フィクションの目撃証言

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梗 概

フィクションの目撃証言

「そこの人!ハリウッド目前なのに車が故障しちゃって。突然だけど助けてくれない?」と女性に話しかけられる。
「私に言っているのかい……?」とミステリアスに僕が返事をする。双方から次の言葉は続かずに会話が止まった。そこに「5分休憩を挟んでから、設定と役を変えてからもう一回!」という講師の止めの声がかかる。助かった。
僕の役は湖畔の周りに住んでいて、人に助言をする謎のお爺さん。スマホで相手のタグを再度確認する。役は、田舎から来た女優志望で、希望する設定はサクセスストーリー。これで即興演技をするのは無理があったようだ。複雑な設定にしてもスマホのエチュード用ARアプリで確認出来るので、自分の好みに振り切った演技ならば上手く出来るのではないかと試したが、演技力の低さを実証しただけだった。

 芳しくないワークショップが終わり、足早に家へと向かう。道中、「終末だ!」「こんなところで終わっちまうなんて!」と叫んでいる若者を見かける。スマホで二人を確認すると「#終末」「#街演歓迎」というタグが付いている。すっかり役者界隈以外にもアプリが流行っており、経験を積みたいだけなら、ワークショップを辞めてもいいな、と考えた。マッチのために、タグを「#終末」にする必要があるだろうが。

 勉強としてドラマを見るべく、テレビを点けた。時間より早かったのかニュース番組が放映されており、「今年中に終末が来ると線路の上で叫び、電車の運行を妨げた男」の話がされている。これは行き過ぎたエチュードなのだろうか。なんにせよ馬鹿な話である。その日はドラマを楽しんで就寝した。

 翌朝、バイトへ向かう途中、街で再びエチュードを見かける。
「今年中に世界が終わる!」「まだ生きていたい!」
いつの間にか時間制限が設定されている。彼らだけではない。街中のエチュードが、年内の世界滅亡を喧伝している。異様な演技を眺めていると、猛スピードで車が脇を横切り、近くにある市長の豪邸に衝突した。車中から血だらけの男が出てきて、「本当に終わる!」と叫び、倒れる。恐怖を覚えた僕は事件を調べ、終末を世に周知するための過激派がさかんに活動していることを知った。

 演技が原因の事件だ、下手であれ役者志望として何か出来ないかと考えた。そうだ、終末には救世主だ。「#救世主到来」を自分にタグ付けし、外出する。
「お前ごときが救世主?」と見知らぬ人に話しかけられる。「いいえ」と僕は答える。代わりに、「こちらの方が救世主様です」と隣の空間を手で差した。相手は不在の救世主を見て、奇跡を目の当たりにしたようだ。感嘆の言葉を漏らす。周りの人々も演技の輪に加り、街中に歓びの声が響く。

 一週間ほど後、救世主が来る、という楽観ムードに街は染まり、過激派は霧散霧消した。
僕は変わらずワークショップに通っていて、演技はヘタなままだ。でも、どうやら、脚本家としての才能はあるかもしれない。

文字数:1199

内容に関するアピール

 嘘吐きがテーマとのことで、まず、嘘の規模に着目して、主語の大きな「人生における嘘」「世界における嘘」をコンセプトに据えることにしました。次に、嘘の効果について考え、最も活きるのは、虚実が曖昧になるシチュエーションだろうと思い、世界を舞台とした演劇を作品にしてみました。
ギミックとしては、演技を補助するためのありえそうなラインの拡張現実を設定したく、スマートフォンのアウトカメラで起動中の相手を見ると、相手が設定したタグがディスプレイに表示されるというアプリケーションを採用しました。
 梗概はシンプルな三幕構成となっていますが、実作では、「虚実をより曖昧にする、小粒のエチュードとそれに巻き込まれる人々」「主人公の動機を強めるために、ホンモノの演技に魅了され、終末過激派の一員となるヒロイン」の二点も追加で描き、1万6000字のボリュームにしようと考えております。

文字数:382

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フィクションの目撃証言

 突風に吹かれた百合の花のように白く細い腕を頭上に勢い良く持ち上げて存在しない箱を開き、中を検めたのちに悲しげに睫毛を伏せた愛奈あいなは、どうやら近づいてくる僕に気が付いたようで、特徴的な薄紫色の唇を緩ませて言葉を発する。
「そこの人! ハリウッド目前なのに車が故障してしまって。突然申し訳ないんですが、助けてくれませんか?」
 彼女と知り合った高校時代から聞きなれているはずなのだが、生得的な、子音が強いハスキーな声に思わず心を掴まれる。彼女の発言により、「ここはアメリカである」ことと、「自分の設定と随分ミスマッチである」ことを僕は察した。完全な即興を諦めて、スマホで愛奈を写し、「田舎から来たオーディションを控えた女優志望」という文字をスクリーンで確認する。さて、この場合、どう返答すれば良いのだろうか、愛奈がじっと続く言葉を待っている。
背骨を折り曲げ、見えない杖で地面を2度ゆっくりと突き、「私に言っているのかい……?」と僕は言う。「ええ、そうです」と彼女が即座に肯定する。僕は話を展開させる台詞を紡ごうとするも、上手くやろうとする焦りから、必ずしもそれぞれ関係しているわけではない脳裏に浮かんだ単語の数々が喉で渋滞を起こし、文章がまとまっていかない。会話に三拍ほど置いたのち、愛奈が「オーディションが2時間後に迫っているというのに、どうしましょう」と状況を説明し、間を繋ぐ。
僕はその間に必死に考えたけれど、「ううむ」という唸りを出すのが精一杯で、傍から見たら僕の方が彼女より困った様子なのではないかと、半ば思考を諦めてしまって、内心でお粗末な演技を自嘲していた。そこに講師の「止め」という声が丁度かかり、役者の卵として大変情けないことだが「助かった」という安堵すら覚え、右手で目を揉んだ後に頭を掻いた。
稽古場の空気が弛緩し、劇団の研修生同期達が壁際に置いた飲み物を取りに、汗で湿った床をスニーカーで鳴らす。
愛奈も演技を止め、先程までの初々しさの代わりに、本来のアンニュイな雰囲気を漂わせた。

 エチュードのためのARアプリが僕たちの劇団にも導入され、各々が自分のレベルに合わせて情報量を制御できるようになってから、彼女は事前に設定や登場人物を確認せずに即興練習を行うようになっていた。今回も演技後に僕の設定を見て答え合わせをしたのか、「湖畔のそばに住む、主人公に助言をする立場のおじいさん、って趣味全開だね」と僕に話かけてくる。
「この設定だったら確かに難しかったかもしれないけれど、続けていれば義也よしやらしい演技が見られた気がして、時間切れになったのがちょっと残念」
「いや、続けていたとしても、僕は冒頭から君の設定を確認して情報は出揃っていたから、状況は変わらず沈黙が続いていたと思うよ。自分の好みの設定だったら上手く演技できると考えたんだけど、かえって地力の低さを証明してしまって、恥ずかしいな。しかし、愛奈はすごいな。この枠で他の人とのエチュードも横目で見ていたけれど、アプリの補助なしで完璧に合わせられていた」
「スマホで相手の設定を覗き見たか否かではなく、エチュードの出来栄え自体を評価するべきじゃないかな。そもそも、即興が上手でも、その巧拙は演技の一側面にすぎないでしょう」
「そんなことを言えるのは、この劇団で君だけだろう。その高々、他人が自らをどう属性付けたか覗けるだけのアプリ、”Tagged”のことと、それに頼らずにどれだけ演技できたかをみんな気にしている」
稽古場の他の5、6組のペアは手元のスマホを突き合いながら、物語や設定が生きていたかなど、演技に関して具体論を明るく語りあっている。その様子を見て愛奈が言った。
「私達、ここのところ全然上達していないね」
確かに、彼女の言う通りだ。僕は言わずもがな、拙いままで改善がされていないことが要因だが、彼女は目立つ瑕疵がなく、この劇団で養える経験は全て血肉にしてしまったように思える。「本当の演技ってなんなんだろうね」と僕は呟いた。「法人のりひとさんならきっと知っているんじゃないかな」と愛奈が返事をした後、やってしまったと言わんばかりの後悔を顔に浮かべる。
「気にするなよ。しかし、君から久々に父さんの名前を聞いたな」
僕は苦笑した。二世俳優なんてタグ付けされずに実力で評価されようと血気盛んだったのは過去の話だ。高校の部活の頃だったらともかく、研修課に入ってからは、その名前を聞いて感じるのは自分への失望だけだった。

 稽古は終わったものの、今日も愛奈は他の研修生に捕まって演技のアドバイスを求められていたので、一人で帰ることにした。スタジオの喧噪に反して廊下はひどく静かで、無地のビニル床を歩く音がいやに虚しく響く。
 いつから、今もスタジオに残っている彼らのように、演技に対して真っ直ぐな情熱を持つことが出来なくなってしまったのか。普段は気にしない、壁に貼られた歴代の所属俳優の宣材写真を眺めつつ進んでいくと、実家にも置いてある、自信に満ちた笑顔の父の写真を見てしまい、逃げるようにして、エレベーターに乗り込む。
「父さんならば、本当の演技を知っている、か」
はじめて父に事務所に伴われ、「義也もここに貼られるくらいの立派な俳優になれるさ」と言われてから随分と時が経ってしまった。誰よりも輝いている父への嫉妬と、泥中の蓮のような憧れは昔から変わらず持っているが、彼との距離は幼少期から縮まっていない。それどころか、自分よりも歴が浅いにも関わらず、先にデビューするような才能に満ちた有望株達が次々と業界にやってきているので、相対的に父との距離は遠くなってしまったとすら言えるだろう。
思えば、事務所もすっかりと様変わりして、新しくなった。「もう、夢を見る年じゃない。そろそろ、俳優以外の道を考えてもいいんじゃないか。なに、演技にもきっと活かせるところがあるから無駄じゃないはずさ」と将来への痛みを覚えながら、管轄がビル側なためか、唯一昔から変わっていない旧式エレベーターのボタンをなぞる。

 外へ出ると辺りはすっかり暗くなっていた。シャツに含まれた汗が夜風で揮発してひどく冷える。事務所近くの自販機で温かいコーヒーを買い、コートの襟を立てて駅へと急いだ。クリスマス・イルミネーションが為されたビルのファサード、ローストチキンやケーキの広告など、街の賑やかさに落ち込んだ気分が癒される。
 イヤホンを耳に挿して「荒野の果てに」を聴きながら歩いていると、駅の近くで讃美歌の純粋な歌声の中に悲痛な男の叫びが交じった。
「終末だ! みんな死んじまうのさ!」
「いやだ! こんなところで息絶えるなんて! お前も俺も、まだ何者にもなれていないっていうのに!」
二人の男が世界の終わりを嘆き、大声をあげている。視覚的には異常だが、残念ながら、頻繁に見るようになった光景だ。Taggedを立ち上げて彼らをカメラで写すと、やはり「#終末」「#街演歓迎」の文字列が現れた。何故ここまでTaggedが世間で流行したのだろうと僕は不思議に思った。アプリが提供している機能はシンプルで、遊びを自分達でアレンジしなければならないことがかえってウケたのだろうか。それにしたって、見知らぬ人と街でエチュードする、という遊びに進化するなんて、果たして誰が予想出来たのだろう。人と演技しやすいように、分かりやすく過激なテーマが流行った結果として、終末を嘆く人が生まれるというのは、正に風が吹けば桶屋が儲かるという突拍子もない因果に近しい。
「老若男女、貴賤貧富問わず、等しくおじゃんさ!」
「ああそうか! 死んでしまえば、俺が何者かなんて関係なし! 人類、皆平等! なあ、そう思うだろ、お姉さん!」
彼らの側を歩いた女性が絡まれて、困惑している。タグは付いていなかったので、当然、演技ではないことが伺える。個人間の遊びという許容範囲を超えて、流石に公共の福祉に反しているのではないかと感じたので、止めに入ろうとすると、交番から警官が走って向かってくるのが見えた。
それに気づいた男達が「あばよ、とっつぁーん!」「輝くものは星さえも、貴きものは命すら!」と自分達に「#怪盗」タグを付け加えて逃げていく。警官が彼らを追う。目の前の即興コントを、先ほどまで巻き込まれていた女性が笑いながら写真を撮っている。「人間はみんな馬鹿か、暇か、さもなくば病んでいるな」と、一人さかしらに僕は思った。

「ただいま」と呟いて自宅の扉を開けた後に、「なんだかコントの始まりみたいだな」と感じ、先ほど駅前で見た出来事を思い返して脱力する。今日は何だか疲れてしまったので早く寝ようと手を洗いながら決心した。
 衣類を洗濯機に放り投げてシャワーを浴び、寝間着に着替えた。リビングのソファで横になって小休止を求めようとしたが、空のペットボトルや本が邪魔だ。そろそろ掃除をしなければならないと思い続けてもう1月ほど経っているが、本日もしょうがなしに腰掛けてテレビの電源を点ける。現在、19時56分。勉強のために毎週見ているドラマの放送まであと少しだ。
 時間まで無興味にスポットニュースを耳にとめていたら、「きょう午後7時ごろ、上野駅で男が線路に立ち入り、運転を見合わせました。男は今年中に世界が終わると叫びながら線路に立ち続け電車の運行を妨害、駅員が線路外への誘導を行い、10分のちほどに運転を再開したとのことです」という珍事が聞こえてきた。
恐らく、やり過ぎてしまった終末テーマのエチュードだろう。これがワイドショーだったら寸鉄人を刺すようなコメントがされていたのだろうが、特にアナウンサーからのコメントもなく、定常通りに放送が終了した。20時になり、ドラマのアバンタイトルが陽気に流れる。いまいち気分が入っていかないなと考えていたところ、テーブルに置いていたスマホから着信音が鳴った。

「父さん」という文字がスクリーンに表示されている。大スターの過保護具合に辟易、いつものように居留守を使おうと思ったが、愛奈の「本当の演技を知っている」という父を評価する言葉を思い出し、そろそろとスマホに手を伸ばす。いっそ、躊躇っている間に切れてしまえとも思ったが、応答するまでコールは続いてしまい、通話が繋がった。
「もしもし。久しぶりだな、元気か? いや、こういう世間話は義也は嫌いだったな。すまん」
「……息子相手にへりくだらないでよ。まぁまぁ元気にやってるよ。今日はどうしたの?」
「最近、困ってることはないかと思って。アルバイトだけじゃやっぱり生活が苦しいとか、寒くなってきたから実家から服を送ってほしいとか」
「いや、特にないかな」
電話中の癖でテレビの音を消したが、沈黙が苦しくなり、再度音を出す。僕は世間では敬われている父の、息子に媚びるような下手に出た態度が好きではなく、彼と話すとやはり気疲れしてしまう。僕が敬愛する父は、やはり威風堂々とした国民的俳優、ささげ法人としての姿であった。
「……ついさっきテレビで、街でよく見かけるようになったエチュードが電車を止めたってニュースを見てね。義也が無茶な稽古をしていないかって少し不安になってしまったんだ。前に会った時は演技に悩んでいたから」
「父さんもそれ見たんだ。馬鹿な話だよね。大丈夫、ちゃんとスタジオ以外だと自宅で練習しているよ」
「そうだよな」と父が安堵の声を漏らす。「でもさ」と僕は逆接で繋いで言葉を続ける。
「そのニュースを見てちょっと面白いなって思ったんだよね。人に影響を与えるっていう観点で見たら、演技として評価しうるものがあるんじゃないかって。父さん、きっと昔に聞いていたかもしれないけれど、本当の演技って一体何なんだろうね」
父は息をついて考える。
「真面目に答えるんだったら、時代によって変わるかな。近年のマス受けを狙った邦画だと、昔はさかんだったキャラクターが本当に実在することを追及したスタニスラフスキーシステムやメソッド演技ではなくて、受け手を意識した強調表現が主流だったりね。私も最近はストーリーや、求められている俳優像に殉じている、と一通りぺらぺら語ってみたけれど、たぶん、義也の疑問の解消にはなっていないよね」
メソッド演技の天才と呼ばれた父から、唯美的な哲学を聞けるものだと期待をしたのだが、現実路線のアドバイスに肩透かしを食らった。やはり僕が未熟な役者だからなのかと思うと、ふと、愛奈相手にはどんな言葉を使うのかが気になった。
「ありがとう。それも大事かもしれないね。ところで父さん、愛奈の演技を最近見たことはある?」
「愛奈ちゃん? 最後に見たのは、高校の頃だったかな。そうだね、暫くは見ていないね。急にどうしたの?」
「時間が遅くなってもいいから、明日見てもらえないかな? 彼女も今、伸び悩んでいて、アドバイスが欲しいみたいで」
「ちょうど予定が空いているから大丈夫だよ。いつでもおいで。むしろ、二人ともうちまで近いのに中々来ないんだから」
「肉親であれ、物心ついてから権威のある人間と一緒にいるのは、少し疲れるってこちらの気持ちも分かってほしい。父さんはすごい人なんだよ。……あとで時間については連絡する」
そう言って僕は電話を切った。付けっぱなしのメロドラマから「うまくいかないね、私たち」という言葉が聞こえ、「本当にね」と呟く。
 洗濯機の稼働音、テレビの音声、ちょうど一人分の生活音がうら寂しい。愛奈に「急で申し訳ないけれど、明日一緒に実家に行かないか」とSMSで連絡し、話が動きつつあるドラマをぼうっと眺める。愛奈から「何時?」というメッセージを受信する。そうだな、アルバイトもあるし、お酒の入れられる夕時がいい。「新宿駅の1番ホームに16時集合でどう? 少し父と話して、そのままご飯でも」と返し、承諾を得た。

 洗濯機から作業完了のビープ音が鳴る。のそのそと立ち上がり、室内の物干しスタンドに洗濯物をかけていく。録画もしているので、いまいち集中できないテレビの電源は落としてしまって、冷たいベッドに入り、暫く体を震わせて耐える。鬱蒼とした気持ちをそのうち眠気が上回り、微かな風の音を聞いているうちに意識が薄れていった。

 落ち行く太陽が影を長く伸ばすビル群を赤く染めている。車窓から眺める横浜を超えたあたりの線路沿いの風景は、まるで墓石のように個性のないビルが延々と続いており、見ていて全く楽しいものではない。スマホを触ったり、本を読むと僕は乗り物酔いしてしまうので景色を楽しめないとなると非常に手持ち無沙汰になってしまう。ボックスシートの向かい側に座って文庫本を読んでいる愛奈の足を小突くと、「なに?」と反応が返ってくる。
「さっきから何読んでるの?」
「今一番売れているって本屋で紹介されていた小説」
「面白い?」
「まだよく分からない」
そう言いながら、彼女は僕の履いている靴を何度も蹴り返してくる。僕はタイミングを合わせて太股を上げて躱し、「なんだそりゃ」とぼやく。
再び沈黙が訪れ、彼女が読書に戻る。毎週2、3回スタジオで顔を合わせているから、早々に話題が尽きるのも当然だ。僕はあくびをしながら伸びをしていると、隣の号車から2人の男女が深刻な顔をして歩いてくるのが目についた。

 その2人組は車両の中央で歩みを止め、辺りを見まわした。
そして突然、「ご存じかしら、今年中に世界が終わるって!」と赤いワンピースの上にボアコート着た女が喋りだす。
「まことに人生は歩き回る影のようなもの。蝋燭の火が消えるように、世界に終末が訪れる!」
と、ピアズレーの描いたヨカナーンのように、病的な痩せ方をした長袖Tシャツを着た男が続いて叫ぶ。Taggedで彼らのタグを確認すると、やはり「#終末」が表示された。先日のニュースもそうだったが、どうやら終末エチュードは過激化傾向にあるようだ。こういった手合いの演技には観客への呼びかけ形式も混じるようになり、そして、いつの間にか世界の終わりに期限が設定されているのだから。けれども、周りの人は不思議なものでこの事態に過度に反応することなく、聞こえなかったフリや、スマホで動画を撮ったりしている。愛奈は眉をひそめて、「あの人たち、変だね」とでも言いたげに僕にアイコンタクトを送ってきた。

 終末役者は言葉を続けずに、乗客一人一人を順に見つめていた。男と目が合う。柔和に垂れ下がった目尻とぎらついた瞳が不調和だ。気味が悪くなり視線を逸らす。彼らは何をしているのだろうかと僕は思ったが、「ああ、聞いたことがある!」と立ち上がった乗客を見て気が付いた。そうか、エチュードの参加者を募っていたのか。彼らは3人でエチュードを始める。

「豊かな黒髪の男よ、どうして今年世界が滅ぶなどと言うのか。見よ、このビル群・線路を。人間の文明はまさに薔薇色といういうべきところ。滅びとは甚だ遠いであろう」
「盛夏であることで、何故滅びないと言えるのか。ときの流れはどこから来て、どこで絶えるのか。赤衣の乙女よ、唄ってきかせておくれ」
「まさにそれ故に滅ぶのです。今、目に見えている文明は月明かりのような反射に過ぎず、その本質が己が身を焼く太陽だと皆気が付いていない。まさにそれ故に滅ぶのです。薔薇の後ろに十字架を認めなければならない!」
「全く彼女の言う通り。男よ、浮華、安逸には薔薇色の薄暮が伴う。時計の針がぐるりと回り、避け得ぬ終末がやってくるのだ」

無理矢理に劇を見せられている観客が、「何を言っているんだ」とざわつき、不安がりはじめた。
よく聞かずとも根拠のない、雰囲気だけの会話なのだが、分からないということには不安がついて回るものである。乗客は、堂々とした彼らの演技に耳を傾けはじめた。

 そこに愛奈が「何をごちゃごちゃと、証拠でもあるのか!」と、3人組に顔も向けずに少年様の声をあげた。すかさず、「定めなのだ!」という返事がかえってくる。
「くだらん!」と、愛奈はさらに会話へと水を差した。そのやり取りに吹き出した乗客がいる。これによって列車の雰囲気が一気に弛緩した。3人組は興が削がれた表情をして、演技を止めた。

肩をすくめた長髪の男が、「私たちに興味があったら、今度はこちらでやり取りをしよう」と、先ほどエチュードに加わった男へと名刺を渡している。
続いて、女を伴って僕たちのもとへ訪れた彼は、「さっきの演技、少しだけだったけれど凄かったよ。良かったらもっと見せて欲しい」とにこにこしながら愛奈に告げ、名刺を渡して隣の号車へと去って行った。そちらでもエチュードをするのだろうか。

「クロス・クラブねぇ」
QRコードのついた名刺をひらひらさせながら愛奈が言う。先ほど、僕が試しにコードを読み取ってみると、印刷されていたのはTaggedに最近機能実装された、アプリ内でチャット・通話ができるグループへの招待リンクだった。クロス・クラブというそのグループには、現在300人ほどの参加者がいるようだ。
「こうして嘘を周知する活動に300人も集まるなんてすごいな」
「どうなんだろう。私たちが生まれる前だけれど、ノストラダムスの大予言も当時は信じられていたと言うから、滅亡というのは人類にとっての一大テーマで、ひょっとしなくても、望まれている部分もあるのかもしれない」
「居酒屋やカフェで和気藹々と喋る人々を見ていると、そんなデカダンスを持っているようには到底思えないのにな。本当に皆、パンを食べながら、いっそ人類よ滅んでしまえって虚しさを感じているのかね」
「パンを食べていないときは感じるかもね。少なくとも、私は若干だけれど理解できるよ」
「確かに、学生の頃は殆どの大人は立派な精神を持っているものだと思っていたけれど、実際にはそうではないと成人してみて分かったからね。誰もが、死ぬまで、そういった薄ら寒い稚児性を抱えて生きていくのかな」
「子供っぽいということはそこまで悲観するべきことじゃないよ、きっと」
先ほどまで騒がしかったのに、急に静かになったものだから、ガタンゴトンという電車の音が耳につく。
「はじめに人生を電車旅に例えた人は誰なんだろうな」とふと思った。太陽は沈み、雲一つない空を清浄な月明りが照らしている。
惚けていると、「次は鎌倉、鎌倉」というアナウンスが流れる。そそくさと荷物をまとめはじめる。今日は愛奈もいるし、豪華にタクシーでも拾うことにしようか。

 観光客は大体東口から出るので、鎌倉駅の西口側は特に注意が払われていないのか、狭く、薄暗く、出口付近の「鎌倉へようこそ」という些細な看板を除いて装飾がない。高級住宅街が近くにあるんだから少しはお金をかければ良いのにと思ったが、彼等は基本的に車で移動するのでやっぱり需要がないな、と思い直す。それを示すように駅前のロータリーは高級車で混雑していた。
 ここでも「世界は滅ぶのだ!今年!」という嫌な声を聞くが、電車で見た役者のような迫力は欠けており、人々は注意を向けることなく素通りをしている。終末に慣れてしまうというのは不思議な感覚だが、思えば、我々はほぼ皆100年経てば墓石の下に埋まっていることが運命付けられているにも関わらず、誰もそれを騒ぎ立てたりしていないのであった。つくづく、流行りや人々というものは分かるようで分からないなと感じる。

 叫んでいる男を横目に、客を待って停車しているタクシーを拾った。「どちらまで」と聞かれ、行き先として笹目町の実家を指示する。
「まずは笹目町までお願いします。近づいたらまた案内させてください」
「笹目町ですね。……あのあたり、ホテルはなかったと思うけど、お客さん、元々ここの人?」
「ええ」と答える。良く喋る運転手にあたったようだ。
「へぇ、そりゃあいいね。笹目町というと、あの、捧法人が住んでいるって聞くからね。お兄さん達みたことある? 僕、大ファンで」
「見たことはありますよ」とそっけなく返すと、僕が困っているので、さらに困らせようと愛奈が「父親だもんね、そりゃあ」と揶揄ってくる。
「ええ! お兄さん、捧法人の息子なの!?」と運転手がそれを聞いて驚く。
「お兄さんも、有名人だったりするの?」
「いえ、全然」
「ふーん。家庭での捧法人ってどうなの?」
「普通ですよ」
父の話をするとこうなるから嫌なのだ。ずけずけとプライベートを詮索され、少しでも情報を出し渋るとケチという目でこちらが見られる。元凶の愛奈を睨むと、彼女は両掌を合わせて謝るジェスチャーをした。

「そこを左、続いて突き当りを右に行った通りです。ポーチのある木組みの家の前で止めてください」
先ほどの会話の後は、運転手を抜きにして、愛奈と小声で話していた。この地の冬の陸風の音を聞きながら小声で話していると、小学生の頃のクリスマスの思い出が連想された。模型趣味もないのに急に模型屋に車を寄せ、一人で何かを買ってきた父を見て、「サンタさんって本当にいるの?」と助手席に座っている母に身を乗り出して、小声で尋ねたという記憶だ。確か、母は「信じている人のところに来るんだよ」と言っていたのだったか。
思考は、急に加速した車に遮られた。
「あの、あそこの家ですよ」と僕は実家を指差し、減速を促す。運転手は何も答えず、アクセルを更に踏んだ。車はミニ四駆のような大袈裟なモーター音を立てる。
「そのままぶつかる気じゃないだろうな、やめろ」と慌てる。車は加速を続ける。
車のフロントガラス一面に玄関が映る。直後、車は実家のポーチの支柱へと衝突し、僕は前へ投げ出されたと思えば、シートベルトで体が抑えられて後ろに引き戻され、その反動で首が鞭打つ。暫く破壊音が続き、落ち着いた後に首を起こした僕が見たのは、ボウリング玉を受けたピンのように破壊の跡を残したリビングルームだった。

 ひしゃげつつも開きはしたドアから飛び出し、首のじんじんとした痛みを感じつつ、呆然として立ち尽くす。
テレビの側に父が血を流しながら倒れているのに気が付き、急いで息を確かめる。息はあるものの、意識がない。鼻がひん曲がっており、頭部から軽度の出血があるのも鑑みると、脳にまで衝撃が走ったのかもしれない。頭部へのダメージは、ファーストエイドが肝心だと聞く。一刻も早く、救急車を呼ばなければ。スマホで119番をコールしていると、「何でこんなことしたんですか!」という愛奈の声が聞こえる。
「ははは……」と運転手はエアバッグに揉まれながら、乾いた空虚な笑いをあげた。腹立たしいことこの上ないが、彼は後回しだ。取り急ぎ、繋がった先へと現状を説明する。

 数十分後、警察と救急車が到着した。愛奈に警察との実況見分は任せ、自分は父に連れ添って救急車に乗る。
鎌倉病院へと到着するや否や、父はCTを撮影されると、脳挫傷という医師の判断が下り、血を抜くための緊急手術が行われることになった。
その術中、父は死んだ。

 顔の崩れた父の元に連れられ、医師から父の死亡を告げられる。看護師に病院窓口へとたらい回しにされ、特に葬儀社を決めていないのであれば病院提携のものでよろしいか、という説明を受ける。全く頭に入ってこないまま、遠くに住んでいるため、直ぐには駆けつけられない母に電話して指示を仰ぐ。
父は死んだと言うが、慌ただしく物事が推移していき、実感が伴わない。あの無敵のスターが本当に死んだというのか?

 一通りの事務処理を終えた後に病院の外に出て、凍える風を浴びながら、顛末を知らせるために愛奈に電話をかけた。向こうも事情聴取が終わっていたのか、すぐに電話が繋がる。
「父さん、ダメだった」と、落ち着いた状況で伝えてから、はじめて認識が追いついた。「ああ、僕は何にも息子らしいことをしてやれなかったな」と、強く後悔する。

「そうなんだ」と愛奈は静かに、けれども悲しみを湛えた、ハスキーな声で返す。
「……。あの運転手、結局黙秘を続けたらしいけれど、一つ動機の手がかりがあったよ。クロス・クラブの名刺が財布に入ってたって。終末が演技と周知できる法人さんの発言力をなくしたかったのかな。何れにしても、私の発言が原因なのは違いがないけれど」
僕には、返事をする気力がなかった。彼女は言葉を続ける。
「決めたんだけれど、クロス・クラブに入ってみる。私に一番出来るのは演技だから、彼らにうまく溶け込めると思うんだ。それで、これ以上勢いを増さないように、犠牲者が出ないように、内側からブレーキをかけてみるつもり」
「何様なんだって話だけど、私が時間を稼いでいる間に、義也にはエチュードを収束させるシナリオを引いて欲しい。あくまで、希望は役者と決めていたようだから言わなかったけど、義也は脚本の方が向いてると思う。最後に、法人さんのこと、謝って済むことじゃないけれど、本当にごめんなさい」
彼女はそう一方的に宣言し、電話が切れた。

 爪先を地面にリズム良く叩くと、脳が麻痺して物事をあまり考えずに済む。
病院の外壁によりかかって、いつまでそうしていただろうか、すっかり白くなった指先を見て、死に装束を身につけた父の皮膚を連想する。
ああ、父は死んでしまったのだ。父を殺した終末エチュードを止める? 今更、何を、何故やるのだろうか。愛奈が演技によって解決を試みているし、所詮、僕が出来ることは、誰にでも結局のところできるのではなかろうか。そうさ、誰かが、やってくれるさ。

「でも、それは新しい被害が出ていよいよ世間に脅威が知られてからではないか?」
意図せずして、地面を叩く音が止んでいた。そうだ、クロス・クラブの存在に気が付いていて、演技に対して発言力がある人間はまずいないはずだ。
僕には発言力はなかった。けれども、今、僕には不遇の死を遂げた大スターの息子という随一のドラマ性が宿っている。早急に、ソフトランディング出来るのは僕だけではなかろうか。それは僕の出来る父への最大の弔いのようにも思われた。
「ただ、僕には役者の才能はないから演技によって終末説を止めることはできないし、そもそも、それは表現であって内容ではない。表現としては、僕は存在感を示すだけで十分だし、それしかできない。そうだ、止めるのに必要なのは筋書きだ」
愛奈が為すことも鑑みて、何が受け入れられるか、じっくりと考えてみる。愛奈という核を手に入れた組織は、急速に名を得るだろう。その顕わになった敵に、カウンターパートを用意し、凌駕する。即ち、トレンドという形のないものにレッテルを貼って形に押し込み、お前たちは望まれていないのだと世間に言わせる。これが叶うシナリオ。
「父さん、愛奈。ダメで元々、演技ではない方法で色々やってみるよ」

「父を殺したのは演技です」
事件から2日後、養成所経由で早急に記者会見を僕は整えた。父がよく身につけていたハイブランドのスーツを着て、カメラのフラッシュに怯まずに答える。最初が肝心だ、父の面影を印象付けて僕が息子であることを周知する。
「皆さんもご存知かと思いますが、Taggedというアプリが流行した結果、街中で終末が喧伝されています。これは唯の演技ですが、それを強調することで本当にしようとする人々がいる」
「恐らく、そういった人々が終末なんてものは嘘であると言い切れる父の発言力を恐れ、今回の事件に至ったのでしょう」
「父の息子たる僕が代理で発言します。今年に終末が来るなんてことは、全くの嘘です。近いうちに、この嘘で新しい犠牲者が出ないよう、対抗するつもりです。今後、街の中で僕の意図に気が付いた人は、遊び半分で構わないので、協力してほしいです」
僕が一礼をするやいなや、再度、光の洗礼を浴びる。質疑応答では準備していた答えを返し、つつがなく記者会見を追える。メディアへの露出の後、目論見通りに僕は父の名を継承した。

 明くる日、僕はファスト・ブランドで買った白いジーンズと厚手の白いシャツを身に着け、新宿へと出掛けた。道中、自分にTaggedでタグ付けする。
「#救世主到来」
終末には飽き飽きしているだろうから、新しい流行が生まれる素地があるはずだ。救世主到来が信じられたのだったら、終末説に打ち勝つまでその威光を高めれば良い。もし、救世主伝説が信じられないのだったら、終末説に積極的に紐付けて両方をただのエチュードとして陳腐化する計画に切り替える。
後発の利点を活かした、僕の精一杯のアイデアだ。なお、肝心の救世主については、僕には役者不足なので、他に担わせる秘策がある。僕の役目は、多少演出が過ぎたとしても、父の名を借りたドラマティックな初動を生むことだ。

伏し目がちに、何かの使命を持っているかのように、街を歩く。「あれ、捧義也じゃないか?」という声が度々聞こえ、にこりと彼らに向かって微笑むと、スターを目の当たりにしたように「頑張ってください」とうれしそうな顔で返ってきた。スマホを向けられることもある。続く言葉は大抵「救世主?」という疑問だ。
歌舞伎町一番街のアーチをくぐると、人が多いので一気にざわめきが広がる。エチュードが東京随一の規模で行われている、トー横に向かって歩を進める。ざわめきが、さらに大きくなっていく。目的地に近づと、やがて、エチュードの声が聞こえてくる。
「世界は終わるんだから、今のうちに飲んでおかないと!」
と黒いボアジャケットを着た男が、ロング缶に入った酒を飲みながら「#終末」タグを付けてどこまで本気か分からない演技をしている。周りにの人々も「そうだそうだ」と、体をぐねぐねさせつつ賛同する。
「いや、そうはなりませんよ」
と急に僕が割って入る。
「何故なら、救世主がいるからです」
役者達は白い目を向け、「お前が世界を救ってくれるっていうのかよ」と発言する。そして、僕の「#救世主到来」タグを見て失笑する。
「いいえ、救世主は僕ではありません。こちらの方が救世主です」
と、言いながら、僕は隣の何もない空間を指差す。当然、矛盾を目の当たりにして、間が生まれる。僕はそれを見越してサクラを配置していた。
「何たる奇跡!」と、不在の救世主の奇跡を目の当たりにした劇団同期が叫ぶ。彼の発言を受けて、先ほどまでの主演達はどういうシナリオなのかを理解し、「嘘だろ!」と言いながら尻餅つきながら地べたを後ずさりをする。
「救世主到来!」
僕は叫ぶ。
「救世主到来!」
周りが叫ぶ。
「救世主到来! 救世主到来!」
先ほどまで「捧」「救世主」などの囁き声を拾っていた通りの人も交えて、視界外にも声の輪が広がってゆく。
いま、救世主は存在していることになったのだ。
次は、その存在の持続が必要だ。
「静粛に!」
ぴたりと声が止まる。
「終末を止めるため、Taggedのササゲというグループでこれより活動します! どうか皆さんの力を貸してください! ササゲの一員として!」
作成しておいたササゲのメンバーが次々に増えていき、スマホの通知が鳴りやまない。喝采の中、新宿を後にした。

 一週間後、主要な駅のエチュードに混じって宣伝を行い、ササゲの人数はクロス・クラブと同等の規模である300人を迎えた。
クロス・クラブといえば、この一週間は新たな犠牲を生んではいない。看板となった愛奈の演技力とカリスマが理由だろう。
当初、愛奈にもササゲへ参加してもらおうと思ったが、みるみるうちにクロス・クラブ内のヒエラルキーが高まっていることを聞いてとりやめた。代わりに、僕はクロス・クラブ側においても事を有利に運べるよう、愛奈と連絡を取り合ってスパイ活動をしてもらっていた。その結果、彼女の働きによって、終末を告げる善なる存在としてのクロス・クラブは堕落し、終末を齎す悪の組織へと、組織内外問わず認知を歪ませることができた。善なるササゲ、悪なるクロス・クラブという対立は、Taggedユーザーの中で確たるものとなっていた。
 愛奈という看板と、クロス・クラブという代表的な名前をもった終末エチュードは、もはやただのカルトと化し、一部を除いて人々の求心力を失っている。そろそろ頃合いだろう。救世主と魔王の一騎打ちによって、この騒ぎを終わらせるべく、彼女と段取りを詰めていく。
 僕はササゲに、彼女はクロス・クラブに、近々聖戦が開かれることを予言した。そこで勝利を手にした方が、世界の命運を握るとも。

 数年ぶりのホワイト・クリスマスだ。地面に積もった薄雪の照り返しが眩しい。
決着に説得力のある演出ができること、胡乱な連中がぞろぞろ入っても短時間なら問題なさそうという2点がクリアできる場所を僕は1つだけ知っていた。僕の出身大学の隣に建っている教会だ。入学式にも使われるその教会は700人ものキャパシティがあり、光が中央に向かって集約する楕円形の主聖堂は救世主の降臨にお誂え向きのように素人ながら感じられる。
 既に主聖堂に陣取った我々のところに、愛奈がクロス・クラブを率いてやってくる。フランスでは、マッシュヘアにはジャンヌダルクの髪という別名ということを本で読んだことがある。彼女のマッシュヘアが勇ましい歩みに合わせて揺れる。片手に持つ模造刀も相まって、彼女はまさにジャンヌダルクという様相だった。
「出てこい、偽物の救世主! お前の宿敵が来てやったぞ!」
愛奈が声を上げる。僕は手元のスマホをリモコンにして、外壁に備え付けていた業務用の照明を作動させた。ただでさえ雪の反映で光が強いのに、そこに照明を加えたものだから、背を向けていても、ステンドグラスの極光が分かる。聖堂中央は光に溢れ、もはや何も見えないだろう。不在の救世主の降臨だ。
「救世主もいらっしゃった! さぁ決着をつけよう!」

 愛奈は光と殺陣をする。クロス・クラブに所属することで一層磨きのかかった演技力が、救世主なんて見えないにも関わらず、戦況を観客へと刻々と理解させる。
愛奈の持つ剣が、極彩色の光を聖堂に散らす。彼女の息に合わせ、我々のざわめきも漏れる。万華鏡のように影も踊る。
終始劣勢に見える愛奈の手から、ついに模造刀が弾け飛んだ。片膝を着いた彼女が白い喉元を晒して、ステンドグラスを仰ぎ見る。
「ああっ」とクロス・クラブの一員の悲鳴が聞こえた。愛奈は片手を天に伸ばして、よたよたと後退り、赤色の透過光が強く出ている床へと倒れ込む。
「決着は付いた! 救世主がいる限り、終末などは訪れぬ! 早く去れ!」
僕が宣言し、一人が出口に向かって走り去ると、ほかの面々も雪崩れこんでいった。いつか電車で見た、長袖Tシャツを着た男と赤いワンピースを着た女が最後に残ったが、他にクロス・クラブの一員がいないのを確認して、溜め息を吐きながら出ていった。

「1917年ポルトガル、10万人が太陽が異様に動くのを目撃して奇跡の実在を証言した出来事、ファティマの奇跡というものがあってね。結局は嘘なんだけれど、嘘が人々が信じたいと思う内容であって、人々が信じたいと思う表現に落とし込む卓越した演技がそれに結びついたときに、はじめて奇跡が存在できるんだろう」
父は良く周りにそんなことを言って、自分も奇跡的な演技をしたいと望んでいたが、愛奈と僕が代理で叶えてやれたのではなかろうか。

 後日、ゴム底の靴と床が擦れる音のする稽古場。僕は今日も演技のレッスンを受けていた。愛奈と再びエチュードをする。
「終末が来るって本当でしょうか! 何とかならないのですか」
怯える無辜の民たる彼女が助けを求める。僕は「大丈夫、救世主がいますよ」と返す。愛奈が奇跡を目撃した驚きを表す。そこで、講師の「止め」という声がかかった。
「それ、私にボールを投げているだけで、演技ではないんじゃない?」
と、愛奈が言う。
「ごめんごめん、ついやりたくなって」
「それじゃあ練習にならないでしょう」
至極最もである。ただ一連の流れを遂げ、最早敵なしとも思える彼女の演技を近くで鑑賞できるというのは、この上ない誘惑なのだ。
「僕はもう、上手くならないかもな」
「……どうしたの? もしかして、この業界がイヤになった?」
「そうじゃないよ、単純に事実の確認。それに、君が言った通り、脚本家の方が向いているし、楽しいかもしれないと思ってね」
僕は久しぶりに、満ちた笑みが出来た気がした。
「僕はどの方向性にするにせよもう少し時間がかかりそうだけれど、愛奈はオーディションを受けてみたらすぐデビューできるんじゃないか?」
「確かに、次のステップへ進んでもいいのかも。本当の演技なんて大層なものじゃないけど、人々が求めているものは少し掴めた気がするから」
二人してスポーツドリンクを飲んでいると、愛奈のもとに教えを請いに同期がやってくる。今日もまた長くなるんだろうなと思い、僕はそれを尻目にスタジオを後にした。

 廊下に出ると依然、笑顔の父の写真が壁にかかっている。目が合えども、劣等感を感じることはもうない。
「僕なりに頑張ってみるよ、父さん」
僕はエレベーターに乗って、脚本部がある階のボタンを押した。

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