あの子は正定聚しょうじょうじゅ

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あの子は正定聚しょうじょうじゅ

仏国土ぶっこくど(予定地)チバラキの空はいよいよ蒼い。この民たちは信心深く、明けても暮れても赤飯には金のゴマを振り、仏壇に供えた。また、この民たちは忍耐強く、エクスプレスの開通まで五拾六億七千万年でも待つことができた。
 
 その蒼空そらのもと、夕刻拾六時。TKB大学ツクバにて。
 ついに現生正定聚げんしょうしょうじょうじゅが現る。生きながらにして浄土への往生の定まった尊い身。

【現世1】

ここに善男善女の一例あり。
 犬居いぬいかのか、拾八歳、大学一年生、哲学女子。
主食は家庭教師のバイト先からもらってくる赤飯。たまのオマケでつく栄養ドリンクにオロCかリポD、それにもひとつおまけのプッチンプリンが日々の彩りのほぼすべてだった。そして一番風呂。

🐾🐾
 シャワーと風呂イスは整然と並び、共同浴場のたゆたう湯はほんのり金色に光って見えた。
 よかった、まだ誰もいない、と犬居いぬいがほっとしたのも束の間、見るまに湯のおもてが盛りあがり金の光が増す。金の湯が洗い場までざばりとあふれ、目がくらむ。足下が一瞬浮いたように感じ、思わず尻もちをつきそうになった。手にしていた黄色いケロロン洗面器が音を立てて転がっていく。
「ごめんなさい、おどろかせちゃった?」
 鈴の鳴るような声も軽やかに、湯の中から少女がひとり、現れた。立ち上がった全身がまばゆく輝いている。肌も髪も、体毛も、すべてが。
 そんなはずはなかった。
「だって、いままで、」誰の気配もなかったのに。「それに……その、」
「あ、もちろんちゃんと、全身、髪も、すみからすみまで洗ってあるのよ」
 少女は転がった洗面器を拾い上げ、笑顔で犬居に手を差し伸べる。きっちりと結わいてあった髪から雫がハタリハタリ垂れる。雫も金色に染まって見えた。しばたたくその睫毛までも。
「……じゃなくて。あなた、光ってる……」
 犬居は自分の体を隠すのも忘れ、差し伸べられた手をぼうぜんと取った。湯に浸かっていたにしても、しごく熱い手のひら。触れて、熱さに慌てて手を引き、タオルで自分の素肌をおおう。腕は内側に向け、太ももは人目にさらさぬように。犬居の体には無数の傷があった。
「……私、」犬居は口ごもった。洗面器を受け取る。少女はほほえむ。あどけない顔。見覚えのある気もするけれど、犬居にはそれどころではなかった。向かい合って立つと、彼女は犬居よりも頭ひとつ分くらいは小さかった。儚い体をしている。
「もうあがるところなの。おどろかせてほんとうに、ごめんね。わたし、一年生よ。百々乃もものもなみ。そこの追越おいこし学生宿舎の十三号棟一階に住んでる。半円広場の真ん中の」
「あれ、おんなじ……私は二階に住んでる犬居」
「じゃあ、また会いましょうね」
 どこかで見たことのあるような顔だと思ったのはそのせいだったのだ、きっと。

学内すべての善男善女が愛する新入生もなみちゃん。専攻は仏語ぶつご。宿舎で自転車を盗まれた者があれば行って自分の後ろに乗せてやり、池の端でサンドイッチをアヒルに食われた者があれば行って自分の弁当をわけてやるという。
 どうして彼女が名乗ったときに気が付かなかったのだろう。あの子が「もなみちゃん」だ。噂には聞いたことがあった。同じ宿舎にいたなんて。風呂からあがり、短いぬれ髪を風になぶられながら犬居は自分の居室に戻った。そうね、でも、そんなに人気者なら、向こうはもうきっと私のことなんて覚えてない。次に宿舎で、学内で、会ったとしても。
 
 今日も〈大気たいきの像〉は第一学群南端の芝生のうえで左手を天に向け、右手で松美池まつみいけを指している。何故そんな呼び名なのかは誰も知らない。いまは試験前でも行事前でもないのでコスプレはしておらず、通常の腰布一枚の姿だった。
犬居は、翌日にその松美池の前でみんなに囲まれるもなみちゃんを見かけた時にも、彼女に声は掛けなかった。
東大通とうだいどおり? 東大じゃないのにどうして?」
 もなみちゃんは学内の地図を見て小首をかしげている。
「ひがし・おおどおり、だよ、もなみちゃん」
「そうなの? ふしぎ~」
 うふふ~、と、もなみちゃんが笑えば皆がふにゃりとなった。かしげた首にあわせて黒髪ポニーテールが揺れる。風呂で出会ったときには金色だったあの髪が、いまは太陽のもと黒々と光り、あのときよりもなんだかさらに幼く見えた。なのに人はもなみちゃんにひかれてゆく。彼女の見た目の〝甘さ〟こそ、彼女の愛、そのもの。
「それでね、もなみちゃん」
 周りの学生たちは次々に話しかけた。
「お腹が減ったからって、この松美池まつみいけの鯉を捕まえて食べたら除籍なんだって」
「そうなの~」
「アヒルを捕まえても除籍なんだって」
「そうなの~、気を付ける~」
 白い歯がチラと零れると、誰もがぽぉっとなった。
 いけない、もうこのままさっさと通りすぎないと。犬居はもなみちゃんからびりりと目線を剥がし、引いていた自転車に乗ろうとペダルに足をかけた。目の端に、こちらに手を振るもなみちゃんが見えた気がする。まさか、ね。

それからまた今度は平砂ひらすなの宿舎前のことだった。追越おいこしよりもひと区画分大学構内には近い。月曜一限に遅刻しそうな犬居は自転車を飛ばしていたところ、登山にでもいくのかという大荷物リュックの眼鏡男子をもなみちゃんが自転車の後ろに乗せているのに遭遇した。
「もなみちゃん、」
 これはたまらず声を掛けてしまう。
「おはよう、犬居さん」
 もなみちゃんは笑顔だった。犬居はキュッと音をさせて自転車を止めた。前カゴに入れていたカバンごとつんのめる。
「何してるの」
「これは、民俗学主専攻の猿橋さるはしケンくん。同じ一年生よ。猿橋くん、この子は犬居さん」
「いや、なに橋くんでもいいんだけどさ、」

ここにまた善男善女の一例あり。
猿橋ケン、拾八歳、同大学一年生、民俗学男子。

「……なんか、すいません、あの、宿舎に自転車とめておいたはずなのに、なんか、盗まれちゃったみたいで、朝起きたら自転車なくなってて、そしたらもなみちゃんが」
 猿橋はおずおずと自転車の後ろから降りた。刈り上げた襟足が申し訳なさそうに服に埋もれる。犬居は下から上まで猿橋を見つめた。ふたりの背丈は互いに同じくらい。細くも太くもない。眼鏡の奥の大きな目が泣き出しそうなのが犬居の気に入らなかった。
「だいじょうぶ。そのうち戻ってくるわよ、お名前、書いてあったんでしょう? それまで一緒に登校しましょ」
 もなみちゃんは猿橋を励ました。
「あんたがこいだら、自転車」犬居は言った。
「そ、そうですね」猿橋は言った。
「いいよ~、このまま乗ってて。わたし、力持ちなんだから。お友だちとふたり乗り、楽しいし」
 結局、そのまま猿橋がもなみちゃんの自転車の後ろに乗せられ、犬居がそのふたり乗り自転車を最初だけ押した。勢いがつくと、もなみちゃんの自転車は思わぬスピードで滑るように進み始める。犬居は慌てて自分も自転車に乗って追いかけた。もなみちゃんは風で前髪をすべて吹き飛ばされながら、声をあげて笑っていた。
「みんな~、行き先は一学いちがくでいいのね~」
「もなみちゃん、前見て、前!」犬居は叫んだ。猿橋は声も出せずに荷台にしがみついている。
犬居は観念した。もなみちゃんを目の端に捉えたまま、気にせずにいることなんてできないのだから。

そういうわけで、いつかの昼下がりに松美池の前でまたもや彼女を見かけたときにはもう、ためらわなかった。もなみちゃんは芝生のうえに立ち尽くして頭を抱えた長身の男に自分のサンドイッチを分け与えていた。

ここにまた善男善女の一例あり。
八田雉尾はったきじお、弐拾歳、同大学一年生(二浪)、芸術専門学群造形男子。

「ごめん、おれ、一学慣れてなくて。アヒル? ガチョウ? よくわからんけど、こんなにデカいとは……威嚇されて…」
「おひるごはん、食べられちゃったのね」もなみちゃんは言った。
「もなみちゃん、」犬居が駆けつけると、もなみちゃんはスッと指先をのばして池のふちをさした。アヒルとガチョウと鯉とがサンドイッチのパンと具を分けあって貪っている。
「これは、芸専で造形を専攻している八田雉尾くん。同じ一年生よ。雉尾くん、この子は犬居さん」
「浪人してるから君たちよか年は上だけどね。今日は中央図書館に用があってこのへん寄ったらこんなことに」
 雉尾は肩をすくめた。その挙動に合わせ、背中に背負ったメカニカルなプラスティック作品が突然鳥の翼のように広がり、犬居の目が釘付けになる。アヒルに昼ごはんを奪われたのもコレのせいなのかもしれない。しかしその奇妙な装置を背負っていなくとも、Tシャツに絵の具やら何やらの汚れがついているから、芸専の人間は見分けがついた。
Maywaめいわ電機さんに憧れてるんだ。芸専のOBだろう?」
「とにかく、一緒に食べよう、もなみちゃん。私もいまそこでサンドイッチ買ってきたとこだから」
「あ、どうも」雉尾が言った。軽く頭を下げると、長めの髪が首筋に揺れている。
「あんたの分じゃないの。もなみちゃんにあげるの」犬居は言った。
「だいじょうぶ。いつもの二倍噛んで食べたら同じなのよ」
 もなみちゃんは笑って芝生に腰を下ろした。雉尾もようやく背中のマシーンを取り外し、犬居ともなみちゃんに並んで座る。
「もなみちゃん、もなみちゃん、自転車が、」
と、A棟のほうから続く坂を猿橋が駆けおりてくる。背中で大荷物が上下していた。
「見つかったの?」
「うん、書籍部の前に乗り捨ててあって。ありがとう、本当にいままで助かったし、うれしかった。あの、犬居さんも、ありがとう」
「……なにもしてないけど」
 犬居はサンドイッチを頬張っていてそれ以上は何も言えなかった。猿橋と雉尾はしかし、互いの顔をじっと見つめ、あれ、と言い合う。
「むかし、近所で見たことある、その眼鏡!」雉尾が言った。
「もしかして、ちょっとしかいないで、引っ越していっちゃった……?」
「おれんち、めっちゃ転勤多かったんよ」
「ぼく、眼鏡はレンズだけ替えてずっと使ってるんです」
 ふたりは通っていた小学校の話をし、それから、猿橋が荷物の中から携行食を取り出して雉尾に分け与えた。いつのまにか、白いアヒルと灰褐色のガチョウが四人の周りに集い、すべての食料を分けあいつつ、皆で食べた。

学食で食べる日にもそんなふうだった。
「はい、犬居さん、叉焼よ」
 第一学群の学生食堂にて、ラーメンにのった一枚きりの薄い叉焼をもなみちゃんは犬居に与えた。
一食いちしょく名物・醤油ら~めん」のノボリが学食入り口にはためくが、そのじつは醤油味のお湯風味らーめんであり、呼び名に恥じないほどうまいかと問われれば学生たちは首をかしげるしかなく、しかし、たまに無性に食べたくなる代物だった。
「もなみちゃん、お肉キライだったっけ?」
「きらいではないわ。でも、犬居さんが食べたほうがいいの」
「どうして」
「わたしね……ほんとは、お風呂で言おうと思ったんだけど……」
 もなみちゃんは目を細めて犬居の耳に口を寄せる。
 調理場の奥から、割烹着の胸に「壱」の刺繍を入れた一食のオバチヤンが、麺を茹でながらその姿を見ていた。
 
 第二学群の学生食堂にも、名物はあった。ふりかけご飯だ。
「ここ、ふりかけもごま塩も、かけ放題なんですよ」
 猿橋がどんぶりに山盛りの白米を前に両手を合わせて言った。
「そうね、お味噌汁もお代わりし放題ね」
 もなみちゃんが自分の茶碗の白米を猿橋のどんぶりに分けつつ言った。
二食にしょく名物・てんこもり飯お代わり放題」のノボリがはためく。米どころの飯のようにうまいかと問われれば学生たちはあいまいに笑うが、とにもかくにも腹を満たすならここだった。のりたま、しゃけ、たらこ、すきやきふう、ごま塩、ゆかり……ふりかけの種類も選べる。
「そういえばさっき、犬居さんから一食でラーメン食べてるってメールありましたけど、一緒じゃなかったんでしたっけ、もなみちゃん」
「ええ、一緒に食べたの。おいしかった」
 もなみちゃんは目を細める。
 調理場の奥から、割烹着の胸に「弐」の刺繍を入れた二食のオバチヤンが、白米を炊きながらその姿を見ていた。

同じとき、第三学群の学生食堂では、芸術専門学群から遠くわざわざここまでやってきて、雉尾がフライドポテトを食べていた。
「ここだけなんだよなあ、作り置きじゃなくて、揚げたての芋くわせてくれるの」
「そうね、揚げたてのおいもは最高ね」
 もなみちゃんがトマトケチャップを雉尾の皿に盛りつつ言った。ポテトのお代わりはできないが、トマトケチャップだけは無限にかけることを許されており、「三食さんしょく名物・揚げたてポテト(無限トマトケチャップ)」のノボリがはためく。そしてここでは、外のチェーン店よりもうまいかと問われれば学生たちは無言でこくりとうなずく。
「そういえばさっき、猿橋から二食でもなみちゃんと飯くってるってメールきてたけど、一緒じゃなかったの」
「ええ、一緒に食べたの。おいしかった」
「もなみちゃんは、なんやらフォンとか、連絡を取り合うような端末もってないんだね」
「ええ、いらないの」
「おれもほんとはこんなの捨てたい気がするんだけどさ」
 雉尾はテーブルの上に手のひら大の端末を放った。
「もなみちゃんの居場所は、なんでかいつもわかるからね。人が集まる」
 もなみちゃんは目を細める。
 調理場の奥から、割烹着の胸に「参」の刺繍を入れた三食のオバチヤンが、芋を揚げながらその姿を見ていた。

オバチヤンたちはもなみちゃんの姿を確認し、口を揃える。
「あの子が正定聚」

 

【現世2】
 
 日を追うごとに、四人はますます親しくなっていった。昨日今日出会ったというのではない、郷愁にも似たもどかしい懐かしさを、会うたびごとに確かめ合った。

牛Qうしく大仏? そうね、たしかに、近くまでいってみたことってないかも」
 五色ごしきのストライプのレジャーシートを半円広場に敷き、もなみちゃんは脚を伸ばして寛いでいた。犬居はシートの上であぐらをかき、猿橋と雉尾は芝生にはみ出して寝転んでいる。みんなでしゃべっていなければ、すぐにもまぶたの上下がくっついてしまいそうな、そんな陽気の昼だった。
 もなみちゃんはこの辺りの出身だという話だ。するとかえって、大仏を拝みに行ったりはしないのだろう。
「なんでかわからないんだけど、昔から、両親に止められてて」
「なあに、どうしてかね?」
 犬居も首をかしげた。
「小さいわたしが泣くと思ったのかもね。大仏さまが、あまりに大きいから」
 もなみちゃんはやわらかくほほえむ。
「じゃあ、決まり。次の休み、晴れたらみんなで行こうよ。しかも週末は花火あがるって聞いたんだ。おれ、そのへんバイト休みだし、車出すよ。みんな一緒ならもなみちゃんも平気だろう」
 言い出したのは雉尾だった。
「いいですね。ぼくも牛Qって行ったことないんです」
「カテキョだから私も土日バイトないし、異存はないけど、雉尾、なんで大仏拝みたくなっちゃったの」犬居が聞いた。
「おれはさ、拡張する身体を追求してるわけ」
「そんなことしてたらいつか大仏になっちゃうじゃん」
「そうね~」もなみちゃんが笑った。
 追越学生宿舎前、陽だまりの半円広場に人が集まりはじめる。
「もなみちゃん、おにぎり食べる? お茶もあるよ!」
「ありがとう~! 食べる~」
 おにぎりはそのとき広場にいた全員に行き渡るほどあった。配っていた学生は米どころニイガタの出身らしい。
「Hi, Monami-chanもなみちゃん! 」
「こんにちは~! くれるの? ありがとう! あとでタッパー返しにいくね~」
 かたや留学生たちがもなみちゃんに手渡した容器には手作りの水餃子。それに、薄ーく伸ばした平焼きパン。スパイスの香り高い炒め野菜をくるんで食べれば絶品だ。
「これはなんて言う料理なの?」
 犬居が聞くと、返ってくる答えはたいてい、
「コレはウチのオリジナル料理。オカアサンがつくってた。どこのウチでもたべてるかはシラナイ」
「なるほど…私も料理作れたらなあ……」
「どれもおいしい~」
「もなみちゃんといるとほんと、食べるものに困りませんね……」猿橋がつぶやいた。
「ちがいない……」雉尾がしみじみうなずく。小鳥が集い、もなみちゃんの肩にも膝にも羽を休める。もなみちゃんは米粒やパンくずを手のひらに集めて鳥たちに与える。
「犬居さん、食べれるときにもっと食べとかないと、また痩せちゃいますよ。ぼく、家では弟も妹も犬も猫も多かったから、食いっぱぐれる子の顔がわかるんです」
「食いっぱぐれで悪かったよ」
 でも、懐かしいくらいにくつろげる。実家って、こんなのなんだろうか、本当は。犬居は、もなみちゃんと、猿橋と、雉尾を見た。出会って日も浅いのによくよく知った顔に見える。行儀良く、あるいは、行儀悪く、美味しいものを頬張り、おしゃべりをして、脚を組んだり伸ばしたり、転がったり。いつの日も緊張で強ばっていた犬居の体はいま、生まれてはじめてというくらいに緩んでいた。こんな日が自分にくるとは思ってもいなかった。父母のいる家では、物心ついてから一度もそんな記憶がなかったから。家を出て、良かった。宿舎はいい。みんな不器用に暮らしてるから。
そのうちにもなみちゃんは、自分の食べていたものをあとからやってきた学生たちにも分け与えはじめた。宿舎に住まう猫たちも子連れで腹を空かせてやってきて、ついにはもなみちゃんの口の中のものまで欲しがった。もなみちゃんは、噛み砕いた米粒を、まだ目も開ききらない仔猫たちに指ですくって吸わせた。幼い猫たちを脅かさぬようにじっと動かない。その姿は、まるで、ほとけの像のよう。

雉尾が格安で手に入れたという中古の小型バンは、すでに荷物でいっぱいだった。段ボールに詰められた謎の木片、プラスチック片、針金といった素材系から、のこぎり、ハンマー、そしてドライヤーといった道具類まで、様々だ。
「モノとモノの隙間に挟まればいいわけ? これってほんとに人が乗れる?」犬居が聞いた。
「のれるのれる」
「安請け合い」
「何かを解体できそうなほどのアレですね…雉尾くん」
「やめて」
 犬居が猿橋の肩を勢いよく叩く。
「ああ、そういえばこないだ、追越の粗大ゴミ置き場から……」雉尾が何事か言いかける。
「拾ってこないで!」
「こないだね、雉尾くん、古い椅子を直してくれたの、すごく助かっちゃった。いま、うちの宿舎の共用スペースにある椅子、ぜんぶ雉尾くんが材料拾ってきて作ったり、直したりしてくれたものなの」もなみちゃんが言った。
「そんで店でも売れるしね」
「リサイクルショップでアルバイトしているんだものね」
「おかげさまで時給あがったよ」
「ひょっとして、宿舎の粗大ゴミ置き場に夜な夜な何か出るって評判になってるのぜんぶ雉尾くんなんじゃないですか」
 猿橋がずれた眼鏡を直しながら言った。
「かもね」雉尾は鼻にしわを寄せる。
「さ、乗った乗った。そっち、ドア閉まる?」
「無理かもしれん」後部座席に乗った犬居がドアを引くが、軽い音しかしない。
「犬居もうちょい。がんばれ」
「だいじょうぶ。かして」
 もなみちゃんが犬居の体越しにか細い腕を伸ばして力いっぱいドアを引くと、車内にガツンと音が響き、バンはやっと密室になった。
「よーし、出発! 猿橋、ナビよろしく」
「ぼく地図が読めないんですよ」
「なにっ」
「あんた、フィールドワークんときどうするのよ」
「向こうについてからのことならだいぶ予習してきたんですけどね」
 すると、もなみちゃんが窓を開けて外を指さした。
「あっちよ、あっち。だいじょうぶ、わかるの。わたしたち、迷うことなんてない。雉尾くん、五拾五号へ。東大通りよね」
 もなみちゃんの言うとおり、迷うことはなかった。車はほぼ南下するのみ。ただ、荷物のバランスの悪いバンがかなり揺れるため、途中、何度か休憩を挟んだ。効かないクーラーを諦め、窓を全開にして風を入れても、猿橋はひどく車酔いをした。車の外でもなみちゃんが水を飲ませる。
「猿橋くん、もうあとは真っ直ぐ行くだけよ。だいじょうぶ。ほら見て、大仏さまの御姿がもうそこに」
「ああ、ほんとうだ……大きい」猿橋は口の周りをびしょびしょにしながらうめく。一帯に高い建物は影もなく、牛Q大仏の姿は直線で数キロ先でもよく見えた。
「もうすぐよ……」もなみちゃんの目が大仏に吸い寄せられるのがわかる。
 犬居と雉尾も目を見交わす。
「なんだかドキドキしてきたかも」犬居が言った。それから足もとに視線を移し、意味なくつま先で小石をもてあそんだ。
「え、らしくないじゃん」
 運転席に戻りながら雉尾が言う。犬居は何も、答えない。何も言いたくないときには答えなくとも雉尾が気分を害したりしないのはもう知っていた。

「大きい……」
「おっきいですね……」
「デカい……」
 凧揚げでもできそうな駐車場にバンを止めると、猿橋もようやく精気を取り戻した。一行は牛Q大仏を仰ぐ。それは想像よりも、道々に見ていたよりも、遙かに高く巨大な像だった。蓮の台座をあわせて全長120メートル、そのお顔だけでも20メートル、手のひらは18メートル、目の幅2.5メートル、お口元が4メートル、お耳は10メートル、総重量4000トン。雲ひとつない空の蒼と大仏の青銅の肌とのコントラストが見事だ。
「猿橋、おまんじゅうはあとだよ、帰りに買いな」
 仲見世を通る。土産物屋が並び、大仏饅頭、大仏Tシャツ、大仏スティックケーキ、御守り、キーホルダー、ステッカーも揃う。
「へえ、こういうの、制作に使えないかな」
「バチ当たり」犬居が言う。「あれ、もなみちゃんは、」
「あ、もなみちゃん、まだ仲見世の入り口にいますよ」猿橋が指さした。
 犬居がもなみちゃんのところまで戻る。もなみちゃんはまだ、大仏を見上げる位置にいた。静かに合掌し、目を閉じている。そんなもなみちゃんを見ていると、大仏のほうから優しい眼差しを注ぐのではないかとさえ思われた。
「なんて美しい御姿なのかしら」
 もなみちゃんは目を開けずに言った。
「大仏さまの胎内巡り、行くでしょう?」
「ええ、」もなみちゃんのまなじりが光る。犬居の手を取る。「行きましょう」
 仲見世の切れる場所で、猿橋と雉尾が待っていた。
「お待たせ」もなみちゃんは言った。「戻ってきたら、ここで屋台のお団子食べましょうね」
 四人は庭園へ導かれる。曲がりくねる〈雲の道〉を通り、途中、もなみちゃんが絵馬を書き、願い事は秘密だと笑った。
「わあ、見てください、ラホツ一個でこんなに!」
 猿橋は道の端で、直径1メートル、重量200キロという原寸大螺髪らほつの模型にしがみついた。雉尾が写真を撮る。
「これが大仏さまの頭に480個ついてるなんて、夢みたいですね!」
「猿橋くん、元気になってよかった。うふふ~」
「見て、もなみちゃん。親鸞聖人」
 四人は發遣門はっけんもんに至り、親鸞聖人像と釈迦三尊像に手を合わせると、いよいよ真っ直ぐに牛Q大仏と向き合った。
「あとはただ、この道を往くのね」
 もなみちゃんが見つめると、大仏も見つめ返す。周囲を歩く人々も、もなみちゃんを振り返っては笑みを浮かべた。
 大香炉の煙を浴び、横超おうちょうの橋で声を合わせて「南・無・阿・弥・陀・仏」と六歩で渡る。ほんとうに、足もとから見上げればいまにも動きださんという立像の姿だった。首が痛くなるほど眺めてから、四人は胎内の入り口へと歩き出した。
「もなみちゃん、」どうしたの、と犬居が声に出す。いつもは桃色の、頬の血色が悪かった。心なしか震えている。
「寒い? ……そんなわけないか、日射しが暑かったから、立ちくらみ? 熱射病?」
「ううん、ちがうの。いいえ、あつい……でもだいじょうぶ、ふたりには内緒にしてて」
 いつのまにか、周りに人がいなくなっていた。もなみちゃん、犬居、猿橋、雉尾。四人だけだ。
「大仏さまの中に入れてもらえば、涼しいし、きっと休めるから」
 犬居がもなみちゃんを支え、暗闇の中へと進んだ。
「この一階は衆生に注がれる〈光の世界〉なんだそうですよ」
 赤に緑に青に輝く闇の中で、猿橋の声がした。
「予習してきたんだっけ? なんかもっと教えてくれ」雉尾の声がする。
仏人ふらんすじんのデザイナーさんが意匠を凝らしてくれた空間だとか」
「なんでだよ」
「さあ……どうしてでしょうか」
「蓮の香りがするわ」
 そのとき、もなみちゃんがはっきりとした声で言った。
「お香を焚いているのかもしれませんね、あ、あそこから階段で上に行けます」
「上に、お願い、犬居さん、霊鷲山りょうじゅせんに連れていって」
 犬居の耳もとにもなみちゃんがささやく。
「もなみちゃん?」
 猿橋と雉尾も両脇に寄ってきた。階段をのぼって順路を進まなければ地上85メートルに至る昇降機は現れないはずだった。

「上へ参ります」

だが、明るいほうから女とも男ともつかない快い声がして、犬居は顔をあげる。それは階段下の一画だった。
「おれ、エレベーターガールって初めて見たかも」雉尾が言った。猿橋もぽかんと口を開けている。
 白くかっちりとしたブレザー姿、黒い帽子におかっぱ頭、真っさらな手袋で開いたドアを押さえている。もう片方の手はピンと天上へ向けられていた。
 上へ参ります、と昇降機を操作する女性エレベーターガールはもう一度言った。涼しげな目元に、引き結んだ唇。どこかで見たような、しかし、整っているがゆえに特徴も無く、非常に記憶に残りにくい顔立ちをしていた。犬居は彼女から何かを読み取ろうとするのを諦めた。
「行くよ」
 犬居は短く言い、箱の中に乗り込んだ。もなみちゃんの望みを叶えてみせる。
 昇降機の床がぶるんと震えた。四人を乗せ、扉が閉まる。
 グッと下から押し上げられる感覚があり、猿橋ではないが、犬居も気分が悪くなった。乗り物酔いなどついぞしたことのない自分が……
「耳が痛いかもです……」猿橋が耳を押さえ、うずくまる。
「サル!」雉尾が短く叫んだ。それはあだ名で呼んだのでも、まして罵倒でもなかった。
 猿橋はサルだった。
 犬居は声が出なくなる。口を押さえる。が、喉から出たのは唸り声。両腕はもなみちゃんを支えていることができなくなり、自分の手に目をやろうとするが……腕が内側に回らない。褐色の毛の生えたこれは、前脚。
 犬居はヤマイヌだった。
 びたん、と何かが床に転がる音がして、ヤマイヌはきろりと目玉を動かす。こんなところで水のにおい。
 雉尾は水に濡れたカワウソだった。
 短い四肢。落ち着かない動き。太く、長い尾。

「まもなく、霊鷲山の間でございます」

エレベーターガールエレガの声が麗らかに響き、扉が開いたがそこは森の中だった。
 ヤマイヌとサルとカワウソとのあいだを、一匹の真っ白なウサギがすり抜けていく。
〝待って〟ヤマイヌは声にならない声で言った。昇降機であった空間から、サルとカワウソと共にまろびでる。

【過去世1】

「さておまえたち、〈ほとけ〉さまのために食べ物のお布施をなさい」
 エレガの声が天から言った。
「お布施には大きな果報があります」
〝果報だって。なにかもらえるのかな〟サルが言った。
〝そんなことを心の中に思っていてはだめだろう〟カワウソが言った。
〝私たちは修行中の身だよ〟ヤマイヌは言った。
 この動物たちは森に住まう者たちのなかでもとりわけ賢いとされ、ことにウサギは心がその毛並みのように清いともっぱらの評判だった。
〝エレガさま、わたしたちにお布施を惜しむ気持ちなど毛頭ないのでございます〟ウサギは二本脚で立ち上がって言った。
〝さあ、あなたたち。食べ物を集めてまいりましょう〟
 
 ヤマイヌは森の奥に分け入って、藪の中に蜥蜴を見つけた。そのときに腕も鼻先も傷だらけになったが、なんとか獲物を捕まえることができた。
 そういえばヤマイヌには家族があったかもしれなかったが、このところトンと音沙汰が無かった。ウサギよりもサルよりもカワウソよりも、顔を合わせていなかった。そのためにヤマイヌは、家族がどんな顔をしていのか、また、家族に似た自分がどんな顔をしていたのか、もうほとんど思い出せなくなっていた。家族は、ヤマイヌが獲物をたくさん捕まえたときにだけ現れて褒めてくれた。もしかしたら今日あたり、また現れるかもしれない。でも今日は、すべての獲物を与えてしまうわけにはいかないのだ。ヤマイヌは家族がやってくるのを恐れた。
 日が暮れて、やはり家族はやってきて、ヤマイヌに、良くやった、と声をかけ、ひなびた蜥蜴をすべて持っていってしまった。ヤマイヌは鳴いて鳴いて自らの腕を噛んだ。

顔も忘れた
家族より
心のうちを 知るのはあなた
友よ、友よ
私の傷を舐めて正定聚となれ

ウサギは駆けてやってきて、ヤマイヌの腕の傷を舐めた。
〝悲しむことはありません。あなたは功徳を積んでいます。明日、日が昇ればまた、蜥蜴は集められましょう〟
 それからウサギは夜中じゅうこっそり蜥蜴のしっぽをつついて追い立て、ヤマイヌの住みか近くの藪に蜥蜴が潜んでおくようにした。ウサギは疲れた体を枯れ草の中にどさりと横たえ、昼まで眠ってしまった。

日が高くなってから、エレガの声がした。
「ヤマイヌよ、お布施の食べ物は集まりましたか」
〝はい、エレガさま〟ヤマイヌは言い、うたをうたった。

しっぽの
ちぎれた
あおいとかげ
あかいとかげ
くろいとかげ
ちぎれているのは なぜかしら
それでも まるまるおいしそう

〝どれでもお望みのとかげをお召しください、エレガさま〟

また別の日にエレガの声はサルを訪ねることにした。
 そのときにはサルは毛がむしられており、そのむしられた茶色い毛の抜けてしまったところには、ウサギのものと思しき白い毛が代わりに当てられていた。
 このサルは他のサルたちと比べて図抜けて賢かったが、非常に妬まれやすい性質をしていた。いつも思ったことをすぐ口にしては嫌われ、正しいことを口にしては嫌われていた。お布施のマンゴーを集めている最中にも、青いマンゴーをぶつけられて頭にはコブができた。転んだところに寄ってたかって毛をむしられた。サルも鳴きに鳴いた。

おんなじ顔の
同族よりも
心のうちを 知るのはあなた
友よ、友よ
ぼくの毛をうめて正定聚となれ

ウサギは駆けてやってきて、サルの抜けた毛の手当てをした。
〝悲しむことはありません。あなたは功徳を積んでいます。明日、日が昇ればまた、マンゴーは黄色く実りましょう〟
それからウサギは夜中じゅうこっそりマンゴーの木を揺すって食べごろの実を落としてまわった。ウサギは疲れた体を枯れ草の中にどさりと横たえ、昼まで眠ってしまった。

だから日が高くなってエレガの声がしたときにはサルの毛皮はそんなふうだったのだ。
「サルよ、お布施の食べ物は集まりましたか」
〝はい、エレガさま〟サルは言い、うたをうたった。

あかく
きいろく
熟した実
落ちていたのは なぜかしら
それでも まるまるおいしそう

〝どれでもお望みのマンゴーをお召しください、エレガさま〟

また別の日にエレガはカワウソを訪ねることにした。
 カワウソは泳ぎが得意だったから、わけなく魚を捕まえることができた。だが、そのとき、川辺から長老カワウソが言った。その老カワウソは一族でも名高い魚取りの名手だった。
〝おまえはまだまだだな。はじめは見どころのあるやつとおもうとったが、いっこうそれ以上うまくならん〟
〝ではどうすればよいのです〟カワウソは聞いた。
〝こうして、こうじゃ〟老カワウソはやってみせた。
 けれどそのやり方は年若いカワウソには合わなかった。逆に魚は逃げていくばかり。カワウソの体は冷たく濡れたままで、あたたまる暇もなかった。カワウソは静かに密かに鳴いた。

わけしり顔の
長老よりも
心のうちを 知るのはあなた
友よ、友よ
おれの体をあたためて正定聚となれ

ウサギは駆けてやってきて、カワウソの冷えた体をあたためた。
〝悲しむことはありません。あなたは功徳を積んでいます。明日、日が昇ればまた、逃げた魚たちも戻ってきましょう〟
 それからウサギは夜中じゅう川に潜って石という石をひっくり返して残っていた小さな魚をとった。川岸の岩のうえには光る魚たちがぴちぴちと跳ねた。ウサギは疲れた体を枯れ草の中にどさりと横たえ、昼まで眠ってしまった。

日が高くなってから、エレガの声がした。
「カワウソよ、お布施の食べ物は集まりましたか」
〝はい、エレガさま〟カワウソは言い、うたをうたった。

くろいさかな
みどりのさかな
きいろいさかな
いつもより 小さいのはなぜかしら
それでも まるまるおいしそう

〝どれでもお望みの魚をお召しください、エレガさま〟

最後に、エレガの声はとうとうウサギの頭上に響いた。
「ウサギよ、お布施の食べ物は集まりましたか」
 傷だらけで、毛が抜けて、ずぶ濡れのウサギは疲れ果てて枯れた声で答えた。
〝いいえ、エレガさま。お布施を惜しむ気持ちはこれっぽっちも御座いませんが、わたしにはむつかしゅうございました〟
 ウサギは最後の力を振り絞り、天を仰いだ。
〝ですからどうか、火をおこしてくださいませ〟
 神通力によって作り出された焚き火で、ウサギの被毛はみるみるうちにふわりと乾き、花の香りを漂わせる。いまにも閉じられんとしていた赤い目はらんらんと輝き、珠のよう。
〝この身の他に、わたしにはなにもありません。どうかわたしの肉をお召しください〟
 駆けつけたヤマイヌと、サルと、カワウソの、止める間もなかった。ウサギは炎の中に身を躍らせた。
「これこのように、捨身供養しゃしんくようを繰り返し果たせばおまえたちにも正定聚への道がひらけます」
 エレガの声が言ったが、ヤマイヌもサルもカワウソも、口が利けなかった。ウサギの毛の焼けるにおいがする。バチン、と薪の爆ぜる音がするも、恐ろしさにだれも炎の中まで目を凝らすことができない。
 正定聚。生きながらにして浄土への往生の定まった尊い身。三匹はこのとき初めて、その意味を真実理解した。炎に消えたウサギの最期のうしろ姿が、丸い尻が、いついつまでも三匹の目に焼き付いていた。
 やがて再び昇降機を操作する女性エレベーターガールの姿で顕現したエレガは、手袋をしたその手で森を握りしめて汁を搾り、そらへ昇ると月面にウサギの生前の姿を描いた。

そしてこの頃、月の底にはすでに〈うつろびと〉たちが暮らしていた。うつろ人は月面に描かれた動物の図を見、口々に言い合った。すなわち、
〝ショウジョウジュ、とは何ぞや〟
〝この生き物のことか〟
〝これは何のかたちか〟
 うつろ人たちは地球への関心を深めていった。

【過去世2】

三人の老僧たちが森の中に干からびていた。
 まだかろうじて息はある。この山の中、近くにあった小さな川にとんと清水が流れなくなったのだ。彼らにはもう立ち上がる力もない。長い間、彼らはここに庵を結び、修行をつんできた。そしてまさにいま、蝋燭の炎の尽きるように、命の火の消えるところだった。老僧たちは枯れ草の上に座を組んだまま、話し続けた。口を開かなくなった者があれば、それが死んだということだった。
「アーナンダよ……おまえは若かりし日にエレガさまからお声を賜ったことから出家し、一番にボーディサッタにお仕えしたな……我々よりも、ながく…ながく……」
 腕に傷のある老アーナンダはわずかに微笑んだ。
「いまさらどうしたというのだ、モッガラーナ」
 老モッガラーナは長身を軋ませて揺らせた。これでも笑っているのだ。植物の揺れるようだった。
「いまさらも、なにも、いまこのときにも、うらやましくて仕方が無いのだ。ボーディサッタと過ごした日々の、一日でも一秒でもながいおまえのことを……」
「この期に及んでまだ言うか、モッガラーナよ」
 老サーリプッタが口を開いた。唇が枯れ葉の色をしている。
「生きていたか、サーリプッタ」
 老モッガラーナは老サーリプッタの顔に触れようと手を伸ばしたが、その手はむなしく、老サーリプッタの眼鏡のつるをかすっただけだった。眼鏡は地に落ち、下草の中に見えなくなった。
「おお、すまなんだ……」
「モッガラーナよ、どちらにせよ、互いにもう目などどうにも見えておらぬではないか」
「ちがいない……」
 老モッガラーナの身がますます傾いだ。
「ああ、もうエレガさまのお声もかからぬのか、役にも立たぬ我ら老いぼれの身には……」
 老アーナンダがうめく。
「おお、ボーディサッタよ、いまいずこ……」

わたしは いつも
友らをうるおす 水でありたかった
若き日も 老いた今も
友らをうるおす 水でありたかった

「ボーディサッタの声がするぞ」
「どこからか」
「森の奥からか」
 老僧たちはにわかに顔をあげ、左右に首を動かす。老ボーディサッタのその声は朗々と響いた。彼女の若く美しかった頃の面影ある音色だった。
「川の源をさかのぼったものの、すでに手の施しようがなく……許せ、友らよ」
「よいのだ」
「よいのだ」
「そなたが戻ればそれで、よいのだ」
 三人は、座の中に倒れ込んだ老ボーディサッタの、手を脚を頭を、抱きしめてさすった。カサカサと乾いた音のする。
「ああこれならばまだ畜生であったほうがなにかのお役にも立ったというもの。情けない身の上じゃ」
 乾きに乾いて、誰の目にも涙も出ない。
「かくなるうえは、この身の内にある清水を友らに、残った身は次にやってきた森の獣にやってしまおう……」
 そう言うとボーディサッタは、最期の力を振り絞り、かたわらの岩に頭を打ちつけた。割れた頭から、脳漿が尽きることのない清水として溢れ出す。
 ボーディサッタ、ボーディサッタ。
 アーナンダとサーリプッタとモッガラーナはその亡骸にすがりついたが、やがて現れた親子連れの巨大なイノシシが、ボーディサッタの血をすすり、乾いた肉を噛み、すっかり骨だけにしてしまった。
 のちに再び昔変わらぬ姿で顕現したエレガは、手袋をしたその手にボーディサッタの舎利を取り、宙に昇ると月の縦孔たてあなに納めて供養した。

そしてこの頃、同じ山中の洞窟には〈うつろ人〉たちが移り住み、その様子をうかがっていた。うつろ人たちは、この地の水を飲まないし、この地のものを食べない。ただ月から持ち込んだ氷だけを食べた。だから川を涸らせてもどうということはない。どうか岩をどかせてくれというボーディサッタの願いを聞き届けなくてもどうということはない。
〝ショウジョウジュとは、いまの頭の割れた老婆のことか〟
〝いや、アレはまだソウとは決まっておらぬらしい〟
〝するとこれから、どうなるというのだ〟
 うつろ人たちは地球人への関心を深めていった。

【過去世3】

百々太郎ももたろうは桃の実のうつろから生まれた。川に洗濯に来ていた媼に桃の実ごと拾われ、翁の前で桃から生まれ、病気もせずにすくすくと可憐な美少女に育った。そして大変な力持ちで働き者であった。村では、

歩くあとに蓮の花咲く百々太郎

とうたわれ、求婚者が絶えない。
 ある日、百々太郎は道端でケガをしてうずくまっていた犬を助けた。それから、村の子らに青柿をぶつけられていた猿を助けた。それからまた、羽をとんでもない七色に染められた雉を助けた。
 百々太郎は犬と猿と雉と遊び、働き、媼と翁に尽くし、婿もとらず、平和に暮らしていた。だが、周囲の人間は百々太郎を放っておかなかった。
百々ももや、百々」
「はい、おばあさまおじいさま、百々はここに」
 百々太郎は、犬猿雉を連れて庭に現れた。
「畑を耕しておりました。お呼びでしょうか」
「殿様がおっしゃった。おまえを嫁に迎える、と」
「なんと、」
 百々太郎は飛び上がった。
「わたしはいつまでもおばあさまとおじいさまのお側にいとうございます。犬猿雉と一緒に、末永くおつかえしとうございます」
 ワンワンキーキーケーンケン。動物たちもそう言った。
「そうはいかん、そうはいかんのじゃ」
 媼も翁も涙を流した。
「わかりました。それならば、わたしにひとつ、考えがございます」
 と言うと、百々太郎は村の外からやってきた旅人に聞いた話を媼と翁の耳に入れた。
 なんでもここから離れた海沿いに、幾月か前、人一人が乗れるくらいの怪しい舟が流れ着いたのだという。それが大きな大きなお椀のような舟で、底はくろがね、天面は玻璃はりでできていた。そのうつろな舟の中から現れ出でたのは、白い顔、青く透けた首元、赤い手足、黒く長い髪をした女で、見たこともないひと揃いの銀の衣装に身を包み、これまた見慣れぬ文字の書かれた小箱を小脇に抱えていたらしい。漁村の人々は驚いて、女をそのまま海に返そうとしたが、女は囲んだ人々の顔を見、俯いてかぶりを振ると、小箱を抱えたままどこかへ消えた。
 それだけなら、まだ、いい。
 それからというもの、海辺の村だけでなく、内地へも、似たような容貌の女(見た者は自信なさげに、たぶん女だとおもう、と言った)がほうぼう訪ねていき、誰か、或いは何かを探しているようだという。海辺に同じ数だけの舟が流れ着いていたかどうかは定かでない。ただ、うつろな舟から現れた人、という意味で、そうした女たちをいつしか〈うつろびと〉と呼ぶようになった。うつろ人はうつろな目をして小箱から何かを取り出して食べていた、と見た者は震えた。一人いちにんずつ立ったまま休んでいるふうで、しかもそのうつろな目の閉じられることは決してないらしい。
 人々が震えたのはそのためだけではなかった。うつろ人は村々で僧侶を襲いはじめたのだ。襲われた僧侶たちはきまって頭を割られ、次はどこの村へうつろ人たちが現れるのか、いつ何時なんどき、他の村人たちにも害が及ぶのか、人々は戦戦恐恐とし、それは百々太郎の村でも例外ではなかった。
「わたしが村の外へ行って、確かめてまいります。この陸の孤島と呼ばれる地でも、もはや安泰と言えぬのは殿様こそよくご存知のことでしょう。嫁いでいる場合ではありません」
 百々太郎は言った。
「おお、百々太郎、百々太郎」
 媼と翁はますます泣いた。
「いまは末法の世、天の神さまももうこの世に姿を現すことができぬというのに、だれがおまえを助けてくれるというのじゃ」
 媼は百々太郎をひしと抱く。 
「犬猿雉がおりますゆえ」
 百々太郎は明るかった。
「うつろ人たちが何故あのような蛮行に及ぶのか、ひとつ聞いてまいりましょう」
 媼は気を失った。百々太郎は媼を軽々と抱き上げ、布団のうえに寝かせた。
「おじいさま、おばあさまをお願いいたします。必ず帰ってきますから」
 ワンワンキーキーケーンケン。動物たちもそう言った。
 村の子たちが集まってきてすがりついたが、百々太郎は同じように、必ず帰ってくる、と繰り返した。
「わたしは嘘はつかないよ」
 百々太郎は蓮の花をその足跡に咲かせながら、犬猿雉を連れて村を出ていった。やがて、松の木が美しく池のおもてに映える地に辿り着く。
「さあ、ここでひと休み。みんなできび団子でも食べましょうか」
「そうしようそうしようそうしよう」
「あれ、あなたたち、やっぱり口が利けたのね」
 動物たちは、村を出るまでこれまでひと言も口を利かずにいたのだ。百々太郎は微笑んだ。
「好きにおし。誰ももう、あなたたちをいじめたりはしないのだから」
 それから、百々太郎が池をのぞき込むと、鯉と鴨が集まり、水面みなもにはたちまち蓮の花があふれた。透けるもも色の可憐な花だった。
 だが唐突に、犬が高く鳴き、猿は跳ね回り、雉が飛び上がった。
「百々太郎、百々太郎、何かくるよ、人でないものが、くるよ」
「ショウジョウジュ……」
 振り返ると、百々太郎が見上げるような上背があった。話に聞くとおりの、白い顔、青く透けた首元、赤い手足、黒く長い髪をしている、それがうつろ人だった。百々太郎はその顔をじっと見る。
「あなたたち、」
 池を背にし、百々太郎と犬猿雉は次々と音もなく現れるうつろ人たちに囲まれた。
「ショウジョウジュ……アタマ……ナカミ……ミテミル」
「あなたたちは何を探しているの。どうしてお坊さまたちを殺してしまうの」
 うつろ人のひとりが、長い腕をすぅっと百々太郎へ伸ばす。犬が唸り、猿が牙を剥き、雉が嘴を開いた。
 が、そのとき。
 うつろ人の首が地に落ちる。
 何が起きているのかわからず、百々太郎は瞬間、息を止めた。転がっていく首を、目で追う。
「そこな人、はよう逃げなさい」
 農具を振りかざしたこのあたりの村人たちが集まってきていた。
「どうして何も聞かずに、」
「どうして……?」
 可哀想に、この子は頭がどうかしてしまったんじゃろ、村人たちの間にささやきが交わされる。
 そうしているうち、残されたうつろ人の体が、どぅ、と音をさせて倒れ、次のうつろ人に犬が噛みついた。猿が引っ掻き、雉が嘴で抉った。
「待って、わたし、あのうつろな人たちを、いつかにも見たことが……」
 百々太郎が止めたとき、後方から火の手があがった。
「さ、話ならあとで聞こう。子どもが危ない目にあうことはない。すべて燃やし尽くしてしまおう」
 おうおう、と人々の声が続く。
「だめです、やめて」
 ああ、と、百々太郎はまたひとり、倒れたうつろ人の体を支え、掻き抱いた。百々太郎の服が薄青の血に染まる。
「犬よ、猿よ、雉よ。どうか双方を止めておくれ」
「もう止められないよ!」犬が言った。
「成敗これすなわち、成仏!」猿が言った。
「やるしかねえ!」雉が言った。

だめよ、ならぬことはならぬもの

しかし、百々太郎の声は声とはならなかった。
 回り込んだうつろ人の振りかざした腕が、百々太郎の頭を、一瞬で粉々に砕いた。

 

【現世3】

「きゃああああああああ――」
 犬居の叫びが尾を引く。
「どうしたんです、犬居さん」
 並びのベンチに座っていた猿橋が飛び上がった。が、それに被せるように腹の底を震わせる音が続き、夜空には赤、金、緑、青、紫、橙……とりどりの花がひらき、その叫びは紛れて消える。
「始まったぞ、花火」
 暗くなった木立のあいまから雉尾が戻ってきた。後ろには、ライトアップされた牛Q大仏。苑内には、花火見物のために残った人々が其処彼処そこかしこにいた。
「ほら、犬居、もなみちゃんにも目が覚めたら飲ませてやって」
 雉尾がペットボトルの一本を差し出す。
「もなみちゃん……」
 犬居はもなみちゃんの存在をはっきり確かめるように、膝にのせた彼女の頭をぎゅうと抱いた。大仏胎内で具合の悪くなった様子のもなみちゃんを外のベンチに寝かせ、犬居はうたた寝をしていた。もなみちゃんはいまだ、すぅすぅと寝息を立てている。
「夢をみてたみたい……おそろしい夢……」
 犬居はゆっくりと顔をあげる。
「だいじょうぶですか」
 猿橋がのぞき込む。
「うい、猿橋も」
 雉尾は自分でひと口飲んだものを猿橋に渡した。
「あ、ありがとうございます」
 猿橋の喉が鳴るのを見ると犬居は自分も喉が渇いたような気がしたが、手元がおぼつかない。雉尾がそのペットボトルを引き受け、蓋を開けてまた返した。ありがと、と犬居もひと口飲む。
「どう、もなみちゃんは」
「……まだ眠ってるみたい」
 膝のうえに眠るもなみちゃんの顔が、花火の明かりに照らし出される。
「大仏さまみたいにきれいな顔しちゃって」犬居が呟いた。
「あ、いま、大仏さまの目が、こっち見てました!」
 花火の打ちあがる音に負けじと猿橋が大声を出した。雉尾が吹き出す。
「バカ言うな」
「えー、でもほんとに……」

「そうね、目が合ったみたい」

犬居と、猿橋と雉尾の目が、もなみちゃんの燦燦キラキラと開いた目を見つめる。
「……もなみちゃん」
 犬居が手を添えるが、もなみちゃんは微笑んで軽々と体を起こした。
「大仏さまは、ずっとこちらを見ていてくださったわ。そして、わたし、ずっとあなたたちを夢見ていた」 
 爽やかな笑みがもなみちゃんの口元を彩る。
「一緒にいてくれて、ありがとうね」

ドンドド……ヒューーー…ドンドン、ドン

花火の音が続く。
 光と音の中、犬居にはもう、これが現実なのか、さきほどまでの夢の中なのか、わからなくなる。ただ牛Q大仏は、確かにそこに、おわした。足もとから五色の光に照らされ、花火の残した煙の中でもはっきりとそこに、おわした。
「もなみちゃん、とにかく気が付いたなら良かった。動けそうなら、もう出発しよう」
 雉尾が言った。彼は冷静だった。
「え、まだ花火、途中ですよ」
 猿橋は意外そうに言うが、雉尾が声を低める。
「見なかったのか? 花火に紛れて何か空を飛んでる。それも複数。未確認な飛行物体だな」
「何の話をしてるの、雉尾」犬居はいやな汗をかいていた。
「わたしを、探しているのかな」もなみちゃんはさらりと言った。
「なに、なに、さっきまでの、夢じゃなかったってこと?」
「ぅわかった! 〈うつろ舟〉です!」
 猿橋の言葉の次には、花火がいったん途切れ、四人の休んでいた木立の中のベンチに静寂が訪れる。
「……民俗学の教授が言ってました。チバラキには、〈うつろ舟〉の伝承があるって……奇妙な舟に乗って流れ着いたのは、外国の人なんかじゃない、宇宙の人だったんだ……」
「あ、あんた、なに言ってんの。どうしちゃったの」
「どうかしちゃったのは、寝惚けちゃってるのは、犬居さんのほうじゃないですか? ぼくだって、もなみちゃんが眠ってるあいだに色々と考えていたんです。ぼくたちの、〝記憶〟について」
「猿橋、あんまり詰めてやるな」雉尾がたしなめる。「おれたち、いまや勘のいい動物でも修行を積んだジジイでもない、単なる学生だろう」
「……次の花火が始まったら、それに紛れて駐車場へ移動しましょう」
 もなみちゃんは、人差し指を一本、唇の前に立ててみせた。
「大仏さまがきっと守ってくださる」

でもやっぱり夢だったんじゃん。
 ビクビクしながら宿舎に戻って数日、犬居はそう思っていた。宿舎で顔を合わせたもなみちゃんも、学内で顔を合わせた猿橋も雉尾も、何も言ってこなかったから。
 暑い日だった。今日も一番風呂にしよう。
 大学に入ってから、というより、もなみちゃんと出会ってから、犬居はもう、自らを傷つけることはなかった。傷はどんどん薄くなっていった。たぶん、もう、言わなければ誰にも気付かれたりはしないだろう。風呂場に誰かいても平気だ。けれど、約束をしていない一番風呂で、もなみちゃんに会うのが好きだった。もなみちゃんのほうは逆に犬居が心配になるほど、日ごとに輝きを増していった。
 だからその日も、一番風呂は黄金の湯だった。
 脱衣所で服を脱ぎ、あがってすぐに化粧水をつけられるようにカゴに準備してから、風呂場の戸をカラリと開く。もう眩しい。今日も先にもなみちゃんがいるのだとわかった。
「もなみちゃん?」
 黄金の風呂の湯がゆるゆると盛り上がる。
「犬居さん」
 湯の中から、染まったような金の肌のもなみちゃんが現れた。
「もうのぼせちゃった?」
「ううん、さっききたところ」
「じゃ、待ってて。すぐ髪と体洗っちゃうから」
「ゆっくりでいいのよ」
「でもだれか来ちゃったら困るでしょ」
「困らないわ。おどろかせてしまったら、申し訳ないな、って思ってるだけ」もなみちゃんは笑った。
 犬居はもなみちゃんの鼻歌を聴きながら髪を洗う。

 ふんふんふん……なむあみだーぶつ……なーむー

「なんのうた!?」
 シャワーで体を流しながら聞いた。
「わからない。南無阿弥陀仏が入ってるってことしかわからないんだけど、うちの、高齢の母がよく歌っていて。むかしの歌なのかな?」
 念仏以外にそんな歌、ある!?
 犬居は意を決した。頭のてっぺんから足の先まですっかりきれいになって、湯舟に入る。
「もなみちゃん、こないだの、牛Q大仏でのこと、どれくらい覚えてる?」
「覚えているわ。なにもかも。でもみんな何も言い出さないのは、きっと、気持ちの整理をつけているところなのね」
 もなみちゃんは水の中の生き物のように、ついと泳いでやってきて犬居の傍らに身を寄せた。腕を湯舟のふちにのせる。犬居はまぶしさに目をこすった。
「えーと、どこから…どこまで…覚えてる……?」
「大仏さまがわたしを見つめてくださって、それから大仏さまの中でむかしの記憶をみたわね、みんなで」
「夢だけど……夢じゃなかった」
「夢じゃないよ、犬居さん。わたしたち、ずーっと一緒だったね」
 もなみちゃんは、犬居を抱きしめた。
「いてくれて、ありがとう」
 しっとりと、熱い。濡れた肌の触れたところから燃えるようだ。
「けど、」
 犬居は慌てふためいてもなみちゃんから体を離す。
「けど、そしたら、もなみちゃん、狙われてるってことじゃない。こないだだって」
「そうね」
 もなみちゃんは湯のおもてに視線を落とす。もなみちゃんのまぶたを縁取るまつ毛も、そこからぽたりと落ちる雫も金色だった。
「でも、わたし、知りたい。あの人たちが、わたしに何を求めてるのか」
「こたえてやる必要なんて、ある? 宇宙人でしょ? もなみちゃん、さらわれて、バラバラにされちゃうよ」
「……考えてたんだけどね、わたしたちは何度も何度も生まれ変わってるのに、あの人たち、たぶん、ずっと同じ個体なのよ。ひとつの体に生まれたら、ずっとその体を使ってる。それって、もしかして……とってもつらいことなんじゃないかな」
 犬居は頭を抱えた。
「……もなみちゃん、だって、そいつらに頭吹っ飛ばされてるんだよ?」
「ごめんね、みんなのこと、びっくりさせちゃったかも」
「びっくりしたなんてもんじゃなかったよ」
 犬居は正直に答えた。
「私、怖いの。だからね、しばらくは外に出るときなるべく私と一緒にいてくれない?」
「うん」もなみちゃんは目をしばたたかせる。
 だって今度こそ、守らなきゃ。

しかしもなみちゃんはそれ以来、宿舎の部屋で眠り続ける時間がどんどん増えていった。その眠りは健やかで邪魔をするのも憚られたから、犬居は自分が大学へ行っている時間以外をもなみちゃんの部屋で過ごし、寝顔を見つめ、その額の汗を拭き、手を握り、たまに目覚めたときの食事と風呂に付き合った。もなみちゃんはまるで失った何かを取り戻すかのようによく寝てよく食べた。
 まもなく他大学よりもひと足早めの夏休みに入ると、犬居は猿橋と雉尾のメールへの返信が滞っていたのを思い出した。

「……というわけで、外で作戦会議は危険だと思ったから、ここに集まってもらった。本当は私たちが顔をそろえてるのもよくないのかもしれない。に見つかりやすいかも、という意味で」
 犬居は冷たいチャイティーラテの氷を鳴らせて言った。
 図書館入り口にあるカッフェの隅、ソファー席に頭を突き合わせる三人だった。外界の値段におののいて、ふだんはあまり利用しないシアトル系カッフェだ。
「もなみちゃんはまだ寝てる感じですか」
「うん、ぜんぜん起きない」
「ふんふん」 
 雉尾が、ちぅーと音をさせてアイスコーヒーを吸った。猿橋は期間限定のフラペチーノのストローを噛みしめている。冷房はくぐもった音ばかりであまり効いていない。
「あれ、ほんとのことだったんですかね……」
 猿橋の唇が青い。
「寒いんだったら、あったかいのにすればよかったじゃん。よりによってフラペチーノ」
 犬居がケチをつける。
「いや、寒くはないだろ、猿橋だって。汗が冷えただけだ。落ち着け、犬居」
「だって、ぼくたちで対抗できるんですか、そもそも」
「やるしかねーだろ。もなみちゃんを守るしか」
「雉尾くん、ぼくたち前回負けてるんですよね?」
「まあ、有り体に言えばたぶんそう」
「じゃあ、あれは、あのひと、エレガさま」
 犬居は自分の思いつきに前のめりになった。
「現世にいると思うか」
 雉尾の問いに、ぐっと詰まる。
「いたじゃないですか! あのとき、大仏さまの胎内で、エレベーターの中!」
 猿橋が大きな声を出したから、犬居がどつく。
「とにかく、エレガさまはもなみちゃんの味方だと思うんだけど。どうにかして助けてもらえないのかな」
「おれは、あの部分に関してだけは単に幻想だったんじゃないかと思ってるんだけどね。過去世の記憶への導入に対する、現世のおれたちの精一杯の抵抗じゃん」
「意外。雉尾ってそういうこと言うんだ」
「え、ケンカしないでくださいよ?」
 猿橋が割って入る。
「えーっと、あの、あの、ぼく思ったんですけど、エレガさまって、もしかして……あそこから出られないとか?」
「ゆーれいかよ」
「いや、一理あるかもよ。現代では信仰の厚いところでしか顕現できないとか、考えられなくないでしょ」
 犬居がチャイラテをひとくち飲む。
「どうする? もっかい、牛Q大仏に行ってみる?」
「おれは危険だとおもう。あそこで〈うつろ人〉に目を付けられたんだ」
 ふむ、と犬居が唸る。
「猿橋はどう思うの」
「犬居さん、ぼく……Mt.TKB=sanマウント・ツクバ-サンに行ってみたいんです」
「え、観光の話になった?」
「いえいえいえ」
 猿橋が激しく首を横に振る。
「ぼくはあの日、牛Qで、雉尾くんに言われてから、〈うつろ舟〉の動きを観察してたんです」
「おれは鳥目とりめだからそこまで追えなかったな」
「舟は、Mt.TKB=san方面から飛んできているように見えたんですよね……」
 犬居の喉がゴクリと鳴る。
「も、も、もちろん、もなみちゃんを連れてったりしません。ひとりでこっそり、様子を見てこよっかなって。なんか分かるかもしれないし……それに、エレガさまってもしかしてもしかすると、上と下と……行き来する地点にいたりとかしないですかね」
「それは、一理ある、あるよ、猿橋。あるじゃん、Mt.TKB=sanには、ケーブルカーもロープウェイも!」
 犬居が飲み物を置いたテーブルを叩いた。
「わかった」雉尾が言った。「こうしよう。あれだよ、逆に、おれたちが囮になればいいんだ」
「どういうことよ」犬居が言った。
「おれの車、たぶんもう、見張られてる気がするんだ。バイト先のリサイクルショップの品物乗っけて走ってるときも、なんかついてきてる気がして」
「ちょっと、怖いこと言わないで」
「ってことはつまり、おれが、猿橋乗っけてMt.TKB=sanまで走ればよくない? その間に、犬居、おまえがもなみちゃんを連れて、どこか全然ちがう方面へ逃げるんだ。せめて夏休みの間だけでも」
「うん……、でも、」
「ぼくたちは、だいじょうぶです」
 猿橋がひと息にフラペチーノを啜った。
「決まり」雉尾が三人の真ん中に手を出す。
「ほら、手、重ねて」
「え、ぼく、そんなこと人さまとしたことないですよ」
「私もそういうタイプじゃないから」
「言ってる場合か。もなみちゃんを助けたい気持ちはみんな同じだろ。今度こそ、あんなふうに死なせない。おれたちも、生きてまた会う。ちゃんと学生として」
 ためらいながらも、雉尾の手の甲に猿橋が、猿橋の手の甲に犬居が、そっと手を重ねた。
「じゃあみんな、約束ね」犬居がぽそりと言った。

猿橋と雉尾が先に出発した。
「何かあったら必ず連絡して。ふたりで無茶苦茶しないでよ」
 むちゃくちゃってなんだよ、と雉尾の笑っている声が電話の向こうに聞こえた。
「とりあえず、女体山のほうがちょっとだけでも標高が高いですから、そっちから見てきますね。ぼく、車、気持ち悪くなっちゃうんで、もう電話切ります」
 猿橋の電話は勢いよく切れた。
「ふたりは……なんて?」
 もなみちゃんはまだ眠そうだった。今日は無理に起こしたからだ。
「楽しそうだったよ」
 猿橋と雉尾は、夏休みだから山へ遊びに行った、ともなみちゃんには伝えてあった。
「なら良かった」
 にこっと笑ったもなみちゃんは、パジャマ姿の寝起きもとびきり可愛くて、犬居の胸が痛くなるほどだった。
「でも、ほんとうにいいの、犬居さんちにお邪魔して」
「いいの、遠慮しないで」
 犬居はうまく笑えているかどうか自信がない。入学から昨日まで、実家には連絡も入れていなかった。親とはもう会わないつもりで荷物を整理して家を出たくらいだ。それが突然、友だちを連れて帰るというのだから、向こうも驚いたことだろう。
「私に友だちができたのに、びっくりしてたみたい」
 犬居は肩をすくめる。
「まあ。わたし、犬居さんのどこが好きか、いっぱい、おうちのかたに教えてあげられるのに。お風呂ですごくじょうずに泳げるようになったのとか」
「それはいいの」
 犬居は顔を赤くする。水が嫌いで、高校の頃までろくに泳げなかったのだ。
「さ、冷蔵庫のヨーグルトを食べたら、もう私たちも行かなきゃ。バスと電車の時間があるからね。J磐線ジョーばんせんはそんなに本数ないし」
 何しろ、エクスプレスの開通は犬居たちの今生のうちに収まらない。最寄りのJ磐線の駅まで学園都市からバスで四十分かかった。
「それにしても、猿橋くんも、雉尾くんも、どうしてわたしたちには声かけてくれなかったんだろう。わたしも御山、行きたかったな」
 もなみちゃんがベッドの上で勢いよくパジャマを脱いだ。いつもそうだ、風呂場でも。他の子たちはおずおずと脱ぐのに、何のためらいもなくずばーんと脱ぐ。
「今度ね。今度行こうね」
 犬居は自分の部屋から持ってきたアロエヨーグルトを食べながらごまかした。賞味期限の近いものはこれで処分した。安心。でも、もなみちゃんがMt.TKB=sanに行ったとしたら、どうなってしまうのだろう。不安。
「あのふたりは、ちょっとした幼馴染みなんだから、積もる話もあるんじゃない」
「そうねえ」
 もなみちゃんは、パリッとした白いシャツに白いスカートを合わせた。いまは黒い髪を、ポニーテールに結っている。
「ん、犬居さんのおうちのかたにご挨拶するの緊張する~」
「だからたいした家じゃないってば」
 でも、もなみちゃんとだったら、帰れるかもしれない。

🐵🦅
 犬居ともなみちゃんがバスの中で揺られている頃、猿橋はやはり吐いていた。
「す、すびばせん……今回は酔い止め飲んだのに……」
「もう着いたんだから、気にすんな。水飲め、水」
 Mt.TKB=sanの中腹、大型の駐車場はガラガラで、前から駐車してそのまま前から出られる。
「ところで、雉尾くん、その背中の装置は、なんです……広がりそうな……羽が……前にも背負ってましたけど」
「これ、改良したんだよ、だいじょうぶ」
「まさか」
「空も飛べるはず」
 雉尾の発明品は、細めの梯子を左右に二台背負っているようにしか見えなかった。
「早く、ロープウェイ乗ろうぜ」
「観光にきたんじゃないんですよね……ていうか、死んじゃいますよ、もし本気なら」
「おれはいつだって本気だよ。周りの人間が本気にしないだけで」
 隙あらば飛ぼうと思っている。しかしそんなふたりに声を掛ける人影があった。
「そこなふたり」
 ガマ洞窟を営む売店の主だった。ひなびたビニルの暖簾をかき分け、手招きしている。大学の食堂のオバチヤンたちを思わせる風貌だが、さらに歳は上か。パーマネントをあてた髪、白い割烹着に漢字の「ガマ」の縫い取りが類似している。ガマ洞窟のうえには巨大ガマの置き物が鎮座していた。
「猿橋、土産物ならあとだぞ」雉尾が釘を刺す。
「何かお話が聞けるなら、聞いておくに越したことはありません」猿橋がひそひそと言い返す。
「そこなふたり、ガマ洞窟の昔話を知りたいか」売店のオバチヤンが言った。
「知りたいです!」
「怖いかもです!」
 ふたりの声が重なり、猿橋が、ちょっと! と雉尾に小声で抗議した。が、オバチヤンは余計なことは聞き流している。
「この洞窟はむかしっからあいてる穴なんだよ。ワシはむかしっのことはなんでも知っとる」と言った。
「あの、ではでは、〈うつろ舟〉、もしくは、〈うつろ人〉の伝承について、何かご存知ではありませんか。ぼくたち、その、学生で、調べものをしてまして」
「そのむかしっ、ガマ洞窟に住んでいたのはガマじゃあ、ない」
 ぜんぜん会話かみあってないじゃん、ゲームのキャラクターみたいですね、雉尾と猿橋が言い合う。
「住んでいたのは……うつろな人じゃ」
「すいませんでしたっ」雉尾が突然オバチヤンに頭を下げたのと、「そのお話、もっと聞かせてください」猿橋が言ったのは同時だった。
 雉尾は尻ポケットから財布を引っぱり出し、店先のアイスケースの中からバニラしかない棒アイスを二本取り出すと、オバチヤンに小銭を渡した。猿橋の手に急いでアイスを一本持たせ、もう一本にかじりつく。
「それでオバチヤン、どうなったの、その人たち」
 うんうん、とオバチヤンはうなずく。
「いまは住んでおらんね」
 でしょうね……、と雉尾が神妙な顔で相槌を打つ。
「けど、うつろな人らはな、この近くに庵を結んでおった坊さんがたを殺したんじゃと」
「急に物騒な……」
 雉尾と猿橋が棒アイスをくわえた顔を見合わせる。それって、おれたち/ぼくたち……。
 売店のオバチヤンは意味ありげに口の端をあげ、ふたりにガマ洞窟のチケットを渡し、「行ってきな」と言った。

入り口からしてすでに暗い。
 どちらが先頭になるか。無言のうちにジャンケンをして、雉尾が前に出ることになる。
「雉尾くん、前が何にも見えません」
 雉尾の上背と背中のギミックのせいで、猿橋には先が見えない。
「じゃあ、おまえが前行く?」
「いいえ」猿橋がきっぱり言う。「なんかあったら教えてください」
 手作りとしか見えない何かの祭壇を横目に、これまた家庭用の古いすだれとしか見えないものをくぐり抜け、洞窟の中へと進む。肌に触れる温度が急に下がり、足もとはじっとりとしている。雉尾のスニーカーがぐしゃりと音を立てた。たまにぶら下がっている電球のほかは、壁に直に蛍光塗料で矢印が描かれているだけだ。
 入ってすぐの壁の窪みには、巨大なイノシシの剥製が飾ってある。大きさからすると本物ではないのかもしれなかったが、ふたりの目には、その毛並み、四肢の張り方、生きていた頃があったとしか思えない。
「え、あれ、そもそも、なんの洞窟なんでしたっけ」
「おれもわかんなくなってきた」
 奥の壁際に赤くライトアップされているのは、どう見ても、古い仏人形ふらんすにんぎょうで、フリルの衣装は恐らく手作り。ひな壇にはドライフラワーが飾られている。
「あの売店のオバチヤンが作ったんでしょうか」
 雉尾に並んだ猿橋が、怖々覗いて言った。
「ガマいなくね?」
「ぼくたち、うつろ人の手がかりを探しにきたんですよね、何か、痕跡的なものは……」
「洞窟ってここで終わりなのかな。行き止まり?」
「あ、あっちに続いてません?」
 猿橋が右手を指す。先はもちろん暗いが、足もとだけは苔のみどりでなんとなく明るく見えた。ここまでのゴツゴツした感触とは違い、足もとがふかふかする。寝床にするのに良さそうだ。今度は先に一歩を踏み出してしまった猿橋だったから、右手を壁につけたまま、そろりそろりと進んだ。ふたりは目を凝らす。
「壁に何か書いてませんか。文字みたいのが、あっちのほうまで」
 奥から、手前まで、目線を行きつ戻りつさせる。
「なんか読めそうな気がする……ああ、センパイたちなら、こういうのもわかるのかなあ」
「宇宙人の残した文字が学部生ごときにわかってたまるかよ」
 雉尾が言い、指先で壁をなぞるふりをする。
 
 モッガラーナよ。

 「え、なに猿橋」
 けれど当の猿橋は俯いて立ったまま、ぴくりともしない。
 
神通第一と称された我が友、モッガラーナよ。現世のわたくしの手を取り、どうか文字を読み取ってください。

「さ、サーリプッタ……」
 雉尾は笑いとばしたりしなかった。文句を言ったりもしなかった。ただ思い出したからだ。若き日から老いて枯れるまで、ともに修行を積んだ日々のあったことを。
 いまの雉尾には壁の文字は特殊な絵のようにしか見えなかったけれど、猿橋の手に手を重ねる。
「舟……、舟はここじゃない。もっと、上、上にスタンバイ完了したら、そのときは出立の証」
 文字が意味をもって〝見える〟。重なった猿橋の手が震えた。
「サーリ…猿橋! 聞こえるか、出るぞ、確かめなきゃ」
 雉尾は猿橋の肩をつかむ。飛びだした出口の先は売店の店内で、オバチヤンが待ちかまえていた。外の明るさにふたりの目がショボつく。
「おまえたち、わかったかい」
「オバチヤンの言ってたこと、本当だった!」
 目をこすった猿橋が叫んだ。
「頂上まで行って、舟のありかを確かめてきます」
 雉尾が言うと、オバチヤンが、Good luck! とこたえた。
  けれども、登りのロープウェイ乗り場にエレガの姿はなかった。ふたりは目を見交わし、肩を落とす。
 ロープウェイに乗って女体山山頂を目指している間、他の観光客たちにまぎれても、ふたりの不安はまぎれない。もなみちゃんを守るべく動いていたはずなのに、恐ろしかった。エレガの助けは、ない。
 しかしうつろ人は、本当に、本当に、いるんだ。
「ぼくたち、現代のうつろ人に見つかったら、どうなっちゃうんでしょうね」
「いつかテレビで、そういうドラマあったよなあ。テレビとか最近誰も見てないけどさ」
「なんですか、それ」
「外国のドラマだよ」
 雉尾は遠い目で、窓から緑の濃い夏のツクバを見下ろした。
🐵🦅

「もなみちゃん、電車の時間が」
 犬居は焦っていた。J磐線の駅に着いたはいい。が、犬居さんのうちに手ぶらではいけないから、と言うのに付き合って駅ビルで手土産を選び、いまのもなみちゃんは駅の階段下を裸足でひとり彷徨っていた幼女を背負い、交番に連れていこうとしていた。近頃は面倒を恐れて誰も迷子の子どもに近づいたりしないから、そんなことをするのはもなみちゃんくらいだ。
「一本くらい乗り過ごしても、だいじょうぶよ。それよりこの子を……」
 もなみちゃんは体温の高い幼女を担いでも汗ひとつ垂らさなかった。
「そうじゃないの」犬居のほうが汗をかいていた。「私たち、ううん、もなみちゃんが、危ないの」
 言ってしまった、と犬居は唇を噛んだ。
「……おねえちやん」
 舌足らずに言った幼女が夏の雲のうえを指さす。
「作りたての綿あめみたいな雲ねえ」
 もなみちゃんはのんびり言った。
「そっちじゃない、その子が見てるのは、あの雲の反対側、」
 犬居が思わずもなみちゃんの体を背に隠す。そのとき、ジーンズのポケットに入れた端末が震えた。
『犬居、おれ』
 空から目が離せず、端末の画面を確かめる暇はなかった。
「雉尾なの」
『いま、どこ』
「どこって、まだ、」
『電車には乗ったか』
「それがまだなの。それに、」
 犬居は幼女を背負ったもなみちゃんを、交番の建物の中へ尻でぐいぐいと押しこんだ。やっと視界から空がさえぎられる。
「もう、だめかもしれない。逃げても無駄かもしれない」
 交番の中からは幼女の邪気のない笑い声がした。犬居の口の中はカラカラだった。
『おれたちも、合流する』
 雉尾の息があがっていた。
「こっちへ来るってこと?」
『……雉尾くん、車、こっちです! あ、オバチヤン』
 後ろに猿橋の声がする。
『おれたち、エレガさまに会ったんだ』
「え、山で?」
『そう、女体山のてっぺんから、ロープウェイで……』
「なあに? 聞こえない」
 やってきた電車の音にかき消される。
『とにかく、そこからいったん戻るんだ、大学内へ。一食いちしょくで会おう』
「一食? なんで一食」
『学食が一番、安全なんだ、守ってもらえるはず』
 通話はそこで切れた。

🐵🦅
「下へ参ります」
 
たしかにエレガの声だった。雉尾はロープウェイ乗り場を振り返る。柵もない山頂で、岩のうえ、外界とは違う風に吹かれた。周りに人がいなければ、いますぐ飛べそうだった。
「猿橋、いまの聞いた?」
 標高八七七メートルの頂上で、だが猿橋は岩と岩の間に何かを見た。風が強い。猿橋は見当違いの返事をする。
「待ってください、雉尾くん、まだ飛ばないで」
「どうした」
「だって、きみのその足下に」
「……岩だけど」
 女体山の山頂は吹きっさらしの岩場である。
「見えてないんですか」
「なに、」
 雉尾は猿橋のところまで降りる。 
「岩に擬態してるんです、きっと」
 目を細めたり、見開いたり。だが雉尾には見えない。
「あれは〈うつろ舟〉の一部です。あまりじっと見ないで、気付かれます」
 猿橋がそっと、自分の丸眼鏡を外して差し出す。
「モッガラーナの神通力があれば、きっとこれで見えますよ」
 岩と岩の間に挟まれ、いまもそのうえに観光客が立ち、記念撮影をしている。
「……鉄の舟だな。ぜんぶ出てきたら、たぶん、思ったよりデカそう」
 雉尾はすぐに眼鏡を猿橋に返した。裸眼の猿橋は、寄る辺のない中学生のように見える。
「〈うつろ人〉は地球人より背が高いですからね」
「いまもここを拠点にしてるってことでOK?」
「少なくとも、光ってますから現役では」

「下へ参ります」

今度は風の止んだ瞬間だった。猿橋がハッとするのが、雉尾の目にもわかった。
「聞こえたか」
「はい。えっと、帰りのロープウェイの時間は、」
「まだ、のはず」
 雉尾と猿橋は半信半疑で女体山駅まで駆け下りる。
 すると、金色こんじきのロープウェイの車体の前に、頭頂で髷を結った等身大の仏像が待っていた。他に客の姿は、ない。
 赤と青と金の派手な衣がたなびく。だが、その表情はやつれて見えた。
「おまえたちの正定聚、もなみちゃんが危ない」スッとした目の仏像は言った。
「……あのひと、帝釈天ですよ。ぼく、授業で見たことあります」
 猿橋が雉尾に耳打ちする。
「お助けください、えーと、エレガさま」雉尾が言った。
 仏像が首を横に振る。天は現世の空気に倦んでいた。
「この現世で、わたくしのできることはとても少ない。もはやこの身を変えてみせることすらむつかしい」
「では、どうすれば」猿橋が言った。
「いますぐ戻って、学食に駆け込むがよい。できるだけ、食い止めてはおく。オバチヤンたちが力を貸してくれるであろう……急ぎなさい」
 駐車場まで取って返した雉尾は、息せき切って犬居の端末に連絡をした。
🐵🦅

 
 再び学園都市に舞い戻った犬居は、バスの中でまた眠ってしまったもなみちゃんを自転車の後ろに乗せ、宿舎から大学構内までの道を爆走していた。怖くて空は見上げていない。
「しっかりつかまっていてね、もなみちゃん」
 もなみちゃんは自転車の激しさに首をガクガクさせている。
「犬居、さん、危なくなったら、わたしをどこかに置いて、逃げるのよ」
「そんなことしないし、できないよ!」犬居は叫んだ。「もうすぐ学食だから、猿橋も雉尾もくるから、お願い、いまはちゃんとつかまってて!」
 タイルに自転車のタイヤをキリキリと滑らせながら体育芸術専門学群のエリアを抜け、外国語センターをかすめ、保健管理センター前の坂を風の速さで下り、ついこないだ入学式を行ったばかりに思える大学会館前を過ぎ、まもなく第一学群エリアが視界に入る。また坂を下っていまはバカンスの水着姿の大気の像を臨み、松美池が見えてくるが、道なりの緩やかなカーブが犬居には耐えられない。転ぶ。もなみちゃんの軽い体はぽわわーんと跳び、池の前の芝生にみごとに着地、転がってきた犬居の体をキャッチする。もなみちゃんは覚醒した。
「オバチヤン!」
「百々乃もなみ!」
 松美池前に、割烹着姿のまま一食のオバチヤンが飛び出してきた。
「オバチヤン、犬居さんをお願い。わたし、〈うつろ舟〉に、つかまってみる」
「だめ、オバチヤン。もなみちゃんを行かせないで、お願い」
 ふた組のうるんだ瞳がオバチヤンを見つめる。
「アタシらも若いときはそんな目をしていたもんだ」
 ふ、とオバチヤンが息を漏らす。
「レオ学長から、いつかツクバに正定聚が現れたときのためにと頼まれて、かれこれ……」
「え、オバチヤン、モーベル宇宙学賞をとった伝説のレオ学長の時代からここにいるの!?」犬居が思わず聞いた。
「そうさ。あの頃はレオもまだ若くていい男ぶりだった……いまは、学長室の奥深くに……」
「オバチヤン、何歳!?」
「レディの年齢とはレベルを示すもの……あがればあがるほど素晴らしき数字なり。あんたたちも上を目指すんだね」
 オバチヤンが蒼空そらを指す。
双峰ソーホーより、〈うつろ舟〉の飛来を確認」
 それからオバチヤンは鋭い目つきになり、腕時計型端末ウェアラブルデバイスで通信する。
「二学、三学方面、準備はよろしいか」
 一機や二機ではなかった。蒼空に集ってくる〈うつろ舟〉が大きなひとつの円盤形を象り、渦を巻き、学園都市に影を落としていく……
「もなみちゃーーーん!」
 池の東の端から、猿橋と雉尾が全力で駆けてくる。車を置いてきたのだろう。
「なんという数か……」
 空を見上げたオバチヤンも唸った。しかしそこは歴戦のオバチヤン、
「待避――! 学生たちは屋内にっ!」と一喝する。
 休み中だからとパラパラと散歩をしたり、或いは自転車を押したりして空をぼんやり仰いでいた数人の学生たちは、オバチヤンの叫びにいっせいに建物の中へ入る。
「よし、ここで仕留めるぞ」
『応よ』
『応よ』
 二食、三食のオバチヤンたちの声がデバイスから聞こえた。
 犬居がもなみちゃんの腕からやっとのこと立ち上がると、三人のオバチヤンたちはそれぞれ、一学A棟、C棟、D棟の前に立っていた。星座よろしく、三角形をかたどる。空を見上げ、〈うつろ舟〉の集合状況を今一度確かめる。
 もなみちゃんは犬居のわきをすり抜け、
「わたしはここよ~」
 と両手を天に向かって広げた。よこざまに犬居がもなみちゃんの腰の辺りに抱きつく。ダメ!
「いまだ!」オバチヤンが声をあげる。
 南無三。三人のオバチヤンたちが合掌するのは同時だった。整った三角柱が立ちのぼり、上空の〈うつろ舟〉をその光の中に巻き取っていく。と、舟の碗型の底は次々に震え、瞬く間に滅されていく。
「いま少し、」
『まだだ、』
『一機抜けたぞ!』
 犬居の抱きついていたもなみちゃんの体が、たった一機のうつろ舟によって空に引きあげられていく。
「だめえぇぇぇ」
 犬居の頬がだくだくと濡れた。
「させるかあ!」
 犬居の脚にオバチヤンが飛びつく。
 一食のオバチヤンに二食のオバチヤンが飛びつき、二食のオバチヤンに三食のオバチヤンが飛びつき、三食のオバチヤンに走ってきた雉尾がちょっと飛んでしがみつき、雉尾の足先から猿橋がぶら下がった。
「ああ、食堂のオバチヤンたち、みんな……危ないから、いいの、わたし……」
 もなみちゃんの息は切れ切れだ。
 そのとき、犬居は遠く、獅子の咆哮を聞いた。空耳かと思った。遠く、しかしよく通る声だった。
「そら聞いたかい、レオ学長の最期の咆哮だ。牛Q大仏うしくだいぶつが目を覚ましてくれるからね」
「堪えるんだよ」
「堪えるんだよ」
 いま、非力な猿橋があえなく振り落とされるところだ。
「もなみちゃん!」
 そして、犬居の腕の中から、スン、ともなみちゃんの体の感触が、消えた。

私の正定聚……!

「いぬい──、目、つぶるな、手を広げろ」
 光と風と轟音の中、雉尾の声がした。雉尾の右に三食のオバチヤンと二食のオバチヤン、左に一食のオバチヤンと猿橋が連なっている。猿橋のうんと伸ばしてきた手に、犬居は落下しながら捕まった。
「ぼくたち飛んでますよ、雉尾くんの翼で!」
「下が池だけどっ」
「犬居、泳げるか」
「ちょっと松美池は、ムリかもっ──」
 そんなことより、もなみちゃんが。いや、でもそれより前に死ぬのかもしれない。

☆🍑☆
 うつろの内と外とでは、過ぎる時間が違う。
 もなみちゃんはちょっぴり、桃の実の中にいた頃のことを思い出した。現世のおかあさん、おとうさんは元気かな、と思う。彼女の両親はとても年を取ってから子どもに恵まれたのだ。
 うつろの中はいつかの、自身を焼いた焚き火の中であり、尽きることのない清水を湧き出させた岩場であり、頭を砕かれた池のほとりであった。もなみちゃんは、ポニーテールの大学生の姿のまま、何千年かをひとり歩んだ。

「そう……この中はからっぽなのね、あなたがたはこの小さな舟の中にいるわけではないのね」

「御山の奥深く? だから、猿橋くんと雉尾くんが……」

「ううん、わたしをさらっても、どうにかしても、ここの人たちは思いどおりにはならないのよ。それに、あなたたちが地球で快適に過ごせるようにもならないし」

「あなたがたに足りないのは〝眠り〟ではないかしら。わたし、過去世から戻ってくるのにたくさんたくさん眠ったわ。そしたら、わかった気がしたの。永くひとつの体で生きるのと、ひとつの魂をもって生まれかわり死にかわりするのと、どちらがいいのかなんて、それは誰にもわからないけど、〝眠り〟は必要よ」

「月に浄土はないの?」

「わかったわ、わたしが眠らせてあげる」

「だめよ、みんなを傷つけるのはだめ」
☆🍑☆

もなみちゃんを捕らえていたうつろ舟が、内側から追越おいこしの風呂場の色に輝き、犬居、猿橋、オバチヤン、雉尾、オバチヤン、オバチヤン、(犬居に戻る)と連なっていた輪を照らす。
 と、うつろ舟の底が割れ、金色の光をまとったもなみちゃんが顕現した。

あなたのその死にやすいやわらかい命を護りたいわたし〈ほとけ〉になりたいの

 もなみちゃんの詩歌が聞こえた。
 拝みたい。けれど、両手を合わせることができない。

起きたことはそればかりではなかった。
 ……地鳴りがする。
 汗と涙といろいろに濡れた犬居の耳に、この世の最期とも思える音が響いた。もう、これは、Mt.TKB=sanが噴火くらいするのかもしれない。あれは火山ではなかったはずだが。 
 天地を轟かす音がどんどん近づいてくる。あの日の花火より鮮やかな音をさせ、東大通ひがしおおどおりを北に爆走し、ペデストリアンデッキを踏みならして、身の丈100メートル、重さ4000トンの汎用仏型ふつがた決戦兵器・牛Q大仏は来た。その手の形はお迎えのハンドサイン
 牛Q大仏は松美池のほとり、その18メートルの両の手のひらを開き、パチンと静かに合わせた。もなみちゃんを吸い上げていたうつろ舟が跡形もなく滅せられる。輪になった一同を虚空ちゅうから左の手のひらにすくい取り、芝生のうえへ降ろす。
 そして牛Q大仏は、金色のもなみちゃんを、優しく胸にいだいた。
Mon- amieもなみ……』
「大仏さま~」
 もなみちゃんは大仏のたなごころの中、合掌する。
「大仏さま、大変だ、Mt.TKB=sanがうつろ舟の巣窟に!」
「まだまだこっちへやってくるつもりなんです!」
 雉尾と猿橋が大仏の足もとで飛び跳ねた。
「お願いです、大仏さま。あのうつろな人たちの傷を癒やしてあげなくては。あの人たちは消えない恨めしさを抱いています。そのためにもう自分たちだけではどうにもならないで……引き返すこともできずに……」
「私たちも、連れてってください、大仏さま!」
 犬居が叫んだ。
「大仏さま、わたしたちの最期の旅路を、どうかお導きください。必ず皆、お役に立ちますから」
 もなみちゃんが、ひた、と大仏の胸に触れて言う。牛Q大仏は静かに身をかがめ、犬猿雉を手のひらに乗せた。三人はもなみちゃんとひしと抱き合った。池のおもてにアヒルたちが鳴く。
「さあ、ここは任せて、あんたたちは大仏さまと行きな!」
 オバチヤンたちは言う。
 大仏が再び体を起こしたとき、北からまたうつろ舟が列を成してやってきた。
「みんな、大仏さまの胸の中に」
 もなみちゃんが、大仏の胸に開いた三つの小窓から、三人を中へ押しこんだ。ずずん、と音をさせ、大仏が足を踏み出す。中央図書館の建物をひとまたぎ、図書館前の石の広場に降り立ったかと思うと見る間に加速し、一の矢学生宿舎を越えていく。雉尾の住んでいる棟が無事だったかどうかはよく見えず、大仏が東大通りに進路を取ってくれたときには胸をなで下ろした。あとは田畑の多いエリアを轟轟と抜けていく。

 Go、牛Q大仏、Go!

その間にも、重さ200キロ、直径1メートルの螺髪らほつが、うつろ舟めがけ、次々と飛ぶ。うつろ舟を撃ち落としながら、大仏は走った。さらに北へ。Mt.TKB=sanへ。腕に抱いた愛する正定聚とその仲間を守るため。
 双峰から、限りない数の舟が飛びだしてくるのが目視で確認できた。牛Q大仏の480箇所の螺髪は尽きることを知らない。いくらでも舟を穿つことができた。
「ねえ、大仏さま、もなみちゃんは大丈夫なの?」
 犬居は小窓から上に向かって声を張りあげた。
 もなみちゃんはいま、大仏の手のひらに優しく包まれていた。これまでのいつより幸せそうな顔をしている。犬居には彼女がこのまま正定聚でいられるのかが分からなかった。だって、私たちのために、うつろ人とうつろ舟をどうにかしようって、決めちゃったんでしょう?
「心配しないで、犬居さん」
 小窓に頭を寄せたもなみちゃんが微笑む。
「わたし、何度でもあなたたちと、」
 大仏の手のひらがきゅっとすぼまり、もなみちゃんの表情が見えなくなった。
「うわー」と猿橋が身を縮め、「吐きそうかも」と唸る。
 坂道を軽々のぼるように、大仏はMt.TKB=sanを駆けあがりはじめた。
「大仏さま、男体山と女体山の狭間から、あのひとたちの母艦マザーシップが産まれます」もなみちゃんが言った。
「どこどこ」
 猿橋を抱えた雉尾が顔をのぞかせる。話していると舌を噛みそうで、犬居はもう口が利けない。雉尾の肩を叩いて知らせる。ロープウェイとケーブルカーの頂上駅の間だ。緑の山肌がめりめりと蠢いている。
「おれ、飛んだほうがいい?」
「だめですよ、雉尾くん、今度こそ死んじゃいます、オェエッ」
 大仏の足が止まった。そっと手を下ろし、もなみちゃんがひらりとその手の甲に乗る。こちらを振り返る。
「みんな、祈ってほしいの。どうか、うつろ人たちがよく眠れるように」
 もなみちゃんの声が大仏の胎内を通して聞こえた。 
 犬居、猿橋、雉尾は、それぞれ三つの小窓に挟まり、山に向かって祈った。手を合わせて祈った。雉尾の羽根はとっくに折れていたし、猿橋の眼鏡は割れていたし、犬居は涙が止まらずに目が腫れていた。
 盛り上がろうとする山肌から、これまでのうつろ舟とは比べものにならない大きさの舟が、まさにいま、生まれ出てようとしていた。岩が零れ、木々が剥がれ落ちる。Mt.TKB=sanが傷みはじめている。山が声をあげた。大仏ともなみちゃんが、その裂け目を両手で押さえた。

おねむりのうたおやすみのうた
うたってあげるから
おねむりなさい
こんどおきたら きっと ともだち
あなたも わたしも 正定聚
だから もう
おやすみなさい
ねんねん なむなむ
なむあみだぶつ なーむー
なむあみだーぶつ……なーむー

もなみちゃんがうたう。南ーーー無ーーー、と三人が声をそろえた。
 山が静かになる。エネルギーの切れた赤ん坊のように突然、こてんと。
 時折聞こえる地鳴りはイビキ。
 舟は永い永い眠りについた。
 呆然とする猿橋の服のポケットから、何か小さな丸い容器が転がり出た。激しいオレンジ色のプラスティックキャップが犬居の目を引く。ガマガエルが描かれている。
「ガマ売店のオバチヤンが持たせてくれたやつ」
 雉尾がそれを拾いあげる。
「ガマの油……」犬居が言った。「傷に効くんだよね、どんな傷でも……」
「あ、うちの、ばあちゃんも使ってました、むかし」
「それよ~」もなみちゃんの声が響いた。「大仏さま、この御山のガマを、ここへ連れてきてください!」
 大仏が左右を見渡し、再び猿橋が、オェエエ、と言った。大仏はガマ洞窟の上に鎮座するガマを手に取ると、巨大うつろ舟の眠っているあたり一面に、果汁のように優しく搾った。ガマの雨の降りそそぐ。忽ちMt.TKB=sanの傷は癒えた。
 それから巨大ガマはククッククッと愛らしく鳴くと、ひとりでぴょんと跳び洞窟の上へ戻っていった。

チバラキが無事に仏国土となった暁には、またみんなで会いましょう。その日まで、みなさんどうか、お元気で。

 

【現世4】

一の矢の宿舎が、住むには壊滅的なダメージを得たため、雉尾は猿橋と平砂で同じ部屋に暮らしていた。追越とは往き来もしやすくなったため、もなみちゃんは喜んだ。何もかも傷んだツクバでは、とりわけもなみちゃんの笑顔が清々しかった。
 部屋の暖房が、ぼうぅん、と音を立て、温水が通い始める午前六時。この暖房は学生が付けたり消したりはできない。時間になれば勝手に暖まり、勝手に冷ややかになる。
 犬居は寝起きのまま部屋の扉を開け、洗濯物を干しっぱなしのフロアを横切り、共用スペースの大窓から外を眺めた。半円広場の先にもうつろ舟の飛び散った欠片の遺した跡がある。その地点を迂回して早朝ランニングをこなしているのはもなみちゃん。吐く息が白い。年の瀬の宿舎に他に人けはない。

「わたし、体を鍛えなくちゃ、と思って」
「いまだって充分、もなみちゃんは強いじゃない。力持ちだし」
 犬居は驚いて言った。
「ううん、わたし、反省したの、大仏さまと出会って。もっともっと、心も体も強くなって、みんなを守るの」
「もなみちゃんは青銅製じゃないんだよ?」
「わたし〈ほとけ〉になりたいの」
 うたうようにもなみちゃんは言った。
 牛Q大仏はあれから、四人をオバチヤンたちのもとへ返した。松美池で最後にもなみちゃんを降ろしたときには、大仏の両の目からあたたかな涙が零れ、池に流れ込んだ。鯉とアヒルは歓喜に沸き、水面には南無阿弥陀仏が溢れた。四人はオバチヤンたちと一緒に合掌した。そうして大仏はまた牛Qへと去っていったのだ。もなみちゃんとは遠距離の結縁けちえんとなった。いまも定期的に四人で大仏を訪ねていく。

「もなみちゃーん」 
 犬居は窓を大きく開け、正定聚の名を呼んだ。
「かのちゃーーーん」
 もなみちゃんは半円広場の先で、犬居の呼び声に気付いて手を振った。
「今日、みんなでお昼、オバチヤンたちのところまで、行かない?」
「そうしよーーーう」
 もなみちゃんの声は大きい。その心くらい大きい。風呂場ではあれからも相変わらず毎日、清らかな金色に光っている。
 
 大学構内ではもちろん、松美池の一帯がひどい有り様だったが、大気の像は傾いたけれど無事だったし、オバチヤンたちの獅子奮迅の活躍により、残された学生たちも無事だった。奇跡は起こすもの。復興作業には時間がかかりそうだったが、なにしろここの学生たちはのんびりしているものだから、五拾六億七千万年でも待つことができた。
「ケンケンくん、きじおくん、こっち!」
 もなみちゃんは、松美池前の石の舞台にポンと建てられた、〈幸福鴨ラッキーダック〉のアヒル型看板を前に飛び跳ねる。ポップアップ式の屋台はオバチヤンたちの手作りだ。今後、困っている学生の多そうなエリアに出張するという。
「すいませーん、バイト、なかなかあがれなくて……」
「おれもー」
 ふたりがもなみちゃんの前で自転車をきゅうッと止める。猿橋は平砂横の本屋で、雉尾は変わらずリサイクルショップで、寸暇を惜しんで働いていた。雉尾は制作のために萬年金欠だったが、猿橋もお金を貯めてふたりでアパートを借りるつもりらしい。
「今日はツクバ地鶏のから揚げを試作したがね~」
 一食のオバチヤンが、屋台前のピクニックテーブルのうえにから揚げをドカンと置いた。クワクワと池のアヒルたちが陸にあがってくる。
「オバチヤン……」
 雉尾が、まさか、と言いかける。
「みなまで言うな」と屋台から出てきた二食のオバチヤン。
「え、食べたら除籍になっちゃうやつじゃないですよね、ね」
 猿橋が割れたままの眼鏡を上げ下げする。
「そんなわけあるかいな」と三食のオバチヤン。
 犬居はつまようじでひとつ、から揚げをつまむ。
「うまっ。オバチヤン、これ、下味何?」
「べつにこれまでと変わらんよ、トリがいいんだろね」
「ジューシィなお肉~」
 もなみちゃんがひと口味見をすると、どこから現れたのか、学生たちがワラワラやってきて、
「オバチヤン、うちらにも、ちょうだい!」
「あいよ! 味見はひとり一個まで! あとはカップ一杯三百円也!」
「オバチヤン、こっちも!」
 屋台はたちまち大盛況となった。
 から揚げと、それからおにぎりをもらった四人は屋台を離れ、商売の邪魔をしないようにする。
「きじおくんのあとを、アヒルたちは着いてくるのね」
 もなみちゃんがくすくすと笑った。
 もしこの世に居ながらにして、〈ほとけ〉の生きた顔立ちを拝めるというなら、きっと今なんだな、と犬居は思う。そう、この子はもう、来世には……
 長い旅の終わりのようだった。四人で足並みを合わせ、松の木陰を行く。もなみちゃんが、今生を謳歌してくれて、ほんとうに、良かった。

日が暮れて宿舎に戻ってからは、四人で鍋を囲んだ。誰もいないフロアに机を出し、カセットコンロを設える。
 もなみちゃんは机の端で、何やら手紙を書いている。きっといつもの、牛Q大仏へ宛てた手紙だろう。ちらりと文字が見える。

「年末年始は混み合うのでそちらには参りませんが、いつもおそばに。善き心をもって。愛しています」

猿橋が鍋つかみをした手を大袈裟に振りかざす。
「さあ、お待ちかね! ふた、開けますよ」
「待て待て」
 雉尾が伸びっぱなしの髪をうしろでひとつに縛って、取り分け用の小さな器を構える。
「今日のお鍋は猿橋家スペシャルですよー。我が家で一番人気なんです、じゃーん」
「わあ~」
 手紙に封をしたもなみちゃんが両手を合わせて震えた。
「すてき、お餅がのってるのね!」
「ただのお餅じゃないんです、これが」
 猿橋が眼鏡を曇らせて胸を張る。
「フライパンにごま油をひいて揚げ焼きにしておくことで、鍋に合流させたときの香ばしさが何倍にも! そこに添えた大根おろしがまた、」
「うん、うまいうまい」
「雉尾くん、いただきます、って言いました!?」
「いただいてまふ、餅、うま」
「私、おつゆからいただく」
 犬居がお玉を手にする。
「犬居さん、ほら、負けないで早く自分の分確保してくださいよ?」
 猿橋が大臣としての腕を振るう。雉尾には餅のお代わりが禁じられた。
「ふふ、かのちゃん、最近ちょっとふっくらしてやわらかくていい感じ」
 猿橋から器を受け取りながら、もなみちゃんが言った。
「ええ……このままだと、一族初のでぶになってしまう……猿橋のせいだかんね」
 犬居は猿橋を恨めしく見る。猿橋は近頃ではよく犬居に惣菜を作って持たせていたのだ。
「犬居も、猿橋も、もなみちゃんも、いいのか、帰省しなくて。おれは金欠だからアレだけども」
 雉尾が一切の遠慮無く白だしの澄んだつゆをがぶ飲みしながら言う。
「私、電話しておいたからだいじょうぶ。宿舎の友だちと一緒だからって」
「ぼくは、雉尾くんと同じですよ。節約しなくっちゃ」
「わたし、わたしは……」
 もなみちゃんは箸を置いた。
「もう、家にはおかあさんもおとうさんもいないのよ。病院の……施設アバトーンに入っているの、高齢だからね。年が明けたら、訪ねるつもり。そして、大仏さまとのこと、話してみようとおもうの」
「私も一緒に、行く」犬居が言った。
「うん」もなみちゃんはうなずいた。
 窓の外には真っさらな雪が降り始めたのが見えた。

宿借りの身の上に、しんしんと、雪の降る。
愛してくれて、ありがとう。
愛し愛され、ありがとう。 南無南無南無三。南無阿弥陀仏。

🐾🐾
【了】

文字数:38880

内容に関するアピール

真面目にキリキリ書きました。誰かの生きるのが、ちょっぴりでも楽になりますように、と願って。
 正統派SFを目指したら、どうしてもどうしても、同期のほかの人たちにかなわない。だったらやっぱり、この一年、読んでくれた人に好いてもらった要素をなんとか生かしたい。そう思ったら、もなみちゃんに登場してもらうしかありませんでした。わたしも彼女のことが好きなので、どうにかこうにかしてあげたかった。
 一年間、共に過ごしていただいた皆さま、お世話になった先生方、編集の方々、センパイ方、こんな下のほうまで読むの大変だったと思います……本当に、ありがとうございました。

文字数:275

課題提出者一覧