銘刀の絆

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銘刀の絆

入口にかかった注連縄縄しめなわの下を通り、内部に足を踏み入れる。
 作刀は神事で、鍛冶場は聖域だ。
 炉や鉄床かなとこふいごなどは、沈んだ闇色に静まりかえっている。
 炉内の火床ほどに火を入れる。青紫の火は次第に鮮やかな朱色になり、火花を散らす。
 日本刀の材料である鋼を沸かし、闇に沈んだ鍛冶場を照らし出すこの火は「鉄の華」と呼ばれ、刀にとってはいのちの炎である。
 空間に熱が加わった。沸きたつ鋼を延ばそうと、槌を取る。 
 壁に影が映し出される。鋼の打ち手である相槌と、彼の持つ大槌のシルエット。
 相槌の姿を見据えようと、じっと目をすがめる。

1.
 規則的な音を響かせながら、天児あまがつリサは炭を切っていた。
 昔は刀鍛冶に弟子入りすると、「炭切り三年」と言って三年間は炭切りをやらされたという。
 現在の刀鍛冶の制度では、国家資格を取得するための修行期間が五年間で、その後に文化庁主催の研修会への参加資格を得、研修会を修了してやっと作刀の許可を得る。
 修業期間中に炭切りばかりやらされたら今の新人はやめてしまうし、修会にも受からないので「炭切り三年」の習慣はなくなったが、この鍛冶場にはリサと、彼女の師匠である関口大河せきぐちたいがしかいないので、研修会を修了して既に数年経つリサが炭切りをやるしかない。
 円筒形になった炭を縦にぱきんと三分割し、割った炭を更に細かく刻んでいく。
 季節は夏、信州とはいえ8月は厚い。作業中は汗が大量に流れる。
 来客を告げるベルが鳴った。リサは手を洗い、眉と両耳に開けたピアスが引っ掛からないように注意しながらタオルで顔を拭く。鍛冶場を出て門を開くと人影が見えた。グレーのサマースーツ姿、すらりとしたシルエット。
「久しぶりだね、リサ」
 よく響く低い声。柔らかな口調とうらはらの鋭い眼差しに、見覚えがある。
こよみ?」
 聞こえないくらいに小さく呟くリサに、相手は頭を下げる。
 リサは、暦と呼んだ青年を母屋に案内した。無言で歩くと蝉の声がやけに大きく聞こえる。応接間にてリサは師匠の大河と並び、青年と向かい合って座った。大河はがっしりとした逞しい体つきで、青年がとりわけ細く見える。
 出された煎茶に手をつける前に、青年はそっと名刺を差し出した。白い和紙に流麗なフォントで、国立情報研究所 セツワラボ学芸係長、上良かみらこよみと記載されている。文字をよく見ると活版印刷で刷られていた。
「肩書が変わったのでお渡しすることになっているのですが、必要なかったですね」
 名刺をじっと見つめる大河を見て、暦は言い訳をするように言った。
「いやあ、改めてきれいな名刺だなと思って」
 大河の言葉に、暦は深く頷く。
「ありがとうございます。うちが発注することで、製紙と活版の技術を残せますからね」
「さすが伝承の番人、セツワの学芸員さんらしい発言だ。いや今は、係長さんか」
 目尻に深い笑い皺を浮かべながら、大河は言った。
 名刺に書かれているセツワラボとは、日本の伝統工芸の伝承を守るための研究所である。
 かつて日本美術は、美術=ファインアートと工芸=クラフトに分けられ、用の美を伴うものは全て工芸に分類されて各分野が断絶、伝統工芸や美術工芸、民藝などの複数の工芸が乱立する。かつて工芸を支えたパトロンたちは、ファインアートの分野に資金を費やすようになり、工芸の価値を理解する者は激減した。
 そんな中、新興国で日本の工芸に興味を示す者が増えた。新興国の資産家たちは気に入ると同じものを複数注文し、家族や友人に配る習慣があった。日本の職人は、そうした国の資産家に囲われることが多くなった。結果、工芸家や技術の流出が増大する。
 状況が変わったのは、他国の首脳への贈り物とした工芸品が隣国の贈り物とそっくりで、技術的にも同レベルだったという珍事があってからだ。技術の盗用だと抗議する日本に対し、隣国は、自国の美を保護しない遅れた国の言い分とせせら笑った。 
 面目を潰された政府は一定の予算を組み、日本の工芸を保護し、より良い伝承方法を探求しようとした。その際に設立されたのがセツワラボである。現状は、刀や七宝、陶磁器や金工など、ある程度アーカイブ化が進んでいるという触れ込みだ。
「僕には荷が勝ちすぎですけどね。人手不足や資金不足で廃れる工芸は増える一方です」
 細い指を組み替えながら、深い溜息をつく暦。大河は頷いた。
「ここ裏刀伝の刀も、セツワに登録していただいた。おかげで流派が消えることはないと思ってる。感謝してます」
 礼を述べる大河に、暦はがっしりとした手を横に振る。
「今日はまた、セツワ関連でお願いに上がったのです」
 懇願するような声。大河が尋ねる。
「我々でよければ協力しますよ。しかし、うちの分のセツワへの登録は、いったん完了したんじゃないんですか?」
「そうなのですが、倭伝やまとでんをご存知でしょうか?」
 その質問に、リサと大河は顔を見合わせた。
「二大伝法の倭伝のことですよね。そりゃ知ってますが、倭伝は、うちの裏刀伝とは関わってないですよ。というか、あそこはどことも交流がなかったと思いますがね」
 大河の返答に、リサも頷いた。
 刀の流派は、細かいものも入れれば数えきれないが、現状の大御所は二大伝法だとされる。伝承によれば、刀鍛冶の大御所とされる小鍛冶哲は、二人の男児にそれぞれの鍛冶場を与えた。兄の継いだ鍛冶場は倭伝で、弟が継いだ鍛冶場がリサと大河の属する裏刀伝うらとうでんである。
 裏刀伝は、何人かいる裏刀伝内の刀鍛冶同士で交流しており、他の派閥との交流や海外弟子の外部からの受け入れなどを積極的に行ってきた。そのため知名度も上がり、イベントや展示などにも声がかかることが増えた。それは大河の父であり師匠でもある関口大鳳の豪快な性格と、来るものを拒まない大河の人柄もあった。
 一方、倭伝に関しては、今に至るまで活発な交流はない。大鳳が倭伝に協調を持ちかけたこともあったらしいが、けんもほろろに断られたらしい。
「そうですか。予想はしていました」
 落胆した表情で、暦が溜息をついた。
「毎年冬に行われる、鞴祭ふいごまつりという祭礼があります。その祭は五十年に一度だけ大規模に開催されるのですが、倭伝の新刀が必要で、実施が来年なのです。しかし倭伝の最後の匠の消息がなかなかつかめなかった。そして既に亡くなったと聞いたのが先日です」
「後継者を全く育てなかったというのは、考えにくい気がしますがねえ」
 大河の素朴な感想に、暦は首を横に振りながら言う。
「最後の倭伝の匠は作刀には優れていたようですが、人材育成には向いてなかったそうです。弟子が研修会で受からないことが多々あったそうですので」
「倭伝は裏刀伝とだけではなく、どことも交流していませんでしたからねえ」
 思い出しながらの大河の言葉に、リサが呟く。
「便利にこき使うから弟子が逃げたんでしょ。自業自得」
 大河は慌ててリサを小突くが、彼女は気にせず続ける。
「倭伝の情報はセツワに登録されているんですか?」
「一応登録されてますが、万全かと言われれば微妙なところですね」
 リサたちは顔を見合わせた。
 工芸に関する伝承は、技術面を分析してデータ化する部分は進んできたが、それを作品づくりに活かす部分は十分ではない。集めた情報をさらに人間が活用して作品をつくる部分は、まだ未知数の部分が多いといえる。
「倭伝の刀はそもそも希少ですよね。あっても神事に使われているはず」
 リサの発言に、暦は頷いた
「そう、一応セツワにも最後の刀匠の作品が納められていますが、今回必要なのは新刀なのです。最悪セツワにある刀を使うこともできますが、それは避けたい」
 セツワの伝承システムは、伝承方法と実物がセットになって登録されることになっている。実物の分析データによってデータの密度と質を深め、次の世代が再現できることを目指しているのだ。
「今日、上良さんがここに来た理由、なんとなく察しがつきました。祭礼で使う倭伝の刀を、新たに作刀する必要があるってことですかね」 
 大河が言うと、暦は頷いた。
「祭には皇族も出席します。セツワに資金を出している文化庁は、新刀がなければ面目が立たない。でも倭伝の新刀なんてない。だから新たに作刀していただきたいのです」
 しばらく沈黙が続いた後、大河は口を開いた。
「他流派の刀をつくれるかは、正直分かりません。でも伝承が途絶える無念さは知っていますんで、挑戦してみましょう」
 大河の言葉に、暦は深々と頭を下げた。
 打ち合わせが終わり、母屋から門へと案内する際、暦はリサに告げた。
「僕のこと、覚えていてくれてありがとう」
 小さな声だった。リサは二年前の出来事を思い出した。

 

******

暦はあの時も、リサが炭切りを行っている時にやってきたのだ。
 真っ赤な彼岸花が咲き乱れる秋の季節、出迎えたのはリサだった。
 リサは、不揃いのボブヘアに赤いメッシュを入れ、眉と耳にピアスをつけている自分が人にどういう印象を与えるか、一応知っているつもりだった。汗だくで炭のついた手で拭ったから、顔も真っ黒だったはずだ。それでも暦はものおじせずに話しかけてきた。そして今回同様に、唐突な依頼をしてきたのでだ。
 彼曰く、広く工芸を伝承するためのラボを設立中である。文化庁も一枚噛んでいるそのプロジェクトは、ラボの名前も兼ねてセツワと呼ばれている。そしてセツワにおいては、AIによる文化伝承も実施している。ついてはセツワのために、裏刀伝の新刀をつくってほしい。作刀の過程や製法の記録にも協力してほしい。
 趣旨を理解した大河は承諾した。美術の伝承ということだが、なぜ最初の段階で日本刀に目をつけたんだ、という大河の質問に、暦はこう答えた。
「日本刀は、国宝の中で全体の一割を占め、美術工芸品全体の半数に及ぶのです。また工芸の中でも神事に関わりますし、皇族の出産時にはお守り刀として使います。文化庁が出したセツワの設立要件には、日本刀の保護や登録も入っていたのです」
「まあ日本刀だと、我々刀工だけじゃなく、研磨する研師やはばきをつくる白銀師、鞘師や塗師なんかも関わってきますからね。いろいろな技術が守られると思います」
 そう告げると大河は、修業期間が終わった弟子のリサを今回のプロジェクトに参加させてほしいと加えた。
「私は国家資格を取得したばかりだけど」
 当惑するリサに、大河は笑った。
「お前は頭がいいし研究熱心だ。刀の写真や絵を俺よりたくさん見てるくらいだ。それに、材料の分析だとか得意だろ」
 確かにリサは、刀の現物や画像を見たり、材料を分析したりするのが好きだった。その情報を大河に共有し、古い裏刀伝の刀の再現を手伝ったりもしていた。
 そして彼女の分析力は、裏刀伝のデータをセツワへ登録する際にも役に立った。暦の質問に対し、経験値で作刀しがちな大河はおおざっぱな回答をすることが多かったが、リサの回答は論理的で正確だった。
 暦は大河を通さずにリサを訪ねることが増え、リサがセツワのラボへ直接赴くこともあった。リサと大河が働く鍛冶場と母屋は、市街地からかなり外れたところにあるが、セツワラボは街の中央に位置する。いつもうす暗くて湿っぽい鍛冶場から明るく清潔なセツワラボに訪れると、別世界に来たような気分を味わうのだった。
「セツワって、語り伝えるって意味の『説話』から来てるんですか?」
 ある日、リサは暦に尋ねてみた。
「そうです、伝承を行うということですね」
 暦は頷きながら言った。
「刀鍛冶に限らず、職人は感覚でやってる部分が多い。それをすべてセツワに登録できると思ってます?」
 そう言いながら、伝承をすべてひとつのAIだけで賄えると信じているとすれば楽観的すぎるとリサは思った。
「難しい問題ですね。作品を作る時に必要な条件や温度は、ある程度数値化できる。一方、その情報を活かして人がつくるという工程はもっと難しいと思っています。これから進めていく段階ですね」
 慎重な口調で答える暦。 
「人が全く介在しない形で工芸を伝承するのを、セツワで完結させるのは難しいと思う」
「そうかもしれません。ただ何もしなければ、いずれ何かのタイミングで技術が途絶える可能性がある。それを避けたいのです」
 その点には異存はない。リサは頷いた。
「今の段階では、人がまったく介在しない形は難しい。でもいずれ、人がAIに伝え、人と人の間に断絶があっても、AIが新しい人に伝えられるようにしたいのです」
「具体的には、刀鍛冶の技術が断絶したり、いったん弟子がいなくなっても、別の人がAIから引き継げるようにしたいってこと?」
 リサは尋ねた。話のスケールの大きさに引き込まれる。
「端的に言えばそうです」
「面白いけど、実現しますかね」
 リサの言葉に、暦は頷きながら返した。
「この話をすると、大体無視されるか変人扱いされます。でもあなたも、初めての部分を切り開いてきたんじゃないんですか。女性の刀鍛冶ってほとんどいなかったって聞いたんですが」
「昔は神職が副業で刀鍛冶をやる事も多くて、その場合、そもそも鍛冶場が女人禁制だった。でも江戸時代にはいたって聞きました」
 女性の刀鍛冶は全くいなかったわけではない。江戸時代の中期から後期にかけて活躍した大月源、通称お源は刀工の家系に生まれた女性で、家系を絶やさないように作刀の秘伝を授かったという。
「江戸時代までさかのぼらなければならないんですね」
「女性の刀鍛冶は、少ないことは少ないですね。そもそも刀鍛冶が絶滅危惧種だし。でも私は、できないことをやる時の方が燃えるから」
 刀鍛冶が鉄を鍛える際に使う大槌は約八キロある。女性は体力面で圧倒的に不利なのだ。リサは過去に事故で大怪我をし、長期間リハビリを行った。以来、体を鍛えることが習慣になり、今ではキックボクシングを習っている。体は細身だが筋肉質で、そのあたりの男性よりも体脂肪率は低い。
「関口刀匠が、天児さんは一日中炭切りを続けられるって言ってました」
「どうかな。それは師匠が私を雑に使うからだと思います」
 リサが大河の顔を思い浮かべながら言うと、暦が言った。
「信頼されているからですよ。あなたはいろんな意味で貴重な存在ですね。刀鍛冶としても、セツワの協力者としても」
 暦は屈託なく笑いながら言った。
「ものは言いようですね」
 そう告げながらリサは、その時初めて、暦の心からの笑顔を見た気がした。そして彼は、笑うと目尻にいい皺ができるのだと知った。
 セツワへの裏刀流の登録にあたり、リサは要望以上の働きをした。刀を鍛えるときの鉄の温度、大河が作刀する際の気温や湿度は当然のこと、大河が鉄に対して加えている力や鍛える回数、リサが鍛える時との違いなども細かく分析した。その他、素材や成分のほか、刀鍛冶の歴史や作刀方法なども伝えた。リサは自分の知っていることを共有していくうちに、セツワのしくみも徐々に把握していった。
 材料や温度などの情報や製法や条件などはデータベースに登録する。暦は最新のシステムであるエッセンシャルフォースを活用した。既存のほぼあらゆるデバイスやOSを網羅し、空間投影型の標準的なOSと親和性が高く、セツワラボの中という領域の中であれば制約なくデータを呼び出せる。データまわりのしくみはまとめられ、日本神話で知識も司る神になぞらえてスクナビコナ、略してスクナと呼ばれた。
 情報だけでは制作方法が分からないし、受け取る側の能力によって伝わる内容に差が出てしまうのは望ましくない。そのためリサと大河は、全身に3Dモーションキャプチャーを、手などにデータグローブを装着して制作過程を登録、刀匠が鍛冶場で作刀するバーチャルCGムービー用のデータを提供した。その映像では、体の影になってしまうような難しいアングルでも、邪魔な部分を透明化して見ることができる。3D化も可能で、映像の視点も自由に設定することが可能になった。結果、観察するのが難しかった鍛錬の様子なども、細かく観察することができるようになった。
 これらの映像は記録として保管されるが、利用者が欲している映像を特定するのも複雑な作業だ。そのため3Dムービー用の仮想エージェントAIをつくった。エージェントは対話で情報を獲得し、3D映像をラボ内のどんな空間にも投影できる。このエージェントは、目の神様であるミツハノメノカミの名を与えられ、通称ミツハと呼ばれた。
 製法があって、それを実際に再現する際、文字情報や情報映像だけでは不十分で、力触覚の記録や作業環境を整備する必要がある。そのため、暦は実体型エージェントAI・カタリベを導入した。カタリベは人の平均値を投影した無性のボディで、ユーザーがカタリベによって動きを習得する際、ラボ内のブースでVRゴーグルをつけて作業を行う。VRによってユーザーは鍛冶場やアトリエなど、成果物にふさわしい場所を選択することが可能だ。 リサと大河はカタリベのテストの際、VRで鍛冶場を選択し、一連の作刀の動作を行った。動作に無駄や相違があれば、カタリベが指摘した。現実世界の熱さや冷たさ、触感などは、感覚刺激で実装することができた。
 カタリベのあるスペースには、バーチャルだけではなく、実体のマスター・スレーブ型の装置も実装した。その装置はマスターである操作側と、その操作に従うスレーブとなる動作側に分かれ、位置や力の情報を双方向に送受信できる。そのため、マスターからスレーブ、スレーブからマスターといった形で力蝕覚をフィードバックできる。ユーザーがスレーブ側、カタリベがマスター側となり、ミツハに記録されている映像での力触覚の負荷を試してみることもできた。
 結果セツワは、データベースのスクナ、作成方法をあらゆる角度から示すミツハ、人が制作する際にシミュレーションを可能にするカタリベの三本柱になった。
 リサと大河、暦が揃った時に、セツワの話題になった。
「しかし、これだけで弟子を育てるのは難しいと思いますよ」
 大河のつっこみに、暦は苦笑して言った。
「現状ではそうかもしれません。でも、試行錯誤しながら進むしかないのです」
 暦は最初のステップとして、刀鍛冶業界の新人育成に、セツワのしくみを使ってもらおうと働きかけた。最初抵抗はあったが、新人の匠は興味を示した。いざ使ってみると、カタリベの動きで作刀しやすくなったという評判だったそうだ。また、セツワで刀鍛冶の職業紹介を行う際は、ミツハの映像が活躍しているようである。
 リサは暦に協力しながら刀鍛冶の腕を磨き、着実にキャリアを構築していった。大規模な賞の新人賞受賞の知らせがあった日、リサは鍛冶場に籠っていた。大河に呼ばれて受賞の知らせを聞いたのは、火床の火の様子を見ていた時だったので、受賞よりも作業が気になって仕方なかった。
 そして受賞の日の夜、暦が突然連絡してきた。セツワ関連の話だと思っていたリサは、普段使いのオフロードバイクを飛ばしてラボに向かった。Tシャツにデニムといういでたちで、黒と銀のハードなカワサキで乗りつけたリサに、暦は受賞の祝いをしたいのだと告げた。暦はリサの格好でも目立たない、カジュアルな店を選んでくれた。
 リサが前菜とメインを終えたところで、暦が受賞おめでとうと告げ、リサの目の前に小さな箱に置いた。彼女が箱を開けると銀色に光るピアスが入っていた。何も言えずにいると、暦が小さい声で言った。
「気に入らなかった?」
 彼の顔を見ると、いつになく視線が弱い。リサがそんなことない、人から何かをもらうのは慣れていないから驚いている、と告げると、暦は安堵の表情を浮かべた。
「良かった。何を贈ればいいのか分からなくて」
「そうでしょうね。あなたは私じゃないし」
 その言葉に、暦は安心したように頷きながら笑った。
「僕は、自分とまったく似ていない君が気になってしょうがなかった」
 衒いのない言い方だったので、リサは好意を示されているとも気づかなかった。
「私に似た人間がたくさんいたら、問題あるでしょう」
「でも僕は、君を理解したいと思っていた」
 今度はリサも返答に困り、とりあえず事実を述べようとした。
「アクセサリーはほとんどつけない。昔からピアスだけ」
 そう言うと、リサはピアスを掌に乗せた。先端に真っ黒な石がついている。
「オニキスという石だよ。魔除けになるって聞いた。占いやまじないは信じないけど、きれいだったから」
 リサは先端の石をよく見た。深い黒色は闇の色のようだ。
「左耳につけてるピアスは星型だよね。好きな形?」
 グラスの向こうから暦が尋ねる。眼差しの強さが戻ってきた。
「どうでしょうね。昔、母にもらってから、ずっとつけてるだけ」
「そう。仲が良いんだね」
「もういないけど」
 リサのその言葉に、暦は視線を落とした。
「ごめん」
「気にしないで、ずっと昔の話ですし」
 リサが今つけているピアスは、彼女が子供の頃にピアスを開けたいと言った時、母が買ってくれたものだ。そのすぐ後、母は帰らぬ人となった。リサの両親は車の事故で亡くなった。家族でドライブしている時に、信号を無視したトラックが突っ込んできたのだ。後部座席にいたリサは大怪我をしたものの助かったが、前の座席の両親は致命傷を受けた。
「このピアスは多分、この世に私をつなぎとめる部品なんだと思う。ずっと世間からはみ出してる感じがしていたから」」
 今日はしゃべり過ぎだと、リサは思った。こんなことを話しても、暦は困るだろう。
「そうかな。君は賢いし、今までうまくやってこれたんだと思っていた。以前関口さんから経歴を聞いたんだ。君は関口さんの親戚で、早いうちから入門したいと言ったそうだね。大学くらい出ておけと言ったら、大学を飛び入学して十代で卒業したって聞いた」
 リサは両親が亡くなって最初の親戚に預けられた際、中学校すらろくに通わなかった。必要な知識はインターネットや図書館で取得した。その後親戚の家を転々とし、大河の家に行きついた。そして刀鍛冶の仕事を見て、自分もやりたいと思ったのだ。
 リサは首を小さく横に振る。
「それは事実だけど、人と何を話せばいいのかは、ずっと分からないまま。言葉は分かるし語彙も多いはずだけど、コミュニケーションが難しかった。大学に入った後は、自分が興味を持ったことだけ話せばいいから楽になった。自分が浮いてる感覚はずっと消えないけれど」
「なんで刀鍛冶を選んだんだ? 何度か聞いてるけど、答えてもらえなかった気がする」
 まっすぐにリサを見つめる暦。眼差しがいつもより更に鋭い。
 リサは今まで、その質問が出ると話をそらしてきたが、今回は答えないわけにいかないようだ。
「学校に行きたくない時、図書館や博物館に行ってた。いつだったか博物館で刀を見た。名前は覚えていない」
 答えながらリサは、自分の記憶を確認していた。自分でも考えないようにしていた気がする。
「あの時、いろんなことが嫌だった。すべてが鬱陶しくて感覚が鈍ってた。でもその刀は綺麗だと思った。静まりかえった空間で、それだけが確かなもののような気がした。そしていつか、こういうものを作りたいと思った」
 あの時期何を感じていたのかはよく思い出せない。無理に思い出そうとすると胸が痛む。
「君自身が、鋭く強くなりたかったんだろうね」
 ぽつりと呟く暦。
「そうかもしれない。師匠は最初、私が何かに、例えば事故の相手に刀で復讐したいんじゃないかと思って反対したって言ってた」
「でも君はそうならなかった。復讐に人生を捧げるには冷静すぎる気がする」
 暦の言葉に、リサは頷いた。
「刀には惹かれたし、工芸は必ずしも言葉に頼らず、模倣と観察が重要っていうのも救いだった。私は喋るのは苦手だけど、勉強は嫌いじゃなかったし、データを見るとその先にあるものが形になって頭に浮かぶことがあった。後でみんながそうじゃないって知って驚いたけど」
「そして今も、その能力は僕を助けてくれる」
 深い実感を交えて暦が言う。リサは視線をずらして言った。
「あなたが気に入ってるのは、私の頭の中だけかもしれないと思う。でもそれでもかまわないと思う。あなたと仕事をするのは好きだから」
 その日贈られたピアスは、暦の手でリサの左耳におさまった。アルコールを摂取したので、愛車のカワサキは駐輪場に置き去りにされた。跳ね上がった駐輪代は暦が払ってくれた。もともとつけていた母のピアスは、左耳に新たに開けた穴に装着した。
 続く日々、セツワへの登録は順調に進んでいった。リサのアドバイスやちょっとした気づきは、日本刀だけではなく他の工芸の分野にも役立った。暦の仕事量は増大していった。リサと大河がもう少し休んではどうかと聞くと、いつも暦は首を横に振った。
「僕は早く前に進みたい」
 その言葉の通り、暦は進み続けた。スクナとミツハへの登録や、カタリベのフィードバックと実装は進み、さまざまな工芸の登録も行われた。最初は手探りだったものの、刀鍛冶で前例ができてからはある程度手順が確立し、全く未着手の分野は徐々に減っていった。
 裏刀伝の登録も終わりが見えてきたある日、暦はリサと大河に向き直って言った。
「今回のセツワのプロジェクトのスムーズな進捗は、二人の協力あってのことでした。本当に感謝しています」
 頭を下げる暦。かしこまったことが嫌いな大河は、手を横に振った。
「感謝されるようなことはしてないよ。こっちも勉強になったし」
 暦はリサの方を伺い見てきた。
「面白かったよ」
 頷きながらリサが述べると、暦はほっとした顔をした。
「良かった。そう言ってもらえると嬉しい」
 そう言うと彼は、少し視線を落として言った。
「実は今後、セツワラボを暫く離れることになりました」
「ええっ。なんだ急に……転職かい?」
 いきなりの告知に大河が驚いて言うと、暦は首を横に振る。
「いいえ。僕はこの仕事が好きですが、セツワラボの職員は準公務員で秘密保持契約の縛りが厳しく、同じ業種で転職するのは難しいのです」
「じゃあ異動ってことか」
 大河の言葉に、暦は頷いた。
「ええ。海外の芸術祭で工芸を紹介する学芸員が足りないとのことで、そっちに言ってくれと言われたんです。抵抗したんですけどね」
 自嘲気味に呟く暦。珍しく唇をかんでいる。
「君だって悔しいよな。でもここがなくなるわけじゃない。また戻ってくればいいさ」
 大河が慰めると、暦も大きく頷いた。
 その日、大河は用事があるということで、一足先に戻った。リサは暦に告げた。
「なんでもっとはやく言わなかったとか、いろいろ言いたいんだけど。職場的に人の異動は機密だろうし、言える段階を見極めるのが難しいっていうのは分かってる。でも私はもっと一緒にいたかった」
 思えば予兆はあった。暦が早く仕事を進めたがったのは、自分がいるうちに少しでも完結させたかったのだろう。仕事や作業期間の話をすると、急に黙り込むことがあった。そして何かもの言いたげにして、話をやめることもあった。リサはそうした小さなサインに気づけなかった自分にも腹を立てていた。
「本当にすまない。正式に決まったのは本当に最近だったんだ。君に言うのが一番つらかった」
 そう言うと暦は、リサの手をそっと握った。荒れてがさがさしたリサの手に対し、暦の手は滑らかでひんやりしており、触れる者の気持ちを落ち着かせるようだった。
 その後、渡航後の暦から連絡があっても、リサは敢えてすぐには返事をしないようにした。それは、暦は忙しいはずだったし、リサにとっても刀鍛冶の腕を磨く大切な時期だったからだ。
 大河のアドバイスもあった。二人の関係を察していた彼はリサに、今は深追いするな、彼はまた帰ってくる、その時までに自分自身を確立させろ、と言ったのだ。 リサはその言葉の正しさがよく分かっていた。

******

 

「私は忘れたことはなかった。暦、偉くなったんだね」
 リサはゆっくりと呟く。
「僕も忘れたことはない。離れていた間に連絡しなかったのは、お互いに相手のことを考えているためだと思ってた。あと君も、たくさん実績を上げたそうじゃないか。遠くにいても聞いていたよ」
 まっすぐにリサを見ながら、暦は言った。
「あなたは以前、一度技術が断絶しても、AIから人に引き継ぎたいと言っていた。今も志は変わってない?」
 嘗ての言葉を思い出しながら、リサは聞いた。
「そう、あの理想を推し進めたい。だから君に協力してほしい」
 頷きながら暦は告げた。その言葉にリサも、ほとんど判別できないくらい微かに頷いた。

2.
 倭伝の刀の再現は、リサと暦の共闘から始まった。
 暦は倭伝に関し、スクナへの登録はかなりの精度で済ませていた。しかしミツハやカタリベへの情報はかなり荒い状態だった。裏刀伝の刀を登録する際は数人がかりで登録しているが、倭伝の分はデータ自体が少ないようだ。恐らく登録できる回数や範囲が少なかったのだろう。
 ある日リサがセツワラボへ赴くと、暦は不在だった。ラボの共有用のスケジュールを見ると、急な来客があったようだ。先にスクナの置かれているブースに入ってデータチェックを行っていると、嗅いだことのないにおいが漂ってきた。フローラルでもウッドでもなく、スパイスのような香りだった。
 匂いの元をたどろうと後ろを振り返ると、長身の女性が立っていた。栗色の長い髪はつやつやと輝き、唇の発色が鮮やかだ。肌触りの良さそうなベージュのパンツスーツを着こなしている。
 匂いの主は、黒いTシャツに汚しの入ったデニムといういでたちのリサをじっと見据えてきた。その眼差しにうっすらとした敵意を感じたリサは関わりたくないと思い、視線をキーボードに戻した。
「はじめまして」
 リサはそう声をかけられたが、いくつかキーを打ってから向き直った。
「自己紹介が必要なんですか?」
 尋ねると、相手は顔を小さくしかめる。
「こっちから言うべきだということね。私は阿相あそうエリカ。このラボで働いていて、上良くんの同期です」
 反応が薄いリサに対し、エリカは苛立っている。
「あなたは天児さん? 暦から話は聞いています、プロジェクトに参加してもらってるって」
 エリカの言葉にリサは、エリカは暦とそれなりに親しいのだと推測した。
「新しい刀をつくるプロジェクトには参加しています」
 それだけ言うと、リサはモニターに目線を戻した。するとエリカはモニターの前に立ちはだかった。仕方なくリサは相手の顔を見上げる。
「変わってると聞いていたけど、話以上ね」
「私は誰かと仲良くなるためにここにいるわけじゃない」
 リサは告げた。相手からの敵意は、もはや揺るがぬものになっている。
「じゃあ言っておきます。私は暦のプロジェクトに関して、全部は賛同しかねると思ってる。スクナにデータを登録するところまでは価値があるけど、伝達部分までAIで解決しようとするなんて。そのうち作品もAIでつくったほうがいいとか言いだすんでしょうね」
「現状、まだカタリベで完全に伝達できるところまではいってません。サポートという点では役に立ってもらってるけど。そもそも工芸における伝承の活性に反対しているのなら、なぜこのラボにいるんですか」
 素朴なリサの疑問に、エリカは頷いた。
「私はスクナのデータを活用して、職人やアーティストの技と地位を高めたい」
「それなら結果というか、あなたと私の着地点は同じだと思います」
 リサの言葉に、エリカは首を横に振る。
「あなたたちは、AIから人に伝承する部分を深めたいのでしょう。私がやりたいのは、AIが人に情報を渡すところまで。その先は人にしかできないと思ってる」
「あなたが目指すのは、人間の職人やアーティストが、AIには取って替われないという地位を得ることでしょうか」
 その質問に、エリカは頷いた。
「クリエイティブな部分は、人間に任せればいいでしょう」
「今の『クリエイティブ』って言葉は、何かを言ってるようで、中身は空っぽだと思う。クリエイティブが何かを新しく生み出すって意味なら、あなたのやってることはクリエイティブじゃない」
 淡々と響くリサの言葉。むっとしたエリカに、リサは続ける。
「私たちのやってることは、あなたの信義に反するということだろうけど、私はやめるつもりはない。既得権を守るために進歩を停止すると、分野自体が停滞する」
 言い切ると、リサはまたモニターに向かった。エリカは更に言い募ってきたが、リサが反応しなかったので諦めて去っていった。
 しばらくすると暦がやってきた。リサは突然の来訪者のことを告げた。暦は頭をかく。
「いつか紹介しなきゃと思ってたけど、あんまりよくない形で会ってしまったかな」
 暦は説明した。阿相エリカは、このラボに暦と同年に入所した。彼女は海外生活が長く、さまざまな国で美術史を学んでおり、工芸を残すという理念に共感してここに来た。暦がAIをデータ提供にとどまらず、伝承に活用したいと思っているのに対し、エリカはAIの使用はデータ利用の部分にとどめ、伝承と制作は人間に任せようとしているという。
「創作は人間以外には不可侵ってことにしたいのは、普通の発想かも。刀鍛冶も、手だけじゃなくて五感をフルに使うから、AIとの共同作業は不可能だって言う人もいる。でも分担できる部分はあるだろうし、伝承部分はAIに任せるでもいいと思うんだけど」
 リサが首をひねると、暦は苦笑した。
「伝承できるなら、作品制作もできるようになると思っているんだろう。AIがアーティストになって、人間と代替可能ってことになるのを恐れているんだ」
「人間にしかできない部分とAIがやれる部分は、そんなに単純化して分けられるのかな」
 その言葉に、暦は安堵の表情を浮かべた。
「よかった。君の気持が削がれたら、どうしようかと思った」
「私は気にしない。彼女、新刀をつくるプロジェクトは潰したいみたいだけど」
 やりとりを思い出しながら、リサは呟く。初対面にしては強烈な言動だった。
「そう、阿相はスクナを使ってアーティストの質を高め、社会的な地位を上げたいんだ。だから、このラボでかなりの予算を喰ってる僕のプロジェクトを敵視している」
「穏やかじゃないね。妨害されなきゃいいけど」
 言いながらリサは、エリカとまたぶつかるであろうことを予感していた。

暦は新刀の作成にあたり、倭伝の刀匠を辿るところから始めた。リサと暦は、最後の刀匠の家族を訪れたが、やはり弟子は残っていないという。立ち去った弟子に関し、足跡が辿れそうな人を教えてもらえないかと頼んでみた。その際、刀匠の娘だという上品な婦人は、暦の名刺を凝視した。
「先日、同じ組織から来た人が、同じことを聞いていきましたよ」
 その言葉に、リサと暦は顔を見合わせた。
「女性でしたか? あの、背の高い」
 暦が尋ねると、婦人は頷いた。
「ええ確か、背の高い方でした。なんでも弟子筋の方に連絡をとりたいとか」
「その時と同じ情報をいただけますか? 何度もお願いして申し訳ないのですが」
 セツワラボの名刺が効いているのだろう、婦人は特に不審がらずにリストを渡してくれた。帰りの車の中で、二人はしばし無言になった。沈黙を破ってリサが言った。
「一応リストを当たってはみるけれど、多分阿相さんが既に声をかけてるでしょうね」
「そうだろうな。何が目的なんだろう」
「スクナに登録されたデータだけを使って、元弟子に刀をつくってもらうんでしょうね。それで私たちが失敗すれば、ミツハ、カタリベのAIは役に立たないという結論を出せる」
 言いながらリサはむしゃくしゃしてきた。妨害されると完遂したくなるのだ。
 リサと暦は元弟子たちにコンタクトを試みた。逃げ出した弟子は二十人程度、そのうち連絡先が分かるのは三人。挫折した人の数が多いと呟く暦に、リサは首を横に振った。
「想像よりも少ない。これならうちの師匠とそんなに変わらない」
「関谷さんも厳しかったのか? そんな風に思えないけど」
 意外そうな表情で告げる暦に、リサは首を横に振って告げる。
「私は他を経験してないから、修業が厳しいかっていうのは比較できない。でもうちの師匠、見込みがないって判断すると、やめた方がいいとかすぐ言う。早めにはっきり言うのが親切だって思ってるんじゃないかな」
 暦は連絡先の分かる三人にコンタクトを取ろうとしたが、そのうち二人はもう思い出したくもないし、刀鍛冶にもなっていないとのことだった。残りの一人は現在彫金を行っており、専用のアトリエも持っているらしい。二人は直接赴いてみることにした。
 アトリエを訪問すると、扉は開け放たれていて、中では頭にバンダナを巻いた男性が金属を打っている。作業が一通り終わるのを待って暦が話しかけると、相手は新貝しんがいと名乗り、確かに倭伝の刀匠のもとで修業をしたと言った。
「今やってるのは、刀鍛冶に似てるような気がしますね」
 リサが言うと、相手は言葉を選びながら言った。
「実はこの前、倭伝の元弟子を探してるってことで人が来ました。その時、倭伝の新刀をつくる手伝いを頼まれまして」
「それで引き受けたってわけ。その時、後で来る私たちには協力するなと言われた?」
 尋ねるリサに、相手は困ったように言った。
「そこまでは言われてません。ただその人は、倭伝のデータそっくりそのままを引き渡すけど、機密だから漏らさないでほしいと言ってました」
 リサと暦は顔を見合わせた。恐らくエリカは新貝に、スクナの倭伝のデータを与えるが、他言するなと言ったのだろう。
「新貝さんは多分、倭伝の製法を大体知ってるんでしょうね。阿相さんはスクナのデータだけ活用し、あとは人間の刀鍛冶で新刀制作を完遂させようとしてる」
 帰り道、リサは小さく呟いた。
「僕たちは、新貝さんから倭伝の製法の情報を得られない。それで僕たちが失敗すれば、
伝承をAIに任せるプロジェクトは機能しなかったと見なされて、阿相の目的は達成される。AIの活用はスクナのデータまでで、それ以降は人間がやるしかないってストーリーだ」
 溜息混じりの暦の発言。
「失敗せずにスクナやミツハ、カタリベたちを使って倭伝の刀をつくれればいいんでしょう。仮にミツハやカタリベの力が不足しても、別のAIを開発すればいい」
 強い調子でリサが言い返した。
「そうだった。僕が弱気になっていたら駄目だよね」
 リサの言葉を聞き、暦は自分に言い聞かせるように言った。

倭伝の作刀にあたり、リサと大河はラボのミツハを呼び出し、登録情報から倭伝のバーチャルCGの映像をつくってもらった。
「おいおい、似たような情報ばっかりだなあ」
 不満げな大河の感想に、ミツハは回答した。
「現状ではこれがすべてです。拡大してほしい箇所があればおっしゃってください」
 恐らくデータグローブを装着しての緻密なデータ取得などはできなかったのだろう、映像を拡大しても細部の画像や動作が曖昧な部分が多い。映像を並べて参照しようにも、バリエーションが少なくて比較が難しい。
「倭伝の標準のやり方を知りたかったんだけど、この映像だとこの時たまたまそうだったのか、これが普通なのかが分からないな」
 大河がラボの空間に向かって手を横に振ると、ミツハは一瞬で消え去った。
「まあ、だいたいイメージはできた。なんとかなるさ」
 大河は、今の映像でイメージを膨らませながらつくってみよう、と言った。
「材料を鍛えて刀の形にしたら、あとは仕上げればいいんだ。そこは倭伝でも裏刀伝でも変わらないだろう」
 楽観的な口調で言う大河。確かに日本刀は、材料を鍛え、刀の形に成形し、刀を焼き入れて仕上げるという点は、どんな流派でも共通している。リサは師匠のおおざっぱな部分は嫌いではなかったが、今回はそう簡単にうまくいくとは思えなかった。
 日本刀の材料は鋼で、中でも有名なものは玉鋼だ。玉鋼はたたら製鉄による純度の高い和鋼の総称であり、製鉄しやすいように塊を割った状態で売られている。現存のたたら製鉄施設は「高天原たかかまがはらたたら」だけなので、刀匠は高天原たたらから玉鋼を購入する。そして記録によれば、倭伝の刀は玉鋼を使っているとのことだった。
 刀作は、玉鋼のように材料を購入するのではなく、昔の釘などを溶かす「卸鉄」でつくった鉄を使うこともあるし、砂鉄などで自家製鋼をつくることもあり、そういった違いは刀の個性にもつながる。裏刀伝の材料は、大河のレシピによる自家製鋼で揃えるので、玉鋼を購入することはまれだった。
 鋼を鍛える際は、中に含まれる炭素の量を均一にして粘りをもたせる。火床に鋼を入れ、短冊状になった鋼を沸かし、打って伸ばして折り返す作業を繰り返すのだ。
 鋼の鍛錬は下鍛えと上鍛えの二つの工程があり、これを合わせて「折り返し鍛錬」と呼ぶ。何度も打ちのばし、鋼の薄い層が重なった状態にして弾力性を高めるのだ。そしてこれを刀の外側の部分、皮鉄かわがねとして使う。
 鋼を打ちのばす作業は、かつては数人の弟子に大槌で打たせており、これを相槌もしくは向槌むこうづちと呼ぶが、今は電動式のスプリングハンマーを使って一人で作業を行う刀鍛冶も多い。今回は、リサも制作過程を知りたかったので相槌を担当し、大河と交互に槌を打ち合わせた。
 皮鉄ができたところで、柔らかい鋼にまた下鍛えと上鍛えを施し、刀の芯となる心鉄しんがねをつくり、皮鉄でくるんではめ込み、また槌やハンマーでたたいて溶接する。
 一連の作業をしながら、リサは昔読んだ文献を思い出していた。休憩時間に少しぼんやりしているリサに、大河は心配して話しかけてきた。
「おい、大丈夫か。疲れたのか?」
 首を横に振って否定するリサ。
「いや、なんか不思議だなと思って、考え事してた」
 その言葉に、大河は首を傾げる。
「なんのことだ」
「昔、本で読んだ。鉄を叩くだけでくっつくっていうのは、金属学では説明できないって」
 リサの独り言めいた呟きに、大河は頷いて言った。
「そんなこと言い出したら、柔らかい鋼を硬い鋼で包むっていう構造も、昔から謎だぞ」
「柔らかいものを硬いもので包んで強度を上げるっていうしくみはよく分からない。でもそうすると、硬度が理論値を超えてるんだよね」
 思い出しながら言うリサに、大河は火床の火の調子を見ながら言った。
「単に、たまたまやってみたらうまくいったんだろ。理論はあとでくっつけたのさ。まあ、理論が進んだから、時代の変遷や材料の枯渇があっても、俺たちがこうやって作刀できるんだろうけど」
 どのジャンルにおいてもトライアンドエラーは必要で、そこでの成功体験が次に結びつくが、その段階で成功要因を分析する必要があるとリサは思っていた。「よく分からないけどうまくいった」を重ねると、いつしか壁にぶつかって進めなくなる。だから自分や暦のような人間が必要なのだ。
 一休みすると、二人は刀の形づくりにとりかかった。刀身の先端に切先をつくり、刀身を打ちのばす。そして刃を薄く打ち出して冷却し、ヤスリをかけて整える。この成形作業の後、仕上げに加熱してから急冷して組織を変え、硬くするのだ。この時、焼刃土を刀身にうまく塗ることで、境目に白い波のような刃文が入り、刀に景色が生まれるのである。
 日本刀は刃文を見ることで、材料や完成度や美まですべて分かると言われ、刃文が放つ特性や魅力は「匂い」とも形容される。刃文の粒子は、荒い「にえ」と、靄のように細かい「におい」があるとされている。
 裏刀伝の刃文は湾れ刃(のたれば)といい、ゆったりした波のような形である。また刃文に関し、裏刀伝の沸は刃先から地肌に向かうにつれて少しずつ大きくなっており、全体に大胆で外連味がある。一方で、現存する倭伝の刀は、直線的な刃文である直刃であり、また沸は小さいながら冴え冴えと輝き、上品だが芯の通った印象を与える。
 大河が倭伝の刀をつくろうとすると、裏刀伝の刀と似た刃文が入ってしまう。同じ製法で何度か試したものの、結果は変わらない。いくつかの試行錯誤の末、大河はリサに尋ねてきた。
「なあ、なんでうまくいかないんだと思うか?」
 その質問に、リサは言葉を選びながら、自分なりに考えたことを口にしてみた。
「スクナに登録されている材料を使ってはいるけれど、実際は登録された情報とは何かが違うのかもしれない」
 言いながらリサの中で、ある疑問と仮説が浮かび上がった。倭伝の刀は高天原たたらの玉鋼を使っている。もしかすると、高天原たたらで作っている玉鋼が変わったのではないか。そう考えたリサは、高天原たたらの現状の成分を調べてみた。すると現状の玉鋼の炭素長は1.5%程度だった。そして昔の倭伝の刀の炭素量を調べると1.7%以上あったのだ。
 これはどういうことか。セツワで成分分析を行ったリサが、ラボの緑豊かな中庭をぐるぐる回りながら考えていると、暦がやってきて濃いブラックコーヒーを煎れてくれた。どんよりと感覚が濁った頭にカフェインが行き渡り、リサの意識はすっきりした。
 暦がリサに徘徊の理由を尋ねてきたので、リサは、高天原たたらの玉鋼について、同じ製造元は同じだが、今と昔で成果物の組成が異なるかもしれない、という話をした。
「それは高天原たたらの機材が変わったとか、そういう事情じゃないか?」
 空を見て考えつつ、暦は言った。
「そんなことあるのかな」
 そう呟きつつもリサは、古い会社ならばありうる、という気もしてきた。高天原たたらは、名や場所を変えてはいるが、先の戦争時に復活した由緒ある施設である。古い機材を使っていれば、つくっているものにも狂いが出てくるはずだ。
 リサと暦は高天原たたらに連絡したが、先方は、そんなわけない、と大きく出てきた。そのためラボの上司に、高天原たたらの代表とコネクションがある人物を紹介してもらった。その人物と面談する時、リサが成分比較した一覧と、品質を元に戻してほしいという要望をまとめて出すと、相手はそれだけ主張するのなら、原因を探ってほしいと言ってきた。
 リサたちは高天原たたらの坑内を見学した。火を使う施設は水で冷却する必要がある。リサが炉をよく見ると、炉の中の水分を逃がすトンネル状の空間に、プールのような水たまりがあった。その水は淀んで黒く、循環していないように見える。昔の施設のモノクロ写真を見ると、そんな水は写っていない。
 リサはその水を抜いてから制作することを提案した。高天原たたらの職員は信用していない顔をしたが、なんでもやってもらうしかない。しかし水を除外した結果、玉鋼のパーセンテージは1.7%程度に上がったのだった。
 リサは新しい玉鋼を持参して大河に委ね、再び作刀してもらった。すると匂口は小さく波打ち、沸も微小になって冴え、倭伝の刀に近づきはしたが、あと一歩足りないような気がする。しかしリサは、これ以上大河に任せてもうまくいかない気がした。作刀の際、大河は自己流でやっているところも多く、その手癖が抜けないのだ。リサは、改めてミツハとカタリベを見て再度作業をしようと思った。何か手順が足りないのだろうか。
 ミツハの映像を全編コマ送りで注意深く見ていたリサは、映像中の刀鍛冶が、高天原たたらの玉鋼とは異なる形状の鋼を扱っている瞬間があることに気づいた。ミツハに命じて映像を停止・拡大させると、やわらかい芯鉄は玉鋼だが、芯鉄を巻く皮鉄部分の鋼の色やかたちが独特で、玉鋼のそれとは異なっているように見えた。
 倭伝は玉鋼だけを使っていたわけではなく、卸鉄か自家製鋼を実施し、その鋼を皮鉄に使っていたということだろうか。材料に玉鋼としか記載されていないから、今回発見しなければ、今後も気づかれることはなかっただろう。
 リサは試しに卸鉄からつくってみることにした。最後の倭伝の刀匠がいた九州地方へ行き、鍛冶場付近で開催されている骨董や古物商から古い鉄を買い求めた。また鍛冶場付近で出る砂鉄も混ぜてみることにした。
 リサは卸鉄を行うのは初めてだったので、エージェントのカタリベについてもらうことにした。卸鉄は他の流派も行う手順なので、登録データもある。まずVRで参照して手順をシミュレーションし、道具の使い方を知った。炉の準備をしたら炭を燃やし、集めた材料と炭を入れる。そして材料が炭の中に沈み始めたら、火花と空気の音を聞く。この時の加減が分からず、何度も失敗した。
 エージェントとやっても失敗するなんてとリサは腹が立ったが、試してみるしかない。何度かやり直した後、エージェントは、炉の風の音と火花の音の変化で結果が変わるという報告を出した。音の変化とはどういうものかと問うリサに、カタリベは該当する音を再生しながら回答した。
「ゴウゴウという音がジュクジュクと変わります」
 狐につままれたような気分だったが、言われたとおりにやってみた。頃合いを見て塊を取り出し、水を張った容器の中に真っ赤な鉄を入れると、水は沸騰して炎を吹き上げる。結果、納得のいく鋼ができあがった。
 またエージェントは、リサが卸鉄と鍛錬で火床を変更しようとすると反対した。聞けば倭伝では、登録されている鍛冶場の配置と温度変化から判断するに、同じ火床を使っていたようだという。裏刀伝では自家製鋼と鍛錬では別の火床を使うのでその発想はなかった。
 リサはふと、火床は女性陰部の古語、ホトと同じ音であり、鍛冶の神・カグツチが生まれる時、母であるイザナミの陰部に大火傷を負わせた話を思い出した。
 刀の材料になる鋼と、カグツチの司る刀を同じ場所から生み出すことで、何か効果があるだろうか。イザナミが致命傷を負ったように、火床が損傷するかもしれないが、少しでも前に進めるだろうか。
 すがるような気持ちで、リサは卸鉄と鍛錬で同じ火床を使ってみた。すると火床の痛みが激しくなった。リサが裏刀伝で使用する鍛冶場は、数日間は同じ火床で作業できるが、倭伝のように同じ火床を使い続ける場合、ひんぱんに炉壁の補修をしなければならない。リサは疑問を抱きながら作業をしていたが、回数を重ねるにつれ、炉の損傷がひと段落して火が落ち着き、火床が育っているような気がした。実際、カタリベのアドバイスに従ってつくりあげた刀は、大河のものよりもずっと倭伝に近しい、いや倭伝の刀といって差し支えないもののように思えた。
 リサは刀を研師のもとへ運んだ。刀鍛冶は作刀すると刀を研師に委ねる。刀はそこから白銀師、鞘師のもとに渡り、鞘ができて刀身が傷つく恐れがなくなると研師の下に戻って仕上げ研ぎがなされる。刀の出来栄えが分かるのは研師から戻ってきた時だ。自分では良い出来たと思っても、研師が研いでみたら失敗作だった、ということは多々ある。
 リサは研師に早く研ぐように依頼した。その研師はベテランで、裏刀伝とは長いつきあいだったので、詳しいことを聞かずに作業を急いでくれた。仕上げ研ぎが終わった後、リサはまず大河に仕上がった刀を見せた。
「直刃で、沸が輝いているな」
 刀をじっと見つめていた大河は、唸って告げた。
「つまり?」
 リサが尋ねると、大河は彼女の背中をばんばんと叩いた。
「俺には倭伝の刀そのものに見えるぞ。後でどうしたのか教えてくれ」
 リサが、今回の件はスクナ・ミツハ・カタリベに登録するからそっちから習得してほしい、と告げると、大河は笑って頷いた。
 翌日、リサはセツワラボへと赴いた。刀を見せると暦は唸り、これは倭伝の刀に見える、と告げた。その上で暦が浮かない顔をしているのでリサがなにごとか尋ねると、二人がいる中庭に何者かの気配が加わった。
「作刀、間に合ったみたいね」
 よく通る声と、独特の香り。主は顔を確認せずとも分かっていた。
 暦がそちらに向き直ったので、リサも仕方なく合わせた。見れば阿相エリカと、倭伝の元弟子である新貝が、刀らしき長いものを持って佇んでいる。
「そちらもできあがったみたいですね」
 リサはエリカの顔を見ず、新貝の方にだけ話しかけた。相手は気まずそうにしながら頷く。
「おかげさまで、一応間に合った格好です」
「一応、ではないでしょう。この刀で儀式は執り行える」
 エリカの言葉に、暦が反応する。
「それは分からないよ。判断するのは我々ではないし」
 意見した暦に、エリカは心外だというように言い返した。
「見せるまでもないと思うけどね。恥をかかないうちに辞退すればいいのに」
 エリカは怒って立ち去った。新貝も慌ててエリカの後を追った。
 再び二人になった後、暦が重い口を開いた。
「実は、阿相の方も作刀中とは聞いていて、気にはなっていたんだ」
「あっちがうまくいくかは限らない」
 呟くリサに、暦は頷いた。
「今回つくってもらった刀は、阿相の方の刀と比較されて、どちらかが採用されることになると思う」
 リサは勝負事にこだわるたちではなかったが、エリカには負けたくないと思った。
 暦は、二つの刀をジャッジするのは、祭礼を行う神職だと言った。そして蓋を開けてみれば、リサと新貝の刀は共に不採用だとのことだった。その知らせを受けてリサと大河はセツワラボへ向かった。ラボでは暦が当惑の表情を浮かべて待っていた。
「先日、天児がお出しした刀が不採用と聞きました。私の眼では、あれは倭伝の刀を忠実に再現しているように思ったんですが」
 大河が告げると、暦も頭を横に振って言った。
「私も同意見です」
 それならこの結果はなんだ、と言葉を重ねようとする大河に、リサは静かに言った。
「阿相さんの方の刀も却下されたんでしょう。その判断を下したのは神職? だったら理由を聞きたい。理由が分かれば解決できないわけじゃないと思う」
 それが、と暦は言葉を濁し、しばしの後に言った。
「判断したのは神職じゃない。神職は二本の刀を見て、どちらも倭伝の新刀として遜色ないと言った。駄目だと判断したのはセツワなんだ」
 暦の言葉に、リサと大河は顔を見合わせる。
「セツワが、かつての倭伝の刀と新刀を比較して、条件を満たしていないと判定したと?」
 大河の疑問に、リサが考えながら言った。
「倭伝の元弟子の刀もはじかれたということは、満たすべき条件は成分ではなさそうだね。新貝さんは成分は知ってるだろうし」
「そうかもしれない。阿相も絶句していた」
 帰り道、リサと大河は言葉少なだったが、大河が口火を切った。
「なあ、刀が駄目だった理由、分かるか」
 リサは暫く黙っていたが、数分ののちに言った。
「はっきりとは分からない。でも倭伝の元弟子の分も駄目だったってことだよね。元弟子は、師匠に秘伝のようなものを伝えてもらえなかったんだと思う」
「そうか。お前がカタリベを使っても再現できなかったってことは、倭伝の新刀をつくる術なんて、この世にないんじゃねえか」
 大河の言葉を聞きつつ、リサは思案していた。今までの出来事の中に、ヒントがあるのかもしれない。その日の晩、眠れぬ時間を過ごしながら、リサは暦とのやりとりを思い出していた。暦はいつか、伝承をAIで完結させたい、でも今は無理だと言っていた。そうであれば、スクナ・ミツハ・カタリベでは解決できない何かの要素によって却下されたということか?
 その日の夜、寝返りを打ちながら、リサはピアスに触った。暦がくれた黒い石のついたピアスと、母がくれた星のピアス。この世に自分をつなぎとめるもの。
 ふいに、暦に言われた言葉、僕は君を理解したいと思っていた、という言葉が耳によみがえった。リサは黒いピアスに触れ、その存在感を指で確かめ、考えを巡らせた。窓の外では、東の空が白みかけていた。

3.
 翌日リサは最低限の荷物をまとめ、大河に、数週間留守にする、とだけ告げた。大河はリサが何か思いついたと思ったのだろう、突然の宣告にも何も言わなかった。
 彼女は愛用のバイクを飛ばし、最後の倭伝の刀匠のもとへ訪れた。昨日思いついたアイディア、相手を理解するために同じ環境に身を置いてみるという計画を、すぐに実行に移したかった。一度だけ会った倭伝の刀匠の娘は、カワサキの土煙と共に現れたリサに驚いた様子だった。しかしリサが、儀式のために倭伝の刀を作刀しているが、リサも元弟子の新貝も今のところ成功していない、手がかりを探るために鍛冶場を貸してほしい、という話をすると、趣旨は理解したようだった。
「父の鍛冶場を使うのは問題ありません。ただ、鉄くずや石などはあらかた処分してしまったので、基本的な道具しかないと思います」
 白いものが混じり始めた髪をきれいにまとめ、絽の小紋を着た刀匠の娘は、リサのぶっきらぼうな発言にも物おじせず、やわらかい口調で答えた。薄茶に碧色の文様が入った着物と、それに合わせたクリーム色の帯で、秋色と涼しげな色の合わせ方が粋だ。
「問題ないです。使わせてもらえたらありがたいです」
 リサの回答に、女性は頷いた。
 相手の同意が取れると、リサはすぐさま準備を始めた。鍛冶場には幸いにもスプリングハンマーや鉄床などの一式が揃っていて、少し動かせばちゃんと動作しそうだった。
 リサは火床やハンマーの慣らし運転をして様子を見た後、鍛冶場を改めて見渡した。その日は鍛冶場で眠るつもりで、寝袋を敷く平らな場所を物色していると、刀鍛冶に使う道具以外のものがたくさん置いてあることに気づいた。恐らく最近は物置として使われていたのだろう。
 リサはふと、鍛冶場の一番端に、藍色の細長い物体があることに気づいた。近づいてみると背の高い機械で、一本の長い腕が一つの機械になったような形状である。背後からコードが伸び、コントローラーらしき四角い箱につながっている。
 リサはそっとスイッチらしきものを押してみた。ランプが緑色に点滅する。よく見ようとすると、鍛冶場に刀匠の娘が入ってきたのでスイッチを切った。彼女はリサに近づいてきた。見れば竹篭と小さな水筒を持っている。
「食事をお持ちしました。こちらで召し上がってもいいでしょうが、埃がすごいですね。少し休んではいかがでしょうか」
 リサはその提案を断ろうと思ったが、口を開こうとした途端に腹が鳴って眩暈がしたので、遠慮しないことに決めた。女主人は母屋の縁側に導いてくれた。目の前には松や梅の木、小さな池がある。時折響く鹿威しの音が風雅だ。竹林の方から吹いてくる涼しい風が、リサを鍛冶場の熱気から解放してくれた。
 竹篭の中は、おかかのおにぎりときゃらぶき、甘みの強い卵焼き、冷たく冷えたトマトだった。海苔のぱりっとした磯のにおいは香ばしく、きゃらぶきのしょっぱさが米や卵の甘みとよく合う。トマトの青臭さは口の中を爽やかにしてくれた。食事を抜きがちなリサだったが、その食事はきれいに全部平らげた。
 リサが食べる姿をニコニコと笑って見つめていた女主人は、改めて桜木瑤子《さくらぎようこ》と名乗り、この家には私しかいませんし、うちに泊まられてはどうですか、と言った。リサは警戒心が強い人間だったが、この瑤子と名乗る女性は信用してもいい気がした。こうしてリサは倭伝の元刀匠の家で、泊まり込みで鍛冶を行うことになった。
 翌朝リサが目覚めると、瑤子は既に起きていた。部屋を出ようとすると、ぷんと味噌汁のにおいがする。リサが洗面所を使おうと出ると瑤子が顔を出し、朝ごはんができたから食事はどうか、と聞いてきた。そんなに世話になっていいのか、という気持ちはあったが、朝餉のにおいには抗えない。リサは目玉焼きの黄身を潰しながら、昨日の夜にずっと抱いていた疑問を口にした。
「鍛冶場の後ろにあったもののことなんですけど」
 そう切り出したリサは、瑤子を見た。ぴんと来ていない表情である。
「炉の反対側、藍色の細い機械です」
「ああ、あれはアーム型のAIです。近所の河が氾濫した時、父の友人が持ってきてくれました。工場のロボットにAIを搭載したんだって自慢してましたね。手先の動きを自己判断でカスタマイズするから、便利なんだそうです」
「AIを搭載してあると? 見た感じ、産業用ですよね。サービス系のロボだとAIを搭載することはあるけど、ああいうのは初めて見ました」
「あら、あの機械、珍しいんですね」
 意外そうに語る瑤子。今まで興味がなかったのだろう。
「あそこに置きっぱなしでいいんでしょうか」
 リサの質問に、瑤子は思い出そうとするそぶりを見せながら言った。
「そうですね。あの機械の持ち主だった父の友人は工場主でしたが、工場がなくなったと聞いてしばらくたちます。解体費用もかかるでしょうし、うやむやになっているんだと思います。父は何かに使っていたんでしょうかね」
 そうかもしれない、とリサは思った。機体が古いわりにあまり汚れていなかった。モノはぞんざいに扱うと荒れるが、あのAIはある程度大切にされていたようにも思える。
 食事を終えて鍛冶場に入ったリサは、火床に火を入れた。炎の赤い色を見ると集中力が高まる。火床が使える状態になったところで一息ついた。
 視線の先にはAIがあった。コードがつながるコントローラーには小さなモニターがついている。リサは試しにモニター横のボタンを押した。すると人影が映った。目を凝らして見入ると、映像の中の人間は動き、炉から起きる風の音まで聞こえる。いったんAIの正面に回ってみた。すると正面の中央にレンズのような部分があり、そこから撮影したものが画面に表示されるようだった。
 リサはコントローラーを見て、記載された単語に従い、モニター付近のパネルを押した。その後、AIの前に回り込んで手を振り、再びモニターを参照した。再生ボタンを押すと、手を振るリサの姿が映っている。
 続けて再生ボタンに隣接する、動作と描かれたボタンを押してみた。するとAIは、映像に納められたリサの動きを再生した。AIは一見無骨な形状だが、手の関節のしなりや指の動き、細かい揺れや手を振った時に少し右に傾く癖なども表現できた。リサは、そのAIは、画面に記録されている動きを驚くほど忠実に再現できるのだと判断した。
 このデータはセツワラボのために使える。そう直感したリサは母屋に戻り、瑤子にAIと内蔵データを利用していいか聞いた。瑤子は、そもそもあのAIは今後の処置困るだろうし、持ち主も多分見つからないので、リサの好きにつかっていい、それが伝統工芸の伝承に役立つのなら望ましいでしょうと言ってくれた。
 リサはAIに保存された映像を取り出そうとした。将来的にミツハに映像を登録しようと思ったのだ。すると標準形式の動画データとして落とすことができたので、自分のパソコンで再生した。映像を見る限り、AIは倭伝の刀匠と共に労働していたようだ。何かを運ぶような単純な動作だけではなく、火に風を送るような繊細な作業も含まれていたようである。
 こうしてリサは、鍛冶場を使えるように復旧させる傍らAIを調べた。藍色の機体の裏に記載してあった製造番号はかすれていたが、目を凝らすとR3-AH24という文字が見えた。検索すると製造していた会社はすでに存在しなかったが、説明書は文書データとして残っていた。
 その情報によれば、R3-AH24というその機体は、垂直多関節型ロボットにAIを搭載した工場用汎用型AIで、3バージョン目の改良型らしい。手の可動域が繊細で優秀だが、AIを搭載したこともあり、汎用型の機械としては高性能だったようだ。その製品に関する記事を見ると、どうも高性能にしたのが仇になって価格が高く、競合品に比べて中途半端な立ち位置になってあまり売れず、生産中止になったらしい。
 もともと垂直多関節型の機械は、複雑な動きを可能とし、6つの軸で構成されている。この軸を関節と置き換えれば、腰や肩、肘や手首など、ほぼ人間の機能と同じで、搬送や組立、溶接や塗装といった複雑な作業を得意とする。垂直多関節型の機械は、卓上型から500㎏程度ある大型のものまで幅広いが、鍛冶場にあるものは、身長160センチのリサより少し大きいくらいだ。
 リサはR3-AH2の前で動いてみた。R3-AH2は太い柱のような胴部分に、繊細な動きが可能な手の部分が連結している。手の先端には五本の指はないものの、ものを挟める二本のエンドエフェクタがついている。このエンドエフェクタは、りんごを粉砕するような強い力を出すことも、卵を壊さず持つような弱い力にコントロールすることも可能である。
 またR3-AH24は、映像の動きを再現するだけではなく、目の前に立っている相手に合わせて動くことも可能だった。リサが手を振り上げて指を折り曲げたり、大槌を持って振り上げたりすると、エンドエフェクタを器用に使いながらアームを振り上げる。ただ試したところ、広い範囲をカバーしようとすると、演算部分がオーバーフローして動きが鈍くなるようなので、かなり範囲を絞る必要がある。それでも鍛冶場の中であれば全く問題ない。
 秋口の涼しい風が吹きはじめたある日、リサは卸鉄の作業を行っていた。リサの実感では、5月から7月の初夏の時期と、9月から10月の秋初旬で、とりわけよく晴れた日が卸鉄に最適だった。恐らく気圧のせいだと踏んでいたが、火床の空気がよく循環し、炉の中に材料がきれいに落ちてくれるのだ。
 リサは火床の中で、鉄と木炭からなるけらをつくった。鋼はこの鉧の中に含まれている。よい鉧ができるタイミングは貴重なので、うまくいったら連続操業しなければならない。その日もリサは一日中鍛冶場に籠っており、外の空気を吸おうと出ると、すっかり日が落ちていることに気づいた。
 一日中火の側にいたので、全身が汗でびしょぬれだった。何度も体を洗ってから湯舟につかる。作業中に生じた擦り傷に、熱い湯がじんわりしみる。
 夕食を終えて一息つくと、瑤子がほうじ茶を煎れてくれた。
「うまくいきそうでしょうか?」
 心配そうに聞いてくる瑤子。リサは考えながら言った。
「今のままだと、この間とおなじでうまくいかない。別の何かを見つけないと」
「うちの父が何も残さなかったせいで、迷惑をかけていますね。申し訳ないです」
 その言葉に、リサは首を横に振った。
「あなたのお父さんだけじゃなくて、多くの刀匠がそうです。あと刀匠たちは、自分の技術を残す方法が分からないんだと思います。うちの師匠は例外として」
 リサは瑤子を見て考えた。今までなぜ、こんなに自分に親切にしてくれるんだろうとは思っていた。父親が技術を残さなかったことに対する責任感なんだろうか。
「うまく継承されなかったのは倭伝だけではないですし、瑤子さんのせいではないです」
 言葉を選びながらリサは言った。彼女に対しては、なぜか敬語がふさわしいように思う。
「そうかもしれません。でも私は、あなたがうらやましい」
 聞き間違いかと思い、リサは思わずお茶をごくりと飲み下した。瑤子は真面目な顔をしている。
「私はもともと刀匠になりたかった。でも父は、私には無理だと言ったんです」
「刀鍛冶になると苦労するんで、親心じゃないですか」
 倭伝の最後の刀匠は、弟子を育てられなかった辺り、性格や価値観に問題があったのかもしれない。瑤子に継がせなかったのも、性別的なバイアスかもしれないと思ったが、親切にしてくれる瑤子に対し、彼女の父親の悪口を言うことはできなかった。
「実際に刀鍛冶になったあなた言うのだから、恐らくそうなのでしょう。でも私は、やりたいことを主張しきれず、別の場所でもうまくいかなかった自分を半端者だと感じています。だから、やりたいことを貫いているあなたがうらやましい」
 人は自分にないものを望む。リサにしてみれば、将来を考えてくれる父がいて、例え失敗しても、別の場所で関係性をつくろうと努力できる瑤子は十分幸せで立派だと思うが、その環境に身を置けば、思うところはあるのだろう。
「私は刀が好きだった。あの美しい刀身を自分で生み出したかった。だから私はあなたに成功してほしいのです」
 瑤子はリサの目を見つめながら語った。リサは小さく頷いた。

翌日の朝、リサは鍛冶場に直行せず、周囲を散策してみた。
 倭伝の玉鋼は、高天原たたらで作られた玉鋼を芯鉄に、卸鉄を皮鉄にして制作する。それが分かったから、玉鋼の成分は昔と同じにし、卸鉄をつくりあげた。だがセツワには認められなかった。
 倭伝の鍛冶場で作刀すれば、何かヒントがあるかもしれない。そう思っていたが、昨日卸鉄した鉧は、セツワに拒否された刀をつくった時と同じものに思えた。今のままではうまくいかない気がする。そして分かっていたのは、自分でうまくいかない予感がしている時は、実際にうまくいかないということだ。突破口がほしかった。
 小さなせせらぎが聞こえた。見れば川の水面が輝いている。リサはふと、R3-AH24が、川の氾濫の際に活躍したという瑤子の言葉を思い出した。川を覗き込むと自分の顔が映っている。きらきら光る水面に指をつけようとすると、水に映ったリサも指を差し出した。
 リサはその動きを見て、R3-AH24の動作を思い出した。
 あの機械がそのまま残されていたのは、刀匠が作業に使っていたからだろう。でもなんの作業で使っていたのか。リサは急に思い立ち、鍛冶場ではなく瑤子が貸与してくれている部屋に戻った。リサはパソコンを立ち上げ、R3-AH24が取得した映像に見入った。
 映像はランダムで断片的だった。しかしリサは、刀匠が折り返し鍛錬をしている映像を見つけ出した。映像をコマ送りでよく見ると、刀匠が鉄床に鋼を置いて小槌で打つと、撮影している側からエンドエフェクタが大槌を振り下ろしている瞬間があった。あのR3-AH24は、刀匠に向き合って大槌を打ちおろす役目、相槌を勤めていたのだ。鍛冶場にはスプリングハンマーもあったが、刀匠はそれを選ばずにAIを相槌に選択した。ならばAIで作刀する方が、いいものができるという判断があったことになる。

リサは鍛冶場へ向かった。
 入口にかかった注連縄の下を通り、内部に足を踏み入れる。
 刀造は神事で、鍛冶場は聖域だ。
 炉や鉄床、鞴などは、沈んだ闇色に静まりかえっている。
 リサはR3-AH24のスイッチを入れてコントローラーで映像を選択、コントロールパネルを立ち上げてセッティングする。
 R3-AH24が立ち上がると、エンドエフェクタが大槌を握った。
 玉鋼を火床の入り口に置いて火を入れる。青紫の火は次第に鮮やかな朱色になり、火花を散らす。
 日本刀の材料である鋼を沸かし、闇に沈んだ鍛冶場を照らし出すこの火は「鉄の華」と呼ばれ、刀にとってはいのちの炎である。
 空間に熱が加わった。沸きたつ鋼を延ばそうと、槌を取った。 
 壁に影が映し出される。鋼の打ち手である相槌と、彼の持つ大槌のシルエット。
 相槌の姿を見据えようと、じっと目を眇める。R3-AH24は危なげなく大槌を握り締めていた。

リサが橙色に輝く玉鋼を鉄床に置くと、R3-AH24は大槌を振り下ろしてきた。
 とん、という小気味よい音が響く。
 すかさずリサは小槌で、かん、かん、と、燃える玉鋼を叩いた。
 小槌は刀鍛冶にとって、命に等しい大切な道具だ。小槌を打っていると、それが手の延長であるような感覚に陥ってくる。
 繰り返す動作の中、リサはふと、ずっと昔に習ったピアノを思い出した。
 何を弾いていたのかは思い出せない。グランドピアノの黒い色と、ピアノ教室の窓にかかっていたレースの白がコントラストをなしていたことは覚えている。
 その時の気持ちを思い出してみる。確か、ピアノにさほど興味がなかったのと、曲集に描かれていたイラストが好みではなかったので、レッスンの時間は好きではなかった。ただピアノを弾いていると母親が喜ぶので、そのためだけに行っていた気がする。
 リサのピアノは上達しなかった。一つ躓くと、指がほつれたようになる。一つのことがうまくいかなくなると、どんどん綻びが出る。
 ピアノを弾いていた時に、平穏だった時に、両親がいた時に戻りたいわけではない。ふと、暦の言葉を思い出す。リサは復讐に生きるには、冷静すぎると言っていた。あれは鋭いところをついているが、いつからそうだったのだろうとも思う。
 リサは昔、交通事故を引き起こした相手に会ったことがある。確か大河のもとに入門後、しばらく経ってからだった。顔をみたら強烈な怒りがこみ上げるかと思っていた。しかしそうはならなかった。相手はリサに対して委縮している、一人の男性でしかなかった。
 リサは結局、相手を憎めなかった。憎んだところで両親は帰ってこないし、何かが解決するわけではない。事実と理性がリサを圧倒し、負の感情は沸き上がらなかった。
 R3-AH24の大槌の音に導かれ、リサの小槌の力は強くなっていく。演奏の時はままならなかった指と手で、思い通りの音を奏でる。大槌は重く力強く、小槌もつられて強くなる。相手の身体的な動作の強度が音と気配で伝わり、リサの身体的な動作も変わっていく。
 音の質感が変わると、鋼を炎の中に入れた。赤い炎はぱちっと弾け、衝動が橙色の火の粉を巻き上げる。暗闇にぱっと彼岸花が咲いたような艶やかな情景が広がり、一瞬で消え去る。炎の変化を見極め、やがて鋼が夏の日の夕焼けのような色になるまで待つ。叩いて熱を加えて休ませる。それの繰り返し。
 リサは考える。自分を作刀に駆り立てる衝動はなにか。
 そして思う。つくりだすことと鍛えることに、惹かれつづけているのだろうと。自分の芯をつくりたかった。そして芯を守りたかった。柔らかい鋼を硬い鋼でくるむ刀のように。憎しみという感情に、自分自身が切られないように。
 相槌を打つとリズムが生まれる。同じ動作は酩酊を生む。熱気で空気が揺れる。燃える鉄の周囲は熱いが、集中することで意識は冷たく冴えてくる。音とリズム、熱さと冷たさ。いつしかリサの視界からは、目の前の赤く燃える鋼と、黒々と光る槌以外のものが消えていた。
 しいんと静まりかえった空間で、槌の音だけが響き渡る。
 大槌の持ち手は言葉を発さない。コミュニケーションの手段は音とリズムだけだ。耳と身体を研ぎ澄まして、相手の打ち手を感覚する。全身の感覚が相手の槌を受け止める。視界が遮蔽されているのとは反比例するように、体感される空間が広がる。槌の音だけが響き、やがて音も聞こえなくなり、あとは静けさが残る。自分の感覚が広がる。感覚は無限大になり、その後何もなくなってしまう。
 生まれた瞬間のことは覚えていない。しかし少なくとも、身体は最初からあった。身体を通して外界の情報を取得し、それがない状態は想像したこともなかった。しかし今、身体、ひいては、自分自身がないように思った。自分とR3-AH24、自己と他者、内と外、過去と現在。空間的な区分と、時間的な区分。そういった境界の類が目の前の鋼のように溶解するように感じた。そして、もうすぐ感じることすらできなくなると直感した。

リサは我に返った。鍛えの作業を終え、音が途切れていたのだ。
 耳に触れた。聴覚がおかしくなっていないことを確認したかった。
 すると硬く冷たい感触があった。
 暦のピアスと母のピアス。自分を現実につなぎとめる絆。
 リサは大きく息を吸い込み、全ての感覚を身体に引き戻した。
 そして意識を集中させ、鋭利な刃を形づくり、柄に入る部分であるなかごの表に天児リサと銘を入れ、その裏にはR3-AH24と鮮やかに刻んだ。

瑤子の家に滞在し、気づけば一つの季節が過ぎていた。牡蛎や雲丹が食卓にのぼるようになり、吐く息も白くなっていた。リサはR3-AH24を相槌に据えて何本かの刀をつくった。できた刀をまとめて研師の下へ送った後、リサは瑤子に深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
 リサの言葉に、瑤子も頭を下げた。
「こちらこそ。いい刀はできましたか?」
「結果が出ないと分かりません。でも、うまくいったと思います」
 そう告げると、瑤子はにこっと笑った。
 リサが黙って右手を差し出すと、瑤子は両手で握ってくれた。リサの荒れた手とは対照的な、ふっくらとした優しい手だった。

4.
 大河の下に戻ったリサは、研師のもとから刀が届くとすぐにセツワラボへ向かった。暦には知らせていなかったが、彼は駐輪場の黒いカワサキを見かけたらしく、ラボの中庭にたたずむリサの下に駆け寄ってきた。
「しばらくいなかったから、心配したよ」
 息を切らせて告げる暦に、苦笑しながらリサは言った。
「ごめん、集中したかったから。倭伝の鍛冶場を借りて作刀してた」
「どうだった?」
 暦の質問に、リサはあの鍛錬の日々を思い出しながら言った。
「自分ではうまくいったように思う。あとあそこには、ミツハに登録できるデータがあった」
 そう言うとリサは、一連の出来事を説明した。倭伝の鍛冶場には産業用AI・R3-AH24があり、弟子を全員失った刀匠はR3-AH24に相槌を打たせていたこと。刀の作成過程は全てAIにインプットされていたこと。そしてリサも、AIを相槌として作カしたこと。
「でも相槌はスプリングハンマーでできるんだろう? なぜAIを使ったんだろう」
 疑問を投げかける暦。リサは首を横に振った。
「理由は分からない。でもスプリングハンマーでやるよりも、R3-AH24を相槌にする方がうまくいったんだと思う。私もそれは体感した」
「そんなことがあるんだね」
「あなたは昔、君を理解したいんだと私に言ったよね。でもその時点で理解していなくても、いやむしろ、理解していないと覚悟して臨んだ方が、より分かることもあるんだと思う」
 分かっていると思ってつくりだしたものは、想像の範囲を超えない。一方で、分かっていないと思ってつくりだしたものは、想像の範囲を超えるのかもしれない。そしてその後、つくりえた理由を解析することも大切だ。より前に進むために。
 リサは持参したR3-AH24のデータを暦に預け、大河の下に戻った。数日後、研師の下から戻った刀は、いずれも直刃のラインが鋭く、また沸は最高の輝きを持っていた。そして刃文は玄妙な匂いを放ち、全体として神秘的ですらあった。リサは一番良い出来だと思ったものを暦に渡すと、結果のことは気にしないことにした。いずれにせよそれ以上のものは、今のリサにはつくりだせないのだ。
 数日後、暦がやってきて、セツワの承認が下りたことを告げた。まず大河が喜んでリサに祝福を述べると、リサは真顔のままだった。心配した暦がリサに、うれしくないのかと問うと、リサは違うことに気を取られている表情で言った。
「セツワが認めたのは嬉しいよ」
 どういう意味が問う暦と大河に、リサは回答した。
「セツワは判定に関して、倭伝の最後の刀匠がつくった刀を基準にしてると思う。今回、私は同じやり方で作ったから、セツワが同等だと認めたのかもしれない。何故セツワの許可が通ったのか、もっと詳しく調べたい。まだ時間はかかりそうだけど」
「先日のミツハへの登録データが手掛かりになるかな?」
 暦の質問に、リサは深く頷いた。
「ともあれ、鞴祭の儀式にはあの刀が使われるんだろ。最高の鞘や柄を揃えないとな」
 大河のコメントに、暦は頷いた。
「それはもう手配してあります。柄巻師や塗師など、思いつく限りで一番優れた仕事をする人に頼みました。素晴らしいこしらえになるはずです」
 その言葉に、二人は安堵して頷いた。

鞴祭当日、リサと大河は儀式の場所へ赴いた。そこはこの国で最も由緒ある神社の一つとされる場所だった。大きな朱色の鳥居にかかった注連縄を見ると鍛冶場を連想し、身の引き締まる思いがした。内部の敷地は広く、小さな音をたてて流れる澄んだ川、苔むした縁石、枯山水の庭園の鹿威し、竹林などの風情ある景色を見て、瑤子のことを思い出した。
 儀式は神殿近くの中庭で行われた。儀式に関してリサは、作った刀は神官によって清められ、その後披露される居合で使われると聞いていた。リサは関係者席より、神官が捧げ持ってくる刀をじっと見た。それは黒に銀糸が巻かれた柄に黒塗りの鞘、銀色の外装金具が施されており、儀式にふさわしい荘厳な姿になっている。
 リサは倭伝の鍛冶場の生活を思い出していた。瑤子が与えてくれた温かい空間、R3-AH24と共に過ごした日々、そして鍛冶場の幻想的な体験。ふと、あれは何だったのだろうと思ったが、今は安易に単純化できるものではないようにも感じた。
 居合術では、水平斬りと千本斬りが行われた。
 白木の台に、橙色の実が並べて置かれている。この神社のゆかりの植物、橘の実だ。
 その昔、天皇が使者を常世の国に遣わして、不老不死の霊薬として「非時香木実ときじくのかくのこのみ」を持ち帰らせたという。時に非ずいつでも香りたつというその実は橘であるとされ、この神社の神殿の横に生える木は、時香木実を植えたものであるという伝承がある。
 黒い着物を纏った恰幅のよい居合術師は、台の前に進み出て、小さく呼吸をした。鯉口を切って柄に手をかけ抜刀、橙色の実を水平に真っ二つにする。すぱんと割れた果実の飛沫に触れた刀は、時に非ずいつまでも錆びることもなく残るのだろうか。
 千本斬りでは、巻き藁を竹ほどの太さにして立てたものを、術師が移動しながら切っていく。ほんのわずかな衣擦れの音、刀をふるう鋭い音、藁が落ちる重たげな音。静まり返った空間で、それらの音だけが規則的に響きわたる。
 刀が閃くさまを見て、リサはふと、一番最初に刀に惹かれた時の感覚、目の前の刀だけが確かなもののように感じた瞬間を思い返した。そしていつか、そういうものを作りたいと思ったことも。
 そして急速に、唐突に、理解した。
 今回は、つくれたかもしれない。
 だが次は、更によいものにしなければ、つくれたことにはならない。
 うまくいったと満足する瞬間は、あったとしても一瞬で、次の瞬間にはさらに先を見据えることになる。この焦燥感に終わりはない。だが、つくり続けなければならない。
 非時香木実に触れた刀が、目の前の障害を無限に斬り続けなければならないように。

居合術師が刀を鞘に納めた。足元には無数の巻き藁の残骸。口を一文字に結んだ術師がこちらに向き直って静かに一礼すると、心を奪われていた観客は我に返って盛大な拍手を送った。
 リサが立ち上がって去ろうとすると、後ろから肩を叩かれた。阿相エリカだった。
「今日は祝福のために来たの」
 リサの表情が警戒心むき出しに見えたのだろう、エリカは取りなすように言った。
「それはありがとう」
 リサの言葉に、エリカは頷いて言った。
「あなたの刀がセツワに承認されたと聞いて驚いた。正直、無理だと思っていたから」
「そうでしょうね」
 短い回答に、エリカは苦笑した。
「気分を害したのなら、悪かった」
「言葉尻を捉えて気分を害してるわけじゃない、なぜあなたは途中で諦めたの?」
 リサのその質問に、エリカは目を見開いた。はっとしたようだ。
「諦めたわけじゃない。新貝さんと手段を模索しているうちに時間切れになった。でもあなたが、そんなことを言うなんて意外」
「勝ち負けが重要なんじゃない。前に進むことが大切」
 リサが答えると、エリカは考えながら言った。
「そう。じゃあ前に進むためのお願いなんだけれど、あなたの刀が最初は承認されなかった理由と、後でうまくいった理由を教えてほしい」
 これまでになく低姿勢で聞いてきたエリカだったが、リサは首を横に振った。
「まだ私にも分からない」
 それは本音だった。倭伝の鍛冶場でリサが作刀した際の映像をさまざまな観点で解析すれば、なにかが分かるのかもしれない。しかしそれは、今後の作業だ。
「一つ分かることがある。それは、今回、スクナだけではなく、ミツハとカタリベ、それに新しいAIが関わってるってこと。AIがいなければ、作刀することはできなかった。だからあなたにも、できれば私が作刀した過程を見てほしい。違う視点がほしいから」
 付け加えたリサに、エリカは面食らった顔をした。
「探したよ。儀式の主催者が君に会いたがってる」
 暦だった。手を掴まれたリサは引っ張られる格好になる。エリカは再び苦笑し、背を向けて立ち去った。
 一通り挨拶を終え、客席側に視線を投げたリサはふと、見たことのあるシルエットを目にした。桜柄の訪問着を着て佇んでいる上品な女性。瑤子だった。今度はリサが暦の手を引っ張り、瑤子の下へと急いだ。突然前に出てきたリサの息せき切っている姿を見て、瑤子は柔らかく微笑んだ。

後日、リサと暦はセツワラボで、スクナとミツハへの登録作業を行っていた。全て完了したらカタリベに読み込ませるつもりだった。
「この作業がひととおり終わったら、君の言っていた産業用AI、R3-AH24を解析して、活用方法を模索したいね」
「そうだね。その件は瑤子さんにも伝えておいた」
 リサは答えた。リサの刀が儀式で使われたことでセツワラボの対面は保たれ、予算は追加されたという。暦は予算の増加分で、R3-AH24の導入や活用方法を考えたいそうだ。  R3-AH24自体は廃番だが、もしかするとどこかの企業が兄弟分のAIをつくってくれるかもしれない。R3-AH24をセツワラボで使用することに関し、瑤子は、うちでは使い道がないから是非、と言っていた。もしもセツワラボのAIたちがもっと習熟すれば、そしてR3-AH24をもっとうまく使えるようになれば、もしかすると瑤子も刀鍛冶になり、倭伝の刀の制作に挑戦できる日がくるかもしれない。
 一通りの作業を終えると、リサは暦にビストロへと案内された。そこは以前、暦がリサに受賞の祝いをしてくれた場所だった。リサは既視感に囚われながらメニューを選んだ。一通り食べ終えて落ち着いた後、暦は小さな箱を取り出し、リサの目の前に置いた。
「これ、受け取ってもらえるかな。お祝いとお礼を兼ねて」
 箱を開けると中身はピアスだった。小さな赤い石がついている。
 リサはふと、R3-AH24と相槌を交わしている時の炎の色を思い出した。そして、何と言えばいいかと迷いながら口を開いた。
「ありがとう。今度は赤い石だね。以前もらった黒いピアスとお揃いみたい」
 そう言いながら、リサは右耳のピアスを一つ外して暦のピアスを装着した。これで左右で黒と赤のピアスをつけていることになる。鍛冶場の暗闇と炎の色だ。そして闇の上部では、母のくれた星が輝いている。
 暦は頭をかきながら言った。
「石はガーネットで、お守りにもなるそうだよ。やっぱり何を贈ればいいか分からなかった。君のこと、まだ分かってないみたいだ」
「それでいいと思う。私も暦のことがまだ分かっていない。それに暦自身もどんどん変わっていく。分からないから面白いと思ってる」
 リサの発言に、暦は考えながら言った。
「変わるって話で言えば、以前僕は、AIから人に引き継ぎたいと思っていた。でも今は、AIが引き継ぐ相手は、人に留まらないと思いはじめてる」
「AIから人ではなくて、例えばAIからAIに伝えるってこと?」
 そうなると、例えばR3-AH24が、他のAIに引き継ぐということか。
 リサはさらに広がりをみせていく暦の話に惹かれた。
「まだぼんやりと考えてるだけなんだけど、例えばAIから人だけではなく、AIから別の生命体に伝承することも想定してる。伝えることや受け継ぐ喜びは、誰にでも享受する権利がある。君が今言ったみたいに、AIからAIへの伝達も、過程としてありうるだろう。いったん断絶しても、遠い未来に誰か、もしくは、何かが受け継げばいい」
 リサは暦の顔を見た。いたって真面目な表情である。
「僕のこと、変な奴だと思ったかな」
「そんなことない。別の何かが引き継げるように、伝統工芸を保管するってことだね」
 リサの言葉に、暦は頷いた。
「そう。いずれは工芸だけではなく、美術や芸術や技術、広くアートと言われるものすべてを保管したい。人間の手わざから生まれるものは、人間だけのものにとどめる必要はないはずだ」
「ノアの方舟を連想するね」
「そうだね。今のセツワラボは単にビルだけど、ノルウェーの種子貯蔵庫みたいに強固な建物にするか、いっそのこと、地球大気圏外に出られるようにするか。その時セツワは、宇宙という広い海を漂う舟になる」
 深く頷きながら、暦が語る。
 その強い眼差しを見つめながら、リサは思いをはせた。
 箱形の大舟をつくり、家族と動物たちを乗せて難を逃れたノア。暦の計画においては、種の保全のために乗り込んだ動物たちが、さまざまなアートということか。そしてそれをメンテナンスするのはAIたち。
「アートが誰のものかと言えば、人のものとは限定できない。先々のことを考えれば、刀をつくるのも使うのも、人間じゃないこともありうるってことだね」
 考えながら語るリサに、暦は強く頷く。
「鞴祭の儀式の刀は、AIが伝え、君が作り、居合術師が使った。その過程の総てが人間じゃなくてもいい。使うのは別の生命体だっていい。彼らが、伝承された技術を更に発展させる可能性だってある」
「つくった刀を使うのが、全く知らない生命体かもしれないのか。作者としては嬉しいね」
 創作物は、作者の存在証明になると共に、作者の手を離れて自立することもある。
 リサはR3-AH24の相槌を思い出していた。あの時、あらゆる境界が消え去って無我の境地に至ったが、少しも怖くなかった。それは、後に残るものをつくっているという確かな実感があったからかもしれない。
「壮大な夢。でも夢見ることは自由だから」
「今は夢でしかない。でも君は、初めての部分を切り開いてきたじゃないか。産業用AIを相槌にして別流派の刀を復活させるなんて、誰も思いつかないよ。君と一緒にやれば、夢じゃなくなる気がする」
「R3-AH24はいい相槌だった。言葉による対話の先、言葉を超えた共話で必要なことを伝えてくれた」
 言いながらリサは、R3-AH24と共に槌をふるった日々を思い返した。
 あの得難い感覚は、まだ消化できていない。
 誰かに伝えるのは、不可能に近いようにも思う。 
 しかし少なくとも、R3-AH24からリサには伝達されたのだ。
「あれは多分、R3-AH24が、私とは全く異なるものだったからできたんだと思う。彼らは人が人に伝えられない領域を与え続けてくれるかもしれない」
 リサの言葉に、暦が頷く。
「これからも君は、新しい領域を受け取るだろう」
「私は、できないことをやる時の方が燃えるから」
 こんな会話は、過去にした気がする。
 またもや強烈なデジャブに見舞われながら、リサは暦を見た。
 暦は微笑んでいる。かつてよりも円熟した、しかし、更に芯が強くなった笑み。
「今回のプロジェクトは完結したけれど、まだ続きそうだ」
「人間の手わざから生まれるものを、人間だけのものにとどめないで未来に渡す。未来への絆が暦の目的なら、終わりはない」
 二人は笑いあい、リサは右耳のピアスの石に触れた。
 自分では見えなかったが、それはきっと、鍛冶場の炎の色をしているはずだった。
                                       <了>

文字数:37084

内容に関するアピール

工芸の一部をロボットやAIに作業・管理させるプロジェクトは既にあるようですが、AIに伝承されたものを人が学ぶことはあまり重視されていない印象を持ったので、書きたいなと思いました。その中で、パートナーとなる相槌が必要な刀鍛冶を選びました。AIによる伝承+刀鍛冶という題材の小説は見ないように思いましたので、そこがアピールのポイントかなと思います。

主人公のリサは、言葉を交わさないAIを相槌として作刀する中で、言語を超えたコミュニケーションを得て無我の境地を獲得、二人(リサとAI)は非言語的な場を生成します。コミュニケーションが苦手で、少し世間からはみ出したところのあるリサが、AIを含めた他者と関わることで変わっていく話にしたいなと思いました。

口伝や一子相伝といった伝承方法は、創作物やしくみの精度を高めもしますが、属人化につながり、不正確な要素が出てくることもあると思います。今まで口伝や一子相伝だったものをデータ化して統合すると、新しい要素が発見できるかもしれないと思いました。

何かを伝える際、人同士だと感情が絡むが、AIが介在するとドライになれる部分もあると思います。リサとAIがうまくいったのも、共通点がまったくないという前提があったからです。そのため、人から人よりも、AIから人間、もしくはAIから全然別の生物、という伝承の方がうまくいくこともあるかもしれないと思います。そういう希望も伝わっていたら嬉しいです。

最後になりましたが、講師の方々、一年間、本当にありがとうございました。
 五期の方々、コロナ禍でのコミュニケーション方法を柔軟かつ円滑に提案・実装してくださり、本当に感謝しています。同じような興味の領域を周遊しているのだと思いますので、またお会いしましたらよろしくお願いいたします。

文字数:751

課題提出者一覧