梗 概
未来ちゃんのオムライス
ミシュランレストランで食べた創作料理にいたく感動して以来、科学を活用した一風変わった調理が趣味の未来(みく)。ゼラチンでシート状に加工したトマトソースやホワイトソース、パスタを幾重にも巻いたラザニアバウム、アルギン酸ナトリウムと乳化カルシウムで作るイクラのような粒々カクテル、メチルセルロースの熱ゲル化作用を活用した、アイスクリームならぬホットクリーム……。あっと驚く「食べる芸術品」を生み出すことが未来の楽しみだ。自宅キッチンはまるで実験室で、母には「嫁の貰い手があるのかしら」とぼやかれる。
2回デート済みの彼氏候補・淳は、未来の趣味が料理と知って食べたがる。はりきって家に招き自作料理の数々を振る舞うが、普通の料理を期待していた淳はぎょっとした様子で、食事もそこそこに帰っていく。
生きがいを否定されたようで悲しむ未来は近所の定食屋に赴く。着いたときにはラストオーダーを過ぎていたものの、雇われ店長の藍はあまりに暗い顔の未来を見かね、まかないのナポリタンを出してくれる。仰天のおいしさだったが、藍は「落ち込んでいるからおいしく感じるだけだ」と言う。「おいしさなんて、脳で作り出された錯覚なんだよ」。
自分の腕を否定するような言い草に寂しさを感じ、藍のことをもっと知りたいと思った未来は、実験料理の味見を口実に連絡をとる。「気持ち塩を控えめに」「少し酸味があると締まりそう」と的確な提案をくれる藍には、明確に料理の才能がある。しかしおいしいと絶対に言わず、「ちょうどいい」「よくできてる」と、あくまで客観的に味のバランスを評価する。同時に未来は見た目にこだわるあまりおいしさを二の次にしていた自分に気づく。
そのうちに未来は藍が「おいしさは錯覚」と思うに至った理由を知る。彼の母の得意料理は、チキンの代わりにウィンナーを使ったオムライスで、藍も大好きだった。しかしシングルマザーだった母は、小学生の彼を置いて突然男と家を出ていった。去り際の母が残していったオムライスを彼は惜しくて食べられず、数日後に空腹に耐えかね口にするとすっかり腐っていた。以来、オムライスは見るだけで腐った味が口内に広がり食べられないという。
試作を重ねた結果、美しくおいしいフルコースが完成。未来は感謝の気持ちを込めた料理で彼を喜ばせたいと考える。何を作るべきかじっくり考えて出したのは、鮮やかな橙色のムース。
スプーンで口に運んだ藍は驚く。「オムライスの味だ」。未来が作ったのは、亜酸化窒素ガスの力で濃厚なムースに仕立てたケチャップ卵のドームの中に、ウィンナーとフライドオニオンの入ったバターご飯を閉じ込めた一品。見た目や食感は違えど、味はまさしくオムライスだ。
藍は初めて「おいしい」と口にする。未来も同じものを口に運ぶと、口いっぱいにオムライスの味が広がるとともに、心には不思議と藍の思いがなだれ込んでくるようで泣いてしまう。
文字数:1198
内容に関するアピール
何を書くか考えながらリサーチするなかで、料理はサイエンスと非常に相性のよい分野だな、と思いました。もともと「料理は科学」という言葉もありますし、それが長じた分子調理という分野もさかんです。また、人間がおいしさを感じるメカニズムは、いまだわからないことも多い研究中の分野であることを知りました。舌にある味蕾で感じる味のみならず、視覚や聴覚や嗅覚、さらには使う食器であったりそれまでの食体験の記憶であったりとさまざまなものが影響するといいます。
日々の生活に当たり前にありすぎて何の意識もしていない「おいしさ」の不思議を、読んだ人があらためて見つめ直してしまうような物語にできればなと思います。そして何より、食べることが大好きな私の「おいしさ」への情熱を生かして、読みながらよだれが出てきてしまうような物語を目指したいです。
文字数:359