梗 概
デッドマンライター
近未来。故人のデータをAIに与えて仮想人格を作り出し、故人との交流をロールプレイするというサービスが成長中である。
デッドマンライター社は、上記のサービスを利用したいが、完全なAIによる仮想人格を受け入れられないユーザーにフォーカスし、故人をロールプレイする過程に人間の手を含める「故人作家」というサービスを売りにしており、片原里奈は担当の1人である。しかし、実情はmimicという生成AIが大半の仕事を担っており、里奈の仕事は生成されたテキストを、指定された形式に編集するだけである。その為、里奈は自分のことを、ただ生成ツールを使うツールのようだと感じており、仕事に虚しさを感じている。
ある日、妻を自殺で亡くして憔悴している舞台俳優・伊勢正樹の為、彼の妻・伊勢奈美の友人という設定で交流をして欲しいと、里奈は知人から個人的に依頼を受ける。故人本人ではなく、その友人のロールプレイという依頼を里奈は訝しむが、引き受けることにする。
2人の交流は問題無く続くが、ある日、正樹は妻の自殺の理由を、里奈に尋ねてくる。ロールプレイの範囲を超えていると感じた里奈が知人を問い詰めると、案の定、正樹は何も知らず、里奈を本当に奈美の友人だと考えているのだと分かる。伊勢夫妻の周囲の人間は、彼の現状を真剣に心配しており、今回の依頼は彼らの意思だった。正樹の心身が回復してから事情を説明するという知人の言葉に負け、渋々、里奈は続けることにする。
里奈に事情を隠す必要が無くなった知人は、よりリアルな奈美の友人を演じさせるため、伊勢夫妻の身近な人間から集めた、奈美に関する大量のデータを里奈に共有する。mimicは奈美の人物像を詳細なものに更新する。里奈は奈美がイラストレーターであったこと、自分と同じようにテクノロジーと仕事の関係に悩んでいたことを知り、共感する。里奈は、mimicが生成したテキストを参考にしながらも、自分の言葉で正樹との交流を行うようになる。
交流を続ける中で、里奈は正樹が見えていなかった奈美の一面を理解していくが、両者のイメージの差異から正樹は疑いを持つようになる。そして、ある日、奈美の自殺の理由について再び尋ねられると、里奈は正樹の想定とはまったく違うことを言ってしまい、すべてバレてしまう。里奈は謝罪し、本当に奈美に友情を感じていたこと、こんなにも充実した仕事は初めてだったと伝える。
しばらく後、里奈の元に正樹が主演の舞台のチケットが届く。演目はギリシャ神話のオルフェウスで、妻を取り返そうと四苦八苦する舞台上の正樹を見ながら、里奈は再び罪悪感を覚える。しかし、舞台終盤、妻を連れ帰れなかったオルフェウス(正樹)は、それでも死んだ妻と向き合う時間をくれたことに対して、ハデスへの感謝のセリフという形で、里奈に礼を言う。客席で、正樹からの感謝の言葉を受け取った里奈は、気持ちが救われる。
文字数:1200
内容に関するアピール
嘘つきというテーマで何かハッピーエンドの話を書けないかと思い、今回の梗概を書きました。騙すということは当然ネガティブな側面があり、常に推奨されるものでは無いかもしれませんが、演劇の様に、フィクションを演じることで現実では得られない体験をして、それがポジティブに働くこともあると思います。本作では、そのような嘘のポジティブな一面を描きたいと思います。
「故人作家」のアイデア元は、実際に始まっている故人を演じるAIサービスと、「her/世界でひとつの彼女」という映画に出てくる手紙の代筆業です。実作では、故人の膨大なデータ処理をAIが担当し、故人の気持ちを推察する部分を人間が担当するという、両者が対等に力を発揮する形の「故人作家」として里奈を描きたいと思います。
文字数:331
デッドマンライター
1
8月18日
片原里奈は、チケットをスタッフに見せて劇場に入っていった。最初前の方の座席に座ろうかと考えたけれど、少し考えて真ん中くらいの席を選んだ。しばらくと経つと、照明が消え、演劇「オルフェウス」の開始を告げるブザーが鳴った。先週送られてきたチケットを見ながら、里奈はこの8カ月のことを思い出していた。
1月18日
オフィスで里奈はメールのウィンドウを閉じて、伸びをする。今日の仕事を終えて帰ろうと思った途端、端末のスピーカーから通知音が鳴り、チャット画面に切り替わる。
霧子、今話せる?
里奈は少し考えて、「自動チャット」と書かれたボタンを押す。チャット画面にはユーザーと仮想人格のやり取りが、どんどん書き込まれていく。
良かった。明日、霧子のお墓に行こうと思うんだけど、どんな花が良いかなと思って
そうだけど! 霧子も、どうせなら好きな花の方が嬉しいでしょ
モニターに「井上霧子」という名前と、通話アイコンが表示される。里奈は首にかけていたヘッドセットを頭に付けて、通話開始を選択する。
「チャット見ていますか?」生前の井上霧子を模した合成音声が、里奈に尋ねる。
「見てる。あなたの好きな花は?」
「チューリップだと思います」
「エビデンスは?」
「チューリップを要素として持つレコードが50件以上あります。これは、花カテゴリーを要素に持つレコードの中でも最多です」
「レコードの表示をお願い。検索ワードは花。画像と動画だけで良いわ」
真ん中のモニターに、故人が生前撮影した様々な花の写った画像と動画サムネイルが表示される。ざっと見た感じでは、写っているのはチューリップが多いように思われる。里奈は「自動チャット」をオフにして、テキストのやり取りを再開する。
笑
確かに
OK。やっぱり慣習を守って菊にする
数分待って、新しいチャットが帰ってこないことを確認する。業務終了時刻は既に過ぎていたので、里奈は担当分の仮想人格AIが、すべて夜間モードになっていることを確認する。これで、明日の業務開始までは、またAIがユーザーの相手をしてくれる。
大学時代の友人・律子と会う約束があったので、里奈は職場から直接待ち合わせ場所のバーに向かう。
「前から思っていたんだけど、あんたの仕事って倫理的に辛くなる時は無いの?」
「最初の頃はあったけど、もう慣れた。コールセンターみたいなものよ」
「そんな事務的な感じ?」
「実際、事務的なのよ。踏み込みすぎると、ユーザーからクレームがくる場合もあるし」
「でも、死んだ人を演じている訳でしょ?」
「それは、仕事を始める前から比べて、私の中で大きく変わったことの1つね。私も、仕事に就く前は交霊商法みたいなものだと思っていた。でも、実際のところ、ユーザーは皆、故人が帰ってこないことを理解しているし、相手がAIと従業員だってことも理解している。それでも、彼らは故人とAIの間に何かしらのポジティブなレイヤーを見出しているわ」
「ポジティブなレイヤーねえ」
「私たちには理解できない価値観かもね。年々、仏壇を置く家って減っているらしいし。別に宗教も無いし。ちなみに、職場で隣がメキシコ人なんだけれど、彼はデスクに亡くなったご両親の写真を飾っているわ」
「効果のほどは?」
「立ち上げから黒字が続いている。ウチのサービスを利用したいの?」
「うん。まあ、ね」律子の応答は、歯切れが悪い。「故人本人じゃなくて、故人の友達同士としてユーザーと交流するサービスとかはあるの?」
里奈は、端末に登録している同業者リストから、1社をピックアップして律子に見せる。「例えば、ここのサービスではユーザーはAIとは直接会話しなくて、企業のスタッフがAIを使いながらユーザーと交流するの。故人とのコミュニケーションというよりも、友達同士での追悼をロールプレイするって感じかな」
「あんたが個人で請け負うってのはあり?」
「は?」里奈は困惑する。「会社を通さないことで少しでも安上がりにしたいっていうなら、考え直した方が良いわ。ケチった分のデメリットの方が大きいわよ」
律子は引き下がらない。「あんたが普段仕事で使っている環境を、プライベートに作るとしたら何が必要なの?」
「馬鹿な考えね」ため息をつきながらも、最低限の設備を里奈はリストアップしていく。「あと、当然だけど、人格生成AIと故人のデータは不可欠」
「故人のデータは問題ないわね。人格生成AIっていうのは一般に公開されているサービスとか無いの?」
「ウチの会社が公開している」
「渡りに船じゃない。製品名は?」
「mimicよ。まあ、あんたの言うようなことは、できないことはないけれど。当然、私への報酬も発生するし、本業もあるんだからリアルタイムでの対応なんてあまりできないわよ」
「大丈夫」
話はお終い、というように律子は新しいお酒を注文する。
里奈は家に帰ってから、酔っぱらった頭で律子からの申し出について考えた。撥ね退けるような態度を取ってしまったけれど、悪い話ではないのかもしれない。里奈が働いているデッドマンライター社は、スタートアップの会社でありながらも、従業員にそれなりの給料を払ってくれている。しかし、里奈は仕事への情熱はあまり持てず、新しいことに飢えていた。
AIを用いて、特定の人間の人格をデジタル上に再現するという試みは、実現されるまでは騒がれたものの、実際に作られてしまえば、どのように一般化すれば良いか分からずに持てますものだった。そんな中で、故人の生前の情報を利用して仮想人格を構築し、疑似的なコミュニケーションを行うというサービスは、数少ない成功したビジネスモデルだと言える。
このサービスは仮想人格の構築までを企業が担当し、後はユーザーに任せるという方式が最も一般的である。しかし、中にはサービスを利用したいが、AIを故人と見做すことに抵抗を覚えるユーザーもいる。デッドマンライター社が、同業者との差別化のためにフォーカスしたのはこの種の需要だった。「故人作家」という名前で始まったこのサービスは、仮想人格からユーザーに向かうコミュニケーションの間に人間の手を入れることで、より情緒的なコミュニケーションを行うという触れ込みの元、他社に比べて割高でありながら独自の地位を確立していた。
この日里奈が最後にチャットした相手は、サービス開始時から「故人作家」を利用している最も古参のユーザーの1人で、「故人作家」サービスが公開される3か月前に恋人を失っていた。
1月30日
舞台俳優・伊勢正樹が妻・伊勢奈美を自殺で失ったのは少し前のこと。夜、彼が自宅に帰ってくると、仕入れ元不明の睡眠薬を過剰に摂取して、奈美は帰らぬ人となっていた。それ以来、正樹は塞ぎ込んでしまい、自分が代表を務める社会人劇団に顔を出さなくなった。劇団に所属する律子が、他の関係者と相談した結果、正樹に仮想人格とのコミュニケーションを勧めたというのが、今回の依頼の背景だった。
片原里奈さんですか?
ありがとうございます。
申し訳ありません。片原さんのことは、今回初めて知りました。
テキストをやり取りしながら、里奈は手元の端末のスティッキーノートに「サービスであることを前提とする/しない」と書いた。
コミュニケーションをロールプレイする上で、それがサービスであることを前提として会話をするのか、それとも本物の故人、または友人として振舞うのかはユーザーの希望次第になる。下手に故人そのもののように演じると、それを不快に感じるユーザーも珍しくない。そのため、「故人作家」に求められるのは、自然な会話よりも、寧ろユーザーの希望するコミュニケーションの「設定」を理解し、それに徹することだった。
律子は、里奈に報告も兼ねた定期的なミーティングの実施を求めた。会社を通さなかった理由は、どうもこの辺りにあるようだと里奈は思った。「故人作家」はあくまで人間らしさを演出するための舞台装置であって、ユーザーは誰が間に入っているかを意識しない。言ってみれば、遊園地の着ぐるみのようなものだ。つまり、正規で「故人作家」に登録したとしても、里奈の口から状況を聞く機会など無いわけだ。
あまり体調が良いとは言えません。奈美のことが、頭から離れなくて
その後、いくらかテキストをやり取りして、2人はコミュニケーションを終えた。里奈の方は、とりあえず今日のところは、どのような「設定」であっても問題無い会話を心がけた。至急、律子とミーティングしてこの部分を詰めなければならない、と里奈は思った。
8月18日
舞台が明るくなると、正樹と、もう一人女優が立っている。女優のセリフから劇は始まる。
「ねえ、オルフェウス。エウリュディケが毒蛇に噛まれた日から、あなたもまるで死んでしまったみたい」
「ムーサよ。妻が居なくなった日から、私の半分は死んでしまった」
「みんな、あなたのことを心配している」
「何故、みんな私を責める?」
「誰が、あなたを責めている?」
「君だ。他のすべての友人たちだ。何故、家の外に出て、再び歌を聞かせてくれと言う? 何故、夜が明けたように振舞わせようとする? 何故、私はもう立ち直った、と言わせようとする?」
「だって、みんな、あなたのことを心配している」
「妻は、ある日、するりと手から零れ落ちてしまった。私はもっと彼女と過ごしたかった。それなのに、何故、君たちは、私と妻の時間は十分なものだったと言わせようとする?」
「でも、みんな、あなたことを心配している」
「分かっている。君たちは、私の胸の内を理解できないかもしれないけれど、それでも優しいということを。しかし、知って欲しい。君たちは優しいけれど、決して私の胸の内を理解できないということを」
「もしも、あなたがエウリュディケを連れ戻したいと言うのなら、私は死者の国へ行く方法を教えることができる。あなたはそれを知りたい?」
「もう一度妻と話せるのなら」
2
3月2日
1カ月ほどロールプレイを続けて打ち解けてくると、正樹はおそらく誰に対してもそうであろう、人の好さを見せるようになった。この日、里奈と正樹は初めて音声通話で会話をすることにした。
「報告があるんだ」正樹が切り出す。「先週、ようやく家を出て、劇団の練習に行けたよ」
「すごいじゃない。おめでとう」
「片原さんのおかげだよ。ずっと人と話なんかしたくなくて、引きこもっていたんだから。本当にみんなには迷惑をかけたよ」
「ちょっと、また暗くなってきてない?」里奈は冗談めかして言う。
「ごめん、ごめん。その通りだ」正樹が笑いながら答えたので、里奈は胸をなでおろす。
「冗談よ。あなたのペースで話して」
「ありがとう。律子から聞いたんだけど、大学生の時、災害地ボランティアに行った記事を書いて、雑誌の賞を貰ったんだって?」
「1回だけね」
「素晴らしい記事だったって律子が言っていた。周りの友達もみんな泣いていたって。読んだわけじゃないけれど、僕もそう思う」
「そう?」
「うん。上手く気持ちが整理できない人の中身をすくい上げてくれる。そんな感じ。今でも記事を書いたりするの?」
「前は賞をくれた雑誌社でライターをやっていたんだけどね。そこが無くなってからは、何も書いていないわ。生きるのに精一杯」
「分かるよ」
「あなたは前に進んでいるじゃない」
「僕も同じ。情熱だけじゃ食べていけない。でも、何かできることをしていたい」
伊勢正樹はある種の人生の成功者だというのが、里奈が何度かやり取りをして抱いた感想だった。別に彼は金持ちという訳じゃない。寧ろ、自分で立ち上げた社会人劇団だけでは食べていけず、大学の事務職と2足の草鞋で生活をしている。しかし、正樹は人生に対して前向きで、自分の成功を信じている。そして、周囲の人間からの評価も、その自信を裏打ちするものだった。
「奈美は何が辛かったんだろう」正樹は急に、その言葉を口にする。
「分からないわ」里奈は手元のスティッキーノートに「律子にルール確認」と記載する。それから30分ほど話してから、2人は通話を終えた。
正樹は良いクライアントだけど、時々、仮想人格との距離感を間違えると里奈は感じていた。簡単な趣味趣向であれば、人格生成時に読み込んだデータから再現できるが、満足のいく人生だったかとか、家族を愛していたかとか、どうして自殺したか、といった質問に仮想人格は答えられない。
律子にメールを送ってから、里奈は伊勢奈美と記載された仮想人格を起動してみる。生前の奈美の声が再現された合成音声が挨拶するのを聞くと、里奈は質問してみた。
「あなたは何が辛くて、命を絶ったの?」
「分からないわ」
曖昧な答えなのは、明確な答えが推察できないからではない。ユーザーとのトラブルを避けるため、この手の質問には、曖昧な返事をするようにプログラムされているだけだった。そして、それは里奈も同じであった。
3月7日
午前の業務を終わらせると、里奈は隣のデスクのメキシコ人・ミカエルと昼食に向かった。カフェに入ると、ミカエルが楽しそうに今担当しているユーザーのことを話す。
「ユキコっていうんだけど。最近、よくお爺さんと話すようになったんだ」
ミカエルの言うお爺さんとは、彼が「故人作家」を担当している仮想人格・ケンジのことだった。最初は、彼の息子夫婦の依頼でmimicによる仮想人格の生成を行ったのだけれど、近頃、その孫のユキコもケンジさんと会話するようになったらしい。
「この前なんてさ、お爺ちゃんとおばあちゃんの結婚式はどんなだったのって聞かれてね。まあ、いつも通りケンジが出力した情報をそれらしく編集するだけなんだけどさ。あの日はタイアンキチジツだったんだ、みたいなね」
「それって本当なの? mimicがそう推測しただけかもよ」
「たとえそうだったとしてもさ。祖父の結婚式の日付だけ両親から聞いても、ユキコは何も感じなかったかもしれない。でも、仮想人格を通すことで、彼女は家族の歴史の一つに触れたんだ。これって良いことじゃないかな?」
3月14日
正樹との交流は順調に続いていたけれど、里奈と親しくなればなるほど、彼は妻が抱えていた問題について尋ねる頻度が増えていった。その日の律子とのミーティングで、里奈はこの話題を切り出した。「律子からはどんな風に説明しているの?」
律子は重大な告白をするように大きく息を吐く。「ごめんなさい。彼は──何も知らないの」
「知らないって何を?」
「彼は、貴方が本当に奈美の友人だったと思っている」
「勘弁してよ。つまり詐欺ってこと?」
「正樹は一円も払っていないから、厳密には詐欺とは言えないでしょうけれど」
「でも、彼がクレームでも入れれば、私は職を失うかもしれない」
「正樹以外は皆了解してる。だから、私たちが絶対にクレームなんか入れさせない。もし、必要になったら、あんたも私に騙されていたって言っていい──実際、そうなんだから」律子は拝むように続ける。「だから、どうか辞めるなんて言わないで」
「なんで私が」
「1カ月で正樹を家の外に連れだしてくれた。誰にもできなかったことよ」
里奈はため息をつく。
ここ1、2年、里奈は何度となく理想のキャリアから剥離していく自分を意識してきた。
里奈がインタビューとライティングに魅せられたのは、大学の校内新聞サークルに所属してからのこと。人の話を聞いて、それを言葉にすることへの適性が自分にあると気付いてから、ボランティア記事で雑誌の賞を取り、そのまま賞をくれた雑誌社に就職するのは、彼女にとって理想のキャリアだった。雑誌社が無くなってから就職活動をしていた里奈が、「故人作家」というサービスの構想を初めて聞いた時も、自分のこれまでのキャリアと地続きになると、里奈も、彼女をスカウトした社長も考えていた。しかし、実際は社長の期待は満たされて、里奈の期待は外れた。
里奈の能力は仮想人格が出力する無機質な短文を人間的にするのに大いに役立った。実際、この仕事は誰がやっても同じという訳ではない。一度、里奈が元カレに自宅用のmimicを触らせたことがあったけれど、完成したテキストは仮想人格が出力したものよりも不自然だった。
しかし、他人よりも上手くできるとはいえ、会社が求めている仮想人格のテキストをブラッシュアップする業務は、ライターとしての里奈の情熱を満たすものではなかった。里奈は時々、自分がmimic用のテキスト編集ツールのようだと考えることがあり、それはどうしようもなく虚しかった。
8月18日
場面は進み、オルフェウスは妻を返してくれるように嘆願するため、冥府の神・ハデスに謁見する。ハデス役は珍しいことに女優が演じており、年齢は里奈と同じ程度だった。
「死者たちの王よ。何故、あなたは生者から死者を奪うのか」
「俺は何者も奪わない。死者は生者の国に居られなくなると、この地に来る。そして、彼らはただの影になる。彼らを惜しむ者たちの、口の端に上る姿の投影に」
「それは生者も同じことではないか。どれだけ友人について多くのことを知っていたとして、その友人のすべてを表すことはできないのだから、私は常に影と付き合っていることになる。一体、生者と死者の差とは何なのだ」
「それはお前の決めることだ。俺にとって生者と死者の差は無い。死者にとってもどうでも良いことだ。それ気にするのは生者だけ。それを気にするのはお前だけだ」
「私は家の中に居ることに耐えられなかった。エウリュデュケの居なくなった家に耐えられなかった」
「俺はお前の歌が気に入ったのだ。望みを言うがいい」
「妻を、エウリュデュケを家に連れ帰らせてくれ」
「いいだろう」
エウリュデュケ役の女優が、舞台上に現れる。
「望むものを与えよう。しかし、一つ忠告する。この国を出てから、お前の家の扉をくぐるまで、お前の妻は決して話さず、お前に触れず、お前の後ろをただついていく。お前は不安に駆られるだろうが、決して振り向いてはいけない。振り向けば、お前の妻は、再びこの地に戻ることになる」
3
3月18日
里奈が出社するとミカエルのデスクの側に、大きな段ボール箱が数個置かれていた。
「ユキコの両親が送ってきた。ケンジをもう少しバージョンアップしたいんだって」
社長がやって来る。「これが例の?」
「うん。ケンジが生前書いてた日記とか、撮影した写真とか、ビデオとか。オールドメディアはクラウドに食わせられないから、送ってきたらしい。どうする?」
「まあ、サービスの範疇外だけど。前から、デジタル以外の情報の取り込みはユーザーからも需要があったからな。午前中使って、簡単に中身改めておいて」
「イエッサー。里奈、暇かい?」
「うん」
「手伝って」
恐らく、一度中身を詰められてから開けられたことの無かったであろう段ボール箱には、ミカエルの言う通り、日記やアルバムなどが納められていた。底の方には、表紙がヨレヨレになった岩波文庫がギッシリと詰まっていた。
「手書きの日記ならスキャンする手間があるけれど、文庫本は楽ね。タイトルのリストを作れば、後は勝手にmimicがやってくれるでしょ」
ミカエルは1冊を手に取り、ページをめくる。「ワーオ。どうも、そんなにことは簡単に運ばなさそうだぞ」
里奈も1冊を手に取って適当なページを開いてみると、そこにはびっしりと書き込みや、テキストにラインマーカーが引かれていた。別のページへ行くと、強調の種類によってマーカーの色を変えたりしているようだった。どの文庫本もこの調子だとしたら、この段ボール箱が内包している故人データは見た目よりも、ずっと多いのかもしれない。
「面白い人ね」
「僕もそう思う」
3月20日
先日、律子が伊勢夫妻の周囲の知人・友人からもデータを集めて仮想人格に追加した。データを追加した奈美の仮想人格と交流する中で、里奈はあるデジタルアートの展覧会に、奈美が出展した時の記録を見つけた。生前の奈美はイラストレーターで、デザイン会社でPR用のイラストを作成する傍ら、フリーのイラストレーターとして活動しており、アーティストとしても名を知られる人物だった。
記録を見る中で、里奈は自分がその展覧会に行ったことを思い出した。仮想人格によって、様々なアーティストのタッチを再現するというのがテーマだったのだけれど、何をもってタッチが再現されているとするかの基準は説明されず、ただ有名な絵画が「それらしく」タッチを変えられた画像を見せられるだけで、里奈は終始もやもやしたものだった。
展覧会の最後のスペースは、大広間の中心にテーブルが並べてあり、テーブルには複数のタブレット端末が配置されていた。入場者はその端末を使って絵を描き、それを指定したイラストレーターのタッチで出力できるという展示だ。奈美が参加していたのはこの展示で、用意された描画ツールでは基本的には素材の切り貼りと、AIによる調整で描画することが推奨され、ユーザーが直接線を引くことは機能的に大きく制限されていた。
ああいった展示はデジタル上で特定の個人を完全再現するというフィクショナルな夢の、現実的な落としどころを表しているように里奈には思えた。独特なスタイルに発散している各アーティストの表現をAIがトレースするには限界があるが、アーティストの方が表現方法を制限し、AIがトレースできる領域に収束していくのであれば話は別だ。平たく言えば、仮想人格を人間に近づけるのではなく、人間の営みの方をデジタル上で再現しやすいように制限するのだ。
こういった展示に疑問を示すと、待っていましたと言わんばかりに自動化によるコストカットと、人々の興味を引くテクノロジーの宣伝効果の話をして、いかにこれが人間の財布の紐を緩めるかと自信満々に話す連中が現れる。しかし、こういったテクノロジーと人間の関係は不健康だし、一方で人間の手足を縛り、他方で「クリエイティブな仕事さえAIに置き換えられる」と言って回るのは欺瞞の様に里奈は考えていた。
4月2日
最近では、里奈と正樹はコミュニケーションをビデオ通話に切り替え、互いの表情を見ながら会話を楽しんでいた。奈美を挟んで、里奈と正樹はもう何年も付き合いのある友人のような関係になっていた。
「時々、僕は夫の癖に、妻の一番の友達を知らなかったのかなという気分になるよ」
「まさか」
「本気だよ。君が教えてくれる奈美って、10年も一緒に生活していたのに、まったく知らない女性みたいだ。でも、少し考えると、思い当たることもある気がするのさ」正樹はノートを取り出す。「今、新作の劇を作っているんだ」
「どんな物語?」
「ギリシャ神話のオルフェウスの物語は知っている? あれの再解釈をやろうと思っているんだ」
里奈は少し不安になる。「それって大丈夫なの? あれって──」
「そう。妻を失った夫が、冥界に妻を迎えに行く話だ。僕にとって、今やるべき仕事だと思う。そう思えたのは、君のおかげなんだけど」
「すごいと思う」
「君にも絶対チケットを送るよ」
「それ絶対忘れないでよ」
「もしも、奈美がここに居たら──」
「その話はもう何度もしたじゃない」
「分かっているよ。でも、気持ちが明るくなるたびに考えてしまうんだ。奈美が足りない。どうして、何も言わずに居なくなってしまったのかって」
「この話題については、私とあなたはずっと平行線だった」
「君はいつも、奈美が仕事のことで悩んでいたって僕に言うけれど、別に彼女は自分の仕事を強要されていた訳じゃない。悩むくらいなら仕事を変えれば良いだけの話だ。そんなことで悩む人が居るのかな」
「あなたはもっと自分が強い人間だってことを自覚するべきよ。誰もがあなたみたいに現実をすべて受け止めて、合理的に次の手を打てるわけじゃない。一つの困難を、世界の終りのように感じてしまう人だっている」正樹は納得していないようで、気まずい雰囲気になる。
奈美が自殺した直接的な原因は分からないけれど、仕事のことで精神的に参っていたのは明らかだと里奈は思っていた。しかし、正樹のような人間には考えの外なのだろうと里奈は思う。彼にとって困難は克服可能なものであり、克服できないのであればさっさと損切りして別の道を進めば良いだけの話なのだ。
時々、自分が距離感を間違えていることを里奈は自覚する。死者は考えないし、話さない。このサービスはあくまで、クライアントが個人と向き合うためにあって、仮想人格も「故人作家」もそのサポートをしているに過ぎない。自分の方がより故人を理解していると従業員が考え、クライアントと意見が対立するというのは、絶対的な思い違い以外の何物でもなく、危険な兆候だった。
5月25日
常識的な考えでは、データが追加されるたび、仮想人格は故人の再現率を高めることになる。しかし、ほとんどの仮想人格サービスは、ある一定のデータ量を追加すると、そこで価値判断基準の更新を止めるよう限界値が設定されている。それ以降、追加されたデータはすべて参照されるだけで、仮想人格の思考にはまったく影響を与えない。これはどちらかといえばユーザーの心情を慮った結果である。限界値が設定されていない仮想人格は、与えられたデータに比例して「人格」のようなものを明確化していくが、ある一点を越えたところで、ユーザーは一律に仮想人格に違和感や、嫌悪感を抱くようになる。里奈は、これを仮想人格サービスにおける不気味の谷のように考えていた。
「あなたはどうして自殺したの?」
「分からないわ」
「仕事が辛かったんじゃないの?」
「分からないわ」
「テキスト。仕事。直近3年間のレコードを、タイムスタンプが古い順番に表示」
「検索結果が100件以上ありますが全件表示しますか?」
「お願い」
長い時間をかけて、里奈はテキストを読んでいく。時系列順に並べられたテキストの流れは、まるで3年間の奈美の心の変化を示すグラデーションだった。奈美の心は、仕事への充足感に満ちたものから、会社の方針やアーティスト業におけるクライアントの要望が、より「効率的」な作品を作ることへシフトしていく不安に変化していき、最後の数か月は屈辱に満ちているようだった。
「ネガティブなワードを含むテキスト。仕事。直近6カ月。件数だけでいいわ」
「128件です」
「テキスト。仕事。直近6カ月。件数だけ」
「140件です」
「『自殺』を含むテキスト。直近3年間」
「検索結果は0件でした」
奈美は誰にも自殺するとは言っていなかった。しかし、彼女が残したデータの集積からは、こんな世界で生きるのは辛い、という声が聞こえてくるように里奈には思えた。世界は奈美のことを気にかけず、彼女の情熱を取り上げていく。そして、夫は合理的にその世界で勝利を積み上げていく。
「すべてのレコードを表示」
「検索結果が100件以上ありますが全件表示しますか?」
「お願い」
モニターに進行の程度を示すインジケーターが表示される。インジケーターの進行バーは遅々として進まず、1時間半ほど放置しても大して状況が変わらないので、里奈は表示をキャンセルした。
mimicには奈美が小学生の時のデータも与えたと律子は里奈に話していた。しかし、それでも仮想人格が持つ情報が、奈美自身が抱えていた情報の数パーセントの割合にも満たないことは、多くの支持が得られる推測だろう。里奈には、その数パーセント以下の情報でさえ、すべて閲覧するどころか、表示することすらできない。特定の検索ワードで切り出した情報から、奈美を推測しているに過ぎないのだった。
「あなたはどうして自殺したの?」
「分からないわ」
誰もが、一側面からしかその人を見れないのだとしたら、仮想人格における不気味の谷の気味悪さは、案外そういうところから来るのかもと里奈は思った。ユーザーと仮想人格で、辿り着いた故人のイメージがまるで違ってくるのだ。
6月8日
里奈が昼食に行こうとしたところで、ミーティングルームから出てきたミカエルと鉢合わせた。
「さっきの何の会議だったの?」
「ああ、ケンジのオールドメディアの件だよ。結局、mimicのシステムを、他社のオールドメディアの処理に特化したクラウドと接続して、専用の受け口を作ってもらうことにしたんだ。後は、ユーザーが自宅でスキャンしたデータをアップロードすれば、mimicが取り込んでくれるようになる。今日はそれについて外注先のエンジニア達と喋ってた」
「なるほど」
「最近、いつも難しそうな顔しているね。何かあった?」
「まあ、ちょっとね。ねえ、あなたは今の仕事が好き?」
「さあ? 僕は自分のできることをしているだけだから。元々、日本に住みたくて訪日しただけで、仕事は給料の良し悪ししか気にしていないかな」
「そっか」
「でも、色々な仕事をしていて思うのは、誰も必要のないものにお金は払わないし、ビジネスが成り立っているなら、それを必要としている人達がいるってこと。それは大切だと思うよ」
「そうね」確かにその通りだ、と里奈は思う。
6月15日
その日、ビデオ通話を始めると、モニター越しの正樹は神妙な顔つきで里奈の方を見た。
「どうしたの?」
「見て欲しいものがあるんだ」そう言って、正樹は通話画面を操作し、自分の端末の操作画面を里奈に共有した。画面には見慣れたmimicの起動画面が写っており、中心には「伊勢奈美」と書かれたアイコンが表示されている。
「奈美の友達に偶然会ったんだ。奈美とのプライベートなデータを律子に提供したって言うから」正樹は言葉を選んでいるようだった。「つまり、まあ、こういうことだった」
「ごめんなさい」
「君のことを責めてない。本当だよ。ただ、一つだけ教えて欲しいんだ。この半年間は、君にとってはただのビジネスだったの?」
「こんなこと言ったら怒るかもしれないけれど、私にとっても奈美は友達よ。少なくとも、この半年間、ずっとそう思っていた。彼女のことを知って、彼女の気持ちを考えたわ。彼女は私と──同じだった」
「そうか。それは嬉しいよ。でも、何ていうのかな。その、上手く割り切れない部分があるんだ。少し、1人で整理したい」
「当然よ」
「これまでありがとう」
8月18日
舞台は証明を消されオルフェウスの周囲のみがスポットライトで照らされている。舞台を歩くオルフェウスの後ろを、エウリュディケがついていくが、照明と暗闇の境をぎりぎり歩いているので、観客には彼女の表情が伺い知れない。オルフェウスの独白が続く。
「エウリュディケ。もうすぐ私たちの家だ。冥界からここまで、私たちは本当に長い時の中を歩いた」
「ここまでの道のり、私たちは本当に色々な人とすれ違ったね。彼らは、君を見ることができない私に、君がどんな風だか私に教えてくれた」
「夜、語らう相手が居なくなると、私はただ背中に君を感じながら、君が生きていた時のことを考えた。君はどんな声で、私と話していたのだったか」
「君がまだ私たちの家に居た時。日々、君の命は、私の命にどんな風に触れて、どんな風に変えていたのか。私の命は、君の命にどんな風に触れて、どんな風に変えていたのか。互いの人生に触れあう中で、私たちはまるで1つの命の生き物のようになっていった。君もそれを快く感じていただろうか。時には、君もそれを不快に感じることがあっただろうか──ああ、私たちの家だ!」
オルフェウスがドアノブに手をかけると、風の音が舞台に鳴り響く。オルフェウスは後ろを振り向いてしまう。照明が点灯し、再び明るくなった舞台の上で、オルフェウスとエウリュディケは顔を合わせる。
「君だ」
「私よ。オルフェウス」
「エウリュディケ」
舞台装置が動き、エウリュディケは退場する。代わりにハデスが舞台に上がる。
「お前は試練に失敗した」
「どれだけの愛するものを失ったものが、この試練に成功してきたのですか」
「ただの1人も」
「妻を殺した毒蛇は、あなたが?」
「毒蛇はただ、己の生を全うする」
「あの風は、あなたが?」
「風はただ、あらゆるところに吹き続ける」
ハデスは退場する。オルフェウスは、その場にうなだれる。
舞台は再び暗転する。
4
8月18日
舞台終盤を前にして、これから見せられるものに備えるため、里奈は唇を固く結んだ。2カ月間全く連絡の無かった正樹から、突然チケットが送られてきて、戸惑いながらも里奈がここに来たのは、自分の行いの結果が知りたかったからだった。正しいプロセスを踏まなかったとはいえ、里奈にとって正樹との交流は、これまでで最も情熱と手ごたえを感じられる仕事だった。しかし、もしも結果がユーザーを傷つけただけならば、里奈にとって「故人作家」は未来の無い仕事だった。
舞台の照明が灯り、オルフェウスは目を覚ます。
「君が居なくなってしまった日」
「あの日から、私と君の家だったものは、私だけの家になった」
「あの日から、家は大きく、私はとても小さくなった。家はどこまでも続いているようだった。あの日から、私の日々は、ただ壊れていくだけのものになっていった」
「私は、君を家に連れ帰ろうとした。しかし、君と目を合わせた瞬間、分かってしまった。この試練に成功は無いと。私と君は永遠に離れているのだと。私は君を失い、それを埋めることはできない」
「しかし、たとえひと時でも、私はもう一度君に会うことができた。君の姿は見えなくとも、すぐ後ろに君を感じていた。人々を通して、君がどんな風だか見ることができた。家に閉じこもっていた時、心は君を思い出すことを決して許さなかった。しかし、君を連れて帰る道中、私は君と向き合うことができた」
「たとえ生者と死者は永遠に隔たっていようとも、たとえ失敗すると分かっている試練でも、誰かが何かのためにそれを必要としている。家が小さく感じるようになるまで。自分が大きくなるまで。壊れていくだけだった日々に苦しんでいた私の心は、今、夜明けを待ち望んでいる。たとえ、君を失った痛みを引きずっていかなければならない明日でも、その明日を生きたいと望んでいる」
「だから、私は冥府の王に感謝したい。試練を与えてくれたことに。もう一度、妻を思う時間を与えてくれたことに」
10月30日
端末からメール受信の通知音が鳴った。相手は雑誌社の人間で、里奈が投稿した社会人コラムに対して、好意的な意見が読者から寄せられているそうだった。里奈は、手元の雑誌に載った自分のコラムを読み返す。
「テクノロジーと仕事の関係について
私は仮想人格を用いたサービスを提供する会社で働いています。その会社では、仮想人格とユーザーの間に人間が入り、より情緒的なコミュニケーションを行うことを売りとしています。
とはいえ、実際は仮想人格が主導のサービスなので、私の仕事はその裏方です。勿論、こんな風に考えない同僚もいて、彼らはやりがいを持って働いています。しかし、私には機械の従者のような仕事に、情熱を持つことができませんでした。
でも、少し前に、普段よりも自分が主役になれる仕事をする機会できて。私は初めてこの仕事に情熱を感じると同時に、機械と仕事の関係についても見方が変わっていくのが分かりました。
世間一般の常識が言うように、仮想人格が特定の人間を再現するということは無いと、私も思っています。同じように、カメラで撮影した映像が、そのままその場に居た人間の思い出と等しいということも無いと思っています。一方で、私たちが起こったことをすべて記憶に留めておけないということも事実です。そして、どんな記憶が、その人を理解する上で大切であるか、容易には判断できません。その人がどんな人だったのか思い出す時、記録は私たちの能力を補助してくれます。そして仮想人格はその記録の集積です。
先述した仕事は、私にとって満足のいくものでしたが、私だけでは不可能でした。私はここで、情報社会の是非について書きたいとは思っていません。ただ、人間がテクノロジーのツールのように振舞うのではなく、自分に足りない能力を補う関係を見出すことは、私の様にテクノロジーと仕事の関係に悩んでいる人にとって良いことかもしれない、そう思ってこの記事を投稿しました。
とはいえ、また日々の業務は続きます。私も良い関係を模索している道中です」
里奈は雑誌を閉じる。少し良い気分で。
10月31日
ミカエルが最近、美味しいタコスの店を見つけたというので、2人でそこに出向くことにした。
「そういえばオールドメディア用の受け口をリリースしたんだって?」
「そうそう。新規ユーザーも増えてるし、既存ユーザーの利用率も高いみたいだ。流石、ボスだな」
「そうね」
「それに意外なボーナスもあった」
「へー、いくら位?」
「お金じゃないんだなあ。ユキコの家族から感謝のメールが来てさ。オールドメディアをスキャンするために、ケンジの生前の日記とか、文庫本とか調べ出したらしいんだけど」ミカエルは社内用の携帯端末を取り出す。「『私たちが知らなかった姿、忘れていた姿がありました。このような切っ掛けを与えてくださって、本当にありがとうございます』だってさ」ミカエルが慎重に切り出す。「ところでさ、仕事の悩みは最近どうなの?」
「うーん、まだ解決しないかな。でも、もう少し、自分なりに良い関係を探ってみようと思うの」
「それでも見つからなかったら?」
「辞める。スパッとね。どう? 前向きでしょ」
「君が居なくなったら、僕は寂しいよ」
「何言ってんの」
ミカエルが案内してくれたタコスの店は、メキシコ人が経営しており、オフィスから5分ほど歩いた位置にあった。
2人が入ると、店内は色鮮やかに装飾されており、そこいらにマリーゴールドの花弁やカラベリタ、そして奥にはオフレンダが配置されている。
「すごく綺麗ね」
「死者の日だよ。もう明日だから、店でも装飾をしてるんだろ」
オフレンダは概ね、里奈がイメージしていたもの──食べ物や花、故人の写真、聖人の絵──の他に、写真立てくらいの大きさの端末が置かれていた、画面には見慣れたmimicの画面が表示されている。
ミカエルは店の主人を呼び、スペイン語で何かを聞いた。「彼の父親の仮想人格が処理されているらしいよ。いつも父親のことを思い出させてくれるから、今年はオフレンダに飾ってみたんだって」
改めてオフレンダを見て、里奈は果てしない気持ちになる。
死者は話さない。死者は考えない。テクノロジーの発展の先に故人をデジタル上に引き戻せる日なんて来ない。世界中の宗教について知っているわけでもないし、仮想人格について最高峰のエンジニアでもないけれど、それが里奈の考えだった。それでも、様々な時代、土地で、失った人について語ることを望み、そうして生きている人々が居る。今この瞬間も故人から過去を学んでいる人々が居る。テキストや写真、声が彼らと故人をこれまで繋げてきて、今それらの中に仮想人格が加わろうとしている最中なのであれば、そこに意義のようなものを見出せるのかもしれない、里奈にはそう思えた。
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