エッフェル塔を二度売った男

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梗 概

エッフェル塔を二度売った男

ガソリンスタンドで働くビリー・メイ・スカイブルという婦人のもとへピエール・ベルマーレと名乗る伝記作家が来訪した。一年ほど前に獄中で死んだ大ペテン師、ヴィクトール・ルースティッヒの生涯について取材したいのだという。ビリーは取材を断ろうとするが、ピエールは一枚の絵葉書をビリーに見せて食い下がった。伯爵と呼ばれたヴィクトールのアルカトラズの独房の壁に貼ってあったもので、エッフェル塔の写真の上に十万フランで販売と書いてある。話次第では譲ってくれるのだという。

翌日、ビリーはカフェでピエールの取材に応じる。ミステリアスな頬傷を持つ伯爵との娼館での出会い。そこで伯爵がストッキングに押し込んだ料金が、あとでティッシュの束に化けたこと。偽造屋と組んで伯爵がエッフェル塔を二度売った詐欺のこと。伯爵がビリーと恋仲になったときのこと。いくら騙されても伯爵のことを憎めないビリーだったが、伯爵の相棒だったトム・ショーが「ヴィクトールがおれの女に手を出しやがった」と言うのを聞いたときは許すことができなかった。ビリーは伯爵を警察に密告することにしたのだった。
 
「逮捕時、押収された財産が少なすぎたんです」伯爵が膨大な資金をつぎ込んで、タイムマシンを開発しようとしていたという噂があるとピエールが言う。「タイムマシンなんか存在しないってあの人は笑ってたよ」「もしタイムマシンがあったらどこへ行きたいですか」「あのときに戻って、警察への密告を中止したいね。あんたは何がしたいんだい」「二度目のエッフェル塔売却を阻止したいですね。あれのおかげで父が破産したので」とピエールは笑う。

脱獄と再逮捕を経て二十年の刑期の半ばで、伯爵は肺炎にかかり五十七年の生涯を終えた。伯爵はだれも信用できず孤独だったのではないか。死の間際「本当におれがやったと思ったんだな」と高笑いしたという話をピエールが教える。そんな態度は伯爵らしくなかった。もういちど絵葉書を見せてもらったビリーが「伯爵の字じゃない」と言う。「詐欺師なら他人の筆跡を真似るのくらい簡単なのでは」「エッフェル塔の詐欺のとき、どうして偽造屋と組んだと思う」「では、アルカトラズにいたのは伯爵ではない」「ストッキングの中のティッシュと一緒で、どこかですり替わったんじゃないか」「伯爵はまだ生きているのか」「分からないけど、そんな気がするよ。あたしはいまそう信じたい気分なんだ」

ピエールは礼を言ってビリーに絵葉書を渡して別れる。車の中で化粧を落とすと、頬傷が現れた。ピエールは伯爵の変装だったのだ。ビリーにはあの少しだけ背が高い未来のエッフェル塔の写真を前に見せたことがある。それはタイムマシンが存在する証拠だった。タイムマシンの秘密だけは他言無用という約束をビリーが守れるのか心配になってここへ来たが、杞憂に終わってよかった。そう思いながら伯爵はタイムマシンを作動させるのだった。

文字数:1200

内容に関するアピール

『詐欺とペテンの大百科』でみつけた実在の大ペテン師、ヴィクトール・ルースティッヒ(1890-1947)の伝説をベースに、そのSF化を図ってみました。映画ユージュアル・サスペクツのラストが好きなので、そんな余韻を残せたらと思います。

実作はカフェでの取材シーンの合間に回想がサンドイッチされるという構成になる予定です。梗概では書ききれなかった数々の詐欺エピソードや、伯爵の作ったという詐欺師の十戒もふんだんに盛り込んで、息をするように嘘をつく、ミステリアスな伯爵像を浮かび上がらせるようにしたいと考えています。
 
「伯爵を警察に売ったビリーの後悔の解消」を描く前半はビリー視点、「タイムマシンの情報漏洩に関する伯爵の心配の解消」を描く最終段落は伯爵視点で書きます。

なお、エッフェル塔の高さについてですが、建設当初は三一二メートルだったのが、現在はアンテナ設置により三三〇メートルに伸びているとのことでした。

文字数:400

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エッフェル塔を二度売った男

一九四九年八月三十一日。ニューヨーク・タイムズ紙は、伯爵と呼ばれた天才詐欺師ヴィクトール・ルースティッヒの死去を報じた。ヴィクトールの弟であるエミールがニュージャージー州カムデン郡の裁判所で伯爵の死について証言したのだという。調査によれば伯爵は、二年前の一九四七年にカリフォルニア州サンフランシスコのアルカトラズ連邦刑務所内で肺炎に掛かり、その年の三月十一日、ミズーリ州スプリングフィールドの医療センターで死亡していた。五十七歳だった。

一年後の一九五〇年八月一日。ニューヨーク州ソーホーのガソリンスタンド。ビリーがレジカウンターで頬杖をつきながら店番をしていると、フランス系と思しき初老の紳士が訪ねてきた。
「ビリー・メイ・スカイブルさんはおられるでしょうか」
「ビリーはあたしだけど」
「ああ、やっとお会いできた。じつはわたくし、こういう者で。伯爵の生涯をまとめた伝記を作りたいと考えているのです。いま、ゆかりのあった方々に取材しておりまして」
「なんのことだか」眉をひそめつつ、ビリーは出版社の名刺を受け取る。ピエール・ベルマーレという名前の記者らしい。
「あなたの恋人だった、ヴィクトール・ルースティッヒさんのことです。ギャングスター達と渡り合い、エッフェル塔を二度売ったという、伝説の天才詐欺師の」
「ふん。それでヴィクトールを連邦捜査局に売ったあたしのところへ来たってわけかい。帰っとくれ。こっちはいま油を売るのに忙しいんだ」
「そう言わないでください。あなたほど伯爵の事を知る人はいないんです。お忙しいようでしたら出直しますが、お礼ははずませてもらいますよ。それに私も他で調べてきたことを色々とお話できると思います」
「あの人をダシに儲けようったって、そうはいかないよ」
「いえ、そんなつもりは。私はですね、スカイブルさん。伯爵に惚れているのです。調べれば調べるほど彼を歴史の闇に埋もれさせてしまってはいけないと思うようになりました。あんな生き方をした男は他にいない」ベルマーレが懐からなにか取り出す。「これなんですが」エッフェル塔の絵葉書に「十万フランで販売」と書いてある。
「なんだい、それは」
「伯爵らしいとは思いませんか。アルカトラズの独房の壁に貼ってあったそうです。昔話を聞かせて頂けるなら、差し上げることもできますが」
「ふうん」いつだったか、その写真をビリーは見たことがあるような気がした。「話してやらないでもないがね。明日の十時。グリニッチ・ヴィレッジのカフェ・ダンテに来れるかい」
「ええ、もちろん」

翌日、一九五〇年八月二日。カフェ・ダンテ。ビリーが十時に訪ねると、ベルマーレは先に来てスツールに腰かけて待っていた。ビリーはレザーのソファ席に座る。エスプレッソを頼むと、ベルマーレがビリーに尋ねる。「今日はありがとうございます。よろしければまず伯爵と出会ったころのことを聞かせて頂けますか」
「初めて会ったのは、あたしが二十二歳のときだから、一九一六年か。いまじゃ見る影もないが、あのころのソーホーは歓楽街だったんだ。昨日あんたが来たガソリンスタンドの所には、昔はソーホーでも一番の娼館があったんだよ」
「活気があったと聞いています。ソーホーがさびれてしまったのは、つい二、三年前からでしたか。繊維工場の南部移転がきっかけだったとか」
「ヴィクトールもまだ二十六歳の若造だったはずだけど、本当に伯爵然とした身なりで洒落ていてね。左頬にはミステリアスな頬傷があって。あたしにはブロードウェイミュージカルのプロデューサーだと名乗っていた」

一九一六年十二月十五日。ソーホーの娼館。ヴィクトールは白いボルサリーノ帽をかぶり、支払いの段に懐から五十ドル(現在の約七百ドル)を取り出して、あたしにひらひらさせた。
「ちょっと、そんなに貰えないよ」
「いいんだ。でもね、このお金は魔法のお金なんだよ。だから、今日中に取り出したりしたらさ、ただのティッシュペーパーに変わってしまうんだ」ヴィクトールは大げさな素振りでお札を畳んで、あたしのストッキングの中に押し込んだ。
「あはは。なんだいそれ。シンデレラかなにかかい」
「本気にしてないな。いいかい、僕には魔法が使えるんだ」ヴィクトールが立ち上がってあたしの目を見つめた。「取り出すのは明日になってからだよ」
「分かった分かった。分かったよ。分かったからそんな目で見ないでおくれ」
「よし。じゃあ、約束だからね」
にっこり笑ってヴィクトールが去る。気前のいい客だったなと思いながら、あたしは咳払いをして、そっとストッキングから報酬を取り出した。すると、果たして五十ドルはティッシュの束に変わってしまっていた。

「一瞬だけどさ、本当の魔法使いじゃないかって思ったよ。もちろん五十ドルは上手く隠して、初めからティッシュを詰めてたんだろうがね。ちいっとも気がつかなかった」
「なるほど。それは初耳でした」ベルマーレが言った。「手先が器用なのはトランプのイカサマで鍛えたんでしょうね。一九一四年に第一次大戦が始まるまでは、フランスとニューヨークを結ぶ大西洋航路の蒸気船を根城 ねじろにずいぶん稼いだと聞いています」
「そうなのかい」
「ブロードウェイのプロデューサーというのもそのころの定番ですね。ショービジネスに憧れている人々を相手に、ありもしない作品への投資を募ったとか」
「知らなかったよ。あんた詳しいじゃないか」
「ありがとうございます。それで、あの有名なエッフェル塔の詐欺ですが、伯爵から当時の話をなにか聞いてないですか」
「いいや。ヴィクトールの作った、詐欺師の十戒って聞いたことがあるだろう」
「はい」
「『自慢するな。自分の重要性がひそかにわかるようにせよ』って奴さ。あの人は絶対に自慢しなかったんだ」
「そうですか。らしいといえば伯爵らしいですが。残念です」
「でもね、相棒の偽造屋。ダン・コリンズはちょっと口が軽かった」

一九二五年、パリ。コンコルド広場にあるホテル・ド・クリヨンのスイートルームにダン・コリンズは呼び出された。ルースティッヒが官製便箋を偽造して欲しいというのだ。
「それと身分証明だな。電信局のカードを頼む」
「こんどはなにをするつもりなんですか」
「これさ」にっこり笑ってルースティッヒがル・フィガロ紙の一面を示す。大きくエッフェル塔の写真が載っていた。「エッフェル塔も三十六歳か。おれより一つ年上だったんだな」
「はあ」
「一八八九年、第四回のパリ万博のときに建設されたエッフェル塔が老朽化して、維持管理が困難になって来ているんだそうだ」
「それがどうかしたんですか」
「分からないか。面白いことになるぞ。スクラップメタルの大手に招待状を送るんだ。会場はこのホテルのパーティールームでいい」ルースティッヒは新聞を置いて重い象嵌インレイライターで煙草の先に火をつけ、ゆっくりと吸い込んだ。そして、セーヌ川の向こうの美しい塔をバルコニーから眺めた。

数日後、六社の重役が会場に集まった。ルースティッヒはゲストにあいさつをすると、郵便・電信局次長と名乗り、ワインと豪華な食事の後で「じつは今日みなさんに重大な発表があるのです。政府がエッフェル塔を取り壊すことを決定しました」と告げた。会場が静まり返った。「タワーの財政は深刻で、年間三百万フランの営業赤字を出し続けているのです。私はエッフェル塔の撤去に伴って発生する、七千トンの高品位錬鉄を処理する業者を探しています」
「七千トンだと」「いまの鉄くず相場だといくらだ」
 顔を見合わせる重役たちのどよめきにダン・コリンズは笑いをこらえた。ルースティッヒの釣り針が獲物に掛かるのが見えた気がした。
「業者は最終的に入札で選ばれます。ひとつご理解頂きたい点があります。それは世間を騒がせないために、当面のあいだ撤去の決定を秘密にする必要があるということです」
 ルースティッヒは彼らをリムジンに乗せてエッフェル塔の見学に連れて行き、偽造した電信局のカードを見せてカウンターを通過した。多くを語らない郵便・電信局次長のことを、業者達は信じ込んだ。詐欺師の十戒が役に立ったのだと思う。
 
一、忍耐強く聞き役に徹すること。詐欺師を成功に導くのは言葉の巧みさではない。
二、決して退屈しているように見せるな。
三、相手が政治的な意見を漏らすのを待て。そして、同意せよ。
四、相手に宗教的な信条を打ち明けさせろ。そして、おなじ信条を持て。
五、猥談をほのめかせ。しかし、続けるな。相手が強い興味を示さない限り。
六、病気を話題にするな。特別な心配が明かされた場合を除いて。
七、相手の個人的な事情を詮索するな。相手はいずれあなたにすべてを話す。
八、自慢するな。自分の重要性がひそかにわかるようにせよ。
九、決してだらしない格好をするな。
十、決して酔っ払うな。

徹頭徹尾付和雷同でありながら決してそうとは思わせず、ルースティッヒは業者達の行動や興味を冷静に観察していた。そして、いちばん契約を欲しそうにしていたアンドレ・ポワソンという男をターゲットに選んだ。ルースティッヒは個別にポワソンを食事に誘い、差し向かいで旅行の予定について話した。ポワソンはよければご一緒させて欲しいと言って三百マイル離れたボルドーまでついてきたそうだ。

後日、ルースティッヒは彼の家に招かれることになった。ポワソンとの面談の約束は十三時。十六時になって、駅で待つダン・コリンズのもとにアタッシュケースを抱えたルースティッヒが現れた。
「首尾はどうでした」
「話はあとだ。次の列車に乗るぞ」
 その足で東に七百マイル、ふたりはオーストリアのウィーンに逃亡した。ホテルインペリアルのロイヤルスイートでアタッシュケースを開けると、その中身にダン・コリンズは腰を抜かした。七万フラン(現在の約百万ドル)が入っていたのだ。どうやったのかとしつこくきくと、ルースティッヒはしぶしぶダン・コリンズに教えた。

モンテーニュ大通りにあるアンドレ・ポアソンの家を訪ねると、ルースティッヒは「いや、立派なお屋敷ですね。私などただの下級官僚でして」とへりくだったらしい。
「どうぞゆっくりしてください。自分はパリに来たばかりなので、他のディーラーが持っているようなコネがないんです。いつも契約を横取りされてばかりいます」
 ポワソンの注いだマリアージュ・フレールの紅茶を飲みながらルースティッヒは呟いた。「エッフェル塔の買い手を見つけるという大きな仕事を任されてはいますが、しがない公務員ですからね。収入は雀の涙ほど、生活費にも事欠くような有様です」
 これを賄賂の誘いと受け止めたポワソンは「ほんのお近づきの印です」と五万フランを、さらに手付金として二万フランをルースティッヒに握らせたのだという。
「どうぞお任せください」その時のルースティッヒの笑顔が目に浮かんだ。

新聞にエッフェル塔詐欺の記事は載らなかった。そろそろポワソンもだまされたことに気づいたころだったが、笑い者になることを恐れて当局には通報しなかったようだ。
 半年後、ルースティッヒは再びパリに戻り、別の五人の鉄くず屋を相手に全くおなじ手口で詐欺を働いた。今度はターゲットとは別の業者が警察に通報して、ニセの郵便・電信局次長の存在が明るみに出てしまったのだが、ル・フィガロ紙の一面をエッフェル塔詐欺事件が飾ったころには、ルースティッヒは新たに手に入れた十万フランとともにヨーロッパを離れアメリカに渡った後だった。

カフェ・ダンテでベルマーレが感嘆のため息をついた。
「だまされたことに気づいても訴える人間はそう多くないみたいですね。しかし、大胆不敵というかなんというか。それと、詐欺師の十戒は厳しいですね。だれにも心を許せそうにない。本当は伯爵は孤独だったんじゃないでしょうか」
「ああ。そうかもしれない」時計は十一時半になろうとしていた。
「伯爵がアメリカに戻ってからのことを教えて貰えますか。ギャングスターのアル・カポネをだましたというのもそのころの話でしょうか」
「有名らしいな。あんたの方が詳しいんじゃないか。ニック・アーンスタイン、ビッグ・ビル・ドワイヤー、レッグス・ダイヤモンド。暗黒街のボスは軒並みルースティッヒにだまされたんだ」

ルースティッヒがフランスから帰ってきたその年、禁酒法時代の一九二五年十月。イリノイ州シセロのホーソーンホテルにあるカポネのオフィス。アーノルド・ロスシュタインの紹介で、ルースティッヒは二十六歳のアル・カポネに面会した。当時のカポネは組織のトップに立ったばかりだったが、酒の密売で飛ぶ鳥を落とそうとしていた。
「頬傷の詐欺師とは珍しいな」スカーフェイスの通り名で知られている通り、カポネの頬にもルースティッヒに似た傷があった。
 武装した取り巻きに囲まれながら、ルースティッヒは禁制のウイスキーで乾杯した。それから「大きな取引がある。二か月で倍にして返す。五万ドル投資してほしい」と切り出した。
「いい度胸だな。おれをだましたら、分かってるだろうな」
「ああ、蜂の巣にしてもらって構わない」
 ルースティッヒはピンを抜いた手榴弾のような五万ドルをカポネから受け取ると、その金を銀行に預金して放っておいた。
 約束の二か月が過ぎようとするころ、まだルースティッヒは来ないのかと、いらいらで爆発寸前のカポネに会いにホーソーンホテルを再訪した。ルースティッヒは「取引が決裂したんだ」と肩を落として五万ドルを返した。「暗黒街の顔役に迷惑はかけられないからな。せめて元金だけでもと必死でかき集めた」と言い訳を並べた。
 義理堅い詐欺師に拍子抜けしたのだろう。カポネは札束から五千ドルを抜き取ってルースティッヒに渡した。「それは残念だったな。これはなにかの足しにしてくれ。おれは借りを返すやつの面倒は見る主義なんだ」
 
「シカゴで仕事をするのにカポネに無断って訳にはいかなかったからね」
「アーノルド・ロスシュタインから教えてもらいました。五千ドル手にした上に、シカゴで商売できるようになった。カポネはだまされたことにも気づいていない。そこまで読んで動いたんですね」
「ああ。だろうな」ビリーは煙草に火をつける。
「そのカポネも三年前の一九四七年、伯爵とおなじ年に四十八歳で亡くなってしまいました」

カフェ・ダンテの入口のドアが開き、黒いボルサリーノ帽の男が入ってくる。三十代前半だろうか。葉巻をくわえて隣のテーブル席に腰を下ろし新聞を読み始めた。
「当時、スカイブルさんは娼館のチェーンを経営されていたそうですね。ニューヨークとピッツバーグでしたか」
「恐れ入ったね。調べがついてるよ。いまじゃすっかりガソリンスタンドの店員が板についちまったがね」
「その後の伯爵との交流について教えてもらえますか」
「ティッシュの後もインチキの贋金製造機を売りつけられたり、水増し株を掴まされたりろくな目にあわなかった。ヴィクトールの手に掛かったらかなわないんだ。だけど、なんだか憎めなくてね。知っての通り恋仲になっちまった」
「逮捕されるまでの主な商売は贋金関係が多かったみたいですね」
「そのころの仕事についてはあたしは詳しくないんだ。あの人はめったに仕事の話をしなかったからね」
「『自慢するな。自分の重要性がひそかにわかるようにせよ』でしたっけ」
「そう詐欺師の十戒だね。ただ、あれだけは許せなかった」
「あれというのは。浮気ですか」
「ああ」

一九三五年五月十日。マンハッタン東七四番ストリート。ビリーからの密告を受け、連邦捜査官ピーター・ルバノは張り込みを続けていた。夜、ビリーの住む赤レンガのアパートから五十ヤード離れたところにシボレーが停まる。チェスターフィールド・コートを身に纏った頬傷の男が降りたところへ六名の捜査官が一斉にとびかかった。取り押さえられた四十五歳の男は伯爵と呼ばれた天才詐欺師に間違いなかった。コートのポケットからロッカーの鍵が見つかる。捜査の結果、地下鉄タイムズスクエア駅のロッカー番号〇〇〇九九から五万一千ドル相当の贋金と、それを印刷するためのプレートを押収した。ビリーはルバノから、そう報告を受けた。

四か月後の九月二日。ニューヨーク連邦拘置所三階の独房。銀行や競馬場に数百万ドル(現在の数千万ドル)相当のニセ札を出回らせた咎で告訴されたルースティッヒは、裁判を明日に控えたその日の白昼堂々、シーツ数枚をロープ状につなぎあわせて拘置所の窓から抜け出した。支給のダンガリーシャツとスリッパ姿のまま窓拭きのふりをして、さりげなく窓を拭きながらビルを降りて行った。彼を見ていたはずの何十人もの通行人は一向気にも留めなかったらしい。

さらに二十七日後の九月二十九日。ルースティッヒはピッツバーグで再逮捕された。脱獄の罪を上乗せされて二十年の懲役が確定した。
 
「本当に浮気だったんでしょうか」ベルマーレが尋ねる。
「贋金作りの相棒だった化学者のトム・ショーから電話が掛かって来たんだ。ルースティッヒの奴がおれの女に手を出しやがったってね。頭に血が上って、そうかもしれないって思っちまった。単なる仲間割れだったのかもしれないが、いまとなっては確かめようがないね」短い沈黙が流れる。
「お腹がすきましたね」
「ああ、気分転換になにか食おうか。食前酒はどうする」
「いえ、お酒は遠慮しておきます」
「あたしはこのネグローニ・カクテルっていうのをもらうよ」
 
「ところで、荒稼ぎしていたはずの伯爵ですが、逮捕時に押収された財産がすくなすぎたみたいなんです。なにかご存知ではないですか」
「あんた、ヴィクトールの遺産が目当てなのかい」
「とんでもない。純粋な興味です。莫大な資金をつぎ込んで、タイムマシンを開発しようとしていたなんて眉唾物のうわさもあったんですが、どうでしょう。たしかH・G・ウェルズの小説が一八九五年でしたっけ」とベルマーレが笑って、ビリーはどきりとする。たしかにそんなうわさがあった。いちどヴィクトールに聞いてみたことがある。
 
「タイムマシンのうわさだって。本当さ。じつはもう完成しているんだ。時空をだます装置、クロノ・ディシーバーって名前でね。これが証拠だよ」とヴィクトールは食卓でなにかの写真を見せてくれたが、あれはなんの写真だったのか。とにかくなんの変哲もない白黒写真でがっかりしてしまった。「でもね、タイムマシンの存在は秘密なんだ。だれにも言っちゃだめだからね。約束だよ」ヴィクトールが立ち上がってあたしの目を見つめた。
「よしとくれよ」そんな目で見られると本気にしてしまう。
「からかっているように見えるかい」とヴィクトールは笑うのだった。
 
「ウェルズの『タイムマシン』なら読んだことがある。タイムマシンなんかばかばかしい。そんなもの存在しないって、あの人は笑ってたよ」
「詐欺師の言うことですからね。なにが本当だか分かりません」とベルマーレが不意に真面目な顔になる。「もし、タイムマシンがあったら、どこへ行きたいですか」
「あのときに戻って、連邦捜査局への密告を中止したいね。あんたならどうする」
「じつは二度目のエッフェル塔売却を阻止したいんですよ。あれのおかげで父が破産してしまったので」と事もなげに笑う。
「なんだって」不意の告白にビリーは思わずとび上がりそうになる。
「いや、とくに恨みに思っている訳ではないんです。あれは私がヴィクトール・ルースティッヒという男に興味を持ったきっかけには違いありませんが、お伝えした通り、調べているうちに私は伯爵に惚れてしまったので」
「本当かい。驚いたよ」いろんな人間がいるものだと思った。自分とおなじように、ベルマーレの父親もヴィクトールにだまされたのだ。急に目の前の人物が実在性を帯びた気がした。
 
「まあ、それで、とどのつまり二度目の逮捕から十二年後に伯爵は肺炎に掛かった訳ですね」とベルマーレが言う。
「ああ、新聞で見たよ。昔の仲間が教えてくれたんだ」
「ちょっと気になることがあるんです。ある筋から聞いたんですが、スプリングフィールドの医療センターで、死の間際に伯爵が大笑いしたらしくて」
「なんだいそりゃ」
「『くっくっく。あーっはっはっはっは。あんたたちは見事にだまされちまったんだぜ。本当におれがやったと思ったんだな』と言ったとか」
「本当かねえ。そんなときにそんなハッタリを言うかね。どうもヴィクトールらしくないね」
「そうですよね。孤独の果てにおかしくなってしまったのかとも思いましたが。そういえば、伯爵はスカイブルさんには心を開いていましたか」
「さあ。あたしはそう思っていたけど、本当のところは分からない」ビリーはカクテルを飲み干すと「ところで、昨日の絵葉書、もういちど見せて貰えるかい」と聞いた。
「いいですが、これがどうかしましたか」懐からベルマーレが絵葉書を取り出す。「どうもこのエッフェル塔、ちょっとだけ背が高いような気がするんですよね」
「もしかしたらと思ったんだが。これヴィクトールの字じゃないね」
「ええっ。本当ですか」とベルマーレが立ち上がって絵葉書をのぞき込む。「詐欺師なら他人の筆跡を真似ることくらい簡単なのでは」
「いいや。エッフェル塔の詐欺のとき、どうして偽造屋と組んだと思う」
「そんな、まさか」
「どんな魔法だか手品だか分からないけどね。ストッキングの中のティッシュと一緒で、どこかですり替わったんじゃないかね」
「そうすると脱獄の後で逮捕されたのは伯爵ではない。伯爵はまだ生きている?」
「分からないけど、そんな気がするよ。あたしはいまそう信じたい気分なんだ」

ピエール・ベルマーレは礼を言って、ビリーに絵葉書を渡して別れた。謝礼金を申し出たが、ここの支払いだけでいい、本が出たら送ってくれと断られた。伯爵生存説は伝記に書かない約束になった。
 ピエールは路上のキャデラックに乗り込むと、運転席の男に「出してくれ」と言った。車が動き始める。あれだけビリーに慕われていたんだ。案外、伯爵は孤独ではなかったのかもしれない。そう思いながら、バックミラーの角度を変えてピエールは自分の顔を映した。化粧を落とすと、頬傷が現れた。
「で、どうだったんだ。ルースティッヒ」さっきまでピエールだった自分に運転手がきいた。
「ビリーは信用して構わない。計画は予定通り実行しよう」とルースティッヒが応える。変装までしてここへ来たのはビリーがあのときの約束を守れるか心配になったからだった。

一九三五年一月二十一日。ビリーのアパートの食卓で、ルースティッヒは言った。
「タイムマシンのうわさだって。本当さ。じつはもう完成しているんだ。時空をだます装置、クロノ・ディシーバーって名前でね。これが証拠だよ」
「なんだい、これは」
「エッフェル塔の写真さ。すこし背が高いのが分かるかな。今のエッフェル塔の高さは三百十二メートルなんだけど、今から八十七年後の二〇二二年に地上デジタルラジオ放送用のアンテナが設置されて三百三十メートルになるんだ」
「また、あたしを担ぐつもりだね。地上デジタルってなんのことだい」
「さあ、なんだろう。でもね、これは秘密なんだ。だれにも言っちゃだめだからね。約束だよ」
 
「あの写真、本当に渡してよかったのか」キャデラックを走らせながら運転手がきく。
「ああ、問題ない」
ビリーは気がついたはずだ。絵葉書の写真があのときのタイムマシンの証拠とおなじものだと。だから回収した。ピエール・ベルマーレという記者に秘密を漏らすまいとしたのだ。
「おまえのことを売った女だろう。どうしてそんな女が律義に約束を守るんだよ」
「あいつは伯爵に惚れていたからな。おれを売ったことも後悔していた」
「べつにそこまで神経質にならなくてよかったんじゃないか。あんな女がタイムマシンについてわめきたてたところで、頭がおかしいと思われるだけだろう」
「理解してないな。おれたちはシュレーディンガーの猫なんだよ」
「どういうことだ」
「失礼。あんたの時代には、まだ存在しない概念だったな。生きているとも死んでいるとも知れない箱の中の猫のことさ。そんなあやふやな存在だから、時空をだますことができる。ビリーが他に情報を漏らすなら、それは箱の中が箱の外の人間に観測されることとおんなじなんだ。猫の生死が確定して、もう時空をだますことはできなくなる」
「どういうことか知らんが、そんな大事なことなら、はじめからあの女に言わなければよかったんだ」
「この時代にもう一人必要だったんだよ、箱の中の猫が。ここへ帰ってくるためにな」静かなルースティッヒの迫力に運転手がだまる。今は亡き開発者のトム・ショーほどクロノ・ディシーバーの理屈に通じていた訳ではなかったが、ルースティッヒはなにをどうすればいいかについては充分に心得ていた。
 
「しかし、詐欺師ってのはおそろしいね。途中から隣のテーブルで聞かせてもらったが、なにが『自慢するな。自分の重要性がひそかに分かるようにせよ』だ。自慢のオンパレードだったじゃねえか」
「ピエール・ベルマーレの言うことだから自慢には当たらないだろう。ビリーが伯爵を裏切らないように昔のことを思い出させてやっただけだよ」
「そういえば、刑務所の替え玉はだれだったんだ」
「弟のエミールだよ。規則正しい生活をしたいって言ってたから、代わってもらったんだ」
運転手はあきれたというように肩をすくめた。
 
「それで、このペニシリンってやつは本当に効くのか」と運転手がドアポケットから薬の瓶を持ち上げて眺める。
「ああ。梅毒にはこいつがいちばんいいらしい。百年後の未来でも標準治療だよ」
「おれがそんな病気を貰っていたとはな」
「一九三八年の検査で発覚するが、感染は若いころだったみたいだな。放っておけば、一九四七年に四十八歳で死ぬところだった」
「どうやら命拾いしたらしい」
「一九三一年の脱税裁判なら工夫次第で切り抜けられるだろうが、梅毒はそうは行かない。あの時代にはペニシリンが実用化されてなかったからな」
「いまさら言うのもなんだが、詐欺師の言うことをこんなに信用していいもんかね」
「恩返しのつもりなんだがな。あんたが仕切ってくれたから、シカゴ辺りでも大きな仕事ができた。信じないのならご自由に」
「こうなりゃ、とことんだまされてやるよ。どこへでも連れて行ってくれ」と頬傷の運転手がふんぞり返る。
「おれもアル・カポネが味方なら心強いと思っていたところさ」助手席のルースティッヒがグローブボックスを開けるとクロノ・ディシーバーが現れた。ルースティッヒはダイヤルを未来の方へ回して、それから起動ボタンを押した。
 
参考文献
カール・シファキス(2001)『詐欺とペテンの大百科(新装版)』鶴田文訳 青土社
Christopher Sandford(2022)『Victor Lustig: The Man Who Conned the World』The History Press Ltd.

文字数:10925

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