ターミナルホープ

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梗 概

ターミナルホープ

「新規の抗がん剤は無限通りの中からAIがあなたに合う最適な組合せで調整したものです。あなたの癌を局所的に攻撃し、死滅させてくれます。大丈夫です。必ず良くなりますよ。」
 にこやかな笑顔を浮かべた主治医、葛城は患者の手をしっかりと握りながら、強く励ます。患者もそれを聞いて目に光が灯る。先ほどまで精気のない表情だった彼は生への希望を見出していた。
 葛城は笑顔のまま病室を後にし、駆け足でトイレの個室に入るとさっき食べた昼食を全て吐き戻した。
「俺はどれだけ嘘を吐けばいいんだ……」

AIによる早期診断、医療技術の発達により生存率は飛躍的に向上した。しかし若くして余命を宣告される所謂、患者はゼロではない。そんな患者の残りの人生を少しでも希望のあるものにする、医療ではどうにもならない部分を人間の可能性に賭けた制度。そこから生まれたのが”ターミナルホープ”と呼ばれる職業だった。嘘を吐くことが絶対に許されない医療の世界において唯一”嘘”が許された存在。ターミナルホープは家族の同意があれば患者へ嘘を吐く。

しかし葛城の嘘は虚しく、診断された通りの余命で亡くなる患者ばかりだった。依頼された遺族に責められることも珍しくはなく、嘘を重ねる度、葛城の精神はすり減っていた。毎夜、亡くなった患者の夢にうなされる日々を過ごし、徐々に睡眠薬の量が増えていった。

 そんな時、葛城は、由那という1人の少女の担当となる。難病を患った少女で余命は2年ほどしかなかった。
 病気が治る見込みを嘘を吐いて説明し、希望を持たせるが由那は葛城の言葉を聞いている気配がない。心を開くには難しい子だと頭を悩ませていると由那から思いがけないことを聞かされる。
「私ね、嘘を吐いてるかどうか絶対に分かるの。先生は私にいつも嘘を吐いてる」
 ターミナルホープは決して患者に気付かれてはいけない役職であり、葛城も嘘を見破られないよう専門の訓練を徹底的に受けている。だが幼いころから家をたらい回しにされ、大人の嘘を無意識に見抜く術を身に着けていた由那にとっては葛城の嘘はお見通しだった。
 
由那をこれ以上ケアできないと諦めた葛城だったがある時、由那がバレエの動画を見ているところに出くわす。聞くと由那はもし病気が治ったらバレエを踊りたい言う。そのあどけない姿に葛城は何としても由那に生きる希望を与えたいと決意する。由那も葛城の懸命な姿に徐々に心を開き始める。この人の嘘を信じてみよう。由那がそう思った時、あることに気がつく。葛城のケアから嘘を感じなくなったのだ。
 実は葛城は睡眠薬の多量摂取と疲労により嘘と本当の境界がわからなくなってしまった。嘘を吐いている自覚はなく、葛城にとっては全てが真実として認識された。ターミナルホープの一部の人間が陥る最後の末路だった。
 
由那のケアを見届けないままターミナルホープを引退し葛城は病院を後にする。別れ際、由那の呼びかけにも葛城は満足に応えられずにいた。もう何が嘘で何が本当かわからなくなってしまったから。

数年後、自失した葛城が公園のベンチに座っていると目の前に美しい女性が現れた。彼女は突然、葛城の前でバレエを披露し始めた。
「由那のこと、覚えてる?先生のおかげで由那は踊れるようになったよ」
 葛城はかつての患者、由那のことを思い出す。由那は余命を克服し病を完治させていた。生きる希望を見出した人体の神秘だった。
「――ねえ、先生。先生はもう二度と自分を偽らなくていいんだよ。もう充分すぎるほど嘘を吐いてきたんだから」

文字数:1492

内容に関するアピール

絶対に嘘を吐いてはいけない職業は何だろうか?と考えたときに最初に思いついたのが医者でした。患者に決して嘘を吐いてはいけない。全てを包み隠さず説明する義務がある。ですので「絶対治る」も禁句なんですね。治らない可能性もあるから。

そんな現実世界から一歩抜けて、嘘を吐く医者がいる世界ってどんな世界になるだろうか?と想像しました。ただ人を騙す、欺く嘘にはしたくない。誰かを救う嘘でありたい。

家族の同意があればターミナルホープが嘘を吐く。当人からしたら非常に身勝手な話ですが、実際そんなものかもしれません。

文字数:248

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ターミナルホープ

そろそろ春になるというのに吹き付ける風はまだまだ厳しく、身体を芯から冷やしていく。木枯らしが舞うこともできないほど枯れきった裸の樹木たちがゆらゆらと揺れているのが廊下の窓の外から見てとれた。
 ツカツカと単調なリズムでリノリウムの床を踏みしめていく。白を基調とした無機質なデザインは清潔感を感じさせる一方で無慈悲な冷徹さを感じさせる。
 白い扉の前にたどり着くと人感センサーが感知して扉が音もなくスライドする。
 身体を滑り込ませるように部屋に入る。
 左右対称に5床ずつ、計10床のベッドが配置された病室。徹底的に漂白された布団は蛍光灯の光を反射させてわずかに眩しい。
 目的地である左奥のベッドに歩みを進め、覆われたカーテンに手をかける。
「北条さん、おはようございます。経過の報告と説明に来ました。開けますよ」
 レールに沿ってカーテンをスライドさせる。目の前にはベッドの背もたれを上げ、もたれかかる痩せぎすな成人男性が虚げな表情で窓から空をぼんやりと眺めていた。
 骨ばった腕に何度も刺されている点滴の痕が痛々しい。まだ20代半ばだというのに実年齢よりもずっと老けて見えた。
 彼は自分が診察の結果を告げに来たことに興味を示している様子はない。チラリと一瞥するとまた窓に視線を向けてしまった。
 若くして末期の癌に身体を蝕まれた青年。苦痛を伴う治療、出口の見えない入院生活の中で彼が絶望し、心を閉ざすには材料が揃い過ぎていた。
 本来なら仕事や趣味に打ち込み、人生を謳歌しているはずだったであろう。その輝かしい未来がある日突然、病によって全て奪われる。
 どうして自分だけが? なんでこんな目に遭わなければならないのか? きっと彼は何度も自問したはずだ。だがどんなに問いても答えが返ってくることはない。ただ運が悪かった。そんな無慈悲な現実があるだけだ。
 コホン、と咳払いをしてベッドの横にあった簡素な丸椅子を引き寄せて腰掛ける。いつの間にか自分の後ろにはこの病室担当の看護師が立っていて、タブレットを胸の位置で抱えていた。
 看護師からタブレットを受け取り、スリープ状態から立ち上げ診察結果をまとめたレポートを表示させる。
「北条さん。こちらが今回の診察の結果です。ほら、ここ見て下さい。この数値が前回に比べてかなり下がってますよね。これは良い傾向ですよ。転移している癌細胞の数が減少している証拠なんです」
 快活な笑顔を北条に向けて、説明を続ける。
 タブレットに表示されているグラフを拡大し、減衰傾向であることを見せる。しかし北条は興味を示した様子ではない。
 気を取り直し、さらに説明を続ける。
「今、飲んで頂いてる抗がん剤から新しいやつに変えましょう。最新技術でAIが北条さんの症状から最適な成分、組み合わせで調合した抗がん剤です。これを見て下さい。」
 操作していたタブレットを再び北条へ向ける。
 そこにはNeural Networkがあらゆるパターンから最適な組み合わせを選択していく過程が模式的に描かれていた。素人には何が書いてあるかさっぱりわからない複雑な数式やグラフが次々に映し出される。
 そして、タブレットを置き北条の手をしっかりと握った。北条は突然のことに、思わず窓に向けていた顔をこちらに向ける。揺らいだ瞳を見つめ、再度手を強く握る。
「北条さん、不安かもしれません。でも大丈夫です。北条さんの病気は必ず治ります。ご趣味のヨット、またできるようになりますよ」
 笑顔を浮かべ、目の前の生きる希望を失った患者を奮い立たせるように、強い言葉でその背中を押す。
「生きましょう」
 最後の一言が耳に届いた時、北条の顔に光が差すのを感じた。生きたいと願う患者の希望の光だ。
「……はい。私、頑張ります。頑張って治して、またヨットの大会に出ます」
 今度は北条の方からその手を握り返してきた。北条の目からは涙が流れている。
「ええ。頑張りましょう! 北条さん」
 答えるように最後にもう一度手を握った。

今後の治療の計画について説明し、看護師とともに病室を後にする。
「先生、よかったですね。北条さん塞ぎ込んだままになっちゃうかなって心配してたんですよ。先生が励まして下さったおかげですね。最新の技術もすごいですね。今じゃAIが何でも解決しちゃうんですから」
 重苦しい雰囲気から解放された反動か、看護師は興奮した様子で一方的に喋る。
「すまない……私はトイレに寄ってから診察室に戻るよ」
 疲れた様子を察した看護師は慌てて謝罪の言葉を述べる。
「すみません。私、ひとりで喋ってしまって。先に戻っていますので。ごゆっくり」
 看護師は一礼すると受付へ戻って行った。その姿が見えなくなるのを見届け、足早にトイレの個室へと入る。
 便器に顔を近付け、少し前に食べた朝食を全てぶちまけた。胃の中の物と一緒にせり上がってきた胃液が喉を焼く感覚が恐ろしく不快だ。
 臭いものに蓋をするようにすぐさま流し、洗面台で口で苦さと酸っぱさが入り混じった口をゆすぐ。
 顔を上げ正面を見ると、やつれた幽鬼のような男が立っていた。頬に手を当て、それが鏡に写った自分だと認識する。
 励ます前の北条よりもよっぽど、自分の方が生きることを諦めたような目をしている。
「俺は……一体いつまで嘘をつき続ければいいんだ」
 静寂に包まれた鏡の前でひとりごちる。
 葛城崇裕かつらぎたかひろ、患者に嘘をつくことが許された唯一の医者”ターミナルホープ”としての苦悩が心を少しずつ確実に蝕んでいた。

ターミナルホープ。この職業の存在を知る人間は限られた一部の関係者だけである。
 家族の同意があった場合、末期患者にはターミナルホープの資格を持つ医師が担当医として宛てがわれる。
 ターミナルホープとは「嘘を吐くこと」が許された医者だ。本来医者は患者の症状、治療方法や効果、そして治る可能性といった内容を包み隠さず全て話す義務がある。しかしターミナルホープは末期患者に平気で嘘を吐く。治る見込みがあることや必ず治すといった嘘を説得力のある虚偽のエビデンスを用意することで患者に信じ込ませる。
 ――なぜこんな職業がまかり通っているのか? 家族はなぜ、ターミナルホープによる嘘を望むのか?
 それは人間の「生きたい」という意志の強さがもたらす神秘性にある。
 AIによる画像診断や新薬の早期開発、再生医療、施術支援ロボットによる低侵襲治療と目覚ましい技術進化により完治できる病気の数は急激に増え、平均寿命も年々増加の一途を辿っている。しかし、最新技術を以てしても治せない病は未だあるのが実情だった。
 病気の進行を遅らせ延命することは可能だが、根本的な解決策ではない。不治の病という壁に医師たちが頭を悩ませていた時、ある発見が医学会を揺るがす。
 精神性偽薬による恒常性上昇作用――精神的なプラシーボ効果が引き起こされることで疾患が治療される可能性があることが判明した。
 即ち、思い込みの力により薬や手術で治せなかった病気が治るかもしれないということだ。科学では決して到達できない領域。人体の神秘がもたらす、ある種、神懸かり的な力だった。
 患者の思い込みが強ければ強いほど、その効果は顕著に現れる。医学会は末期患者に嘘を信じ込ませる専門医「ターミナルホープ」の制度を立案した。
 患者に信じ込ませることが重要であるためターミナルホープの吐く嘘は決して患者に見破られてはいけない。専用の訓練を受け、定期な能力の検診をくぐり抜ける医師だけがターミナルホープとなることができる。その人数は極めて少なく医者の0.03%程度しかいない。
 国立大学附属病院といった1000以上の病床を抱える大規模な病院でも、誰がターミナルホープなのか知る人間はほとんどいない。
 そして、葛城もまた希少なターミナルホープの一員であった。

寄りかかる度にキシキシと音を立てる年季の入った安いオフィスチェアに座って、目の前のカルテをパラパラと捲る。
 患者の名前は平田和彦ひらたかずひこ。肺がんの転移が早く、診断した頃には既に治療の難しいステージにまで悪化していた。31歳の若さで末期癌を患ってしまった彼の両親に病院側からターミナルホープを打診。内容を聞いた平田の両親は泣いて喜び、一縷の望みに賭けて二つ返事で依頼を申し出、葛城が担当することとなった患者だった。
 カルテを眺めていると鮮明に思い出す。
 ターミナルホープとして突きつけられた現実の重さを。

人体の可能性に賭けた治療法は所詮、可能性でしかない。癌の進行は一切手を緩めることなく平田の身体を喰い尽くしていき、葛城のケアも虚しく余命通りに平田は息を引き取った。
 病室のベッドの上で徐々に心拍が弱まっていく平田、現世から旅立とうとする彼を繋ぎ止めるため、泣いてすがる両親を前に葛城は何もできなかった。
 臨終の合図を事務的に終え感情を押し殺して病室を出た葛城を、平田の両親が追いかけてきて父親に胸ぐらを掴まれた。
 「あんた絶対に治すって言ったじゃないか!!」
 平田の父親は葛城が平田を励ますために吐いていた嘘を真に受けていた。恐らく父親も心の底ではわかっているのだろう。葛城が発した言葉は嘘であり、治る根拠なんてひとつも無かったことを。
 だが最愛の息子を亡くし、現実を受け入れられない父親はどこかに拳を振りかざすしかないのだ。効果が発揮されるとは限らないターミナルホープに怒りをぶつけても何もならない、事前の説明で承知していたことだとしても誰かを責めなければ自身が壊れてしまう。
 焦点の合わない目で葛城を睨み、胸ぐらを掴んでいたが、ふっと力が抜け父親はその場にへたり込んでしまった。
 「この度は本当にご愁傷さまです。私のケアが及ばず申し訳ありませんでした」
 葛城はぐずれ落ちた父親に深々と一礼して、その場を後にする。
 こうなることは想像できていた。しかし、いざ直面すると自分の無力さを呪いたくなるほどの絶望感が心を支配していく。
 平田の父親が握り込んだ手の形をわずかに残したまま胸元の襟が乱れていた。だが葛城はあえてその襟を直さない。直してしまえば、息子を亡くした父親の怒りを否定することになりそうだったから。
 葛城は廊下の壁に拳を叩きつけて、この制度の残酷さを恨んだ。

「――んせ。葛城先生! 聞こえてますか?」
 耳に届いた大きな声で現実に引き戻される。
 気が付くと隣で担当の看護師が自分の名前を何度も呼んでいた。
 「悪い。ぼーっとしていた」
 「先生、疲れているんじゃないですか? 患者さんのために働き過ぎて、先生が病気になったら本末転倒ですよ」
 まったく、と呆れた表情で葛城に数枚の紙束を差し出す。
 「これ、先ほど院長から渡されました。今度、葛城先生がご担当する患者さんのカルテだそうです。あと15時に応接室に来るようにと仰っていました」
 葛城は受け取ったカルテを捲る。
 患者の名前は天原由那あまはらゆな。年齢の欄には14歳と記載があった。
 「ずいぶんと若いな……」
 病名は「ホジキンリンパ腫」。医院長の呼び出しであるなら間違いなくターミナルホープとしての依頼だろう。
 カルテ上の14という数字に釘付けになる。ターミナルホープのケアを受けるにはあまりにも幼い。
 平田の一件を思い出し、押し潰されそうな感情がグルグルと渦巻く。
 葛城はかぶりを振り不安を打ち消す。必要する人がいる以上、ターミナルホープとしての使命を全うするだけだ。
 15時まであと1時間ほどあった。回診のため葛城は椅子から立ち上がり、机の上に置かれたタブレットを持って廊下にでる。
 扉を開けると、目の前にいた薄い桃色の入院着を着た少女と目が合った。
 白い、大きめのウサギのぬいぐるみを胸に抱えている。全体的に薄い色素の少女は触れれば消えてしまいそうなほどの儚さを感じさせる。
 葛城が立ち止まっているのを余所に少女はふいと視線を外して通り過ぎる。
 不思議な雰囲気を持つ子だと思いながら、葛城は目的の病室へと歩みを進めた。

応接室のノブに手をかけ、ガチャリと捻る。
 木製の扉を開けると既に医院長と来客が座っていた。回診の時間が思ったより長引き、時間ギリギリに着いた葛城が最後だった。
 「葛城先生、忙しいところすまないね。こちらが天原由那さんのお母様だ」
 白髪を後ろに撫でつけた恰幅の良い医院長の向かいに座っているのが由那の母親だろう。小綺麗で気品のある服装をした女性だ。
 「由那の母、香奈恵です。と言っても由那とは直接、血の繋がりがあるわけではないのですが……」
 ソファを立ち上がり香奈恵がぺこりと礼をする。
 それに合わせて葛城もお辞儀した。
 「ええっと、立ち入ったことをお聞きして申し訳ございません。差し支えなければ、由那さんとはどういったご関係でしょうか?」
 開口一番に血の繋がりがないと聞かされて、思わずそんなことを聞いてしまった。
 「あの子の両親は、あの子が幼い時に亡くなっています。親戚に散々たらい回しにされた挙句、邪険に扱われているのを見かねて、遠い親戚にあたる私が引き取りました」
 どうやら由那は幼くしてかなり辛い境遇に遭っていたようだ。それに加えてリンパ腫を患っていると思うと葛城の心は痛んだ。
 「こちらの医院長先生からお話を聞きました。葛城先生はターミナルホープという医師だそうで。他の病院ではもうこれ以上の治療はできないと言われました。お願いです。由那を、由那をどうか助けてください!」
 いっぱいの涙を浮かべて香奈恵は葛城にすがった。葛城の白衣が香奈恵の両手に食い込む。
 「香奈恵さん、落ち着いて下さい。事前に説明した通り、ターミナルホープは決して完治を確約してくれる存在ではありません。現代医療ではこれ以上治療できない患者の可能性に賭けたケアでしかないのです」
 医院長が説明しながら香奈恵を葛城からゆっくり引き剝がす。
 取り乱したことに気付いた彼女は慌てて葛城に失礼を詫びた。
 「申し訳ございません。葛城先生。由那のことを思うとあまりにも可哀想でつい……」
 「いえ、お気になさらないで下さい。もし香奈恵さんがターミナルホープのケアを希望するのであれば、私は全力で由那さんを治療します」
 彼女の目を見据え、葛城は力強く答える。
 「ありがとうございます。由那をよろしくお願いします」
 もう一度大きくお辞儀をして彼女は葛城のケアを依頼した。
 「葛城先生。天原由那さんは今、君のいる診察室の上の階にある個室病室に昨日から検査も兼ねて入院している。夕方になる前に顔合わせしておきなさい」
 医院長は早速、葛城に指示する。
 「わかりました。それでは失礼します」
 このあと香奈恵にはターミナルホープとの契約の詳細な説明があるはずだ。葛城は2人を残して由那の元へと向かった。

天原由那が入院している個室の前までやってくる。
「由那さん、担当医の葛城です。入りますよ」
 廊下の位置からでは声が届いているかわからないが念のため、そう言ってドアを引いた。
 個室は二重扉の構造になっていて、ベッドが置いてある患者の部屋と病院の廊下に挟まれた洗面台だけ設置された薄い空間がある。これはお見舞いに来た来客に必ず一度ここで手を洗わせ、少しでも菌の持ち込むリスクを抑えるため、そして廊下を行き来する医者や看護師、患者の騒音を防ぐために設けられている。
 狭い空間で葛城も手を洗いペーパータオルで水滴を拭ったあとアルコールで念入りに消毒する。
 廊下側の個室の壁はガラス張りになっているがクリーム色のカーテンで塞がれていて中の様子を伺うことができない。
 扉を再度、ノックして廊下で言ったことを繰り返す。
「……どうぞ」
 若干の沈黙の後、少女の素っ気ない返事が返ってきた。
 「失礼します。葛城です」
 扉を開けて立ち塞がるカーテンをゆっくりと引く。
 レールに沿ってカーテンがベットの側面に流れていくと、ベッドの上には不機嫌そうな目をしたか細い少女が座っていた。枝のように細くなった陶磁器を思わせる白い腕に点滴やモニタ用のチューブが繋がれていて痛々しい。
 大きめの白いウサギのぬいぐるみを胸に抱えていることに葛城は気が付く。つい1時間ほど前に廊下ですれ違った少女とウサギであるとこを思い出した。
 「君が由那ちゃんだったのか」
 偶然の再会に驚いたが、当の由那は葛城の来訪を喜んではなさそうだった。
 「先生、由那に何か用ですか? お母さんはどこです?」
 「……お母さんはすぐ説明が終わったらすぐ戻ってくるよ」
 由那に不安を与えないよう、葛城は床に膝が着くぐらい腰を落として由那に目線の高さを合わせる。
 「これから由那ちゃんの治療の担当をする葛城だ。治療大変だと思うけど頑張っていこうね」
 この時、葛城の心の中ではどこか14歳の少女と侮っていたかもしれない。
 葛城の言葉に由那の大きなクリクリとした目がわずかに見開かれる。
 「本当にそう思ってるの? 由那の病気、もう治らないんでしょ? 葛城先生、先生は嘘吐きの顔をしてるよ」
 一瞬、何を言われたかわからなかった。ターミナルホープ、つまり嘘を吐くことを生業としている葛城は出会って数分の14歳の少女に嘘吐きであることを見抜かれたのだ。
 唖然としてしまい次の言葉が出てこない。由那は葛城の目を真っ直ぐに射貫くよう見据える。
 これがターミナルホープ葛城と末期患者、天原由那との出会いだった。

「あはは。由那ちゃんは厳しいな。どうして先生が嘘吐きだと思うのかな?」
 今までも自分の病気が治らないことを感覚的に悟ってか、葛城を疑ってかかった患者が数人いた。しかし、由那のような少女が開口一番、葛城を嘘吐きだと看破するのは初めてだった。
 動揺を気取られないように葛城は由那に微笑む。由那の表情は硬いままだ。
 「まあ、先生が嘘吐きだろうと何だろうと、どうせ由那の病気が治らないことは変わらないし」
 これ以上疑っても何も出てこないと感じたのか、由那は早々に会話を切り上げ葛城を部屋から追い出したいようだった。
 葛城としても顔合わせが終わったため、この場に留まる理由はなかった。香奈恵を無理に待つ必要もないだろう。下手な取り繕いつくろは由那を刺激するだけだ。また明日、診察に来るからとだけ伝えて由那の病室を出る。
 夕方、回診の時間も終わり往来が減った廊下を歩きながら葛城は思案する。
(なぜ、由那ちゃんは俺を嘘吐きだと見破った? ターミナルホープとして訓練を受け続けてきた俺が患者、ましてや幼い少女にバレるわけがない。由那ちゃんが過去、親戚にたらい回しされたことと関係が? とにかく、由那ちゃんは慎重にケアしないといけないな)
 重たい仕事になりそうだと葛城は頭を悩ませる。ターミナルホープとしての責務の大きさ日々押し潰されそうになるが、無理やり自分を奮い立たせた。今日もまた睡眠薬を飲んで終わる一日になりそうだとため息をついた。

案の定、由那のケアは難航を極めた。
 葛城がタブレット上に示したグラフや数値、使用する治療薬についてどんなに説明しても由那は聞き入れる様子はなく、心を閉ざしたままだった。そもそも葛城の言葉を嘘と決めつけているのだ。決して患者に嘘がバレてはいけない存在であるのに、嘘を吐いている前提で構えられていてはターミナルホープのケアが効果を発揮できないのは明白だった。
(――これでは由那ちゃん人生は余命通りに過ぎてしまうだけだ。一体どうすればいい?)
 焦りを抱えたまま葛城はいつものようにケアのため由那の病室に入る。その時だった。
 「どうせ由那はもう治らないんでしょ! こんなの意味ないよ!!」
 ドアを開けた時、耳をつんざくような怒声が聞こえた。
 由那が母親に向かって怒りをぶつけている。由那の母親は困った様子で興奮する由那をなだめていた。
 「由那ちゃん。治らないなんて決めつけちゃダメ。お母さん絶対、由那ちゃんが良くなるって信じてるから。だから一緒に頑張ろう? ね?」
 「そんなわけないじゃん! 毎日、由那が苦しんでるの知ってるでしょ!? お母さんまで嘘吐くの!? あの先生みたいに!」
 由那が香奈恵に言い切った後、葛城が部屋に入って来たことに2人は初めて気が付く。
 ノックの音は由那の怒鳴り声でかき消されていた。
 「……葛城先生。すみません、由那、ちょっと不安になっているみたいで」
 バツの悪そうに香奈恵が葛城の方を向く、憂いを帯びたその表情はどうしたらいいのかわからないと助けを求めているように見えた。
 ターミナルホープのことを伝えられればどんなに楽だろうか。だが、そうしてしまえば最後、精神的なプラシーボ効果は期待できなくなる。それは由那が生きることを諦めるのと同義だった。
「香奈恵さん、由那さんと少し話をさせてもらえませんか? 2人で」
 葛城の打診に驚いた香奈恵だったが、首を縦に振り了承の意を示して、その場を離れた。
「別に、嘘吐きの先生と話すことは何もないですよ」
 葛城と2人きりでも相変わらず容赦のない態度だった。だがターミナルホープとして、そして由那の主治医としてめげる訳にはいかない。
「先生が由那ちゃんとお話ししたいんだ。先生のこと嘘吐きだって最初の時も言っていたね。きっと由那ちゃんの中には、何か根拠があるんじゃないかな? 嘘吐きをたくさん見てきたとか?」
 想定よりも単刀直入に聞いてきた葛城に由那は少しばかり虚をつかれて返事に詰まる。が、観念したように口を開いた。
「はぁ。先生の言う通りです。小さい頃からあちこち親戚の家に預けられたせいでずっと大人の顔色を伺って生活してました。そしたらそのうち、嘘を吐く人とそうじゃない人が見分けられるようになったんです。嘘を吐く人はどこかが不自然になります。話す時の髪をいじる癖とか目の動き方、唾を飲み込む回数とか色々。先生は由那のこと治すって言った時、嘘を吐く人特有の不自然がありました。だから先生は嘘吐きなんです」
 洗いざらい話した由那は膝を抱えてうんざりした顔で葛城から目を逸らした。全て話すつもりはなかったのだろう。
 葛城はよわい14歳の少女にそれだけの人を見抜く力が備わっていることに驚きを隠せなかった。親戚中をたらい回しにされて自然と身につけた処世術。生きていくために獲得したすべが由那の生きる可能性を邪魔しているというのは、なんとも皮肉な話だった。
「そうか。由那ちゃんはずっとずっと辛い思いをしてきたんだね」
 誰に聞かせる訳でもなく葛城の口から言葉が漏れた。
 嘘を見抜ける患者にターミナルホープは何の役にも立たない。葛城は己の無力さを呪った。嘘を以ってしても少女はのだ。
 これ以上の嘘は由那を傷つけるだけだ。葛城は由那に背を向け、その場を後にする。
 失意を秘めた葛城の背中に由那はただ目を逸らすだけだった。

帰宅し、自宅に戻った葛城はこれ以上ないほどに打ちのめされていた。ターミナルホープのケアが功を奏しなかったことはあった。だがケアすらできないというのは葛城にとって初めての経験だ。
 この先の未来を生きていくはずの少女の命が尽きるのを指を咥えて待つことしかできない。
 (まただ。また俺は救えないのか。……医者は、ターミナルホープは何のためにいるんだ?)
 自室のソファで横になりながら自問自答を繰り返す。瞼を閉じれば葛城が今まで救えなかった患者たちが脳裏をちらつく。その中には平田和彦の顔も含まれている。
 葛城はソファから身体を起こすとテーブルに転がった睡眠薬を引き寄せる。
 シートからプチプチと用量以上の錠剤を取り出して口に放り、コップに残っていた水で乱暴に流し込んだ。
 最後に自然と寝ることができたのはいつだっただろうか? そんなことも思い出せないまま、睡眠薬の効果が効き始め葛城は深い闇の中に落ちていった。

由那が嘘を見抜けると聞いてしまった以上、ケアを続けることはできないと医院長と香奈恵に告げるべきかどうか迷っていると、あっという間に由那の回診の時間が来てしまった。
 昨日の今日の一件で少しばかり気が重かったが葛城は自分に今できることだけを考えて由那の病室へ向かう。
 廊下側の扉を開けて入るとガラス窓から由那の姿が見えた。ベッドの上でタブレットを眺めている。
 葛城は思わず見惚みとれてしまった。由那がニコニコと楽しそうな表情を浮かべて目の前の液晶を食い入るように見ている。こんな由那の顔を見たのは初めてだった。
 邪魔しては悪いと思い、由那が動画を見終わったタイミングでノックし入る。
「由那ちゃん、ずいぶん楽しそうだね」
「ちょっと、先生見てたの!?」
 葛城に見られていたと思わなかったのか恥ずかしそうに由那は抗議した。
 葛城がタブレットを覗くとそこには蒼い神秘的なドレスを身にまとった女性がしなやかな身体捌きでステージを舞っている。シルヴィーナ・ハウルという、葛城でもその名前を知っているほど著名なバレエダンサーが踊っているシーンだった。
「バレエが好きなの?」
 葛城が問うと由那は目を輝かせて全力で肯定する。
「うん。シルヴィは天才だよ。由那、シルヴィの踊るバレエ本当に大好きでずっとファンなの!」
 葛城相手に無愛想な態度をとり続けていた由那がシルヴィのことになると饒舌に語るのが微笑ましかった。
「由那ちゃんはバレエを踊りたい?」
 由那はきょとんとした顔を葛城に向けた。
「……うん。踊りたい。もし、もしもだけど、由那の病気が治ったらバレエを踊ってみたい」
 それは由那の切なる願いだった。本当は生きることを諦めてなんかいない。由那にはまだまだ沢山やりたいことがあるはずだった。
 葛城は胸を締め付けられる思いで由那の言葉に耳を傾けた。由那の頭をポンポンと撫でる。
「由那ちゃんにとって先生は嘘吐きかもしれない。でもね。これだけは聞いてほしい。先生は由那ちゃんの病気を治すためにここにいる。だから由那ちゃん。どうか先生を信じてほしい。嘘だと思ってもいい。先生は由那ちゃんの病気を治すために全力を尽くすよ」
 由那の視線を離さないように葛城は由那と向き合う。由那もその言葉に気圧けおされたのか黙ったまま葛城を見つめ返した。
「うん……。わかった」
 ぎこちなく由那は頷く。
 葛城はそれを見て、最後まで由那の主治医を続けようと誓った。

自室に戻った葛城は在宅ワークで使用しているデスクの前に立っていた。
 上から2番の棚に手をかけて引く。
 資料やら文具がごちゃごちゃと入った引き出しの中に1つの瓶が転がっているのを見つける。
 手にとってかざすと、瓶の中には薄ピンク色の錠剤が数十錠入っている。
 (この薬を使うのは、そういえば初めてだな)
 由那は感覚的に人の言葉を嘘かそうでないか見分けることができる。葛城のケアを本能的に嘘と見抜いてしまえば精神的プラシーボの効果を得ることは不可能に近いだろう。だが由那が葛城のケアを本当だと信じ込ませることができたら?
 この錠剤は嘘を吐く時に無意識的に発する眼球移動、手癖、心拍の変動を抑えるための抑制剤だ。ターミナルホープとして訓練、経験が浅い者が処方したり、ケアを疑われた時に使用する。
 3錠、抑制剤を手の平に取り出して水で流し込みソファに横になる。寝る時にはまだ睡眠薬は欠かせなかった。

バレエの話の件から由那は葛城の言葉を少しずつ聞くようになった。投薬によるメインの処置とターミナルホープのケア、両方の治療により由那の体調も入院当初より少しずつ快復していったのだ。
 また抑制剤の効果か由那は葛城のことを無意識的に疑うことが少なくなった。
「葛城先生、もしかしたら由那の病気治る日が来るかな?」
 診察の際、期待を抱く目で葛城にそんなことを聞いた。
「ああ。由那ちゃんの症状は確実に良い方向に向かってるよ。だから大丈夫。絶対、由那ちゃんは元気になる。そしたらバレエを好きなだけ踊ろう」
「……うん! 由那が踊ったら葛城先生絶対見に来てね」
 2人のやり取りを香奈恵は微笑みながら見守っている。
 葛城は由那の瞳に、生きる光を灯す。葛城は懸命に励まし、精神性プラシーボが発現することを期待した。
 ――だがその代償は思わぬかたちでやってくることになる。

持ち回りの患者への回診を終え、看護師たちに各患者へ処方する点滴や薬を指示した後だった。
 診察室でカルテを記入していた葛城の元に慌てた様子の看護師がひとり駆けてきた。
「先生! 303の患者ですけど本当にカルテで指示されている抗がん剤投与であってますか? あの型番の抗がん剤なんてウチにはありませんよ?」
 看護師の質問に葛城はカルテを見返して確認する。
「いや、間違いないよ。彼にはAIで最適化された抗がん剤を……」
 そこまで言って葛城は自分の発言に驚愕した。思わず自分の口を手で塞ぐ。
 今、葛城が言おうとした303の末期患者に処方する抗がん剤はターミナルホープのケアとして吐いた嘘の型番だった。
 精神性プラシーボを発現させるため患者には最もらしい治療薬を伝えるが、間違っても事象を知らない看護師にそれを指示してはならない。
 嘘を吐いていいのは患者に対してだけだ。
 慌てて先ほどまで記入していたカルテを見返してみる。カルテに記載されている内容はデタラメばかりだった。
 ターミナルホープの依頼が無い患者のカルテにまで虚偽の治療内容が、さも事実かのように並べられている。
 吐き気を堪えて葛城はトイレへ駆け込んだ。便器に胃の中のものを全て吐き戻した。
「そんな。恐れていたことが……」
 葛城は診察室にあるカルテの束を持ち、医院長室へと向かった。
 焦る気持ちを抑え、ノックして重厚な木の扉を開けるとオフィスデスクに書類を並べて忙しそうにしている医院長の姿があった。
 葛城のアポ無しの来訪に医院長は面を食らう。
「葛城先生どうしたんだ? そんな切羽詰まった顔をして」
 葛城はデスクの上の書類もお構いなしに、手に握りしめていたカルテをどさりと置いて身を乗り出す。
「医院長。これを見て下さい。これは……私の書いたカルテです」
 医院長は1枚のカルテを手に取り目を通す。すぐさま目を見開き、葛城の顔を凝視する。
 その表情を見て葛城はゆっくりと頷く。
「葛城先生、これはまさか」
「医院長の思っている通りです。私には嘘と現実の境界が判別つかなくなってしまいました。おそらくは睡眠薬と抑制剤の併用。抑制剤を飲み過ぎていたのも関係があるかもしれません。嘘吐きが、嘘と真実の見分けがつかなくなってしまえば、それはもう嘘吐きではありません。ただの狂言者です。……私は、ターミナルホープとしてこれ以上働くことができません」
 嘘と真実の境界が曖昧になってしまった以上、葛城は出鱈目なこと言うだけの医者になってしまった。これでは誰も葛城の言うことは信じられないし、周囲に対して甚大な迷惑がかかる。
 ターミナルホープの最悪の末路を葛城は辿ってしまった。
「……事情はわかった。最悪の事態が怒る前に申し出てくれて助かった。礼を言う。葛城先生の処遇および今、担当している患者の後任は私の方で考える。今日のところは家に帰りたまえ」
「わかりました。それと、後任についてですが、特に天原由那さんのケアについては優秀なターミナルホープを担当させて下さい。彼女はようやく生きる希望を見出し始めました。今が1番大切な時です。何卒、よろしくお願いします」
 最後まで担当したかったという悔しさを抑え、葛城は深く頭を下げる。葛城が願うのは由那に、この先の人生を生きてほしいという一心だった。
「わかった。考慮しよう」
 医院長が重く頷くのを確認し、葛城は安堵の息を漏らす。医院長は何か言いたげだったが、葛城は気付かないふりをした。ここですがってしまえばきっと葛城は自分を誤魔化す。虚構と現実の境界がわからなくなったターミナルホープは希望でも何でもない。葛城は踵を返して医院長室を後にした。

その後の葛城の処遇はあっけないほど手早く決まった。葛城は服薬による虚構と現実の認識障害が治るまで別の附属病院で治療を受けることが決まった。
 ターミナルホープとして、医師としての仕事は無期限で延期となった。
 後任の医師は既に手配済みであり、葛城は自身のデスクにあった書類や荷物を一通り処分して診察室を出る。
 葛城の荷物は背中に背負ったリュックひとつになってしまった。ずいぶんとこの病院にいた気がするが自分の荷物は案外少ない。
 廊下を歩いていると正面に2人の親子が道を塞ぐようにして立っている。
 天原由那とその母親、香奈恵だった。
 点滴を下げているが由那はしっかりとした足取りで立っている。白いウサギも一緒だ。
「葛城先生! なんでよ! せっかく先生の言葉、信じてみようって思ったのに。何で由那が治る最後まで診てくれないのよ!」
 由那の声が廊下に響き、看護師や患者からの注目が一斉に集まる。いぶかしげな顔で見られているがそんなことは由那にはお構いなしだった。
 葛城は由那を凝視する。だがその目には由那を励ましていた頃の光は無く、虚構と現実の狭間を漂う空虚な眼差しだった。
「由那ちゃん、ごめん。由那ちゃんが元気になるまで先生は診てあげることができなかった。どうやら先生は本当の嘘吐きだったみたいだ」
 葛城の弱々しく掠れた声に由那は歯噛みしていた。嘘を吐き続けた代償はこんなにも大きものなのかと。葛城に嘘を吐かせてしまった由那自身の病気が憎く、悔しかった。
 ターミナルホープの末路を辿った医者はもう病院にはいられない。葛城の足取りを止めることは、由那と香奈恵には不可能だった。
 葛城の去り際、由那は絞るような声で言葉を投げかける。
「由那、病気絶対治すから。葛城先生の嘘が無くても病気治して葛城に会いに行くから。――だから先生、絶対待ってて」
 由那の意を決した瞳に葛城の自失した心がわずかに揺れる。どうせ治らない、どうせ生きられないと匙を投げていた頃の由那はそこにはいなかった。生きたいという意志の炎が瞳に光を宿していた。
 気付けば香奈恵は由那の肩に手を当て、涙をいっぱいに浮かべている。
 「……ありがとう」
 葛城はぺこりと頭を少し下げ、足を引きずるように廊下を歩き、由那たちの前を通り過ぎていく。
 由那はその背中を葛城の姿が見えなくなるまで見つめ続けていた。

暖かな春の日差しが中庭いっぱいに降り注ぐ、ポカポカとした陽気かと思いきや、外の空気は肌寒さを感じる。
 キリッとした冷たい空気と暖かなの光、両方を感じ取れるこの時季が葛城は好きだ。
 朝露がついたベンチの水滴をハンカチで拭いて、ポケットにねじ込む。
 腰を下ろして空を眺めると澄み渡る青にヒヨドリたちが列を成して飛んでいるのが影として見えた。
 葛城は朝、こうしてベンチに腰掛け外の景色を眺めるのが日課になっていた。
 ここはとある国立大学附属病院。ターミナルホープとして働くことができなくなった葛城の療養先として医院長が紹介してくれた病院だ。
 あれから2年の歳月が経った。
 抑制剤と睡眠薬を止め、定期的なメンタルケアのおかげで葛城が患っていた嘘と真実の混濁はかなり改善されていた。
 だが医師としての復帰はまだ時間を要する見込みであり、ましてやターミナルホープとして働くことは再発の懸念から絶望的だった。
 暫く、葛城がボーッと地面に視線を落としていると目の前の地面が暗くなる。どうやら人の影が差したようだ。
 視線を上げるとそこは可憐な女性が1人立っていた。
 わずかに赤みがかった茶髪は長髪ながら丁寧に切り揃えられ、よく手入れされているのがわかる。透き通るような白肌は病的ではなくむしろ健康的な印象を感じる。
 長袖のパーカーと下半身のラインがわかるほどフィットしたパンツの出で立ちでかなり身軽そうだ。
 眼前の女性は葛城から距離を取り、少し離れたところでピンと姿勢を正す。
 背中からつま先にかけて一本、見えない芯棒が刺さったかと錯覚するほど綺麗な直立だ。そして、太ももに顔がつくほどに深く一礼するとつま先立ちでその場から跳ねた。助走のない跳躍とは思えないほど高く、着地した後、右足を折り曲げた状態で左足を軸にくるくると回る。
 リズムよくつま先でステップを何度か踏むと、今度はピタリと静止した。右足を徐々に上げていき、遂には地面と垂直になるほど真っ直ぐ上がる。右足のつま先は女性の遥か頭上に掲げられていた。
 そのあまりにも優美な姿に葛城の視線は釘付けになってしまう。
 ふう、と女性は息を吐きポーズを戻すと小走りで葛城の元へと駆け寄ってきた。
「どうだった? 私のバレエ。シルヴィには程遠いけどね」
 いたずらな笑顔で葛城の顔を覗き込む。
「あ、ああ。とても綺麗だった。思わず見惚みとれてしまったよ」
 急な距離の詰め方にたじろぎながら拍手して答える。だが葛城の率直な賞賛に彼女は納得がいかない様子だった。
「はー。それだけかあ。何も思い出さないの? 葛城先生」
 がっくりと大袈裟に肩を落とすジェスチャーをしてため息をつく。わざとらしいリアクションから彼女が本心で落ち込んでいるわけではなさそうだ。
 なぜ自分の名前を知っているのか。そして、葛城がかつて医師として先生と呼ばれていることをなぜ知っているのか。葛城の頭の上にはたくさんの疑問符が浮かぶ。
 彼女の顔をまじまじと見て、葛城は落雷に打たれたような衝撃が走った。
「……もしかして、由那ちゃんなのか」
 2年前、葛城がターミナルホープの主治医として診た最後の患者。そして最後まで診ることができなかった唯一の患者。余命宣告をされた末期患者がその歳月を乗り越え、今こうして目の前でバレエを披露してくれたのだ。
「先生、気が付くのが遅いよ。そうだよ。由那はね、先生のおかげでこんなふうに踊れるようになったんだよ」
 涙を堪えて、愛しむような目で微笑む天原由那の姿がそこにあった。
 葛城の嘘は決して無駄ではなかった。由那の心に確かに届いていた。それは末期癌にも打ち勝てるほどの強い嘘。ターミナルホープと生きたいと願う患者が生んだ奇跡。
 由那はその場でしゃがみ葛城の手を両手で優しく包み込む。
「ねえ先生。先生はもう嘘を吐かなくていいんだよ。だって今までたくさん嘘を吐いて苦しんできたんだから。これからは本当のことだけを言って生きていいんだよ」
 葛城は頷きながらその瞳を見つめていた。朝の病院のベンチで2人向き合いながら大粒の涙をこぼす。
 その光景が急に何だかおかしくなってしまって、2人は思わず吹き出して笑った。
 ――暖かな風が優しく2人の間を吹き抜ける。それは春の到来を告げる風だったのかもしれない。

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