梗 概
太陽の味を求めて
イタリア人のニコラはトマト農家の生まれだ。彼の故郷には、トマト畑の中央に、最も古い苗木を残す習慣があった。ある日ニコラは登校中、マフィアに家族を惨殺され、懇意の農家に匿われてアメリカへ逃亡する。ニコラはマンマの味、太陽の匂いのする滋味深いトマトソースが忘れられず、大学で農学を専攻しつつレシピを開発するが、マンマの味は再現できない。
ニコラの指導教官の説では、植物同士は交流し、匂いで他の植物や昆虫を呼び寄せる。更に教官は植物には集合知があり、人とは違う方法で情報共有するとした。ニコラはトマトが匂いを生存競争に活用しているという論を固めつつ、トマトの情報共有の方法を探る。
大学の研究室は巨大企業・べジフードと提携する。べジフードは種苗と農薬をセット売りすることで利益を上げる。ニコラは雑草を殺す匂い物質を出すトマトの交配を命じられるが、ささいなきっかけで企業の裏の目的を知る。べジフードは、いずれ雑草がトマトの匂い物質に耐性を持つことを見越し、より強力な自家製農薬で利益を上げようとしていた。更にニコラは懇意の農家が、ベジフードの息がかかったマフィアから脅迫を受け、トマトの苗を購入させられたことを知る。
ニコラは教授に告発する。研究室はべジフードとの連携をやめ、ニコラは雑草を枯らすのではなく共存するトマトを交配、故郷の農家に提供する。農家がべジフードの苗の代わりにニコラの苗を植えると、収穫量は上がった。
教授が何者かに殺される。ニコラはマフィアの仕業と確信し、マフィアの本拠地である故郷へ行く。懇意の農家はニコラを止めようとするが、彼の決意が揺るがぬことを知って協力を申し出る。ニコラはマフィアを農家におびき寄せる。すわ銃撃戦かと思われたが、マフィアはトマト畑で数発発砲すると全員気絶し、目を覚ますと記憶を失っていた。ニコラがマスクをして畑に入ると、かつて開発した、べジフードのトマトの濃厚な匂いが充満していた。ニコラは匂いに耐性のないマフィアは昏倒したのだと判断する。
しかし、べジフードの匂い物質を出すトマトは、無害なトマトにとってかわったはずだった。畑を調べると、銃で撃たれたトマトの周辺は特に匂いが濃密だった。ニコラは、べジフードのトマトと新しいトマトは匂い物質で危機を共有、新しいトマトも匂い物質を出すようになったのだと確信する。
畑に入ったニコラは根に足を取られる。見れば根は繋がり、中央の最も古いトマトの苗木に接続している。撃たれて落ちたトマトを集めてソースをつくると、懐かしいマンマの味がした。
ニコラは悟る。トマトは根をネットワークにして集合知を獲得し、記憶や情報を共有する。そして栄養を取る根は人間の舌にも該当する。トマトは豊かな土を提供してくれたニコラ一家の匂いを覚え、美味しい実を提供していた。
ニコラは最も古いトマトの根の一部を持ち帰り、教授の形見のマグカップで鉢植えにする。
文字数:1198
内容に関するアピール
植物は個を超えた知性を持ち、人とは違う感覚を持つという話を聞き、今回の梗概を考えました。植物は料理される側ですが、彼らは体がモジュール構造なので、多少切られても生存に支障はありません。ニコラのトマトは、実を取る相手と有益な関係を結びたいと考えています。
トマトは虫に食べられると、大量の匂い微粒子を出して警告を出し、虫に抵抗性を持つ化合物をつくって虫の生育を妨げるそうです。ニコラのトマトはマフィアを害虫=敵とみなし、大量の匂い物質で酩酊させます。トマトが根っこで記憶や情報を共有する部分は、シナプスやインターネットを想定していますが、それだと人間寄りになるので、何か全く別のモデルも考えられたらと思っています。
最後に出てくるトマトソースは、屋外の石窯で焼いたピザやパスタのソースとして使います。ニコラたちが、自分を救ってくれたトマトに囲まれて青空の下で食事するシーンを書きたいと思います。
文字数:394
追憶の味を求めて
0.
小学校の昼休み、真昼の太陽光を浴びながら、ニコラは畦道を歩いていた。
弁当持参の級友もいたが、ニコラは家に帰ってマンマのランチを食べるのが習慣だった。その日の朝の光景を思い返す。台所の奥で、マンマが赤いソースがたっぷり入ったガラス瓶を取り出していた。人数が多い時、マンマは庭の石窯を使ってピザを焼いてくれる。太陽光をたっぷり浴びて育ったトマトを煮詰めたマンマのソースは、濃い甘みとほどよい酸味がある。その素朴な味わいは、さまざまな料理に合うのだ。
考えているだけで唾がわいてくる。ニコラの足の運びが早くなった。しかし家に近づくにつれ、海風がいつもと違うにおいを運んでくることに気づいた。何かが燃えるにおい。料理の焦げや薪とは違う、不快な臭気。それが自分の家の方向から来ると気づいて走り出した。
家と畑を見渡すことができる地点まで来て呆然とした。家が燃え、煙がもうもうと上がっている。畑も燃えさかり、石で強固に守られた部分だけが原型をとどめている。そこはニコラの地方の風習で、畑で最も古参の苗木を残し続けておくための場所だ。
道の向こうから人影が見える。ニコラの家族と親交のある農家、ルーボ家の夫婦だ。夫妻はニコラを全身で抱きとめ、なおも駆け出そうとする彼を止めた。
「今行っちゃだめだ。パオロ一家が来てる。俺たちと一緒にいろ」
ルーボ家の夫、マテオは首を振って告げた。
パオロ一家。子供のニコラには詳しいことは分からない。しかし以前、パオロと呼ばれるがらの悪い連中が来た時、父と激しい罵り合いになった。以来父が複数の銃を購入し、農地の見張りを強化したことも知っている。
マテオの妻、ジェシカも畳みかける。
「あなたのお母さんに頼まれていた。こういうことがあったら、あなたをかくまってほしいと」
彼女の言葉にニコラは、家に帰る、と叫ぼうとした。するとマテオはニコラの口をふさいで囁いた。
「君の母さんの願いを無駄にする気か。みんな死んだ。もう何もない」
言葉を聞いて、ニコラは全身の力が抜けた。マテオが彼を抱きかかえ、ジェシカと共に歩き始めた。ニコラの家とは逆方向に。
1.
カリフォルニアの眩しい太陽は、植物にとって恵みの光である。ニコラは広大な温室を見渡して微笑んだ。
この大学が所持する温室は、アメリカでも随一の設備と歴史を誇る年代物だ。建物の構想は、アマゾン熱帯雨林で発見された巨大な水生植物、オオオニバスの放射状構造を利用したもので、ガラスと鉄骨からなるモジュール構造になっている。モジュールを増やすことで無限に拡大できるつくりは、身体が同じユニットの繰り返しでできている植物のあり方に倣ったものだ。建物自体はかなり古いが、内部管理は最新のシステムを採用しており、先端技術とレガシーの建物が混じり合う、キメラのような空間になっている。
ニコラが管理しているのはトマトのゾーンだ。トマトは簡単に育つと思われがちだが、実は立ち枯れ病になりやすく、たっぷりの日光が必要で、ちゃんと育てないとおいしい実は収穫できないという、繊細な植物である。
ニコラのトマトは順調に育ち、黒土の上に緑色の葉から赤や黄色の玉が垂れ下がっているさまは圧巻だ。ニコラは実を口にふくんでみた。甘さと酸味が押し寄せ、種の周りのジューシーな部分がぷちぷちと弾ける。
ポケットのスマホが鳴った。見ればニコラの専任教授、ヤンセン教授からの呼び出しだ。ニコラは口の中の実を飲み下し、温室を後にした。
教授の研究室はひどく散らかっていた。書類の隙間から広い書斎机が見える。奥にはひげもじゃの顔があった。白髪に白い髪、赤い頬がトマトに似ており、ニックネームがサンタクロースのヤンセン教授は、実は植物学の世界的な権威である。
「つまみ食いしたな」
教授の言葉に、ニコラはネルシャツの袖で口を拭う。
「すみません」
二人はこのカリフォルニア大学で共同研究を行っている。目下取り組んでいるのは、トマトが出す揮発性有機化合物・BVOC(Biogenic Volatile Organic Compounds)で、人間寄りに言えばにおい物質の研究だ。
VOCは大気で気体となる有機化合物のことで、例えば特有のにおいで頭痛やアレルギーを引き起こす、シンナー含有のトルエンが挙げられる。BVOCは植物が出す有機化合物を指し、そのにおい微粒子によって植物たちは情報を獲得している。
その日の教授の用事は、ニコラの院生論文に関するものだった。教授は修正点とアドバイスを一通り伝えると、思い出したように付け加えた。
「研究途中のトマトを食べたりすると、君にも影響があるかもしれない」
「トマトに眠り薬か、毒でも仕込みましたか?」
教授ならやりかねない。ニコラは当惑気味に尋ねた。
「トマトは君を敵だと認識したら、倒す方法を画策するぞ。BVOCが濃くなっていたら要注意だ」
冗談のような口調の中、教授はふと真面目な表情を浮かべる。
「今は刺激を与えた時だけ調査している。彼らの行動を全てカバーしているとは言えない」
「雑談して情報交換してるとでも言うんですか、今の僕たちみたいに」
ニコラにの質問に、教授は、
「そうかもしれない。植物は動かない分、常時コミュニケーションが可能だ。我々よりずっと豊かで洗練された情報交換ができるだろう」
そう告げると目を細めた。ニコラは一礼し、研究室を後にした。
大学で一通りの作業を終えると、ニコラは家路についた。トマトの入ったかごをダイニングテーブルに置くと、鍋にたっぷりと水を入れた。トマトは大学の温室でもらってきたものだ。ざっと洗って皮ごと刻め、火にかけて柔らかくして攪拌する。にんにくを潰してオリーブオイルを入れて炒め、液状になったトマトを入れて出来上がり。
茹で上がったアルデンテのパスタを白い皿に盛り、赤いソースの上にパルメザンチーズを削り落とす。チーズはソースが見えなくなるくらいたっぷりかけるのがニコラの好みだった。その赤と黄色の塊を口に運ぶ。パスタの塩気にトマトの酸味がまじりあい、チーズのこくが全体の味をまろやかにする。
パスタを堪能しながら、ニコラはどこかで物足りなさを感じていた。故郷で家族を惨殺され、親戚を頼ってアメリカに渡ったニコラが苦労して学び、農学部に入ったきっかけの一つは、マンマのトマトソースが忘れられなかったからだ。結果、料理が趣味になり、実家でつくっていたトマトを研究対象にするようになった。しかしその味は、未だに再現できていない。
ニコラはソースのこびりついた白い皿を見つめながら、今も鼻梁と舌先に残滓を感じるマンマの味を思い起こしていた。
2.
ニコラはトマトを害虫に襲わせ、どのようにBVOCを共有するのか観察した。計測は、空気中の成分を瞬時に測ることができる大学特性の計測器を使用した。トマトは葉を害虫に食べられると、数メートル離れた場所からも感知できるBVOCを出して周囲の仲間に知らせる。そのBVOCにさらされた害虫の幼生は死亡率が高まるのだ。また、害虫に襲われたトマトのBVOCを取り込むことで、葉の糖を毒につくりかえていたケースもある。トマトは言語によらずに自在に化学物質を生成、情報を伝達し、さまざまな方法で身を守っているのだ。
ニコラと教授は研究に没頭した。とりわけ教授はトマトのコミュニケーションに魅了され、BVOC以外でも情報共有しているのではないかと語った。脳に損傷があると死に至るように、動物は身体の部位に序列があるが、植物の部位はほぼ並列で、体の大部分を奪われても生きていける。ならば植物は部位によって異なる方法で、他の個体と関われるのではないかというのが教授の仮説だった。
そんなある日、農業系の巨大企業であるベジフードが研究提携を申し出てきた。
「共同研究ってことは、資金提供してくれるってことですよね。これで研究費を気にしなくて済みますね」
手放しで喜ぶ二コラに、教授は重い口調で言った。
「ベジフードは遺伝子組み換え作物で有名になった会社だよ」
「僕たちの研究は品種改良で、遺伝子組み換えではありません。品種改良は偶然に頼る分時間がかかるけど、それは了承済なので、こちらは成果を共有すればいいのでは」
ニコラの言葉に、教授はしばし黙ると、考えながら言った。
「研究が間違った方向に使われないか、気をつけてほしい」
ベジフードと提携するようになっても、ニコラたちの研究内容は変わらなかった。そんなある日、四六時中大学にいた教授が、定時に帰宅するようになった。ニコラが問うと、教授は首を横に振って言った。
「家の近くに温室を借りたんだ。植物たちのBVOC以外の情報交換の方法について、もっと探りたくてね」
「それなら大学に申請すればいいのでは」
ニコラの素朴な問いに、教授は首を横に振った。
「大学には聞いてみたよ。植物が集合知を持っていて、全身でコミュニケーションを取っているなど、ばかげた発想だと言われた」
「まあ、共有されづらい発想かもしれませんね」
苦笑するニコラに、教授は溜息をついた。
「植物の中には、他の植物に根が触れると、相手のDNAを奪って変異するものもいる。それを例に出したが、コミュニケーションとはいえないと言われたよ」
ベジフード側の人間は研究に参加せず、研究成果を確認しに来るだけだった。ニコラがトマトの出すBVOCの種類や範囲、対象とする害虫の範囲を報告すると、満足した様子で帰っていった。そんなある日、ベジフード側が研究の条件を提示してきた。トマトの品種を制限し、効果のある害虫も特定してほしいとのことだった。
教授とニコラが、ベジフードにリスト化されたトマトの種類を見た時、ニコラはチェリートマトの一種、ダッテリーニの赤を扱いたいと告げた。理由を尋ねる教授にニコラは、
「実家がトマト農家で、ダッテリーニを栽培していたんです」
と述べた。
「そうか、君は農家出身だと言っていたね。ご実家には戻っているのか?」
教授の言葉に、ニコラは首を横に振った。
「実家はシチリア島にあったのですが、家族は土地の保護料がらみで殺されました」
しばし沈黙した後、教授は呟くように言う。
「シチリア島は、家庭菜園でもマフィアに保護料を要求されることがあると聞いた。大きいマフィアの集団がいて、確かコーサ・ノストラと呼ばれていたか」
「シチリア島は昔から、中間借地人と盗賊がぐるになってマフィアになっている歴史があります。戦争やファシズムに抑圧されても、その組織は残りました。マフィアを仮に犯罪組織と定義すると、コーサ・ノストラはマフィアの一機構です」
さまざまな民族が訪れるシチリア島の島民は、頼れるものは自分たちだけだという感覚を持つようになり、よそ者を拒否する態度を身につけた。そんな中、マフィアは島独自の統治者として機能するようになり、かつては島の秩序を調整する役割も持っていた。そして昔の権力は、今も消えずに残っている。
「コーサ・ノストラは有名だな」
「彼らは一定の歴史があり、厳密な規則がある集団です。実家を襲ったのは、コーサ・ノストラを追い出されたはみ出し者、スチッダというマフィア機構の一派だったと聞きました」
昔は、あの事件について考えると、悲しみや怒りが押し寄せた。成長するにつれ、その記憶は自分の感情をどす黒いものにすると気づき、思い出すときは単なる出来事として考えるように努めた。
「そうか。しかしダッテリーニを使うと、昔のことを思い出してしまうんじゃないか?」
「いえ。僕はダッテリーニを通して、過去と冷静に向き合える気がします」
ニコラのその言葉に、教授は深く頷いた。
ベジフードの依頼は、害虫と敵対植物に強いダッテリーニの栽培だった。ニコラと教授はトマトの敵であるガを対象にした。するとトマトは、ガの幼虫に葉を食べられた後にたくさんのBVOCを出し、においにさらされたトマトの葉の一部は、糖を毒性のあるアルカロイドにつくりかえていた。葉を食べた幼虫は、ほとんど死んでいた。ニコラと教授は、特に強いBVOCを出す苗木と、幼虫を大量に殺す葉をつけた苗木を集めて交配し、蛾への耐性を強めた。
またニコラと教授は、ダッテリーニの近くにわざと他のナス科の雑草や数種のキクやエンドウなどを一緒に植え、それらに負けないトマトを調べた。結果、大きな実をつけたトマトの中で、他の植物の成長を抑えるアレロケミカルを根から出しているものが見つかった。
教授とニコラは、強いBVOCを出すトマト、大量のアルカロイドを出すトマト、アレロケミカルを出すトマトを集め、全ての要素を備えたトマトをつくろうと試みた。結果、害虫を殺し、他の植物を寄せ付けないトマトが出来上がった。ニコラたちの研究成果を耳にしたベジフードは喜び、その防虫トマトの苗木が欲しいと言った。
「データは既にお送りしましたが」
ニコラが言うと、スーツを姿が板についたベジフードの職員が言った。
「記録もいただきますが、実物は絶対にサンプルとして必要なのです」
ニコラは苗木の一部を提供したが、妙に強引でしつこい態度が気にかかったので教授に報告した。教授は少し考え、やがてニコラに告げた。
「気になるなら、ベジフードに見学に行ってはどうだね」
「警戒されないですかね」
二人はベジフードに招かれて社屋に入ったことがあった。幾つものセキュリティゲートと消毒を経て見る植物たちは、まるでつくりもののように見えたし、人の気配のない温室は映画のセットのように現実感がなかった。
「普通に訪問しても、見せていい部分しか見せないだろうしな」
教授の言葉に、ニコラは少し考えた。
「入る方法を練ってみます」
ニコラは自分の身は自分で守らねばと気を引き締めた。その日は新しいダッテリーニを持ち帰り、トマトソースをつくってリゾットにした。玉ねぎとニンニクに生米を加えて炒め、トマトソースに牛乳を加えたリゾットは濃厚で空腹は満たされたが、マンマの味は再現できなかった。
ニコラが思いついたのは、背格好が似た後輩に頼み込み、インターンとしてベジフードに潜りこむという方法だった。後輩は、会社の雰囲気を知りたい、というニコラの弁を疑わずに快諾してくれた。
潜入当日、ニコラは自分の茶色の髪を後輩の髪に似せて黒く染め、黒縁の眼鏡をかけた。
そして他のインターン生にまぎれながら見学し、説明を受けている途中でトイレに行った。スーツを脱いで隠し、清掃業者の服に着替える。予めベジフードがどの清掃業者に依頼しているか調べ、そこの制服に似た服を入手していたのだ。もしもスーツ姿で見つかったら迷ったふりをし、業者の姿で見とがめられたらとぼけるつもりだった。
なるべく人に会わないようにしながらトマトの研究棟へ向かう。ニコラは業者用の入り口から温室へ入った。トマトは頻繁に入れ替えられているようで、水耕栽培用の透明なジェルだけが置かれている箇所が多い。
少し離れたガラスケースに、一つだけぽつんと置かれている苗木があった。ダッテリーニのトマトがぶら下がっており、苗木のかたちに見覚えがある。ニコラたちのトマトだ。ケースの文字を確認すると、「ゲノム解読中」と記載されていた。
隣のケースを見てみた。苗木にはそれぞれ番号がついているから、データベース上でそれを参照すれば、ゲノムの情報が分かるのだろう。最近ベジフードが新しい品種として売り出したもののようで、それは「ゲノム解読済」と記載されていた。ゲノムが解読された日付は、品種を発表する数か月前だった。
確かその品種は、遺伝子組み換えではなく、品種改良という形で生み出されていたトマトである。それなのに、ゲノムを解読する必要があるのだろうか? それも品種改良種として発表する前に?
その時、足音が聞こえてくるように感じた。恐らく人が近くまで来ている。潮時だと思い、ニコラはトマトのブースを後にした。服を着替え、来客棟で待っていると、インターン生の集団がやってきた。ニコラは何食わぬ顔をして交じり、無事ベジフードを脱出した。
翌日ニコラは教授に会い、ベジフードで目にした光景と推測を述べた。
「多分ベジフードは、遺伝子組み換えでモデルになる種をつくってから、品種改良でその種と同じものをつくっています」
教授はしばらく黙った後、小さく呟いた。
「手間のかかることを。確かに、我々の品種改良の方法だと、親の遺伝子をランダムに受け継ぐから時間はかかる。目的が分かっているのなら、先に遺伝子組み換えでつくってから、それに品種改良から近づけていった方が、効率がいいってことか」
「そうですね。僕たちのトマトを持っていったのも、それで説明がつきます。遺伝子組み換え作物というより、品種改良種だと言った方がイメージがいいですからね」
「邪道だが、法を侵しているわけではないし、許容範囲かな」
ここまでは、ベジフードの社屋を出るまでにニコラが推測していた範囲ではあった。しかし家に帰って調べているうちに、別の推測が出てきたのだ。ニコラは考えながら言葉を選んだ。
「そこまでなら、まだいいと思います。でもベジフードは新種の作物をつくってから、その作物専用の農薬を抱き合わせでつくっているんです。例えば昨日見た種は、塩分を含んだ土壌への耐性があり、そこで敵対する微生物を殺す種でしたが、改良種を発表して数か月後、その微生物だけを殺す農薬をつくっていました」
ニコラの説明に、教授は頭をひねる。
「その種が微生物を殺すのなら、農薬は必要ないだろう」
「僕もそう思ったのですが、微生物が植物の出す毒に耐性を持ってしまうようなのです。微生物が耐性を持った後にその種を栽培しようとすると、農薬とセットで買わざると得なくなります」
そこまで説明すると、ニコラは一息つきながら続ける。
「僕たちのあのトマトも、農薬前提で売られるでしょう。害虫の蛾や雑草に耐性ができたら、より強力な農薬を使わせようという魂胆です。しかもベジフードは、農薬が効かない植物の作り方を、遺伝子組み換えで研究しています」
「植物には効かないが、虫や雑草には効く農薬か。我々のトマトの出す物質への耐性ができている虫や雑草なら、ベジフードの農薬を使わざるを得ないということだな。しかし、品種改良はいたちごっこでもある。相手に耐性ができるまでに、違う品種を作るのではどうかね」
教授の提案に、ニコラは首を横に振った。
「ベジフードは提携元を次々に変えています。僕たちの品種は、農薬との抱き合わせに利用されるだけでしょう。後には農薬で汚染された土壌が残るだけです」
その言葉に、教授は断言した。
「分かった。ベジフードとの提携はすぐにやめよう」
ニコラと教授はすぐさま実行に移した。資金源を断たれることになる大学は難色を示したが、ニコラと教授の推測と調査結果を示すと納得した。結果ベジフードとは手を切ったが、教授は大学から、できれば他の会社を探せないかと打診してきた。
ニコラは、倫理的な問題をクリアしており、業績が良い会社に絞って提携先を探した。結果、ベジフードほど実績はないが、近年業績を伸ばしており、地球環境保全に貢献するためのさまざまな挑戦を行っている新興の会社、エバーグリーンが候補に上った。ニコラが話を持ち掛けたところ相手も興味を持ったため、無事に共同研究に至ることとなった。
3.
ベジフードの一件から、ニコラと教授は、トマトが害虫や雑草を攻撃するのではなく、トマト自身が耐性を持つことを目指した。品種はダッテリーニに絞り、それにつく蛾や、同じ環境に生える雑草を調べ上げた。ある時、蛾の幼虫が葉をすべて食べるのではなく、虫食いのようにして別の葉に移ることに着目した。調べると、幼虫が虫食いにした葉は苦み成分を生成していた。つまりその葉はおいしくない味に変容し、身を守っていたのだ。ニコラはそうした葉をつける苗木を集めた。
また教授は、雑草が生えてきた際、有害なアレロケミカルを出していないにも関わらず、優れた実をつける苗木に着目した。雑草に負けない苗木の根を観察すると、相手の草の根の方向に対してさかんに根を延ばしていた。つまりアレロケミカルを出さず、根の力で相手をけん制しているのだ。
ニコラの蛾に強いトマトと、教授の雑草に強いトマトを交配すると、虫に襲われづらく、また雑草とのすみわけを行うことができるダッテリーニができあがった。そのダッテリーニはエバーグリーン社の認めるところになった。ニコラと教授は新種のダッテリーニの中でも収穫量が高い苗木を選別して交配した。その苗木は広く販売され、世界中のさまざまな地域に伝播した。
トマトのニュースを見ていたニコラは、ある時ベジフード関連のニュースが目についた。見れば害虫と雑草を処分するトマトが売り出されるという。
それがイタリアを中心に出荷されるという記事を見て、ニコラの心臓はきゅっとした。あのトマトは自分の故郷、シチリア島に提供される可能性があるのだ。故郷の土地がベジフードの農薬まみれになるのか? それは避けなければならない。
大学で詳しい情報を見たニコラは、懸念が当たっていることを確信した。ベジフードのトマトの苗木は、一部イタリアのシチリア島にも提供されるのだ。ニコラは家に帰ってインターネットを開き、かつて自分を救ってくれたルーボ夫婦をフルネームで検索した。
すると彼らはホームページを開設し、問い合わせ先のメールアドレスも掲載していた。ニコラがそこに連絡すると、喜びのメッセージをくれた。彼らは今、ニコラの家の土地も管理していて、かなり広大な農家らしい。ニコラがベジフードの苗を使っているか教えてほしい、できればビデオ通話で、というと、問題ないという連絡がきた。アカウントを伝えて連絡を取り、モニターを介してマテオとジェシカが挨拶してきた。二人とも歳は重ねているものの、生命力に溢れて若々しい。
「久しぶりですね、マテオ。通話ですみません。ちょっと込み入ってるので、通話の方がいいかと思って」
「ベジフードの新しい苗のことだよね。実はその苗木を使うのは、私たちの意志ではないんだ」
マテオは経緯を話した。シチリア島には昔から農地を管理する中間借地人がいる。彼らは現在、土地の管理はしていないことが多いが、一定の発言権を持っている。マテオたちルーボ家は土地を持っているので小作農ではないが、中間借地人にはあまり歯向かわないようにしている。そして中間借地人は多くの場合、マフィアとつながりがあるか、もしくは本人がマフィアであることも多い。
今回苗木を進めてきたのも中間借地人で、更に彼らはやくざ者のスチッダに苗を勧められていたのだという。そしてそのスチッダとは、ニコラの家を襲撃したパオロ一家だった。
「今回の苗は収穫量が増えると聞いたから、使ってみてもいいかなとは思っていたんだ。だけどそんな裏があるとはね」
マテオの言葉に、先に伝えられて良かったと、ニコラは心から思った。最初のうちは収穫量が上がるだろうが、ベジフードは必ず農薬とセットで買わせようとする。そして一度農薬を使ってしまうと、土壌が汚染され、他の品種は取り入れづらくなるのだ。
「でも、中間借地人が勧めてきたのなら断りづらいのでは?」
ニコラが尋ねると、マテオはしばし考えて言った。
「今の中間借地人は、代替わりしたばかりで、そんなに頭が固くない。お前の新しい苗木を使ってみて、実際に収穫量が上がれば受け入れるだろう」
「でもスチッダは?」
「見た目も味も同じダッテリーニだろう? いったん実績を作ってから、中間借地人に事実を言えばいい。ベジフードの苗木だと土壌汚染される可能性が高かったと言えば、向こうもいい判断だったと思うだろう。その時はニコラ、お前に口添えを頼むしれない」
ニコラは二つ返事でOKした。そして教授に、故郷へ苗木を提供したいと相談した。すると教授は、シチリア島での収穫実験ということにして、エバーグリーン社との共同研究の一環にすることを提案してくれた。エバーグリーン社に申請したところ、トマトの本場イタリアであえば問題ない、ということだった。
こうしてマテオの農家には、無料で苗が提供され、新しいダッテリーニが栽培されることになった。後日マテオは、既に植えられていたベジフードの苗は掘り起こし、エバーグリーン社の新しいダッテリーニの苗を植えたと報告してきた。
マテオはその後も、新しい苗は問題なくすくすくと育っていると連絡をくれた。そして収穫の時を迎えると、昨年までとは比較にならないほどの収穫量で、なおかつ味もよいという結果だった。ニコラは安堵し、喜ばしく思った。
マテオは、新しい中間借地人のジョセフに、収穫が倍増した旨報告したそうだ。するとジョセフは喜び、今後は自費で購入してもいいから新しいダッテリーニを使うように伝えてきたとのことだ。ニコラはチャンスだと思った。マテオにジョセフとのビデオ会議の機会を設けてもらい、ジョセフに対してベジフードと、ベジフードの悪辣な戦略、またその苗木を使おうとしているスチッダの癒着に関して説明した。
「スチッダはベジフードから資金提供を受けているのではありませんか?」
ニコラが尋ねると、眼光鋭く体格のいいジョセフは唸った。
「その可能性が強い。私は収穫量が上がると聞いていたが、スチッダのパオロ一家がトマトに詳しいとも思えないからな」
「スチッダが先代にトマトを薦められた時は、収穫量の話しかなかったんでしょうね」
ニコラの言葉に、ジョセフは怒りの色を見せて言った。
「土壌汚染は、我々中間借地人にとっても大きな損失だ。虫や雑草は都度追い払えばいいが、土は一度汚れたら使えなくなる。危ないところだった」
こうしてニコラの家の仇であり、またマテオにベジフードのトマトを導入させようとしていたパオロ一家はジョセフの信用を失い、中間借地人という大きな後ろ盾をなくしたのだった。
エバーグリーン社との共同研究も安定し、新しい研究テーマも探そうと思っていたある日、教授が大学に来なかった。教授は遅刻は多いものの、トマトを見に来ない日はなかった。連絡してみたが電話に出ない。おかしいと思ったニコラが教授の家に直接連絡すると、教授の夫人という女性が出て、旦那は大学に行っていると思っていた、家にはいないと言って当惑している。
嫌な予感がした。ニコラは教授が以前、家の近くに温室を借りていると言っていたのを思い出した。該当する温室は一つしかない。以前聞いた特徴を頼りに、教授の区画と思しき場所を訪問してみると、扉が開きっぱなしになっている。中に入ってみると教授が倒れていた。
その後のことは、あまり覚えていない。トマトの苗木の間に横たわる教授の頭。救急車を呼んだが、その時点ではもうだめだということは分かっている。病院で取り乱す教授の家族。大学でも騒ぎになった。ニコラと教授で進めていた共同研究は、ニコラ一人で担当しなければならなくなった。エバーグリーン社は斟酌してくれたが、論文発表や学会への提出物の締め切りは待ってくれない。
嵐のような日々が過ぎ去ってから、教授夫人であるマリエ・ヤンセンから連絡がきた。聞けば教授の家にある研究成果を、しかるべき場所に納めてほしいのだという。教授の研究成果を闇に葬るわけにはいかない。ニコラは教授の家に赴いた。
夫人のマリエはニコラを教授の書斎へ通してくれた。そこは研究室と同様にひどく散らかっていて、机の上には書類の山がうずたかく積まれている。マリエによれば、教授は仕事とプライベートのパソコンを分けており、ニコラには仕事用の方を見てほしいという。ログインを試みたところ、IDはデフォルトで入っていたが、パスワードの手がかりはない。試しに「tomato」と入れたら通った。
教授はかなり前からそのパソコンを使っていたようで、OSはかなり昔にサポート切れになっており、入っているソフトウェアは見たことがないようなものばかりだった。パソコンの中身は書斎と同様に散らかっており、デスクトップに多種多様なファイルが散らばっている。ニコラはテキストデータや画像データ、数式のデータは種類で分けて日付でソートし、近年のものしか見ないことにした。そして近年のものの中でも、気をひくタイトルや単語が入っている論文だけを開いていくことにした。
ニコラはその中で「植物の知」なるファイルを見つけた。開くと文字数からすれば、論文というよりメモ書きの類のようである。中には今まで教授がはしばしで語ってきたことが書き連ねられていた。
植物が集合知を持ち、人には想像もつかない形でコミュニケーションを取っているという教授の主張に関し、近年のニコラも共感するようになっていた。
害虫や雑草に対するBVOCは人間にとってはにおいに該当するし、呼吸に使われる気孔は人間の口や唇の形にそっくりだ。葉や茎にある光受容体は目に近い機能といえる。嗅覚や視覚や触覚など、人間に近い感覚に当てはめることは難しくない。
そしてメモを見る限り、教授はもっと先、植物ならではのコミュニケーションの方法を追い求めていたようだ。人間には不可能な、植物ならではのやりとりなどあるのだろうか。ニコラは、そんなものがあるのなら、是非突き止めたいと思った。
4.
教授を殺した犯人の手がかりはないまま時が過ぎた。警察によれば指紋も残っていないし、証拠になるものがないとのことで、防犯カメラは予め破壊されていた。
教授は数発撃たれており、事故死に見せかけていないので、ベジフードをはじめとする企業の雇った殺し屋の仕業とは考えづらい。そのためニコラは、ベジフードの資金を得られなくなったシチリア島のスチッダのしわざだろうと当たりをつけた。
警察にはそれ以上頼れそうもない。ニコラは聞き込みを行い、数日前から教授の周囲にいたという複数人の男の風貌を聞き、モンタージュで顔をつくりあげてイタリアへ渡った。
ルーボ夫妻に再開するなりニコラは、自分の家族を殺したスチッダであるパオロ一家の写真を見せてほしいと頼み込んだ。ヤンセン教授殺害のニュースはルーボ夫妻の耳にも入っており、二人はニコラが何を決意しているのか予測できているようだった。夫妻はニコラに思いとどまるように告げた。
「復讐なんて負の連鎖だ。教授の件は悔しいだろうが、研究で成果を出せばいい」
「あなたの家族も報復は望んでいないはず」
マテオとジェシカの言葉に、ニコラは首を横に振った。
「研究で成果は出すつもりだった。でも数日前、僕のところにも脅迫が届いた。狩られる前に狩るしかないと思ったんです」
脅迫のメッセージは「これ以上首をつっこむとただではすまない」だった。しかしいったんマフィアに目をつけられた以上、今後は首をつっこまずとも狙われるであろうことは分かっていた。
ルーボ夫妻はその後もずっと説得を続けようとしたが、ニコラは意見を翻すことはなかった。それに結局、ルーボ夫妻の家でパオロ一家の写真を見つけ、モンタージュの人物に似た人間がいることも確認してしまった。ニコラの決意の固さは動かせないと思ったのだろう、マテオはジェシカが席を外している時、黙ってニコラを倉庫に誘導した。そこにはピストルやリボルバー、ライフルやショットガンなどあらゆる種類の銃が並び、まるでガンショップのようだった。
「ずっと物騒だったから、うちも一通りそろえたんだよ」
マテオはそう言いながら、ほっそりとした優美なライフルに触れた。
「本当は使わないのが一番いいんだが、ハンドガンの一つくらいは持っていた方がいい」
マテオは黒い小さなピストルを選び、二コラに使い方を教えてくれた。有毒な農薬やガスを使う可能性もあるということで、顔全体を覆う形の防毒マスクも揃えてくれた。
二人はパオロ一家の人数構成を調べた。父親は既に亡くなっており、母親は荒稼業には参加していない。男三人の兄弟で、スチッダとしてぼそぼそと生計を立てている。いわばマフィアとしては亜流の存在だ。仮にパオロ一家とひと悶着あっても、シチリア島を牛耳るコーサ・ノストラが報復に訪れる可能性はなかった。
マテオによれば、パオロ一家の兄弟は、近隣の大きいバーで保護料を集金しているという。マテオの農園の取り立て日に二人が店に行くと、目当ての三人の男が立ち飲みをしていた。背が低いのが兄のアルベルト、筋骨たくましいのが二番目のマルチェロ、中肉中背で目立たないのが三男のルカだ。マテオが三人に挨拶すると、マルチェロだけがニコラをちらりと見た。
「今期分をいただこうか」
ルカの声に、マテオが首を横に振る。
「今回、あんたたちに渡す金はない」
「どういう意味だ?」
抑揚を抑えたルカの声。
「そのままの意味だ。文句があるなら、来週末にうちの農場に来るんだな」
淡々としたマテオの言葉に、マルチェロがつかみかからんばかりになった。マテオが手を振って続ける。
「おや、いいのか? 向かいに警察がいるよ」
もしもパオロ一家が警察にも顔が利くのであれば、他の方法を探すつもりだった。しかし彼らはそこまでのコネはないようだった。アルベルトは他の2人に目配せすると、ワイングラスをテーブルに置いて言った。
「良い週末を。来週の土曜日はそうはいかないがね」
マテオが頷いて続ける。
「最後に紹介させてくれ。こいつは20年前、あんたたちが火をつけた家の生き残りだ」
ニコラが軽く会釈すると、アルベルトは一瞬目を見開いた。
「そういう家はたくさんある。あいにくだが覚えていない」
そう呟くと、三人が引き揚げていった。
次の日から、ニコラとマテオは準備をした。銃などの武器類の手入れや家屋の管理、倉庫の整理。できればジェシカには安全な場所に移ってほしかったが、彼女は納得しなかった。一緒に戦わないまでも、家に控えていると譲らなかった。
パオロ一家がくる予定の前日、ジェシカは彼女の故郷、トスカーナ地方の郷土料理であるパッパポモドーロをつくってくれた。パッパポモドーロは平たく言えばトマトのパン粥で、硬いバゲットをじっくり煮込む。トマトの酸味と柔らかくなったパンの食感がマッチし、消化が良くてやさしい味わいの料理だが、ニコラは緊張のせいでほとんど味を感じられなかった。
襲撃当日は晴れており、畑はすみずみまで見渡すことができた。パオロの家は高台にあり、周囲の道路や畑も一望できる。家に入るには、畑の脇の階段を使って上がってくる必要がある。家で観察していれば、パオロ一家が襲撃してきても見逃すことはない。ニコラとマテオが武器を揃えて家から見張っていると、黒塗りの車がやってきて畑の前に止まった。ニコラたちは庭に出て襲撃に備えた。トマト畑が揺れ、苗木の間に黒い姿が見え隠れした。
パオロ一家の男たちが発砲する音が聞こえた。のろしのつもりだろうか。ゆったりとのぼる白い煙と共に、ニコラはそれまでの人生を思い返していた。アメリカにいた遠縁の親戚は、ニコラを温かく見守ってくれたし、大学まで通わせてくれた。しかし故郷での出来事は、ニコラの心に癒えない傷として残った。そのうち相性が良いカウンセラーが見つかり、夜中に恐怖で目が覚めることはなくなった。悪い記憶に囚われても生産性はないのだと、自分に言い聞かせることができるようになった。しかしあの日の出来事を忘れたことはない。
マテオも終始無言だった。ニ人は待った。太陽が頭上高く昇り、眩しい昼の光を投げかける。トマトの苗木の揺れはとっくになくなり、人影も見えない。マテオは時計を見た。数時間はたっている。
「どうしたんでしょうね」
ニコラの発言に、マテオも言葉を重ねる。
「遅すぎるな。有毒ガスでも使うのかと思ったが、自分たちがガスでやられたんだろうか」
「でも、周囲のトマトに異常はなさそうですよね」
ニ人は防毒マスクと武器を装着して畑に降り、用心しながら歩いた。トマトが倒れたり、枯れたりしている気配はない。暫く歩くと、かつてニコラの家が管理していた地所に近づいた。すると畦道に、パオロ一家の兄弟が折り重なって倒れている。周囲を見渡すと、赤いものが散らばっている。仲間割れで撃ち合いをしたのかと思ったが、赤いものはトマトの実だった。傷ついているのはトマトだけで、パオロ兄弟たちは血を流している気配がない。念のため空気測定機を確認したが、トマトのBVOCの値は異常に高いものの、有毒ガスの類は出ていないようだ。
ふと、ニコラのつま先がひっかかった。畦道付近に石が積み上げられた場所がある。よく見ようと屈みこむと、柔らかい土に足が取られてふらついた。手を振ってバランスを取ろうとした瞬間、マスクが外れた。むせかえるような濃密な空気。足元の土はそのまま大きく崩れ、体が前のめりになって穴に転がり落ちた。
軽く頭を打ち、朦朧とした意識の中、白く光るものが見えた。縦横無尽に広がるかたち。幼い頃に見た蜘蛛の巣や、カリフォルニアの西海岸を襲う雷を思わせる。大学で見た動物の神経細胞や、宇宙を形成する銀河のネットワーク、コズミックウェブにも近い。そして見慣れているインターネットの広がりをビジュアル化した図にも似ている。さまざまな自然の中で見受けられるかたち。これは地球でみられる根源的な形象、あらゆるもののひな型なのだろうか。
穴の中は、土の籠ったにおいと太陽の温かいにおい、植物の青いにおいがたちこめる。 トマトは地表では、葉から出るBVOCで同時的なコミュニケーションを図る。では地下では?
ニコラの脳裏で、教授のコンピュータに入っていた資料が展開する。教授は植物の集合知を研究していた。では地下で、地表での葉や茎に替わるものは。今見えているものは、根だ。
周囲を見渡した。白い根は互いに触れ合い、あらゆる場所で接点を持つ。どこまでも深く潜ることが可能で、この地球の内部という領域に限って言えば制約はない。地表のコミュニケーションが水平に広がるのだとすれば、地下のコミュニケーションは垂直に伝播する。その垂直性とは。
植物たちが根のネットワークを通して共有しているもの。教授は、植物の中には、他種の植物に根が触れると、相手のDNAを奪って変異するものがあると言った。植物たちが、相手のDNAを奪うのではなく、交換しているのだとすれば。DNAを情報、記憶と解釈したら。植物たちは根で触れ合うことで記憶を共有し、根を残すことで土に記憶を残しているのか?
体が軽くなり、目がくらんだ。眩しい光に耐えて目を凝らすと、マテオがこちらを覗きこんでいる。
「大丈夫か? 有毒ガスか何か、吸ってしまったか?」
「大丈夫です」
二コラの答えに、マテオがためらいながらマスクを外す。マテオは少し鼻を鳴らした後、大きく息を吸い込んだ。
「本当だ。何ともない」
ニコラが計測器を見ると、トマトのBVOCの値は下がり、日常レベルになっている。二人は身を起こし、パオロ一家の兄弟を拘束した。彼らは目を覚まさなかったので、警察に連絡して不法侵入罪として逮捕してもらった。パトカーに乗せられても、三人は目を覚まさないままだった。
数時間後、二人はパオロ兄弟がどうなったのか聞いてみた。警察によれば、三人は目を覚ましても何も覚えていないらしく、記憶障害が起きているようだから病院に回したとのことだった。
「原因は分からないらしい」
警察の言葉に、ニコラとマテオは顔を見合わせた。
「自分がスチッダだったことも、覚えてないんでしょうか」
尋ねるニコラに、警官は頷いた。
「それどころか、互いが兄弟だということも認識できてなかったよ。まあ、読み書きはできていたし、日常生活には支障はないだろう」
自分たちがやったことも覚えていないということか。ニコラは複雑な気持ちになったが、このシチリア島で血縁すら覚えていないのであれば、悪事を働くこともできない。ならばそれでいいのかもしれないと思った。
ニコラはマテオの家に戻り、トマト畑に入った。落ちた穴を確認しておきたかった。よく見ると、穴の周辺にあった石の辺りには見覚えがある。そこはニコラの地方の風習で、最も古い苗木を残し続けておく場所だった。穴の中の根は、ニコラの家に代々伝わる古参のトマトのものということだ。
畦道を見るとトマトが転がっていた。パオロ兄弟に撃たれたものだろう。ニコラがそれらを拾い上げて戻ると、マテオは、今回の被害者はそいつらだな、と言って笑った。ジェシカは、土まみれのトマトをまとめてソースにしてくれた。三人は庭にテーブルを出し、青空の下で食事をした。
石窯で焼いたピザは、トマトソースとモッツァレラチーズ、庭先で摘んだバジルをのせてマルゲリータにする。パスタはトマトソースにパルメザンチーズをたっぷりとかけた。ピザのかりっとした触感と、パスタのもちもちした触感がたまらない。甘みと酸味、それに香味が豊かに広がる。ソースを口に含むと、青空の中野太陽のようなあたたかい味と、舌がしびれるような感覚を覚えた。この味を覚えている。どうしても再現できなかった、マンマがつくるトマトソースの味だ。鼻がつんとして、目頭が熱くなる。涙をこぼすまいと、ニコラは上を向いた。マテオとジェシカを心配させたくなかった。
素晴らしい食事を終え、マテオは片づけながらニコラに尋ねた。
「パオロたちが倒れたのは、なぜだと思う?」
「トマトのBVOCでしょうね。他に説明できる要素がない」
ニコラの言葉に、マテオも呟く。
「BVOCは、人間にとってのにおい物質だったよな。俺たちは慣れてたけど、パオロ一家はトマト畑を手入れすることなんてない。免疫がなかったんだろうが、記憶が飛ぶほどショックを受けるとはな」
ニコラは一応頷いたが、一方で別のことに気を取られていた。パオロ兄弟が倒れていた時、確かにBVOCの値は異常だった。そしてBVOCの強度は、ニコラがマテオに提供したトマトではなく、かつてベジフードに提供したトマトと同じか、それを超えるレベルのものだったのだ。トマトは全て、ニコラが提供した新しいトマトに全て切り替わっているはずなのに。
「確かに僕たちは、トマトのBVOCに慣れています。でも、僕たちが畑に入ってすぐに、BVOCが減ったんですよね」
ニコラたちが畑に入ってすぐにBVOCは正常値になった。パオロ一家がいた時のBVOCのある成分は、既に拡散していた可能性がある。もしかするとその成分に、記憶を攪乱する作用が含まれていた可能性がある。
「じゃあ何だろう、トマトたちは自分の実を打ったパオロ一家は敵だと認識して、俺たちは味方だと分かったのか?」
冗談めかしたマテオの言に、ニコラも笑みを浮かべた。
そう、きっとトマトは分かっていたのだ、パオロ一家が敵だということを。短絡的な彼らの行為が、将来の土壌汚染につながる可能性があることすら感知していたのかもしれない。トマトはBVOC、におい物質で識別する。普段から世話してくれるマテオと、かつてこの場所に住んでいたニコラのことを識別していたのだ。ベジフードのトマトは、根こそぎ抜かれたと思っていたが、その根は残っており、新しいトマトと情報を共有していた。
「そうかもしれない。ところで、ジェシカさんがつくってくれたトマトソースは、昔僕が家で食べたソースと同じ味がしました」
ニコラは言った。植物にとって、栄養を取る根は舌に該当する。トマトはニコラのことを覚えていて、根に残る追憶の味を再現してくれたのだ。
「昔の苗木が残っているっていうのか? 品種は入れ替えていると思うけど」
ニコラはそれには答えず、パオロに尋ねた。
「僕が穴に落ちたところの辺り、石垣みたいなのがあったの、覚えてますか? あの辺りは手を入れてますか」
「石垣? ああ、古い苗木を残しておくところだと思って、あまり触らないようにしていた。石垣はぼろぼろになって危ないから撤去したけれど」
あの辺りの根は、ニコラが生まれるずっと前から生きている。動かないで生き残ることを選択した植物は、根を地中に張り巡らせる戦略を取った。古い根は土に残り、次の世代に情報を継承していく。その情報は、植物たちの記憶は、土や根を通して経由されるのだ。
ニコラはジェシカにトマトソースのレシピを確認した。想像通り、原料のトマトと基本的な調味料しか使っていなかった。ニコラは出発の日、落ちた穴の付近の根の一部をビニール袋に入れて持ち帰った。
カリフォルニアに戻ったニコラは、教授の妻に許可を取り、かつての教授の温室に入った。そこで土を採取し、教授が研究室に残していたマグカップに入れ、イタリアから持ってきたトマトの根を植えた。
ニコラ一家の歴史を引き受ける根は、教授の温室の土の中で、どのように育つのだろう。ニコラの家の味は引き継ぐのだろうか。大量のBVOCを出すのだろうか。そして、全身で、教授が追い求めた集合知を形成するのだろうか。
ニコラは、植物の情報、記憶、そしてそれらを発展させた、人の言葉で言えば知といいうるものは、植物特有の形で、土を介して引き継がれるのだと確信していた。今後、さまざまな土、さまざまなトマト、さまざまな植物で試してみるつもりだった。それは教授へのはなむけになるだろう。
ニコラはマグカップをいったん家の台所に置くと、研究室から摘んできたダッテリーニを鍋に入れ、新しいトマトソースをつくりはじめた。
<了>
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