梗 概
共喰
冷蔵庫を開けて今日の献立を考える。胸肉、もも肉、腕肉、尻肉、胃、肝臓、指、目。すべての肉は綺麗に切り分けられてタッパーに入っている。私は大腿骨でとった出汁に血を混ぜたスープで指を茹でる。尻肉はまだ新鮮だから皮膚の粉末だけをかけてさっと焼く。皿に並べた肉を、特に味わうことなく胃のなかへと詰めていく。
人間なのに人間しか食べられない私は普通を装って生きている。父と母も人間からしか栄養を摂れない身体だけど、私たちは生身の人間は食べない。私の家が代々、小さなクローンドナー製作所を営んでいるのは、誰かを殺さずに生きるためだ。
クローンドナーは法律上、物であって命ではない。部品として脳以外の身体を予め複製し、契約者の非常時の命を守る役目を担っている。私たち家族は一食摂れば半月は空腹をしのぐことができるから、クローンドナーを使うことなく契約者が死んだときに出るおこぼれに与って飢えを凌いでいた。
私は同僚に無理矢理誘われた合コンをトイレで吐いてやり過ごした帰り道、彼氏に家から追い出された律と知り合う。律の身体には痣があった。律に頼まれ、私は彼女を一晩だけ家に泊めることになる。
しばらく経っても律は帰らず、すっかり私の家に居ついていた。
冷蔵庫が心配だったけど、開けないよう言い含めていたし鍵もかけていた。律は不思議がったが、居候なのでそれ以上の詮索はしなかった。だから私も無職の律がたまの夜にふらりと出かけて金を握って帰ってくることや、時折震えて泣いていることを詮索しなかった。
ある日、律が自分の通販の荷物と勘違いして実家から送られてきた荷物を開けてしまい、私が人肉食であることがばれる。普通を装うことに疲れていた私は諦めて全ての事情を話す。ぜんぶ終わりだと思ったけれど、律はクローンドナーのおかげで両親が死んだ事故から自分だけ生き延びた過去を私に話した。
「あたしもあなたもクローンドナーに救われてる」
律はこのことを他言しないと言った。誰かと食べる食事は本当に美味しかった。
ある朝起きると、両親の製作所がクローンドナーの不正な横流しで摘発されていた。ショックだった。さらに食料がなくなることが問題だった。
両親の逮捕は尾ひれがついてすぐに広まった。私は居づらくなって仕事を辞めた。
私は律と暮らしながら、たまの夜に知らない男と寝て金を貰う。金はあってもご飯は食べられなかった。飢えは徐々に限界に近づいていた。
律を見つけ出した元彼が怒り狂って家にやってきた。律の思いつきで、私たちは彼を殺す。抵抗された際に律は刺されていた。律は自分を食べるよう私に言った。やっとあのとき助かった意味が見つかったと、律は静かに息を引き取った。
胸肉、もも肉、腕肉、尻肉、胃、肝臓、指、目、脳。私は今日の献立を考える。
食べることは生きることであり、殺すことだ。
そのことを忘れないよう、私は静かに両手を合わせる。
文字数:1200
内容に関するアピール
前にもなんとなく書いた気がしますが、多様性というのはけっきょくこれまで引かれていた線を少しだけ遠くにまで引き直すことでしかなくて、もちろんそのこと自体は素晴らしいことなのだけど、あまねくすべてを都合よく救ってはくれません。
”普通”という嘘を吐き続けながら、異物である自分を抱えて生きることはけっこう苦しい。
そんな「私」を救うのは、ありきたりかもしれないけれど「あなたのままでいいんだよ」と受け入れてくれるたった1つの何気ない体温なのかなと感じます。
律がいたという事実が、綱渡りのような危うい世界のなかで「私」を生かす力になれば嬉しいです。
余談ですが、タイトルは「同族食らい」と「ともに食べること」を重ねています。
文字数:307
彼女
包丁を握っている。刃を押し付け自分の皮膚を裂いていく。足跡みたいに、肌の裂け目に重油のような黒い粒が浮く。線になる。黒い血が肌を伝う。噴き出す。勢いが増していく。皮膚がめくれる。肉が溢れ、骨が毀れる。どれもこれも黒かった。罪にまみれていた。私は私という生き物の穢れに恐れおののく。不気味さに震え上がる。そして目が覚める。枕元のスマホから、今日という日を祝福するベルの音が鳴っている。
1
二度寝、三度寝と怠惰な休日を貪る私を起こしたのは、宅配便のお兄さんが鳴らすインターホンの音だった。鍵を開けた私は、マンションのエントランスから部屋の玄関までお兄さんが上がってくる僅かな時間のうちに寝癖を直して顔を洗う。寝すぎて腫れた目は黒縁めがねをかけて誤魔化しておく。
玄関の扉を開けると冬の鋭い冷気が流れ込んでくる。私は寝間着のままで、何か一枚羽織っておけばよかったと、ほんの少し後悔をした。
「寒いなかご苦労様です」
お兄さんの変わらない笑顔に、私は安堵と後ろめたさを感じる。自分が何を運ばされているのかを知らない彼はあまりに不憫だ。
荷物は母からだった。お兄さんが立ち去ったあと、静かに閉めた扉に鍵をかけて、荷物を抱えたまま玄関に座り込む。何度経験してもこの瞬間は緊張してしまう。私はまだ少し冷たい荷物に身体を寄せながら、ゆっくり深く息を吐いて呼吸を整えた。
荷物の中身は肉だ。切り分けられた肉が部位ごとに、大小さまざまなタッパーへと詰められている。胸肉、もも肉、腕肉、尻肉、肝臓、小腸、胃、指、目。今回はいつもより量も品目も多いから、金持ちの契約者が死んだのかもしれない。
荷物の中身は人間の――より正確に言えば、人間のクローンの肉だ。
母が看護師として働いているクローンドナー製作所は、文字通り移植用途の複製人体を製造し管理するために全国に作られた施設のうちの一つだ。
契約者は医療機関の審査通過後、自分の細胞でクローンドナーを作る。複製するのは臓器単位から脳を除く全身までを選択可能で、その内容に応じた月々の維持管理費を支払うことで万が一の病気や怪我に備えることができる。もし大きな病気や怪我をしないまま一生を終えても、死亡をもって満了となり、規定の満了返還金が遺族に支払われるから、仕組み自体は保険とよく似ている。
このクローンドナーの登場は、拒絶反応やドナーの順番待ちという長らく移植手術につきまとっていた課題を克服した。高額すぎる維持管理費は医療格差を拡大しているという批判や、クローンに対するそもそもの倫理問題もいまだに存在しているけれど、クローンドナーは世界中でたくさんの命を救っているし、私にとっては別の意味でかけがえのないものでもある。
私は人間の肉からしか栄養を摂ることができない。
理由は分からない。けれど実際、普通の食事をすると何を食べても吐き気がするし、強引に胃へと詰め込めば翌日必ず体調を崩す。分かるのは、私が異常だということだけだ。だからこうして、母が罪滅ぼしとして送ってきてくれる廃品で飢えを凌ぎ、命を繋いでいる。
母はたぶん私を産んでしまったことを後悔している。私だってこんなふうに産まれてしまったことを心の底から嫌悪している。
だけどそんな気持ちとは裏腹に、生きている限り食べることからは逃れられない。腹の虫が図々しく鳴いた。
普通の人間と違って、私は毎日の食事を必要としない。だいたい週に一度食事をすれば、しばらくは水だけで健やかに過ごすことができる。けれどその代償に飢餓は地獄だ。人が近くにいればよだれが止まらなくなり、胃酸だけが分泌されるせいでお腹に激痛が走る。小学二年のとき、母が与えてくれた人肉を隠れて捨てていた私は壮絶な飢えに苛まれた結果、クラスメイトに噛みついた。我に返ったときには私の口は血まみれで、噛まれた子はこの世の終わりのように泣き叫んでいた。以来、私は食事を拒むのを止めた。
私は包丁の代わりにフライパンを握って、皮膚を剥がされ爪を抜かれた指を焼いた。焼いた指を直接箸でつまんで口へ運んだ。考えることを止め、ただそれを繰り返す。噛みちぎり、呑み込み、私という袋のなかに黒く濁った罪を詰め込んでいく。
本当は吐き出してしまいたい。喉を引き裂き、お腹を抉り、私の罪をすべて曝け出してしまいたい。けれど私の身体は、誰かの血と肉で潤いを得て喜んでいる。心では死にたいと思っているはずなのに、身体は卑しくも生きることを望んでいる。
なんて浅ましいのだろう。
今日の肉はいつもより、ほんの少しだけしょっぱい気がした。
†
夜、私は公園の公衆トイレで吐いていた。地面につけた膝が冷たい。気分は悪かったけど、別に体調が悪いわけではない。吐かなければいけないから吐いていた。サラダ。生ハム。サーモン。パスタ。エビ。どれも呑みこんだ状態のまま、白ワインの混ざった胃液にまみれて便器のなかで浮かんでいる。
私は仕事の帰り際、コールセンターの同僚である斎藤さんに捕まって合コンへと連れて行かれた。斎藤さんというのは、いわゆるハイスぺ男との結婚に燃える私の一つ上の先輩で、何かと私に構ってくる、よく言えば面倒見のいい人だ。
とはいえ私は、斎藤さんが私のためとセッティングした合コンには興味がなかった。どうやって食事をせずにこの場を切り抜けようかということで頭がいっぱいだった。
けれど何を飲むかと訊かれて水と答えた私をみんなは「冗談きついよ」と笑った。苦笑いをしているうちに頼まれていたスパークリングワインと、斎藤さんが笑顔で取り分けていたサラダが、いつの間にか私の前に並べられた。
食べなければいけない空気がいつの間にかできていて、飲まなければいけない流れにいつの間にか乗っていた。そのあと起きたことはすべて、便器に浮かぶ吐しゃ物が物語っている。
思い出すだけで吐き気と嫌悪がよみがえる。手洗い場で口をゆすいでも胸のうちの嫌悪は拭えない。顔も洗いたかったけれど、崩れた化粧で電車に乗るのは目立つからやめておく。
マフラーを巻きなおしてトイレを出た。公園の入口まで歩くと、ゲートタイプの車止めの上にこちらに背を向けて腰かけている人影が見えた。あごのあたりで切りそろえられた髪はぼさぼさで、冬だというのに白い薄手のワンピースを着ていた。青白く光る街灯は彼女にガラスのような透明感を感じさせた。
私の気配に気づいた彼女が振り返る。その素早さはむかしドキュメンタリー番組で観た、肉食動物から逃げ出すときのシマウマみたいだった。もちろん彼女を襲って食べる気なんてなかったけれど、その反応はあながち間違っていないのだと思うと、また少し自己嫌悪に落ち込んだ。
「驚かせるつもりはなかったんですけど、ごめんなさい」
改めてよく見ると彼女は裸足だった。足の爪には青色のペディキュアが塗ってあって、右足の親指だけが剥げていた。ワンピースの危ういくらいに深い襟元から覗く肌には紫色の痣があった。痣は脚にもあった。目は赤く腫れ、頬には幾条もの筋がくっきりと刻まれていた。
「助けてくれませんか」
それなのに彼女は私を呼び止めた。か細く震え切った弱々しい声は確かに私に向けられたものだった。
「コウくん……彼氏に家、追い出されちゃって。財布もスマホもなくて。だからどこにも行けなくて。一晩だけでいいので、廊下で寝ますから、その、泊めて、もらえませんか」
私は彼女に背を向けて来た道を引き返そうとした。見て見ぬふりをすることに罪悪感はあったけど、食事という社会生活の第一歩すらまともに送れない私のような人間が、誰かに手を差し伸べられるはずがなかった。
「……ごめんなさい。私には、そういうのできなくて」
言いかけたとき、彼女の身体が不気味に揺れた。それまで彼女の身体を支えていた無数の糸が一斉に断ち切られたように傾き、重力に引かれるままに前のめりに地面へ近づいていった。
「あぶ――」
言葉より先に身体が動いていた。私はぎりぎりのところで彼女を受け止めた。私の腕に抱えられた彼女の身体はあまりに冷たく、そしてあまりに軽かった。
病院に、と言いかけて言葉を呑む。何か事件に巻き込まれているんじゃないだろうかという疑念が頭をよぎった。だとすれば病院に連れていくわけにはいかなかった。もし私の疑念が事実で、万が一警察沙汰にでもなれば私の身元や母が私のために犯し続けている罪が何かの拍子に暴かれてしまうかもしれない。
瞬時に保身を考える自分の醜さにうんざりした。どうすればいいか分からないまま、私は彼女を抱きしめる。街灯の淡い明かりの下、私は名前も知らない彼女に縋るように腕に力を込めていた。
2
朝起きると自分以外の誰かの気配が感じられることに、私はいまだ慣れずにいる。
「起きたんだ。おはよ。あたしはこれから寝るー」
「……おはよ。おやすみ」
「おやすみー」
私はアラームを止めて目をこすり、ベッドの隣りの床に敷いてある夏用布団に潜り込む律へと視線を向ける。
あの夜、私は律を拾って家に帰った。けっきょく病院へは連れて行かず、アプリで呼んだタクシーに乗り込んだ。律をベッドに寝かせているあいだ、私は急いでコンビニへ向かい、普通の人間の温かそうな食べ物と飲み物を買い込んだ。カップ麺を食べさせ、ココアを飲ませ、いつもより一度だけ温度を上げたお風呂を入れた。
翌朝、まだ眠ったままの律を置いていくわけにもいかず、私は仕事を休んだ。昼頃になると律は案外けろりとした顔で目を覚ました。私はほとんど一日中、キッチンに陣取って冷蔵庫を――正確にはその中身が意味する真実を守っていた。
帰らないの、と訊くのはなんか追い出すみたいで訊きづらくて、私は代わりに「これからどうするの?」と訊いた。律は「どうしよっかな」と笑った。
「一つだけ。……一つだけ、約束守れるなら、しばらくいてもいいよ」
「いいの?」
分かりやすく、律の表情が明るくなる。街灯の下で佇んでいたボロボロの律は、まるで翼をもがれて地上に落とされた天使みたいに儚げな雰囲気があったけど、こうして部屋で見ればただの女の子だった。
「猫を拾ったみたいなもんだし。約束を守ってくれるなら」
「いいね。ほんとに猫に生まれてたらよかったのにな」
そうして私は彼女に”絶対に冷蔵庫を開けないこと“を約束させ、奇妙な同居生活を始めた。
約束を破ったときはもちろん、理由を訊き出そうとしたり、私を訝しんだりするようであればすぐに追い出そうと思っていた。あるいは最悪の場合、彼女の口を封じなければいけないことも覚悟していた。けれど律は不思議がりこそしたものの、居候だから遠慮しているのか、詮索はしてこなかった。
自分でもどうしてこんな失敗することが分かっている綱渡りを始めてしまったのか不思議だった。けれど朝起きて誰かがいるのも、帰ってくると誰かが出迎えてくれることも、テレビ以外に話しかける存在がいることも、悪い気分ではなかった。
たぶん私は孤独に疲れていた。いずれ破綻すると分かっていても、最後に生きていた意味が欲しかった。
「律、机の上にお昼ごはんのお金置いておくから。しつこいようだけど――」
「分かってるよ。冷蔵庫は開けない」
「うん、ありがとう」
「あと、お金平気だよ。増えたから」
律はそう言って、私が貸している枕元のフルラの鞄から剥き出しの一万円札を抜き出した。布団から突き出た律の細い腕の先で、しわくちゃの一万円札が三枚ゆれていた。
仕事をしていない律はたまの夜にふらりと出かけていくことがある。最初は次の居場所でも見つけたんだろうと思っていけれど、律は朝になると決まって何万円かのお金を握って帰ってきた。私は律が私について立ち入ったことを訊いてこないのと同じように、律のしていることについて深く訊くことはしなかった。
私たちは友達でも恋人でもない、行きずりの同居人だった。
「それじゃ、行ってくるね」
返事がなかったので布団を覗き込みにいくと、律はすでに眠っていた。自由気ままで掴みどころがなく、本当に猫みたいな女の子だと私は思った。夏用の布団だけではさすがに寒いだろうから、ベッドから取った毛布を律の上にかけておく。
「ママ……」
律の寝言だった。固く閉じられたまぶたの隙間から透明な雫が流れていって、枕のシーツの薄青をほんの少しだけ濃くしていく。
律はよく泣いている。理由は分からない。どんな夢を見ているのかも私は知らない。私たちはそういうことを話すことなく、ただこの家で暮らしている。
†
帰り支度を終えた私は同僚たちに挨拶をしてロッカールームを後にする。エレベーターからちょうど斎藤さんが下りてくる。
「あ、ちょうどいいところに。今日の合コンなんだけど――」
「すいません。用事があるので」
「……だよねぇ」
「お疲れさまです」
「なんか、最近少し変わったよね」
「そうですかね」
私が乗り込もうとしたエレベーターは扉が閉まり、また上へと上っていった。私は下行きのボタンを押す。
「うん、なんか明るくなったよ。もしかして彼氏でもできた?」
もし私に何か変化が起きたというのなら、それは律の存在以外には考えられない。なんと説明したらいいだろうか。そもそも斎藤さんに説明する必要があるのだろうか。私は少しだけ迷ってから、今朝彼女を猫みたいだと思ったことを思い出した。
「最近、猫を飼い始めたんです」
「猫? え、写真見たーい」
「いや、そういうのはないんですけど」
「えー残念。でも気をつけなよぉ? 女の一人暮らしで猫飼い始めると、恋愛できなくなるって言うから」
「はぁ」
私は困った素振りで頷いておく。斎藤さんは当たり前に食事を摂り、当たり前に恋愛をする。そしてそれが正しく普通の価値観だということを信じ切っている。そういうのは少し、羨ましいなと思う。
ちょうどやってきたエレベーターに私は乗り込んだ。斎藤さんはロッカールームへ向かっていく。私は斎藤さんに会釈をする。扉が閉まり滑らかに落ちていく感覚を、私は足の裏で感じている。
家に帰ると律がリビングのソファとテーブルのあいだで寝転がっていた。寝返りを打ってうつ伏せになった律が私に気づいて顔を上げる。
テーブルの上にはコンビニ弁当の空容器と飲みかけのコーラ、くしゃくしゃになったレシートとお釣りが置きっぱなしになっている。コートや鞄をソファに置いた私は、漂っているソースか何かの臭いに顔をしかめつつ弁当の蓋を閉じる。律はたくわんが苦手らしく、いつも食べずに残してある。
「律、シャワー浴びておいでよ」
「んー」
律はうちに来てから新しく契約したスマホをいじっている。私はゴミを入れたビニール袋の口をきつく縛り、ゴミ箱のあるキッチンへ向かう。冷蔵庫の前にはダンボールが置いてある。ビニール袋が手から落ちる。息が止まった。
私は恐る恐るダンボールを抱え上げた。持ち上げた拍子に上から貼り直されていたテープが剥がれる。開きかけたダンボールの隙間から真っ赤な肉を詰めたタッパーが覗いた。
「ねえ、律」私は律のほうを見ることができなかった。「この荷物、どうしたの」
「どうしたのって、お昼くらいに届いたの。あたしが頼んでたやつかと思って開けちゃって、なんか食べ物だったけど冷蔵庫開けない約束だから置いといた」
「中身、見たよね?」
「うん。そりゃまあ」
私は息を吐き、天井を仰いだ。それはこの生活が終わりを迎えることへの覚悟と安堵だったのかもしれない。あるいは私という怪物の存在によって、罪を犯し続ける母への憐れみと祈りだったのかもしれない。律を家に招いた時点で、いつかこうなることは決まっていた。必死で取り繕ってきた日常が壊れていく一瞬はどこか痛快でもあった。
「大丈夫?」
ダンボールを抱えたまま笑い出す私を心配そうに律が言う。あるいは不気味に思いながら、それもと恐怖を感じながら、私に問いかける。
「ふふふふふ……」
天井を見上げた私は後ろに二歩よろめいた。傾いたダンボールの中身を床にぶちまけた。タッパーが転がり、青い半透明の蓋越しに中に入っている目と目が合った。
私は床に座り込む。律は立ち上がり、床に落ちたタッパーの一つを拾い上げた。タッパーには母の字で”腎臓”と書いてある。ようやく律の顔を見ることができた。
「それ、人の肉。使われなかったクローンドナーの肉」
もはや私は自棄だった。律は表情を崩さなかった。手に持ったままのタッパーに視線を落としていた。
「私ね、人の肉しか食べられないの。小さいころからずっと」
初めて誰かに向かって口にした。声は震えたが、物心ついたときからずっと胸に刺さっていたつかえが取れたように息ができた。もう怯える必要も、隠す必要もない。そう思えると、ようやく生きた心地がした。けれど同時に、それは自分で自分に下す死刑宣告でもあると分かっている。たぶん私はこうしたかったのだろう。もう楽になりたかった。
「生きてちゃいけないって分かってた。でもそうやって、使われずに廃棄されるはずのクローンドナーの肉を人知れず掠め取って、外では普通な人間ですって顔をしながら生きてきたの。でもね、私は怪物なんだ」
「知ってたよ」
律は真っ直ぐに私を見たまま、テーブルの上にタッパーを置いた。
「知ってた。実は倒れたとき、あたしを運んでくれたあとどこかに出掛けてたでしょ? そのとき、あたし目が覚めて、何か飲み物もらおうと思って、冷蔵庫開けちゃったんだ」
「じゃあ、どうしてずっと私といたの。殺されるかもって思わなかったの」
私が言うと、律は首を傾げ、困ったように笑いながら髪をかいた。
「他に行くとこなかったし。それに、今聞いてちょっと安心した。誰かを殺して食べてるわけじゃないんだなって」
律は着ていた服を脱ぎ始めた。律の肩や脚にはまだ痣が残っている。しかしとうとうキャミソールまで脱いで晒された身体には、さらに痛々しい傷跡が刻み付けられていた。
「遊園地に行くはずだったの」
律は谷間からへそにかけて這っているミミズのような傷痕を右手で撫で、それから痩せぎすの身体を針金のような腕で抱きしめた。左の脇腹にも同じような傷痕が残っているのがちらりと見えた。
「パパとママ、仲が悪くて、けんかばっかりでね。遊園地に行けば昔みたいに仲が良かったときに戻れるかもって思って駄々をこねた。でも向かう途中で、事故に遭った。相手のトラックの運転手は夜通し運転してて居眠りしちゃったんだって。二人は即死。あたしはママが庇ってくれたおかげで重傷で済んだけど、ひとりぼっちになってた。看護師さんが教えてくれた。あたしにクローンドナーを使ったって。パパとママはあたしのせいで死んだのに、生き残って本当によかった、これはママがくれた奇跡なんだよって」
私は律の目を覗き込もうと注視する。初めて会った夜、律をガラスみたいだと感じたのは、薄着でいたからではなかったのだろう。彼女が細い身体に閉じ込めている、今にも砕け散ってしまいそうな脆さが私にそう思わせたに違いなかった。
「でも本当にそうなのかな。預けられた施設でいじめられて、中学のときに二つ上の先輩たちに犯されて、女子からは色目がどうのって嫌われて、勉強も運動もできなくて、学校も行けなくなって、トー横に入り浸って、紹介してもらったデリヘルは摘発されてなくなって、優しくしてくれたコウくんには殴られて、あたしが生き残ってよかったことなんて本当にあるのかなって思うんだよね」
律の痩せすぎた身体は小刻みに震えている。
けれど私は何も言えずにいた。淡々と並べられる律の苦しみに、私はどんな言葉をかけるべきか分からなかった。
「男はね、あたしの身体を見ると気分が悪いから安くしろって言うんだ。コウくんは、安くしろとは言わないけど、あたしとは寝てくれなくて、代わりに色んな女の子とセックスしてた。あたしには価値なんてないんだよ」
「どうして」
私がようやく言えた言葉は不完全だったけど、律はそこから私の気持ちを汲み取ってくれる。
「同じだから」
「同じ?」
「クローンドナーに助けられて、クローンドナーに苦しんでる。同じだよ」
私は誰とも違うのだと思って生きてきた。だから律の言葉をどう受け止めればいいのかが分からない。
「怖く、ないの?」
「全然。むしろイケてるくらい」
律はそう言って”腎臓”と書かれたタッパーをもう一度手に取った。蓋を開け、素手で赤黒い塊をつまみ上げる。迷いも無駄も一切ない動作だった。律は腎臓に噛みつき、食いちぎり、咀嚼し、呑み込んだ。
「あんまり美味しくはないね……」
律は周囲が真っ赤になった口から、べ、と舌を出した。私は幽霊にでも遭遇したみたいに固まっていた。
だって考私は美味しいとか不味いとか、そういう尺度で食事をしたことがなかった。私にとって食事は怪物であることの証明で、生きるためにこなすノルマだった。
「焼けば、多少は食べられるかも。たぶん」
「じゃあご飯にしよ。お腹減っちゃった」
律は笑った。
それから私は、生まれて初めて二人分の食事を作った。前に斎藤さんが一人分も二人分も料理の手間は変わらないと言っていたのをふと思い出したけど、あれは嘘だ。手間なんて感じるはずがない。一緒に食べてくれる誰かを思いながら作る料理は得も言われぬ幸福感で満ちていた。
茹でた腕肉と焼いたもも肉をテーブルに並べた。私と律は向かい合って手を合わせた。
「いただきます」
歯がゆくてたどたどしくなってしまう私の声に律の声が重なる。焼いてもあんまり美味しくはないね、と律がまた舌を出す。
「でもこれで一緒だね。それに、あたしたち二人とも、クローンドナー様様だね」
私は思わず泣いてしまった。嬉しくて嬉しくて、涙が止まらなかった。
†
翌朝、私が目を覚ますと律はもう起きていて、毛布に包まりながらリビングでテレビを眺めていた。私はショーツを履いて、寝間着を着直して、律の隣りに腰を下ろす。
「ねえ、これ」
律はニュースを映すテレビ画面をじっと観ている。ドローンか何かで撮影された上空からのアングルで、カメラは白亜の施設を映していた。
〈昨夜未明、長野県警は廃棄予定のクローンドナーを窃盗した疑いで、市内の製作所で看護師として勤務していた篠原冴子容疑者を逮捕しました――〉
テレビには、上着を頭にかけられて連行される母の姿が映っていた。
3
眠れないまま夜が明けて、玄関の扉が慌ただしく開けられる音を聞いていた。私は目を閉じて眠ったふりをした。律の足音や脱いだ上着をソファに投げ置く音が、静謐な朝の空気に足跡をつけていく。
あの夜、私たちはお互いの秘密と過去を打ち明け、確かにつながった。けれど翌朝、母の逮捕のニュースを見て以来、律は毎日のように夜出歩くようになった。きっと律はお金を貯めていて、そのうち何事もなかったみたいに私のもとからいなくなるのだろう。文字通りライフラインだった母の逮捕は、私と生きる未来なんてものが端から存在しなかったことを律にはっきりと証明した。
それでいいと思う。私がどれだけ望んでも、誰かと生きることは叶わない。
冷蔵庫の中身は、五日前になくなった。
けれど私は、飢えた自分がどうなって何をするのか分かっているのに、律に出て行くよう伝えることができなかった。いや、しなかった。それなのにいつ人を襲ってしまうか分からないからという理由で仕事はとっくに辞めていた。私はどこまでも浅ましく、惰性のままに引き延ばした毎日を続けていた。
母の逮捕は事件から一ヶ月が経った今でも、ニュースやワイドショーで取り上げられ、SNSでの論争を巻き起こしている。
医療に大きな貢献を果たしているとはいえ、元々クローンドナーには根強い反対意見も多かった。母が私のために犯した罪は、そうした反対派に対しこれ以上ない格好の火種を与えることになった。
報道によれば、母は盗んだクローンドナーを海外の人身売買ブローカーに売りさばいたと供述している。もしかしたらクローンドナーの一部を本当に売りさばいていたのかもしれないし、ただの苦し紛れの嘘かもしれないけれど、母がこの期に及んでなお、私のことを庇ってくれていることだけは確かで、そのことがまた私の存在を苛んでいた。
背中越しに、ベッドに入ってきた律の微かに乱れた息遣いが聞こえている。普段なら明け方に帰ってきてまずシャワーを浴びる律は、今日に限って着替えてすらいなかった。汗の香りが空腹を刺激した。
「……起きてる?」
少し掠れた律の声が耳元をくすぐった。私は声を出さずに頷いた。背中に寄せられる律の身体はさらに少し痩せていて、前よりも骨ばっているような気がした。
「律、最近ちゃんとご飯食べてる? このままじゃ、私より先に律が死んじゃうよ。私、ちゃんと大丈夫だから」
律は答えなかった。最初から正しさのレールの外側に産まれ落ちている私と、律は違う。このまま野垂れ死んでいくのは私だけでいい。
「変な気遣わないでよ。ほら、律だって猫がキャットフード食べてるの見て、羨ましいなって思ったりしないでしょ。それと同じだよ。ただ少し、私が人間と同じかたちをしてるから厄介なだけ」
律の腕に力が込められ、窓側を向いていた私を強引に仰向けにする。律は私の上にまたがった。そして私の唇を啄んだ。
律の柔らかい舌先が、私の閉じた唇を強引に押し開けてくる。私は顔を背けようとしたけれど、いつの間にか首と頭の後ろに回された律の腕がそれを阻んだ。
私は心では抵抗していながら、身体が火照っていくのを感じていた。心臓が大きく震え、子宮が締め付けられる。頭がぼんやりとしてきて、胃が上下に蠢動する。
「ねえ、律――っ」
気がついたときには、私は律と一緒にベッドから落ちていた。口のなかには血の味が広がった。私を真っ直ぐに見上げる律の口の周りは真っ赤に濡れていて、口元にはくっきりと歯型が刻み込まれていた。
「……いいよ?」
私は甘やかな律の言葉を拒むように彼女の上から飛び退いた。全身からは粘ついた汗が噴き出し、冷え切った指先は震えていた。
「ごめんなさい、私、ごめんなさい」
「謝らないで」
身体を起こした律は真っ赤な口で微笑んでくれる。
「ごめんなさい」
私はそのまま部屋から飛び出した。このままでは自分が自分じゃなくなってしまうかもしれない気がした。一番大切にしているものを、自分の手で傷つけてしまう気がした。
アスファルトの上を裸足で走った。尖った何かを踏んで転んだ。足の裏に小石が食い込んでいて血が流れていた。きっと律はもっと痛かったし、もっと怖かったに違いなかった。
一度転んだ私がそのまましばらく座り込んでいたのは、律が私を追いかけてくるかもしれないと心のどこかで思っていたからだ。けれど律は私を追ってはこなかった。
ベランダを振り返れば、もしかするとカーテン越しに律の姿くらいは見えたのかもしれない。私には振り返って確かめる勇気すらなかった。
†
このままどこかへ消えてしまえるなら、きっと私は自分の異常性を知ったときすぐに命を絶てていたのだろう。裸足のまま徘徊を続けた私は足の裏の痛みに耐えられなくなって、暮れていく太陽と一緒に家に帰った。
「おかえり」
「……ただいま」
律は何事もなかったかのように、ソファとテーブルのあいだでスマホゲームをしていた。シーツは洗って干してあり、床には血の一滴も残っていなかった。彼女の口元に貼ってある絆創膏だけが罪深い現実を静かに物語っている。
「よかった」
それはたぶん、帰ってきてよかったという意味だろう。すべての言葉を尽くさなくても律の言いそうことは分かる。もし逆の立場だったら、私もきっとそう言ったはずだ。けれど今の私は彼女に対して何も言えず、擦り切れた足の裏でフローリングの冷ややかさを確かめていた。
「足、怪我してるじゃん」
「大丈夫。これくらい、自分でできるから」
スマホを置いて手を伸ばした律より先に、私はテーブルの上の救急セットを両手で取り上げた。私はまた黙り込み、律も行先のなくなった手をテーブルの下に仕舞って俯いた。部屋だけが深くて暗い水底に沈んでいくみたいだった。
インターホンが鳴った。針の穴を通すように、重く淀んでいた空気のわずかな隙間を埋めた音に、私たちは縋るように反応した。今度は律が素早く立ち上がり、壁付けのモニターをチェックした。
「怪我の手当てしてて。あたしが出るから」
律は玄関へ向かう。私は救急セットを抱えたまま、その場に座り込む。黒ずんだ赤い傷の奥には、白くぬらぬらしたものが見えた。
玄関のほうで鈍い物音がした。リビングから廊下を覗き込むと、律が尻もちを突いていた。振り返った律の顔が引き攣っている理由は、すぐに扉の向こう側の訪問者が教えてくれた。
扉を力強く叩く音が響いた。何度も何度も扉が打ち鳴らされた。
「律ー? いるんだろ? なあ、俺だよ。コウヘイ。開けてくれよ!」
律は玄関で身体を丸め、頭を抱え、必死に耳を抑えつけている。私は事態が呑み込めずに困惑している。扉を叩く音は容赦なく響き続けている。
「俺が悪かった。もう殴らない。反省した。探し出すの大変だったんだぜ。後輩に金ばら撒いて、お前の行先を辿ったんだ。なあ、律、戻って来いよ」
私は律の口から何度か名前が出たコウくんのことを思い出した。律の身体のあちこちを痣ができるまで痛めつけ、真冬の夜、律のことを裸足のまま家から追い出した男だ。
私はなるべく気配を殺しながら律のもとへ向かった。丸まった律に覆いかぶさるようにして抱きしめた。コウくんは執拗に扉を強く叩き続けている。
「どうしよう」
律の声は震えていた。
「なあ、律? 開けろって言ってんだろ! お前さ、俺がいなきゃ何にもできねえくせに家出なんてしてんじゃねえよ! 一緒に住んでる女にも迷惑かけてんだろ?」
私は迷惑なんて掛けられていない。最初こそ戸惑ったが、律と過ごす時間は私の人生においてどんな宝石よりも美しく尊い時間だった。もし私たちの関係に不都合や間違いがあるとするなら、それは他でもない私の異常性に他ならない。
私は律を抱きしめる腕に力を込めていた。それは私と律の関係を無責任に定義する暴力男への怒りだった。
扉を叩くリズムが速くなっていた。扉に蹴りを入れたのか、扉の下のほうがずんと震えた。
「それともあれか? 男でも女でも関係なく股開いて垂らし込んだのか? 尻軽なおめえならやりかねねえよな? 何とか言えよ、クソ女!」
コウくんはとうとう声を荒げ始める。私はほとんど反射的に、律の耳元でささやいていた。
「殺そう」
「え?」
「だってほら、考えてみて。殺しても、私が食べればいいんだよ。世の中の殺人事件は、死体が見つかるからバレるんだと思う。消化すれば死体は見つからない。ひとまずは、私の問題だって解決できる」
唖然としている律に説明をしながら、私も自分の大胆さに驚いていた。けれどもしかして人肉という私の異常性は、今日この瞬間の律のためにあったんじゃないかと運命的な予感すら抱いていた。
「大丈夫。絶対にうまくいく」
私は律の冷たい手を握る。律は小さく頷いた。
「今開けますから、ちょっと待って」
私は扉越しのコウくんに声を掛ける。扉のチェーンを外し、息を吐く。いくら覚悟を決めていても、サムターンに触れる指先は小刻みに震えて汗ばんでいた。
息を吐き切ると同時に扉を開く。コウくんは根元の五センチくらいが黒くなった金髪で目つきが悪く、その上にあるミミズみたいに細い眉毛が印象的だった。腕や脚は細いのにお腹だけがぽっこりと丸く膨らんでいて、お世辞にも美味しそうには見えない。
「律はいる? てかもっと早く出ろよ。どんだけ鳴らしたと思ってんすか」
コウくんは私を見下ろしていた。てっきり律が出るとばかり思っていたのだろう。高圧的な口調と不出来な敬語が混ざっているあたり、この男はまだ私への態度を決めかねているのかもしれない。
「律さん、今は出かけてるんですけど、よかったら中で待ちますか?」
コウくんは頷き、かかとを引っかけて脱いだ靴を放り出しながら部屋に上がる。私と律の二人以外は入ったことのない空間が汚された気がして顰めそうになった眉を、私は無理矢理の笑顔で取り繕う。
廊下を歩く。足の裏はまだ傷が剥き出しになったままだったけど、脳内麻薬のおかげか痛みは感じなかった。
洗面所やトイレの前を通り過ぎてリビングに向かう。私はちらりと後ろのコウくんを一瞥する。
「わああああっ!」
トイレのなかに隠れていた律が声を上げて飛び出した。コウくんがぎょっとして振り返る。私は寝間着のウエストに挟んで隠していた包丁を抜き、コウくんの腰のあたり目がけて体当たりする。
包丁が肉を突き、骨を穿つ感覚が手のひらへと伝わる。これまで人の肉には何度も包丁を入れてきた。けれどそのどれよりも生々しい。
前からは律が同じように体当たりをしていたはずだったが、どうやらコウくんは突き出された包丁を手で握って受け止めているようだった。私は包丁をコウくんのなかへ捻じ込んだ。コウくんの食いしばった歯の隙間から、ぐごぁ、と呻き声が漏れた。
「痛ぇ……痛ぇなあっ!」
コウくんが声を荒げて振り上げた肘が、私の鼻っ柱を強かに打つ。私の手は包丁から離れ、床に尻もちを突く。顔の中心が熱かった。抑えると鼻血が出ていた。殺そうとする者は殺されるくらいの抵抗を受ける。当たり前のことだった。
律とコウくんがもみ合っていた。コウくんの背中には包丁が刺さったままになっていた。私は救急セットからはさみを取り出した。高く掲げた腕を振り下ろし、コウくんの首にはさみを突き刺す。何度も何度もはさみを突き刺す。
コウくんの身体が傾いて頽れる。床に膝をついたコウくんのうなじは肉がめくれ上がっていて、泡立った血液のなかに白いものが見えていた。
私は倒れたコウくんにまたがって、執拗にはさみを突き立てた。跳ねた血が頬を濡らした。生温かいそれはあっという間に温度を失い、冷たく乾いていった。コウくんは何度か痙攣を繰り返し、やがて動かなくなった。
私は肩で息をしていた。はさみの柄が右の手のひらに深く食い込んでいた。私は左手で右の指を一本一本引き剥がし、ようやくはさみを床に転がした。
「律、やったよ。うまくいった!」
私は律を見た。律は仰向けに寝っ転がっていて、そのお腹の上では律が持っていたはずの包丁が柄の先端を天井に向けていた。
「……律?」
律は私の呼びかけに応えなかった。もともと白かった肌はさらに青白くなっていて、代わりにお腹の上の包丁の周りにある赤いシミがどんどん面積を広げていた。
「ごめん、ね」
律はか細い声を絞り出す。私は律の身体を抱き上げた。
「何やってるの。ほら、もうこれで大丈夫でしょ。律はもう怯えなくて大丈夫。あとは私が死体を食べればいいんだよ。だから、だから――」
後に続く声は言葉にできなかった。もししてしまえば、それはすぐに現実になってしまうような気がした。
「聞いて」
律の口がゆっくりと動いた。喉が空気を通るばかりで声はほとんど聞こえていなかったけれど、私には分かった。
律が咳き込む。一緒に血が吐き出される。私は冷たくなっていく律の身体を抱えたまま動けない。
どうしてこうなった。私のせいだ。私がコウくんを殺そうなんて言ったから。
「最後にね、お願いが、あるの」
「最後じゃない」
私は即座に否定した。お腹の赤いシミはどんどん大きくなっている。私は傷口を抑えようと思って包丁を抜いた。血が噴き出して顔に掛かる。私は両手で傷口を抑える。呻く律に大丈夫だと声を掛ける。
「あたしの……こと、ちゃんと、食べて、ね?」
「何言ってるの。食べないよ」
「あたしね、今、あのときクローンドナーで助かったこと、よかったって、思えてる。あなたに食べられるなら、助かった意味もあったかなって」
「喋らないで。お願いだから……」
律から溢れる血は私の手を呑み込むように赤く染めた。私は救急車を呼ぼうと立ち上がりかけ、律の手が私を掴んでそれを止めた。律は小さく首を横に振った。
「もう、ひとつ」
律はリビングのテーブルを指差した。テーブルの上には救急セットと律のスマホがあった。私はまだ何かを伝えようとしている律の口元に耳を当てた。律は最後の力を振り絞って声を出し、言い終えるとまるで役目を終えたと言わんばかり、ふつりと事切れた。
私は動かなくなった律を抱きしめた。
喉を引き裂き、腸を吐き出すように、声を上げて泣き続けた。
4
胸肉、もも肉、腕肉、尻肉、肝臓、小腸、胃、指、目、脳――。
私は冷蔵庫に並ぶタッパーを眺めながら、今日の献立を考える。尻肉と肝臓を炒め、大腿骨から取った出汁で腕肉を茹でる。出来上がった料理は丁寧にお皿に盛りつける。
「いただきます」
私は律を食べている。前よりも広くなってしまった食卓で、彼女が望んだ通り両親を犠牲に生き残った意味を証明するために、私は律を食べ、そして生きている。
律が死んだあと、私は律とコウくんを風呂場へと運んで解体した。初めてだったし、途中何度も泣いたり吐いたりしていたから、朝までかかってしまった。私は律を、母がしてくれたように部位ごとにタッパーに収めた。コウくんは通販で購入した水酸化ナトリウムで溶かしてから排水溝に流したり、粉々に砕いた骨を近くの公園に撒いたりした。リスクがあったとしても、死んでなお二人が交わるようなことがあってはいけないと思った。
食事は相変わらず嫌いだ。
人の肉を食べる異常な自分も大嫌いだ。
それでも生きようとまだ足掻いているのは、浅ましく卑しい私の性分と、それらすべてを律が受け入れてくれたという事実があるからだ。
食事を終えた私は、充電していた律のスマホが鞄に入っていることを確認して家を出た。目的地は律のスマホに残されたメモが教えてくれた。
夜になると出歩く律は、男たちに身体を売っていた。きっとそれだけが、生き残ってしまった自分の価値を確かめる方法のように思えていたのだろう。
けれど律にとってのセックスは、私と暮らし始めてからもう一つの意味を帯びた。
律は探してくれていた。夜の街を出歩き、たぶん時には危ない目に遭いながら、私のように人肉食という異常性に苦しむ人間が生きられる場所を見つけ出そうとしてくれていた。
その気持ちに応えることは私の義務なのだと思う。
私は自分が異常だと決め込んで、律を傷つけないよう遠ざけようとした。けれど律はいつも、私に同じだと言ってくれていた。私は私のままでいいと、いつも受け入れてくれていた。
もう取り返しはつかないし、気づくのがあまりに遅すぎた。けれどそれでも彼女の願いに添って足掻くことが、彼女への手向けになると私は信じている。
メモが指し示す住所は、新宿三丁目の外れの雑居ビルに入っているバーだった。住所の下には合言葉が書いてある。
私は地下へ続く階段を下り、CLOSEDの札が下がる扉を押し開ける。
「いらっしゃい。と言っても、まだ開店前ですが」
入ってすぐのカウンターで、白髪交じりの男がグラスを拭いていた。私は深く息を吸って、彼女が遺した合言葉を口にする。
「私たちは、同じですか?」
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