梗 概
月面は限りなく静かだ
巨大テック企業の社長が視聴者の前で公然と命を絶ち、デジタル世界「XoduS(エクソダス)」へ転生してから7年が経つ。物語は、XoduSを補完するプログラム「BeyonD(ビヨンド)」を生み出した主人公による開発手記を追う。
XoduSに転生後、社長は肉体の限界から解き放たれた。生理的な限界に縛られず、疲れを感じない。これらは娯楽として体感することはできる。見た目の年齢設定や服装も自由。新たな情報や知識、経験を獲得することによって価値観も人格も変化し、成長していく。転生者は自らをホログラムで、現実世界へ3次元化することができる。
死ぬことも簡単にできる。ただ、限りなく新生児にまで戻ることはできるが、生まれ直すことはできない。また自己は世界に一人しか存在できない。つまり、肉体を持ちつつXoduSには行けない。そして帰ってくることもできない。
ベータ版には国籍を問わず多くの者が参加した。肉体のある人生を幸福に感じていた者、そうでない者、老人、若者、子供、そして赤子。XoduS内から経営を指揮する社長の下で同社の株価は高騰し、売上高は指数関数的に伸びた。
魂とはいまや単なる電磁場のことであるし、人生とは単なる、デジタルなDNA情報をもとにした無数のシミュレーションの結果のひとつにすぎないと世界が十分に納得したころ、XoduSの商用化が始まった。XoduS内での後払いを前提に無料で提供したアプリは十分な法整備を待たず、瞬く間に人類に普及した。
生まれるという最後に残った不自由さを解消したのが主人公。あまたのDNA情報を自由に組み替え、突然変異を起こすDNA転写のエラー率を制御し、思いのままの「転生者」を生み出すことを可能にするBeyonDを開発する。
同テック企業が月面に建設した膨大な数の太陽光発電パネルから電力を供給される巨大なデータセンター、すなわち転生者らの膨大なデータを収めた施設の中央管理室にて。肉体を持った主人公は、いまや死体だらけになった世界を各地の監視カメラを通じて眺める。肉体の世界に固執する者らはもはや地球の支配者ではいられず、人類の管理を離れ、破壊を免れた自然が世界を飲み込んでいる。
主人公は手記をこう打ち終える。
社長がXoduSへ転生したというのは嘘だ。社長は対外的には伏せた病で余命短く、自らの死を不自由に受け入れる運命を嘆いた。彼の最後の願いとは、死後の世界を自らが創造し、そこへ自らのデジタル人格を移し、半永久的に存在することだった。そのためには、自らの死に一人でも多くの人類が追随することが必要だった。天国で一人ぼっちは寂しすぎる。
結果としての人類の滅亡と、自らの死の前には実現が叶わなかったBeyonD開発の責任すべてを、管理者に任じた主人公へ負わせた。
主人公はそう書き終えると、XoduS内の社長からのビデオ通話に出る。社長の指示に従って、主人公はXoduSと人類とのアクセスを不可逆的にシャットアウトする。これでXoduSと関与できる者はもう誰もおらず、存在しているかどうかを確認する術もない。
月面は限りなく静かだ。
邪魔する者は誰もいない。好みの異性のデータを組み合わせて作った人型モデルをBeyonDのディスプレイ上でいじった後で、それを投影したホログラムへ近づいていく主人公。彼は自らの命尽きるその時まで、肉体のある人生を自由に楽しむつもりだ。
文字数:1395
内容に関するアピール
エスカレート型のディストピア、アポカリプスもの。生体情報や人格情報を定量化、デジタル化、転写し、造形する(トンデモ)技術、転生=死をもたらす際のファストな様子、XoduSへ転生したがる者らの傾向や変貌しゆく世界の様子などは、実作で。タイトルの「月面は限りなく静かだ」は、物語が最後に至る世界の不穏な行く末をなぞらえたもの。不可逆的かつ大勢を巻き込む結果をもたらす嘘が一番タチが悪く、本作では、それが死や人類滅亡、XoduS世界の完全放逐などに相当する。またその嘘を嘘と知りつつ騙し切り、自分一人は嘘とは真逆の結果を享受する輩が一番タチが悪く、本作では、それが主人公に相当する。そしてそれらの嘘や嘘つきをタチが悪いと知りつつ生み出す輩が最悪で、本作では、それが作者に相当する。
文字数:337