梗 概
西太后の朝食
西太后が主催する料理大会に出席するため、各地の調理人達が喝采を浴びながら北京の街を歩く。その脇を杖をつく宋が歩いている。
料理大会で優勝すると紫禁城の主席料理人、中国一の料理人と見做される。貴州の料理人陳は宦官にさせられるという噂を嫌い、盲目の弟子宋を派遣する。イ族の宋は蠱毒の術(百虫を同じ容器に入れ共食いさせ、最後に勝った虫の液体を使って願いを叶える)を究めていた。
大会では豆腐が題材となった。宋は大急ぎで虫を集め、蠱毒を豆腐に塗る。
豪華な各地の豆腐料理はどれも味見役を唸らせた。最後の臭豆腐は臭さで気絶する者もいたが、食べた者は皆満点をつけた。西太后も未知の旨さに微笑み、宋が優勝した。
毎朝西太后は宋の臭豆腐だけを口にした。
臭豆腐の美味しさが広まるが、この料理は宮殿内だけの秘密にさせられた。
宋は部屋に沢山の毒虫たちを飼っていた。
天気が良い日、西太后が宋の部屋へやって来て壁を壊させ、床に裸で横たわる。西太后は虫を怖がらない。
帽子を取ると西太后の頭には葉が生えている。宋にも裸になれと言う。二人で裸になったまま会話を交わす。料理大会の日、蠱毒を使って何を願ったのかと聞かれるが宋の願いはただ「最後まで食べて」だけだった。宋は蠱毒を毒として使ったことはない。
次第に宋は西太后に心を開き、西太后が望む毒薬を与える。西太后はいつも「宋、私を起こせ」と命じて抱き上げさせる。宋にとってそれは唯一触れた女の体だった。
西太后は宋の蠱毒で宮殿内の暗殺を繰り返す。また西太后も獣を入れて闘わせる巨大な甕で獣の蠱毒を行っていた。蠱毒に毒草を入れると動物が全滅するので、毒草が一番強い。これを飲み続けて体から毒草が生えたと言い、その液体を宋にも飲ませる。
宋にも体から芽が出てくるがそれを隠す。宋はその変体を喜んだ。
宋は偶然、西太后と政局を争っている珍妃が純粋に人民のため飢饉の人々を救っていることを知る。
中国全土に広がる戦争。しかし西太后はただ毎日獣の蠱毒の液体を飲むだけだった。
ある時は病で倒れた西太后から「わたしを起こせ」と言われ、蠱毒の力で西太后を生き返らせた。
西太后の望みは長寿であったが、今は自分の死が中華の滅亡を招くことを願っていた。
宋が国民の苦しみを喜ぶ西太后を咎めると西太后は黙って宋の葉を抜く。
宋は次第に西太后を恐れ、豆腐に死に至らす蠱毒の液体を注ぐ。
朝食で毒に気づくはずの西太后が豆腐を食べたのは自分に殺されたがっていたのだと思った。
しかし毒殺されたのは珍妃だという知らせを聞く。
宋は蠱毒で自分を呪い西太后を毒死させようと、自ら西太后の壺の中に入り動物に食われる。獣に食われながら自分が西太后の体に入ることに喜びを感じた。
現在、故宮前の屋台では誰もが臭豆腐を食べられる。時々西太后の声が聞えてくるという噂がある。屋台の裏では山を覆う毒草が揺れていた。
「宋、キスしようか」
文字数:1199
内容に関するアピール
世界史でもっとも興味がある時代は、清末期の中国あたりです。
特にわたしは慈禧太后オタクなので、慈禧太后(西太后)の真の生涯と彼女が生きた史実に則った物語を書こうと思いました。そこで食事の際にはあらゆる食材を並べたという慈禧太后が、臭豆腐専門の料理人を使ってまで毎日食べたという「臭豆腐物語」を書きました。
臭豆腐については、ただ臭さを我慢して食べさえすれば、きっと日本人にもその美味しさが理解できる発酵料理だと思います。くさやの干物好きならば、この美味しさは容易に想像つくはずです。その作り方から丁寧に、臭豆腐の美味しさの謎は何なのか。いや、人間にとって「美味しい食事」とは何なのか、ということを突き詰めます。つまりそれを書くことこそ、人が何かを好きになるという感情を突き詰めることに他ならないはず。。。いや。それほどのことではないな。
文字数:392
西太后の朝食
西太后に最も愛された宦官安徳海が行った食通と自称する宦官565人への調査
「あなたの好きな料理名は」の集計。
臭豆腐・・・・・135人
米豆腐・・・・・61人
牡丹燕菜・・・・・58人
馬介休・・・・・44人
詩礼銀杏・・・・・42人
西瓜鶏・・・・・32人
獅子頭・・・・・27人
・・・・・料理10種類省略・・・・・
古老肉・・・・・2人
蠱毒の血・・・・・1人
この結果を西太后へ愉快に報告した安徳海は、その三日後に山東で首を刎ねられ、それから七日間道端に首を晒されることになるのだが、この事件とこの物語とは全く関係ない。🤞
ここから始まる短い物語は紫禁城宮殿内で圧倒的人気であった臭豆腐を発明した料理人王到和の愛と死についての記録である。
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2021年 北京の空は底抜けに青かった。北京の陳吉寧(北京市長)が本気を出せば、何でも青色に塗り替えることができた。北京生まれの蘭児だが、一度も行ったことが無い故宮北にある景山公園に向かって、赤いMobike(貸自転車)を必死に漕いでいた。それは毎朝食べる陳おばさんの臭豆腐店が今日は閉まっていたからだ。
臭豆腐のひとつくらい残り物があるのではないかと、蘭児が陳おばさんの店の扉を激しく蹴飛ばし続けると、マスクをした陳おばさんが辛そうに咳き込みながら教えてくれた。
「蘭児、今日なら景山公園の頂上で出している臭豆腐屋台に行って食べてきな。あそこの臭豆腐は本物だよ。お願いだから店の扉を蹴らないでおくれ」
「承知」
というわけで、蘭児は赤いマスクをして30分間赤いMobikeで立ち漕ぎをし、景山公園の入場券売り場前でブレーキ音をたてて停めた。蘭児が見上げると、景山公園の頂上から微かな臭豆腐の匂いを感じた。それからいつの間にか出て来た涎を甲で拭い、ゆっくりと唾を飲み込んだ。
景山公園の入り口には、蘭児が乗ってきた同じ赤いMobikeや黄色いofoのような様々な原色で染まった貸自転車が無秩序に停まっていた。
蘭児はいつだって同じ形の物の色が混沌としている状態が許せなかった。赤色のMobikeと黄色のofoを整理して並べ分けていると、青色のBleugogoを倒してしまった。Bleugogoは、GPSと自動音声付きの新参自転車だ。その倒れたBleugogoからは、自動音声で女性の機械的な声が流れた。
「わたしを起こして」
自転車をそのままにしていると、何度も青色の彼女は繰返して言った。
「わたしを起こして。わたしを起こして」
通りかかった男の子がBleugogoを起こすと、彼女は男の子へ言った。「ありがとう」
彼女が静かになると、蘭児はまた、赤色と黄色と青色を綺麗に並べだした。
🚲 🚲ガシャンガシャン🚲 🚲
咸豊6年冬(1856年)この日、長安大街のボス犬片目は人波で身動きができなくなった。野良犬にはこの人混みの理由が知らされていなかったが、北京に住む者はみな知っていた。今日は宮殿料理大会のために全国から有名な料理人が大きな山車に乗って長安大街を行進することを。現宮殿料理人も数人参加するこの料理大会で優勝することは宮廷の新たな主席料理人となることであり、それは清朝一番の料理人になることを意味していた。
持ち物を全て売ってでも美味しい酒と蟹を求めて全国を旅する北京人も少なくなかったので、有名な料理人の名前とその料理名は北京人の隅々にまでも知れ渡っていた。北京人の間では役者や軍人よりも、有名料理人は熱狂的な人気があった。北京人はみな、「美味を逃したら北京人に非ず」とその食通ぶりを競っていた。自分たちの食通ぶりを「吃貨《チーフォ》」(より多くの美味しい料理を食べることが長生きをし金持ちになることである)と北京人は呼んでいたが、この日からたった100年後の新華辞典に「吃貨《チーフォ》」の意味に「むだ飯食いでごくつぶし」と説明されるとは誰も想像できなかった。
長安大街では端から端まで爆竹が鳴り響き銅鑼と鐘が打たれ紙吹雪が舞っていた。山車を曳くのは巨漢の男だけでなく牛や象までもが山車を曳いていた。山車の中程には自信の笑みを浮かべた料理人が独自の料理道具を持ち、その回りを各地の舞人達が太鼓に合わせて踊っていた。人々は自分の前に山車が通ると、その料理人の通り名と得意料理を大声で叫び手を振った。
今回はじめて宮殿料理大会が開催されたのは、清の第9代皇帝咸豊帝の長男の出産の記念であった。それはまだ西太后という通称ができる5年前のことだった幼名蘭児、後宮に入り蘭貴人、それから懿嬪、そして懿貴妃という名前を授かったばかりの后妃が、強く咸豊帝にこの料理大会を提言したためであった。
懿貴妃(西太后)は咸豊帝に言った。
「朝一番に口に入れる食べ物がわたしを作る。だから、今まで食べたことがない料理を朝食に食べたい」
そんな懿貴妃の朝食のために盛大な料理大会が開かれるからといって、この時の清が天下泰平であったわけではない。この数日前に第二次アヘン戦争の発端となるアロー号拿捕事件が広州で起きていたが、宮殿の中にも外にも、それを気に留める者がいなかっただけなのだ。
31人の料理人の山車が故宮に入り天安大門が閉まった後も、長安大街では理由は何であれ爆竹や鳴り物で騒ぐ人達であふれていた。この模様から「門前市を成す」という成語が生まれたことを、ここにいる者は誰ひとりとして知らない。またこの時に道路の左端を汚い格好をして杖をついて足を引きずって歩く少年が宮廷料理大会32人目の料理人であることも誰も知らなかった。
ただ長安大街のボス犬片目だけは、この匂いから少年が料理人であるとすぐに気づいた。さらに片目はこの残疾者の少年の後ろを暫く歩いて匂いを嗅ぎ、彼はただの料理人ではないことにも気づいた。片目はすぐに手下の野良犬らに、「この匂いの少年は危険だから近寄るな」と伝えたが、それを宮殿の中の人にも外の人にも教えられなかった。
🍚
両手を女官に支えられ、懿貴妃(西太后)が真っ赤な絹布の上を歩いてくると千人あまりの黒服で赤い帽子を被った宦官たちは跪いて頭を垂れた。西太后が南国の果物が並んだ桌子の前に腰かけると同時に宦官達も面を上げた。西太后の正面に立っていた32人の料理人たちも、同時に面を上げた。料理人達は入場するとすぐに、太和殿前に待機させられていた。そこで西太后から料理大会で競う料理名が発表されるのだ。
頭よりも大きな帽子を被った懿貴妃(西太后)は、服と同じ黄色の大きな耳飾りを点け、同じ耳飾りが帽子の両脇にもぶら下がっていた。懿貴妃(西太后)は金色で上腕と同じくらい長い指甲套(付け爪)を持ち上げ、宙に金色の文字を書くかのように指甲套を動かした。隣に立っていた宦官の安徳海が、立ったままその宙に浮かんだと思われる文字を筆で書き写した。すると安徳海の後ろに控えていた別の宦官がその紙を持ち上げ、料理人らに課題の料理名を示した。
「豆腐」
31人の料理人は「豆腐」の文字を食い入るように見つめ、各人各様の声をあげた。残り1人の料理人王少年だけは21歳の西太后の巨大な帽子に口を開けて見とれていた。そして西太后と一瞬視線が合うと頬を赤らめて下を向いてしまった。宦官が料理名を示し西太后が一言も話さずにすぐに去ると、料理人達は解散を告げられた。
王は課題が書かれた紙を見逃してしまい、慌てて回りの料理人に何の課題に決まったのか聞いた。身なりが汚い少年が自分の競争相手だということで多くの料理人は王を近寄らせなかった。足を引きずりながら恰幅の良い料理人へ近づいても、残疾者であり顔が変形してきちんと発音できない王の言葉は、聞き取れない振りをされ無視された。ただ32人の料理人唯一女性で大会の優勝候補でもあった四川の麻満庚だけは、忍耐強く王が話す言葉を聞き取って教えた。
「誰もが食べたい豆腐料理を作りなさい」
王は、できるだけの笑顔を作って麻満庚に言った。
「ありがとうございます」
本来貴州を代表して招待されていたのは、貴州一帯に食堂を幾つも開いていた陳だった。陳の料理人としての腕前は北京の食通にまで広まっていた。陳は貴州の少数民族の苗族で多様な少数民族の持つ素朴で純粋な食材を鮮烈な辛さと酸味で際立たせていた。陳は自分が清朝一の料理人であるという自負があったが、宮廷料理人になると宦官にならなければいけないという噂から、自分の弟子を代理人として送ることにしたのだ。弟子の中で最も料理の腕は優秀でありながら、最も忌み嫌っていた王到和を代理人として北京へ送った。王は外見が残疾者であるというだけでなく、彜族が持つ蠱毒の術の伝承者でもあった。蠱毒とは特殊な壺の中へ、その願いの種類によって二匹から百匹までの虫を入れて互いに喰らわせ、最後に残り神霊となった虫を祀りながら願いを込める。それからその虫を潰した液体を飲ませると、蠱毒を祀った者の願いが叶うのだ。それは貴州の少数民族の間ではよく知られた術であったので、店主の陳は王に言ったことがあった。
「おまえの術で俺の店を繁盛させてくれよ」
「蠱毒の術は一回使う度に術者の体の機能が失われていくのですけど」
陳は王のその変形した顔や手足をしばらく眺めて、何も言えなくなった。
王を自分の代理に北京の料理大会へ出すために見送りをする朝、陳は王に言った。
「おまえの料理の腕は一流なのだから、蠱毒の術はここぞという時に一度だけ使え。誰かに頼まれたからと言って、絶対使ってはいけない」
王は言われなくても分かっているという素振りで、黙って陳が手配した馬車に乗った。
王を乗せた馬車を見ながら、王は馬車が小さくなるに連れて陳がもう自分の許へ戻ってこないことを感じ、ようやく王を失うことの寂しさを感じて小声で言った。
「王、ありがとう」
豆腐料理の課題が出てから七日後の太和殿で西太后に料理を出すことになっていた。
各人に宮殿内に料理の道具と設備がある一部屋を割り当てられた。31人の料理人は豆腐を作るための素材を買い集めに市場へ出かけた。ただ王だけは、街の小さな豆腐屋へ出かけて出来合の豆腐を一丁買った。この安物で腐って青みかかっているようにさえ見える豆腐を、王が桶に入れて持って帰るところを多くの料理人に見られていた。
「ただの駄目な奴だったな」と他の料理人達は安心しながら、王のことを鼻で笑った。
王が選んだ豆腐屋の豆腐は元々甕の中に入れて腐乳(豆腐の麹漬物)を作ろうとして青みがかった物だった。さらにその青みがかった豆腐を王は椎茸と筍に胡椒に酒麹と豆豉を混ぜて作った発酵水の中に入れた。
豆腐についての仕込みはそれだけで放置し、あとは足を引きずって近くの森へ行き、虫を捕ることに懸命になった。
彜族の虫を使った蠱毒の術方は、後漢の時代に確立された薬用植物の生薬の考えと非常に近い。虫本来に備わる霊の力を上層から下層の層に分け、各虫が引き起こす相互作用を利用した喰わせ合いを行うことだ。そのため術士は各虫ひとつひとつの効能と霊力とその掛け合わせた力を全て熟知した上で、突発的に現われる強い気を持って生き残った虫の霊力を尊重して祀る。そして楓の木で作った杵で最後に勝ち残った虫を潰し、高粱で作った白酒を混ぜて液体化させる。それを願いを込めた相手に飲ませる。それが蠱毒の術だ。
🍚
料理大会の前日の夜から当日の朝にかけて王到和は、壺から取り出した発酵して豆腐に丁寧に蠱毒の液体を塗り続けていた。
翌朝早く、まさしく懿貴妃(西太后)の朝食の時間に合わせて、太和殿に限られた十名の宦官だけを集め、奥ゆかしく料理大会は開催された。
32品目集められた料理を選ばれた4名の宦官らが順に食していき、その中で特筆すべき料理が現われた場合のみ、宦官は書面に記し懿貴妃へ渡すことになっていた。四人の宦官が全て○をつけた料理は少なかった。まず湖南省南の芙蓉鎮から来た胡玉音が作った、発酵唐辛子が特徴の米豆腐では皆初めて味わう酸味に頷いた。広州の李国香が作った薬草である杏類の種の仁を使った仁豆腐では、喉ごしの甘みの鮮烈さに皆驚いた。そして四川の麻満庚が作る麻豆腐の繊細な辛さと考え抜かれた薬草の香味に誰もが笑顔を作り、これが優勝だと確信しているようだった。最後に王が作った臭豆腐の盆の蓋が開けられると、その強烈な臭さが太和殿に漂った。料理人達からは笑いが起こり、宦官達はこれは食べられないだろうという素振りを示したが、懿貴妃が、指甲套(付け爪)を強く振って早く食べろという合図を送った。仕方なく顔を歪めながら臭豆腐に顔を近づけた宦官は、箸で豆腐を持ち上げただけで、大きくむせてしまい、皿を落として気を失った。料理人達からまた笑いが起きると、それを懿貴妃は指甲套の動きだけで止めさせた。残りの3人は息を止めるのが見て分かる顔をして、その強い臭いを放つ臭豆腐と一口で口に入れた。すると、三人の顔は次第に臭豆腐の味を感じようとする真剣な顔となり、最後には驚きの顔から笑顔を作った。そうやって気を失った一人以外の三人からは推薦を受けた臭豆腐は他の3品と同時に懿貴妃の前に運ばれた。懿貴妃は米豆腐、仁豆腐、麻豆腐と頷きながら一口ずつ口に入れた。そして最後の臭豆腐は臭さを嫌がる顔をしながら一口食べたが、宦官すら今まで見たことがない笑顔を懿貴妃は作った。
「これを作った者は誰だ」と懿貴妃は宦官の安徳海に訊ねた。
「あそこの王到和と申す彜族の者です」
「そうか」と懿貴妃は王の目を見て微笑んで言った。「承知した」
「優勝」安徳海は大声で言った。「王到和の臭豆腐」
拍手が起こらない中で銅鑼が鳴り、五人の宦官は用意した赤い紙吹雪を王の頭上に直接撒いた。王は不自由な手で拱手を作り頭を三回下げた。
麻満庚だけが、王に近づき心から「やったわね。おめでとう、宮廷料理人主席殿」と言った。
王到和は、小さな声で「ありがとう」と言った。
宮殿主席の料理人という名前と名誉を授かった王到和であったが、臭豆腐を毎日作るのであれば、他の料理を見ることは一切出来ないと誰もが想像もしなかった提言をした。宦官達の強い反対意見を懿貴妃が宥め、王到和は臭豆腐専門料理人として勤めることになった。その代わりに決勝に残った料理人達にも高級宮廷料理人としての地位を授かり紫禁城に留まれる提案を受けたが、胡玉音と李国香は固辞した。それは王の位の下で働きたくないという自尊心もあったかもしれないが、宮殿で高級料理人となるには宦官にならなければいけないという噂が本当であったことを告げられたのが一番の要因であったかもしれない。女性で王到和に親しみを持っていた麻満庚だけが宮殿に残り、実質は麻が清の宮殿料理を管轄することになった。
翌朝の朝食から毎朝、懿貴妃は王の作る臭豆腐を食べることになった。
昨日の料理大会で臭豆腐を試食した宦官から、懿貴妃が食べる臭豆腐の美味しさの噂が瞬く間に宮殿中に広まり、咸豊帝が同じ臭豆腐を食べ始めると、一斉に後宮たちの間で朝食に臭豆腐を食べることが流行した。そしてどこからか、この臭豆腐は紫禁城の外に出してはいけないという条例が出され、大清帝国第12代にして最後の皇帝溥儀が紫禁城を追放されるまで、守られることになった。
懿貴妃は、臭豆腐を食べて三日目の朝に王の作る臭豆腐に「青方」の名を賜った。
また時の状元(科挙の主席合格者)で後に西太后と共ともに列強国と対峙する孫家鼐は王到和の名前を詠込んだ対句を書した。
君に致す美味 千里に伝わり 我に和す天機 寸心を養う
そうやって王到和の名前も北京臭豆腐と共に歴史に残ることとなった。
🍚
朝食に臭豆腐が出て一ヶ月が経ち、誰もが臭豆腐の美味しさを認めるころになってようやく、王が宦官手術を受けることになった。手術をすると三日間は寝たきりになり料理が出来なくなるので、これも懿貴妃の指示によって、すぐに宦官の手術をせずに一ヶ月宮殿での臭豆腐料理に専念させていた。
王は手術前の楓の薬草を飲むことも阿片を吸うことも断り、女官に案内されて後宮内の手術棟に向かった。そこは屋根だけで壁のない東屋となっていて、ただ手術用と思われる寝台があった。後宮で行われる宦官手術は専門の女性医が行うので、城外で行われる手術と違い事故になることは無いという評判は王も知っていた。しかし東屋のような陽が照る場所で手術とは思わなかった。壁がない四方に二十人ほどの女官が東屋を囲むようにして立っているだけだった。暫くすると、巻かれた赤い布が東屋に向かって敷かれ、その上を女官に手を支えられ懿貴妃が東屋へ入ってきた。王はまた久しぶりに見る懿貴妃の大きな帽子と指甲套(付け爪)に胸が高まった。
懿貴妃と共に十人程の女官が入ってきたが、その中で特別大柄な女性が言った。
「服を全部脱いで、寝台に横になりなさい」
そう言われて裸で横になると、中華包丁を持った懿貴妃が傍に立っていた。王の陰茎は、隠しようがなく勃起していた。大柄な女官は王に木の口枷を渡した。
「阿片も吸っていないなら、それを口に咥えな」
そういう声が言い終わり、まだ王が口枷を手に握っているところで、勢いよく懿貴妃は、長い指甲套(付け爪)を付けたまま王の股間の陰茎に包丁を振り下ろした。
ズドンという包丁が陰茎を切り落とし寝台を叩く音がするのと同時に血しぶきが飛んだ。
王が咆哮し四肢を振り動かすと、すかさず回りにいた女官達は王の体を寝台に押さえつけた。王の下腹部から吹き出た血は王の裸身だけでなく、女官らと懿貴妃の服や帽子を赤く染めた。
懿貴妃は口に入っていた珠を唇に挟み、指甲套(付け爪)を付けた両手で王の太ももを持って股を広げさせた。そして血がまだどくどくと流れ出す陰茎があった場所に直接口を付けて珠を王の体内に挿入した。横になった王の股間から顔をあげた血だらけの懿貴妃の口許は、王には微笑んでいるように見えた。
大柄な女官は、懿貴妃が珠を入れた王の穴の開いた箇所へ楓の枝を差し込み、その周りを空穂草を塗った刷毛で丁寧に血を掃いた。
「このまましばらく寝ていて。夜になっても血が止まらなかったら、これを自分で塗りなさい」と大柄な女官が言った。
懿貴妃は、包丁を女官に渡し、「今日は、いい天気だな」と誰にともなく言って、東屋を女官らと共に去って行った。
しかし王到和だけは、それは懿貴妃が自分に対して初めて話しかけた言葉だと理解した。また母親以外の女性から太ももに触れられ、唇を付けられたのは王にとって初めての経験だった。そして懿貴妃が自分の体内に入れた珠は何だったのだろうと少しだけ考えた。しかし、もう自分の太ももに触れたり唇を寄せてくれる女性はいないだろうという強い確信に王の考えは覆われた。
王はいつの間にか眠りから醒めると、自分の鼻の上を小さな天道虫が歩いているのに気がついた。陽の光は横から入り、柱の影を長く伸ばしていた。微かに女官と宦官の声が聞える。天道虫が左側の頬へ移動していくが、王の左頬は感覚がなく、天道虫がどの辺りを移動しいるのかがわからなくなった。そこへ宦官達がやってきて、王の体を丁寧に担架に乗せて部屋まで運んだ。
王の住居は部屋が五つあり王専任の女官と宦官が、王の帰りを待っていた。王が寝床に横たわっても世話をしようとする女官と宦官に「顔に天道虫がついているか」と聞いたつもりだったが、王が何を言っているのか理解できない二人に、腕で下がるように指示をした。
王は鋭い痛みも、懿貴妃が自分へもたらした物であることから、喜びを感じる事も出来た。そして、これからは懿貴妃のために最高の臭豆腐を作ろうと考えた。
🍚
翌日、寝ている王の寝室に女官が慌てて入ってくると、同時に大きな振動で部屋が揺れた。女官の体は大男に持ち上げられ、後ろへ放り投げられてしまった。大男は巨大な石槌を肩に担いで入ってくると、いきなり壁を叩き始めた。外からも同じように壁を叩く者がいて、二面の壁が内と外から壊されていた。
王が痛い体を持ち上げたところで、部屋の中に巻かれた赤い布が勢いよく敷かれた。胡琴の演奏者と女官を引き連れて、懿貴妃が部屋へ入ってきた。
「いい天気だな」と懿貴妃は言った。
王が思いもしなかった懿貴妃の来訪に驚き何も答えられないでいると、部屋がまた激しく揺れ、二面の壁は音と埃をたてて崩れ落ちた。王の住居は紫禁城の北東方向の端にあり、無くなった壁のあった空間には紫禁城の赤い壁とその奥にある小山の森が見えた。女官と演奏者は部屋から出て行き、その壊された壁の先に背を向けて立った。石槌で壁を壊した男達が後片付けをしている最中に壁際に並べてあった幾つもの壺の一つを引繰返してしまうと、中から様々な百足が出て来た。
大量の百足に驚いた男達は大声を上げて百足を潰そうと石槌を持ち上げた。王が吼えた声は誰も聞き取れなかったが懿貴妃が左手を男達に向けて指甲套(付け爪)をつけた指を大きく広げると、大男達の石槌は百足が這う床を打つ寸前で止まった。そして、指甲套を払うように動かすと、大男達は石槌を担いで去って言った。
百足が這う床を懿貴妃は怖がらず、赤い布の上を歩いて部屋を一回りした。他にも置かれた虫が入った壺の蓋を開けては興味深げに眺め、天井からぶら下がった数十匹の蛇の死骸には熱心に触れた。
一通り部屋の様子を見て回ると、懿貴妃は、突然服を脱ぎだした。下着まで脱ぎ裸になると、次に金色の指甲套を外した。その長い指甲套を外した指の先からは緑の蔓のようなものが生えていた。懿貴妃は最後に大きな帽子を取ると、頭の上から葉っぱが生えていた。
三葉酸草(かたばみ)と同じように、心臓の形の尖った部分を寄せた葉を三つもち、薄く細い緑の茎が十数本髪の毛の中から確かに生えていた。指の先から生えているのも、同じ三葉酸草(かたばみ)で、各指から一本の細い茎の先に三つの心臓形の葉が生えていた。
「王、早く服を脱いで裸になりなさい」
まだ下腹部全体に痛みがあり血も滲んでいたが、王は急いで服を脱いだ。
懿貴妃は、その王を見でもなく、よく陽のあたる場所を選ぶと、頭を左右に少し振ってから赤い布の上に、手足を広げて横たわった。
裸になった王は、次に何をすればよいのかわからないまま立っていると。
「よく陽があたるところに」と懿貴妃は静かに言った。「体を広げて横になりなさい」
よく陽が差す壁があった場所に頭を向けて、裸の二人は横になった。
少し離れた所に女官と一緒に背を向けて立つ胡琴の二人の演奏者は古から長閑やかさを運ぶような音楽を奏でた。
「蠱毒の術を使うのか」と懿貴妃は静かに言った。「料理大会で、蠱毒を使って何を願った」
「あれは」王到和は、自分の不自由な発音は聞き取れないだろうと心配しながらも説明した。「わたしの料理を食べた人が、みな健康になるようにと願ったのです」
懿貴妃は、王の言葉をきちんと聞き取って頷いた。
「王よ。おまえは、まだ弱いな。彝族の蠱毒はもっと強いと思っていたぞ。お前が弱いから、蠱毒を使う度におまえは、そこまで自分の体を失っていったのか」
王は自分の言葉も自分の体も自分の蠱毒も理解した懿貴妃を心酔し崇拝し恐れ、それから愛慕した。
「これからは、彝族の蠱毒をもっと究めろ。そして、わたしだけのために蠱毒を使え」
王到和は、陽だまりの中で何度も強く頷き呼吸が速まり脈拍が高まった。
二人は長い間、裸で陽の光を浴びた。胡琴の演奏が終わると、懿貴妃は横になったまま両手だけを上に持ち上げ、王を見て言った。
「わたしを起こしなさい」
2021年 景山公園の見晴台に故宮の土産店が並ぶ屋台の端に毎日交代で食品の屋台をつけることになり、この日は普段は鼓楼大街で屋台を出している王に声がかかった。王は全く気が進まなかったが、屋台の営業に許可を出している北京の環境課と道路管理課からの一日だけという依頼に応じて臭豆腐の屋台を出した。そして王の想定通り、北京で最も眺めのいい景山公園から北京市を一望する場所で、臭い臭豆腐を食べようとは誰も思わないようだった。殆ど売れ残りそうな臭豆腐を見てため息をついた時、王は荒い息で階段を駆け上ってくる音を聞いた。
蘭児は、公園の頂上に近づくにつれ、臭豆腐の匂いが強く感じると、階段を勢いよく駆け上がった。黄色い屋根をした小さな屋台が赤い布地に手書きの「臭豆腐」の幟を出していた。蘭児は、店の前で両手を膝の上に乗せて息を少しだけ整えてから店主に言った。
「そっちの。揚げてない臭豆腐をひとつちょうだい」
王が、甕から臭豆腐を取り出すと、その臭いで近くを通る人が屋台を振り返った。蘭児は椀に入った青みがかった灰色の臭豆腐とレンゲを受け取った。レンゲで掬った臭豆腐をよく見つめてから、蘭児は、臭豆腐を口に入れた。自然に出てしまう笑顔のまま、蘭児は何かを思い出そうとしているように、目を細めて王を見つめた。
咸豊7年1857年 最初の阿片戦争(1840年~1842年)は英国が勝利して終結した。しかし清から幾つかの港は開港させたものの、英国の綿製品は清の綿製品に勝てなかった。英国の靴下ひとつですら清では買う人がいなかったのだ。そこで英国は実貿易として得られるものが殆ど無いために、新たな火種を探していた。それがアロー事件を発端とする第二次アヘン戦争へと繋がり、1857年に英仏連合軍が広東を占領した。そこでようやく北京でも、今正に戦争が起きていたのだと気がついた。
紫禁城の宦官は、城を出ることが許されなかったが、王到和だけは宮殿の裏地に広がる森へ出かけることを許可された。不自由な体を引きずって王は森の中に入り、一日の殆どを虫たちを集めることに費やした。蠱毒の種類は多く、壺に入れた虫の種類によって、夜蛾を使って病を治す蠱毒、食綿虫を使った異性を惹きつける蠱毒、赤練蛇を使って豊かにさせる蠱毒などがある。虫を集めるのもその祀りかたも最も難しいのは、呪いで人を死に到らせる蠱毒だ。王は、いつでも懿貴妃の願いの蠱毒が実現できるように、あらゆる虫を集めては壺に入れた。そして晴れた日には必ずやってくる懿貴妃と一緒に虫を眺め、王は虫が持っている霊力と蟲毒の方法について説明をした。それから二人は裸になって光合成を重ねた。光合成が終わるたびに懿貴妃は言った。
「わたしを起こしなさい」
そうやって、王が不自由な手で爪先から葉が出ている懿貴妃の手を持つのが、王にとっての唯一の他人との接触だった。懿貴妃も王が手を触れると、自ら立ち上がって1尺程度の距離で王の裸の姿をよく眺めた。この咸豊7年、王は一度も蟲毒を使うことがなく体のどこも失うことはなかった。
咸豊8年(1858年)英仏連合軍は天津を陥落させた。その知らせが咸豊帝に届いたとき、咸豊帝は動揺し近くにいた后妃と共に泣き出してしまった。それを懿貴妃が恫喝し、咸豊帝の弟恭親王と文官粛順に相談させた。恭親王は和平を粛順は徹底抗戦を主張した。5月には英仏米露との間で天津条約を締結した。これは清にとって明らかな不平等であり、この条約を巡って次第に紫禁城の中でも粛順の抗戦を支持する声が強くなってきた。
この咸豊8年も王と懿貴妃は晴れている日は必ず裸になって光合成を続け、王が蟲毒を使うことはなかった。懿貴妃の葉が伸びたため、頭に被る帽子はさらに大きくなり、付け爪はさらに長くなった。
咸豊10年(1860年) 英仏連合軍は再び艦隊二百隻を以って天津に上陸し、そこから北京を目指した。咸豊帝は、誰よりも早く恐怖を感じ北京を離れることを主張した。普段は強硬派の粛順も、首都を放棄し熱河離宮への退避を検討しはじめ、多くの宦官は嬉々として首都移動の計画書を作成した。
北京から僅か西12里にある街が陥落すると、すぐにでも熱河離宮へ向かおうとする咸豊帝に対してこの時も懿貴妃は恫喝した。「ここ北京に残り帝が最後まで戦わずば人心は離れ、何れ清は内から崩壊する。『蒙塵の故事』(天子が王宮を出ると国民はみな事前にその経路の露を落し塵を祓い清めるが、天子の逃走といった非常時にはそのような措置をとることが出来ず、外に塵を蒙る)を忘れてはいけない」
この時、宦官も文官も清の本当の国王が誰であるのかを目撃した。
しかしこの夜、文官粛順を介した咸豊帝の答えは「熱河離宮へは逃走ではなく、避暑の旅行であり、熱河への道は塵ひとつ無いように祓い清めさせる」という答えだった。
事前に宦官安徳海からは、「熱河行きを懿貴妃が断れば、その場で兵士らに懿貴妃を斬り捨てるよう指示がでている」という話を伝え聞いていたため、「今、熱河へ避暑に行く」という計画に同意せざるを得なかった。
その夜、懿貴妃はひとりで王が寝ている壁のない部屋に外から入ってきた。
「王、わたしのために蟲毒を使えるか」と懿貴妃は言った。
王は嬉しかったのか、激しく頷き言葉にならない嗚咽をあげた。
「半年後に効果がでる毒を作り、明日皇上の食事に入れろ」と懿貴妃は強い声で言った。
「王よ。わたしは今皇上に倒された」と懿貴妃は王の耳元で囁いた。「わたしを起せ」と懿貴妃は王の耳元で囁いた。王には懿貴妃の体が震えているのがよくわかった。
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河北の熱河離宮は北京紫禁城とは約300里(約150Km)離れている。宦官達はよく働いた。実際にこの300里の道のり全てに金色に染めた砂を撒いた。そして一行が通るまで誰にもこの砂に触れないよう大量の見張り役を沿道においた。
紫禁城を出発する日は城内の桃が咲きそろい、風によって桃紅色の花びらが絨毯を作っていた。いつもは城内を歩く際には必ず新品の赤い布を歩く前に敷かせていた懿貴妃も、この日は直接桃の花びらを歩く方を望んだ。
熱河離宮への移動は前後を馬に乗った兵士がつき、後方に懿貴妃を乗せる神輿があった。神輿は全て10台になり、全て皇太后とその女官が乗っていたが、料理長の王到和は足が不自由だという理由でその女官と共に懿貴妃の神輿の後ろにつけていた。一万人の行進を見た人々はこの行進を「金色の川を泳ぐ蛇」と言った。総勢1万人の行進の中でも特に芝居好きの咸豊帝の要望で同伴させた1千人近い役者と演奏者のおかげで、退屈することなく熱河に到着することが出来た。
北京には咸豊帝の弟恭親王、桂良を残し、北京へ侵入する連合側との交渉を任せた。熱河への追撃を諦めた連合軍はまず番人がいない円明園に入り貴重な美術品、貴金属を略奪し放火をして小さな満足感を得た後に、礼部衙門で「北京条約」締結のための昼食会の桌子についた。この時には既に主な宮殿料理人はみな熱河へ移っていたため数段料理の質が落ちたのだが、連合軍側でそれに気づく者はいなかった。
熱河離宮の周辺にも森があり、森の中に巨大な湖があった。その湖の周り一帯を苔が覆い、岩と土を濃い緑の敷物が広がっていた。池は塩を含むため殆ど波がたたず、澄んだ水は完全に上空の景色を移し込んだ鏡になっていた。たくさんの紅鶴が飛来して湖を桃紅色に染めた。
熱河での食材は現地で調達をすることが望ましいため、料理部専属の狩人が一班いて、彼らは逃げることを知らない鳥や魚を容易く狩っていた。
王到和は地面の苔に顔をつけ、木に寄生した苔に頬をつけ、豊富な節足虫の収集に夢中になった。
咸豊10年/祺祥0年(1861年)
熱河離宮に着いてから咸豊帝の体の調子は次第に悪くなった。それでも芝居鑑賞だけは止められず、朝昼夕と毎日6つの芝居を見て、芝居の合間には男優らと性交をした。食事の度に演者、演出者演奏者と桌子を囲み、次第に咸豊帝自らが本を書き芝居の指示をするようにもなった。
実際この時咸豊帝が自ら書いた芝居はどれも独創的でありながら人情に響き古典の「琴桃」「借餉」「査関」と比べても勝るとも劣らないという評判だった。次第に熱河に住む誰もが咸豊帝の新作芝居を見たがり待ち焦がれるようになった。しかし、懿貴妃と王到和の計算通り咸豊帝の体調が悪くなり、下血をする度に懿貴妃が強い薬だと言って勧める獣の血を飲むようになった。
朝、王到和が森の中の湖へ行くと水中に住む浮游生物が増殖した影響で、湖が赤く染まっていた。それは湖の生き物たちが王に大きなことを識らせた印でもあった。王はこの日誰よりも清にとって大きな変化が起きることを知った。また自分の左目が殆ど見えなくなり、左目からは腐った臭いがした。
その日、咸豊帝はまた新作を書き上げた。それは「若い帝が死に生まれたばかりの子を皇太子に封じると皇后は帝の後を追ってしまう」という物語だったが、その初演時に自分で主役を演じて病に罹る場面でそのまま舞台で倒れた。
その夜に咸豊帝が危篤状態になると、息子の裁淳を皇太子に封じ、信頼を寄せていた粛順ら8人の大臣を特命大臣とし、後事を託した。翌朝、咸豊帝の死と同時に、六歳の息子が践祚した。ここで裁淳は同治帝となった。懿貴妃は慈禧太后となった。
慈禧太后は熱河の中ではあらゆる場所に自分に味方する女官と宦官を抱え、この咸豊帝の死の直後に、粛順ら大臣が集まった会議の内容も了解していた。粛順の企みとは、咸豊帝の死後、自分たち大臣だけで国の実権を握るべく、“慈禧太后は咸豊帝の後を追ったという話を作り慈禧太后と息子を殺害する。さらに翌年からの年号を祺祥とする”という計画だった。
ここ熱河への移動で宦官達が犯した最大の忘れ物は、燭台だった。広大な熱河離宮に燭台も蝋燭もなかった。灯りを買い集めようとする宦官に対して|慈禧太后はそれを止めさせた。紫禁城内は一日中灯りが絶えず、慈禧太后の歩くところ、見えるところ、すべてに灯りが灯されていた。
「夜は夜の暗さを味わうべきだ」と慈禧太后は灯りを欲しがる宦官に言い、夜中も芝居を見たがる咸豊帝にもそう言って戒めた。
王到和は燭台がひとつも無い静かな闇の中に立つのが好きだった。森から聞える梟や夜鳥の声に耳をすまし、庭から聞える虫たちの鳴き声で、その虫の霊力を想った。
部屋の中ほどにまで月の光がさしていた日の夜、慈禧太后は早足で王到和を訪ねて来た。
「わたしを起こしてくれ」と慈禧太后は言った。「王。八人だ。八人分の蠱毒を作れるか」
「すでに準備していました」と王到和は精一杯の微笑みを作って言った。
今は王が話す言葉は王に仕える女官や宦官にも聞き取れなくなっていたが、慈禧太后にだけは、王が話す言葉を完全に聞き取れた。
慈禧太后が急いで去る後ろ姿を王はいつまでも見ていた。王は自分の髪の毛に手をやり、つむじあたりを軽くさすった。そこにはほんの小さい葉が生えていた。葉は月の光を浴びて喜んでいるようにフルフルと少し揺れた。蠱毒に使う壺からは虫たちがカサカサと動き喰い合う音が聞えた。
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熱河で粛順らによって軟禁状態であった慈禧太后は、北京に残されたことで粛順ら大臣への不満を募らせていた恭親王に親書を送った。それは「粛順ら大臣の企みによって、咸豊帝が殺され、わたしも、息子の同治帝も謀殺されようとしている」という内容であったが、何につけ逡巡する恭親王がすぐには動かないことは承知していた。北京に残された宦官は殆どが粛順派であり、宦官を通さなければ一人の兵も動かせなかった。
一方山東道管で地方の反乱軍の鎮圧に当っていた僧格林沁将軍にも同様の親書をもたせた。ただ僧格林沁将軍宛ての文章には具体的に迎えに来て欲しい場所と日付が入っていた。
日頃から中央の宦官達の不正と無意味な権力争いを憎んでいた僧格林沁は、ただ一人で慈禧太后と同治帝との謁見に向かった。
北京条約の締結が終わり、連合軍側が北京を後にすると、粛順らは、咸豊帝の葬儀を北京で行うために熱河離宮から紫禁城を向かうことにした。今度は東から西へ「金色の川を泳ぐ蛇」が棺を乗せて動き出すことになった。
宮廷料理長の王到和が神輿で移動中にする仕事は少ない。臭豆腐も保存済みの物を使い、献立も複数の料理班の計画を承認するだけだった。森の中から狩人の呼笛の音が鳴り、葉が擦れる音の中から獣の大きな咆哮と狩人達の声が聞えた。
王到和が乗る神輿の右隣に慈禧太后の神輿が寄せられ、慈禧太后が王に訊ねた。
「何の獣が見つかった?」
「あの呼鈴は、虎と狒狒です」
「二匹を同時に狩っているのか?」
「虎と狒狒の二匹が闘っているので、危険だという合図です」
「虎が強いのだろう?それは見たいな」
そういう慈禧太后の顔は明らかに興奮をしていた。
二匹の獣が争う声が一段と大きくなると、虎とわかる声が断末魔をあげ、狒狒とわかる声が肉を噛みきる音がした。慈禧太后は指を強く握りしめ、呼吸を荒げていた。
「狒狒が勝ったのか。その狒狒を狩れるか?」
「承知しました」
「蠱毒の方は予定通りに効いているか?」
「問題ありません。明日8人が全員倒れます」
「僧格林沁将軍には、いい臭豆腐を出してくれ」
「承知しました」
慈禧太后からは王到和の左側が見えなかったが、この時王到和の左目が腐り落ちた。王は担がれた神輿に座ったまま眼球を拾うことは無かった。左側の顔面に神経が無かったので痛みは感じなかった。ただ飛んできた小さな天道虫が鼻に停まり、顔の左側へ移っていくのは分かった。
その日の夜の高級役人らには、虎と狒狒の肉料理が振舞われた。また慈禧太后の要望で、虎に勝った狒狒の血を白い濁り酒に入れて出した。慈禧太后は頷きながら、それを満足げに一気に飲み干した。
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僧格林沁将軍が、熱河から咸豊帝の棺を移動している「金色の川を泳ぐ蛇」に合流したのは、北京に到着する一日前だった。
粛順ら大臣達も敵対する将軍とはいえ、咸豊帝の霊柩中であることと、将軍一人であれば不穏なことを起こすはずはないと全く警戒しなかったのも当然だった。当の僧格林沁ですら、ただ慈禧太后へ咸豊帝の哀悼を陳じるつもりだけだったのだから。
僧格林沁将軍が密雲県の宿泊先の部屋で慈禧太后と咸豊帝の正妻であった孝貞皇后に謁見をし辺境での戦況の報告が終わると、酒と臭豆腐を食しながら、慈禧太后と孝貞皇后から咸豊帝崩御に関する話を聞いた。聞いている内に、僧格林沁は粛順ら大臣への憎しみが増していった。すると、「そこに醤油を取ってくれ」というような小さな願いをするように、慈禧太后から、「粛順ら8人全員を捕えて欲しい」と頼まれた。そして咸豊帝が作らせた芝居の小道具だった関羽役が使う木製の青龍刀を手渡された。青龍刀を手にすると、僧格林沁はたとえ敵が何万人いようと、自分一人で全てをなぎ倒せる力を感じて立ち上がった。
粛順ら大臣が集まる部屋へ一人で僧格林沁が扉を蹴破り、慈禧太后が急いで書き上げた謀反の訴状を読み上げ8人大臣を全員逮捕すると伝えた。抵抗されることを承知で、僧格林沁将軍は木製の青龍刀を一度振り回してから、力強く床へ叩いた。
大臣らからは何の反応もないまま、慈禧太后の指示で狩人らが部屋に入り、すかさず蠱毒が効いて動けない大臣らを全員縄で縛り上げた。そして蠱毒が効いて高ぶっている僧格林沁へ粛順らを差し出して言った。
「さすが将軍、たった一声と一太刀で、彼らは身動きひとつ出来なくなりました」
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気分をよくした僧格林沁は、北京までの一万人を連れた大行進の先頭に立ち、粛順だけは檻に入れ、他の大臣は後ろ手で結わいて歩かせた。数少ない護衛の兵士にとっても僧格林沁将軍は兵士達の英雄であったので、縛られて歩く大臣達を監視する役を進んで担った。宦官たちも北京に帰って正式な裁判を待てば、大臣側と将軍の関係も逆転するだろうと、咸豊帝の霊柩中は静かに僧格林沁従った。
農民らに人気があった僧格林沁将軍を一目みようと、北京までの金色の道には、大勢の農民達が駆け付けた。彼らは、騎乗する僧格林沁将軍の、両皇后、同治帝、王到和の名前と万歳万歳を連呼した。そして彼らが去って行くと、金色の砂をきれいに持ち帰った。
長安大街にかかると、さらに一行を囲む熱狂的な人々が増え、大勢の人々は咸豊帝を追悼しながら、憎まれ役でもあった粛順には、石や泥を投げた。宮殿に近づくと、宮殿内の兵士達までもが僧格林沁将軍を迎えようと、紫禁城までの一里を整列し拱手の姿勢で迎えた。本来宮殿内の文官は粛順派が多数を占めていたが、咸豊帝の弟恭親王の根回しによって、文官らにとっても手強い粛順の下で動くことより、まだ若く政事に野望がないように見える両皇后を動かす方が賢明だと考えが変わっていった。
この事件は表向きには僧格林沁将軍ひとりの活躍により、関係した全大臣を逮捕した辛酉政変と呼ばれているが、実のところは全て慈禧太后の企みと王到和の蟲毒の力の所産だった。
また紫禁城にて同治帝が即位したことにより、嫡母である孝貞皇后が東の宮殿に住むことから東太后となり生母である慈禧太后は西の宮殿に住むことから西太后と呼ばれることになった。
粛順は公開処刑となり斬首されたが、残り七人の大臣の処分は西太后預かりとなった。七人は西太后が待つという紫禁城の北東にある蔵へ連れていかれた。七人とも、ひたすら西太后に謝罪し今後は西太后の役に立ちたいと申し立てれば、粛順のように命を取られることはないだろうと囁きながら夜の紫禁城を俯いて歩いた。
王到和の壁のない部屋からも、提灯を持つ宦官が大臣たちの両脇を囲むようにして連れて歩き、七人の大臣たちが隣の蔵に入っていくのが見えた。王到和は、壺の中にまず蜈蚣を入れた。それから、蛇を入れ、蠍を入れ、蝦蟇を入れ、毒蜘蛛を入れ、筬虫を入れ、蜥蜴を入れた。七匹の虫たちを入れると壺に蓋をした。蓋の中から、サクサクという音が聞えた。王到和は天に浮かぶ月を探したが、今日はどこにも月を見つけることが出来なかった。
大臣達が案内された蔵の中に入ると、それまで案内をして来た宦官たちは扉を閉めて全員が立ち去った。中の広い蔵は四隅と奥の段にだけ明りが灯り、中は薄暗く奇妙な匂いが漂っていた。奥の段には西太后と狩人が数人立っていた。しかし、そこにいる西太后は帽子を被らず、頭からは葉が生えており、指甲套(付け爪)をつけていない指先からは長い蔓が生えていた。
狩人の前に進めという合図で大臣達がゆっくりと前進すると、中央の床には丸印が書かれていた。七人がその丸の中に入ると床の下から獣の咆哮が聞えた。しかし大臣らがその音が何であるかを考え出す前に、狩人が紐を引くと床が下に開き、大臣達は床の下に落ちていった。狩人が床を元に戻そうとするのを西太后は止めて、腰を屈めて床下に広がった暗い闇を覗き込んだ。 床の下からは大臣らの叫び声と動物の呻き声が響き、血飛沫が舞い上がり、西太后の顔を染めた。
王到和の部屋からも、蔵の方から人の悲鳴が暫く聞えた。王は虫を入れた壺の蓋を開け、真剣な顔で中を覗き込んだ。再び蓋をすると、蠱毒の壺の前で三跪九叩頭を行い、壺に向かって跪き床に頭をつけた。
同治2年(1862年)
27歳の西太后が清の政治の中心に置かれ、ここから46年間その椅子に座り続けたのは、西太后自信の望みだけではなかった。それは西太后へ毎日朝食に臭豆腐を出す宮廷料理長王到和の蠱毒の力でもあった。蠱毒の術は相手を弱らせることにも、強くさせることにも使うことが出来た。王到和が西太后に黙って、この日も蠱毒を使って作った液体を西太后に食べさせた。西太后はどれだけ臭いの強い臭豆腐であっても、それが自分の皿でも他人の皿でも蠱毒が塗られていれば、すぐに気がついた。
「いつも臭いで気がつく」と西太后は言った。「蠱毒が塗られていると、王の臭いがするからな」
いつもそう言って、西太后は王の首筋に鼻を当てに匂いを嗅いだ。時には塗られた蠱毒が何の術なのかを当てることもあった。
この日、西太后は黙って臭豆腐を咀嚼しながら、赤い三角帽子を被った王を見つめた。王は残された右目だけで、いつも臭豆腐を食べる西太后の表情を見ていた。王が西太后に出した蠱毒には「生きたい時まで生きる」という彝族でも使える者が少ない蠱毒を出した。この術が不老不死を意味するのかは、彝族の間でも知るものはいなかった。何故なら、今まで永遠に生きたいと願う者はいなかったからだ。それは西太后にしても例外ではなかった。
蠱毒を使う度に体の至る所が欠けてきた王の症状が止まったのは、西太后が王に与える血の効能であった。西太后は、蔵の床下に獣たちを入れる甕を作り、その中に狩人達が捕まえてきた獣を入れては、最後に勝ち残った獣を殺し、その最後に勝ち残った獣の血を飲んでいた。血に術をかけるわけでもなく、その血を飲むのが体に良いと、王にも与えだした。すると、王の片目、肩耳、顔の神経、片足、片手、いくつかの内臓等の機能が失われたままではあるものの、確かにその体で生活することに不自由が無くなってきた。
この日も天気が良く、昼前から西太后は壁が無い王の家に行き、王と二人で裸で横になっていた。
「いちばん強い生き物は何だか知っているか?」と西太后は楽しそうに王に言った。
「虎?」
「一番ではないな」
「象?」
「象も蔵に入れたことはあったな。象はただ、おとなしかった。ああ、本当にいい奴だった」
「鰐?」
「鰐は象に踏まれて死んだ」
「犀?」
「犀は鰐に足を噛まれ、動転して自分で甕に突っ込んで角を折って死んだ」
「人?」
「人はいつも最初に噛み殺される」と言って西太后は本当に面白くてたまらないというように手を叩いて笑った。「毒草の狐の手袋だ。空腹で地下に落ちた動物は甕に置かれた美しく美味そうに見えるこの毒草を食べるだろ、それから獣たちの殺し合いが始まるわけだが。この毒草を食べた動物の毒がどの動物にも回ってくる。わたしは昔からこの毒草を飲んでいた。王も最近はこの毒の入った血を飲んだおかげでよく育ってきたな」
そうやって、西太后は王の頭から生えた葉を愛おしそうに見つめた。王の頭から生えた葉は、5厘米ほどの長さで緑色のしっかりした太さだった。隣の西太后の指から伸びた蔓が王の葉を突いた。すると王の葉はぴんと倍ほどの長さに伸びた。
切なく苦しそうな顔をする王を見て、西太后は優しく微笑んで言った。
「王よ、わたしのことを殺したくなることはないのか」
王が不思議そうに西太后を見ると、続けて西太后は真剣な顔で言った。
「もし、わたしを殺したくなったら、いつでも蠱毒を使え。お前が作る呪われた臭豆腐を食べて死んでみたいぞ」
この時の王は、西太后に対して永遠にそんな気持ちが起きるはずが無いと思っていた。
|同治4年(1865年)
西太后の企みと王到和の蠱毒の力を以て、辛酉政変の中心人物であった東太后は政治の表に出てくることは無くなり、恭親王は無実の罪を科せられ失脚した。西太后30歳にして同治帝の後見として垂簾聴政を行い独裁専制がここに始まった。文官も宦官もそれが当然であり、これからも西太后のための国作りであることに何の疑問を持たないようになっていた。今は宮殿内の誰もが臭豆腐の虜になっていたからだ。
臭豆腐は紫禁城宮殿内でしか食べられないため、一度宮殿で働くと誰もが臭豆腐のために出たがらず、仕事で一日でも宮殿から出て行くことを嫌がった。左遷という城から左へ出るという意味は、臭豆腐を食べられなくなるという悲劇を意味した。
また臭豆腐を食べるためだけに多くの若者は必死に科挙に受かる為に学問に励み、宮殿の宦官になるために自ら性器を切り離して、宮殿の西太后に仕えることを人生の目標とした。
宮殿の中においては、さらに臭豆腐という限定食品を求め、下級役人は金でも体でも差し出せる物は何でも渡して、臭豆腐を求める者が列を作った。阿片経験者にとっても臭豆腐の中毒性は高いとすら言った。
「阿片の吸い過ぎで死ぬ奴はいるけど、いくら何でも臭豆腐で死ぬ奴はいないだろう」という新参物が聞いてくれば、すかさず声を立てるなという合図をし、楽しげに紫禁城に纏わる噂をするのであった。
誰もが作り話だろうとして話される、宮殿料理長が蠱毒の術を使っているだの、西太后が動物を殺し合わせその血を吸っているだの、調理長の王到和と西太后は天気が良い日は裸になって光合成をしている、という誰もが真面目に聞けない噂話は、悲しいことに全部真実だった。
|同治《どうち》13年(1874年)
西太后の垂簾聴政から同治帝が19歳になると自らの親政を始めた。同治帝が始めに取り掛かったことは、母西太后のためにアヘン戦争時に略奪にあい破壊された円明園の修復だった。この西太后ですら官僚らの反対にあい成し遂げられなかった円明園の修復を行うことが同治帝の念願だった。
この時代の清は各国からの防衛に勤しみ、高級官僚を中心に洋務運動を起こしていた。つまり、伝統中国の文化や制度を本体としながら、西洋の機械文明の利用を目指すために、巨額の費用を必要としていた。当然宮殿内の贅沢は抑えられていた中での、飾りにしかならない円明園の修復には何の得策も見いだせなかった。反対の意見を上げる文官を次から次に罷免し、さらに清を代表する大臣が全員同治帝へ円明園の修復延期の願いを上奏すると、同治帝は大臣全員を罷免しようとした。
そこに西太后が同治帝を宥めようとすると、同治帝は激高して西太后の帽子を払い落とし、部屋から出て行った。簾が垂れている向こう側で西太后の帽子が落とされたことを見られた者はいたが、帽子があった場所に葉が生えていたことに気づいた者はいなかった。
王到和は、毎日紫禁城の裏手にある森に入り虫を自ら集めていた。
陽が沈みかけて王が小山を降りている途中、東屋で男と女が真剣に時に声を大きくして話をしているのが聞えた。男は洋務運動の中心人物でもある桂良と文祥で、女は庶民の変装をしているが、大柄で目鼻立ちが男風に整ったモンゴル族の同治帝の皇后、孝哲毅皇后だった。話は清朝全体のことをよく考え、同治帝に円明園の修復を止めさせて欲しいという内容だった。孝哲毅皇后は自身の考えがあり、それは自分自身の為で無く常に清朝と国民のためと何度も言っていることに驚いた。それは、王到和が初めて知る宮殿人の意見だった。
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翌朝、西太后が朝食の臭豆腐を食べる時に、隣で臭豆腐を口に入れる同治帝の顔をじっと見ていた。
天気がよいこの日の昼、西太后と王到和は、いつものように裸になって光合成をしていた。
西太后の指から出た蔓は王到和の胸、顔を撫で、それから頭の上の葉を撫でた。
王到和は、悦びを感じる中で思い出した。宦官の手術をした時に、西太后が性器を切り離した後、口に含んだ珠を自分の体の中に入れたことを。あれは、この葉の種ではなかったのだろうか。そう思ってしまうと、王は体全体を西太后に支配され操られている気がしてならなかった。隣を見ると、西太后は満足そうな顔をして、王の葉を何度も愛撫していた。
その夜、19歳の同治帝は崩御した。西太后は黙って息子の脇で立ち尽くしていた。暫くすると、狩人に命じて同治帝の体を蔵の地下に運ぶように命じると、王到和は必死になってとめた。王があまりに必死に止めることを、西太后は驚き、王の頬を叩いた。抵抗しない王の頬を何度も叩くと王の三角帽子が落ち、頭から生えている葉が見えた。
「え」と誰とも言えない声があがると、西太后はようやく、王を叩くのを止めた。荒い息をしてから、狩人達に言った。
「もういい。やる気が失せた」
西太后はそう言うと、足早に同治帝が眠る部屋を出て行った。
王到和が不自由な手で三角帽子を取ろうとすると、同治帝の皇后、孝哲毅皇后が帽子を拾い、王の頭に被せた。
「どうもありがとう」
と王は不自由な発音で言ったが、孝哲毅皇后はその言葉が聞き取れたような目をした。
🍚
五日間をかけて同治帝の葬儀が執り行われた。
葬儀の終わった翌日、また森の東屋で前回と同じく桂良と文祥が庶民の姿に変装した孝哲毅皇后と話をしていた。今は北東部から中部にかけた広域で干魃による大飢饉が発生して、数百万人が餓死をしている。そのための救済活動をしているのは、諸外国の宣教師と一部の中国慈善家に限られて、清朝は何もしようとしない。という王が初めて知る情報だった。またそこで、孝哲毅皇后は、自分の財産、家の財産を救済に充てたいと語っていた。それもまた、王が初めて聞く宮廷に住む者の意見だった。
翌日、西太后と王到和は、護衛の狩人を数人連れて、紫禁城裏手の山を登った。そこからは北京の街全体が見渡せた。ただ、今は北京の街にも大飢饉の影響で、いつもの賑わいは見られなかった。西太后は英国製の双眼鏡を持って、街を眺めていた。よ
「あそこで、人がたおれたぞ」と西太后は興奮して街のどこかを指さしながら大声を出した。「今度はあそこだ」
狩りの道具を持ったまま控えていた狩人には、おまえたちも飢えで倒れた人を探せと指示をだして、望遠鏡を渡した。狩人が倒れている人を見つけると、その双眼鏡を受け取っては、声に出して、その倒れている人の姿を声に出して説明しては大声で笑い出した。
その笑っている途中で、王到和は西太后に言った。
「飢饉で倒れている国民のために、あなたは何もしないのか」
西太后は顔は笑ったまま、王をきつく睨んだ。
「清が援助をしないので、外国が清の農民を助けていると聞いた」
「誰から聞いた?」
西太后は何も答えない王の頬を叩くと帽子がすっとび、王の頭の葉が現われた。西太后は、顔を赤くして王に近づくと、その葉を左手で握って引っ張った。王が痛がって葉と一緒に動くと、狩人に命じて王の体を押さえさせ、両手で思い切り葉を引き抜いた。声を出して痛がる王の頭からは緑色の液体が流れ出した。
西太后は狩人を連れて、王を置き去りにして山を足早に下りた。
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翌朝の朝食で、西太后は一瞬臭豆腐を持つ箸を止めた。そこをじっと見ている王到和を見返すようにして、西太后は笑顔のまま臭豆腐を口にしてよく噛んでから言った。
「王、今日の臭豆腐は格別に美味しい味がするな」
王は西太后は臭豆腐に毒が塗られていると知りながら食べたのだと思った。これは、いつか言ったように、西太后は自分に殺されたがっていたのだと思い、体が熱くなった。昨日西太后に引き抜かれた葉の生えていた場所に手を当てると、すでに小さな芽が出ていた。
王が今日使った蠱毒は即効性の毒なので、昼には西太后が倒れた知らせが紫禁城内を駆け巡るだろうと考え、自分の部屋に静かに戻った。
西太后とよく二人でしたように、一人で裸になって光合成をしようと、よく陽が当る場所に体を横たえた。
王は今すぐ西太后に会いたくなった。どうして西太后はいなくなったのか。いや、西太后が蠱毒の毒で死ぬわけがないと確信をした時、西太后が隣に立っていた。
西太后も裸になって、いつものように王の隣に横たわった。また爪から生えた蔓で王の体を撫で、顔から頭に蔓を動かすと、王の頭の芽が伸び始め、また立派な葉を出した。蔓がその葉を愛撫しているとき、西太后と王は見つめ合っていた。
裸の光合成が終わり、陽が陰ってきたときになると、王に仕える女官から、本日孝哲毅皇后が突然亡くなったという知らせを受けた。
王は何度も床を不自由な手で叩いた。それから何度も吼えたが、女官には王が何を言っているのか聞き取れなかった。
その言葉を聞き取れる内の一人は、宮殿内で京劇の「白蛇伝」を観ていた。あともう一人は、すでに誰かによって蔵の地下に放り込まれ、虎に体を喰われた後だった。
王は、部屋に置いた毒の蠱毒の壺に三跪九叩頭を行った。叫びながら壺に向かって跪き床に頭をつけた。そして壺を空けると、そこに残った一匹は小さな天道虫だった。壺の中には蛇、蠍、蝦蟇、毒蜘蛛、筬虫らの食い合った後があった。王は天道虫をそのまま飲み込み、壺に手を入れて、死んでいた他の虫たちを掴んで口に入れた。壺に口をつけて、手で掻き出すようにして、壺の中を一つの欠片もないように食べ尽くした。それから、不自由な足を引きずって隣の蔵へ行き、自分で紐を引っ張り、床を落として虎が吠えているその中に飛び込んだ。
王は虎に自分の体が食いちぎられている中で、この自分の血が西太后の体に入ることを想像して、こころから悦びを感じて息絶えた。
西太后は芝居の「白蛇伝」で海から鯰が現われたところで拍手をしていたところで、狩人から、王が自ら甕に落ちて虎に食べられたと聞かされると、すぐに立ち上がって蔵に向かった。
開いたままの地下の甕の中には虎が一匹と、そのまわりに人と思われる残骸があった。狩人に虎を射させてから、西太后は甕の中に飛び降りた。そして王の物と思われる残骸をかき乱し、王の体に入っていた一つの珠を見つけた。それを愛おしそうにその内臓と血の中に埋まった珠を直接唇を寄せて吸い込んだ。
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それから紫禁城の中でも外でも原因不明の死体が増えた。それは西太后の意思であったかどうかの明確な証拠は残されていないが、いつも西太后だけは何かに守られているかのように、生き延びて結局は清の中心に座っていた。
ただ、簾の向こうに座る西太后はいつも、肩の上に誰かが座っているかのように、肩の上の人と楽しそうに話しをしていたという。
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光緒33年(1908年)幾つもの外国との戦争と国内での内乱が起き、72歳の西太后は妹の息子である光緒帝の垂簾聴政を行っていた。
すでにこの時は紫禁城の中でも外でも、清朝の終焉がそこに来ていることを誰もが気づいていた。西太后は、それが何時なのかは、自分だけが決める仕事なのだとわかっていた。
朝食で時の料理長が作った臭豆腐を食べ終わった後、西太后は自分の肩に向かって、「何も聞えない聞えない」と叫びだし、肩を何度も手を叩いた。
それから、反目しあう事が多くなった光緒帝の部屋へ、西太后と一緒に年をとった老狩人を引き連れて、光緒帝を射った。光緒帝を蔵の甕に落とし、虎が光緒帝の体を食べ始めるのを見届けると、その中に自分も飛び込んだ。
2021年 景山公園が有料になってから野良犬たちは公園の中に入れなくなった。ただ景山公園周辺にある飲食店から出る残飯を人間と折り合いつけながら犬たちがここで暮らせているのは、ここ一帯の野良犬を束ねている片目のおかげだった。片目の指示を守れば、迂闊に人間に食用にされることなく暮らしていける。
昼間の観光客が多い時は、人間の目につく場所にはよりつかない。人の目と臭いがする場所は避けて、犬たちは景山公園の北にある野生の森の中に潜んでいた。
人が全く寄りつかない森だったのが、最近はその一角の楓の木が切り落とし、人は巨大なクレータのような窪地を作った。そこへ廃棄貸自転車を運んでき。北京では新しいことが始まるのも終わるのも早く、時として流行と衰退は同時に起きる。余りに急激に増えすぎた貸自転車は、すぐに供給過多となり中国360都市で1000万台、北京だけでも50万台の街に溢れた貸自転車は処分されることになった。その一箇所が片目達の縄張りだった森にやって来た。
片目は、今日も大型トラックから砂利のように貸自転車が自転車の上に落とされるのを見ていた。最初の内は恥部を隠すように巨大な緑色のネットで覆われていたが、今は何も隠すことはないというように新しく捨てられた貸自転車が捨てられていった。
片目は鼻の上に天道虫が止まったのを感じた。片目が動かずに止まっていると天道虫は片目の鼻の上を二度往復してから飛び立った。
山と積もれた貸自転車の中には捨てられたばかりの自転車の音声が流れている。
「わたしを起こして」彼女は電池が切れるまで、いい続けるし、またその頃には新しい彼女がやってきて、貸自転車の墓場にはたえず彼女たちの声が溢れた。
👍ここまで👍
*本文中の漢字のルビがカタカナとひらがなが混在しているのは、中国語音読みと日本語読みに分けたためです。本来は全て中国語読みにすべきかもしれませんが、いくつかは日本語読みが定着しているものもあり、混在したままとしました。臭豆腐はわたしの回りでは「チョウドウフ」と読みますが、「しゅうどうふ」と日本語読みをする人がいることを知り驚きました。漢字はもし日本語読みの方が読みやすければそれでも構わないと想います。読む側だとルビが少ないと読み方を忘れてしまったり、全てに振られていると「もうわかっているよ」と想うこともあるしな。という自分読みの寄りで、「ルビ頻度増し増しでも時々無しよ」にしてみました。
参考文献:
中国の憑きもの 川野明正/著 風響社
西太后に侍して 紫禁城の二年 徳齢/著 研文社
西太后汽車に乗る 徳齢/著 東方書店
西太后 大清帝国最後の光芒 加藤 徹/著 中央公論新社
最後の宦官 小徳張 張 仲忱/著 岩井 茂樹/訳・注 朝日新聞社
紫禁城史話 : 中国皇帝政治の檜舞台 寺田 隆信/著 中央公論新社
中国の巫術 : その原理から祭り・鬼祓い・招魂・シャーマニズム等まで 張 紫晨/著 伊藤 清司/訳 堀田 洋子/訳 学生社
中国くいしんぼう辞典 崔 岱遠/[著] 李 楊樺/画 川 浩二/訳 みすず書房
中華美味紀行 南條 竹則/著 新潮社
文字数:27118