偽景
# 1
屍体のような青白い手を目端に捉えた気がして、はっと慌てて振り返ってみれば、遠くに見えるはあたり一面、ドナルド・マクドナルドが繁茂している光景だった。
能動素子の土壌に繁るそれらの構造体は、普通の街角で見かけるのとは大きく異なり、その形態はさまざまだ。何メートルもある巨大なやつ、頭から逆立ちしながら生えているやつ、手が四本もあるやつ、中には、ぐるぐる顔を回転させているのまである。本来なら、世界中のどんな都市でもまったく同じ姿のはずの有名フードチェーンのピエロは、ここ、偽景――東京の月島では、多方面への分岐を試みつつ、来るはずもない客を待ち構えながら、多種多様な、真っ赤な唇で笑みを辺りに散らしている。
「やっぱし違ったか」と、私はつい溢す。またいつもと同じ見間違え。いつもと同じような、陰鬱な気持ちが襲ってくる。
「ん、環ちゃん、なんか言った?」
なにかの異変かと思ったのか、業務連絡用のチャネルを通して七瀬がそう言ってくる。相棒が、偽景の外からここまで繋げてくれている有線ケーブルを介しての通信。特段ノイズは乗って無いから、断線の心配はないだろう。
「ああ、いや、ここまでめちゃくちゃだと、なんか一周回って笑えてきちゃうなって」
私はつい誤魔化して返す。東京湾の方から、潮の匂いを漂わせた風がビュオッと吹き付け、弊社謹製の防護服の合間を通り抜けていく、やや生臭いが、蒸し暑い空気が一掃されて気持ちが良い。そのせいで少しずれたフードの位置を調整しつつ、その内部に埋め込まれたマイクを通し、「シュール過ぎて」と付け加える。
「いやいや、環ちゃん、いくらなんでもここまでシュールだと、もはやホラーよ。一週間はバーガー食べる気も起きなさそう」
「そっすか。でも、珍しいんで、サンプルとして回収しておきますね」そう言ってから、通信を一旦切る。
私はくすんだ灰色の、まだ未分化の素子で堆積している上をざくざくと歩き、遠くに見える、そのドナルドの群れにちょっとずつ近づいていく。まだ残暑が残る九月なのに、汚れた雪原の上を歩いているようなこの状況は、この狂った情景に、より一層の拍車をかけてくる。
近くを見渡せば、教会を模した背丈ほどの白い壁面、その表面を覆うようにびっちりと、まるで魚の鱗のような微細な瓦の集合体がぬらぬら、夏空の青を散乱させて輝いている。少し遠くを見ると、文字化けで意味の揮発した、巨大な紫色の交通標識が目に入る。東京のどこかに実在するかのようで、実際にはどこにも存在しない構造体が辺り一面、未曾有に湧き出す景色。しかし、どれも巷に見えるものとは違って、その色も大きさも、てんでバラバラ、雑多なことこの上ない。
辺り一帯のどの建物――構造体にも、普通の構造物のような、直線的で単純な幾何はほぼ存在してしない。うねうねと波打つ形状が何重にも重なり合った石板や、不細工に折れ曲がりながら成長を続ける鳥居の支柱など、どれも生まれた場に適応しようと、必死に試行錯誤を繰り返している。構造体の内なる作用と、それら囲う環境とがせめぎ合う中で、結果として生まれる形象だ。
それらの構造体が、まるで波止場に打ち寄せたゴミ屑ようにぐしゃぐしゃに澱固まって、起伏のある地形を織り成している。過去に何度も警察から逃げおおせた私の自慢の健脚でも、移動するには結構な負担がかかる。防護服の中はちゃんと温度調整が効いているはずなのに、背中から汗が滲んで、皮膚を伝っていく感触がこそばゆい。
元々、月島というこの土地自体も明治の初めに埋め立てによって作られた島だという。けれどまさか、さらにその上に、人のコントロールを離れた人工物の楽園が築かれるなんて、いったい誰が予期できただろう。
2040年の今現在。この人工島は、構造体が生み出す怪物的な迫力、祝祭的な雰囲気を伴う滑稽さ、それらを誘う自生的な秩序で支配されている。
そんなことをぼんやりと思いつつ、ふと足元を見下ろすと、素子の隙間から這い出ている雑草が目に入る。
「この辺に生えている植物も、たしかどっかからの採取依頼、来てましたよね」毟って目線の高さまで持ち上げ、オクトの眼に向ける。
「そうそう。それも回収よろです。十年間で偽景に生えた植物に、いったいどれくらいの差異が生まれているのか、どっかの大学が調べたいんだって」
「ういっす」
サンプル回収用のプラスチック容器にその植物を入れ、横で待機するオクトの背中に無理くりに捩じ込む。既に他のサンプルでみちみちだ。
私をアシストしてくれる災害用八脚式移動型運送機、長いから通称八本脚ちゃん。今は運搬モードの状態で、中心の八辺それぞれから伸びている脚の、その内四本を上に向け、私の代わって荷物を固定し運搬中。残った四本脚で、てこてこ懸命に私の後を追ってくるその姿は、なんだかとても可愛いげだ。彼は、自衛隊の使用していたモノを七瀬が安く買い取って、なんとか使えるように改造した、うちの三番目の社員。ところどころ塗装が剥げた胴体には、会社のロゴである、二重の円の真ん中に『P.A』と描かれた円形ステッカーを貼っている。
そのオクトのお尻に付いているふたつのリールの内、ちっちゃめな方から伸びてるケーブルは、私の着ている防護服と接続されてて、さらに大きめの方からのケーブルは、私が辿った道をずっと伝って、偽景の外まで繋がっている。
そのように有線で接続しているおかげで、島一帯、電波遮断が行われている偽景の中でも、オフィスにいる七瀬と綿密に連携を取りながら、作業ができているわけだ。炭素繊維で補強された強靭なそのケーブルは、同時に私が無事に帰るための命綱でもある。なにかの神話にあったような、迷宮から戻るための毛糸のようなものだ。
私達の会社、プソイド・アナリティカは、人の制御を離れた能動素子が、活動を続けているこの偽景で、国や研究機関からの委託業務を受託して、さらにそれによって稼いだ資金を元手に、独自に偽景を元に戻すための研究を行っている。
能動素子は、建築の設計から構築までを一気通貫で行える、次世代のコンピューターとして開発された。
傍目には、どう考えても複雑な計算処理など不可能に見える、粘土の塊のようなその物体は、しかし、ある程度の基盤となる量さえあれば、そこから増殖を繰り返しつつ、成長しながら分化していき、物性、色彩、質感……それらを、組み込まれたプログラミングに従って成長させていく。
その機能の中でも特に注目されたのは、増殖過程が人工物にも実装されたことだ。動植物の細胞のように、初期の状態から始まり、分裂を続け、予め組み込まれたされたプログラムに従って、適所適所で自分の役割を全うできる形質に分化していき、個別の特性を獲得していく。
だから例えば、『横幅三十cm程度の新宿駅』のような構造体を作りたければ、駅の図面を取り込んでから実行すれば、本物と完全に相似の構造体を簡単に構築できる。さらに『全体の色調を定義した数列パターンに従わせながら、構造を変形させながら素子を増殖させ、十mの人型ロボットに遷移させる』みたいな複雑な変化を求められる挙動も、ちゃんとスクリプトを書けるのならば、原理的には可能だった。
素子は二十年代前半から、その実現可能性が検討され始め、建築、情報、物性、生命科学など、世界中のさまざまな専門分野の者たちが集まったコミュニティが設立され、寄付や公的援助によって開発が進められた。
その組織の成果は凄まじかった。当初は能動素子なんてものは机上の空論として、ほとんどの人が注目していなかったのに、開始から数年の内に革新的な成果が何度も報告され、二十年代も後半になってくると、遂に社会実装につなげるための最終的なフェイズに入りつつあった。そこまでに至ると、実際に人が行き交いをする都市のなかで、能動素子が期待通りに人間の営みと調和するかの大規模実験が急務となり、そのために協力してくれる地域の公募が取り行われた。
そこに手を上げたのが日本、もとい東京都だった。素子の開発に日本勢はほぼ貢献できていなかったから、なんとしてでも切り込みたいという目論見があったのだろう。だから、東京都は再開発が遅々として進んでいなかった、月島、晴海、勝どき一帯を提供したわけだ。ともあれ、能動素子を活用した特区として、東京ほど人口が多い都市での運用事例は未だ嘗て無かったから、その寄与は先鋭的な取り組みとして、世界中からも多くの注目を集めた。
けれど、東京の直下を襲ったその震災により、その全てが崩壊することになる。
人の手で綿密に構築されていた素子同士のつながりが、地震による衝撃のせいで、メチャクチャに絡まり合い、どろどろに溶けたまま増殖をし続け、最終的に一つの巨大な塊となって、島全体を覆い尽くし始めたからだ。
所謂、一般的なコンピューティングシステムならば、たとえバグがあったとしても、その部分だけ修正してから再実行すればよいだけだ。けど、物理的な構成物と、それを動かすプログラミングコードとが一体となった能動素子では、バグが実体を伴って現れる。だから、それを無かったことにするのは極めて困難だった。
高密度に限界まで凝縮された素子の中に刻まれたコードは、地震によって顕在化した綻びのせいで何度もコピーされながらも変異を繰り返し、なお悪いことに、素子のシステムは、そのコードに刻まれた内容に基づいて、変異したその構造データを、現実の世界になんとか実現させようとして、試行錯誤を繰り返し続けた。その過程の中で、無限に等しい組み合わせの反応経路、そのありとあらゆる可能性が探索され、十年間、作っては捨てを繰り返した結果、最初は泥のような素子の塊も、次第に特定の方向性を持ち始めるようになっていった。
月島全体が織りなす自己組織化過程において、素子達は独自の代謝系を確立し、まるで生き物のように成長を続けた。素子達は内部にかろうじて残った構造化データを朧げながらに参照し続け、模倣しつつ、交配と変異を繰り返し、環境によって淘汰されることで、より優位な構造が選択され、月島の上では、まるで進化を早回ししているかのような様相に包まれた。
そして、いつからか、その現象は、”相転移”と呼ばれ、昔は月島と呼ばれたその土地は、”偽景”と呼ばれるようになった。
その中で私は、ずっと彼を探し続けている。
「ふうぅぅ」
荒く息を吐きつつ屈伸し小休止してから、私はまた歩み始める。
斜め45度に伸びる、バスぐらいの大きさの紡錘形の構造体は、新宿のコクーンタワー、その擬態。直上からの熱射を少しでも避けるため、その内部を潜りながら進む、少し足元に目をやると、隙間から溢れる日差しから様々なジオラマのようなビルがまるで土筆のように、ぴょっこりと顔をだして一列に並んでて、それらを足蹴にして破壊する。数十センチのビルやら鉄塔やらを踏んでいると、まるで自分が怪獣にもなったようで、つい夢中になって踏んづけてしまう。
後ろからついてくるオクトも私の真似をするかのように、障壁となる構造体を破壊しながらずんずんと邁進している。彼は元来、救助目的で開発されたから、たとえ中古でもその出力は十分だ。うっかり見誤り、柔い素子の土壌に腰まで埋もれてしまった時に、彼に引き上げてもらったことも何度かある。
そうして、やっとこさ、私は人形たちの群生まで至り、ちっちゃめのドナルド人形をひとつ、毟ってみる。
「随分とこぶりなミスター・ドナルドですね」これではまるで、親指人形だ。
私はちょいちょいと手招きする。と、離れて別の風景を撮っていたオクトが、私のその動作を捉え、返事の代わりにキュイっと一本、脚を上げ、ちょこちょこした動作でこちらに向かってくる。
その人形をよく見ると、腕から更に小さいドナルドが生えている。肉眼では確認できないが、ずっと同じ構造が繰り返されているのかもしれない。ちょっと気持ち悪い。
「相似な構造を再帰的に行うのは、どんなものでも基本の戦略だからね。プログラムも、生体構造でも」七瀬が不意に言う。
「生物……ですか」私はなんとなく、その単語を繰り返してしまう。
手に持ったその小さなドナルドくんに親指で少し力を込めてみる。その質感は乾いた土塊のように柔らかく、すぐぽろぽろと崩れてしまった。慌てて近場に生えてる別のやつを千切り、それもさっきと同じように回収してから、
「ここら一帯の構造体は珍しいですし、今日はここを起点に解析をしませんか」そう、七瀬に提案する。
「そうね。じゃ、こっちも準備する」
「ういっす」
立ち上がり、私の方も準備にかかる。はめた手袋内部に巻かれたコードをギュインと伸ばし、横で身を縮こませているオクトの端子にカチリと差し込む、すると小さな相棒はぱちくり目を覚まし、パシパシとカメラのシャッターを瞬いてから、二本の脚を揚々と掲げた。信号を飛ばして確認した結果、すべての接続に異常なしの印だ。
そのことを確認してから、私は防護服のフードを今一度、きちんと被り直す。グッと目深く押し込むと、蛍光色の青緑で袖口がポワッと灯り、その淡い線が手袋から腕を通って頭頂部まで、まるで樹木のように何本も分岐しながらゾゾッと伸びていく。パーカーの中に埋め込まれた非侵襲型のデバイスが、私の脳とちゃんと接続したことを表すサイン。
そのことを確認してから、「ふう」と一呼吸して、動作チェックがてら、人差し指を偽景の一部をさっと撫でてみる。と、期待通りに指先が光り輝く。
「よし……やりましょう」
私は大きく足を開いて、両指をすべてピンと立て、偽景の構造体の一部に接着させつつ、体重をかけて寄りかかる。今から自分は偽景を翻訳する機械となって、偽景の外へと情報を排出していくんだと、自分に言い聞かせる。
「よし、じゃあ、はじめるよ」
七瀬のその合図と共に、徐々に頭の側面に、ぽわっと熱くなるような感覚が宿る。その後、防護服の上に流れる色が、少しずつ濃くなっていき、呼応するように脳の内部が、更に熱せられてくるように感じる、淀んだ水を濾過していくイメージ、私の頭を介して、偽景を構成している情報が放出されていく。偽景の内部で行うエッジコンピューティング、処理を行うのは、私の脳。
「よし、おっけい!お疲れ様」
暫くして、やっと七瀬から終了の合図が掛かる。それを訊いてすぐに、ぷはっと肺に溜まった空気を一気に放出させる。
後処理を終え、撤退する最後、いつものように、私は小さなスプレー缶をそっとポケットから取り出して、カラカラと軽く振ってから、壁にささっと慣れた手付きで落書きを行う。
それは、たった2単語のメッセージ、was here。
私は、相転移の災害の渦中に、唯一の行方不明者となった、私の弟、恭司の痕跡を見つけるため、三年の間、ずっと偽景での探索を繰り返している。
彼の遺体を、せめて一部でも回収するため、私の犯した罪と決別するために。
# 2
恭司は私のふたつ下で、活発な私と対照的な性格だった。勉強熱心で本をよく読み、私よりもずっといろんな事を知っていて、無口で引っ込み思案、いつもお絵かき帳を持ち歩き、事あるごとに不思議な絵を描いていた。性格は全然違うふたりではあったけれど、それなりに仲の良い姉弟だったんじゃないかと思う。少なくとも私にとっては、たったひとりの、とてもとても可愛い弟だった。
だから、幼い頃は、恭司と一緒にいつもどこへ行くときも、彼の手を握ることを絶対に忘れなかった。彼といつでも一緒に、決して逸れないように。
その彼が、九歳のときに火事に巻き込まれ、殆ど病棟から出れなくなった。だから、私は彼のためにと、近くの月島に恭司をそっと連れだして、事故の以前は彼が大好きだった、動物の剥製や植物の標本を見せてやるために、島の端にあった新国立科学館に連れいった。
その瞬間に起きたのが、大震災、そして、相転移だった。
その混乱の渦中のなかで、私は建物の中で恭司と逸れ、私だけはなんとか脱出できたけど、結局、恭司は見つからなかった。恐らく、彼の身体は偽景の中に取り込まれてしまい、未だに素子の内部を漂流しているのだろう。その死は実体を伴わないまま、ふんわりと書類の上だけに浮いている。
つまり私にとって、彼の死は、未だ現実じゃない。
恭司が死んだ事実をちゃんとこの目で確認しなければ、罪の意識は一生このまま、私の内部で滞留し続けたままだろう。
だから私は中学のときから、何度も何度も、偽景の内部に侵入を試みようと特攻を繰り返したし、当然、そのたびに厳重な警備に見つかって捕まった。
高校に入ってから流石にもうそんな無茶はもうしなくなったけど、恭司がいなくなってからは、あんなに仲が良かった家族の仲もすっかり冷え切ってしまい。それもあって、だいぶ荒れていた私は、スプレー缶を片手に毎夜のように町に飛び出して、街中に雑多な落書きを行うような、そんなわかりやすい非行に走り始めていた。
その際に、私が残すメッセージはたった2つの単語の連なり、was here。私は、ここに居た、見た、探した、つまり巡回済みであることを表すメッセージ。偽景から遠く離れた街の片隅に、恭司が居るなんてありえないのに、ちゃんと恭司を必死に探しているんだ、そう自己弁護をするかのように、高架下、屋上の給水タンク、電車の上、空き家の壁、波止場のコンクリ、誰も見るはずもない、誰も居るはずのないそんな場所に、傍から見れば、意味不明な確認済みの印を、ひたすら市中に散らし続けた。
そんな行いが無意味なんてのは、頭ではちゃんとわかってる。だけど、グラフィティを行う、その瞬間だけは、私を締め上げ続ける力が、ほんのちょっとだけ緩んだ気がして、一時の安心感を得ることができた。そうやって、一生懸命に彼を探しているフリでもしてないと、罪悪感で胸が張り裂けそうだったんだ。
高校を卒業し、適当に入った美術系の専門学校に通い始めてからも、当初の目的が完全に形骸化した犯罪行為を行う日々。この歳ぐらいならば、ちゃんとした職に就き、偽景の内部に入る手立ても恐らくあったはずなのに、いったいどこで間違ったんだろう。そのまま学校を卒業してもずるずると、決まった定職につかないままに、押し寄せてくる自己嫌悪の中で過ごす毎日を、延々と続けていた。
そんな折に、仲間の内で、ある噂を耳にしたわけだ。
そいつら曰く、『身体の一部を差し出せば、偽景の一部に入れるよう斡旋してくれる奴が居るらしい』
実は、グラフィティの仲間内でも、偽景に入りたい人間はわりといる――といっても、私のような動機でなくて、単純な好奇心と、難易度が高い場所に自分の作品を残したいという達成感からだけど。なので、たまにそういった類の話を、誰かが捕まえてくることは、さして珍しいことではなかった。勿論、大抵の場合はガセネタだ。
だけど、このときだけは、都市伝説じみた内容とは裏腹に、その人物との連絡手段も噂の中に組み込まれていた。だから私は半信半疑ではあったけど、藁をも掴む心持ちだったから、一も二もなく連絡を試みた。
それが、彼との出会いだったわけだ。
「七瀬です。よろしく」
深夜十一時、災害の後、すっかりうらびれた築地。その中でもまだ営業中のもんじゃ屋に私は呼び出された。
店の中に入ると、奥の座敷に座っていた猫背で長身、真っ黒な服装の男が挨拶をしてくる。渡された名刺には、『プソイド・アナリティカ 代表取締役社長 七瀬誠』と書かれてた。
「プソイド……偽りとか、偽物とか、そういう意味ですか?」
「おお!そうそう。よく知ってるねぇ」
そう言って、楽しそうに相槌を打つ七瀬。格好のいいギザギザしたカタカナ言葉に惹かれる質だから、偶然覚えていただけなだけど。
怪しいことこの上ない社名。なにかヤバい組織の隠れ蓑なんじゃなかろうかと私は疑った。
名前もそうだが、社長を名乗る男、七瀬の風貌もまた奇抜だ。ボサボサの髪に髭面、黒っぽい装束の中で、目の内だけがきらんと光ってる。それだけならなんとなく猫っぽい印象。顔立ち自体は整っていて、知的にも見える。シャンと整えれば、まあ本来の見てくれは決して悪くはないんだろう。
けれど、それを全部台無しにしているのが、目の下に穿たれたように広がるクマだ。その青白いクマと、大きく爛々と輝く目とのコントラストが凄まじく、非常に恐ろしげだった。
「環……九重ちゃんだっけか。うちの会社に興味があるって話だったから、社長自らが説明してあげるよ……といっても社員も今んところは、僕一人だけど」なにが面白いのか、ははっと笑う七瀬。
初対面でのちゃんづけで呼ばれたことに、ゾワッとした寒気が走ったが、ひとまずここは堪え、「で、いったい何をする会社なんですか?」と単刀直入に訊いてみる。
「そうだね。とりあえずはお仕事の紹介をしようか。この会社の設立目的は、端的に言えば、偽景の初期化。偽景のシステムを解析することで、未だ暴走を続ける素子をすべて沈黙させる手段を見つけ出し、元の月島一帯の土地を取り戻すこと、です」
思った以上に荒唐無稽なその野望に、私は驚く。
黙っていると、「なにか質問は?」と言って彼は、私に水を向けてきた。
「じゃあ……そもそもとして、能動素子って一体全体どういったものなんですか?」
勿論、私も基本的なことは知ってはいたが、そこまで大見得を切るんだったら、それなりに素子についての知識も持ち合わせているのだろう。その力量を垣間見るために試しに訊いたわけだ。
しかし、その質問は完全にヤブヘビだった。そこから七瀬は目をより輝かせ、機関銃の如く喋り始めたからだ。
「よし。じゃあ、教えてしんぜよう――身体をもった計算素子、それが、能動素子だよ」
その能動素子に組み込まれている、ウィーナー型と呼ばれる次世代型のコンピュータアーキテクチャは、従来のノイマン型コンピューティングとまったく異なり、大きく分けて、記述領域と組成領域の2つの要素から成立していた。
記述領域は、生物の遺伝子情報のように、エンジニアが書き込んだコードを格納し、それらを別の形式に変換してから、組成領域に命令を送る。組成領域は、その命令に従って、形状、区割り、色味、質感、応答する運動の条件、組成同士のリンク付けなどの、定義された通りの表現型を実現させていく。
記述領域のプログラミング言語の思想には関数型言語とオブジェクト指向、その両方のパラダイム取り入れられていて。ミクロなコード単位では、定義した記号が、その割り当てられた意味に対応する反応物を活性化させ、別の活性化した物質同士と接続し、新たな反応物を創出させる、その一連のルールが美しく簡潔に実装可能だそうだ。さらにそれを補完するマクロな設計思想として、特定の化学物質を変数として定義し、小さな機能をもつ関数――物理的な実体としては、安定な動的回路に引数として与えてやることで、変数の構造を変え、物性が変化する。それらの値や、関数が、責務の境界毎に区切られて、能動組織と呼ばれるモジュールとなり、決められたとおりに作成される。更に更にそれらが何百何千何万と密接に繋がり合って、構造体としてパッケージ化され、一つの建物に構築できる。だ、そうな。
だから、能動素子自体の設計は、従来の概念と大きく異なっているにも関わらず、プログラミング言語が実際に構築される構造体と、メタファーを介して綺麗に対応していたから、多くのエンジニアがスムーズに開発に参与でき、そのおかげもあって、大規模な開発を可能にしていた。
「けど、十年前の震災をきっかけに暴走し始め、その後もひたすら増殖をつづけて、やっと小康状態になった今でも、少し向こうの月島の上で、手前勝手な構造を花開かせている、というわけ」
そう楽しそうに語ってから、冷茶をすする彼、まるで自分の話を訊いてもらえるだけで十分満足、といった感じだ。
そこでようやく長ったらしい説明が終わったことに安堵してから、私はこの会社の目的を思い出して、改めて訊ねる。
「でも偽景の根本的な解明なんて、普通、国や大学とかの研究機関の仕事じゃないんですか」
「建前上はそうなんだけどね。環ちゃんも知ってるでしょ、自衛隊が偽景から無理矢理に素子をひっぺかえそうとして、結果どうなったか」
「まあ、人並みには」なんて、忘れるわけがない。「何十人もの重軽傷者を出した、あれですよね」
「そうそう」七瀬は注文したもんじゃの生地を受け取って、鉄板の上にじゅわっと綺麗に敷きつつ、返事をする。
「本来なら元の状態に復元されるために組み込んだ機構である恒常性が、どうやら偽景では過剰反応しているらしい。与える衝撃の大きさに比例して、奴らの方からもまるで免疫応答のように、攻撃してくる物体を除去しようと反撃してくる。しかも、素子の増殖活動も別に完全に止まっているわけではないから、無理やり発破したり、重機で除去しようとしても、結局、暫くすれば元の木阿弥さ」
そう言いながら、専用のヘラで具材を細かく刻んでから、円形に土手を作る。喋りながらまあよく器用にできるもんだと、ちょっと感心する。
「一応の報告レポートは毎年上げてるけど、相転移から最初の半年を除いて、以降、一回も大規模な調査や除去作業は行われてない。なんでかっていうと、公的機関に所属する人間に重軽傷者が出ると、責任問題になって非常に面倒になるから。月島に住んでた住民との示談も、とっくの昔に成立しているし、お国の人間は、可能なことならば、もう誰も偽景と関わりを持ちたくないらしい」
そう、だから私の弟の捜索も正式に打ち切られ、公的には死が確定したわけだ。
「でも流石にそういうわけにもいかないから……」作った土手に生地を流し込みつつ、七瀬は続ける。「民間の下請け業者に依頼して、現場に入っての泥臭い業務を肩代わりしてもらっているわけよ」
「じゃ、そこに目をつけたのが七瀬さん、と言うわけですか」
「そのとおり!」言いながら、サムズアップをしてくる七瀬。
「だとして、こんなどこの馬の骨ともわからない人間が」そんな災害地に簡単に入れるわけがないじゃないかと、当然の疑問を口にする。
けど、七瀬は余裕の表情で、「そこは大丈夫」と言ってきた。
「と、いうと?」肝心なところだ。大丈夫の一言で片付けられても困る。
「既に偽景の処理の下請けを何年かに渡って行っている会社があってね。建前上は、ここを買収して立ち上げた会社なんだ。だから、書面上での信頼は万全さ」
なる程。「じゃあ、全てが問題ないように聞こえますね」
ではなぜ、あんな噂を流すような搦手で人を集めているのだと、言外に問う。
「ところが、偽景を解明するための準備がすべて整ったわけじゃない。足りないものはあと2つ、大量の計算資源と、偽景の中に持っていける高度な処理システム。これらが絶対必要」
「計算資源と処理システム?」
「計算資源というのは、偽景のから吸い出したジャンクコードの解析用のマシンのこと。これをやるには、膨大な数のサーバーをクラウド上で借りなきゃいけない」
「随分とお金がかかりそうですね」ひょっとして金の工面に私を巻き込もうとしているのかもと警戒する。
けど、七瀬が後に求めてきたものは、それより数段ヤバいものだった。
「実際に国や民間からの業務はちゃんと請け負って、活動資金はある程度は工面するつもり。今では世界中でも月島、もとい偽景の名前は有名。有名なのに、なかなかその中に入ることは能わない。これは確実に金を呼び込む」専用のヘラで、綺麗に形を整えながら、「いろんな方面からの」と、意味深長な一言を付き足してくる。
「じゃあ、まあ、そっちは良いとして……もう一個のほうは?」
「そう、そっちがより問題なんだよ」焼けたもんじゃを、切り分けつつ、私に差し出しながら、七瀬は言う。
彼の考えるところにおいては、この計画で最もネックになるのは、どうやら偽景の内部で行う計算処理らしい。
「普通、エンジニア達がコーディングするときは、病的なほどに同じ処理を行うコードを嫌う、同じような処理があると、管理が大変だったり、他の人が読んだ時、理解するのが大変だからね。だけど偽景の素子達は、それとは全く違う戦略を採用している。むしろ積極的に同じコードを繰り返すことで冗長化させてるんだ。そのおかげで外部からの攻撃で崩壊が起きたとしても、情報自体は欠損せずに、すぐに元の状態に回復できるわけ」
「それが?」
「で、問題はほとんどが無駄な情報ってこと。知っての通り、偽景の内部は徹底的な電波遮断が行われている。当初は狂った能動素子が発する信号に、外の能動素子が影響を受け共鳴するリスクを防ぐための、暫定的な措置だったらしいけど、実際に電波遮断を敢行すると、副次的にな効果として、多少なりとも偽景内部の素子の活性も抑えられることがわかった。だから、十年間、その施策は継続したまま、ずっと偽景の内部は、電波の通じない状態だ」
「でもそれだと……」
「そう。偽景の中は、無線での通信が不可能だから、有線ケーブルを引っ張って偽景の外部に接続する必要がある。でも、それでも、単位秒あたり数テラレベルのデータのすべては流石に捌けない。だから、偽景から吸い上げたデータを取捨選択、圧縮してから外の世界に搬出する必要がある。偽景の情報空間の中は、まるで生物の遺伝子情報みたいに、そのほとんどがジャンクなデータが漂う海のようなものだ。その海の中で本当に重要なのは、極々一部。だから、可能な限り泥を落として、磨かれたものだけを、外に送り出したいんだ」
「はあ」私は曖昧な相槌を返す。
なんとなくやりたいことは理解したが、そんな専門的な内容に対して、私ができることなどないだろう。
「そこで、環ちゃん、君の身体の一部、具体的には、脳をお借りしたい」
「え、脳?」なにかの聞き間違いじゃなかろうか。
「そう、脳」しかし、七瀬はトントン、と自分の頭部を指差し、説明を続ける。
「データを研磨するためのフィルタリングと圧縮処理のためには、偽景の内部で計算処理を走らせなきゃいけない。そのためには、特殊な処理が行えるようなものが必要、加えて、不安定な偽景の内部でも問題なく実行できるような、移動式かつ独立型で、更にはバッテリーも搭載していると望ましい」
「そんな便利なもの……」そこで、私はひょっとしての可能性に思い到る。「まさか……」
「そう、その第一候補が、人の脳だ。今の技術ならば、脳に直接針を通さない非侵襲型の脳デバイスでも、脳の一部を間借りして、計算機として代替できる。勿論、普通の処理ならば、一般的なものを使ったほうがよっぽど効率が良いのだけど、行いたい処理でもっとも鍵となるのは、いかに膨大な数のプロセッサを同時に走らせられるか。それには、脳のような生体計算システムの仕組みが最も向いている。脳のニューロンの数は甚大で、故に途方も無い数のプロセスを同時並列で走らせられるからね」
「だとしても、そんな技術、一般人が」使えるわけが無いだろう。
「最近まで、僕はその手の研究分野に所属していてね」とだけ彼は応え、嫌味なぐらいニッコリ笑う。言ってもどうせわからないだろうと、ちょっと小馬鹿にした感じの笑顔。
「安全性は?」ムカつくが、説明されてもわからないことは事実なので、私は一番肝心なところだけを確認する。
七瀬は「保証するよ」と即答し、その後「社員の福利厚生として、保険加入は必須だから」と付け加えてきた。つまりは、全然大丈夫ではないということだ。
唖然とする私、何もかもが突飛すぎる。けど同時に、変に納得するところもあった。だから、表立っては人集めができず、私達アングラな者共に噂を流布し、『偽景に入れる』というエサにかかる獲物を待っていたのか。
「まあ、喩えるなら、人体の眼の役割みたいなものだよ。知ってる?人の目の神経回路は、数十億ビットの情報を、質の低下もほとんどなく、その千分の一程度に圧縮して、脳に送り届けれる。同様に、一旦吸い上げた情報を非侵襲デバイスで補助させながら、君の脳を介して情報を濾過させる。そして圧縮した形式に変換してから、外に伝達させるわけさ」
そうして、七瀬は自分の左目を指す。その目には、先程まであった無邪気な様相は鳴りを潜め、代わりに、獲物を狩る猛禽類のような輝きを放っている。
「つまり、レンタルできれば、誰の脳みそでもいいわけと」
「まさか。偽景に入り込んで、しかも自分の脳へのアクセスも許してくれる人なんて人、今まで接触してきた中には、誰もいなかった」
「……」
また私は改めて黙し、じっと七瀬を睨む。
昔から、人の目を盗んで、落書き行為を続けてきたからか、私はどうにも人の機微が気にかかり、実は彼に会った時からも、ずっとその様子を観察していた。
私の横には既に冷え切った、綺麗な円形に焼かれたもんじゃ。七瀬は適当なことを言ってるようで、その実、几帳面。やたら饒舌に語っちゃいるが、それは本当の心の内を誤魔化すためじゃなかろうか。人権を無視したような行いを、あえて軽口で伝えているのは、私の反応を見ているからかもしれない。
つまり、私の偽景に侵入することに対する、その覚悟が問われているわけだ。自分の臓器を差し出してでも、安全が保証されない偽景の内部に、入る勇気があるのかと。
私は、大きく深呼吸し、今一度冷静になって、ちゃんと彼について考える。偽景の内部に入る許可をとったり、更には元に戻すなんて、国も自治体もとっくの昔に諦めた夢を堂々と語ったり……それらを、さも簡単な事のように言い放ってはいるが、そのことがいかに難しいかは、私が誰よりも知っている。
理由は判らないが、そこには狂気に近い偽景への興味関心、あるいは執念に近い熱意がないと、とてもじゃないができない芸当だろう。少なくとも、私にはそれまでには、まったくできなかった努力であったことは確かだ。
「ならば、私がその一人目ですね」
だから、胡散臭い社名と、その百倍は胡散臭い社長。だけど、その努力だけは、本気で信じるべきだと思えたんだ。
# 3
月島、勝どき、晴海合わせての広さなんてのは、せいぜい3平方キロメートルぐらいだから、別にそこまで広くない。ちゃんとした地図を頼りに歩けば、ものの数十分で端から端まで到達できたのだろう。
けれど、姿を常に変え続ける構造体のただ中を歩くとなれば、話はまったく別だ。オクトが伸ばしたコードを手繰り寄せるだけだから、行きよりはまだ楽だけど、それでも少しずつ生えのぼる素子の塊にたまに絡まっていたりしていて、それを足蹴にしていかなきゃだから、帰りも帰りでまた大変。
だから、直線距離で1キロ程度の道のりを、1時間以上もかけて、やっとこさ島の端までたどり着く。そこで、急に天気が一変し、細やかな雨が降り注いできた。
「あーと、もうちょいで外なのに」
降り始めた小雨に一人で文句を言いつつ、足元を滑らせないように気をつけながら、月島と築地を繋ぐ桟橋を渡っていく。
勝鬨橋、中央大橋、晴海大橋……月島一帯に繋がるすべての橋は、増殖する素子の影響を遮断するために、相転移の以後、すぐに破壊され、不細工な瓦礫となって沈んでいる。そのため、関係者だけでも渡れるように、また、非常時にはすぐ壊せるようにと、簡易な橋が設置されていた。
その頼りない橋の上、隅田川のちょうど真ん中あたりで、偽景と都心、あちらとこちらを見渡せば、自分があの世でもこの世でもない、その境に立っていうるような、そんな不思議な気持ちになってくる。
行く先に目をやれば、正規化された都市の様相が見え、振り返れば、偽景のその悍ましい姿が、霧のような細雨の中に浮かんでいる。そのどちらでもない狭間を、今、私はオクトと通過している。
途中、海に浮かぶオレンジ色の物体と交錯している箇所に差し掛かる。素子の欠片を外海に放出しないようにと、島一帯にぐるりと張られたオイルフェンス。つまりここで道半ばということだ。ならばもうひと頑張りと、私は自分に発破をかける。
そうして、やっとこさ向こう岸にたどり着き、昔、中学の頃になんとしてでも突破しようとした検問もあっさりと過ぎ去ると、隅田川の河道で横一列、数十メートル間隔で特殊車両がずらりと並ぶ光景が目に入る。
イカツいフォルムに悪路用のゴツいタイヤの装甲車。素人でも軍用であることは一目瞭然。元は指向性エネルギー兵器として使われていたようだけど、相転移以降、偽景全体の電波遮断を行うため、島一帯を囲むようにぐるりと設置されている。
私はそれを最初見たとき、まるで敵国との国境線沿いみたいだなと思ったけど、あながち間違ってないのかもしれない。
どの車も、天井部分に和太鼓のような白くて円形の機器が設置されていて、どれも偽景に方に睨みを効かせている。最初は自衛隊から借りての暫定処置のつもりだったらしいけど、以来十年、ずっとこのまま。一時のつもりが、ずるずると恒久対応となる良い例だ。
それも傍目に過ぎ去ってから、川辺に設置された、老朽化の陰が見え隠れする除染室に入り、服や身体を徹底的に洗う。
「こんな事したところで、なんの意味なんか無いのに」
実際にはこの程度の量の素子から、増殖を始めることはありえない。でなければ、風に吹かれたその断片で、巷はとっくの昔に侵食されているはずだ。
独りそう愚痴っていると、除染中の防護服がザザッと鳴って、
「でも、市井の人々はそれでも不安みたいよ。科学的な議論とはまた別の次元の話として納得すべきじゃないかな。こうしとけば、偽景から戻った人も、元通り輪のなかに入れてくれるっていうなら、まあ面倒かもだけど、お安いものなんじゃないの」
独り言が漏れてたようで、七瀬が私の言を拾って応えてきた。うっかりしてたけど、ここまでくれば無線も普通に回復するんだった。
彼の言う通り、そう割り切るのが正しいのだろう。いわば、穢を払う清めの儀式、あの世からこの世に戻るためのおまじない。そういう事にしておこう。
そこからオフィスに徒歩で戻る。夏の終わりとは思えないほどの、陽炎で遠くの方がたなびいて見えるほどに、凄まじい熱射が私に襲いかかってくる。なので、少しでも日陰に入れるようにと、寂れた商店街沿いを通って行く。
河を挟んでいるとはいえ、未曾有の災害地区と隣接しているからか、住まう者は、ほとんどこの築地からは居なくなった。禿げた看板、錆びたままの倉庫、道沿いには空き家が並び、辺り一帯がゴーストタウンと化している。土地の値段も十数年前の数十分の一以下。昔は活気に満ち溢れた築地だが、今ではその面影すら存在しない。
そんな静かな街の中に響く音といえば、海から響いてくる船舶の汽笛、蝉の唸るような鳴き声、それに選挙カーぐらい。そういえば都知事選が近いんだったなと、ふと思い出す。こんなところまで挨拶回りとは、まあご苦労なことだ。偽景の恒久的解決も、今の都知事の掲げた公約の一つだから、パフォーマンスの一環として回っているだけかもしれないけど。
そのように歩くこと十数分、やっと私達の基地にたどり着く。昭和に竣工された、蔦が壁一面を覆っている古いビル、その三階のテナントが私と七瀬のオフィス。
その螺旋状の階段を昇りつつ、ふと見上げると、薄暗い中から人影が見える。この夏場にも関わらず、スーツをぴっちりと着込んだガタイの良い二人組、私は少し驚いて、壁に密着して道を譲る。
彼らが通り過ぎる瞬間、私は二人の顔をそっと覗き見る。筋張った体躯、鋭い眼光、急な勾配の階段なのに、足元に視線を落とさず、周りに警戒を怠っていない。
反射的に、ゴクリと唾を飲む。私はこういう人達に、器物破損を犯してた時代、幾度か遭遇したことがある。この手合いは大抵、公的権力か、裏筋のモノ。端的に言えば、警察か、ヤクザ、政治家、そういった、何らかの権力者の脇を固める者達だ。
このビルには私と七瀬のオフィスしか入ってないから、ウチに用が会ったのは明白。つまり、七瀬となにか話し合いをしていたのだろう。三年間、彼と一緒に仕事をしてきたけど、彼のことは未だに理解できたとは言い難い。
その過去も、なぜそこまで偽景に囚われているのかも。
「ただいま戻りましたぁ」
緊張を隠すようになるべく陽気な声と共にオフィスのドアを開けると、
「おつかれちゃん!」
私のに輪をかけて陽気な声の返事をし、窓際のデスクに座っていた七瀬が、クルリと振り返り、ひらひらと手を振ってくる。もう片方の手にはマックのハンバーガー、口の周りの無精髭にはソースがべったりと付いている。その姿を見て、一気に緊張の糸が解ける。
「あんなこと言っといて、結局食ってるし」私は自身の口元を撫でて、彼に汚れてますよのサインを送る。
「いや、なんか考えてたら食べたくなっちゃって。無人配達で頼んじゃったのよ」ナプキンでゴシゴシと口元を拭きつつ、言い訳がましく応じる七瀬。
「いい年なんだから、カロリーが高いものは控えたほうが良いですよ」私は窓枠に綺麗に並べられた、銀色に光るエナドリの空き缶に目を向ける。
「いやいや、まだ三十五だし、痩せ型だし」言いながら彼は私に向かって洗濯済みのタオルを投げてきた。
「三十後半は十分におっさんです」キャッチしつつ、言い返す私。
濡れた髪を軽く乾かし、ところどころがほつれたソファにドサッと勢いよく寝っ転がる。そんな私のマネをするように、足元でオクトも八つ脚を器用に畳んで、スリープモードの体勢に入った。君もお疲れ様、そう小声で呟き、彼のボディをさっと撫でる。
横になりながら首を反らし、七瀬の仕事用のデスクの方に目線をやる。みっつのディスプレイ上にはいろんなウィンドウが開かれ、同時にいくつかのタスクを並列して実行されている。
真ん中一番大きな画面には、ダークモードのエディタが開かれ、蛍光色のいろんな記号が整然と並んでる。その左の画面のブラウザを見ると、大手のクラウドサービスのコンソール画面が開かれ、何十ものサーバーが現在実行中であることを示す、緑色のアイコンが光っていた。
その数を見て、私はまた不審に思う。
小規模な企業のよくある経営方法は、未来や大きな社会的意義を掲げる壮大な事業と、運営資金を稼ぐための地味な事業の2つを同時に展開させることだ。前者を広告等にして、名を売り、当面の資金を稼ぐための仕事を請け負ったり、投資家の気を引いてもらったりするわけだ。
弊社ならば、前者は、偽景の解明と月島をもとに戻すこと、後者が偽景に入っての泥臭い現場作業を行うこと。なのだけれど、私が把握している限りの現状の収支でいえば、どう考えても後者が前者をカバーできてるとはまったく思えない。にも関わらず、七瀬はいつも何の惜しげもなく、ハイエンドのマシンを湯水の如く立ち上げている。
そこで、私はさっきの二人組を思い出す。ひょっとして表立っては言えないような、何らかのスポンサーが七瀬の後ろには構えているんじゃなかろうか。
寝転がったまま、視線を下の方に向ければ、敷かれた冷却マットと寝袋が目に入る。多分、今日も泊まり込みで偽景を解明する手立てがないかを突き詰めてたのだろう。
死ぬほど暑い中、危険な偽景で身体を必死に動かして、更には脳みそを貸し出すなんて、完全に私だけがリスクを負っているように思ってたけども、彼も彼なりに、私の知らぬところで必死に偽景に立ち向かっている。
でも、だとしても、私は彼を止めたいと思わない。少なくとも、恭司の死の確証を見つけるまでは。
疲れた頭で決意を新たにしていると、ふと気になるものを見かけ、つい七瀬に訊ねる。
「七瀬さん、それなんです?」
私は半身を起こして、右側のディスプレイをちょいちょいと指し示す。その画面には、様々な建物で溢れかえり、その中にブロック体の人間が立っている。なにかのゲーム?
「ああ、これ?ちょっと昔に流行った、世界構築系のティアラってゲーム。たまにやってるのよ」
「はあ、にしてもシュールな町並みですね」
初めて見るゲームだけど、他にユーザーも居ないし、不可思議な建物で溢れかえっていて、明らかにゲーム内部が荒廃しているのがわかる。王冠とは、また随分と名前負けしたゲームだよなと、正直思う。
「このゲーム、実は僕が大学生の頃にちょっとだけ開発を手伝ったんだよ」その画面を指し示し、得意げに解説する七瀬。
「へえ」正直、あんまり興味はないけど。
でも七瀬はなにかのスイッチが入ったのか、どんどんと喋りだす。
「一昔前はDAUが数百万はあったんだけどね。課金要素がキツくなりすぎたり、セキュリティがザルすぎて個人データが裏で抜かれてた事件があったりして、そんでユーザー離れが加速して収益も無くなって、パッチも当てられないでバグもおざなり。今じゃチーター達の遊び場になってて、普通に遊んでるのはほんの一握りだけよ」
「で、七瀬さんはその一握り」七瀬の操作するキャラは、質素な形で、色々いじくり回しているようには見えない。「寂れたゲームの町を散歩して、何が楽しいんですか?」
「いろいろ。なんか廃墟を探検しているようで。たまーに人を見つけると、人だ!ってなんか感動できるし」
「……まあ、人の趣味に外野が口を出すのは野暮っすね」
「いやいや、ゲーム自体はとても良く出来てるんだよ。遅延も小さいから、ストレスも少ないし、動きもヌルヌル。このために独自のゲームエンジンまで作られたほどの開発者陣の入れ込みようだしね。ま、僕もその一員だったんだけど。しかも自由度も死ぬほど高くて、チューリング完全が証明されているから、原理的には内部でどのような論理演算も可能で……」
ぺらぺらとオタク知識を喋り続ける七瀬を無視し、スタンバイの状態になってるプレイ画面のステータスをじっと眺める。誰も居なくなった空間に、未だに残る、多種多様な建造物。
でも、よくよく見ると、その姿は既視感がどこかにある。
「七瀬さん、このゲーム、ひょっとして」
「お、気づいた?」
「なんとなく」暇つぶしがてらに、ゲームに興じているだけかと思ったが、実際は、そうではなかった。「これ、偽景の内部の構造体にだいぶ似ていますよね」
「そう。今までに手に入れた偽景の構造データをコンテナ化してから、ティアラ上でレンダリングしてシミュレートしているわけ。もうほとんど人のいない、打ち捨てられたプラットフォーム。折角だし、なにかにうまく利用できないかと思ってね」
「それにしては、構造体の動きも妙に生々しいですね」
仮想的に動かしているにしては、動きが非常に滑らかだ。ランダムに動いているのではなく、部分部分が周りと協調して動いているよう。実際の偽景の構造体はここまで猛スピードでは動かないけど、それは時間スケールを意図的に調整しているのだろう。確かに、実際の偽景の動きに酷似している。
「流石、目ざといね。これは社会的昆虫の動きを偽景に模倣させてるのよ」
「昆虫?」
七瀬は私の疑問に応える代わりに、別タブを開き、大量の黒いドットが模様のようなパターンを描きながら、うぞうぞと蠢く画面を見せてくる。ちょっと気持ち悪い。
「これは、蟻のコミュニティのシミュレーション。ここで質問です。この蟻たちは、どうやって、こんなにもみんなで協力し合って作業ができているんでしょう?」
「普通に女王蟻が指揮してるんじゃないんですか?」思ったまま応える。
それに七瀬はいやいや、と首を振り、
「普通に思われているのと違って、実は女王蟻の独裁政権ではないのよ。女王蟻はただの孵化器。この生物達の管理には中央集権ではなく、責務をもつモジュール同士が疎結合にメッセージを送り合うような、そんな分散処理が採用されている。この生物同士の相互作用というのは、一つの化学物質に反応した他者が、べつの反応経路に接続するように意思疎通を図っているのさ。オーケストレーションではなく、コレオグラフィ。蟻のような社会的昆虫は、単一の指揮者にただ従っているわけでなく、それぞれの主体が、リズムに応じ、自発的に身体を動かすダンサー、その集団に近いわけ。即ち、蟻達は主観的には、各個体が出す化学分泌のリズムでに各々が合わせて踊っているだけなんだ。でも全体で俯瞰してみると、餌の運搬からゴミの搬出まで、見事なまでの役割が振り分けられて最適化が行われている」一息でぺらぺらと説明する。
「エンジニア特有の専門用語が多くてどうにも要領を得ませんね」
「そこはフィーリングで補完してもらえると……」
「でもまあ、なんとなくはわかったような気がします。つまり、蟻は特定の単体でなく、別のタスクが処理されたことを、化学物質を介して他のメンバーに知らされ、通知されたメンバーは、それをトリガーとして、自分に振られたタスクまた実行し始める、と。それだけの簡単なルールなのに、蟻の巣全体で俯瞰して見ると、あたかも高度な統率者によって実行されているように見えるわけですね」
その社会での意思は、構成員同士のつながりによって決定する。組織全体が巨大な脳のように振る舞うようなイメージなのだろうか。
「そうそう、蟻たちにとっては、化学物質が言語なんだよ。進化によってブラッシュアップされ続けて、信じられないぐらい合理的な全体最適を成し遂げている。個々の総和よりも高い知性を全体では持てるようになったんだ」
「だから、特殊な個体に権限が付与されてるわけではないってわけですか」
「そ、なので仮に女王蟻が死んでも、本当の意味ではその系は死なず、暫くその巣は続くわけだよ」
「なるほど」ここでやっと、私は七瀬の言いたいことを察する。「で、それが、狂う前の能動素子の本来の姿に近いと」
「そうそう、ウィーナー型の能動素子は、ちゃんと責務が分けられた構成要素ごとに区分けされた能動組織が、それぞれ自分の状態に応じてメッセージを発信する。で、その組織と連携する必要とする別の組織は、そのメッセージを受信して、また自分の責務を行う。本来ならばそのように複雑な機能同士が連携していたんだ。でも――」
蟻のシミュレーションを映し出してる感応式のディスプレイの上を七瀬が指でなぞると、その部分だけ淡く紫色に光った。すると、蟻を表すドットの群れは、すぐさまフォーメーションを変え始める。そのなぞった部分を目指して集まり始め、最終的に渦を成すように、高速でその周囲を回り始めた。
「これは一箇所に特定の化学物質を置いた時のパターンさ。パラメータをちょっと弄ってやると、こんなかんじにぐるぐるぐると渦を巻きながら、死ぬまで同じところを回り続ける」指で宙に円を描きながら言う。
「能動素子にも同じような脆弱性があって、相転移が起きた、そう言いたいんですね」
「あるいはそうかもしれないと、ふと思ってね。だから、昔の伝手を頼ってティアラをちょっと間借りして、偽景の構造に蟻のシミュレーションを組み込んでから、部分部分のパラメータ極端に強くして、どれぐらい実際の偽景の姿と似てくるか試してたんだよ」
「なるほど。面白そうではありますね」
その話を訊いた上で、その画面を眺めていると、不意に私の頭に閃くものがあった。
「七瀬さん、化学物質以外で、そういった協調した行動をとる生き物っていたりするんですかね」
「んー。色でのコミュニケーションを取る生物も自然界にいたりする。例えば、蛸」
「タコ?」私は、モルタルの床の上で眠っているオクトの方をつい見てしまう。
「そう。蛸のような頭足類の皮膚は脳に直接接続されたスクリーンのようになっていて、指令を受けて筋肉を制御し、自身の色を自由に変える。本来は捕食者から身を守るための機能なんだろうけど、蛸達が多く生活する共同体の中では、自分の色を変えながら、他の蛸との交流目的で行われることもある。つまり、自分の発するメッセージを、文字通り身体で表現し、他者と気持ちを共有するわけだ」
色と訊いて、私は自分のアイデアの強度が増したように感じ、試しに言ってみる。
「七瀬さん、ひょっとして、偽景とも同じことはできたりしませんかね?」
「同じことって?」
「今までは、偽景から読み出すことばっかりを考えていましたけど、逆に、こっちから偽景に何かを書き込んでやるんです。表面の色とかだけを多少変え、相手の出方を伺う。ひょっとしたら、今までに無い応答が見られるかもしれません」
その私の突飛な考えに、七瀬は少し考えて、「面白そうだ」と言ってきた。
「偽景との対話か。妄想に近いけど、でも、そこから何かが引き出せたらめっけもんだ。幸い、今までの解析から、構造体の表面の色素胞程度なら、自由に変化させるぐらいは可能だろうし……モノは試しにやってみようか」
「はい!」新たな一手が思いついたこともそうだけど、初めて自分の提案を七瀬に飲んでもらえて、ちょっと嬉しい。
「にしても、よくそんな考えに至ったね」
そう言われて、私は少し苦い顔になる。言葉以外に意思疎通を図ろうとしたことは、私にとっては決して初めての事じゃない。
それは、私と恭司のふたりのやり取り、在りし日の思い出を引き起こすものだった。
# 4
恭司から身体の自由が失われたのは、相転移の二年前、通っている学校で大きな火事があって、偶然その時体育館倉庫にいた恭司は、酸素が枯渇したその火災の中に長い時間取り残された。なんとか一命は取り留めたけど、救助が来るまでのその長い時間の中で、彼の脳の多くの領域が損傷を受けた。
救助されても目覚めず、このままではずっと昏睡状態、どころか目を覚ましたとしても、五感も取り戻せず、身体を制御する能力も消失し、言葉を紡いだり、感情を顕にするための機能すら失われつつあると医者は語った。
「脳に補助装置を挿入するのが、残された唯一の道です」
結局、施術自体は無事終わって、恭司は目を覚ました。けれどそれは完全に元通りというわけではまったくなくて、彼は目覚めた後も、身体を動かすことはできなかったし、五感から伝わる刺激を、脳が理解しているかも定かでなく、言語能力も殆ど喪失しているように見えた。
そういう状態だったから、両親と担当医は話し合って、意思疎通のための補助的なツールとして、彼の脳の内部のイメージを、外付けされたディスプレイに直接出力させる処置を施した。
そしてそれが、彼の才能を発露させるきっかけとなった。
「あたたか、かなりあ、くりょう」
最初に喋った言葉はみっつ、それと同じ数の記号が、ぽっぽっぽっとディスプレイに灯る。
突如彼が意識を取り戻したかのように、急に喋り始めた事に周りは驚き、私達家族は当然歓喜したけれど、その喜びは、次第に戸惑いに変わっていった。恭司はその後、何時間も、独り言をぶつぶつと発しながら、見たことも無いような記号を塗りたくって、ひたすら昼も夜もなく、無限に広がるそのカンバスに描き続けたからだ。
普通の人間は、感覚神経終末が捉えた信号を神経節、脊髄核、中枢神経などを介し、脳の中で身体のイメージが作図され、その図によって、実際の身体に命令を送り、現実の世界に干渉する。
けど、自身の身体を動かせない恭司にとって、頭の中に残ったイメージだけが、自分が自由にできるものとして唯一残ったものであり、それを投射するディスプレイの平面が、影響を与えうる外部の世界のすべてだったのだろうと、私は今更ながらに考えている。
それからもずっと恭司は、何ヶ月も淡々と、デジタル上の平面にイメージを展開させていった。実際のカンバスだったら、サッカーコートよりも広い面積が必要だっただろうけど、電子の上なら広さは関係ない。その小さな門をかいくぐって、恭司の脳内に溢れるイメージが、外部の二次元平面上に展開されていった。
当時、その様子をずっと見ていた私は、だんだんとその一枚絵にどうしようもなく惹かれていった。彼の描き続けるその絵のデータを、自宅のタブレットとも同期させ、気づいたら丸一日眺めていることさえもあった。
ディスプレイに新たな色と線とが追加されるたび、恭司は単語を口に出す。彼の頭の中に残ったシンボル同士が交雑するこの世界には、彼独自の感情の文法体系が存在しているのだろうか。彼が言葉を発し、脳内で仮想の筆を走らせる様子をずっと間近で見ていると、まるで彼の脳の中を漂っている感覚すら持ち始めた。けどそれに反して、恭司が私の存在を認識することは一向になかった。
でも、ある日病室を訪れたときに、英語の授業で習った単語のことを思い出して、ちょっと使ってみたい気持ちもあって、彼の掌の上に『I am here』と人差し指で文字を刻んでみた。中学の頃だったから、ちょっとかっこいい横文字に憧れていたのもあったのだろう。
別に本気で何か引き出せるとは微塵も考えていなかったけど、描き終わった瞬間彼の身体がピクリと反応し、単語を口に出すリズムが一瞬だけ停止してから、ディスプレイに新たな模様が現れ、すぐに霞のように消失した。
その一瞬の出来事に私は驚愕し、同時に、嬉しさでその場で泣き出してしまった。一秒にも満たないほんのちょっとの反応。けどそれだけでよかった。彼の閉じこもっていた世界の中に、私は入り込めたのだから。
その掌もまた、私から恭司に開かれた門だった。
それから、何度も病室を訪れ、そのたびに同じようにI am hereを指で刻んだ。そのたびごとに彼の呼吸は一拍置かれ、ディスプレイの上に毎回異なる模様が刻まれて、またすぐに消失した。
いつも一瞬で消えてしまったけど、私はその瞬間に刻まれた印を、今でもすべて克明に思い出すことができる。
春先のその日も、学校帰りに病室を訪れた。
「あかるい」、「ねこ」、「たなぐ」
恭司の発する単語の聞きながら、ディスプレイに新たに灯る表象を垣間見てると、春先の心地よい空気も相まって自然と微睡みかけてしまう。
しかしその時、ある言葉の羅列が私の耳に届いた瞬間、冷水を浴びたように一瞬で目が覚めた。
「そと」、「に」、「でたい」
あるいは、言葉が偶然重なって、意味を成しただけかもしれない。けど、当時の私はそれを聞いて居ても立ってもいられなくなって、すぐさま、借りてきた車椅子に彼を乗せ、誰にも言わないまま、彼を病院の外に連れ出した。恭司を外に連れ出すこと自体は、禁止されてはいなかった。脳に電極が埋め込まれているとはいえ、別に有線で接続しているわけではないし、脳の活動自体は安定している。けれど、デバイスの内部だけでは行えない複雑な処理は、外部のサーバーと通信しながら処理していたから、万が一、通信が安定しなかったり、突然容態が悪化したときにすぐに手が打てるようにと、せいぜい病院の敷地内をうろつくぐらいの自由しか与えられてなかった。
だから、私は恭司を外の世界に連れていき、閉ざされた彼の中に少しでも新しい刺激を与えてやれないかと、恭司が大好きだった月島の奥、埠頭近くにある科学館に連れて行った。
そこで起きたのが、大震災、それに相転移。結果、絶対に逸れないようにと誓ったのに、結局、私は彼を偽景に取り残し、彼の身体は十年経った今でも発見されずに、まだ偽景のどこかを彷徨っている。
その事を考え始めると、私は今でも自身のその時に犯した過ち、それに我が身可愛さで、どんなに大事なものすら犠牲する弱い心の存在に行き着き、その事実がいつか発露するのではないかと、耐え難い恐怖を感じてしまう。
その恐怖から逃れる方法は、やはり恭司の死を確認する他に無いのだろう。
# 5
明くる日、私は偽景の一角を訪れ、フードをグッと引っ張り目深に被る。
「準備できました」
「よし、じゃ……好きな色……思い浮かべてみて」
七瀬からイヤフォン越しに指示が飛ぶ。どこかで断線したのか、少しノイズが乗っていて聞き取りづらい。
私は橙色をぼんやり思い浮かべ、指で壁にくるりと小さく円を描いてみる。すると軌跡の後に、熟した果実のようなオレンジ色が輝き始めた。
「反応した!」
私の脳の内部のイメージを読み取り、想像したままの色を出力された。七瀬が私に説明した通りの挙動が見事に為されている。あの後すぐに七瀬は、私の突飛な着想を元にして、フード内部のデバイスの入力と出力を反転させ、私が思い描いた色で、偽景の表面だけを変容できるようにしてくれた。
「いよっし!どんど……いろいろ試して……よう」
やはりノイズが乗っている。少し気になるが、まずは偽景への色を使った介入を優先して行っていく。
脳内で思い描いた色を、好きに表現できる。そのことに、私はどうしても恭司のことを思い出してしまう。だから、彼が私だけに見せてくれたシンボルを一つ思い起こし、頭の中のイメージをそのまま構造体の上をなぞる。
赤色の円の中に、淡い青で螺旋のような模様が描かれたマーク、シンプルだけど、重大な意味が閉じ込められたようにも思える表象。
それを描き終わった瞬間に、想像し得ないような異変が起こる。
「え……なにこれ」
急に偽景表面の色彩がぞぞぞと渦を巻き始め、今しがた私が点した表徴の周囲に集まってくる。まるで、自分たちの住処に突如現れた異邦の客を、どう饗すかを、皆で協議しているようでもあった。
一拍の後、思案の時間はすぐに終わり、突然暴発したかのように、数多のシンボルが偽景から生じ始めた。そして、それを皮切りに、私の周りの景色が一変する。
偽景のその一画は、まさにグラフィティの生態圏と表現すべき様相だった。
底に潜む深海生物のようにクネクネと身を捩らせながら、水墨画の毛筆のような淡い線が突然私の足元を横切った。それに驚きよろけると、数万という水玉模様の夥しいまでの集合が、まるで小魚の群れのような明確なパターンを伴いながら泳ぐように過ぎ去っていく。その蠢く様子に私は生理的な悍ましさを感じて逃げ惑う。でも私が走る真横に、三角形の尖った白黒の同じ模様が、鎖のように数珠つなぎになって、亀裂が生じていくかのように連々と浮かび上がっていく。それに私は、恐怖でへたり込んでしまい、そこでやっと辺りの様子を一望する。
普段の廃墟の集合体のような雰囲気はどこかに吹き飛び、普段の偽景と全く異なる、変則的なリズムと倒錯的な質感が、私の四方を支配している。明らかに異様だ。能動素子がこんなに高速に動けるわけはない――いや、素子自体が動いているんじゃない、構造体の表層だけが、極めて速い速度で変化し続けてるんだ。複数の運動が猥雑に絡まり、まるで生き物のように交錯している。
「七瀬さん!七瀬さん!」
私は必死に叫ぶ。けど、どんなに呼びかけても彼からの応答がない。やはりどこかで断線したのか。
ならば後で少しでも解析するためのヒントを集めねばと、自分の頬をバチンと叩き、無理矢理に気持ちを切り替え、その光景をオクトと共に、カメラに収める。
踊り狂うシンボルが、嵐のような周りの情景をかき乱している。色の群れが急激に収斂し、また爆発するように拡散する運動が脈動する。生成と消滅を繰り返され、イメージが消えた後の表面にも、まるで何かが憑依しているかのように、不気味な雰囲気を漂わせてくる。その目まぐるしく変わり続ける様相を、私は必死に自分の脳裏に焼き付ける。
そのうち、私は脳裏に矛盾する感覚が押し寄せ、より一層狼狽える。
見たことない景色なのに、完全に掌握できているかのような、相矛盾する体感が全身を支配する、次に何が現れるのか、既に見終わっているような感覚。その場から狂ったように噴出し続ける続ける色、記号、その流れがあたかも自然な連続的なものだと頭のどこかの部分は受け入れてしまっている。
呆然とする私の目の前に、まるであぶり出しのように新たな模様が刻まれていく。私はそれを見た瞬間、既視感の理由をやっと理解する。
染みのように浮かんだそれは、普通の人には何が何だか分からないだろう。
だけど、私にだけはわかる。それは、恭司が私にだけ見せてくれた、特別なシンボル。私が彼の掌に描いた文字のお返しの印。
心臓の鼓動がドクンと、より一層大きくなる。呼吸すらままならないほどに気が動転したまま、ほとんど無意識に目の前の壁を見上げる。
数メートルもある巨大な一枚の壁、けど、よく見ると違う、天辺に近づくにつれ分岐し、五つの円柱のような構造体が天に向かって――掌が象れている。
恐らく、私の死んだはずの弟――恭司は、まだ、ここで生きている。
「偶然、掌っぽく見える構造体の表面が、活性化しただけじゃないの?」
大慌てで偽景から撤収し、オフィスに戻ってから、すぐさま映像を見せての、七瀬の最初の感想がそれだった。
慌てふためいている私とは対照的に、矢印キーを押しつつ、パタパタとコマ送りでその様子を収めた動画を再生しながら、冷静に意見する。
「映っている偽景の様子には何らかのパターンがあるかもしれない、それは事実でしょう。でも偽景に意識があるなんてのは、流石にありえないでしょ」
「でも、あれは、本当にそっくりでした。」私もめげずに反論する。
「映してくれた映像に残ってるこのマークが?一体何に?」
「これは!」
「弟の残したものだ!って、ひょっとして言うつもりかい」
「なっ!」なんでそのことを。私がそう叫ぶ前に、七瀬は続ける。
「環ちゃんのことは、多少は調べたのよ。なにせ僕以外の、大事な大事な唯一の社員だからね。無論のこと、弟についても。相転移のタイミングで、月島の科学館に連れ出していて、災害が起きた丁度その時、彼の隣にいることができず、そのまま弟を見失ってしまったことも。弟が描いていた絵についても。だけど、これは偶然、そう見えるだけよ」
私は沸々と怒りが湧いてくる。そこまで勝手に調べていたのかと。けど、そんなことをされても、喚き散らすのをぐっと我慢できているのは、私の本当の罪についてまでは、当然彼は知らないから。私は努めて冷静を装い、説得を試みる。
「それは、そう、そのとおりです。確かに私情が入って正常に判断できなくなってるかもしれません。でも、それでも、実際に現場にいた私は、そこに人の気配を感じたんです」
「まるで、彼の幽霊が偽景にいるような口ぶりだね。そんなもの、いてたまるかよ」
指を立て爪で机を何回もコツコツと弾きながら、苛立たしげに応える七瀬。
そこに私は、なにか違和感を感じる。私も冷静じゃないが、七瀬もまた焦燥感に駆られているような、何かを必死に堪えているような、そんな様子だからだ。
そこに、彼の秘密が潜んでいるのだろうか。
「じゃあ……これ見てください」
私はそこで、私の主張を後押しする証拠を見せようと、偽景から戻ってきてもずっと震え続ける手で、なんとか手元の端末で操作し、画像データを七瀬に送る。
「これは?」
「送った画像と、偽景の動画を一緒にそこのディスプレイに映し出してください」七瀬の言には応じず、私は指示する。
七瀬は黙ってやや乱暴に、左側の画面に一時停止した偽景の先程の様子。右の画面に恭司の残した絵の画像を表示した。
「これで満足?」
「オッケーです。で、今画面に映っているのと同じなのは……」
私は指差しで、録画した動画の次に現れる模様を、右に表示された恭司の絵の中から迷わず選び取り、比較するため横に映し出す。
「次のタイミングだと、これ……これと……これ」
続けざまに、私は恭司が残した絵から切り取った画像を見せつける。これには七瀬も流石に吃驚しているようだった。
私の記憶力は並以下だし、当然、さっき見た偽景の状況を完璧に覚えているわけでない。けど恭司の作品の方は別だ。ずっとその絵を食い入るように見続けたおかげで、内部の膨大な構造のどこに何が位置するか。その座標は完璧に捉えている。
そして偽景に感じた恭司の気配は、最後に残した模様だけじゃない。あの場に描かれたすべてのモチーフが、恭司の絵の中に存在している。
「明らかに偽景には、恭司の絵と同じパターンが展開されてます」
それこそ、七瀬が言うところの”恭司の幽霊”が偽景にいると感じた理由だ。まだ、彼はそこにいる。
それを見た七瀬は、頭を抑えるように蹲り、暫しの間そのままの状態で固まった後、再びゆっくりと顔を上げる。
「オッケー、そこまで言うなら、ひとつ実験してみよう」
「実験?」
「そう実験。恭司くんの幽霊の正体、それをここではっきりさせよう」
そうして、七瀬は私にその方法を説明してきた。
「もし恭司くんがいるっていうのなら、環ちゃんの呼びかけに必ず反応するだろうね」七瀬は皮肉っぽく私にそう言ってくる。
それに対して私は、必死に冷静さを取り繕いつつも、心の奥では恐ろしさに身が震え、自然と身体が強ばる。
あの十年前に犯した罪から完全に逃れるには、何よりもまず、弟の亡霊の秘密を明らかにする他に道はない。そのためだったら、どんなリスクも厭わないつもりだ。
けど、もしも、そこに恭司が生きていることを確認してしまったら、私はどうするべきなのだろうか。彼が死んだことを確認すれば、私の罪の意識は完全に消えると信じて、この三年間、その安寧だけを求め、ずっと必死に活動してきた。けれど、今もまだ恭司が偽景にいるというならばならば、彼に何をすればよいのだろう。
私は私の犯した十年前の罪に対して、泣いて縋って彼に許しを請うべきなのか。
あるいはそれとも――今度こそ、本当に殺してしまうべきなのだろうか。
# 6
私も一時期はストリートアーティストを気取っていたから、落書きの歴史について、興味を持って多少は調べたことがある。
人類は落書きと共に生きてきた。洞窟の壁画のような古代の芸術は落書きとも見做せるし、紀元前のギリシャの人々が夜空に描いた星座も想像の上での落書きだろう。人間の文化や芸術の歴史を紐解くたびに、その落書きの無限の可能性に目を奪われ、惹かれてきた。
人は想像力を得たその瞬間から、あらゆる平面に頭の中のイメージを、擦り付け、吹付け、塗りつけ、なすりつけ、刻みつけて、貼り付け、描き続けてきたんだ。だから、人類の歴史は、落書きから始まっているとすら言えるんじゃないか。
文明が進化するたび、落書きを行う媒体も変わり続けてきた。洞窟、岩壁、墓地、集団住宅、地下鉄、戦艦の片隅……時代が進んで、都市の形態が変化すると共に、人々はその中に新たなフォーマットを見出し、新たな落書きの可能性を模索する。まるで、19世紀の産業革命時、スモッグの中、灰色に変異した蛾だけが生き残ったみたいに、グラフィティは、都市の形態に合わせつつ、人間と共に進化を続けてきた。
だからこそ、人間が誰も居なくなった偽景の中で、落書き達が踊っているその光景は、とても皮肉な事に感じる。
私は一晩経っても、恭司の幽霊に対して感じた恐ろしさを拭うことはできず、ほとんど寝れないままに、朝早くに身支度をして出勤し、寝袋に蹲っている七瀬を無理やり起こす。
「じゃあ、この手筈通りに」最低限の確認をしてから、私はすぐに偽景に向かって出立する。
入り口の検問で身分を検められた後、島に繋がる橋を渡り始める。朝早いせいか、橋の上は海霧で覆われていて、足元が覚束ない。なので、オクトに照明を点けさせ先導させる。
一歩一歩、歩みを進めるごとに、偽景の異様な輪郭が顕となっていき、朝霧の中にその怪物的な孤影が、段々と象られていく。
その姿を見た途端、私は、どこか別の――黄泉の国にでも誘われてるいような畏れを感じ、桟橋に懸架されたロープを握る力を一層強めながらも、先を示すオクトの光を必死に追いかける。
そうして、やっとのことで偽景に到着し、昨日と同じように移動して、巨大な掌の構造体を目の前にしてから、その正体を明らかにするための準備を始めた。
前日と同様に、オクトから伸びるケーブルを手袋の端子に差し込み、深く深く息をしてから、偽景のその躍動する表面を手で触れ、撫でてみる。するとそこだけ色が頭の中のイメージと同じ色で光り始める。
そこからが、昨日とは違う。
私は、オクトから伸びるもう一本のケーブルを、私を介さずに直接偽景の、その巨大な掌の隅に突き刺した。オクトから伸びる黒いケーブル一本は私に、もう一本は偽景に繋がって、更に私は偽景の掌に触れていて、入力と出力が循環するように環境が設定されている。
そうして、私は、恭司が私の書いた文字の代わりに渡しにくれた、あのシンボルを、頭の中から一つ取り出し、印す。
それに、すぐさま偽景が反応する。さらに私は、私は恭司の残した絵から培ったイメージを想起し、すぐに別の模様を描き始める。
脳のどこか、情動によってのみ解釈される、非言語での対話。
七瀬が、恭司が存在するかを確かめるために、提案したこと。それは、私の恭司の残した絵を元にした落書きに、偽景が応えるかどうかを確認することだった。
私が偽景に描くイメージの連続、それに偽景がどう反応するか、さらに、それに私の頭の中の状態はどのような変化を齎すのか、七瀬はそのふたつを確認しながら、そこに相関が見られるかを確認する。
「もし、環ちゃんと偽景の双方の入出力に、何らかの関係性が見られるならば、そこから、偽景のシステム全体を解明する手段を見つけられるかもしれない。もしそんなことができたならば、偽景の初期化、つまり、僕たちの目標にほとんど王手といっていい。本当にそんなことができれば、だけど」そのように、皮肉っぽく七瀬は言った。
けど、もし本当にここに恭司がいて、さらに私が彼と、彼の創出したシンボルを介して対話でき、さらにそれを元に偽景を破壊できるとするのならば、私は、彼をもう一度殺すことができてしまう。そのスイッチを託された時、私はどうすればよいのだろうか。
「環ちゃん、感情が乱れてる。今は集中」
七瀬の真剣な口調で私は我に返る。そうだ、今はそんな先のことを考えるべきなんかじゃない。まずは、この偽景の生み出し続けるイメージに応えていくべきだ。
構造体の表面には、暖色の色同士が混ざり合い、熱された宇宙のような艶めかしいウェーブとなって、私に立ち向かってくる。それに私は、躍動感のある乱雑な線を描き、辺りに金粉のような斑を散らして応対する。描きながら、それはどこか、異国の秘された儀式のように思えてくる。
入力と出力を繰り返す内に、感覚と運動の循環に飲み込まれ始める。まるで、心が通じた相手のダンスを踊っているかのようで、相手の意図を脊髄で理解し、次のステップが自然と脳裏に浮かび、イメージした色を指に乗せつつ身体のあらゆる筋肉を動かしながら、新たな記号を追加させていく。頭の中のイメージが偽景に転写され、偽景からの呼び声にまた応えていく。
無秩序に感じるものの、どこか脈々と繋がる再生的なイメージ、偶発性によって引き起こされた秩序だった連なりが、私のどこかに保存されている、在りし日の記憶を発火させ続ける。偽景と私は直接つながってないはずなのに、偽景、あるいは彼の発するイメージが、私の脳内に溶け込んでくる。
けど、歯がゆいことに、そのイメージはいくら頑張ってもピントが合わず、頭の中に結像するまでには達しない、私は、その意味を理解しきれない。
「環ちゃん。そろそろ」
イヤフォンから響いた声で、瞬時に現実世界に引き戻される。その瞬間、どっと身体に負担がのしかかってきた。
体感時間としては数分程度。しかし、時計を見ずともわかる。私はここで何十分も踊り続けていたのだろう。彼が声をかけなければ、いつまででもずっとそうしていたはずだ。
「大丈夫?」七瀬が、心配そうに声をかけてくる。
「うす……」その場にへたり込みつつ、オクトのカメラに向かって、強がるようにサムズアップを見せる。身体は思うように動かないほどに疲労を感じつも、しかし、不思議と朝まで感じていた沈鬱な気持ちは薄くなっている。
「暫くの間休憩したら撤収しようか。続きはまた明日……にしても見事だね」
「なにがですか?」私は酸素が足りない頭で返事をする、と、七瀬は「前、前」と言ってくる。
見上げると、そこには、偽景と私の共作があった。
「すごい……」
その軌跡の一つ一つにさっきまで刻んでいたリズムの残滓を感じさせる。まるで見るものを包み込んでくるような、綿密なつながりをもった点や線。表面には、油膜のように、極彩色の模様を漂っていて、まだ私の次の動きを待ち望んでいる。
そのとき、私は自分の頬から涙が伝っているのに気づく。でも、なんで泣いてるのかは自分でもわからない。
その代わり、まるで夢で大事なことを教えてもらったような、けど、それを忘れてしまったような、そんな感覚だけが体内に残留しているのがわかる。偽景から――恭司から、なにかの想いを確かに託された。けど、砂で作られた器を渡されたみたいに、私の手に移った瞬間、すぐさま塵と化して消失してしまった――そんな喪失感だけが漂っていた。
自然と私の身体が動く。立ち上がって、吸い寄せられるように、その巨大な掌に自身の両手と額を重ね合わせて、身体の重心を、そのぶ厚い壁に預ける。
そこでずっと、何も考えずにそうしていたかった。
それからも何日かは、まったく同じ試みを私と七瀬は繰り返し続けた。同じように朝早く繰り出し、同じように偽景と私は色と模様で対話をし、最後、同じように掌の前で佇み無言で過ごす。
その毎日を繰り返すたびに、最初は疑っていた彼の存在を、確証はないままに、次第に当然の存在のように感じ始めた。なのに、自分でも意外だったけれど、そうして恭司の影を感じるようになればなるほど、最初の頃の、彼への畏怖の念は無くなっていった。
でも結局、彼から託されていたはずのメッセージが、私の頭の中で像を結ぶことはついぞ無かった。突然、七瀬が急に「データはもう十分」と終了の宣言し、その後に彼は、何週間も会社に来なくなったからだ。
彼に連絡しても、『一人で集中して考えたいことがある』だけの返信以降、音信不通。
一人だと偽景の中に入ることもできず、折角少しずつ消えそうだった罪悪感も、また日毎に存在感を増してきた。どうしようもないまま、私は毎日誰もいないオフィスを訪れ、日がな一日ビルの屋上からずっと偽景の姿を見下ろしながら過ごした。
月が変わった十月の夕方、少しずつ寒くなってきて、服装に悩み始める季節の変わり目。
その日だけはいつもと違い、今日に限って築地の周りが騒がしかった。なにかの監査が入っているのかもと、いろんな制服の人々が行き交いする姿を尻目にオフィスに赴くと、七瀬が中で電気も付けずに暗い中に佇んでて、ギョッとする。
「内部には、やはり特定のパターンがある」
開口一番に彼はそう言うと、「これ見て」と、驚く私を放ったままに、ぼんやり光る机の上のディスプレイを示した。
メインのディスプレイが2つの画面に分割して表示される。一つには何やらアルファベットやら矢印やらで表記に従って色付けされたコード、隣にあるもう一つの画面には、見たこともないような記号で構築された、複雑そうな数式が踊っている。
「これは?」やっと私は疑問を口にできた。
「僕が何日も閉じこもって開発した、偽景解析用の独自のプログラミング言語。偽景には、人の作った命令としての論理的言語と、相転移から後に生まれた、自然現象のような連続的な場の表現としての数学的言語が混在している。それらふたつを複合的に扱うため、わざわざ自分で作ったもんだよ。ミクロな非平衡のシミュレーションをおこなう連立非微分方程式と、それを補完するために十分にマクロとみなせるオーダーごとに空間を分割し、局所的な熱力学関数を定義して、さらにそれらを包括して扱えるように、圏論の概念を使って統合して……」
「あの……」またいつもの悪癖である説明癖がでていると思って、私は言葉を遮ろうとする。
「まあ、訊いてよ」
けど、私の遮りに彼は全く気にしない。そこで、私は気づく。いつもと違い、彼の目には一切、好奇の色が映ってない。その、今までにない、真剣な表情と口調に私は少し怯む。
そこでやっと私は彼の顔をちゃんと見た。ディスプレイの蛍光で照らされた彼の表情は、不健康そのものだった。顔は土色になって、目の下のクマはどす黒い染みのようになっている。
七瀬は続ける。
「何が言いたいかっていうと、偽景の生物たちは、非連続的なデジタルシステムと連続的なアナログシステムの二層で構成されてるってことなんだ。それらが互いに互いに影響を与えるフィードバック構造によって、今の偽景はまるで生命体のような複雑性ながらも、安定的なシステムを自発的に獲得したわけさ。それは人間と同様に」
「人も?」
「人も、というか多くの生物達も。僕らには、脳の神経系が送り合う神経信号のデジタル過程と、それによって制御される筋肉の収斂や化学物質の分泌のようなデジタル過程が複合的に組み合わされている。それらが相互に干渉し合うことで、人間も他の生命も、生命として複雑なシステムを作動させている」
言いながら彼はまたキーを打ち込んで、一つのグラフを見せてきた。横軸は時系列、左端には二年前、つまりこの会社を設立してからの日付が刻まれている。縦軸の単位は何かの情報量を表すもののようだけど、具体的に何かはわからない。
そして、グラフの線は、右端、つまり現時間に近づくにつれて、気持ちいいほどの上昇を見せていた。
「これ、なんなんですか?」見せるだけで一向に説明しようとしない七瀬に苛立ちつつ訊ねる。
「作ったシステムで、今までのデータを再解析した結果。偽景の構造体同士が協調し、シグナリングを送り合ってる、ってことは最初から判明していたけど、その複雑性がここ直近で指数関数的に伸びている。つまり、シグナルパターンがホワイトノイズはなく、特定の規則が存在する」
そこまで言って、まだ私が置いてきぼりなことに気付いたらしく、「ええっと……」と言いながら、辺りを見回し、もので散乱する自分の机から、小さなオブジェを手に取る。
「喩えるなら、相転移直後の知恵の輪を、考えなしに解いてる状態だった。こんな感じに」といって、その輪をガシャガシャと乱雑に動かし始める。
「けど言うまでもなく、こんな解の探索法はやり方としてスマートじゃない。いつか解けるかもしれないけど、その方法には、途方も無い時間がかかる」
「でしょうね」
「でも、もしコツさえ知っていれば」彼は手首を捻る動作をすると、するりとその金属は二つにバラけた。「こんな具合に一瞬で解ける」両手にその部品を持ちながら、七瀬は言う。
「つまり?」私は焦燥に駆られ、結論を急かす。
「ここには恐らく、複雑化した内面のような語られるべき意識を宿している。でもその獲得は、ノーヒントで行われたわけじゃない。おそらく初期から、それを補助するための解答例みたいなものが既に組み込まれていたはずだ。僕たちの脳は、運動を制御する神経系が頭部に移動して脳になった。偽景は逆に脳の仕組みを逆解析することで、広がる偽景を制御するシステムを自然に確立しているのかもしれない」
「そんなこと……」幽霊がいるという私よりも、よっぽど妄想がひどいんじゃないか。
「そして、直近に絞って偽景を解析した、時空間パターンがこれ」と言って、もう一つのディスプレイに、幾何的なパターンをふたつ指し示す。
「どっちかが、偽景の、そして、もう一つはサンプルとして、君の」
「私の?」
「君の、脳の時空間パターンをプロットしたもの」
その二つの図に私は戸惑う。なぜなら、ほとんど差がなかったから。
「七瀬さん、だとして、それはいったい、誰の脳、誰の意識なんですか⁉」
掠れた声で言いながら、私は七瀬に詰め寄る。
でも、七瀬はその疑問には応えてくれない。その代わりに、存外の事実を伝えてくる。
「ここまで話したのは、せめてもの義理を通したかったからなんだ」
「義理?」一体何のことだろうか。
「偽景の特定のパターンが解明できたということは、すごい単純化して話せばだけど……原理的には、これを反転した位相を送り込めば、その意識を消失させることも可能になる」
「消失……」
「つまり、偽景の活動を停止させて、すぐにでも、素子をただの有機物の塊に変えられるってこと」
私は、それを訊いて、次の言葉を失う。もしも、七瀬の言うとおりに偽景の活動をすべて沈黙させることができるならば、私の罪も、消えるかもしれない。十年ずっと、私を狂わせるように悩ませてきた悔恨も、綺麗サッパリなくなるのかもしれない。
だけど、何日もの間、恭司の亡霊と対話を続けた今ならば、はっきりと断言できる。
「七瀬さん、私はその提案には反対です」
私は、その方法に甘んじるわけにはいかない。恭司を二度と見捨てるわけにはいかない。たとえ、会社の最終目的に手が届きそうだとしても。
彼の亡霊が私にくれたメッセージ、それが私のなかで、きちんと像を結ぶまでは、絶対にそんな事はさせたくない。
しかし、私の覚悟に、七瀬は何かを諦めたような悲しそうな顔になる。
「これは、既に決定事項だ。すでに自治体とも連携を取ることが決定して、明朝、僕の提案通り初期化が実行される」
「な⁉」手前勝手な振る舞いに、私は苛立ちの声を上げる。
「都議会の選挙前の時期だったから、話が早かった。偽景の対処は、第一党の公約の一つだからね。今までの暫定対応でなく、本当に効果がある手が打てる僕の提案は、渡りに船だったらしい」
そこで、私は七瀬に対する違和感の一部が氷解した。時々七瀬と会っていた黒服、収支が合わないのに回り続けた潤沢な計算資源、それらは偽景を初期化すること条件に、どっかしらから投資してもらった資金なのだろう。恐らく、おおっぴらに言えない類の。
でも同時に当然の疑問が湧く。なんで七瀬は政治家達を説得できたのだろうか。彼らだって、可能性の無いところには何も提供しないはずだ。それには、七瀬ならば能動素子に対して手を打てると、そうと思わせられる理由がなきゃ、彼らも耳を貸さないだろう。
「理由は?金ですか」ついそう怒鳴ってしまうが、七瀬の目的が金じゃないことは、私が誰よりも知っている。
「金はあくまで建前だよ。本気じゃない」
「じゃあ、なんで⁉」怒りに任せ、叫ぶ。
「なんでそんなすぐに、私に相談もなくって言いたいのかい?それは――」
七瀬は、頭を乱暴に掻きむしって、重々しく口を開く。
「それは、僕が、能動素子の、特に増殖機構に携わっていた人間だから。だから、潜んだ欠陥を見逃した責任の一端は間違いなく僕にある。つまりは、君の弟が死んだのも」
そこで私は、頭のどこかのヒューズが切れたことを冷静に自覚した。すぐさま周りに置いてある時計や空き缶や本やケータイやら何やらを彼の顔に向かって投げつけ、それを手で顔を覆ってガードする彼に追撃を加える。勢いをつけて、七瀬のヒョロい胴体に蹴りをかまし、そのまま馬乗りの姿勢で何発か、顔面を殴打。そこまでの一連の動きを、自分でも驚くぐらいにスムーズに実行できた。
「おまえのせいで!」
ビル全体に轟くほどに私は叫び声を上げ、喚き散らしてから、なんにも言い返さない七瀬を見下ろして、次に何をするべきか一切検討がつかずに狼狽えたまま、オフィスから逃げるように飛び出し、屋上に出る。
そこからの見える真っ赤に沈む夕焼けと、国道304線、その端は陥落した勝鬨橋。その後方にある偽景の、その途方も無い姿が、私に迫りくるようだった。
# 7
真っ赤に染まる東京湾と、その中に浮かぶ偽景を眺めながら、私は先程の七瀬の言葉を思い返す。
私が七瀬に向けた怒り、けど、それを執行する権利は私にあったのだろうか。「おまえのせいで」なんてそれこそ、恭司が私にぶつけたい言葉ではないだろうか。
もし、七瀬の言うとおり、明日にでも偽景が無くなるならば、私が十年抱えてきた、この罪悪感も綺麗にさっぱり拭えるのかもしれない。ならばそれで良いのではないか、振り払ったと思ったのに、そんな邪な考えがまた頭の隅で谺する。
その声の主は、十年前のあの時に、私に囁いてきたのと同じ奴だろう。私が十三の頃からずっと、事ある毎に押し寄せてきた後悔の波が、また再び私に襲いかかってくる。
その時、後ろから伸びている長い影に気付き、私は咄嗟に振り返る。七瀬だ。顔は絆創膏とガーゼが貼られていて、その雑な応急処置のせいで、より痛々しさを感じてしまう。
「あの、七瀬さ……」怒りに任せて殴った居心地の悪さを、どう表現していいか逡巡していると、七瀬は「ストップ」と言ってから、屋上のフェンス沿いに立っていた私の隣に移動してきた。
それから七瀬は、自分の犯した過ちについて、滔々と語り始めた。その告白を私は黙って訊き続ける。辺りには、ひぐらしの叫びと、時折響く、海鳥の鳴き声しか聞こえない。
「僕がまだ若い頃に所属していた研究室に、生物学的な側面からの知見がほしいってことで、能動素子、そのプロトタイプの開発協力の依頼が来てね。まだ新米だったけど、僕が情報処理の界隈に明るかったのもあって、開発担当の責任者に任命されたんだ。そうして、主に能動素子の増殖モジュールの設計と、それに付随する機構のレビューを任された」
私のほうじゃなく、ずっと河の向こうを眺めながら、まるで偽景に語りかけるように七瀬は語る。
「そのときの僕は、完全に自分の才能に酔っていた。絶対にミスはないと思って、仲間に碌にチェックも頼まず、新しい機構を開発し終えたら、すぐさま能動素子に組み込んでいった、それがどんな結果に繋がるかも考えないで」
七瀬は、そこで一呼吸置き、目頭を抑えながら、必死に言葉を紡ぐ。
「今まで黙っていて、本当にすまなかった。最初から、出会ってすぐから、君の家族の事は知っていた。それを知った上で……君の気持ちを利用した上で、ずっとこの計画、僕の贖罪に君を巻き込んだ。偽景をもとに戻すことができれば、それと一緒に、僕の過ちも無かったことにできるはずだと」
引き絞るようなか細い声を発しながら、最後は消え入るように喋り終えると、彼は膝を抱えて蹲った。
「贖罪に突き合わせたのは、私も一緒です」
暫くして、私が覚悟を決めてから、そう、口にする。すると、七瀬は意外そうな顔で見上げてくる。
それから、私は十年間、ずっと心の内に溜めていた懺悔の気持ちを、七瀬に向かって少しずつ吐き出していく。最初はポツリポツリと、ほんのひと掬いだけ、心奥に堆積した澱を言葉に乗せて、身体の外に出してみる。と、後は堰を切ったように、どんどんと中身が溢れ出していった。
あのとき私が、あの科学館で恭司にしたことについて、その後ずっと、その後悔で身が折れそうになっていたこと、偽景に入るたびにその一部を恭司の遺体と何度も何度も錯覚し、そのたびに罪悪感に苛まれていたこと。
気丈に淡々と話しているつもりだったけど、心の防壁はどんどん決壊していって、徐々に涙が溢れかえり、もう自分でも何を言っているかわからないぐらいにグズグズになりながらも、頑張って言葉を紡いていく。最後の方は、もう七瀬に説明しているのか、自分に向かって話しているのか、それとも恭司に謝っているのかもわからないぐらいになっていた。
あの相転移の瞬間に起きたことについて、七瀬の理解はほとんど正しい。
けど、一箇所だけ決定的な違いがある。彼は相転移が起きた混乱のせいで、私が恭司と離れてしまったことを悔やんでいると思っているだろうが、実際は違う。
あの素子達の暴走のきっかけとなった大地震、それが起きた時、私は恭司に覆いかぶさるように必死に彼を守ろうとした、けど暫くしてから、突然、彼の様子がおかしくなり始めた。明らかに苦しむような様子を見せ、次第に顔色も悪く、呻き声を上げ出した。その急変にどうして良いかわからずに私が慌てふためく最中にも、彼の様子は恐ろしいほどに悪化していった。
突如、周りで素子の暴走が起き、辺りの混乱に更に拍車がかかる。
その時、私の中の弱い自分が囁いた。もしこのまま、勝手に連れ出したせいで弟を死なせてしまったら、お前は罪に問われるだろう。けれど、もしも、ここで彼と逸れたことにすれば、災害に死の責任を覆いかぶせるぞ、と。
その囁きを聞いた瞬間、私は、彼の手を離し、そのまま弟を置いて逃げた。決して手を離さないと決めていたのに、自分の身の可愛さで、振り返ることもせず、その場から立ち去った。
「私は、本当は連れ帰ることもできたはずなのに、自分が責められるのが怖くて、彼を見殺しにしました」
私が話し終えると、ずっと黙って話を訊いていいた七瀬が言う。
「だから、was here」
それに私はびしょ濡れの汚い顔を必死に袖で拭きながら、コクリと首を縦に振る。
was hereは、自分が罪を背負うのを恐れて、居るべき時に隣にいなかった、その懺悔の証だ。
「すべてを知った後も、僕は偽景の初期化を止めることはできない」
暫くして、私が落ち着いた様子を見せてから、七瀬が再び立ち上がって、毅然と言う。
「環ちゃんには環ちゃんの、十年間の戦いがあったのだと思う。けど、僕には僕の戦いがあった。必死にあらゆる研究分野を渡り歩きながら、自分の持つすべての労力、すべての才能を、偽景を元に戻すためだけに突っ込んできた。その努力の形には、堂々と言えないようなことも沢山ある。けど、そうまでしてでも、自分の犯した罪を無かったことにするために、ここまでの十年間を必死に過ごしてきた」
「わかっています」
私も彼の方を向いて率直な思いを返す。先ほどと違って、今ではちゃんと考えがまとまっている。
「七瀬さんには七瀬さんの罪があって、それを払拭するために今まで必死だったことも」
それは痛いほどわかる。けど――
「けど、たとえ偽景が元に戻ったとしても、それで、罪が綺麗に消えることは、ない」
現実は、人間は、コンピューターの再起動の簡単には立ち直らない。
私はもう一度、築地の風景を見渡す。この付近の活気は十年の間で、跡形もなく消え去ってしまった。それは今後、数年かけても元に戻らないかもしれないし、私と七瀬の後悔の気持ちも、また一生背負っていかなければいけないものだろう。
また涙が零れそうになるのを必死に我慢して、偽景の方角を睨むように見つめながら、私は毅然と、自分に言い聞かせるためにはっきりと断言する。
「全てを消し去そうと、偽景から素子を一掃したところで、過去が無かったことになんてならない」
その言葉に七瀬は、ガシガシと両手でその無軌道に伸び切った髪を掻き乱してから、また長く沈黙する。そして、再び口を開いて問うてくる。
「環ちゃんは、これからどうしたい」
それに対する私の答えは既に決まっている。
「すべてをなかったことにするのではなく、自分の行いの報いを、ちゃんとこの目で見たいです」
もし、恭司にもう一度会えたのなら、最後に十年越しの償いをしよう。
目の前の状況をなかった事にすることで、犯した罪から免れることができるだなんて、そんな都合の良い夢は、もう見ない。
# 8
出発してからちょっとして、無音の偽景に、突如、何かが崩壊するような轟音が響いた。
「始まりましたかね」遠音の余韻が反響する暗闇の中で、私は先を進む七瀬に声をかける。
それに七瀬は頷く。「これで僕たちはもう、もと来た道を戻ることはできないわけだ」
私達が渡ってきた桟橋が崩壊した音。この後すぐに自治体主導で実施される予定の初期化作戦に際し、想定外の事態が起きた場合に備え、外部への被害拡大を抑えるための措置だ。
既に戻るための橋は無くなり、内部は、完全に連絡が取れない電波遮断の世界。勿論、誰にも私達が偽景の内部にいることがばれないように、有線ケーブルは垂らしてきてはいない。こんなの、普通ならば自殺行為も良いところだ。
私は七瀬に、偽景が初期化されるその前になんとしてでも、最後に恭司と別れたあの、偽景の奥地の科学館を訪れたいと願い出た。
「七瀬さんの力があれば、今ならば、恐らく行けるはずです」
あの科学館の周囲を囲う構造体は、他とは段違いに装甲が厚く、今まで私は一度たりとも、その付近には近づけなかった――いや、違う、近づこうともしなかったんだ。一番恭司の遺体がある可能性が高いはずなのに、そこを訪れることをこの三年の間、無意識に拒絶いてきた。
でも、今は違う、
暫く二人で偽景の中をまっすぐ進むと、構造体同士が歪に絡まりあっていて、それ以上は進めない箇所にたどり着く。普段なら、別のルートを選ぶところだけど、今回に限ってはそうじゃない。
「じゃ、最初はこの辺りで」
私達の行く手を阻む、頭頂部を起点に逆さまに生え上る、巨大な自由の女神像を目の前にして、七瀬は作業を開始する。オクトが運搬してきた彼のPC、そこから伸びるケーブルの端子を、その構造体の端っこに繋いだ後、少し小高くなっている場所に避難してから、端末のキーボードを叩き始める。
そこから待つこと数分、突如としてその女神の顔が、まるで厚化粧が剥がれるみたいにどろりと溶けて、どろどろの素子の塊となった。
「すご……」
強固に見えた巨大な像は液化して、周囲に流れ去っていく。
「どうよ」七瀬は得意げに振り返ってくる。
「本当に、崩壊させられるんですね」
「今は局所的に実行しただけだけど。電波遮断を停止させれば、偽景全体にも同じ処理を拡大できる。外部ではそのための準備がつつがなく行われているはずだ。恐らく、朝日が昇るころには、今の偽景の姿は一切合切なくなっているだろうね」
そうだ。だからすべてが消えるその前に、私達は恭司の亡骸に辿り着かねばならない。
七瀬のおかげで、迂回すること無く道を切り開きながら一直線に進めたから、小一時間程度歩いただけで、目的地である科学館、その姿が目に入るぐらいの距離にまでは近づけた。
けど、そこからが想定以上に時間が掛かる。近づけば近づくほどに、能動素子は活発化していて、奇怪で複雑な形の構造体が繁っており、数メートル進む毎に、七瀬の処理を待たなければいけなかったからだ。
構造が生まれては壊れていく、超過密に密集した構造体の鬩ぎ合い。その脈打つように蠕動する内部をゆっくり着実に前進していくと、暗闇の中に浮かぶ科学館、その悍ましい輪郭が、一歩ずつ進むたびに鮮明になってきて、次第に私の足はすくみ始める。
その科学館は、古い記憶とはまるで異なり、巨大な生物の臓器のようにも、人類とは全く異なる文明の社のようにも見えた。
その中に恭司がいるかもしれない、その事実が頭の中で渦巻くたびに、私の心臓は破裂寸前のように動悸し、自然と息も荒くなる。罪を認め処刑台にゆっくりと進む囚人のような、暗澹とした気持ちの嵩が増していき、心が内側からじわじわ押し潰されていく。
でも、それでも、私は、前に進まなければいけない。自分の犯した過ちと、恭司の最後をしっかり看取るまでは。
「これで、最後」
七瀬がそう宣言した瞬間、十年間、重厚に閉じられた壁の一部がどろりと溶けて、その内部に侵入できるようになる。開いた横穴に、まずオクトが先陣を切って入り込み、内部を全方位にライトを照らす。その後、私達が意を決して入り込む。
屋内の光景を目にした瞬間、私は絶句する。
内部は、卵の殻のような巨大な楕円形の空間になっていて、その高いアーチ状の天井には、灰色の下地に、数多のシンボルが舞っていた。下から強烈な光に照らされていて、まるで、深海の奥底から、いまだかつて誰も見たことがない生物、表の歴史とは異なる形で進化し続けた、そんな生態系を垣間見ているようだった。
その光景に七瀬は釘付けにされていたけど、私はすぐに地上に置かれた一つのオブジェに釘付けになる。
地上は円形に広がる空間。地面には仄かに光を発する青白い線が、葉脈のように枝分かれしつつも数多に分岐しながら、四方に広がる壁と接続している。円の中心は、その光線の焦点と一致していて、光彩の源流が一段と煌めいている。
そして、その光の中に、素子の肉で形作られた台座があり、さらにその上には、何かが鎮座していた。
その正体がなにかわかった途端に、私の頭の中はまっさらになる。
ふらふらと、七瀬が止めるのも気づかず吸い寄せられるように、その中心に移動する。
恭司だ。
長いまつげ、刈りきった短髪、少しだけ歪んだ耳の形、小さな唇……頭だけの、当時とまったく同じ、恭司の姿がそこにはあった。
眠るような表情で佇んでいるその頭部を、戦慄く両手で持ち上げようとしたところで、ボロボロとその貌が崩れていった。私はそれにおろおろと慌てふためくが、その瞬間にやっと気づく。
これは、恭司ではない、素子達が恭司を象った、素子のデスマスク。その頭頂からは、何本ものどくどくと脈打つように蛍光する素子の束が伸びていて、それらが地面を這ってこの建物、どころか、恐らく、偽景全体と繋がっているのだろう。
それで、やっと私はその事実を認める。やはりこの子は、あの時に素子の中に取り込まれて、死んだのだ。
その遺体を恐らく素子達は飲み込み、人体の内部構造を把握して、七瀬が推測したとおりに、この巨大な――素子達の蠢く世界の礎として利用したんだと。恭司に電子化された脳の一部と素子とが接続され、二次元平面上のディスプレイの代わりに、この偽景を描いたのだろうと。
今までずっと彼の痕跡を探していた私は、実のところ、恭司の頭の中をずっと歩いていたのだと。
どれほどの時間が経過しただろうか、ずっとそうして蹲りながらみっともなく泣いていると、途端にオクトが緑色に輝き始めた。
「通信が行えるようになったようだね」
長らく続いた沈黙を破って、七瀬が言う。
「……ですね」外では、初期化作戦を次のフェイズ移行しているのだろう。ぐしゅぐしゅになった顔をぶっきらぼうに拭きながら、私は立ち上がる。
「環ちゃん、最後にもう一度訊くけど、本当にやる?」七瀬は、私にもう一度確認してくる。決して、臆病風に吹かれたのではなく、本当に私の身を慮ってのことだろう。
質問に応える代わりに、私は今の心中を正直に吐いていく。
「私は、恭司を見つけたら、自分がどう考えるのかが怖かったんです。ひょっとしたら、私が、彼を置いてったことが、表にでて、誰かに罪を負わされるのが、怖かったから、その死を明確にして、真実を隠したいだけだったんじゃないかって。だから、もしかしたら、彼の遺体を、死んでることがはっきりわかったら、どこかで安心するかもしれないかもって、そう、考えることが、本当に、何より恐ろしかった」
あんなに泣いたせいで、喉の痙攣が収まらず、とぎれとぎれに言葉を発す。
「でも、今は違う。私は彼がいなくなったことを受け止め、そのことをちゃんと、悲しいと感じているんです。だから、もし恭司じゃない意識でも、出来損ないのコピーであっても、その彼が、自由に動ける場所を作れるならば、私はそうしてやりたい」
だから、彼を外に連れ出して、自由にしてやりたい。十年かかったけど、その願いを叶えてやりたい。たとえ自己満足だったとしても、恭司だったものに、自由な肉体を与えてあげたい。
「よし。なら始めようか」
最後に七瀬は、それだけ言うと、端末を開いて、事前に取り決めていたように、準備を始める。
私は偽景を――恭司を開放する手立てが無いかを時間が無い中で考え、それに七瀬が前にやっていたゲーム、ティアラがひょっとしたら使えるんじゃないかと思い至った。
七瀬がやっていたように、ゲーム内部ではユーザーの入力に従って、構造物を好きに構築できる。だから、現実の世界には既に居場所がないこの素子の群れにも、そこでなら、好きに自身に秘められた可能性をいくらでも、無限に試行できるはずだ。
けどそれには、条件がふたつ、ひとつは、外部の計算マシンへ変換を施した膨大な構造データを送信するために、偽景内部がオンライン状態である必要があること。
そしてもう一つは、私の脳を介して偽景の構造を翻訳し、同時に七瀬が作った独自のシステムプログラミング言語で、偽景を外部のシステムと互換性があるように、形式を整える必要があること。
だから、私と七瀬は、十年ぶりに偽景の拘束が解かれる、この瞬間を待っていた。
ここからは時間との戦い、一発勝負、私と七瀬で、偽景を余すこと無くティアラの内部に移植させていく。
呼吸をした後、これで最後となる、偽景の対話を行う覚悟を決める。
フードをギュッとかぶるルーティンを行って、恭司が鎮座していた輝く地面に、手をしっかりと重ねる。すると、まるで泉から湧き出るように、ぼこぼこと素子がその場から噴出して、私を包み込み始めた。
瞬間、七瀬の慌てふためくが、私はジェスチャーで問題ないことを伝え、気にせず作業に移るように指示する。タガが外れて、増殖の暴走を始めたようにも思えたが、不思議と偽景からの敵意は感じない、微熱をおびた素子の膜に包まれながら、私は、彼らを外部へ逃がすためのパスを構築し始める。
すぐさま、頭の中に七瀬が実行した数式や論理の展開が理解可能なイメージとなって流れ込んでくる。その意味を私は頭の中で感覚的に解釈して、私を取り巻く偽景と接続を開始する。脳だけでなく、身体全体――末端に至る神経が偽景とつなげ、流れの水先を指し示していく。
あらゆる解釈系が私の頭の中で混ざり合い、相互作用して、互いに手を取り合っていくかのように、記号同士がつなぎ合わさっていく。言葉、色、シンボル、コード、数式……一つの現象に出会っても、それを記述する言語は異なる。違った言葉で私達は目の前の現象を解釈し、対話し、互いに互いの形を認識し合い、異なる言語で世界を記述する。その界面を私は調整し、綿密に折りたたまれたたシンボルの束を、流れるままに解して、偽景のシステムを私達のシステムへと解釈をさせていく。その場においては、私は中心にあり、同時に空っぽの仲介者に過ぎない。境界面が不定の、柔らかい界面のダイナミズム。雲のようにふんわりと浮かぶその作用圏のなかで、揺蕩うように身を任せ続ける。
遠方から燦めくシグナル同士を接続させ、新たな意味を見出すプロセスを、私は所与のものとして、瞬時に判定し続ける。楽団が織りなす重厚で繊細な音の調べのように、多数の異なった概念が形を変え、協調しながら紡ぎ合わせていく。
その中で、少年のような人の形が、私に向かって手を広げるのを、私は確かに見る。
その瞬間、私が病室を訪れるたびに、恭司が私のためだけに描いてくれた模様の意味が、やっと理解できる。それは、私に対する、愛情の証だったんだ。
恭司は、私が病室を訪れるといつも、その模様を使って、喜びを表現してくれていたんだ。私が彼の皮膚に刻んだ文字のお返しにくれた、すべての模様は、彼なりの私に対する、感謝のかたちだったんだ。
最後、彼は私に、一度も見たことがない、あるかたちを渡してくれた。それを私の頭が受け取った瞬間、丁寧に閉じられた包が自然と解かれるみたいに、その中に秘められた意味が展開されていく。ずっと朧げにしか理解してなかった、偽景から――恭司からのメッセージが、やっと頭の中で像を結んだ。
パシャリと彼を定義する境界が消え去って、あとには水滴だけが残った。
「環ちゃん!」
目を覚ますと、私はびしょ濡れで、その場に打ち捨てられたように横たわっている。すぐさま起き上がって、
「どうですか⁉」うまくいったかどうか、せめて、それだけでも確認したい。
だけど、七瀬は「あとで!」と叫んで、退路の方向を指し示す。
よく見ると、周りは強烈な熱射を浴びせられたみたいに、形状を捻じ曲げながら崩れかけている。
初期化が実行されたんだ。
同時に気づく、私の身体も素子の土壌にちょっとずつ沈み込んでいた。上からは、天井が剥落した素子の塊が、礫のような威力で落下している。科学館自体の骨組みは、まだギリギリ保っているようだけど、それもいつまで持つかはわからない。
そこから脱出するために、私と七瀬はオクトのリールから伸ばされるコードで、身体をがんじがらめにする。ここまで来たら、彼の馬力が頼りだ。オクトは私達を土壌から引っ張り出し、力いっぱいに全力で、私達二人を無理やり乗せて走り出す。ギチギチ関節が音をたてている、今にもバラバラになりそうだ。
遠くでは、肥大化し丸々と膨張した彫像の連なりが、予め一緒に死のうと決めてたように、同時に破裂し飛び散った。振り返れば、科学館の側面にびっちりとへばり付いた鉄塔を鈴なりが、どろどろに溶けて、切っ先から素子の雫をぼたぼたと垂らしている。近くでは、見上げるほど大きな薬局の人形が、グロデスクな笑みを浮かべながら、素子の海に溶けていった。
それらに私は目を奪われていたが、崩壊の地響きの中で七瀬が大声で喚くので、大慌てで前方に視線を戻す。私達が疾走する方向には、痘痕の塊のような、広告看板同士がぐちゃぐちゃに固められた万彩の巨岩があった。だけどオクトは一切意に介さず、一気にその塊に突っ込んでいく。ぶつかる瞬間、私達は反射的に目を瞑って、衝撃で吹き飛ばされないようにと、融解した素子の膜がベッタリと張り付きながらも、必死にオクトにしがみつく。
なんとか偽景の埠頭にまでたどり着いた瞬間、今までで一番大きな、山鳴りのような音が鳴り響いた。すぐさま土砂のような素子の洪水が押し寄せてくる。私達は息を止め、予め着込んだ救命具を頼りに、膨張式のオイルフェンスまで泳ぐ。
決死の思いで、そこまでやっと泳ぎきって、大きな危険は去ったことを認識してから、もう大丈夫なんだと、大きく息を吸って、大きく吐く。それから、フェンス越しに海面をゆっくりと移動し、二人ぐらいは上れそうな大きさの作業用フロートまでたどり着く。
そこにまず私が上がり、そのあと、遅れて来た七瀬を上げるために、左手を差し出す。七瀬が掴んだ瞬間、急に彼は急に焦った顔で「しまった」と言ってくる。
「なにかあったんですか⁉」ひょっとしてなにか決定的なことを忘れていたんじゃないかと私も焦る。
けど七瀬は、
「最後の大脱出は、映画っぽく、もっと格好いい握手で決めたかった」
そんなことを、あまりにも彼が真剣な顔で言うので、私は呆れるを通り越して、つい笑ってしまう。
遠くからは、曙光が差しこめていて、目の前に広がる光景はまるで、十年の間に積もり積もった素子が一掃され、ようやく顕になったその泥底を、洗い清めているかのようだった。
# 9
その後は、慌ただしかった。すぐさま発煙筒で救助を呼び、入院、徹底した胃洗浄、体力が回復した後、聴取、聴取、聴取の日々を過ごし、やっと何日か後に私と七瀬は解放された。
最初は、退去命令が出ている月島に半ば無理やり侵入したことに対して、刑事罰の可能性すらあったけど、七瀬のコネと、あまりにも強引に初期化を推し進めたことに対する、向こう側の瑕疵をつついて、最終的に事故ってことでなんとか処理され、私達は娑婆に戻って来れた。
それから更に数日経ってから、私と七瀬はオフィスのビル、その屋上にまた集合する。
「お久しぶりです。お元気でしたか?」
「全然。ここんところ数日、ずっと最後の大仕事をまとめていたから、全然寝れてない」
徹夜続きと彼は口では言っているけど、以前よりも目の下のクマは多少は薄まり、初めて見る健康的な顔色を見せている。それを見て私は安心する。七瀬にとっても、十年間苦しんだ憑き物が多少は落とされたのかもしれない。
だけど、決して全てが消え去ったわけではないだろう。それは私も同じだ。
屋上から見える。快晴の空の下に広がる月島にまだ残った素子を撤去する重機の姿、その方角に向かって、どちらが言い出すでもなく、自然と私と七瀬は静かに手を合わせ、黙祷する。
それが終わった後も、暫くふたりとも無言で、偽景の残骸、それと周囲に広がる、人の気配がほとんど無い風景を一望する。
一度焼け野原になった経済の生態系もまた、簡単には元に戻らない。十年間、この土地は、忌み嫌われ続けてきた。素子の驚異が無くなったからといって、昔の活気に湧いた姿がすぐに復活するわけではないだろう。
それと同じように、私の恭司に対して行った悔恨も、素子のように綺麗には消えてくれない。それは、まだ心に根深く入り込み、覚悟していたように、一生を一緒に過ごしていくかもしれない。
「七瀬さん、それで結局……」
私は、本題に入る。あの時、最後に私達は移植した結果は、果たしてどうなったのだろう。
「それがね、とにかくこれ見てよ」それに七瀬は、話したくてしょうがなかったかのように目を輝かせながら、パンパンに詰まったリュックからタブレットを取り出し、私に見せてくる。
「これは……」
広がるゲームの画面には、同じゲームとは思えないほどに、活気に満ち溢れていた。
でも動いているのは人型のキャラクターだけじゃない。色とりどりの構造物もまた自発的に動きあって、沢山のユーザー達と交流し合っている。
「昔の伝手を頼って、偽景をティアラに正式に組み込んでみてはどうか、運営に提案してみたのさ。向こうもなにかカンフル剤が欲しかったみたいで、すぐに取り入れられると、ここ数日で一気に多くのユーザーが集まってきたのさ。そうして、偽景とプレイヤーが、一緒にコミュニケーションを取り始める内に、共同で街を構築するようになったんだ」
その七瀬の説明を訊いて、私はまた、みっともなく泣きそうになる。これからの私の人生に、それで、ほんのちょっとだけ、希望が灯ったように感じたから。
あの最後の瞬間、私は恭司を模した能動素子を、人工物でなく、生命として認めてしまった。だから、彼らが、たとえ実体を伴わなくとも、人々から忌み嫌われることなく、その存在を認められる居場所が作れるならば、これほど嬉しいことはない。
「で、環ちゃん」
「はい」
「今さ、僕ら無職じゃん」
「あ、はい」ちょっとだけ、涙が引っ込む。
「だからね。時間は余ってるわけじゃない」
「まあ、そうですね」
「僕の頭の中には、このシステムをゲームだけじゃなくて、都市計画や、生命分野の研究、技術や科学の分野に転用できる。そのためのアイデアが沢山ある」
「それは嬉しい限りです」本当に。
「だから……僕らが偽景から救出したのを、オープンソースとして公開して、運営していく団体を、一緒に立ち上げない……かな?」
私は七瀬をじっと見る。よーく見ると、七瀬の頬がちょっと赤い。本当は、こういう誘い文句が苦手なんだなと、初めて気づく。
「私で良ければ、喜んで」
私は、はにかみながら、その提案をすぐさま快諾する。
彼らと人々が、もう一度仲良くできるための仕事ならば、私はこの先の未来をすべて投じても良い。人類と彼らの共有地をもう一度作るべく、これから先も、ちゃんと生きていこう。
偽景が崩れる最後に、彼が私に伝えてくれたメッセージは、I am still here。
私もあなたと共にいる、今も、これからも。
了
# 参考文献
計算機と脳: J.フォン・ノイマン
自己組織化と進化の論理: スチュアート・カウフマン
人は明日をどう活きるのか 未来像の更新: 南條 史生
アルゴリズミック・アーキテクチュア: コスタス・テルジディス
建築情報学へ: 建築情報学会
WIRED VOL.33: WIRED編集部
タコの心身問題頭足類から考える意識の起源: ピーター・ゴドフリー=スミス
なぜ脳はアートがわかるのか 現代美術史から学ぶ脳科学入門: エリック・R・カンデル
ニューロテクノロジー ~最新脳科学が未来のビジネスを生み出す: 茨木 拓也
進化の意外な順序: アントニオ・ダマシオ
意識と脳思考はいかにコード化されるか: スタニスラス・ドゥアンヌ
アゲインスト・リテラシー グラフィティの文化論: 大山 エンリコイサム
美術手帖 2017年 6月号: 美術手帖編集部
眼の冒険 デザインの道具箱: 松田 行正
未来をつくる言葉わかりあえなさをつなぐために: ドミニク・チェン
マイクロサービスアーキテクチャ: Sam Newman
文字数:47925
内容に関するアピール
『もし、プログラムコードが身体性を持ったら、いったいどういう可能性がありえるんだろうか?』を起点として書きました。
エンジニアとしてシステムを開発をしていると、時折、『こいつ生きているのでは?』と思うようなバグに遭遇します。その場合は当然、必死にそのバグを潰します。しかし、自分が過去に物理学の研究室で、生命について研究していたこともあり、そのような行いは、開発者によって想定の枠組みにシステムを無理やりに抑え込もうとしているようにも感じていました。
私達生命は、そのような突然変異を繰り返し、進化し続けてきたわけですから、ある意味バグによって生かされてきたとも言えます。なので、そのバグにこそ、人の制御を離れ、複雑に絡み合う中で、誰に命令されたわけでもなく、自発的に新たな生き物のかたちが誕生する可能性が、秘められているのではないかと思いました。
それと並行し、そのようなバグを引き起こした、あるいは巻き込まれた人々は、その後どのように生きていかなければならないのかを、主人公二人が、偽景とよばれる、生命とプログラミング、建築物とグラフィティとが混ざりあう世界を探索し続けることで、見つけていく物語としました。
余談ですが、能動素子のネーミングは脳の神経細胞を表す用語から、 『was here』は有名なグラフィティである、『Kilroy was here』からとりました。
文字数:580