梗 概
現出する過去
「9.11はなかったんだ、ダン。なぜなら、ワールドトレードセンターなんてものは最初からなかったんだから。9.11がなかったから、イラク戦争やアフガン戦争もなかった。戦争がなかったんだから、おじさんは戦争から帰ってきてフェンタニル中毒になることもなってるはずもなく、この街の製鉄所で働いている……」
ギルは夢を見るような様子で続けていたが、ようやくピントがあったように俺を見つめる。
もちろん、9.11はあった。ワールドトレードセンターはある時点まではあったし、イラクもアフガンもあった。戦争から帰ってきた大人たちはまだ軍の病院に通っているものや酒や薬浸りのものもいる。製鉄所はとうの昔に閉鎖されており、残るのは廃墟や看板ぐらい。
ダンは組合事務所でストライキを計画していたのだが、ギルはそこに二人が働く巨大倉庫の親会社が従業員の労働意欲改善の実験のために貸し出した特殊なヘッドセットを持ってきた。通常のヘッドセットと異なり、映像を映すだけでなく、映像をAIチップによって一部が改変され、非侵襲的な脳刺激によって現実にはあり得ないようなことを現実であるかのように実感させる機能がついている。見える映像は選べず、つける人によってチップが見せる光景は異なるが、ギルが見たのは9.11が起こらなかったアメリカだった。
組合事務所にいる面々はそれを試し、それぞれが様々な光景を見るが、ダンがつけても何も風景は変わらなかった。
ダンはギルに実験への参加をやめるように勧め、ギルは数日間ヘッドセットをつけずに生活を続けるが、父親が倒れたのを機にヘッドセットを再びつけて生活をするようになる。ギルはヘッドセットをつけ続ける限り、楽しそうに生活をしているが、ダンはギルとまともに会話はできなくなる。ヘッドセットのバージョンアップにより、似たような光景を見ている人達の幻想を同調させる機能がつき、ギルはギルと似たような光景を見ているヘッドセットをつけた同僚とつるむようになった。
実験は終了し、ヘッドセットはそのまま実験参加者のものになった。彼らはもうずっとそれをつけている。ヘッドセットは市販され、道行く人の多くがそれをつけるようになり、薬物中毒者もいなくなった。
ダンは誰もいなくなった組合事務所の小屋の中でヘッドセットをつける。ギルやかつて組合事務所にきてた人々がドアを開け、組合事務所に戻ってきて口々に来月に行う予定のストライキの打ち合わせにやってくる。ストライキの相談をしながら日々の仕事を進めるのはギルにとって素晴らしい日々だった。ストライキ当日に皆の演説をしようとした瞬間にダンのヘッドセットは壊れ、目の前にいる人々はすべて消え去った。ダンは幻影であることに気づいてはいたが、あまりにヘッドセットの見える光景は心地よく、それを外して、現実を確認するのが怖かったのだ。ダンは泣き崩れ、ヘッドセットを地面に叩きつつけ壊す。彼は泣きながらもヘッドセットをつけていない人を探し出すために歩き出した。
文字数:1242
内容に関するアピール
嘘という言葉から連想したのは二つのことでした。
一つは猫シCorp.の『NEWS AT 11』に関する批評です。
「猫シCorp.の作品『NEWS AT 11』は、あの9月11日の朝のニュース番組のサンプリングから始まる。しかし、ニュースは不吉な事件を告げようとする直前、唐突に心地よいムード音楽のサンプリングが割って入る。まるであんなトラウマ的な出来事など起こらなかったかのように――。『NEWS AT 11』は、9.11以降私たちが未来を決定的に失ってしまったことを暗示する。」
https://gendai.media/articles/-/59738?page=2より
もう一つはラマチャンドランの著作に出てくるカプクラ症候群に関する話です。この症状では、直接会った近親者をニセモノだと感じるようになるが、電話越しだと普通に近親者を認識します。これをラマチャンドランは視覚系と感情にかかわる辺縁系の間に損傷が起こることによって生じるのだと推測しています。
脳は処理される情報から妥当な処理結果を出すわけですが、結合されるべき情報が処理されてないと誤った結果を処理してしまいます。
それらのネタをもとにうんうんうなって絞りだしたのが、こちらになります。
ノスタルジーに耽溺するギルと未来を見ようとするダンを対比するように書けたらと思います。
文字数:560