梗 概
忘れられないあなたの記憶
技術革新により、脳や肉体の電子化が一般化した世界。人々は電子化技術によって、長い命を得た。生活スタイルは大きく変化し、個人の改造スタイルに合わせた個別食が流行。個食の時代となって、食事は自ら作るものではなく、最適化された食物を購入するかたちとなっていた。
電子化技術を発展させ、プログラマーとして著名なユウは、長年謎の行動に苦しめられていた。突発的な記憶喪失で、数時間前の自身の行動を忘却してしまうのだった。意識を取り戻したユウの目の前に広がる光景は、自室に散乱した残飯と汚れた食器類だった。繰り返される特異な行動の共通点は、飢餓感を伴っていることだった。様々な医療機関にあたったものの、その特異な行動の原因は判明しなかった。精神科医のサラの援助のもと、記憶を失っている間の行動を分析され、行動の類似性が明らかになる。ペーストタイプの食事を楕円形にまとめ、あたためようとしていたのだった。簡易的な自動調理機器しかないユウの自室では調理をすることはそもそも不可能であったし、ユウ自身調理の経験はまったくなかった。監視カメラに録画された不可解な行動を、毎日ユウは観察する。テーブルに並べられていく料理の配置から、自分の料理だけではなく、もう一人分用意されていることに気づく。何百年と電子化技術で体を改良し、脳の記憶形態に損傷があるのかもしれない。その事実がユウの頭を掠めた。
サラの協力のもと、信頼のおける電脳医療技師を探し出し、深層記憶と脳内チップの異常を調べることになる。MRIやヘルメットなどの機器で調査しても異常をみつけることはできなかった。深層記憶を調べるためには脳と機器を接続する必要があったが、命のリスクを伴った。サラは、記憶喪失を伴う行動の解明で命を失う必要はないことをユウに説き、調査中止を提案した。しかしユウは、深層の記憶に迫るため、命をかけた調査に挑む。
脳の状態に、電脳医療技師は驚愕する。ユウの脳は人工脳であり、もともとユウは人工脳と電子体で構成されたアンドロイドであったことが判明する。ユウは、自身のルーツに迫るある記憶に到達する。一人の女性との生活。ユウ自身の手でその女性のために作られる料理の数々。そして女性とのセックス。ユウは、その女性特注のアンドロイドだった。女性の死とともに、ユウは売却され、労働に従事している間、自我を得たユウは人間としての生活を営めるようになっていた。忘却してしまった記憶に、その女性が作った食事の記憶があった。それは、楕円形に象られた、炭水化物とタンパク質の混ぜ合わされた塊であった。サクッとした食感と、滑らかな口ざわり。その料理の名を思い出すことは叶わない。ユウにとって、もう味合うことのできない幸福そのものであった。動かなくなる手と足。ユウ自身が求めていたものは、大切な誰かとの共食だった。「ナナ」とユウの口が微かにうごいて、ユウの命は終わる。
文字数:1203
内容に関するアピール
食べたくなる話と考えたときに、材料や味のほかに重要なのは、大切な人と食すことだと思いました。大切な人と美味しいごはんを囲むからこそ、大切な人が作った唯一の料理だからこそ食べたくなるのではないでしょうか。作品に出ている料理はコロッケです。母が作るコロッケが好物なのですが、新ジャガの季節にならないと作ってくれないそうです。気軽に会えない、今だからこそ、会って共にご飯が食べられることこそが大切なんだといえる話を書きたいと思いました。私自身、コロナとともに料理を始めたこともあって、思い出深い話が作れそうです。
参考文献『「食べること」の進化史 培養肉・昆虫食・3Dフードプリンタ』石川伸一
文字数:294