サラサンドの鳴かない夏

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梗 概

サラサンドの鳴かない夏

惑星メルは危機に瀕していた。
 メル文明を支えるレン・ドライブの駆動には六価プラセリが必要であり、メル人は地下深くから六価プラセリを採掘してきた。だがここ百年足らずでレン・ドライブの利用は爆発的に増え、六価プラセリがレン・ドライブで反応した際に排出されるデイラーシスが大気中に蓄積されるようになった。デイラーシスは太陽放射と反応して地上の熱を宇宙へと放射する。これによりメルでは惑星の寒冷化が大きな社会問題となっていた。
 メル連邦政府議会の寒冷化対策部会では、レン・ドライブの主要メーカーが支持する委員で構成される「メルは寒冷化していない派(現実派)」と環境保護団体や革新派からなる「レン・ドライブ規制派(理想派)」が議論を戦わせていた。

ジュネリ・タラは奇妙な違和感とともに目覚めた。理想派の急先鋒である彼女は、今日も委員会でいくつかの質問に立つ予定だった。
 ジュネリはまず、太陽活動と寒冷化の関係を示す古い予測グラフを採用し続ける現実派に対し、最新の実測結果に基づくグラフを示す。
 対する現実派のカラム・ベーデン委員は、過去の植物年輪による気温測定結果と最近の温度計による実測結果を滑らかな曲線で繋いだ理想派のグラフを取り上げ、グラフに恣意的な操作をしたと指摘する。
 議論は相手陣営の嘘やミスリードの暴露合戦となり紛糾。ジュネリはついに暖地に住む動物サラサンドを持ち出す。
 美しい鳴き声をもつサラサンドが住みかを減らしていることが判れば、より多くの人が寒冷化問題に関心を持ってくれるだろう。だが情に訴えるにはデータだけではだめだ。ジュネリはサラサンドと話せるという生物学者を委員会に召喚し、その場でサラサンドに「証言」させた。
 一方カラムはメルの原住生物であるアプソバを連れてきて、動物園のアプソバ飼育係に「通訳」させ、かつてメルが何度も寒冷期を経験したと証言させる。

「だめだねこれは」
 北都大学人間科学研究科社会コミュニケーション研究室の白浜教授はシミュレーション結果を見て言った。
 白浜教授の研究室は700EFLOPSの処理速度をもつ惑星社会シミュレータ「メル」を使って科学コミュニケーションの仮想実験をしていた。近年紛糾する科学的課題について、コミュニケーション学の見地から最適な行動モデルを導き出そうというのが実験の目的である。
「アルゴリズムを見直してもう一度やりましょうか」
 と助手の井草が提案するが、白浜教授は答える。
「いや、条件だけ変えて何回か実行してくれ。さっさと終わらせて、アルゴリズムは見直したことにする。時間がかかればその分『メル』の使用料がかさむからね。うちの科研費から持ち出しなんだから、節約しなきゃあ」
 井草は釈然としない気持ちだったが、今後研究を続けるのに教授に楯突くのは得策ではないと思い、これに同意して実行コマンドを入力した。

ジュネリ・タラは奇妙な違和感とともに目覚めた。理想派の急先鋒である彼女は、今日も委員会でいくつかの質問に立つ予定だった。

文字数:1240

内容に関するアピール

原発事故やSTAP騒動、コロナ禍などにおいて、社会の課題は科学的事実そのものよりもコミュニケーションにあったと思います。
 政治向きの話(学内政治を含む)はとかくポジショントークとなり、結果として嘘を織り交ぜないと成り立たないのかも知れません。それが科学の目指すところとは相容れないからこそ、サイエンスコミュニケーションは難しいのでしょう。
 この作品は、気候変動を題材にとり、爆速スパコン(700EFLOPS=700,000PFLOPS、「富岳」が400PFLOPS)を使って気候変動のメカニズムそのものではなく、気候変動をめぐる社会をシミュレーションしてしまったのだが、という話です。
 結果的に「登場人物がみんな嘘つき」になりました。

文字数:317

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サラサンドの鳴かない夏

いつもより三十分早く設定した目覚ましが鳴り始めた。
 ジュネリ・タラはベッドから腕を伸ばしてアラームを止める。返す腕でシーツに手を這わせるが、隣にグーズの姿はなかった。カーテンの隙間から、強烈な朝日が射している。
 キッチンの方から食器のぶつかる音がする。その音が、頭に響く。脳と頭蓋の位置がズレて、できた空洞に反響するような不快感。
 この感じだ。特に最近強く覚えるようになった、自分が何処か別の場所に居るような感覚。
「おはよう。よく眠れたかい」
 髪をかき上げながらキッチンに入ると、ケトルの湯をお茶のポットに注ぎながらグーズが言った。ケトルの湯を沸かしたコンロ、そしてその横で今まさにトーストをジリジリと焦がしているオーブン。すべて家の裏山にある共同地熱タービンから得たエネルギーを引いて動いている。ポットのお茶も、「グローバル・レン・ドライブ・フリー認証」を得た茶葉だ。
「うん」
 ジュネリは大きく一つ、欠伸をしながらテーブルに着いた。
「そうは見えないがね」
 グーズが二人分のマグカップをテーブルに置いて、ジュネリの向かいに座った。窓の外に広がる、裏山の緑が眩しい。
「今日の委員会にこの惑星の運命がかかってるんですもの。ナーバスになるなってのが無理でしょ」
 グーズはテーブル越しに手を伸ばし、ジュネリの頬を撫でた。
「そうだね、ジュネリはすごいよ。メルを守れるのは、きみだけだ」
「私一人で守れるわけじゃない」
「もちろんさ、分かってるよ」
 ジュネリはマグに口をつけた。お茶の熱さと舌触りが、彼女を現実に繋ぎ止める。
「今このキッチンにだって、十年前より八パーセントも多くのデイラーシスが浮遊してるんだから。全人類が、ひとりひとり自分の問題として考えなきゃ駄目」
「そうだね」
 グーズは何か言いたげに視線を巡らせたが、結局黙ってジュネリに倣いお茶を飲んだ。
 わかってる。
 彼はジュネリと過ごす時こそレン・ドライブを憎み、あらゆる場面でデイラーシスを排出しない選択肢をえらんでいた。同じ路線のバスに乗るときも、レン・ドライブ・バスは見送って燃料電池バスに乗る。スーパーで食材を買うときにはハウス栽培の野菜や、輸入品は買わない。ハウスの暖房にレン・ドライブは必須だし、国際貨物運送には年間十六万トンもの六価プラセリがレン・ドライブで消費され、大気中にデイラーシスをばら撒いている。
 だけどグーズの職場には大小合わせて二十機以上のレン・ドライブが稼働しているし、なんならその職場で開発販売している金型はレン・ドライブの部品にも使われている。
 綺麗事だけでは、惑星の寒冷化は止められないのだ。
 だからこそ、議会の場で危機を訴え、人々の目を開かせないといけない。ジュネリはその使命の重さに、身体を震わせた。
「寒いのかい?」
 グーズが訊いた。ジュネリは笑いながら首を振った。
「いいえ。でも、この星の夏がどんどん寒くなってるのは事実よ」
「そうだね。さあ、食べよう」
 グーズは地元の農家から直接買った、有機野菜のサラダを取り分け始めた。

メル連邦議会本部、第三〇六会議室。
「下院気候変動対策委員会」とプレートが掲げられているドアをくぐり、ジュネリ・タラは向かって左、「理想派」の席についた。既にほとんどの席が埋まっている。彼らはみなレン・ドライブの製造および使用を可及的速やかに禁止し、一刻も早くデイラーシスの排出を止めようと行動している同志たちだ。委員は革新派の議員や環境保護団体の代表、大学で惑星メル寒冷化を研究する学者などからなっている。
 椅子に座ったジュネリは、向かいの「現実派」席に足を組んで座っているカラム・ベーデンと目が合った。彼はジュネリが入ってくる様子をずっと見ていたらしく、目が合った瞬間に片方の口角を上げて笑いかけてきた。ジュネリが無視すると、カラムは両手を皿のようにして広げ、おどけてみせた。カラムたちの側に座っているのはみなレン・ドライブの主要メーカーか、六価プラセリ採掘に関わる企業の息がかかった委員たちだ。曰く、「大気中のデイラーシスが寒冷化の原因であるという証拠はない」「長期的に見れば今は惑星メルの寒冷期であり、人間の活動が気候変動をもたらしているわけではない」という主張を繰り返し、理想派を経済破壊の煽動者呼ばわりしている。
 今日こそ決着をつけてやる。
 ジュネリは今日の質問用に用意した分厚い資料の束を取り出し、臨戦態勢に入った。と、後ろから肩を叩かれる。振り向くと、理想派の重鎮、下院副議長を務めたこともある経験豊富な代議士、ダリウスが身を乗り出していた。
「お早う、ジュネリ君」
「おはようございます」
 壮年のダリウスが至近に顔を寄せているのに、あの男性特有の匂いがまったくしない。この頃はグーズでさえ廃車寸前の車のクロスシートみたいな、饐えた匂いがするというのに。
「今日の質問、見させてもらったよ。あれ、大丈夫かい?」
 ダリウスは両手を使ってジェスチャーをする。右手の指を縮めて開く。爆発。その手を伏せた左手で覆う。覆った手をそのまま自分の首に持っていって、親指で横に切る。「炎上したら我々は火消しに回らないといけない。そして君はお払い箱だ」ジュネリはそう解釈した。
「大丈夫です。あくまで最後の手段なので」
 ダリウスが納得したかどうかは判らない。議員は首をすくめて自席に戻った。
「それでは時間になりましたので、審議を開始します」
 議長の声が響く。
「デイラーシスの排出抑制に関わる産業関係諸法令の改正および奨励金の予算措置、通称『レン・ドライブ禁止法案』についての最終審議となります」
 質問順は現実派のカラムからだった。ダークスーツに長身を収めたカラムはぬっと立ち上がり、勿体ぶった様子で質問席に進み出た。涼しげな目でジュネリを一瞥してから手元の資料を読み始める。
「皆様ご承知の通り、ここ数十年の間、我々の科学技術は主にレン・ドライブの利用によって急速に進歩してきました。今や我々の生活の中でレン・ドライブを直接・間接に利用していない瞬間はないといっていいほどです。今」
 と、カラムはジュネリの方を振り向き、指差す。
「タラ委員の目の前にある紙、タブレット端末、水のボトル。どれか一つでもレン・ドライブなしで製造できますか? いえ、回答を聞くまでもありません。答えは明白にノーです。もしこの法案が通過すれば、メルの全人類は深刻な事態に直面するでしょう。あらゆる農作物の生産、畜産、漁業、製造業と運輸、日常生活に必要なエネルギーに至るまで、レン・ドライブ以外の手段でまかなうとしたら、そのコストは何倍にも、何十倍にも跳ね上がる。人々は食糧難に苦しみ、紛争は起き、文化は廃れる。これは紛う方なき、文明の破壊です」
 現実派の常套句だった。ジュネリは苛立ちを抑えようと脚をゆする。
「さて、法案を提出した会派は人類が六価プラセリを採掘し、レン・ドライブで反応させることによりデイラーシスが大気中に蓄積、これが太陽放射と反応して地上の熱を宇宙空間に逃がしていると主張します。確かにそのような機序はあるでしょう。しかしメルは本当に寒冷化しているのか? ここに一つのグラフがあります」
 と、カラムは議場のスクリーンにグラフを映し出す。グラフの曲線は小幅に上下しながら推移し、最後右端にさしかかったところでぐいっと落ち込んでいる。
「これは」と、再びジュネリを指し示す。「あなた方がよく引用する、メルの大気温の推移を示すグラフです。千年前から小さな上下動を繰り返し、ここ百年足らずで気温が急激に下降していますね」
 だって、本当に下がっているんだもの、とジュネリは思う。カラムはレーザーポインタをグラフの右端に当てながら、ほくそ笑んだ。
「しかしご存知ですか? 人類が正確な温度計を発明したのは、たかが百年ほど前です。それ以前の気温は、樹木の年輪から推測したものに過ぎません。だから何だ? いえ、異なる測定法で計った温度を、このような滑らかなグラフで繋ぐのは明らかにミスリードではないですか」
 ジュネリは議長に指名される前に手を挙げて立ち上がった。勢い込んでマイクの前に立つ。
「お言葉ですが、科学的に測定した気温同士を繋ぐのに、問題があるとは思えません」
「では、あなた方はこのグラフ処理に何の問題もないとお考えですか?」
「もちろんです」
「では」と、カラムは別の資料をスクリーンに出して続けた。「これは昨年の七月十八日にワース大学のティベ教授からそちらのダリウス委員へ送られた電子メールです」
 ジュネリは目を見開いた。映し出されているのは、確かにダリウス宛のメールだった。カラムはこの資料が確実に理想派へのダメージにつながることを、ジュネリの表情から確信したようだった。
「いいですか、七行目をご覧ください。『かかるグラフの描画について、私はかねてより切り離すべきだと申し上げてきましたが、あくまで議員が繋げて描くと仰るのでしたら私はもう反対はいたしません。ただ、それは科学的データの改竄にあたり、この一事により理想派の出すデータはすべてあてにならないという謗りを免れ得ません』これはティベ教授の科学者としての良心から来る叫びというべきではありませんか。どうですか、ダリウス委員」
 ジュネリはマイクにかじりつくようにして発言しようとするが、議長にたしなめられた。
「ダリウス委員が答えてください」
 ジュネリは渋々席に戻る。マイクに向かうダリウスとすれ違いざまに怒りの視線を送る。なんてことしてくれたんだ、私には偉そうな口をきくくせに、と訴えるように。ダリウスは目を伏せ、肩を縮こまらせてポディウムへと歩を進める。
 ダリウスはメールが流出した経緯について現実派への逆質問を繰り返すのみで、肝心のグラフ処理に関しては曖昧な答弁をするにとどまった。

メール流出問題で紛糾した審議は予想外に長引き、理想派からの質問は休憩の後となった。
 ジュネリは鼻息荒く、質問に立つ。
「ここ数十年の気温低下が、人間活動とりわけ六価プラセリの反応後に生成されるデイラーシスの急激な増加に起因するものであるということは明白であります。そこでこちらをご覧ください」
 スクリーンには、上下動を繰り返すグラフが映し出された。
「カラム・ベーデン委員は近年の寒冷化が太陽活動の低下に起因しているとおっしゃいます。そうですね」
「ああ、そうだが? 今君が示しているグラフがその証拠だよ」
 我が意を得たり、とばかりにジュネリはたたみかける。
「わかりました。ではこのグラフの元データをご紹介しましょう」と、別の資料を表示する。「これはタクトゥス大学のヴァーミナ博士によって三十年前に発表された論文の一部です。いいですか、三十年前です。つまり三十年前から現在までのグラフは、予測にしか過ぎません。それによると、なるほど太陽のフレア数と大気温には相関関係があるように見えます。しかしここに三十年前からの実測値を重ねると、こうです」
 実測データに基づく気温の推移を重ねたグラフが表示される。太陽のフレア数はほぼ規則的に十数年単位で上下動を繰り返しているが、気温はここ三十年でぐんと下がっていた。
「これでも寒冷化は人間活動の結果ではないといえますか? あなた方はどうして古いグラフをいつまでも引用し、実測値に基づくデータを示さないのですか? 民衆に嘘をつき、ミスリードの原因をつくっているのはあなた方ではないですか?」
 ジュネリはまくし立てると、大股で席に戻った。カラムが手を挙げるのと議長がカラムを指名するのは同時だった。
「お言葉ですがタラ委員、近年の気温低下のすべてが人間活動の影響であるというのはあなた方の推測にしか過ぎないのでは? 例えば近年活発さを増す火山活動によってもデイラーシスは増えます」
「論点をずらさないでください。なぜ、実測によって否定された古い予測によるグラフを使い続けるのか、と聞いているんです」
「予測は今後五十年先までなされています。過去三十年はともかく、今後についてはまだ予測が有効であると考えます」
「今後の予測は最近の実測値を踏まえてやり直すべきではないですか」
「そのような予測はまだ発表されていません。発表されるまでは、ヴァーミナ博士の予測が最新と言わざるを得ません」
 議論は水掛け論に終始した。カラムはのらりくらりと追及をかわし、ジュネリは苛立ちを募らせた。
 その後理想派、現実派からそれぞれいくつかの質問がなされたが、相手の嘘やミスリード、印象操作をあげつらい、揚げ足取りし、互いに批難するばかりだった。議論を見ている有権者からは、この委員たちは舌戦にばかりかまけていて、問題を解決する気がないのではなかろうか、と思われても仕方のない内容だった。
 二度目の休憩に入ると、ジュネリはダリウスのもとを訪れ、囁いた。
「ダリウス議員、やはりあれを使おうと思います」
 ダリウスは渋面をつくった。
「本当に大丈夫かね?」
「こんな不毛な議論を続けていても、有権者の支持は得られません。今必要なのは感情に訴えかけることです」
 ダリウスは軽く頷いた。
「よかろう。ただし、上手くやれよ」
 上手くやれ、の意味をジュネリは測りかねたが、ヤラセや仕込みだと思われないよう、自然にやれ、くらいの意図だと理解した。
 ジュネリはスタッフを呼び、次の質問に立つ準備を始めた。

理想派の席には、新たに一人の老婦人が加わった。飾り気のないスーツに身を包んだ婦人の脇には、布が掛けられた大きな箱がある。一辺一メートルほどの立方体で、休憩時間中にスタッフによって運び込まれたものだ。
 ジュネリは議長に促され、マイクに向かって話し始めた。
「質問主意書の通り、ここに証人を呼んでおります。証人への質問を許可願います」
 議長は手許の資料に目を落とすと、訝しげな顔をした。
「タラ委員、証人はどこに?」
「ここです」と、ジュネリの合図とともにスタッフが箱の覆いを取る。「野生のサラサンド、ネプカの森で捕獲しました。推定年齢四歳、雄です」
 現実派のみならず、理想派の委員たちも一斉にざわつき始めた。覆いの中から現れた檻には、銀色の鮮やかな毛並みをもつ獣がいた。サラサンド。温暖な地方の森林に棲み、とりわけその美しい鳴き声で名高い哺乳動物である。
 カラムが立ち上がり、檻の中のサラサンドを指差した。
「その動物をどうやって証人喚問するんだ」
「その前に」議長が遮る。「動物が証人となれるかどうか、確認が必要だな」
「必要ありません」ジュネリはすかさず切り返した。「下院議事進行規則には、証人は『当該審議事項に関する有識者または利害関係をもつ者』とあります。人であることを要件とはしていません」
 議長はいったん議長席から下りて監事席にいる担当者と小声でやりとりし、やがて戻ってきた。
「良いでしょう。証人喚問を続けてください」
 ジュネリは頷くと、スタッフに合図してサラサンドの檻を演台へと運ばせた。老婦人が檻に付き添うようにして歩いていく。
「こちらはメル中央大学のパレス博士でいらっしゃいます。長年サラサンドの研究をしているうちに、サラサンドと会話ができるようになったことで有名です。今日はパレス博士に通訳をしていただく形で、サラサンドに証言してもらいます」
 現実派の委員たちからブーイングが起き、議長が静粛を求めなければならなかった。
「さて、パレス博士。野生のサラサンドはどのような場所に棲んでいますか?」
 博士が答えようとするのを、ジュネリは手で制する。
「いえ、博士でなく、サラサンドに訊いているんです。博士はサラサンドの通訳に徹してください」
 パレス博士は複雑な表情をすると、傍らの檻に向きなおった。博士が囁くような声で何事か告げると、サラサンドは顔を上げて小さく鳴いた。銀色の羽毛の中で、小さな黒い眼をしばたたかせる。細く尖った形の顔を、博士に向けている。
「美しい声です」
 ジュネリが実況中継でもするかのように、言った。博士は頷き、マイクに向かった。
「暖かい森が好きです。寒いところでは子育てができません」
 サラサンドにとって快適な森は、どんどん減っている。かつて豊かな森だった場所は凍土となり、夏の平均気温が二十度を下回る地方がメルの両極から赤道へ向かって広がり続けている。
 いずれ、夏になってもサラサンドの美しい声が聞かれなくなってしまうだろう。今すぐ寒冷化を止めなければ、取り返しがつかなくなってしまう。
「あなたの住んでいたネプカの森は、以前に比べてどうですか?」
「以前ほど暖かくないです。冬はもちろん、夏も寒い」
「食物はどうですか? 主食である昆虫や小動物はたくさんいますか?」
「いいえ、最近は食べ物を探すのも大変です。昆虫も小動物も前よりずっと少ないです」
 ジュネリはここで別の研究論文の要約をスクリーンに表示した。
「これについては画面に表示の資料をご覧ください。温帯林における昆虫および小動物の個体数が著しく減少しており、その減り方に気温低下との相関関係がみられるというものです。証人喚問は以上となります」
 これで、議会中継を視聴した有権者は断然理想派に傾くだろう。サラサンドの美しい鳴き声を嫌う人などメルじゅう探したってどこにもいない。ジュネリは満足げに腰を下ろした。
 と、いつの間にかカラムのそばに覆いを掛けられた立方体が運び込まれているのに気付いた。カラムの隣にはつなぎを着た若い男が座っている。
「それでは」
 カラムはおもむろに立ち上がり、スタッフを促した。現実派のスタッフたちは箱を演台のそばまで運び、覆いを取った。中には頑丈そうなケージがあり、暗緑色の皮膚をもつワニのような四足歩行の爬虫類が入っている。
「こちらの証人喚問です。ご覧の通り、ここにいる生物はアプソバです。アプソバは太古の昔よりほとんどその姿や生態を変えていない極めて珍しい生き物です。『生きた化石』という二つ名をご存知の方も多いでしょう。で、今日はキャピタル動物園よりアプソバ飼育係のヤーマン氏をお呼びしております」
 つなぎの男が議長に、ついで委員席に向かって黙礼する。
「ヤーマン氏は十年以上アプソバの専任飼育係として働いてきました。先ほどのパレス博士ほどではないにせよ、アプソバとは十分意思疎通ができると考えます」
 カラムは訴えるような目を議長へと向ける。議長は困ったような顔をして咳払いした。
「では質問を始めてください」
 ジュネリは唖然としていた。動物の証人喚問なんて馬鹿げている。いや、最初にサラサンドを呼んだのはこっちか。それにしても動物や通訳の確保、議院運営委員会への根回しなど、昨日や今日思いついてできるものではない。それに、動物に何を証言させる? 動物なんて、現実派に不利な証言をするに決まっているではないか。
「それでは」カラムが立ち、檻の中のアプソバとその隣に立つ飼育員ヤーマンに目を向ける。「アプソバはいつからメルにいますか?」
 ヤーマンが檻にかがみ込み、その眼を覗き込みながら何度か舌を鳴らす音を出す。アプソバは大きな口を瞬間的に開け、鋼鉄でできた檻の格子に噛みついた。鋭い歯が鉄格子さえ食い破るのかと思うほどの勢いだった。ヤーマンは慣れたもので、少し顔を檻から離したのみで、舌の音を出し続けた。
「アプソバはご立腹のようですね」
 カラムは牙が自分に向けられていないのをいいことに、呑気な様子だった。
「昔から、と言ってます」
 ヤーマンはポケットから餌を出してなんとかアプソバを宥めようとしていた。
「昔から、とは具体的にいつ頃からですか?」
「大昔から、だそうです」
「なるほど」カラムは資料をスクリーンに出す。「正確な年代の観念はアプソバには難しいようなので、こちらの資料をご覧ください。ボイシュ大学理学部古生物学研究室によれば、およそ三千万年前にはアプソバが現在とほぼ変わらない姿で、地上で活動していたことが判っています」
 ヤーマンは牙を剥くアプソバを檻越しに宥めていた。アプソバの分泌する粘液が飛び散り、議場の瀟洒なカーペットを汚す。
「それを踏まえて質問します。あなた方の祖先から、地上の気候変動について何か聞いていますか? 過去にメルが現在と同じか、あるいはそれ以上に寒くなったことがありますか?」
 飼育員ヤーマンは再び舌を鳴らして独特の音を出した。アプソバも似たような音でそれに応える。
「ひいじいちゃんの頃は暖かかったそうです。そのまたさらにひいじいちゃんの頃は、寒かった。ひいじいちゃんのひいじいちゃんのひいじいちゃんの頃は暖かかったと聞いています」
「お聞きの通りです、つまりおよそ三世代毎に温暖期と寒冷期を繰り返していることになります。アプソバが出産可能年齢になるまでに約十年、すなわちメルは太古の昔から、約三十年毎に温暖期と寒冷期を定期的に繰り返し経験してきたと理解できます」
 ジュネリは脚と腕を組み、自分の席からカラムを睨みつけていた。カラムはその射るような視線を意に介さず、続けた。
「この証言からも、過去三十年ほどの気温低下は周期的な気候変動の一環であり、大気中デイラーシス濃度との因果関係は……」
 急に、議場内が真っ暗になった。
 停電かと思われたが、もし停電だったら外からの光がカーテンの隙間を通ってわずかでも会議室を照らすはずである。
 ジュネリは朝目覚めたときと同じ違和感を、その頭部に覚えた。同時に周囲からあらゆる音が消える。音だけではない、部屋の温度も、風の動きも、人の気配も、すべてが暗黒に吸い込まれるようにして、消え去った。
 奈落の底に落ちるというのはこんな感覚なのだろうか。しかし落ちるといっても、重力さえ今は感じない。すべてが消えた。カラムも、議長も、ダリウスも、サラサンドも。
 世界が渦を巻いて何か巨大な力に吸い込まれる。そして溶けるように消えていく。議事堂も、首都も、大陸も、惑星も、銀河も、宇宙も。
 ジュネリの存在もただのバイナリに還る。そして彼女のために確保されていたメモリ領域も、解放された。

「だめだねこれは」
 白浜教授は渋い顔をして、シミュレーションを中止するよう指示した。井草がスクラムボタンをクリックすると、七〇〇EFLOPS七垓浮動小数点演算毎秒の性能をもつ演算ユニットをフル稼働させていた「メル」の並列サーバ群はせわしなく明滅していたアクセスランプを急にゆったりと消灯または点灯させ、コントロールルームの電流計もゼロ側に振り切れた。一般家庭の七万件ぶんの消費電力、一時間のフル稼働で三〇〇万円といわれる電気使用料は北都大学人間科学研究科社会コミュニケーション研究室に請求される手筈だ。
 白浜教授が中止を指示したのは、上手くいかないと判っているシミュレーションを、膨大な電気代をかけて継続する意味がないからだ。
「議会で動物を証人喚問するなんて、ポンコツもいいところだ」
 白浜教授はかぶりを振りながら言った。
「そうですね」
 そうですか? 私はいいと思いますけど、という言葉を井草は呑み込んで、敢えて追従した。教授の助手を務めている限り、否定的な反応はしない方がいい。意外と気分屋な白浜教授の性格を知ってから、井草はとにかく教授を刺激しないという対処法を編みだしていた。
 白浜教授の専門はコミュニケーション学である。今回、多額の使用料をつぎ込んで「メル」で行っているのは科学コミュニケーションの仮想実験だった。近年、科学的課題について議論が紛糾したり、重要な科学的問題への対処を行うにあたり、政府や専門家による信頼できる情報が信頼されず、陰謀論やデマがネットで拡散され社会に混乱をきたす事例が増えている。そこで白浜教授の研究室では、惑星社会シミュレータを「メル」上で走らせ、社会コミュニケーション学の見地から最適な行動モデルを導き出そうという検証を行ってきた。
「知ってると思うが」白浜教授は腕を組みながら言った。「民憲党の先生方からくれぐれもよろしく頼むと言われるんだよ。そうそう、文科相や副大臣を出してる会派だからね。あの人たちに動物を証人喚問しろなんて言えないだろ。そんなふざけたこと言ったら、ウチの科研費削られちゃうよ」
 それは確かに大事だ。井草も大学院に残った以上、自分の食い扶持を台無しにしようとは思わない。
「アルゴリズムを見直してもう一度やりましょうか」
 井草は提案したが、白浜教授は腕組みをほどきかけてまた組み、言った。
「いや、そんなことしたらまた何日かスパコンを稼働しなきゃいかんだろ。時間がかかればその分『メル』の使用料がかさむからね。うちの科研費から持ち出しなんだから、節約しなきゃあ」
「じゃあ、どうすればいいんですか」
 井草は内心苛立っていたが、極力それを表に出さないようにしていた。教授はこうやって、長いものに巻かれて生きてきたのだろう。これまでも、そしてこれからも。
「そうだな、条件だけ変えて何回か実行してくれ。さっさと終わらせて、アルゴリズムは見直したことにする。実験結果は私の方で適当に創作しておくから」
「はあ、じゃあ惑星の日照時間を少し変えてみます」
 釈然としない気持ちを抱えたまま、井草はモジュールに与える定数を書き換えた。更新した定義ファイルを惑星社会シミュレータに流し込み、実行コマンドをタイプする。

いつもより三十分早く設定した目覚ましが鳴り始めた。
 ジュネリ・タラはベッドから腕を伸ばしてアラームを止める。返す腕で自分の横のシーツに手を這わせるが、グーズの姿はなかった。カーテンの向こうは、まだぼんやりした薄明に沈んでいる。

文字数:10410

課題提出者一覧