ネクラ少女を更生

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梗 概

ネクラ少女を更生

夏貴(なつき)は小学六年生の男の子。学芸会を楽しみにしていた。夏貴の学校では学年ごとに劇を演じる。六年生の演目は白雪姫。夏貴は学校で一番イケているので白雪姫役を射止めた。他に立候補者がいなかったからだが、これは夏貴の舞台だと全員が理解している証左だ、もし鏡に「一番白雪姫にふさわしいのは誰だ」と聞いたら夏貴と答えるだろう、と夏貴は思っていた。
王子様役はカッコいいからという理由で春香という女になった。この学校のNo.2だ。春香はめんどくさがっていたが、彼女なら夏貴を輝かせてくれるだろう。

不安要素が一つあった。小人役の冬奈のことだ。彼女はネクラで、セリフはボソボソと元気がないし、どんくさくてミスが多い。小人とは、白雪姫が最も輝くシーンを引き立てる大事な役なのだ。そんなんでは困る。夏貴はNo.2こと春香に相談する。彼女は少し厳しい所もあるが皆から尊敬されている。本来こういう時に注意しに行く役回りのはず。だが春香は「どうでもいいでしょそんなこと」とにべもない。

夏貴は一計を案じた。体育館での練習は全視点カメラで録画している。後から各自反省できるようにと。夏貴はデータを盗み出した。クラスの”知将”秋文はプログラミングの天才。彼に頼んで動画を加工した。冬奈がキビキビと演技しているように。深度センサーのデータから立体モデルを組み上げ、修正し、レイトレーシングで写像を作り直す。声もハキハキと。
たまたまその様子を見た春香らが「本人が望んでいないなら、おこがましいことだ」と注意してきた。夏貴は耳を貸さない。

次の授業、VRゴーグルでそれぞれ自分の演技を確認する。
首をかしげる冬奈に夏貴は言う。
「お前メッチャ映(ば)えてるな」
それから、夏貴は事あるごとに加工した動画を冬奈に見せた。

冬奈の演技は徐々に変わり始めた。自分は舞台でこんなに堂々としているという勘違いが本当に彼女の胸を張らせた。声が変わった。彼女の変化は普段の生活にも及んだ。立ち振る舞いも服装も変わる。褒められる。更に良くなる。褒められる。

学芸会当日。夏貴はワクワクしている。後は自分が喝采を浴びるだけだ。
その時、春香らが夏貴を呼び出した。
「あんたに見せておこうと思って」
リハーサルでの夏貴の演技を見せられた。キョロキョロしたり立ち位置を間違えたり爪をいじったりと酷い。加工を疑ったが、その場にいた全員が否定する。「そもそも普段のお前がこんな感じだ」とも。
「あんたが最近勘違いしているからさ。冬奈を変えたとか。だから、今まで気を使ってたけどやっぱり一応教えといてあげる。客席から見て、舞台で一番みっともないのはあんただよ。がんばって」
そういうと、夏貴を残してみんなが去っていった。

自分の演技はあんなに酷いのか。白雪姫はクライマックスに差し掛かる。しかし、意識すればするほど体が動かない。声が出ない。観客席がざわめきだす。

文字数:1188

内容に関するアピール

フェイク動画と自己認識というテーマを選びました。

自分の普段の振る舞いは自分をどういう人間だと思っているかに左右されます。
それならば、フェイク動画を使って自己認識をずらしてあげれば人を変えてあげることができるでしょう。
白雪姫の鏡のメタファーもぴったりという気がします。

とはいえ、『人の性格を良くしてあげる』という考えには、かなり”いけ好かなさ”があります。
なので、最後のどんでん返しは一見怖いシーンですが、モヤモヤしていた人はスカッとしたと思います。
このシーンを活かすため、夏貴君は

  • 序盤:横柄だがコミカルで憎めない人物
  • 中盤で人の道を外れた所:徐々に周囲から嫌われて行く

という描き方にします。

自由視点映像というのは、既にスポーツ中継などで使われ始めています。将来は、体育の授業のため体育館に設備が配備されるのかな、などと想像しながら作品に取り入れました。

文字数:375

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鏡よ鏡

むしろ、学芸会を楽しみにしているのはオレではなく皆の方だろう。オレという存在を目撃し、その感動を独り占めしてはいられないと、これは隣人に分け与えられるべきだと願うのは当然に思える。祝福の日、6年生だけでなく学校中が、保護者が、来賓が、この学校で最もイケているのは誰かということを知るであろう。
イケているというのは、単に外見の話に限らない。姿勢、所作、声。それは滲み出る気品。ああ。視線を感じる。憧憬と羨望。この男の時代、この巡り合いを生涯の誇りにするがいい。そして、オレの舞台を飾る花となれ。さあ、刮目せよ。光り輝くこのお姫様を。
「まあ、なんておいしそうなリンゴでしょう」
オレの艶やかな声が体育館を支配する。人々は今、美しさという世界真理の奈落へ引き込まれるのだ。
ただ一つ心配事がある。
「あ……あぁ……」
リンゴを掲げた魔女の声が震える。口を半開きにしたまま、目がキョロキョロと宙を彷徨う。お前の番だぞ。なぜ言わない。もしや。これはまたいつものやつだ。こいつ、セリフを忘れやがった。出だしを聞いたら思い出すだろうと、オレは小さな声で「このリンゴを食べたら」と教えた。
「このリンゴを食べたら……食べたら……」
肺の上部3センチくらいしか使っていないようなか細い声。それも途切れた。続きが出てこないらしい。
「どんな願いも」と続きを教える。
「どんな、ねっねっねっ願いも?」
オレに聞くなよ。お前が持ってきたリンゴだろ。
魔女がハッとしたように両眼を見開いた。
「願いも、叶う」
そうだ、いいぞ。
「願いも叶う、毒リンゴなのです」
「お前が言っちゃダメだろ」
笑顔を崩さぬよう表情筋に防衛線を引くも、オレのこめかみにはマンガのように血筋が浮いていたことだろう。溜息と失笑が、まるで沼地に漂う紫の霧のように体育館の膝丈まで覆い、魔女がしくしくと泣き出してしまったところで、練習は中断となった。

◆◆◆

「……ツキ、……ツキ、ねえ夏貴君聞いてる?」
棘のある声を、どうせお説教なのでオレは無視しようとしたが、肩を掴まれ強引に振り向かされてしまった。
「うるせえな」
「聞こえてるなら返事してください」
「なんだよ、皴になる」
オレのためのドレスに。気安く触るな。
「あんな言い方することないでしょ? 冬奈泣いてたじゃん」
「あいつが間違えるからだろ」
オレは春香の手を振り払い、生地を丁寧に伸ばした。
「そういう問題じゃない」
春香はオレの前に回り込んだ。
「冬奈は間違えすぎだ。オレの身にもなれよ」
せっかくのハレ舞台を、なんであんな奴に台無しにされないといけないのか。白雪姫における魔女とは、白雪姫の愛くるしさを引き立てる極めて大事な役なのだ。いい加減なことしないで欲しい。
「それに春香だっていい加減うんざりしてるんだろ。そうか、だからオレに八つ当たりしてるのか」
オレは赤いマントを羽織った春香を横目で、正面に見てやる価値もないのでここは横目で見下す。
「バカ? ウチは学芸会なんてどうでもいい、ムキになるアンタがおかしい」
「どうでもいいなら、ほかっとけよ」
オレは鼻を鳴らした。
「あんなの冬奈が可哀そうでしょ」
じゃあお前が役を代われよ、と言いかけて飲み込んだ。それはまずい。オレはもう一度春香を見る。長い足、ハリのある声、柔らかな金髪。オレの王子様役として相応しい人は彼女を置いて他にない。ここでへそを曲げられてはかなわない。学芸会を、というか学校行事全般をめんどくさがっているこの不良少女なら、本当に代わると言い出しかねない。オレは話をここで打ち切ることにした。
「はいはい。謝っておきます」
「ホントでしょうね?」
「本当です。オレは今から着替えるんだ。どっかいけ。ここは男子更衣室だ」
「なんでよ」
「オレがそう決めたから。ここではオレがそう決めたらそうなの。早くご退室ください。変態」
オレは出入り口を指さす。
「うざ」
「お前こそ、その恰好で体育行く気か?」

春香を追い払ったところで、配役会議のことを思い返した。どうしてこうなったのか。
6年生全員が集められた講堂の黒板には、『白雪姫』『お妃様』『小人(怒りん坊)』『小人(食いしん坊)』などの役が並んでいた。
ゴングが鳴るとともに、目立ちたがり屋によって目立つ役が埋まり、めんどくさがり屋によってセリフの少ない役が埋まっていく。
『学校で一番カッコいいから』と囃し立てられた春香が、半ば無理矢理王子様となった。本人はかなり嫌がっていたが。
オレは自身の名前が書かれたマグネットを白雪姫の欄に貼り付けた。心の中では、まるでUNOと叫ばんばかりに叩きつけていた。雅の現神なので自重するが。
他に、我こそは白雪姫だと名乗り出る者はいなかった。学芸会とは夏貴様のステージだと、学年の全員が理解している証左だろう。鏡に一番白雪姫にふさわしいのは誰かと聞いてみたら、間違いなく夏貴と答えるはずだ。
さて、内気でどんくさい冬奈はというと、早々に埋まってしまったセリフのない役の前でオロオロしていた。もちろん、希望が被った場合は何かの方法で調整されるのだが、他人を押しのけられるような冬奈ではない。既に残っているのはカッコよくない割に忙しい役ばかり。黒板の前で、セメントの駐車場のように青白くなる冬奈を思い出す。今でも後悔している。あの時オレは、草役の奴らに枠を一つ空けろと命じるべきだったのだ。

◆◆◆

体育はゴルフだ。
クラブを持って打席に入り、頭からエドギアをかぶる。視界は一時闇に覆われ、そして朝露に濡れた草原のただなかに出る。両脇の黒い森、少し曇った空、レンガ造りのクラブハウス。ここはセントアンドリュース。寒そうだ。ピンまでの距離は、プロでもないのでいちいち気にしない。ただ飛ばすだけだ。自分の数メートル前にもう一人の自分が現れる。オレは7番アイアンを両手で握り、構える。オレの動きに合わせて、数メートル前のオレも同じように動く。呼吸を整え、クラブを振り上げる前に、もう一人のオレを注意深く観察する。いや、姿勢がおかしい。少し腰が引けている。後ろ重心になりすぎているのだ。原因は? ボールまでの距離。オレはボールと自身の間にクラブを置いた。確かに、いつもより5cmほど後ろに立っていた。クラブを基準に距離を取り直す。気を取り直してもう一度。クラブを振り上げ、ボールの横っ面をひっぱたいた。勢いよく飛び出したボールは、しかし急激に右に進路を変えていった。
もう一人のオレを巻き戻して再生する。肉体がついていると見辛いので、棒人間モードに切り替え。スローでみるとよくわかる。振り上げた瞬間に頭が上方に大きく動いている。上手い人は、スイングを通じて頭の位置が動かない。もう一人のオレの隣に、ガイドモデルを表示する。オレの体格に合わせて作られた、理想的なスイングの棒人間だ。
もう一度構える。理想の自分と現実の自分が重なるまで、クラブを振り続ける。

さすがに疲れた。
打席を出てベンチに向かう。右手にクラブ、左手にエドギア。みんな黙々と素振りを続けていた。
春香のスイングは綺麗だ。彼女のエドギアの中では、さぞかし良い球が飛んでいることだろう。冬奈の打席は更に奥。もう、一目で運動神経が悪いとわかる。この子はまだ背骨って曲げられると知らないんじゃないだろうか。冬奈と目が合う。そして慌てて逸らされる。
オレは冬奈の打席に向かった。オレの気配を感じて冬奈は、まるで机の下に隠れてジェイソンをやり過ごすかのように体を強張らせた。
「なあ、冬奈」
彼女は俯いた。
「お前、なんでセリフ覚えてないの?」
冬奈は答えず、ドライバーのグリップを両手で握りしめた。だんまりでは分からない。彼女の横顔を覗き込むと、その瞳には銃を突き付けられたような絶望が浮かんでいる。もしかして冬奈は、いつか練習での失敗についてオレが責めに来ると思い、ずっと怯えていたのだろうか。たっぷりと、おそらく十秒ほどの間を取ってから、冬奈はフルフルと首を振った。
「覚えてはいるのか」
こくりと頷く。
「覚えているけど忘れるのか」
また頷く。このネクラな少女は、舞台に上がると緊張してセリフが飛んでしまうのか。どうしたものか。冬奈は恐る恐るこちらの顔を見上げ、目が合うとすぐに逸らした。そんなに怖がるなよ。
オレは顎に手を当てる。そして、きわめて単純な解決策に気がついた。
「録音を流せばいいんじゃないか?」
冬奈が初めてオレの顔をマジマジと見た。冬奈の声を吹き込んでおき、スピーカーから音声を流す。冬奈は舞台上で身振りだけに集中する。これはナイスアイディアだ。
「どうだ、やるか?」
冬奈は困っているようだった。
「お前は身振りに集中できるし、セリフを間違えることはない。いいだろ?」
冬奈は口を半開きにしながら頷いた。そうと決まれば収録だ。放課後に集合せよ。
と、その前に、オレはさっきから気になっていた疑問をぶつけてみることにした。
「あと、一つだけ聞きたいんだが」
そもそもなぜ打席の冬奈と目があったのか。
「お前、なんでエドギア着けないんだ?」
「なんとなく」
はぐらかされた。

◆◆◆

授業後、オレは去年まで6年3組だった空き教室に冬奈を連れてきた。周囲の教室には絶対に物音を立てるなと厳命する。そして冬奈のセリフを一つずつ丁寧に収録。いや、ダメだ。台本があるので間違えることはないが、どうも恥ずかしがってしまう。そこで、同じシーンに登場する人たちを呼び出した。他の人と一緒なら恥ずかしくないだろう。お妃様が魔女に変身するシーン、お姫様との掛け合い、小人たちが魔女を谷底へ突き落すシーン。これはなかなか上手く行った。よし、練習だ。

放課後の体育館は、ボールの弾む音やシューズが床に擦れて鳴く声が駆け回っていた。幸い、舞台を使っている人は誰もいなかった。こんなところで自分の声を流さないで欲しいと訴える冬奈を無理やり舞台に引きずり上げる。
「アンタ、何してるの?」
突然舞台下から、春香の声に刺される。いたのか。春香のバスケ着を見て状況を把握する。
「うるせえな」
「冬奈が嫌がってるじゃん」
「勝手に決めるな」
要らない横やり。腹が立つ。切り替えよう。オレは立ち位置につく。体の空気を入れ替えるように、腹の底から息を吐き、もう一つ吐き、さらに絞り切ったところでそっと吸う。もうオレの世界。森の中で跳ねる小鹿が見える。木々にとまる鳥たちの囁き。小川。水面をのんびりと流れる落ち葉。そしてオレは。そしてオレは国で一番美しい人。
「まあ、なんておいしそうなリンゴでしょう……おい、演技はしろ」
冬奈はオドオドしながらリンゴを差し出す手振りをした。
『このリンゴを食べたら、どんな願いも叶うのじゃ』
抜群のタイミングで冬奈の声が流れる。
「願い事ですって」
ペンギンのように、両手を腰の位置でトの字にする。
『おぬしの胸には恋心がある』
「どうしてお分かりですの」
オレは胸に手を当て、さあ感動に打ち震えよ。これが宇宙一清らかなプリンセスの歌声だ。
「いつか~必ず~王子さ♪」
「無理でしょこれ」
眉を寄せた金髪の女。バレー用の白線。ワックスの効いた木目の床。バスケットゴール。網入り硝子。白い壁。黄色いドア。三角の天井。吊るされた電球。
「邪魔すんな」
オレの世界に入ってくるんじゃねえ。いくら自分にやる気がないとて、他人の妨害は許されない。さっさとどっか行ってくれよ。
「いや、普通にスピーカーって分かるよこれ」
「なんて?」
「ちょっとこっちで聞いてみん」
オレは舞台から飛び降りた。春香と同じ位置まで下がり、舞台袖に向かって「ちょっと一回かけてくれ」と叫ぶ。
『このリンゴを食べたら、どんな願いも叶うのじゃ』
確かに。これは絶対スピーカーの音だとわかる。どれどれ、と言いながら、お妃様や小人たちもやってくる。全員ひと並びで舞台に向かい、もう一度聞く。
『このリンゴを食べたら、どんな願いも叶うのじゃ』
「バレるな」
「な」
オレは頭を抱えるしかなかった。なぜ人間の声とスピーカーの声はこんなにもはっきり違うのか。
「音質か?」
音質なんてどうすればいい? 放送室ならマシになるのか? と、その時、背後から誰かがしゃべった。
「人間の耳は」
「うわビックリした」
オレたちが一斉に振り返ると、そこには坊ちゃん刈りの男子が立っていた。目配せで状況を確認し合う。知り合いか? いや、自分は知らない。自分も知らない。誰だこいつ。襟の付いた長袖のシャツ。半ズボン。
「人間の耳は、音の出る方向を正確に聞き分けることができます」
「そう……なのか」
坊ちゃんは人差し指を立て、それを天に掲げた。
「この体育館には合わせて30くらいのスピーカーがあります。その全てから同じ大きさで出したので、人工的な音に聞こえたのです。自然界にそんな音ありませんからね」
「ほう。どうすれば」
「ステージ返しというスピーカーがあります。そのうち一つから音が出るようにしましょう。角度もちょっと調整したほうがいい」
「やり方分かるのか?」
「はい」
「お願い……できるか」
「任されましょう」
坊ちゃんは、とても良い姿勢で舞台袖に通じるドアに向かっていった。
「いや、ちょっと待ってくれ」
「なんでしょう」
「君の名前は?」
「あきふみ。四季の秋に文章の文で秋文」
春香が聞いた。
「6年生ではないよね」
「5年です」
そうか、と呟いたら、そうですと言って、彼は再び歩き出した。

舞台袖には掃除道具入れを三つ並べたくらいの、黒くて大きな箱が置いてあった。表面は起毛素材。高そうだ。細かいスリットが無数に入っていて、そこから生暖かい風が流れ出てくる。
「これが音響システムです」
秋文は自分のエドギアを取り出すと、音響システムなる箱から伸びるケーブルを接続し、頭からかぶった。
「夏貴さんも見ますか?」
「いや、今エドギアを持っていない」
こいつ、オレの名前を知っているのか。まあ、オレは全校生徒憧れの的だからおかしくはないか。
「そこに備え付けがありますよ」
秋文が指さした先には、ちょっと古そうなヘッドマウントディスプレイがかけてあった。バンドにはEducation Gear v4と書いてある。動くのか? これ。装着する。体育館の天井に張り付いて、下を見下ろしたようなアングル。体育館の様々な場所で青い点が点滅し、そこを中心に同心円が波紋のように広がっていく。
「それがスピーカーの場所です。冬奈さんの動きに合わせて出すスピーカーを変えましょう」
突然視界が走り出し、天井から落下するかのように高度が下がる。オレは体を固めた。地面に激突する寸前で方向を水平に変え、床ギリギリを這う。まるで水面を飛ぶカモメのアングル。透視図法で三角になった体育館の床の上を滑り、画角が大きく動いて、舞台を正面にとらえる位置にとまった。オレは助かったらしい。ステージ上手から腰の曲がった棒人形が歩いてくる。棒人間の手振りに合わせ、スピーカー上の青い点たちが激しく瞬く。当初ステージ上には6から7個の点があったが、徐々に消えていき、最終的に棒人間の移動に合わせて最寄りの幾つかだけが点滅するように世界が書き換えられていった。
「今、一番近くのスピーカーから出しています。でもちょっと微妙ですね」
操作していた秋文がこぼした。
「上手く行かないのか?」
「そういうわけではないですが、この声は狭い部屋の中で録りましたね?」
空き教室で録った。
「分かるのか?」
「反響が入っています。人間は、音だけである程度部屋の大きさを見当付けられますからね」
「録り直すのめんどくさい」
「それには及びません。音声からスクリプトを起こし、冬奈さんの声紋と読み上げモデルで再音声化します」
「よく分らんが」
「聞いてみてください」
秋文がそういうと、冬奈の声が流れ始めた。
『このリンゴを食べたら、どんな願いも叶うのじゃ』
さっきとは若干違うが、間違いなく冬奈の声だ。それに、いつもの冬奈と同じ喋り方。か弱くてなんか情けない。まあ、バレないならこれでいい。いや。ふと思いついたことを聞いてみることにした。
「なあ、さっき読み上げモデルが何とかって言っていたよな」
オレが秋文のエドギアを上げると。秋文はお行儀く背筋を伸ばし、お手てを膝の上に乗せて返事をした。
「はい。読み上げモデルというのは、その人のイントネーションやリズム――」
「いや、説明されても分からん」
長そうな話を手で制する。
「でも、間違ってたら言って欲しいんだが、もしかして冬奈の声で他の人の喋り方にもできるのか?」
「もちろんできますよ」
オレに天才的な閃きが降りてきた。
「プロの声優でも?」

◆◆◆

今度こそ。
先生たちも冬奈の変貌に驚いただろう。演技はぎこちないが、セリフは明瞭で安定している。なぜって? この夏貴様と一緒に特訓したからだ。そういうことにしておこう。先生たちは本番の成功を確信したに違いない。イケているオレは、オレだけでなく脇役たちまで輝かせてしまうのだ。そしてオレは遥か道徳の高みへ。オレの劇団員たちから感謝が伝わってくる。美しさだけでなく、積み上げてきた信頼の篤さ。どんなピンチでも一番頼りになるのは夏貴様。それが学校一イケているオレという存在だ。今度こそ。万難を排したオレのステージは絶頂に近づく。
「まあ、なんておいしそうなリンゴでしょう」
『このリンゴ――』
冬奈が口パクしながら篭の赤い果実を差し出した。ところが、毒リンゴは冬奈の手のひらを転がり宙に飛び出した。お前はリンゴすら掴めないのかよ。オレは咄嗟にそのリンゴを空中でキャッチした。お姫様にしてはちょっと優雅ではないが仕方ない。ところが冬奈は右手でリンゴを追いかけたせいで左手がお留守になったのだろう、篭から残りの果物たちが転がり出た。どんだけ運動神経が悪いんだ。冬奈は黄色い果物を拾い上げようとして自分のローブの裾を踏んだ。序盤のやじろべえのように大きくバランスを崩した彼女が咄嗟に左足を踏ん張る。ところが運の悪いことに、本当に運の悪いことにそこには青い果物が。偽物なので潰れることはないが、彼女の左足は果物の上を転がり、まるで後ろから踵を掴まれて持ち上げられたように上下逆さまになると、顔面から地面に突撃した。
仰天した鹿たちが舞台袖から飛び出した。
『どんな願いも叶うのじゃ』
無意識に「やば」と口が動いてしまった。オレは、動物たちに助け起こされる魔女から、パイプ椅子で足を組む先生たちへ、恐る恐る目を向けた。

◆◆◆

怒られた。とんでもなく起こられた。
「ごめん」
冬奈に謝られるが、全然入ってきやしない。できない事を頼んだオレが悪いのだ。
「本当にごめん。ズルで済ませようとした私が悪かったの」
謝罪だけは淀みなく出てくるものだ。そういう人生だったんだなお前は。
「もういい。オレ白雪姫辞める」
こんな劇に出ても惨めなだけだ。
「待って」
待たなかった。冬奈を残してその場を去った。

その日、冬奈は残ってずっと練習していたらしい。それを聞いてもオレは、もう一度白雪姫を演じる気になれなかった。むしろ、翌朝冬奈の台本読みに付き合う春香を見て、春香が白雪姫をやればいいとさえ思った。
「夏貴、代わりな」
「なんでオレが」
「アンタが白雪姫でしょ?」
春香はオレの胸に台本を押し付けた。
「やだ。やりたくない」
オレはその手を払って自分の席に座った。
「そういう問題じゃないでしょ?」
ランドセルから筆箱を取り出すオレの机に、春香の影が落ちる。
「お前だってどうでもいいって言ってたじゃん。急にどうした?」
「冬奈は頑張って練習しているの」
春香はそういうとオレの肩を掴んだ。なんだと顔を上げると、春香は冬奈を強く指さしていた。そして「冬奈は頑張って練習しているの」と、同じことをもう一度言った。
「いい? 夏貴。これはアンタだけの学芸会じゃないの。がんばって練習して舞台に立つ全員の学芸会なの。冬奈も、頑張って、練習して、白雪姫に、出るの。だから、冬奈のために」
春香はオレの鼻先に人差し指を突き付けた。
「全員が、ちゃんと、やる、責任が、あるの。分かる?」
なんだその理屈は。
「じゃあ、春香、お前オレと一緒にケンケンパの世界大会目指そうぜ」
「はぁ?」
春香の口と鼻と目から息が全部抜けた。
「オレが死ぬ気でケンケンパに取り組むなら、お前も一緒に頑張るんだろうな」
お前が言っているのはそういうことだろ?
「御託はいいから。一緒に練習しなさい」
「練習したって……アレじゃん……」
本人の目の前で言うのは流石に憚られた。
「冬奈は下手じゃない」
「下手だとは言ってないだろ」
「言いたいんでしょ」
ここでそうだと言ったらオレが悪者じゃないか。ズルい手を使いやがる。
「わかった。こうしよう。オレがやる気出ないのは、冬奈も春香も関係ない」
オレは自分の胸を親指でつついた。
「オレは一身上の都合でやる気が出ません。悪しからず。やる気が出ない人に出せと言っても仕方ないよね」
春香は胸に当てたオレの腕を掴んだ。
「やる気出るかどうかは見てから決めて。今日の授業後に体育館に来なさい。冬奈は上手だから」
オレは冬奈を見た。椅子の上で硬直しながら瞬きだけが加速していた。そんなことを言って、それで冬奈が上手にできなかったら本人がどう思うんだ。この状況、どちらかといえば冬奈を追い詰めているのは春香ではないだろうか。逆に可哀そうになってきた。
「練習でできたってどうせ――」
「そんなことない」
冬奈の逃げ道を作ってあげようと思ったオレを遮って春香は断言した。
「見ればわかるから。来なさい。絶対に」

結局放課後、オレは体育館に連行された。
「まあ、見るのはいいんだけどさ」
舞台の前に置かれたパイプ椅子に座る。どうせ上手くできるはずがないし、万一ここでできたところで本番では。
冬奈は両肩をガチガチにしながら舞台に向かっていく。
「なあ冬奈」
オレはその背中を呼んだ。冬奈はぎこちなくと振り向いた。
「前と同じこと聞くんだけどさ」
冬奈は首をかしげる。
「お前、なんでゴルフの練習でエドギア使わないんだ?」
「それは……」
冬奈は何かを言おうとして、口の中で空気が掠れる音だけが出てきた。
「お前、昨日もここで魔女の練習してたんだろ? ここにも全視点カメラはある。録画すれば自分の演技をエドギアで再生して確認できただろ。どうしてやらないの?」
冬奈は泣く寸前だった。
「怖いの? 自分を見るのが」
冬奈は首を振る。
「見ないと上達しないだろ」
冬奈は深く息を吸い、それを吐き出してからもう一度浅く息を吸った。そして言った。
「見ると、おかしくなっちゃうから」
オレはなんと返せばいいのか迷い、お前も何か言えという視線を春香に送った。春香が言った。
「意識すると、余計上手く行かなくなる子もいるのよ」
適当に流そうとする彼女を見て、オレは事情を察した。多分、春香もエドギアで自分の演技を確認するよう促したのだろう。だが、冬奈は頑なにそれを拒否したのだ。
「正直オレは、今ここで冬奈が上手かどうかなんてどうでもいい。これから練習すれば上達するから。でも、冬奈がエドギアを使わないことについては、上達する気さえないと判断する」
長い沈黙が流れた。それを嫌がってオレは立ち上がった。
「帰る。無駄だから」
悪いのは春香だ。別に、冬奈だって上手くなりたいなんて思っていないんだろう。無理矢理嫌な思いをさせて、可哀そうに。オレがここを去った後で、冬奈は春香に打ち明けるだろう。実は、本当はもう嫌でした。もうやりたくありません。と。
それを聞いたら春香はどうするか。実は白雪姫という演目において、魔女と王子様の登場シーンは被らない。春香が本当に冬奈のことを思うなら、彼女にできることはある。
「待って!」
それは、今まで聞いた中で一番大きな冬奈の声だった。
「分かった。見るから。録画して」
振り向くと、言ってしまってから後悔したような、視線を床に彷徨わせる冬奈がいた。
全視点カメラが起動される。照明がセットされ舞台にはお妃様が一人。お妃様が呪文を唱えると煙が上がり、老女に変わる。

後悔しているのはオレの方だった。冬奈の演技は下手だった。チューブから出たワサビのように芯のない声、アサガオの定点カメラのような間怠っこしい手足。全てが演劇に向いていない。これを自分でみたら猶更ダメになるというのは本当だろう。だが、冬奈がそういってしまった以上、もう彼女に見せないという選択肢はない。オレは途方に暮れた。これをどうしたらいいんだ。
春香が白雪姫になり、リンゴのくだりに入る。気付いたときにオレは、傍らにいた人に「5年の秋文を呼んで来てくれ」と言ってしまっていた。

冬奈の出番が全て終わったところで、秋文に全視点カメラのデータを渡し、冬奈をカッコ良くしてくれと頼んだ。
「まず深度センサーから立体モデルをくみ上げ、自然な動作に改変します。自然というのは滑らかということでしょう。ナビエストークスの応用で行けそうですね。いや、これだとナチュラルすぎました。演劇なのでメリハリがあった方がいい。イージング関数にかけます。これでどうでしょう」
秋文が出した棒人間のアニメーションを見て、オレは言う。
「もう少し背筋を伸ばしてくれ」
「魔女はご老人ですよ」
「いい」
秋文は言ったとおりにした。
「冬奈さんの動きの変更に合わせて周囲の人物の動きも修正しなければいけません。巨大なテンソル演算になります」
「よくわからんが頼む」
「後はレンダリングすれば終わりです。普通のレイトレーシングエンジンで良いでしょう」
「声も頼む。前回と同じように、カッコ良くしてくれ」
「分かりました」
オレは舞台の隅で体操座りをする冬奈を見た。既に落ち込んでいるようだ。もう死んだ方がましとでも思っていそうである。そんな彼女の救いになるなら、このくらいの嘘は許されるだろう。
「終わりました」
「ありがとう。助かった」
オレはそのデータを手に、冬奈のもとに向かった。

冬奈がエドギアをかぶる。何もかもを諦めたのだろう冬奈は、まるでシンバルのサルのように意思のない表情で、躊躇なくエドギアに頭を突っ込んだ。ひょっとして、中で目をつぶっていればいいという当たり前のことに気付いたか。
春香は機械に覆われた冬奈の顔をじっと見ていた。他の役たちも心配そうに彼女を見つめる。オレは偽造がバレるのではないかとヒヤヒヤしていた。
冬奈は首を傾げた。さすがに気付くか? だが、少しして彼女の顔が緩み始めた。そして小さな声でいった。
「これが……私?」

◆◆◆

事情を知った春香はご立腹だった。
「あんなのおかしいでしょ?」
「結果オーライだろ」
冬奈が映像の改竄に気付いた様子はない。
「嘘ついてるじゃん」
「お前だって、冬奈に本物の動画を見せないようにしてたんだろ」
「見せないのと嘘の動画見せるのは全然違うでしょ」
春香はオレを睨みつけて言った。
「同じだろ。人間の視覚はありのままを見てるわけじゃないらしいぞ」
「何の話?」
「て、秋文が言ってた。それに、お前だって『冬奈は上手』とか嘘言ってたよな」
「それは、本人が自信を持てるようにそう言ったんであって」
「自身なら出てたぞ」
春香は渋い顔をした。
あれから、冬奈はもう一度練習したいと言い出した。舞台に昇った冬奈は、これまでになくどこか楽しそうだった。
「本人のためだ」
オレはそう言い残してその場を辞した。

それ以来、オレは練習の度に全視点カメラで録画し、それを改竄した動画を冬奈に見せた。それだけのことで、冬奈は徐々に変わり始めた。まずなにより冬奈の声量が少しずつ大きくなった。お腹を存分に使い、竹刀で床を叩いたような開けた声。両手を大きく使うようになり華やかさすら出ている。止めるところと動かすところのメリハリもある。
自分の中のリズムが出てきたのか、掛け合いのテンポも心地よい。

◆◆◆

「まあ、なんておいしそうなリンゴでしょう」
「これは、恋が叶うリンゴじゃ」
冬奈がセリフを間違えた。本来は「このリンゴを食べたら、どんな願いも叶うのじゃ」「願い事ですって」に対して「これは願いが叶うリンゴじゃ」である。一つ飛ばしたのだ。
「恋ですって?」
オレは即興で合わせる。
「おぬしの胸には恋心が宿っておる」
冬奈は自信満々の笑みでオレの胸をつついた。台本に合流できたようだ。これまでの冬奈であれば、一度間違えればガタガタになってしてしまう。だが、今日の冬奈は違う。少々のミスはあるが、気にせず堂々と続けてくれるので周りがカバーできる。その後もスムーズに演じあげ、無事崖に突き落とされた。これなら大丈夫。王子様の白馬の上で、オレは早くも本番の成功を確信していた。

幕が下りた瞬間、全員が冬奈に駆け寄り歓喜した。彼女は堂々としていた。6年生全員の視線を吸い込み、ライチョウのように胸を張る彼女は今、この学校で一番頼もしかったかもしれない。

◆◆◆

翌朝、教室のドアが開いたときオレは驚いた。なぜなら、ドアを開けた人物である冬奈が室内に向かって「おはよう」と言ったからだ。未だかつて、冬奈が大声で不特定多数にあいさつなどしたことがあっただろうか。冬奈は堂々と教室の中央を歩いて自席に向かう。
彼女の黒いスカートには白い逆十字があしらわれており、重ね着にしたオーバーサイズのTシャツの胸には、有刺鉄線でハートマークを雁字搦めにした絵の上に、ブラックレターフォントで何か難しそうなことが書いてある。
「やっぱり似合うじゃん」
春香が言った。やっぱりということは、春香は冬奈がこういう服を着てくることを知っていたのだろうか。一緒にお買い物にいったのか。
「あんまり学校に着て来たくはないんだけどね」
冬奈ははにかむでもなくあけっぴろげに言った。この口ぶりからは、冬奈はもともとこの服を所持していたように聞こえる。
「冬奈のおばさん、いい人だったね」
誰かが言った。なるほど。みんなで冬奈の家に遊びに行ったのか。そこで冬奈の普段着を見て、学校に着てこいと囃し立てたのだろうと予想できる。
「ミカは昨日、雨降る前に帰れた?」
冬奈が普通に世間話している! どういう世界の変容だろうか。
「アケミは前、お姉ちゃんの傘壊して怒られたって言ってたじゃん。あれどうなったの?」
冬奈が会話を回しだした! もう、クラスの中心人物ではないか。なんという成長。男子三日会わねばとはいうが。

◆◆◆

「春香っていいよね。運動もできて」
冬奈がそういったのは、さっき体育館で見た春香のことを思い出したからだろう。オレには、冬奈が自分から雑談を仕掛けてきたことに驚かざるを得ないが。
「お前もやったらいいじゃん」
「それが出来たらねぇ」
急に自信をつけた冬奈だが、スポーツが苦手ということについては忘れられていないようだ。
「できたら何するんだ? 野球、ゴルフ、サッカー」
「バスケでしょ。春香といえば」
「ふーん」
適当にあしらいつつ、考えてみれば結構簡単な話ではないかと思い始めた。エドギアを付けさせて、その中で彼女が活躍しているように見せればいいのだ。

オレは早速実行した。数人のサクラを体育館に集める。適当に冬奈に抜かれたふりをしろ。シュートは止めるな。ボールはどこへ飛んでもゴールに入ったように映像加工する。だからそれなりのリアクションをしろ。
リハーサルを終えたところで冬奈を呼び出す。
ところがその段になって、致命的な計画ミスが発覚した。なんと秋文氏が風邪をひいて学校を休んでいたというのだ。
「どうする気?」
春香がオレの耳元でささやく。声が怖い。
「とりあえず何とかしろ」
こうなってはそれしか言えない。
冬奈は意気揚々とドリブルを開始した。彼女はボールをつくということが上手にできないようで、彼女の手の平から放たれたボールは全く違う場所に戻ってくる。サクラたちは、その奇矯なボール運びに翻弄されたように、次々にバランスを崩し、背中を取られて行く。演技をする。
5人を抜いたところで、冬奈はボールを掲げ左手を添た。ゴールを睨みつける。お前の筋力なら両手で投げた方がまだ可能性あるのではないかという気はした。かわされた女子も素早く帰陣し冬奈とゴールの間に入りブロックを試みる雰囲気を出す。冬奈は左右にステップを踏み壁をかいくぐる。冬奈がバスケのルールを理解しているのか怪しいが、彼女は華麗に相対するスモールフォワードとの間に1歩の空間を作り、ボールを宙に投げ上げた。しかしそこで足がもつれ、後方にひっくり返る。ボールは明後日の方向へ。冬奈はそのまま転がり、体が巻きずしのように折りたたまれる。
その瞬間、春香が走り出す。ボールが地面に落ちる寸前でそれを収める。体を精いっぱい捩じり、片手で掬い上げるようにゴールに投げる。体の勢いを殺し切れず、壁に激突する春香。それでも何とかボールはゴールに向かっていく。いい軌道だ。
自身の下半身の下敷きになった冬奈の頭が、もぞもぞと這い出して来る。オレはその頭をぴしゃりと叩いた。そしてゴールを指さす。
「見ろ!」
ボールはリングの端に当たり、その上をくるくると周回した後、輪の中を通り抜けた。
「ナイス!」
オレは冬奈が考える隙を作らぬよう、即座に場を盛り上げる。サクラたちも冬奈を取り囲み、助け起こす。冬奈は求められるままハイタッチに応じていく。
オレは壁の下で伸びている春香と目配せし、小さなため息をついた。

◆◆◆

帰り道、春香はオレの腕を掴んだ。自分にはこんな才能もあったのかとぼやく冬奈から十分に離してこういった。
「やっぱりこんなん間違ってるでしょ」
「今更なんだよ」
上手く行ってるんだ。まぜっかえしてくれるな。
「ネクラな子が明るくなって友達ができて好きな服着てこれて、幸せだろ。何が悪いんだ」
「なんて横柄なの」
春香は顔をゆがめた。
「それで、冬奈が気付いたときどうするの?」
「そん時はそん時だ」
「傷つくの分かるでしょ」
春香は更に語気を強める。
「そうかもな」
「そうかもじゃなくて絶対にそう。アンタだって同じでしょ? 自分が周りからずっと気を使われていたって気付いたら」
「バカバカしい」
オレとあのネクラ少女は生きてるステージが違うだろ。オレのようなスターが気を使われるのは当然だし、あんな見てて不安になる子だって、そりゃ気も使われるさ。そんなことで勝手に傷つく方が勝手すぎる。
「バカバカしくない。アンタだって傷つくの。他人事だと思わないで」
「傷つきません」
オレは完全に足を止めていた。
「言ったね?」
「とにかく。こうやってバレないようにやり過ごすんだ」
この時オレと春香は、お互いの言葉に言い返すことに必死で気付いていなかったのだ。すぐ後ろに冬奈が来ていたことに。
「何がバレるって?」
背筋が凍った。
「私のことだよね」
オレは恐る恐る振り向いた。冬奈は遠い目をしていた。
「まあ、もちろん気付いていたけどね」
「あの、ことか? バスケの」
胸筋が緊張して声が上手く出てこない。
「そんなわけないでしょ。学芸会の練習だよ」
「そ、そうか」
オレは春香を見た。春香は眉をしかめて黙っている。
「やっぱり私、本物の映像、見てみようかな」
「なんで? そんなことを」
「だって気になるよ。本当の自分がどんな感じなのか」
「やめろ」
オレは振り向き冬奈の両肩を掴んだ。
「見なくていい。お前の演技は素晴らしい。いいな」
「そういわれるとますます気になるよ」
オレは冬奈の顔の中に表情を探した。怒りも笑みも何もない。近しいものを言えば職員室に帰っちゃった先生の顔。何もないことが怖かった。
「おい、春香も何か言えよ」
「本人が見たいって言ってるんだから見ればいいじゃん」
「じゃ、明日見てみよ」
冬奈は少し弾んだ声で言った。
「やめろって」
オレは冬奈の肩をゆすった。
「せめて学芸会までは見るな」
そこに口を挟んだのは春香。
「夏貴さ、結局自分の事しか考えてないんだね。自分が主役の舞台が上手く行けばそれでいいって。よく分かったよ」
「そんなわけないだろ」
精いっぱい出した大きな声は、しかし春香には全く効いていなかった。それでも続ける。
「オレは、冬奈が学芸会を上手にできるように、頑張って練習した冬奈が報われるように、それだけで言ってるんだ分かるだろ見ればわかるだろオレの役の事は今関係ない冬奈のためだ分かるだろ?」
春香は「ふうん」というだけでそっけなかった。対して冬奈は、殺人ピエロのように口端をニッと釣り上げた。
「夏貴君わぁ、そんんなに私のために頑張ってくれてるんだ」
『ん』の所でわざわざ両目をぎゅっとつぶる妖艶な冬奈。誰だお前は。その不気味さに一歩後ずさった。目の迫力に、頷かされてしまう。
「私が学芸会で素敵な演技をする所を見たい?」
「ん、まあ」
「それは私のため?」
「そういっただろ」
「じゃあ、映像を見るかどうかは私が決めさせて」
冬奈の両眼から蛇の大群が飛び出してきたかのようにオレの体を縛り付ける。何も言えない。体を動かせない。そして冬奈は、春香の耳に口を寄せ、手で隠し、何かを呟いた。
春香はハッと目を見開き『お前マジか』とだけ言った。

◆◆◆

学芸会当日。色々あったがオレは安心していた。相変わらずオレはイケているし、リハーサルの冬奈は良かった。
とその時、空き教室に呼び出された。部屋には春香と二人きり。こんな不思議そうな顔をしている春香も初めて見た。
「これを見て欲しい」
春香のエドギアが押し付けられる。
「つけて」
オレは事情が掴めないながらも言われた通りにする。
流れ始めたのはいつもの体育館の風景。組まれた白雪姫のセット。お城の窓から顔を出したのはオレだ。
「なんだこれは」
「昨日のリハーサル」
王子様との最初の出会い、お妃様からの逃走、小人たちと生活、そして魔女との対峙。
「嘘だろ」
オレはそういうしかなかった。映像の中のオレはキョロキョロしたり立ち位置を間違えたり酷い。姿勢が悪く音痴。時々爪をいじっているのも目障りだ。
「嘘じゃない」
「加工だ」
「加工でもない。アンタの演技はいつもそう。というか、そもそも普段のアンタがこんな感じ。今まで気を使ってたけどやっぱり一応教えといてあげる。客席から見て、舞台で一番みっともないのはあんただよ。がんばって」
そういうと、春香は空き教室を出て行った。

自分の演技はあんなに酷いのか。いやそんなはずはない。ソロが近づく。しかし、意識すればするほど体が動かない。オレは普段、どうやって手を動かしていたんだ? 声が出ない。非常事態を察した観客席がざわめきだす。歌詞が、歌詞が出てこない!
何とかリンゴを食べ、棺に飛び込む。心臓がうるさい。寒いのに汗が止まらない。

白雪姫はクライマックスに近づく。魔女に襲い掛かる小人たち。崖に追いつめられた魔女。ところが、魔女は飛び掛かった小人をかわすと、その背中に体当たりした。何をしているんだ冬奈。落ちていく小人。もう一人、さらにもう一人と小人をなぎ倒していく魔女。ついに小人はいなくなった。なんだ。何が起こっているんだ。

そこへ、金髪の麗しい王子が現れた。王子は小人に導かれて白雪姫にキスをするはずではないか。小人はもう皆やられたぞ。王子は魔女の正面に立った。魔女はローブのフードを下ろす。赤い紙ヤスリのようにザラザラとした煌めきを湛えた魔女の目。王子は魔女、つまり美しい妃の腰にゆっくりと手を回すと「綺麗だ」と呟いた。二人の唇が近づき、照明がそっと落ちる。

観客席の緊張が、徐々に興奮に変わっていく。続行される芝居。王子と白馬と魔女と城。拍手のさざ波。オレは衆人環視の棺の中でじっとしているしかなかった。

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