わたしは孤独な星のように

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わたしは孤独な星のように

わたしは孤独な星のように

 

 

 

         わたしは孤独な星のように

                              柿村イサナ

 

 叔母が空から流れたのは、とても良い秋晴れの日だった。集まった親戚や友人一同は、さすが綺麗な放物線だったと誉めそやし、式後のお茶会でたんまり紅茶とビスケットを堪能して満足げに去っていった。
 わたしは叔母のいない家に一人で帰った。叔母の本だらけの書斎に入り込み、大きな革張りの椅子に座る。小柄な叔母はこの椅子にすっぽり包まれるように座り、満足げにわたしのコクーンと呼んでいた。叔母より少し背の高いわたしには繭のよう、とは言いがたかったけれど、叔母と同じくらい年老いて、頑固で、老健な椅子は艶出しオイルの甘い匂いがして落ち着けた。
 叔母はこの椅子に座って何冊も本を書き、後ろ暗い人を震え上がらせるメールを書き、ちょっぴり世界を揺るがせた。と言っても叔母が強請り屋だったわけではない。叔母は物理学者だった。ただ少しばかり舌鋒鋭すぎ、少しばかり曖昧さに厳しすぎた。他の人と一緒に研究を続けることを三十代半ばで諦めた叔母は、それまでに貯めたお金でシュロップボロウの郊外にビクトリア様式の家を一軒買い、以降はそこで暮らした。配偶者なし、特別なパートナーなし、時折猫がいるだけ。
 その生活の中にわたしが入り込んだのは、わたしの母、つまり叔母の姉の早すぎる落下がきっかけだった。それまで年に一回、誕生日の時に本を一冊ずつ送ってくれる神話の中の存在みたいな叔母は、母の落下式に現れ、唇を固く引き結んでこう言った。
「本を大事にすること、好き嫌いをしないこと、猫たちと仲良くすること、コーヒーもダメ、騒いだりやかましい音楽をかけるのもダメ」
 そうして、わたしは叔母の家に引き取られた。母より年下なのに、もう叔母の髪は真っ白で、でも桃みたいな綺麗な肌をしていた。子供の頃は、叔母は歳をとった妖精かもしれない、と思っていた。もしくは魔女。たくさんの猫を従えた魔女かもしれない。
 家に引き取られてしばらくして、わたしがディスレクシアだということがわかった。叔母は呆れて
「あなたの母さんも一言伝えてくれたら良いのに。そうしたらあんたの誕生日に、本じゃないものを送ったよ」
 でもわたしは本が好きだった。その形、ページを開くときの感触、紙の匂い、整然と並んでいるわたしには意味がわからないたくさんの記号たち、挿絵やカラフルな模様。読めないけれど叔母から送られた本は飽かず眺めて、ページごとの構成はすっかり覚えてしまっていた。
 もしかしたら母は、わたしがディスレクシアなことに気づいていなかったのかもしれない。頼んだのと違うものを買ってきてしまったり、鏡文字が直らなかったり、電車やバスに乗るのを嫌がったり、そういうことがあるたびに「あんたって子は」と言って済ませていた。叔母は一度も「あんたって子は」とは言わなかった。
「文章ってやつを、わたしたちはリボンとして見ている。でもあなたには紙吹雪に見えている。元はおんなじもんなんだけど、見え方が違うだけだね」
 紙吹雪! わたしの頭の中には、色とりどりの紙吹雪が舞っている。それはなんだかとても素敵な光景に思えた。
 叔母は、わたしが紙吹雪をどうやったら捕まえられるか、いろいろ考えてくれた。例えば、スリットを切り抜いた厚紙で少しずつ字を読めるようにしたり、単語毎に色を変えてまとまりがわかりやすいようにしてくれたり。今まで頭の中をひらひらと飛び交う切れ端のような記号一つ一つに役割があり、繋がると意味があること、言葉には音と文字があることをわたしははじめて知った。やっぱりこの人は魔女で、今わたしは魔法の呪文を覚えているのかもしれない、とワクワクした。今では、集中すれば、ゆっくりとだけど文字を読むこともできる。叔母が送ってくれた本もようやく全部読むことができた。

 目の前の机はすべての書類の角がきちんと揃い、完璧に片付けられている。何も自分の死を悟ったからではなく、叔母はもともとそういう性格なのだ。対するわたしは、頭の中がいつもとっ散らかっていて、お茶を入れに台所にいったのに気がつくと庭でチューリップを植えていたりする。正反対なわたしと叔母だったけれど、一緒に暮らすのは不思議と楽だった。
 たぶんいま、わたしは途方に暮れ、叔母の不在を、完全なる不在をどう処理していいかわからないでいる。誰かがいることにイライラしたり、不満を募らせたりするのはわかる。でも誰かがいないことがこんなにも大きいなんて。
 ぼんやり机の上を眺めていると、わたしの名前が書いてある封筒が置かれていることに気づいた。叔母の右肩上がりの細い字で、「イェニへ」と書いた封筒がある。わたし用に、赤や青のペンで書かれたカラフルな名前。開けてみると、レポート用紙にこれまた色とりどりの文字が並んでいる。

 イェニへ
 あなたがこれを読んでいると言うことは、わたしは流れたのでしょう(便せんの端っこまで線が引っ張ってあって、この書き出しはいいね、一回やってみたかった、と走り書きがされている)。ここ最近、体の中の歯車がうまく噛み合わないみたいな、少しずつ水が零れていくみたいな感じがしていた。変なもんだね、いつか来るとは思っていたけれど、いざ目の前にするとさ。
 あなたより先に流れることはわかっていたから、用意はしてある。必要な書類は、今あなたが座っているデスクの右の下の大きな引き出し。封筒毎に分けてあるから、ごちゃごちゃにしないように。面倒くさいことは、全部弁護士のカーショーに任せてあるから大丈夫。つまり、あなたは今後一生、その家に住むことができるし、たぶん生涯今と同じくらいの生活ができるだけのお金がある。もちろん、家を売って、どっか違う場所、すごくすごく遠くに行ったっていい。ロックスターを目指したって、髪を緑に染めたって、アイスクリームだけを食べて生きてもいい。あなたは自由。
 一つだけお願いがある。
 机の上、右端のライトの近くに、赤い革張りの小物入れがあるでしょう。その中に、わたしの母の形見の小さな鏡が入っている。これをあなたに残そうかと思ったけれど、あなたにとっては重荷なんじゃないかと思う。まぁつまり、わたしにとってそうだったんだよ。どうしたらいいかずっとわからなくて、その小物入れにしまいっぱなしだった。だから、あなたにそれを負わせることもしない。
 代わりに、捨てて欲しい。コロニーの端、採光パネルの回転軸にエアロックがある。あそこから宇宙に流してくれる? わたしからのお願いはこれだけ。あとはあなたが幸せに、楽しく生きていてくれたら嬉しい。
 ああ、そうだ、一つ書き忘れていたけれど、もうすぐその家にわたしの友達が来るよ。わたしが流れたことを知ったらすぐに、この願いを叶えるために、あなたを手伝って欲しいと頼んでおいた。ぱっと見気難しそうだけど、割と良いやつだから信用して大丈夫。
 あなたがわたしを早く忘れるように。
 遠い昔に聞いた歌のように、聞いたことは憶えていても確かには思い出せない、そんな存在でいいよ。
 あなたといたのは楽しかった。
 ありがとう。
 猫をよろしく。

 手紙を読んでいるうちに、猫の一匹がわたしの膝に上がり込んでいた。
 この家の猫たちに名前はない。叔母は頑なに名前をつけようとはしなかった。そういう愛し方ではない、わたしたちはたまたま一緒にいるだけだとよく言っていた。
 膝の上で丸くなっているのは、白黒ぶちの年老いた一匹だ。
 わたしがこの家に来てから猫が流れるのに二回立ち会った。猫の星は流れない。猫には星がないから。叔母が名前をつけないのは、だからかもしれない。
 昔、地球では、人が流れると地面に埋めたり、火で燃やしたりしたらしい。でもここでは土地は有限だ。そして酸素も。だから人の命が終わったら再生槽に戻す。ゴミや、資源と同じ。「死」にまつわる手続きは限りなく事務的になった。「死」を悼みたい人たちは、新しい儀式を作り出した。
 わたしが住むコロニー〈オールドイングランド〉は細長い、鉛筆みたいな形をしている。シリンダー型と言われる古いタイプだ。六枚のパネルで構成された筒が二重になっていて、二つの筒が反対方向に回ることによって偏心や歪みを相殺する。パネルは交互に空と陸に割り振られている。空といっても、空に見えるスクリーン状の太陽光パネル。その空の部分に、星を模した発光体を留めた。星にはここに生きている人たちが紐付けられている。生まれた時の報告は「○月〇日、小さな星が空に上がりました」。そして人が亡くなると、その星を落とす。わたしたちが知っている人、仲の良い人、コミュニティで特別な関わりのある人がいなくなると、通知が来る。わたしたちは、その人の星が空から外れ、火薬の綺麗な尾を引いて燃え尽きるのを集まって眺める。
 それが、わたしたちの儀式。
 わたしの母は流れた。
 猫たちはいなくなった。
 叔母は流れた。
 わたしはいなくなることと、流れることの違いがまだわかっていない。空をよくよく見れば、叔母の星があったところの空白が見えるだろうか。そのうち、その隙間は他の人の星で埋められるかもしれない(埋められないかもしれない。人口は減り続けているから)。
 星の空白と、人の空白は、何が違うんだろう。

 次の日、本当に叔母の友人と名乗る人が尋ねて来た。
 わたしたちがロシナンテと呼ぶ、移動式の荷物運搬機を従え、玄関の前に立っていた。
真っ直ぐな黒髪をポニーテールに結び、強い目をしたぶっきらぼうな女性。驚いたことに、叔母よりずいぶん若い。
「あんたの叔母さんの星が落ちたのを見た。だから約束を果たしに来た」
 彼女はレイリタと名乗り、すぐに旅に出られるか聞いてきた。必要なものはもう昨日のうちに準備してあった。食べ物や飲み物はロシナンテにつんであるからいらないと言う。レイリタはいつからこの旅に備えていたんだろう。
 猫たちにたくさん餌と水を残して、猫の扉からいつでも外に出られるようにして、手鏡を入れたわたし用の小さな荷物をロシナンテに積んで、鍵をかけたら、それで出発。
 この家を出ることがあまりに簡単で、驚いている。

 叔母の家から、コロニーの近い方の端までは約七十三キロメートル。五日かけて歩く。
 老いたコロニーは、そのほとんどが放擲されている。わたしたちが住んでいた郊外の家から先はムーア、荒れ地だ。軌道車も使えないので歩いて行くしかない。家から少し離れると、もう幹線道路は補修もされず荒れ放題になっていた。苔や地衣類はじりじりと橋頭堡を築いているが、本格的な草木の侵食からは辛うじて守られている。歩きにくいボロボロになった舗装の上を、遙か彼方にあるコロニーの端を目指して歩いて行く。
 わたしはこんなに遠出をするのは生まれて初めてだった。人々は小さく集まり、生活機能を集中させてエネルギーの無駄を防いでいる。母の家を出て、少し郊外の叔母の家に移ったのがわたしの生涯最大の旅だった。
 最初は緊張して、見るもの全てに驚きながら歩いていたけれど、数時間もするとただ次の一歩のことしか考えられなくなった。こんなことを五日間も? わたしは何を始めてしまったのだろう。
 わたしたちは進む。無口なレイリタと、無口なわたし。会話は殆どなく、聞こえるのは二人の靴が道を踏みしめる音と、ロシナンテの関節がリズミカルに軋む音だけ。
 レイリタはずいぶん旅慣れている様子だった。ゆっくり着実に、同じペースで歩き続ける様子からも、わたしがすっかりバテているのに息一つ上がらない様子からも、歩くことに慣れているのがわかる。
 休憩のために立ち止まると、手早くソーラーパネルを展開してロシナンテの充電をし、余剰電力でお湯を沸かしてお茶をいれ、ドライフルーツとナッツを固めたバーをくれた。みっちりと硬い、甘いバーを少しずつ囓りながら、レイリタをこっそり観察する。
 年はわたしよりは上だ。最初に思ったよりは年上かもしれない。外の光の下で見ると、目元と口元にほんの僅かに細かな皺が見える。でも叔母よりは遙かに下。
 いつも口元をきゅっと結び、目の前にあるものの中身を見通すように少し目をすがめてじっと見つめる。爪は短いけれど、綺麗なバーガンディが塗られていた。装飾のあまりない、体にぴったりした機能的な服に、フードのついたゆるやかなケープのようなものを巻き付けている。靴は年季の入ったしっかりしたブーツ。ほのかに日焼けした肌、眉毛も睫も濃くてしっかりしている。大きくて豊かな唇。瞳の色は……そこで顔を上げたレイリタと目があった。慌てて視線を落として、足下の草に急に興味が出てきたふりをする。
「バンドをやっている。だから旅が多い。バンドメンバーとあちこち歩いて回る。野宿をすることもある。だからロシナンテにはだいたいいつも荷物が積んである。こんなに長く歩くのは初めてだけどね」
 低い声でゆっくり喋る。ざらりとした声、叔母の好きだった全粒粉のパンのような。
 バンド? ますます叔母との接点がわからない。それを聞こうかどうか迷っているうちに、レイリタは立ち上がってロシナンテに荷物を積み直し始めた。
「今日はもう少し進む。そのかわり、明日の朝はゆっくり出発する。たぶん」
 そこでちょっとだけ笑った。
「あんたは動けないだろうから」

 動けなかった。
 全身が軋むようで、足は痛みの固まりだった。信じられなかった。こんな調子であと四日間も歩くのか。それだけじゃない。わたしは恐ろしいことに気づいた。行ったら、戻っこないといけない。同じだけの距離を。
「今日が一番辛い。この後は体が慣れて少しずつ楽になる。帰りのことは考えなくていい。荷物が減ったら、あんたをロシナンテに乗せてやることもできる。だけどその時には、あんたはあたしと同じくらい歩けるようになっているよ」
 レイリタはわたしの足をあちらに伸ばしたり、こちらに曲げたりさせながら言う。なぜなにも言わないのに、思っていることが全部わかるんだろう? そう思いながら見ると、またにやりと笑う。
「あたしもそうだったから」
 準備運動を終えると、痛みは少しマシになっていた。

 幹線道路に沿って進む。
 時折道が大きく損なわれているところに来ると、そこを迂回する。大きな木や森はあまりない。遠くまでがらんとした風景が広がる。水はけが悪く、池か水たまりのようなものができているところもある。小さな川が流れていることもあった。
 朝起きてささやかな野営地を片付け、甘い紅茶とフルーツバーかチョコレートを囓る。昼になるとロシナンテを止め、お湯を沸かし、もったりとした塩味のポタージュのようなものと、目の詰まったほのかに酸味のあるパンを食べる。しっかりとお腹にたまり、午後もなんとか歩けるような気になってくる。夜はトーチを灯し、電熱器で調理をする。クスクスとドライトマト、水で戻す卵で作るオムレツ。豆と塩漬け肉の濃厚なスープにパン。煮込んだリンゴとサツマイモのピュレ。ロシナンテからは魔法のようにいろいろな食材が出てきた。そしてそれを組み合わせて食事を作るレイリタの腕も魔法のようだった。何も手伝えない自分を恥ずかしく思っていると、紅茶はあんたの担当だ、と任されるようになった。
 寝袋にくるまり、念のため周囲に警報器をセットして眠る。寝ている間に余剰電力で空気中から水を取り出す。その静かなモーターの音を聞きながら、叔母の手鏡の縁を指で辿る。滑らかな木の感触。叔母の母だから、わたしにとっては祖母だ。祖母が撫で、叔母が撫で、もしかしたらわたしの母も撫でたかもしれない。壁のない、広い広い空間の中でその形は少しだけわたしを安心させ、眠りにつくのを助けてくれた。

 欺し欺し、少しずつ歩いて行くうちに、確かに体は楽になっていった。レイリタが黙ってチョコレートや飴を差し出す回数も減った。
 景色を見る余裕も出てきた。昔はこのコロニー全部に人が住んでいたこともあるという。資材は全て回収されていたが、時折平らに均された、かつて人の家だったらしい跡を見た。草はあらゆるところに生え、道路が使えないと、進むのにずいぶん苦労した。
 コロニーの端に近づくにつれ、起伏が激しくなってくる。丘と丘の間に入りこんだとき、GPSが途切れた。見上げれば前後の方向くらいはわかるが、丘のどっち側に回れば幹線道路に戻れるのかがわからない。驚いたことにレイリタはロシナンテの中から紙の地図を取り出した。それをわたしに投げてよこす。
「幹線道路沿いに辿っていって。たぶん、少し前に見たのがグライトンの跡だと思う。その先にはイルクリーの街があったはずだ」
 それから、ケープをしっかり巻き付け、近くの藪に突っ込んで丘の上を目指して登っていった。がさがさという音と草の揺れが遠ざかっていく。わたしは途方に暮れ、紙の地図を受け止めたままただ突っ立っていた。まさかこの旅の中で文字を読むことになるとは思わなかった。紙吹雪を制御するためのものを何も持ってきていない。おそるおそる地図を広げる。幹線道路は見つかった。だけど地図いっぱいに散らばっているのが、記号なのか文字なのかわからない。焦って目をさまよわせるが、ますます混乱するばかりだった。これは道なのか、それとも文字の一部なのか。この形は山? それとも記号? 曲がった線、真っ直ぐな線、形と記号、たくさんの紙吹雪が脳内を飛び回り、必死で掴もうとしてもすり抜けていく。目眩がして座り込んだ。
 いつの間にかレイリタがおりてきて、驚いた様子で肩を掴んでいる。ぼんやりと、初めて触れられたな、と思った。
「わたしは、文字が読めない。ごめんなさい、わからない」
 目眩をおさえるため、目を閉じたまま言う。レイリタの表情が変わるのを見たくなかった。肩をぎゅっと掴まれた。反射的に目を開ける。少し眉をひそめ、じっとわたしの顔を見ているレイリタがいる。
「言ってくれてありがとう」
 それから地図を思い切りぐしゃぐしゃと丸め、藪の中に放り込んだ。
「ここがどこかわからなくても、目的地があるなら、迷子じゃない」
 そしてにやりと笑う。わたしも釣られて笑い、それからレイリタのケープにたくさんついた草の実を二人で笑いながらせっせと取った。

 少しずつ、休憩中に話すことが多くなった。
 レイリタがバンドと移動中に、野生の山羊に襲われたこと。山羊の縄張りに気づかず入りこんでしまったらしい。猛烈な勢いで山羊が突進してきて、ギターの人に体当たりした。その人は背負っていたギターごと吹っ飛んで、落ちるときにとんでもない音がして、驚いた山羊は逃げていった。ギターは使い物にならないくらい壊れていたけれど、おかげであたしたちは助かった、とレイリタは笑った。
「野山羊と野良山羊の違い、わかる?」
「帰れなくなった山羊と、帰りたくなくなった山羊……?」
「いいね、その言い方。飼われていた山羊が逃げ出したら野良山羊。野良山羊が野生として定着すると野山羊」
「じゃあ、今わたしたちは、野良人間になりつつあるね」
「帰りたくなくなった? そしたら野人間までもう少しだ」
 レイリタと叔母の接点も少しずつ見えてきた。彼女のバンドーーそこそこ売れていて、わたしでも聞いたことのある曲が何曲かあったーー物理学者の叔母とレイリタを繋いだのは、そのバンドが発表した、物理用語を使った恋愛の歌だった。
「ひどい歌だったと思うよ。背伸びして小難しい言葉をいっぱい詰め込んで、それなりに深い意味があるみたいに匂わせているだけ」
 レイリタは肩をすくめる。ひどい歌だけど、割と売れた。ある日、理解もできていない言葉をもてあそぶな、と痛烈に罵る手紙が届いた。
 ご丁寧に手直しした歌詞付きで。
 送られた歌詞で歌い直したVer.2は元の歌を上回るヒットになり、レイリタたちは手紙の送り主をライブに招待した。ライブ会場に現れた叔母は、意外なことにレイリタたちのバンドを気に入り、レイリタたちも率直で辛辣なユーモアの叔母を気に入った。中でもレイリタと叔母は意気投合した。
 そういえば時々、叔母にしては妙に遠慮がちに、街へ行くけれど一緒に来ないか、と誘ってくることがあった。わたしにとって文字で溢れた街に赴くことは、混乱と苦痛でいっぱいの嵐に踏み込むよう。できれば家で絵を描いていたり、庭で草花の世話をしている方がいい。だからいつも断ってしまっていたけれど、もしかしたらあの時、叔母はレイリタたちのライブに行っていたのだろうか。
 わたしがその誘いを受けていたら。
 わたしがもっと早くレイリタと出会っていたら。
 何が変わっていたんだろう。
 レイリタの語る叔母は、シニカルで、機知に富んでいて、新しいものをどんどん試し、前に進んでいく好奇心に満ちた活発な女性だった。
 知らなかった。叔母が苦いビールが好きで、だけど弱くて、酔うと桃のような肌が染まってさらに桃みたいになること。いつも辛辣な口調が更に辛辣になり、でもよく笑って冗談も同じくらい言うこと。ラテンもソウルもジャズもヒップホップもサイケもファンクも好きだったけれど、ラップだけはお気に召さなかったこと。
 真面目なことも不真面目なことも語り合い、よく笑い、よく怒る、わたしの知らない叔母の顔がたくさんあった。叔母のことを語るレイリタの顔も、わたしの知らない顔だった。
 叔母とレイリタは特別な関係だったのかしら。
 わたしはまだお酒を飲んでみたことがないけれど、今度レイリタを呼んで、叔母と三人で音楽をかけながら一晩過ごすのもいいかもしれない。この季節だったら庭にテーブルを出そう。木にランタンをひっかけて、裸足で芝生の上を歩いて、叔母の好きなピムスをレモネードで割って、
 その時、それが突然来た。
 きっとわたしが振り返るのをずっと待っていたんだろう。気を緩めて、それがいることを忘れて、油断したわたしに飛びかかる機会をうかがっていた。
 巨大な波に呑み込まれたみたいだった。
 息もできず、凄まじい力に捕まってどうすることもできず、翻弄され、もみくちゃにされ、ただひたすらあえいで、抗って、でも。
 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになって「もう会えない、もう会えない」とだけ繰り返すわたしをレイリタが胸の中に抱え込む。突然心の中に落ちてきた叔母の死は、圧倒的な力となってわたしを呑み込み、嗚咽と悲鳴で爆発しそうだった。
 わたしはようやく理解した。
 死ぬことはいなくなることではない。
 死ぬことは星が見えなくなることではない。
 埋めようのない不在を、どうしようもない空白を、一生残る寂しさを抱えることだ。もう何も生まれない。音楽は途切れ、何の音もしない。
 もう会えない。
 もう、二度と会えない。
 悲嘆の大波は何度もやってきてはわたしを飲み込み、やがて少しずつ引いていった。波が引いた砂浜には、空っぽになったわたしが残された。だけど、砂浜はしっかりと確かで温かかった。
「イェニ、あんたの叔母さんはもういない、もう会えない。だけど会える。大丈夫。進もう、叔母さんの願いを叶えたら、きっとまたわかる。大丈夫」
 レイリタはずっと大丈夫と囁き続けた。その音が、言葉が、空っぽになったわたしをまた埋めていく。塩辛い、温かい、そして心地よい音だった。

 わたしたちはコロニーの終端につく。
 目の前に直径約十六キロメートルの採光パネル、コロニーの端がそびえ立っている。目に見えるのはせいぜい三分の一くらい。その先は空気のレイヤーにさえぎられ、遠く霞んでいる。たぶん、わたしが一生で見た中で一番大きなものだ。
 先を歩くレイリタが振り返る。
「整備用エレベーターを探す。メンテナンスハッチまで上がれるはずだ」
 わたしたちは端に沿って歩き、半ば草で埋もれかけたドアを見つけた。エレベーターにはしばらく誰も乗っていないようだった。埃っぽくて、ガラスには汚れの筋がついている。
 採光パネルの真ん中まで十五分。少しずつ変わっていく景色を、わたしたちは黙って見ていた。
 コロニーの中心に近づくにつれ、体が軽くなっていく。わたしたちはエレベーターのロッカーからベストを出して着込み、ケーブルを繋ぎ、お互いに確認し合った。エレベーターから漂い出ると、わたしは世界の真ん中、そして世界の果てにいた。ここで終わり。ここまでがわたしの知っている全部。
 コロニーの反対側の端までは約三十二キロメートル。とても遠くに逆側の採光パネルが見える。こんな風にコロニーを一望したのは初めてだった。それはとても大きくて、そしてとても小さかった。
 空を星が流れる。
 誰かが死んだ。
 世界は静かだ。
 振り返る。大きな採光パネルに比べると、驚くほど小さなメンテナンス用のハッチ、この向こうは宇宙。
 今まで、このコロニーを出ることを真剣に考えたことはなかった。いつか、そのうち、きっと。子どもの頃に思う結婚や出産みたいなもの。
 いつか、そのうち、きっと。
 だけど今、その選択肢はもう少し確実な重さでわたしの中にある。
「もちろん、家を売って、どっか違う場所、すごくすごく遠くに行ったっていい。ロックスターを目指したって、髪を緑に染めたって、アイスクリームだけを食べて生きてもいい。あなたは自由」
 わたしは自由。
 その考えは、扉のようだった。開けてもいい、開けなくてもいい扉。その向こうには違う景色がある。知っているつもりだった庭の片隅に、隠された扉があったのかもしれない。その扉は思い込みや安寧や、変わることへの不安という蔦で覆い隠されていた。
 扉の向こうは明るくて、美しくて、広い。そしてとても怖い。
 レイリタがエアロックを操作する。内側の扉を開け、叔母の手鏡を置いた。それから扉を閉め、操作パネルで外側の扉を開く。手鏡が外に吸い出される。真っ黒な宇宙が手鏡を呑み込んで、そして遠くで小さな光がカチッと瞬いて。
 それでおしまい。
 旅の終わりがあまりに呆気なく、わたしはその場を離れることができなかった。
「どうしてわざわざここまで来ないといけなかったの? 手鏡一つ、どこでだって捨てられるのに」
 レイリタも隣で静かに窓の外を見ている。
「北極星になりたかったんじゃないかな、あんたの叔母さんは」
 少しおいて、レイリタが言葉を続けた。
「昔、あたしたちのひいひいひいひいお祖母ちゃんたちが住んでいた地球も、〈オールドイングランド〉みたいに回転していた。その軸の先に見えたのが北極星。だから北極星は動かない。動かない星を目当てに、船乗りや旅人たちは旅をした」
 レイリタの睫の縁に、小さな水の固まりが引っかかって震えている。
「ここなら北極星と同じように、動かない星でいられる。だからここじゃなきゃいけなかった。あんたの叔母さんは流れて消える星じゃなくて、動かない星になりたかった」
 レイリタが瞬きをすると、水の玉がぱちんと弾けて漂った。
「ここから、あんたを見守る。ずっと」
 叔母の星。夜になって採光パネルが閉じて、その暗闇の向こうに小さな手鏡の反射する光を見つけられなくても、わたしは知っている。叔母の星がそこにあること。小さな小さな光がきらきらと瞬きながら、わたしを見ていること。
 このコロニーを離れても、宇宙のどこに行っても、きっとその小さな光はわたしを見ていてくれる。
 もう会えない。でも叔母はいる。ここに。
 レイリタの二人で、もう見えない小さな光を見ていた。

 レイリタとの旅はまだ半分。帰る旅の途中で、叔母の書いた歌を歌って貰おう。

文字数:11206

内容に関するアピール

 先日、とある賞の審査員を務めました。素晴らしい作品がたくさんあったのですが、読んでいるうちに「あぁ、これはSFを書きたいんだな」と「でもこっちはSFで書きたいんだな」というのが少しずつ見えてくるように。
 目的としてのSFか。
 手段としてのSFか。

 もう少し大きくて、華やかで、SFらしい外連味に満ちた作品の方がいいのではないか、とも考えました。こんな小さくて静かな作品は、きっと埋もれてしまうだろう、と。
 でもわたしが、SFを書きたいのか、SFで書きたいのか、その違いを教えてくれた作品です。
 この作品を、大きな木の固まりの中から彫り出すには、SFという刃物でないと駄目でした。とても扱いの難しい道具だけど、少し手に馴染んできた気がします。

 一年間、ありがとうございました。
 たくさん泣きました。死ぬかと思いました。
 とても苦しく、辛くて、大変で、めちゃくちゃで、幸せでした。

文字数:389

課題提出者一覧