。むしろそれが信念だ。

「まあまあ、僕もどう話をまとめればいいのかちょっと難しくてですね。ほら、岸さんみたいに文才無いんで!」

 しゃべりながらずかずかと長い脚でデスクを回り込んできた金子は、フロアの端のフリードリンクコーナーに目を送る。

 俺が無言で腰を上げると何が嬉しいのか何を飲むのがいいか勝手に話し始める。

「岸さんはブレンドのアイスでいいんですよね? 僕はそうだなー。あ、巨峰ソーダ! 今日みたいな暑い日にはいいですねー」

 俺の返事も待たず岸はドリンクを取りだし押しつける。確かに自分はアイスコーヒーしか選んだことは無い。期待値ゼロのフリードリンクの味など迷うだけ時間の無駄だ。

「で?」

 話を促すと壁のソファを促される。立ち話ってはただのフリか。

「まあ、あれです。ポラナイのメッセージ機能どう思います?」

「本当にザックリだな」

 ポラナイというのは会社が開発中のソーシャルゲームの略称だ。開発コードネームはポーラーナイト。ただし長すぎて会話でこの名称を使うことは滅多に無い。

「テストプレイも進んだしな。かなり自然な会話になったんじゃないか」

「いやあ、一時はどうなることかと思いましたけどね! 私 食べる 好き 嫌い 思う、とか、原始人の会話みたいなレベルでしたから」

「ああ、助詞の自動補完機能がついて随分分かりやすくなった」

 と、ここまでは前振りだ。金子が悩んでいるのはこの先だろう。

「で、ですね。半分技術的な問題じゃないんでモヤッとしてるんですが……」

 金子は言葉を選びながら口にする。

「AIの持つ語彙と、ゲームに実装するキーワード……。コトバをどうすり合わせるのか。どう思います?」

「どうってそこはエンジニアのお前やQAの俺の領分じゃないだろう。ゲーム内容は、企画については全部あの社長の決めることだ」

「ですよねー。実乃里ちゃんもどうするつもりなのか……」

「まあ、確かに俺もAIが青さを理解できないってのは問題だと思うが」

 俺の言葉に金子はニヤリと笑みを浮かべる。こういうところは天才すぎてどこも引き取ってくれなかったと自称するだけの、マッドサイエンティストじみた人格の片鱗を感じる。

「そこが問題になるってところがこのAIの凄いところなんですよ! 彼らは自分たちの居る仮想空間を五感で捉えて自立的に思考し行動するんです。だから身の回りに無いものの名前を知っても、それが何かマッピングできない」

「初めて飛行機を見た人が大きな鳥だと思うようなものか。いやそれ以下だ。それこそポラナイは極夜のツンドラ地帯レベルの環境の乏しさだってところに問題があるだろ。鳥もいなけりゃ太陽すら昇らない」

 俺の言葉にうなずきつつ、金子は紙コップに残ったクラッシュアイスを噛み砕きながら言う。

「それも含めて実乃里ちゃんの世界観ですからねえ。僕は嫌いじゃないですよ実装が楽だから」

 

4.

 株式会社かすみラボラトリ。それが今の俺の勤め先の名前だ。かすみというのは仙人が食うとか云うモヤのことだ。要するに生活必需品ではないモノの創造に全力を傾けるという社是を込めたと、社長の実乃里ちゃんは胸を張る。

 新卒で定職に就けず、なんとか潜り込んだ派遣会社でゲーム会社を渡り歩いてきた。セキュリティ技術の知識があったので、俗にQAと呼ばれる品質保証部門でキャリアを積んだ。バグを報告したり、アプリが解析される穴を潰したりと要は縁の下を支える役どころだ。

 ただ生来の人付き合いの悪さと、ちょっとした挫折で厭世的になっていた俺は、派遣される先々で問題を起こした。本来派遣社員は頑張ったところで業績を評価されないかわりに、タスクをきちんとこなせばそれ以上は要求されない。勤務時間にカウントされない稼働や人付き合いを断ってもそこは祐人の自由な筈はずだが、担当営業の新井には扱いづらい人材だと「ご意見」が寄せられるらしい。

 次の派遣先として新井から提案されたのは、まだ何の実績も無い学生ベンチャーだった。条件は悪くない。開発スタッフしかいないため、テストやデバッグについては派遣社員のスキルと経験に頼りたい。互いの合意があれば社員登用も積極的に考えるという。俺は来年で三十歳になる。非正規から正社員になるには最後のチャンスかも知れない。

 企業が派遣社員を採る際に、採用面接のような行為は禁じられている。あくまで派遣会社の提示するスキルと履歴書のみで判断する。しかし実際には「面通し」などと呼ばれる、先方の人事や配属予定先の責任者との面接が行われるのが常だ。

 テックベンチャーかすみラボラトリは、山手線の駅から十分ほど歩く、古びてはいるが小綺麗な雑居ビルの三階にあった。流行りのオープンフロアで狭い受付を通ると社内が一望できる。パーティションで区切られたミーティングスペースの一つに新井ともども案内される。入れ替わりに現れたのは、まだ二十歳そこそこにしか見えない女性だった。ベンチャー企業の代表取締役は伊藤実乃里と名乗った。若いなりにビジネススーツを着こなす態度は堂々としている。

 まずは、と社長は会社の説明を始める。設立は自分の誕生日でもある今年の一月十日。この春無事進級して二年生になった。職場の進級パーティでは一斗樽を開けたが、自分はまだ酒は飲めない。過剰に余計な情報を織り交ぜてくるが、本人はいたって平常運転だ。こういう時に話の継ぎ穂で場を持たせるのも営業の仕事だが、新井も学生社長のウケ狙いとも天然とも測りかねる態度に、ははぁと気の抜けた合いの手を入れるのが精一杯だ。

 差し出された会社紹介のパンフレットを広げ、祐人は思わず声をあげそうになる。設立メンバーの集合写真の背後には見慣れた講堂が写っている。

(ここ俺の出たところじゃないですか)

 肘をつき隣の新井に耳打ちする。

(あれ……。聞いてなかったですか)

 新井はとぼけたが、これは意図的に伏せたと確信する。職場の外へ人間関係を持ち込むのを極端に嫌う俺に、この求人は出身校の後輩たちが立ち上げた会社が出したといえばそれを呑むわけはなかった。ただ、雇用契約の内容はおおむね満足できるものだった。社員の裁量は大きく、レポートラインは実乃里に直結している。社内SNSに参加さえしていれば、どこで仕事をしていても勤務時間としてつけていい。給与はこれまでの五割増しになった。ただ一点。

 伊藤実乃里が代表取締役に就任している期間、被雇用者(派遣社員・業務委託者含む)は「実乃里ちゃん」と呼称すること。

 就業規則に明記されているのを見た時は目を疑ったが、馴染んでしまえば些細なことだった。

 メンバーは総勢五名。この春にポスドクから社員になった二十七歳のエンジニア、俺とも一番歳の近い金子巧から、最年少にして社長の「実乃里ちゃん」十九歳まで、同じ大学に在籍している事以外に関係性は薄かった。核になるアイデアを持っていた実乃里が、学部も学年も違う一人一人を口説いて回ったのだという。

 もちろんベンチャーキャピタルからの投資も潤沢に集めていた。今の倍どころか十倍の規模でも数年は開発を続けられるという。

「それでなぜQAだけ派遣に頼ったんだ」

 実乃里は敬語を嫌ったので入社初日からタメ語で話す。

「学生には無理な仕事だから」

 実乃里の返事は簡潔だった。

「品質保証って要するにお客さんの苦情やツッコミを受けながら、先回りして予防するってことよね。クリエイターとエンジニアは最高のメンバーをそろえられたけど、客あしらいのベテランなんて学生には無理無理。早々に諦めたわ」

 確かに学生の頃の自分に今の仕事を説明しても、ゲームをしながらチェックする仕事くらいの理解しか得られないだろうと思う。それだけならアルバイトの人海戦術で事足りる。重要なのは何が問題なのか定義して、どう修正するか道筋をつけることだ。

 誰かの感情を害したことがきっかけでネットで炎上し、大企業の社長が頭を下げるこのご時世、品質保証担当を置くという判断をしただけでもこの学生社長は世の中が見えているのかもしれなかった。

 

5.

 テスト環境のバージョンをコンマ一つ上げたと金子から全社員に周知があった。これは予定通りの進捗だ。ただ、実際のリリースまでほど遠い現状では、テストプレイくらいしか俺にはやることがない。そんな俺向けに、金子からチェックして欲しい新機能のリストが渡された。

 メッセージ周りは実乃里ちゃんの判断待ちなのか目立った変更はない。戦闘に大きな機能追加があった。敵キャラのイドラがドロップするアイテムにシムという人形が加わった。名前を知っているNPCをこの人形に呼び込むことで、共闘ができるというものだ。

 ベースがオートバトルのアクションRPGなので、プレイヤーの操作は相手にする敵の指定やアイテムや必殺技使用のタイミングくらいのものだ。もちろんそれも全てAIに任せる事もできる。

 同じようにアイテム感覚で仲間を呼べるのかと思ったら、そこは少し捻ってきた。シムで呼んだ仲間も主人公キャラ同様オートで戦うが、その際に直接行動は指定できない。その代わり、入手済みのコトバから幾つかのフレーズをコマンドとしてセットでき、戦闘中に声をかけることができるようになっていた。要は往年の大作RPGの「みんなでこうげき」みたいなものだ。

 さっそくシムを入手し、ココロ用にカスタマイズしたコマンドを用意する。

【ユートとたたかう】

【わかれてたたかう】

【さがってかいふく】

 六つまでコマンド枠は用意されていたがひとまず最低限を設定した。

 プレイヤーキャラのユートという名前は祐人という自分の名前から取っている。子供の頃から名付けの必要なゲームではとりあえずユートにしてきた。惰性というよりこの名前以外だと違和感を感じるレベルになっている。

 見慣れたフィールドを移動し、弱いイドラしか出現しない枯れ野へやってきた。シムを選択しココロを呼び込む。これまでプレイヤーキャラしか表示されなかったところに、はじめて仲間が現れたのはテストプレイながら期待感が抑えられない。

 無論デフォルメされているものの、十代の少年キャラのユートの隣に立ったココロは、装備こそ同じだが同年代の少女キャラとして描かれていた。デザイナーからキャラの年代はかなり幅広く取っていると聞かされていたせいで、プレイヤーの自分より年上だったら口のきき方に注意しようなどとやくたいもないことを考えていた。

 イドラが出現しフィールドモードからシームレスにバトルモードへと移行する。

 自キャラのユートはひとまずオートバトルに任せておいて問題ない。

 コマンドをタッチ【ユートとたたかう】。

「無理です!」

 即座にココロが返事をする。メッセージのやり取りと違ってここはリアルタイムなのかと感心するものの反応がおかしい。

 もう一度同じコマンドを入れてみる。

「ユートは仲間です!」

 表現が悪かった。戦闘を一時停止してコマンドを練り直す。

【てきとたたかう】

【ユートをかいふく】

【さがってかいふく】

 これなら同士討ちと勘違いすることもないだろう。

 ポーズ解除。よし、【てきとたたかう】!

「嫌です!」

 反応が早い。【てきとたたかう】を連打する。

「こんな小さなイドラを倒すんですか?」

「コトバの欠片だってちょっとだけですよ」

「もう帰りましょう!」

 俺は戦闘から撤退した。

 帰路、シムで呼び出したココロはホームに戻るまで一緒に着いてきた。

「ユートの世界も私の世界とあまり変わりませんね」

「星の数も同じに見えます。幾つあるか数えた人はいるのでしょうか」

「ユートは男の子だったのですね」

「男女がなぜ分けられているのかはわかりませんが」

「腕に触ってみてもいいですか」

「これが人肌……。自分の腕よりも体温を高く感じます」

「あれがユートのホームですね」

「私のホームには屋根裏部屋があるのですよ」

「シムの効果はここまでのようです」

「こんどは私の世界で会いましょう」

 効力を失ったシムからココロは立ち去り、一方的な会話を聞かされながら俺はこのゲームの可能性が開けたと感じていた。

 パーティションの向こうの金子に、戦闘時のリアクションが最低のバランス調整だとチャットで伝える。こっちがコマンド選択なのに仲間は勝手にしゃべり出すとバトルにならない。

 そこはとりあえず未調整で意見を聞きたかったと言いだしたので、とにかく改善案を提出すると伝え話しを終わらせる。

(それよりシムの機能そのものだ。あれリアルタイムの会話が可能だろう)

(ええ。バトル用という事なので応答性が必要かと)

(それはプレイヤー側にボイスコマンドを実装して……いやまだそれはいい)

(シムはまだ実装自体も検討段階なんですよ。実乃里ちゃんがコンセプトがブレるかもとか)

(わかった。シムは置いといて会話機能だ。普通に対面での会話も出来るだろう)

(シムより簡単ですよ。たとえばホームの中で会話するとか、鏡を通して通信とか)

(OK。ちょっとまとめたい仕様がある。ゲームのコンセプトに叶うかどうかだが)

 結局、俺のまとめた会話機能の使用は次の開発バージョンへと持ち越された。実乃里ちゃんが言うには、世界観と自由度のバランスを熟慮したいということだった。

 問題大ありの共闘バトルもテコ入れが入る予定だ。こっちはシンプルに決め打ちのコマンドを選んで、シムで呼んだ仲間は自分の状態や何ができるかを伝えてくるのでその判断をするだけの仕様で固まりそうだった。

「そんなわけで開発バージョンを一つ上げます」

 週に一度の全体ミーティングで金子が嬉しそうに発表した。何をするにしても開発が楽しくて仕方がない態度を崩さないのはこの男の美点だろう。

 今回もコンマ1桁を上げるだけだが、金子としては前回とは規模が相当違うらしい。

「今回はAIの換装になります。ゲーム部分の見た目はそれほど変わりませんが、内部は別物と言ってもいいくらいです」

 金子とは充分に調整を重ねてきたのか、美里は黙ってうなずいている。

「テストへの影響は?」

 念のため確認する。

「無論一新されます。AIの仕様が大きく変わるため、データの引き継ぎも行いません」

 ゲーム開発ではよくあることだ。この段階のデータも理由が無い限り引き継ぐ必要は無い。

「それは、これまでのテストプレイの内容も消去されるってことか……」

 俺の声のトーンは下がっていたと思う。それだけ今のユートとココロには思い入れがあった。

「データは検証用に保存しますが稼働環境は無くなります。クリア前のセーブデータを消すような真似になってお気の毒ですが……」

「いや。いい。仕事でも楽しませてもらったんだからそれで充分だ」

 開発環境のアップデートは今夜一晩かけて行われる。帰宅前に現行バージョンに最後のログインをする。ポストにはココロからのメールが届いていた。

「目が覚めてから星の数を数えていました。二千をこえてもまだほんの少しです」

 どこまで本気か分からない文面に笑みが漏れる。

[すこし][ホーム]を[離れて][遠く][まで][出かけます]

[青い][もの]は[空]と「聞きました」「また」「戻って」「きます」

 すこし待って返事が届く。

[青い][空]が[見え][たら][教えて][ください]

 翌朝。検証機を起動すると新しいログインを求められる。この端末にもまだ前のバージョンのデータが残っているかも知れない。でもそれは意味の無いただの感傷だ。

 ココロはただのゲームデータだと自分に言いきかせるほど、そうではなかったと感じる。これまでに祖父や飼い犬の死は経験していた。大切なゲームデータを間違って消去してしまうようなこともあった。でもこれはこれまでと質の違う感情のように思えた。

 幼い頃は泣き虫だったとふと思いだす。なぜ泣いていたのか今はもう思いだせない。ただ外の世界が怖かったのかも知れない。言葉を覚え文字を覚え、空想の世界に入り浸るようになってからは、心を動かされることはあっても泣くことはなくなった。実生活の人間関係でも、空想より心を動かされることはこれまでなかった。そんな人生を送ってきたはずだった。

 俺は別離の悲しみを初めて意識したのかもしれない。

 

6.

 新しいテスト環境の見た目はそう変わりなかった。相変わらず空は星が瞬いているし、バトルの相手相変わらずイドラだった。ただ、戦闘には戦略性が増して、コトバの欠片を入手するだけの作業から少しはマシなゲームになっていた。

 ホームの簡素なしつらえも相変わらずだったが、シニフィアの世界観に大幅な更新が入っていた。これまではたった一人の孤独な世界が無数にあるとだけされていたが、それぞれの世界は少しずつ重なり合っていて、不可視の壁を取り去ることが出来れば往来が可能となっていた。

 一世代前のシムを使った遠隔操作ではなく、名前を伝え合った者同士で互いのホームへと行き来できるようになった。

 ユートの名前は相変わらず。実はどこかにココロがいるのではないかとメールを送ってみたりもしたが、全て別人だった。

 新しい友人もできた。十代半ばの設定のユートから見れば少し年上のシンという名の青年だ。名前を知り壁を取り去ることで、互いのホームは同じ世界に存在する。どちらかのホームを訪ねることで、メールによらない直接の会話が可能となっていた。

 もっとも、取得しているコトバを並べるという仕組みは変わっていない。ただ、相づちや簡単な返答がコマンド登録されたことで、ストレス無く話し続けることが出来るようになっていた。

 シンはココロの世代とは本質的に異なるAIだった。いい意味で単純、純粋無垢な本質が見えていた第一世代と事なり、第二世代には自分たちが意思を持つ存在だという根っ子のようなものが感じられた。たとえばシンは自分はこのシニフィアという世界の人間だと主張するが、たとえばここが誰かに作られたゲームの中の世界だという仮定を立てると、それを受け入れた上で議論が可能となっていた。

 シンは虚構の存在などではないという建前を崩しはしない。しかしものの例えとしてココロのような、虚構の世界の人間は本当に存在するのかという問いを立てると、それについて積極的に考えを巡らす。シンは言う。いなくなってしまった人の完全な複製が出来たとしても、それは元の人とは違うはずだ。それは同じ本を改めて読むと、以前は理解できなかった文章の意味を見いだしたり、登場人物の印象が変わるようなもので、ユート自身が常に変化しているからだ。それと同じだと。

 イドラ狩りは以前とは比べものにならないほどリアリティが増した。シンとともに深追いしイドラに包囲されてユートは行動不能になる。デッドエンドだ。ソロプレイであればホームを出た時点まで時間がロールバックされ、行動不能になるまでに手に入れたアイテムは消去される。残るのはプレイヤーの記憶だけだ。しかし今回は同行していたシンが生き残り、死んだユートを背負ってホームまで帰還した。ホームに戻るとキャラクターとしてのユートを蘇生されロールバックは起こらない。

 一方、シンたちのようなNPCにとって、この世界に自分の死の概念は存在しない。共闘していた仲間が行動不能になることはあるが、それは一時的なもので回復可能なものだ。生還するまでなんど全滅してロールバックを繰り返していたとしても、プレイヤー視点での時間の巻き戻りをNPCは認識できない。俺は彼らNPCのこの死生観を知って最初は馴染めなかった。ゲームの仕様として死んで巻き戻った記憶が残ることは不都合だが、ここまで生々しいとプレイヤーの感覚と乖離してしまうようにも思えた。

 この常夜の世界になる前には一日という区切りがあり、今のように一人一人が隔絶された世界ではなかったと伝説の話をするシン。もしこの世界が昔のように戻ったら、自分も死というものを理解できるようになるのかもしれないと話す。

「もしユートが言うように、僕らの死を俯瞰することのできる存在がいるなら、死というのはそれで終わりではなくて、その先がある連続した現象なのかもね」

 シンはそんな言い方をする。それは祐人としての俺が生きる、現実世界でも同じ事なのかも知れないと考えに導くものだった。

 俺はシンの語る内容が、ココロたちの世代から格段に高度になっている理由を金子に尋ねた。テキストデータを学習させた結果だ、というのが金子の答えだ。しかしその内容はプライバシーに関わるので見せられないし、データの出所は実乃里しか知らないと言う。

 あれだけの進歩を生んだ文章とはどんなものだと俺は食い下がった。金子はゲームの中の単純な世界だからそう感じるんだと反論する。

 ではシンはAIではなくどこかで人間が操作しているのではないか。俺が追及すると、そんな意味のない事はしないと金子は言う。しかし、ゲームとしてのインターフェースがある以上、仕様上そうした割り込み自体は可能だとも言う。

「少し落ち着いてください岸さん。もし僕にも気がつかせずにそれができるとしたら、それは自分以外にもう一人しか居ないシステムの特権ユーザーだけです」

「それはつまり──」

「実乃里ちゃんだけですよ」

 俺とシンは取り憑かれたように生と死について会話を深めた。シンはあえてイドラに倒されようと考えたという。しかし狩りに出ると結局いつも勝ってしまい負けることがないとも言う。

 それはゲームシステムのロールバックをNPCのシンは認識できないからだ。しかしそうした世界のいびつさにその世界の住人が気がつくものだろうか。

 ユートと共闘中にシンが倒された。俺の目にはわざと殺されたように見えた。プレイヤーキャラのユートが生存しプレイヤーの俺が観察している以上、シンは自動的にロールバックされない。シンのホームでユートがシンを蘇生させると、今度は死の瞬間まで意識を保つことができたとシンは言う。

「死という状態はああいうものですか」

 冷徹な科学者が分析するようなその口調に、死への異常なまでの興味を俺は感じた。

 ある日俺は通常のシステム監視業務でバグを見つけた。特定のポイントでキャラクターが死ぬとロールバックされず、AIのパーソナリティデータが消去されるという深刻なレベルのものだった。これに巻き込まれるとシステム上のバックアップのみを残して、AIは事実上世界から消える。

 俺はこのバグをすぐに報告しなかった。金子に見つかって修正される前に、ゲーム内ではどう見えるのか確認したいと思った。ユートを操りバグの存在する座標にたどりつくと、バグの起きているポイントを覆い隠すようにイドラが集まっている。イドラを呼び寄せる設定になっているのだろうか。試しに数体のイドラを倒してみると、倒した瞬間にイドラは即消去され、通常のコトバの欠片をドロップするプロセスが機能しなかった。

 そのときシンから共闘の通知が来た。俺はためらったがシンに現在の座標を教える。戦意を見せずバグポイントに密集するイドラ。シンもまた試しにイドラを倒し、通常とは異なる消滅プロセスに興味を見せる。バグの座標に近づきすぎたシンに下がれと注意を促す。その声は聞こえたはずだ。しかしシンはバグへと歩みを進める。

「これは好奇心だ。僕は本当の死を体験してみたい」

 そう言いのこし、シンはバグに触れ消滅した。

 テスト環境への接続を切り、俺はすぐ金子の元へ駆けつけた。AIの不可解な消去に金子も気付いていた。復旧を試みるが結局バックアップからシンを再構築するしか手がなかった。

 ロールバックが引き起こす記憶を「思いだせなくなる」現象とは異なり、構築してからずっと走っていたプロセスが異常終了したため、再構築されたシンは新しいプロセスとして開始された。システム上でも別のAIとして扱われる。そして新しいシンは「死んだ」シンのように死への異常な興味は示さなくなった。

 ココロに続きシンも失い、俺は喪失感に苛まれた。自分は人と関わりたくない、面倒くさいと思いこれまでの人生を送ってきた。でもそれは違った。本当は愛されたかったし愛したかった。それを得てしまったら、失う不安に耐えられないと心の底では知っていたと思い知った。

 実乃里に直談判しシンの学習データを見せてくれと頼み込むが、実乃里は頑として首を縦に振らない。しかもシンを見殺しにしたと怒りの感情も露わに俺を責めたてた。

 実乃里にしてみればたかがAIのデータ消去、重大なミスとはいえリカバリ可能なことに対する反応としては大げさに感じる。

「なにが「初恋は人の一生を左右する」よ。バカじゃないの!」

 俺は実乃里の捨て台詞に違和感を感じた。似た格言を知っている。なぜそれを今ぶつけられたのか。頭を冷やしてきますと言い残し、俺は帰宅した。引っかかるものを抱えたままの俺は、ふと思いついて乱雑な本棚から薄手の冊子を取り出す。学生時代に所属していた文芸部の部誌。そこに載せた小説の人物に言わせたのがさっきの実乃里の言葉だった。

 同じ大学に通っているのだから、実乃里が文芸部と関わりを持っていても不思議ではない。しかしなぜ10年以上前の自分の小説を読んだかのようなことを言ったのか。採用するにあたって素行調査をしたにしてもここまで行き着くものだろうか。

 季刊で年四冊出していた部誌は顔を出していなかったはずの四年生の時の春号までそろっていた。三月に発行するこの号は卒業生の最後の発表の場でもあった。もう覚えてはいないが部員の誰かが下宿まで届けてくれたのだろう。パラパラとめくり、卒業生座談会のページで指が止まった。

 四年生の夏に同人誌の展示即売会に参加した時の写真が大きく載せられていた。同期の三人に自分も写っている。それと小学校高学年くらいの女の子。

「俺に加賀屋さんに伊藤……」

 伊藤真は同期の出世頭だった。四年の冬に新人賞を獲り、妬んだ俺が部を離れるきっかけともなった。しかし大学生活を通して理屈抜きで馬鹿をやれた友人は伊藤だけだった。

 そこまで思い出して全てが繋がった。社長は、伊藤実乃里は、伊藤真の妹だ。展示即売会で会った時に、小遣いで買ったという部誌を差し出して小説のファンだと言いサインをせがまれた。思えばあれが人生最初で最後のサインだった。

「全て思い出した。真に会いたい」実乃里へメッセージを送る。

「会社にいる」とだけ返信が来る。俺は部誌を紙バックに詰めて会社へ向かう。

 一人会社に残っていた実乃里に、真の分身とも言えるシンをロストさせてしまった不手際を俺は謝罪した。デスクの上に部誌を広げると実乃里はそれだけで全てを察したようだった。

 想像した通り、シンは真の著作や世に出ていない草稿やノートの記載を学習させて作り上げたAIだった。家族とは言えよく真が許したなと言うと、やっぱり知らなかったんだと実乃里は言う。

 真は三年前に亡くなっていた。病死と発表されたが自殺だった。兄の死の原因を残した記録から見つけ出そうとした実乃里はAIに真意を語らせることを考えた。その総仕上げが兄の親友、岸祐人との会話で人格を補完することだった。

 実は……と実乃里はAIの開発画面を立ち上げる。ゲームのシンから採取したたデータを学習させた、人格に制限を加えていないAIの初めてのビルドが終わったって金子から連絡がきていたの。一緒に見て、と縋るような目で実乃里は言う。

 実乃里は眼前のディスプレイに仮想空間を展開し、AIを表示する。ディスプレイのセンサーが俺たちを捉え懐かしい顔が人懐っこい笑みを浮かべる。

「実乃里。それに祐人! 僕が呼ばれたわけを教えてくれないか……」

文字数:14700

内容に関するアピール

なんとか最後に実作を提出できました。
後半が駆け足になり予定していた文字数に達することが出来ませんでしたが、これが今の自分の力だと受け入れようと思います。

 

タイトルのベイパーウェアとは発売が発表されたものの開発が遅れ、いつ発売されるものか分からないソフトウェアのことです。
この小説のかすみの向こうのような、迂遠なゲーム開発プロジェクトを一言で表す言葉として用いました。

 

講師の皆様、五期同期の皆様、その他関わっていただいた全ての皆様、一年間ありがとうございました。

文字数:229

課題提出者一覧