海にたゆたう一文字に

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海にたゆたう一文字に

 1

 神の使いは刺し身にして食べると、ほのかに甘くて美味しい。
 ただし、その傘から幾つも伸びる毒針と、傘のあちこちにある毒胞をうまく避けなければいけない。毒を食べてしまったら、すぐに痺れと吐き気に襲われて、まばたきを五回しないうちに死に至ってしまう。
 海の民の字泛じはんは、その海濔くらげを崇めるというよりは、海で共に生きる生き物のひとつとしか考えていなかった。陸の民は、字泛は海のものなら何でもよく食べると誤解しているけれど、字泛のなかでも、毒を避ける食べ方を知っているのはごく一部だった。
 陸よりも不確かなことに出くわすことの多い海の民は、普通なら、不吉なことをわざわざやったりしない。神の使いは、このマルネの海域を守っている巨大な海濔くらげ神体しんたいとつながっていると言われているからだ。
 けれど、そんな神の使いを、刺し身でばくばくと食べた男が捕まったのだという。ただでさえ、神体が狂いはじめていると噂されている中だったから、マルネの街は収まることを知らない騒ぎになっていた。
 アヤは騒ぎのことを、沖合の岩礁の周りで耳にした。そこでは、色も大きさも様々な、字泛の海濔船くらげぶねが集まっていて、漁をしたり、もっと沖で引き揚げをする準備をしている。神の使いを好んで食べるのは、アヤが生まれ育った海濔船の乗り手たちぐらいだ。食べた者が捕まったら、どう控え目に考えても処刑される。
 知った顔が死ぬかも知れない。五年前に、追い出される自分を見送ってくれた誰かかも知れない。そう思って、アヤはすぐに海濔船をマルネへ向けた。〈櫂、速く〉と、濔字でいじを書いて命じると、激しい蠕動ぜんどうが船を疾走させた。船底に折りたたまれていた千もの触手が、ひろがって一斉に水をかいた。
 ふたりきりの船の甲板には、ごうごうと波を割る音だけが聞こえている。船尾で眠っていた相方のスズが、一度起きてきて、船の揺れに文句を言うと、また眠ってしまった。やれやれと思い、アヤは〈少し遅く〉と、海濔船に言いつけた。
 深い朝霧が晴れると、マルネの島の高い頂きが目に入る。それはこの海域でたった一つの島で、五千人ほどの陸の民が住んでいる。島の真ん中の高台に、この辺りの海域を支配する濔教でいきょうやしろが建っている。
 社の地下は海底洞窟に繋がっていて、そこに棲む神体に、濔教の司祭たちは毎日祈りを捧げ、海域を守らせているという。濔教の中でも、高位の者しか、その海底洞窟に入ることは許されていない。だから、ごく最近までは、神体を見たことのあるものはほとんどいなかった。
 近頃、謎の海濔の触手に、字泛の船がいくつも薙ぎ払われて沈められていた。海底から突然現れて、百人乗りの船でも軽々と空へ打ち上げるその赤黒い触手は、神体のものだと噂されている。神体に屠られる。そう呼ばれることもある。
 五年前の記憶が疼いた。触手に船が打ち上げれた刹那、船の原型は消える。俊敏すぎる衝撃は、物も肉も、綺麗すぎるくらいにひしゃげさせてしまう。船と肉が水にうちつけられるころ、やっと轟音が聞こえる。誰の目にも赤黒い残像が残るばかり。
 五年前のあの日から、全てが変わってしまった。
 船を港につけると、桟橋にはいつも通り、釣りをしたり、外の海との交易で手に入れた烟草を吸って世間話をする字泛たちと、字泛が海から手に入れたものを取引しようとする街の商人たちが集まっていた。アヤは馴染みの商人の一人に声をかけて、下ろした積荷を物色させた。
 大昔、海掃うみばきと呼ばれる巨大な箒星が落ちて、多くの国が滅んだ。地殻はまるで変わって、陸は形を変え、上昇した海に古い文明はすべて飲まれてしまった。残った陸地はごくわずかで、哀れな人々はそれの奪い合いでさらに数を減らしたのだという。
 そして、海掃のあとは、あらゆる海は、どこも大小さまざまな海濔で溢れている。神体はマルネの島ほどの大きさがあって、海に満ちるすべての海濔の母体であるとも言われる。そんなにも巨大な海濔を普段見ることはない。けれど、鯨を超えるものぐらいは近海にも棲んでいて、アヤも見たことがある。他にも、傘のひだに鮫やしゃちをとりこんで、そのまま溶かして食らう海濔も目にしたことがある。
 アヤが噂の男についての話を聞こうとすると、やかましい排水の音が不意に止まった。薪をくべろと遠くで声が上がり、少し離れた建物から蒸気が上がると、水車が回る音がして、ぼちゃんという大きな水音のあと、水はまた流れ出した。
 排水路からは、鯱ほどの大きさの海濔が吐き出されていた。
「近頃は海濔が異様増えて、水路を逆流しています。古の書物を読み解いた司祭様方が、薪を燃やした蒸気で水車を回す排水機を動かして、ああやって詰まりをなおしていますが、はっきり言って、全然追いついていませんね」
「そういうの聞くと、濔教も役に立ってるんだな。って思うね」
「兵士に聞かれたら面倒なことになりますよ。ああいう機構も、司祭様方が書物を集めて読み解いたたまものです。豊かな古えの時代を取り戻そうとしているのですから。私にとっては、海や海濔への畏れよりも、御利益への畏れのほうが大きいのです」
 濔教の司祭は、朽ちかけた書物を箱に入ったままでも読み解くことができる。昔、信心深い老婆から、そう聞いたことがある。老婆は五歳のころ、祈りの会で司祭がそれを実演していたのを目の当たりにして、濔教を深く信じるようになったという。その不思議な力を持つ司祭の傍らにはいつも、海濔だか人間だか分からない生き物がいたのよと、老婆は話し終えると、歯抜けの笑顔をみせて、日が暮れるまで同じ話を繰り返した。その老婆はいつの間にか、濔教に招かれて消えたのだという。
 商人と取引を終えたあと、港の男たちに上質な烟草を分け与えながら、問題の男についての話を聞いて回った。昼前になって船に戻ると、アヤは小部屋で食事をする相方に声をかけた。
「スズ。神の使いを食べたのはゲンカの船の人たちじゃなかった。外から漂着した奴なんだって。そいつ、濔教の社に捕まってるって」
「あいつの船以外に、これを刺し身で食べる人がいると思えないんだけどなあ。心配してマルネまで戻ってきて損したねえ。アヤ、君もどお? 食べる? 柑醤かんしょうで食べると美味しいよ」
 アヤは唖然とした。近くに人はいない。誰にも見たり聞いたりされていなくてよかった。スズは問題の刺し身を、爽やかに甘い橙色の汁に浸して、すするように食べて、美味しさに目を潤ませてすごく嬉しそうな顔をした。その顔を見ると、苛立ちも失せてしまった。朝方、隠れて、磯で祀られているやつを捕ってきたんだろう。
 小部屋の中には、白い珊石さんせきの大皿に、しっかりと毒の処理がされた神の使いの身が盛られている。ときに大人の身体ほどの長さに伸びる触手は特に美味しいと言われるのだけれど、それは全部スズが平らげてしまったみたいだ。
「スズ。食べるなら船底の方でやって。禁字きんじを引き揚げようとして濔教に捕まるならまだしも、それ以外のことで捕まったら、しょぼすぎて厭だからさ」
 禁字―――世界がまだこんなにも海に満たされていなくて、十分すぎるくらい陸地があった古の時代、マルネを避暑地としていた一人の王が作らせた文字集のこと。その文字で書かれたものを読んだものは、王とその一族にすがた、語ったこと、性質などのすべてを瞬時に理解し想像できるようになる。たった一文字でさえ、ひとりの王子の生誕から死去までを表しきることができるという。そう言い伝えられるまぼろしの文字だ。
 濔教は禁字について詮索することを戒めている。理由は詳しく明かされてはいない。司祭の誰かに聞けば、教えを守りなさいと諭されるだけだ。神体にまつわる秘密があるのではと、アヤは思っているけれど確信はなかった。
 神体に屠られたとき、その手がかりを掴みかけたのだけれど、それ以降、ほとんど何の手がかりもない。
「どうせ誰も見てないって。港には字泛しかいないし、陸の人たちは、用がなきゃ私たちの方にはこないんだから。でも、その男はなんなんだろ。どこから流れてきたの?」
「南の外海そとうみだって聞いたけど。言葉が分かる人が全然いないから、どういうつもりなのかも分からないってさ。南から人が来るのは珍しいから。それこそ、ゲンカの船ぐらいにしか、まともに通訳ができる人なんていないじゃん」
 漂流者の男も、字泛に拾われていれば違う運命だったのに、運が悪かった。北や東の外海と違って、南からはごくたまにしか交易船が訪れないから、言葉や文化を知る人はほとんどいない。唯一、定期的に南の海と交易しているのがゲンカの船団で、アヤとスズも八歳か九歳の頃、帰りの船に乗り遅れた同い年くらいの少年と一年ほど一緒に暮らしたことがある。
「南のひとが作ってる黒珊珠こくさんじゅの首飾り、ちょうど禁字探しに必要だよねえ。前のとき、あれを首にかけてたからね」
「南の海の黒珊瑚、早くスズと見に行きたいな。満月の夜になると、たくさんの海濔を呼び寄せて輝くっていうじゃん。でも、南は食べ物は合わないかもね。わたしたちの藻茶もちゃあの人たちは匂いがだめで、全然飲まなかったじゃん。わたしたちはその逆になるかも。ねえ、通訳やってそいつを助ければさ、黒珊珠が手に入るかもよ」

(:]彡(:]ミ(:]彡

 ふたりで街に出たものの、街は不穏な気配に満たされていた。
 ―――海濔を冒涜するものを一刻も早く処刑しろ。
 何十人かの男女が一斉に張り上げる声が街の方から聞こえた。騒ぎが騒ぎを読んで、野次馬も増えて、声を出す濔教の信徒たちは社に向かう列となっていた。列の先頭では、大柄な女が真っ赤な大蛸みたいに膨れて、怒りに満ちた表情で声を張り上げている。
 その女は、問題の男が神の使いを貪るところを最初に発見した女で、古くからの濔教の信徒だった。女は昔、反抗期の娘を崖から海へと投げ落とした。娘が母親へのささやかな反抗のひとつとして、神の使いを痛めつけたのを知ったからだった。その時は、司祭たちが止めるのも全く聞かなかったという。今回も、外の海から流れ着いた男がすぐに処刑されずに生きていることが、どうしても許せないのだった。
 濔教の私兵が群衆を御そうとし、臙脂色の法衣を着た司祭が女を真剣に諭している。少しでも触れたら割れてしまいそうな空気を前に、スズは臆することなく、邪魔だよ。と言って社の方へ強引に進もうとした。決して曲がらずに進むと決めている。そういう目をしていた。
 若い兵士の一人が立ちはだかって、短剣を抜いた。その手つきに、刃物への怯えが見え隠れしていた。無視しても大したことはできない。スズもアヤもそう思った。けれど、それは侮りだった。脇を通り抜けようとするスズの右肩から左腹にかけて、一閃が浴びせられた。
 兵士の震える手から短剣が滑り落ちて、地面を打って跳ねた。
 運がよかったのか、刃はスズの肌を傷つけなかった。代わりに、字泛がよく着る青い長袖の衣がぱっくりと切れた。巻かれたさらしまで綺麗に切れて、背中の下側があらわになった。
 スズを守ろうと抱き寄せて、肌を見たアヤはひどく驚いた。
 左の腹からはじまり、腰に巻くように、青く黒い文字が肌に浮かび上がっていたからだ。それぞれが意味をもつ幾つもの複雑な形が組み合わされていて、自然にできた痣のようなものとは到底思えなかった。かといって、文身いれずみにも見えなかった。
 この文字を、わたしは知っている。アヤは思った。どうして身体になんて。
「見ないで」
 そう言うと、スズはその文字を隠すように、細く長い指先で衣を抑えると、群衆の薄いところを狙って逃げ出した。濔教の司祭や、兵士や信徒たちみんなの視線が集まっていた。アヤはスズを追った。
 宵闇に落ち始めた街のそこかしこに、北の海でよく作られるという硝子製の丸壺が置かれていて、それぞれの中に祀られた小さな海濔がぼわっと色とりどりの蛍色ほたるいろで光っている。それぞれの光は、海濔のように長い寿命を持ちたいという人々の祈りだった。
 以前よりも遥かに増えた祈りの中を、スズが飛ぶように駆け抜けていく。その様は軽やかで、祈りの光景と合わさってとても綺麗だった。
 騒ぎの場からは、誰も追いかけてはこなかった。けれどスズを見失ってしまった。一息ついて、肌の文字のことを考えた、スズのことは何でも知っているつもりだったけれど、そうではなかったみたいで、アヤはふと不安にかられた。
 船に戻る道には、いくつもの賑やかな酒場があった。社の裏手の草地で飼われている牛や豚を焼く香ばしい匂いがした。ちょうど字泛が新鮮な香辛料を店と取引したところらしく、店の中では街の人々と字泛が乾杯をし、肉を食べ交わしていた。
 空腹は身体を冷やすし、不安をより強い毒にしてしまう。お腹を減らしたスズがいるかも知れないと思って、あちこちを見るうちに、アヤも我慢ができなくなって、軒先で鳥串を食べ、無花果いちじく酒をあおった。
 茶を飲み、烟草を交わすたくましい女たちが、近頃は海濔が増えすぎて、排水路が詰まったり逆流したりして困るとか、海が荒れているとか、神体がお怒りだからだとか、噂話に花を咲かせていた。アヤは聞き耳を立てていたけれど、神体が変なのは、字泛が葬送のときに、遺灰と遺骨を海に撒くからだ、とか、字泛は怪しい筆を使って海濔に自由に命令できるから、字泛が海濔を増やしているなんて与太話をはじめたから、アヤは黙って立ち去った。
 船に戻っても、スズの姿はなかった。えいの骨と硝子貝がらすがいの毛でできたスズの海筆うみふでも一緒になくなっていた。ひとりになりたいのかもしれない。月明かりの下、すぐ西の入り江に向かって沓の跡があることにアヤは気づいたけれど、追うことはしなかった。代わりに、壁に立てかけられた自分の海筆を手にとった。
 鯨の骨と髭でできたその海筆は、アヤの背の丁度半分くらいの長さで、幼い頃にスズに作ってもらってから愛用している仕事道具だった。アヤは岸に降りると、海筆の穂先をそっと海面につけた。穂先の触れたところが、わずかに青白く光るけれど、その光はすぐに失せてしまう。
「アヤさん。僕だよ。久しぶりに、書いてるところを見せてよ」
 声をかけられて振り返ると、かつての海筆の弟弟子が笑って立っていた。ゲンカの船が、近くにいるのだろう。
《とびうお》を思い浮かべた。その形をその動きを表す幾つかの濔字ならば、目を閉じていても、体の感覚だけで書くことができる。
 翼で海を叩きながら、ときに何時間も水面近くを滑空する異形の魚のかたち。船に刺さりすらするその勢いを生み出すしなやかな翼の筋を思い浮かべる。思い浮かべたかたちを、濔字の筆さばきとして具現化していく。
〈、翼、跳ねて、進め、討て〉―――海筆は水面、水中、水面と筆致を残し、筆の通った軌跡は青白く光り、海に文字が書き記される。緑色の海濔が三匹、かたちを変える。三匹はそれぞれ、のかたちとなり、月明かりの方へ滑空する。
「お前、手なりでそんな風に書けるなんて、腕を上げたな。あの時は、全部お前のせいだと思って追い出したが、そうではないかもしれないと、最近になって知ったぞ」
 野太い声に振り返ると、ゲンカが腕を組んで立っていた。五年近く顔を合わせないうちに、白髪が増えて、アヤの太ももよりも太かった腕もだいぶしぼんでしまったように見えた。
「ゲンカ。お久しぶり。ごめんだけど、スズはいないし、まだ返せない」
「スズに用なんてねえよ。生きてるならまあいい。騒ぎを聞いた。どうして例の男を、助けようなんて思った?」
「黒珊珠を、手に入れようかなって」
「あんなことがあったのに、お前らはまだ、禁字なんて探しているのか」
 禁字さえあれば、スズの願いに答えられる。
―――私のこと、忘れないでね。
 スズが前、作った文字を教えてくれるとき、自分にそういったのを思い出した。

2

 アヤがゲンカに秘密で、スズに海筆の使い方を教えはじめたのは、スズが十三歳の頃だった。字泛の子供たちは、遅くても十歳くらいまでには、一度は海筆を持たされて、海濔に伝わる濔字を書けるかどうか試される。だから、スズのそれは大分遅かったと言える。それは、ゲンカが頑なにスズが海筆を使うことに反対していたからだった。過剰なくらいに護られて育っていたから、船団では、スズは色々なことを知っている本の虫だと思われていた。
 アヤの方は、むしろ早すぎたくらいで、五歳か六歳の頃には、海面に筆をつけていた。海濔に伝える字だから、濔字でいじって言うんだよ。と、教えられたものをそのまま受け売りして、自慢気にスズに話したのを覚えている。
 濔字を書いて海濔とやりとりする海筆使いになれるのは、字泛の中でもごく一部の、師に才覚を認められたものだけだった。だから、海筆使いは花形で、誰もが一度は憧れる。海筆使いはまるで、濔字と意味の関係を記す辞書を編み上げていくかのように、海濔への命令を磨き上げていく。
 一刻も早く、船団の中で誰よりも役に立ちたくて、アヤは海筆使いを志した。そうでないと、自分の居場所はきっとなくなってしまう。誰かに必要とされなければ、自分なんて無価値なのではないか。幼い頃から、いつもそう思っていた。
 まだ一歳くらいのころ、アヤはゲンカの船団に拾われた。ある日、一人の女の子が大きな海濔の傘に乗って、海面を揺蕩っていた。首には、アヤという名前の書かれた木札がかけられていたという。船のみんなはそうは言わなかったけれど、親に棄てられたのだと、アヤは理解していた。
 だから、誰よりも腕の立つ海筆使いになりたくて必死だった。初めて海筆を手にとったとき、自分にまるで才覚がなかったら、そのまま海に飛び込んで沈んでしまおうと、穿いていた下衣したごろもに、船の中で拾った骨や鉄くずを詰めていたことがばれて、ゲンカに首根っこを掴まれて、耳がちぎれるくらい怒鳴られて叱られた。怖かった。けれどアヤは、泣く気配すら見せなかった。
 ゲンカは船団で一番腕の立つ海筆使いのフェイを呼びつけて、両手を合わせて頭を下げた。
「フェイ。この子に海筆をみっちり教えてやってくれ。誰より厳しくしてやってくれ。才能がないなら、他のことをやらせて、何かしらで船で一番になれるようにしてやりたいから、失敗は早いほうがいい。後は頼む。俺は泣かないがきは苦手なんだ」
 そう言って立ち去るゲンカの目は涙ぐんでいた。
「ゲンカを泣かせるなんて、やるじゃん。で、あなた。名前は?」
「アヤ」
 フェイだ。と答えが帰ってきて、アヤは自分の背丈ほどの海筆を渡された。
「よろしく。ま、とりあえず。これ持って。どんな感じがする? かわいてない? 水分とか力が吸い取られてる感じ、しないなら、いい感じだよ。海筆持ったぐらいで漧くやつは、海筆使いは向かない。ちなみに、ゲンカは昔、あたしと下らない喧嘩をして、あたしを海筆で殴ろうとした。で、持った瞬間、失神した。笑えるじゃん。あいつは本当に才能ない。で、船長やってるの」
 フェイに連れられて船内の小部屋に入ると、床には木枠の蓋があって、開くとすぐ近くに海面が見えた。フェイが口を開く前に、アヤはひとりで勝手に海筆を海面に浸そうとしたから、フェイが慌てて止めた。
「待て待て、気が早い。でも、その意気やよしだね」
「わたしの名前を、書こうと思って」
「普通の字でそう書くのは勝手だけど、海濔には伝わんない。濔字は普通の字じゃない。いい? これから、珠の書き方を教える。誰でもまずはかたちを表すやつから入るんだ。海濔を珠みたいに丸くするやつね。なるべくでかい海濔を思い浮かべれる?」
「これくらい?」
 アヤが両腕を広げて示すと、フェイは首を振った。
「はじめは手で握れるくらいのやつにしとけ。アヤちゃんの手ぐらいでいい。頭の中で準備してね。そいつには傘がある。傘から三十本くらい、手が生えてる。そいつを優しく握り込んで珠にする。傘が曲がって、手がみんな内側に入る。いい? じゃあ、あたしが二回、ゆっくり書くよ。見ててね」
 フェイは穂先を海面につけて、手首を捻って、七分くらいの弧を書いた。その線につなげて、弧の中心にむけて、五本、整然と並ぶ流線を書いた。それが二度繰り返される。二つの軌跡は青白く光って、海の上で濔字になった。小さな海濔が二匹、その濔字を身体に取り込んだ。そしてそのまま、二つの端正な珠になった
「あたしより、ずっとゆっくりでいいよ。やってみ」
 フェイにそう言われ、海筆を手渡されると、アヤは穂先を動かした。筆と海が触れると光るのが、とてもうれしくて、ずっと見ていたいと思った、七分の弧の真ん中へむかう五本の流線が書き終えられたとき、フェイのよりは大分不格好だったけれど、一匹の海濔が一つのつるっとした珠のかたちに変わっていた。
「やっと笑ったね。はじめてで笑えるなら十分。その楽しさ、忘れんなよ。これから、かたちを作ったり、動かしたり。もっと楽しくなるけど、はじまりの楽しさは、何にもかえがたいからね。あと一つ、あたしとの約束だ。どれだけ濔字がうまくなっても、攻撃するのには使わないこと、そういう時代は、かなり昔に終わったんだ」
 その日からアヤは、フェイを師匠と呼んで慕った。食事、烟草、寝床、マルネに行ったときの買い物など、どこに行くにもついていって、暇さえあれば濔字を教わった。ゲンカはそんなアヤを見て、よく喋るし、よく笑うようになったと嬉しそうにした。
 ゲンカはアヤに対して、スズと同じように接してくれた。ときおりひどく攻撃的だったり、暴力的だと思うこともあったけれど。ただ感謝するばかりだった。スズが海筆を触りたいと言う度に、ゲンカが鬼の形相で止めるのを知っていたから、スズに海筆を教えたとき、少しうしろめたかった。
 同じ年のふたりはよく一緒に遊ぶ仲だったけれど、住む船が違っていた。海筆使いの見習いはみんな一つ船に集められていて、スズはそこに近づくことを固く禁じられていた。スズは好奇心任せな子供で、釣りのための小舟で遠くに行こうとしたり、新しい海濔を見ると、どんな毒を持つものかわからないのに我先に海に飛び込んだりと、不思議な行動が多かった。船長の娘だったから、みんな贔屓目に見えていて、でも薄い壁を作って、当たり障りなく接していた。夜、子供たちだけで秘密の集まりをするときも、スズだけが呼ばれないようなこともあった。
 アヤも例に漏れなかった。けれど、あるとき、夜な夜なスズがアヤのところに忍びこむようになった。
「アヤ、濔字を教えてよ。隣で見せてくれるだけでいいから」
「何度も言うけど、ゲンカに見つかるのが怖いよ。他のみんなも、そう言うでしょ?」
「分かんない。君以外に、頼んだことないから」
 意外だった。教えてくれるなら、誰でもいいのだろうと思っていたから。
「どうして、わたしなんかに?」
 本当は謙遜する気なんてなかったけれど、アヤは前のめりにそう返した。
「君が濔字を書く感じが、一番好きだからだよ。一番自由で、滑らかな動きに見えるから」
「迷いがあると、濔字は曖昧になる。迷うくらいなら、筆を適当に振ったほうがましだって、師匠がよく言ってる。それを、守ってるから」
 スズとは違って、自分には、とにかく海筆の才能を示すしか生きていく道がないのだから、迷ってなんていられない。アヤはそう思ったけれど、口には出さなかった。
「迷いがないから、君の書く濔字はそんなに綺麗にみえるんだね。納得。ね。今日は練習、しないの? 毎日、明け方まで、船の後ろの方で、隠れて筆を振って練習してるよね?」
「秘密の練習だったんだけどな」
「誰にも話してないよ。じゃあさあ、私が見るのも、秘密にしておいてね」
 スズに見せたり教えたりするのは、悪い気はしなかった。
 その日から、アヤが密かに海筆を振るとき、スズはいつも傍らに立つようになった。昼間は違う船で暮らしているから、夜に会う時間の方が遥かに長くなった。マルネに寄港したときは、街で遊ぶと言って入り江に行って、昼も夜も一緒にいた。
 見ているだけじゃ、覚えられないよ。筆使いは身体で覚えるものだから。と、アヤは何度も忠告したけれど、スズは見ているだけでいいと答えた。あえて強がる感じのない、真っ直ぐな声だった。
 濔字を見るとき、スズはいつも藻茶もちゃを淹れた。心を安らげるという甘い香りの中、とろんとした目をして、アヤの肩、肘、それから手首が一つの調べのように流れ動くのと、水面に現れた濔字をじっと見つめて、応じた海濔が、珠や錐、網や箱に変わるのを見ると、嬉しそうに笑った。
「ああもう。気が散るじゃん。もう少し向こうで見てよ。そんなにまじまじと見て、何がしたいの?」
「海濔になったらどんな気分かなって。想像してる。だから、私の目はいま、海濔になって、君を見てるんだよ。私のことは、海濔だと思って、迷いなく振り抜かないと」
 スズは髪をかき上げながら、茶化すように笑って答えた。意地でも気にしてやらない。アヤは十回ほど腕を振った。濔字を見られるなんて、意識するのは初めてだった。その夜は新月で、水面の暗く黒い水面がうねって闇に落ちそうなのを、色とりどりの海濔がほの明るく照らしていた。その全ての海濔が、自分の書く濔字をじっと見ている。
 そんな風に感じはじめると、濔字をしたためるのときに、心を覗き見られているような気分になった。単純な珠の字でも、どうしてそれを書いて、どうしてその筆ぶりだったのか。物言わぬ海濔たちみんなに、見られているように思えた。
 結局、緊張のあまり、当然手なりで書けるはずの珠の濔字を、大きく書き損じてしまった。
「君の動きを見てて、そろそろ失敗しそうだなあって思ってた」
「海濔に心を覗かれてるみたいだった。ひどい。こんなに緊張したのは初めて」
「でもさ、君は海濔の気持ちにならないで、どうやって濔字を覚えてるの?」
「書き方は身体で覚える。海濔は海濔。わたしたちは命令してるだけ。師匠からも、海濔はどこまでも道具だって言われてる。海筆使いで、海濔の気持ちなんて考えている人いないよ」
「意外だった。みんな私と、同じかと思ったのに。海濔になりたいわけじゃ、ないんだね」
 スズの声は寂しそうだった。波打ち際にぽつぽつと並ぶ光の粒に近づいていって、しゃがみ込むとそれを指先でつついた。海濔の芽体めたいだった。光の粒は芽体の頭で、頭は足を持って岩肌や砂地に根ざして、強い波にも流されない。頭の先からは、糸のようにほそい手が放射状に広がって、水面に群がる小魚の群れみたいだった。
 いくつかの手は開いて、花体かたいになっていた。スズはその一つを摘んだ。
「芽体のままなら、いくら切っても、芽が写されて再生するんだよね」
「花体が流れていって成体になっても、芽体にもどれば、永遠に近い時間を生きられる。だから、濔教のひとは、海濔を祀って、永遠の命のために祈ってるんだって。ねえ、スズはどうして、海濔になんかになりたいの? 濔教のひとや、昔、あの禁字を作った王様みたいに、永遠を願ってるの?」
「芽体になれば、やり直せるからかな」
「やり直したいの? 確かに、わたしでも、ゲンカが父親だったら、色々うるさいって思うかも」
「それもあるけど、ちょっと違う。やり直せたら、何もかも全部、刺激的に戻るでしょ。生きて、また芽体に戻ってを繰り返して、そういうの羨ましいなって」
「でもさ、こいつら、浮かんでるだけだけど、いいの?」
「だからほら、この子たちの気持ちになろうとしてる。濔字の意味が分かるなら。楽しいだろうなって。身体のかたちも、字泛に作ってもらえるし。動きもわかるからさ」
 波打ち際で、てのひらくらいの大きさの海濔が一匹、成体から芽体に還ろうとしていた。成体の身体の真ん中に、赤黒い珠の塊が幾つも浮かんでいる。心臓のようにも見えるけれど、鼓動せずに静かに、一列に並んでいた。さくだよ。とスズは言った。芽体になるとき、溹はより小さい球に分かれて、ほとんどが海に棄てられた。そして芽体のなかに、ほんの少しだけ溹が受け継がれていた。
「スズが海濔になったら、わたしが身体の字を書いてあげるよ。一番簡単な、珠とかでいい?」
「君はさ、冗談言うならもうちょっと、面白く言わないとさ」
「でもさ、芽体に戻ったら、こういう時間も全部、忘れてやり直しになるじゃん。いいの?」
 ちょっとやだな。スズはアヤの顔を見て、呟くように、そう答えた。

(:]彡(:]ミ(:]彡

 海濔の視線が気になると、それとなくフェイに相談したら。アヤをいれた五人の弟子の前で、大声で笑いとばされた。
「濔字は伝わるのが一番だから、海濔の気持ちにってのは、間違っちゃいない。確かに、かつての筆聖ひっせいたちは、そういう流派が多かった」
「わたしは一番になりたいから、いいやり方なら、真似したいです」
 アヤがそう言うと、おれにも教えてくれよ。と、別の男の子も、対抗意識を燃やして声を上げた。フェイはなんだか、難しい顔をした。
「その流派の筆聖たちは全員、海で突然消えたって言われてる」
「どうして?」
「よく分かっていない。けれど、海濔の気持ちがわかりすぎて、みんな海濔になって流れて行っちゃったってのが、有名な話だね。みんなもなりたいなら、止めないよ」
 フェイはからっと笑ったけれど、弟子たちは黙って下を向いてしまった。わたしの冗談が下手なのは、師匠からうつったんだ。アヤは思った。残酷な現実よりも優しい嘘を言う人だったから、海筆使いの才能がない者が来ても、まだ可能性があるかもなんて言って笑うのだった。
「何にせよ、濔字を身体に覚え込ませるんだ。辞書を腐らせるなよ。その辞書が腐り始めたら、海筆使いとしては終わりだからね」
 フェイは弟子を集めるとき、優しくそう言って締めくくることが多かった。口調はゆっくりで、とても優しかったけれど、その言葉は却って、呪いのようにアヤの頭の中に残っていた。
 かつて筆聖の高みを目指したというフェイは、誰よりも濔字のことに詳しかった。
「師匠は、どうしてあのとき嘘をついたんですか? 筆聖たちが消えた話。優しい嘘をつくときの顔をしてました」
「やるなと言われると、やりたくなるじゃん。だから、みんなの前ではやめておいた。あたしはさ、関わりのある人が傷つくのは許せないんだ。弟子なんて特にそう。死なせたくない」
「何が起こるか分かっていたら、避けられるかは腕次第です」
「みんなの前では、って言っただろ。いいよ。アヤだったら、教えてもいい。ついてきて」
 フェイは鮫の背びれの海筆を手にとった。フェイの誕生日にアヤが贈ったもので、柄にはフェイの名前と『辞書を腐らせるなよ』と文字が彫られている。それを普段使いしてくれていることが、気恥ずかしくも嬉しかった。
 穂先が海につかると、またたく間に簡単な濔字が生み出されてた。網や箱、三角や珠、簡単なかたちを表す濔字だった。反応した海濔は、次々にかたちを変えていく。
「初歩の表形濔字ひょうけいでいじ、まあこれは簡単。この濔字のかたちはさ、絵みたいだからわかりやすいじゃん。受け取った海濔によっては、濔字どおりにならないのもあるけど、こいつらも生き物だからね。どんな筆聖も万能じゃない」
 新しい濔字を覚えると有頂天になるもので、万能感に包まれてしっぺ返しを食らう。アヤも以前、大きな筒型の海濔を、漁につかう網に変えようとして、使い物にならない海濔の塊をいくつも生み出した。
「海濔に複雑なことをさせたい時は、アヤだったらどうする?」
「知ってる濔字を、並べますけど。最近練習しているのだと〈、鳥に向かって、行け〉とかですかね」
 フェイから筆を借りて、アヤは濔字をしたためた。ちょうど、昼下がりの生ぬるさを求めて水面に上がる小魚を食べようと、海鳥の群れが低空を旋回していた。海濔が翼のない中途半端な魚になって、鳥のいない方向に飛んだ。の濔字を書き損じていた。
「まだ身体が覚えていないね。とにかく、普通は意味を増やすには、濔字を並べて文をつくるわけだ。ただこれも、限度がある。アヤが魚に変えた海濔の真ん中に、赤黒い塊が見えるだろう」
「溹ですか?」
 とっさにそう答えてしまった。けれど、スズから教わったとは、フェイに言えるはずもなかった。
「当てずっぽうにしては、よさそうな名前を言うね。で、あれがさ、濔字を伝えると増えていって、ある量を超えると、海濔はみんな、白濁して死骸になっちゃう。だから、伝えられる濔字の数には限度がある。だから一文字の意味を増やす。簡単な方法はさ、古に海に沈んだ国の言葉なんだけど、理義字りぎじとか、品字様ひんじようとか言われていたやり方だ」
 〈毳〉、〈䲜〉とフェイが書くと、一つの海濔はふさふさとした細やかな毛に、もう一つは目に見えぬほどの小魚の群れに変わった。アヤが〈䲜〉を見様見真似すると、四匹の海濔が反応して、それぞれ一匹ずつの魚にかわった。
「一文字にするの、簡単じゃないですよ」
「一気呵成にかかないとね。海濔にとっては別々の濔字になる」
「師匠が前に教えてくれた、会意の字の方が簡単に見えますね」
「それが問題でさ、古の言葉で偏旁冠脚へんぼうかんきゃくとか言われてる、ある種の型みたいなものもあるから、ある程度、ある濔字、ない濔字ってのは分かってる。昔、筆聖があつまって、何十年もかけて、海濔が反応するやつと、しないやつを調べたからな。字典にまとまってるんだ。アヤの好きなは、飛ぶ魚の会意だね。でもさ、アヤ、例えば、飛ぶ箱は会意できるか?」
 アヤは適当に文字並べたけれど、どの方向に並べても、〈箱、飛べ〉と同じ意味はにはならなかった。暇を見つけてひたすらに組み合わせていっても、海濔に受け入れられる字を見つけるのは本当に難しいことは、アヤも含め、試したことのある者はみんな知っていた。簡単な表形濔字を習ったあと、別の種類の濔字に手を出すのが常だった。進め、戻れなど、命令を表す表操濔字。光や闇、数などの概念を示す表意濔字。考えや感情を表す表考濔字。色々な種類を学んだあと、好奇心にあふれる若者たちはみんな、会意の難しさの洗礼を受ける。
「できません。こういう会意をすると、海濔が受け付けないやつばかりが生まるの、わたしも知ってます。師匠が言いたいのは、会意だけじゃ、新しい濔字を見つけたり、作ったりすることは難しいってことですよね? それなら、海濔のこころの方に、寄り添えばどうなるか」
 フェイは頷いて、フェイ自身にも思い当たる節がありそうな顔をした。太陽が雲の影に入って、フェイの顔に刻まれた傷と、深い皺がいつもよりも目立って見えた。
「海濔の方が、あたしたちよりも世界を知ってるんだ。あたしはそう信じてる。濔字って、マルネの人は誰も知らないものも書けるんだよ。例えば、〈馬〉は、書ける人の多い表形濔字だけど、あたしは見たことないし、北の外海に行かないと見れない。でも、引き揚げた昔の本にはその姿が載ってるの。海濔は〈馬〉に反応して、かたちを変えてくれる。濔字を知ってるのはさ、あたしたちじゃなくて、海濔の方なんだ。消えた筆聖たちはみんな、誰も知らない、新しい濔字を作り出したらしい。海濔にこころを近づければ近づけるほど、何が海濔に伝わるか、より深く分かるようになる。知るだけならいい。でも、知れば書いてみたくなる。アヤ、お前、意味の分からない濔字を見かけたら、どうする?」
「意味を知りたくて、飛びつきますよ」
「アヤも海濔も同じだ。意味を知りたくて、手を伸ばしてくる。とびきり大きいやつがね」
 神体だ。新しい字を書くと、神体に屠られる。
 フェイはそう言って、部屋の隅に飾られた古びた海筆を手にとって、そっと頬ずりをした。それから、古傷が痛み出したといって、めずらしく烟草に火を点けた。誰の筆かと聞くと、死んでしまった大切な友のものだ。あたしは生き残ってしまったと言った。
 しばらくの間。アヤは海筆を持つのを畏れるようになった。神体に屠られる。夜が訪れるたびにその様を想像した。抵抗の自由も何もなく、ほんの一瞬で自分が消えることがあると思うと、恐ろしかった。夜の練習にも身が入らなったから、スズは不服そうに頬を膨らませた。理由を聞かれたけれど、曖昧に答えていた。
「スズは大事な友達だけれど、教えると、師匠に悪いじゃん」
「教えてくれないなら、もう来ないよ」
 スズは甘えた声でそう言った。それでもアヤが答えないと、スズは同じことを、強い口調でもう一度言った。それで翌日から、本当にアヤの元を訪れなくなった。誰もいない一人の夜はかえって新鮮だった。決まりきった濔字を書くのに、何のためらいもないけれど、少しでも知らない濔字に挑戦するのが怖かった。自分が知らないと言うだけで、新しいと錯覚して、勝手に神体の屠りのことを想像してしまうからだった。
 なぜ、こんなにも怖いのだろう。とアヤは思った。
 腕をあげなくてもいいと考えるのは、頭の中の辞書が腐るのと同じに思えた。腕を上げるなら、一番に腕のよい海筆使いでありたい。ただそうなったら、新しい濔字を見つけ出して、それを書いてしまうだろう。その誘惑に、自分が抗える気がしなかった。けれど、自分はそこまでいくことができる。畏れながらも、願いを込めてそう思っていると、やがて怖さが和らいでいくのが分かった。

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 かたくなに海筆を持たなかったスズが濔字を書き始めたのは、アヤのところに訪れなくなって半年くらい経った頃だった。兆しがなくはなかった。朝早くアヤが目を覚ますと、筆置きのいつもの位置から、自分の海筆が微妙に動いていた。スズの所に行って、それとなく聞くと、知らないと答えられた。意地を張らなければ、使い方を教えてあげるのに。アヤはそう思ったけれど、自分から教えるなんて言わなかった。
 見ただけだったら、書くことなんてできないと、スズも早く認めればいい。そうしたら、毎日時間をとって教えてあげるのに、そう思っていた矢先、スズは誰にも教わらずに、初めて濔字を書いた。
 その日の朝、筆置きを見ると、海筆が微かに湿っていた。わたしが教えるから。こそこそ勝手にやらないで。そう言おうと心に決めて、スズのところに行こうとすると、フェイが悲鳴に似た声で弟子全員を甲板に集めた。
 船の周りは海濔の死骸で溢れかえっていた。白濁して死んだ海濔のほとんどは、中途半端にしか意味のあるかたちを為していなかった。けれど幾つかは、みんな知らなかったけれど、生き物らしいかたちをなしていた。みんなで呆然と見ていると、死骸はそうなった順に、赤黒い溹の詰まった身体を見せて水底へ沈んでいった。
「誰がやった? 濔字をこんなに書いたら、海濔はみんな限界死するの、教えてるだろ。こんなに書けるのは、腕の立つやつだけだ」
 フェイはアヤを見た。アヤは知りませんと言った。
 部屋に戻って海筆を乾かすと、夜、スズを呼びつけた。
「どういうつもり? っていうか、どうやったの? あんなに書くの、人間業じゃない」
「君に教えてもらおうと思って、毎晩忍び込んで海筆を触ってた、今日は、気づいたら、無我夢中で濔字を書いてた。そしたら、海濔がみんな、ああやって死んでた。溹を見てたら、気分が悪くなって、ずっと寝てた」
「わたしが教えるから、もうああいうことはしないで。師匠に教わったやり方で、スズに教えるから。聞いてきたことは、全部話すよ。スズを弟子だと思うことにする」
 隠していた神体のことは、順を追って話すつもりだった。けれど、しばらくすると、アヤはスズの才覚を目の当たりにして、それどころではなくなってしまった。
 最初の二ヶ月までは、スズをゲンカのところに連れて行って、あなたの娘さんはたしかに才覚がありませんでした。と謝った方がいいのではないかとすら思った。だって、珠の濔字すら、まともに書けなかったのだから。
 ただそれなら、初めての時に、意味のある濔字を書けたことの説明がつかなかった。
 スズの才覚は、教えていないのに、濔字と意味の組み合わせを見つけ出せることだった。珠や錐を書くのにも二ヶ月ぐらいかかったというのに、複雑なかたちをどうして生み出せるのか。アヤにはまるでわからなかった。フェイを除けば、自分は一番の使い手だと思っていたのに。もう少ししたら、絶対に追いつけなくなりそうだった。
 教え始めて一年経たないころ、旗魚とかなどの海の生き物、それから陸の生き物の濔字も、教えてもいないのに一通り書けるようになってしまった。それで、アヤは音を上げた。
「スズはよくわからない。人間離れしてるよ。わたしに、もう教えることない。簡単な字も書けないのに、こんなのを思いついて、書けるんだから」
 スズの母親の命日の夜、アヤはそう言った。敵わないことを認めると、肩の荷がおりたように思えた。昼間の鎮魂式のために、化粧をしたスズは大人びていた。首元の黒珊珠の首飾りが、満月の光のなかでとても綺麗だった。それはスズの母親の形見で、普段はゲンカが肌見放さずもっているものだった。
 その日、スズの書いた濔字は、人ほどの大きさの海濔を、一角鯨いっかくのかたちに変えた。
「たくさんいる海濔から、濔字を引っ張って来る感じ。あとは、考えなくても、体が動くよ。アヤにも、教えてあげようか?」
 スズは無邪気に、アヤの見たこともない感じを教えようとか言うけれど、アヤは首を振った。受け入れたくなかった。角の生えた鯨なんて、見たこともなかった。新しい濔字なのではないか。神体に屠られる。まだ縁遠いと思っていたその言葉が、現実味を帯びてしまった。アヤは部屋に走って、フェイから譲り受けた濔字典でいじてんを引いた。南の外海の果てに住むというそのかたちの濔字は、たしかに字典に載っていた。
 その間に、スズはもう一文字書き終わって、恍惚と笑った。
「思ったんだけど、存在しないものって、濔字になるのかな? 七角鯨。こんなのは、いなそうだよねえ。海濔の目で見ると、なんだかいないものまで、見えてくる気がするよ」
 赤い海濔がかたちを変え、鯨の姿になった。その後すぐに、額の辺りに、七本の角が現れた。それは、現実の海では泳ぐのがままならなそうな異形で、想像上の世界にだけ存在を許されるように思えた。何よりもそれには、一角鯨や、他の濔字から生まれるかたちにある、たましいの手触りのようなものがなかった。いま目の前で、新しい濔字が書かれている。そう直観して、アヤは字典を引く手を止めて、放り投げた。
「スズ。やめよう。逃げないと。やばいよ」
「なんで逃げるの? いまさ、この船の近くに、なにか大きな意味があってさ、すごく気分がいい。それで、どんな濔字でも、楽しく書けそうなんだ」
 スズの目はとろんとしていて、どこか別の地平からこちら側を覗き見ているように見えた。首元の黒珊珠がゆっくりと明滅した。光と翳りの繰り返しに合わせて、船の周りの海濔が一緒なってに光を放って、闇に落ちてを繰り返し始めた。
 集まってきた海濔の上で、スズが濔字をしたためた。七角鯨、八角鯨、九角鯨、次々と現れたそれらの次に、似た濔字が次々と会意される。鯱、鮫、蛸、犬、雉、猿、それぞれが七つ、八つ、九つと、角を持った姿に変わる。あらゆる濔字の組み合わせを、海濔の上に具現化できるかのように。
 スズの手を引こうとしたけれど、足がすくんで動けなかった。海筆がなければ、普段持っている自信なんてこれっぽっちも発揮できなかった。
 助けて、そう叫びながら、船尾のフェイの部屋に向かうと、フェイはもう起きていた。深刻そうな顔をして、冷静な面持ちだった。
「ゲンカの娘か。なんでこの船に? まずいな。気配で分かる。このままじゃ、船団全部が屠られる。アヤ。ありったけの小舟をつくって、できるだけみんなを逃がせ」
 海筆を渡されて、アヤは言われたとおりに小舟の濔字をかいた。それから、船に住む五人の弟子全員と、五人の字泛の名前を叫んだ。〈速く、疾走しろ〉濔字を書いて、船から少し離れると、ひとり足りなかった。一番出来のわるい男の子だった。
 そのとき船はもう、暗い空に跳ね上げられていた。海濔船は、細かな海濔の欠片にちぎれて、夜空をさんさんと光らせた。明るすぎるそれは、跳ね上げられたもの全部を照らしていた。海筆を持ったスズの身体、できの悪い男の子、フェイの姿は見えなかった。赤黒い触手が通り抜けた後、高い波が立って、アヤの作った小舟を揺らした。触手の残像が、月明かりの中見えたように思えた。
 濔灯を照らしながら、ゲンカの船団の船が次々と集まってきた。

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 翌々日、男の子の葬儀があった。フェイの盲いた両の目に巻かれた包帯は、涙で濡れて、緩んですぐに剥がれ落ちていた。海筆使いが祭壇を作って、その中で男の子の遺体を燃やすと、海の底から透明な魚と鯨が上がってきて、祭壇のまわりをぐるぐると回った。海濔を主食にすしていると、そういう風に身体が海濔に似るらしく、焼いても骨が残らない。
 その透明な魚が一匹、串刺しにされて、祭壇に放り込まれた。魂が海と共に生きるようにと祈りを込めて。
 男の子の両親に、フェイは激しく詰め寄られた。前にも仲間を事故にあわせているろくでなしと言われ、珊石の皿を投げつけられた。言葉なく、頭を下げるばかりだった。そのあと、フェイはアヤを呼んだ。アヤが小舟を書く時に使った海筆を受け取ると、アヤの頭をそっと撫でた。
「あたし、船を出るから、こういう思いを、もう二度としないようにするためにね」
「どうすれば、そうできるんですか」
「神体を、なんとかするしかなさそうだね」
「わたしも、連れて行ってください」
「駄目だよ。あたしも、弟子に教えた責任を果たせなくて申し訳ないけど、アヤにも、やるべきこと。あるだろ?」
 アヤが無言で頷くと、フェイはアヤが投げ捨てた字典を差し出した。直接口には出されなかったけれど、師に全部見透かされているのだと、アヤは悟った。
「最後に、一つだけ聞きたいんだけど、溹を知ってたよね。どこで聞いた? てんについても、知ってるか?」
 アヤは首を振った。溹はともかく、典なんて、知らない。何の言葉なのだろう。フェイはもう一度、アヤを撫でて、烟草に火を点けた。
 翌朝、もうフェイはいなかった。どこに行ったのかも、誰も知らなかった。
 いなくなってから知ったのだけれど、船団では、一連のことは全部、フェイの責任ということになっていた。奇跡的に無傷だったスズは、ゲンカに連れて行かれて、一ヶ月くらい部屋に閉じ込められていた。飲み物と食べ物だけは与えられる、大切なお人形と言わんばかりの扱いだった。
 スズが海筆や濔字を知っていることも、当然ゲンカに伝わっていた。スズは、いつからなのかとか、なぜやったのかと問い詰められたけれど、何も答えなかった。何も答えなかったから、ゲンカはいなくなったフェイのことを罵った。スズに教えたのは、フェイなのだと、ゲンカは信じていた。
 教えたのはわたし。悪い? ゲンカの前でそう叫んだとき、フェイの優しさを踏みにじった気がした。泣いても仕方ないと思ったけれど、涙を止められなかった。ゲンカは椅子を投げ、机を投げ、取り押さえようとする乗り手も投げて、出ていけとアヤに言い放った。
 荷物をまとめて、海濔で小舟を作った。海濔船と呼ぶには、笑ってしまうようなできだった。もっと練習しておけばよかった。こんな小舟しか作れないんじゃ、どんなに上手く動かしても、嵐が来たら、自分は死ぬことになるだろう。
 あの日、足が竦んでスズから逃げ出した。あのことを謝れないまま去るのが、心苦しかった。荷物を積み込んでから、風が収まるのを待った。フェイの真似をして烟草を吸うと、ひどく苦くて、二度と吸いたくないと思った。
 このまま去ることは、教えた責任を果たすことになるのか。アヤは少し考えたけれど、風が収まったのを感じると、小舟に跳び乗って〈南へ、進め〉と書いた。小舟は動きはじめ、船が小さくなるころ、兄弟弟子たちも含め、船団の人々がアヤに手を振っているのが見えた。
 小舟に横になって空を見上げると、雨の匂いのする冷たい風を感じた。夜空を見るのが最後になってもいいと思いながら、じっと見つめた。
「雨が来ないうちに、私が船を大きくするね」
 スズが顔を見せた。荷物に隠れて、乗っていたのだという。アヤは起き上がり、スズの身体を抱きしめた。
「来なくてよかったのに。どうして」
「その言い方、ないよ。私、アヤといたほうが、絶対幸せだもん。暴力的なあいつといるより、ずっとね」
「そう言ってくれるのは、嬉しいよ」
 それで、ふたりきりの船旅がはじまった。
 船のかたちを作るのはスズ、船を進ませるのはアヤの役目になった。嵐をやっとのことでしのぎきったあと、マルネの近くで、ふたりは鯨ほどの海濔を見つけた。ひとつきくらいかけて、その大きな海濔を船に変えると、やっと落ち着くことができた。
 アヤはスズに、新しい濔字と神体の関係を話した。あの日、スズが恍惚と海筆を振る様は、アヤの脳裏に焼き付いていた。スズはアヤに、あの日のことで、覚えていることを話した。
「私は海濔たちの側にいて、存在しないものを、新しく濔字にしたためてた。あの日まで、そんなことできるなんて思ってなかった。でも、多分、逆なんだよ。存在するものが、濔字になっているわけじゃなくて、濔字で書かれると、存在できるの。私さ、君と私のことを、濔字にしようとしてた。文にしたためるのじゃだめ。それだと、きっと文字ごとに別の存在になってしまうと思うから。一つの文字じゃないといけない。思いつく全部の偏旁冠脚と、私が引いてこれる全部の濔字を使って、君と私の濔字を書こうとしてた。多分、書けて、海濔たちの側で、それを誰かに教えていたんだけれど、目が覚めた」
「凄いじゃん。書けたら、どうなるの?」
「君がその字を見たら、私の全部を思い出せる。私がその字を見たら、君のかたちも、仕草も、全部を思いだせる。多分、そんなことになったのは、あのとき、禁字が近くにあったんだと思う。私さ、私たちの濔字を完成させたいなあ。ねえ、アヤ、禁字を探しに行こうよ」
 それは、また神体に屠られる危険性のある選択肢だった。けれど、アヤに迷いはなかった。 次は自分がスズを守ればいい。アヤが深く頷くと、スズはアヤの両手に、指を絡めて喜んだ。その細くて温かい指の感覚を、決して忘れないようにしようと、アヤは思った。
「ねえ、わたしとスズの濔字は、どれくらい違うの?」
「書くと危ないから、他のやり方で教えるね。書いたり、触ったりすればいいかなあ」
 その後五年、禁字の手がかりはつかめなかったけれど、アヤはスズの濔字を何度も教わることができた。アヤの濔字のことも、スズは教えたがったけれど、アヤはスズに、覚えておいてねと、スズはアヤに、わたしのこと、忘れないでねとよく言った。
 そして月日が経つほど、スズの方が、何かに駆られるように、速く禁字を手に入れたいと言うようになった。

3

 ―――禁字の女を逃がすな。捕らえろ。
 黄昏時、兵士が叫ぶ声がして、海筆を抱いて仮眠をとっていたアヤは目を覚ました。スズが十名ほどの兵士に追われている。三日も船を開けて、一体何をしていたというのか。おかげで少し、寝不足だった。
「アヤ。船を出す準備、お願い。西の方に全速」
 全速航行するときは、速い魚を思うのがいい。前に旗魚かじきが飛んできて、船底を貫いたことがあったのを思い出す。最速の魚は、うってつけの魚だった。海濔の原型をとどめたまま、ただ〈速く〉とか命じるよりも、速いかたちが必要だった。
 けれど、そのかたちを表す一文字の濔字を知らない。
 残酷な銛のような上顎の切っ先、なめらかに水を流す流線形のからだ。やわらかな背骨と強い筋肉のしなり。速くうごく想像を、一文字、二文字と濔字に認めていく。船は発進したけれど、スズはまだ乗っていなかった。桟橋が何人かの兵士に封鎖され、戻ったら船ごと取り押さえられそうだった。アヤは〈右、旋回〉と命じて、海濔船の腹をスズの方に向けた。
 岸に残されたスズは、〈硬、台〉と幾つも書いた。書かれた濔字に応じた海濔が、岸辺から船までの長い飛び石の桟橋のようになった。その上を飛んできたスズは、船に乗ると、水をたっぷり飲んでから、あっちといって、西の方を指差した。
「三日間、なんで帰らなかったの?」
「南のやつを、どこかから逃せないかなと思って、探してた」
「どうなったの?」
「私には無理だったけど、誰かが逃したみたい。そろそろ街でも、騒ぎになるかなあ。そいつが、あっちに方に、多分流れてくると思う。懐かしい感じがする」
 スズの言う方に船をしばらく走らせると、空に夜の帳が降ろされていった。近くなったのか、スズの指先が、かなり細かくなっていた。
「海濔しか見えないじゃん」
 アヤが言うと、スズは首を振った。
 海を見ると、その気配の正体が分かった。海の中から、小舟ほどの珠が浮かび上がってきた。赤く、白く光る珠はその姿を半分ほど水の上に出すと、ゆっくりと、はらりはらりと解けるように開いて、ひとつの海濔に戻った。
 海濔の傘の上に横たわる人の姿があった。光る水の上を、身体が流れているように見える。男を乗せた海濔の手は船底にとりついて、船尾のすぐ真横までやってくる。浅黒い褐色肌の男が苦しそうに目をつむっていた。熱があるのか、火照る身体からの上気が見えるかのようだった。夜の雲から強い風が吹き下ろされて、男が目を覚ました。
「助けてくれ」
 男は南の言葉でそう言った。幼い頃よく、ゲンカの船で聞いた言葉だった。
 
(:]彡(:]ミ(:]彡

 ずぶ濡れの男に布を渡して身体を拭かせ、男でも着れそうな服を与えて着替えさせた。細く鍛え抜かれた身体は鮫の顎ぐらい強くしなやかそうに見えた。首は太く、肩と背中は広かった。耳を飾る黒珊珠の装具が、顔立ちをより引き締めて見せた。目元がすっかり隠れるくらいに伸びた前髪のせいで、年齢はわからないけれど、アヤとスズと同じくらいに見えた。
「船。遭難した。流れてきた。捕まった。南から。来た。赤い海濔。神聖。知らなかった」
 マルネの海域の単語をつなげて必死に話す男は、膝をつき、祈るように上目遣いをしながら、風の冷たさに鳥肌を立てて身体を小刻みに震わせた。
 スズが三人分の藻茶を淹れると、白い器の一つを男に差し出した。
 男は深く頭を下げて、半分ほどを飲むと、心。落ち着く。ありがとう。と言って笑った。
 アヤはとっさに、腰につけた小刀を抜いて男に向けて身構えた。
「ねえ。あなた何者?」
「ちょっと、アヤ。やめてよ。あいつみたいに乱暴なのは」
「藻茶のこと、スズは覚えてる? わたしたちは慣れてるけれど、外海のひとはこの匂いが苦手で、どうしても交易に使えないってよく言われてたじゃん。そもそもさ、流れてきただけの人が、神の使いを食べて無事でいられるはずない」
「それは、そうかもね。食べ方、難しいし」
「だから、こいつ、字泛のことも、濔教のことも、元々知ってると思う。もしかしたら、わたしたちよりも詳しくね。正体を隠してて、何かを企んでる。ねえ、あなた。何しに来たの?」
 濔教に捕らわれていた漂流者、その印象が感じさせる弱々しさを醸していた男は、ふたりとの間に間合いをとって、拳を構えた。
 そうくるなら。そう思って、アヤが飛びかかろうとすると、スズが男の名前を呼んだ。
「ケウ」
 男は観念したように、拳を下ろして力を抜いた。スズは嬉しそうに笑うと、無防備に手を振りながら、男の前に駆け寄った。
「やっぱりケウだ。アヤ。昔、一緒に暮らした南の男の子。ねえ。ケウ。私だよ。スズだよ。こっちはアヤ。覚えているでしょ?」
 男が前髪をかきあげると、海を渡る猛禽のように鋭い目元が現れた。目元を見て、アヤは小刀にいっそう力を込めた。男が口を開かなかったら、飛びかかっていただろう。
 アヤの知っている、子蟹のような可愛らしいつぶらな瞳の面影はすっかり喪われていたから。
「君らの言葉を話すのも久しぶりだ。子供の頃に教えてもらった言葉は、不思議といつまでも忘れないものだね。君らが名前を呼び合うのを聞いて、予感はしていたけれど、本当にスズとアヤだとは思わなかった。アヤは僕のこと、忘れてるみたいだけど。でも仕方ない。色々あったと思うし、おれも大分、変わってしまっているから」
 声と喋り方を聞いて、アヤはようやく小刀を降ろして、小さく息を吐いた。
「十五年ぶりだけど、口を開くと昔のままじゃん。で、マルネに何をしに来たの?」
「神体が狂い始めているという話の真偽を確かめに来た」
「見たの? 神体を?」
「あいにく。叶わなかった」
「やるじゃん。社から逃げてくるなんて。海濔をあんなふうに珠にするの、海筆でやったの?」
「あれは、おれじゃないんだ。順を追って話すから、よければ少し、眠らせてくれ」
 スズはケウを小部屋に案内し、ござの上に横たわらせて、厚手の藻布もふを渡した。眠ろうと目を閉じたケウに、文身いれずみも昔のままだね。スズは懐かしそうに言った。ケウは目を丸くして、それから、ばつの悪そうな顔をした。ああ、少し薄くなったけど、相変わらずおれを縛ってる。と答えた。
 ゲンカの船で一緒に過ごしたのは、確か八歳か九歳くらいのころで、三人の悪戯の罰を被って、ケウはよく坊主頭にされていた。額から後頭部にかけて彫られた、真っ黒な大きな海鳥と、呪文か祈りか分からない文字が文様がよく見えた。
 けれど、今のケウは肩くらいまで髪を伸ばしているから、その文身はほとんど見えない。スズはいつ文身を見たのだろう? アヤは疑問に思ったけれど、その時はまだ、ケウが髪をかきあげた少しの間に目にしたのだろうと思っていた。
 疲れたと言って、それからすぐにスズも寝てしまった。
 アヤは目が冴えて、眠れなかった。五年前のあの日みたいな。胸騒ぎがした。
「辛気臭い顔して、どうした?」
「スズが濔教に追われてる。なんだか、海筆をさ、人に向けて使わないといけない予感がして、すごく厭だ。こういう感じを、忘れるいい方法、南にない?」
「ないな。でも、慣れてしまえばいい。でも、君らはデイジ? だっけか。海濔に色々命令できるだろ。そもそも、戦いに使わないのか?」
「字泛が陸の人たちと戦っていたころは、そうだったみたい。今は違う。濔字を書いて人を攻撃するなんて、習わないし、わたしは師匠とそうしないって約束してる」
「南じゃな、君らが、海濔を使って、あちこちを攻撃するんじゃないかって話で持ちきりだ。やられる前に、やってしまおうなんて話もある。そういう話のきっかけが、たくさんの南の女たちを載せた船が、この辺りで行方不明になっていることだ、ゲンカや濔教に聞いても、はぐらかすばかりだ」
「字泛はそんなことしない。濔教のやつらは、わかんないけど。でも、あなた、どうやって社から逃げてきたの? 濔字を書けないと、海濔に入って逃げるなんてできないと思うけど。書けないよね。あなたは」
「まさか、おれには無理だよ。名前を聞いたんだけど、名前はないって言ってた。そいつは不思議なやつだった。すがたは見えなかった。そいつは、おれの文身が気になったらしくて、暗闇の中やってきて、触ったんだ。こんなに髪で隠してるのに、見えるみたいで、鳥の柄の意味を教えてくれって言われた。そいつが、海濔をあのかたちにして、おれを助けてくれたんだ』
「そいつと、取引したわけか。どんな取引を?」
「嘘みたいだが、おれはそいつに、文身の意味と、南の海の文字と言葉を教えただけだ。そうしたら、そいつはすごく喜んでた。遠くの言葉は探すのが大変だからってさ」
「言葉を教えるのは、あなたは昔から上手だもんね。わたしもスズも、おかげで南の言葉が分かる。でも、鳥? 文身の意味は、聞いたことはないかも」
 ケウはためらいの目をして、ゲンカは知っていたっぽいけど、聞いてないのか? と言って、続けた。
「この海鳥は南の海の王を守る神。この文身は、おれが信じてもいないその神が、所有物であるおれを守るという祈りであり、呪いだ。守られてる覚えはないけれど、これが刻まれたものはな、命令されりゃ、他の海で盗みでも、殺しでも、何でもやる。おれたちの身分だと、生まれてすぐ彫られて、それから何度も、彫り直される」
 ケウは両手を見た。命じられてしてきたことを思い返していた。
 返す言葉を見つけられずに、アヤは黙った。乗り遅れて一年を過ごしたのではなくて、ケウは逃げ出そうと必死だったのかもしれない。そんなこと、一言もきかないまま、あのときは別れてしまったというのに。
「声や喋り方まで変わってしまう前に、ふたりに会えてよかった」
 それから少し、昔話に花を咲かせた。ケウは今のことを多くは話さなかったけれど、共に遊んだ日々のことはよく覚えていた。
 おれは、手ぶらで帰るわけには行かないんだと、ケウはアヤを見て言った。マルネに船を進めて欲しいとせがまれたけれど、追手の気配が漂っていた。

(:]彡(:]ミ(:]彡

 あくる昼に、スズとケウが諍いをしていた。
 ケウが眠っている間に、スズが黒珊珠の装具を借りて身につけていたのが原因だった。
「ケウを助けたんだから。ちょっとぐらいいいよね。私、時間がないの」
「形見の大事なものだ。返せ」
 スズは瞳を閉じて、息が止まっているかと思うほど長い深呼吸を繰り返した。耳元で、黒珊珠がゆっくり光った。
「いまはあっちに、禁字が沈んでいる気がする。ごめん、説明下手でさ」
「あの日みたいに、ならないでね。ああなっても、今度はわたしが守るけどさ。いまは、海濔の気持ちで見てるってこと?」
 スズはわからない。気持ちとかじゃない。そう言って首を振った。
「貸す代わりに。マルネに帰ってもらうよ。濔教が来たら、おれも戦ってやるから」
 ケウがそう言い終わった直後、 船底を横から殴る音が不意に轟いて、船が大きく揺れた。甲板のぜんぶをずぶ濡れにするほどの水飛沫が立って、三人はそれぞれ、別々に投げ出された。
 音の方向の先に、濔教の祈船いのりぶねが三隻並んでいた。
 祈船のひとつから、十本ほどの水飛沫が、平行に列を為して、真っ直ぐにこちら側へ進んでいた。それぞれは、はじめは蠕動する海濔で、かたちを錐形に変えながら、船に直撃する軌跡を描いていた。
 スズが声を張り上げる。水飛沫の正体が、不思議と見えているかのように言った。
「まだまだ後ろから来てるよ。三十か、四十くらい。全部、錐のかたちになろうとしてる。でも、何の濔字だろう。あの海濔たちには、私の知らない濔字が書かれてる。アヤ、避けて」
「殺しにきてんじゃん。避けなきゃ。やられる。スズ、あんた。海濔側から見てるでしょ。気をつけてね。あの時みたいに、暴走しないで」
「あのときとは違う感じがする。あとで、ちゃんと話すね」
 とっさに海筆を掴む〈右へ直角に旋回。旗魚。速く、直進〉船の腹を隠せるように濔字を書いた。近づいてきていた水飛沫を避けることができた。衝突の水飛沫は一つも立っていない。
 しかし、船が大きく右に傾き始めた。スズは転び、甲板を流れていって頭を打った。
 肝心な時に書き損じてしまった。そう思うと、手が震えた。
 書き直さなくては、そう思って、海筆を握り直すと、スズが叫んだ。
「私たちの海濔船が、元に戻ってる。このままじゃ、船のかたちが消えて、海濔に戻ってしまう」
 青白い硬質な板のように、無機質なかたちにつくられていたはずの片側の側面が、船頭から船尾までずっと、幾重もの透明なひだの連なりに姿を戻していた。穏やかに脈が打つように、前後にびくりびくりと蠕動し、ところどころから、無防備で意志のない長い手がだらりと海の中へ伸びていた。身体に取り込んだ濔字の意味のくびきを逃れて、一つの自由な海濔が海に戻ろうとしていた。
 一度は足がすくんだ。けれど動くことができた。今度は逃げないと決めていたから。
 頭に血が登って、顔が熱を持つのを感じながら、アヤはかわらの小舟に飛び乗った。
 向かってくる三十の水飛沫を前に、怯むことはなかった。これだけの数を止めるなら、考えている暇などなかった。迷わず振り抜くしかない。わたしの身体にはまだ腐らない辞書がある。それを、いちいち使うのではなく、身体からそのまま取り出すようにすればいい。アヤはそう考えて、海筆と、辞書と、一体になろうとした。
 《旗魚のかたちと速さ、のように飛んで、狙え》、五つの濔字に意味を込めなくてはと思っていたところ、五つの濔字それぞれに込めるはずの意味は脚や冠となり、腕は会意を見出した。身体が勝手に動いて、心から意味がねじりだされた。それは、会意により偶然に見つけ出された、五つの濔字の意味を持つ会意濔字だった。
 生み出されたそのかたちは、あの時と同じように、たましいの気配がなかった。字典なんてなくても、新しい濔字を見つけたのだと分かった。神体に屠られる。その怖さよりも、目の前の敵を倒すことへの興奮が上回った。
 一つで五つの意味を持つから、字を書く速さは五倍になった。
 無我夢中に筆を振るうと、合わせて三十の海濔が、かたちを変えて、三十の水飛沫を迎え撃った。小舟にぶつかる直前で、どん、どん、どんと音と水柱が立って、それらは止まった。白濁した錐のかたちの海濔の死骸が、いくつも浮かんだ。
「アヤ、私、船を直すから、動かしてよ」
「そんなこと、してる間にやられる」
 それに、スズなら、わたしよりうまく動かせるでしょう。思ったが口には出さなかった。それよりも、次はまた四十ほど、水飛沫が迫っていた。
「多勢に無勢だ。逃げたほうがいい」
 船尾に飛ばされていたケウがそう叫んだ。
 アヤは全く無視して、向かってくる水飛沫に向かって、海筆をふるい続けた。海につながって、中から自分を見ているみたいに、静かで沈むこむように、濔字を書くことができた。それは、濔字そのものと一体になるような感じで、動けば自分がそのまま字になるのだから、決して書き損じるなんて怖さはなかった。自然と、声を出して笑いたくなった。そうか、スズはいつも、こんなに楽しかったんだ。海筆を、こんなにも無碍むげに振れるなんて。
 スズの前で四十ほどの水飛沫が立ち上がる。飛んできた全てを、撃墜した。
 見て、すべて止めたよ。誰に対してか、アヤは恍惚と、顔を赤らめて笑った。
 楽しくて、他のなにも見えず、声も聞こえていなかった。
 祈船が三隻、目に入った。
 何かを手に入れたら、それをただひたすらに使ってみたくなるもので、使い続ければ勝てるなんて思ってしまう。ひどく単純で、怠惰な考えは、とても心地よくて、離れがたいのだから。アヤはそのまま、腕が動くままに、敵に向かうよう、千の濔字を書いていた。千一文字目ではじめて書き損じをして、不意に恍惚が消えていくのを感じたとき、自分の右肩がだらりと外れて、まるで力が入らなくなっているのに気がついた。
「アヤ。お前早くこっちに来い。痛くないか?」
 小舟に跳び乗ったケウが、アヤから海筆を引き剥がした。アヤはとっさに、左手でケウの顔を殴ったが、ばかやろうと怒鳴らて、網梯子で甲板に引き揚げられた。船尾に三つ、箱のかたちをした海濔が浮かんでいた。ケウが社から脱出したときのものを、見様見真似でスズが書いたのという。
「逃げるぞ」
 そう言われて、ケウに掴まれた手を振り払うと、アヤはスズにすがりついた。 
 スズは三度、アヤの頭を優しく撫でた。
「やっぱり君は、すごかったね。君の作ったあのかたちは、速すぎて誰にも止められないよ。きっと私でも、止めるの無理だと思う」
「スズ、船を直そう。わたし、あれを千文字も書いたよ。だから、あいつら、沈むよ」
 三隻の祈船は沈むどころか、こちらに向かってきていた。水面を跳ねて、速く飛んでいった千ほどのは、祈船に届く前に止まってしまったように見えた。
 少し見ると、止まっているのは間違いだとすぐに分かった。いまはその千のかたちのすべてが、切っ先をこちらに向けて、まっすぐに動いていた。
「全部、返ってくる。意味を消したり、跳ね返す字を、もっと早く知れればよかったのに」
 そう言って、スズは撫でるのをやめて、両手で海筆を握りしめた。
 私の字、忘れないでいてね。
 そういうと、小舟に跳び乗って筆を振った。船のまわりには。元々あれほどいた海濔が、もうほとんどいなかった。やっと一匹を見つけると、《鐡の、高く分厚い盾》を意味する濔字を書いた。
 刹那、水面から、かたちを変えた海濔が伸び上がって、アヤの前を覆い隠すように広がった。
 きいきいと風を割く耳障りな音が響き渡る中、千も続く轟音と共に、船の側面がに打たれた。船は上下に振れ続け、旗魚形のの開ける穴に絶えられなくなり、いくつもぱっくりと割れた線が入った。甲板を下から貫いた幾つかのひとつが、アヤの右足を貫いた。
 船は二十ほどのかたちにわかれて、それぞれが潮に流れて別れはじめた。ふたりで多くのときを過ごした小部屋は、湯を沸かしていた火が燃え広がって、大きな炎に飲まれはじめた。
 最後の一つが、アヤを守っていた海濔の盾を貫くと、盾は割れて、白濁して海へ沈んでいった。 
「スズ。逃げないと」
 貫かれた右足が焼けるように痛むのを感じながら、アヤは小舟のスズに駆け寄った。
 海付を握りしめたまま、スズは立っていた。
 くりっとした右目、すっと伸びる白い首、ほくろのある右肩、優しい右手、左脚。アヤのは、そのそれぞれを貫いていた。
「スズ。動ける?」
 貫かれた場所と数を見れば、答えが決して返らないことはわかりそうなものなのに。
 アヤは名前を呼び続けた。かろうじて動く左腕でスズの肉体を抱くと、かつて甲板だったものの上までそれを引きずっていって、突き刺さったを抜くと、あちらこちらに空いてしまった穴を塞ごうと左手を当てた。
 三隻の祈船が近づいてくるのが見えた。
 この場で殺されるのか。捕らえられて縊られるのか。アヤにとってはもう。どちらでもよかった。スズは死んでいない。いいえ、スズは死んでしまった。いいえ、スズは死んでいない。だって穴が空いてしまっただけで、かたちはこんなにも残っているから。いいえ、現実をみなければ、スズは死んでしまった。わたしのに貫かれて。はわたしが書いた濔字で、わたしの濔字のせいでスズが穴だらけになって。
 やつらが近づいてくる。このままじゃスズを奪われてしまう。そうしたら、身体にかかれていたあの字も一緒に、奪われてしまう。
 わたしの手から、スズが離れていくのが厭だ。厭で厭で、たまらない。
 燃え盛る小部屋の前に、穴だらけのスズを置いて、アヤは膝を抱いて、それが焼けるのをじっと見ていた。スズの焼ける匂いがぜんぶなくなってしまったころ、濔教の兵士がアヤを捕らえた。スズのしなやかな手の骨を拾おうと思っていたのに、穴だらけのスズがあったところには、焦げ付いた白珊の皿と茶器、それと黒珊珠の耳飾り以外は、何も残っていなかった。アヤは密かに、耳飾りを服にしまった。
筆聖ひっせい。禁字らしきものを身体に書いていた女はいませんでした。おそらく、死にました。この女が焼いてしまったようです。逃げた可能性もあるので、念の為探させます。早く逃げましょう。神体が、この女の書いた濔字に気づく前に」
「〈滅〉を書いて、意味を消して回っておいたから。畏れることはないよ。いかんせん数が多すぎた。疲れたから、休ませてくれ」
 兵士の報告を受けると、臙脂色の仮面をつけた海筆使いは頷いた。それから、憐れむようにじっとスズを見た。人に向けないようにと、最初に約束したじゃん。と口元が動いたのように見えた。
 暗い部屋に押し込められたアヤは、現実から逃げるように目を閉じた。どうしても閉じれない耳から、すべての音が分け隔てなく入ってきた。風の音、波の音、兵士たちの訓練の声、積荷が崩れる音、部屋の壁の木が軋む耳障りな音、自分の心臓が驚くほど静かに打つ音。そのなかに何度か、フェイ筆聖と。懐かしい師の名前をたしかに聞いた。

4

 深い海の底に、色とりどりの海濔がたゆたうのを、ただじっと眺めている。アヤは毎日のように、そんな夢を見た。終始心地よい夢は最後には終わってしまう。夢が終わるころ、無意識に指先を動かすと、指先の軌跡は濔字になる。一番近くを揺蕩う海濔がそれを受けて、スズの姿に変わる。その無表情なスズが笑うよう、《笑って》と濔字を書こうとするけれど、書き終わらないうちにふたつ、旗魚が飛んできて、ふたりの喉元を貫いてしまう。
 そんな夢を見る度に、ひどい汗を書いて目を覚ます。目覚めるたびに、どれほど時が経ったか忘れないように、伸びた爪で部屋の壁に傷をつける。その数はもう十五を超えている。傷をつけた数の分、アヤはスズが穴あきになるところを見たことになる。
 濡れた肌着と上衣うえごろものままでいると、身体が芯まで冷えていくのを感じるけれど、とらわれ人にはその冷たさを避ける権利は与えられないらしかった。牢番は三日に一度くらい、新しい服を持ってくるけれど、着替えるたびに、自分の身体が穴あきになって、生臭い匂いが立ち上がっているような気にさせられる。その度に吐き気を催してしまう。
 牢番は三、四人いて、交代で見張りや見回りをしていた。一番に気さくな女の人は、街の様子とか、この前の騒ぎの時、子供が神の使いを釣ってきて身を隠す羽目になったと話してくれた。一番に態度の悪い、最低牢番とでも呼ぶべき男は、聞いてもいないのに、彫ったばかりだという文身をアヤに見せびらかした。文身師の腕は随分悪そうで、南の方の意匠が形だけ真似られていたし、濔字に似た何かが彫られていたけれど、酷く雑で、意味のないかたちだった。
 男はそれを、禁字みたいだろなんて言った。黙って。神体に屠られでもすればいい。アヤはそう言って、怒りにまかせて声を張り上げた。男は舌打ちしながら、部屋の中に入ってきて、木の棒でアヤの顔を何度も殴ると、毎日ぶつぶつ言ってて気持ち悪いんだよ。とつばを吐きかけた。
 壁の傷が二十になった朝、昨日着替えたばかりなのに、気さくな牢番が珍しく新しい服を持って現れた。言われるがままに着替えると、縄にかけられたまま、板張りの廊下を奥へと連れて行かれた。縊り殺されるとしたら、街の広場のどこかへ行くはずだ。縊るなら、喉に穴を開けて、どうかスズとお揃いにしてからにして欲しい。そうしなければ、自分が許せそうになかった。
 そう思っていたのに、奥へ進んでいるということは、どうやらまだ、アヤはまだ生きていなければならないらしかった。
 やわらかに陽の差す中庭には水が張られていて、山から引かれた清らかな水が注ぎ込んでいた。水路は四方に伸びて、社の隅々に届き、最後には海へ注いでいる。
 ケウが彼を助けた何かに出会ったという水路だろうか。アヤは思った。そもそも、ケウはどうなったんだろう。捕まってもいなければ、ばらばらになった船で死んでいたわけでもなかった。スズのつくった箱に入ったのだとしたら、生き延びているかもしれなかった。けれど、どうでもよかった。こころをうろついている物事が多すぎて、全部を一緒に触ろうとすると、何もかもを考えたくなくなってしまった。
 アヤが招き入れられた部屋は天井が高く、丸い天窓の向こうには青空だけが見えていた。壁には幾つも、荘厳で金襴な海濔の絵がかけられていた。幾つかは、芽体が花を分離するとき、再生の神秘を描いた絵だった。
 臙脂色の外套を着た精悍な男がアヤが連れてこられるのを待っていた。その傍らに、仮面を被った海筆使いが立っていた。
「シウン司教。捕らえた女を連れて参りました」
「探しても探しても、禁字の女は見つからない。船の跡からは、お前以外は見つからなかったと聞いた。お前は結局、禁字の女を火にくべたのか? それともあの女は逃げたのか? 正直に答えれば、神体の慈悲もあろう」
「わたしが焼いた。穴だらけになっちゃったけど、スズをあなた達に、渡したくなかったから」
 焼いた。けれど、骨も何も、残らなかった。透明な鯨みたいに。あれはどうして?
「そうか、焼いたか。惜しいことをした。かのような濔字を身体に書いて、神体に見つからないとは、一体どういうからくりなのか。屠られずにのうのうと生きられるものか。それが分かれば、神体の屠りを完全に掌握できるのが」
「あれは、禁字なんて参考にしないで、スズが自分で見つけ出した大切な字。わたしたちは禁字のを見たことなんてない」
 けれど、たしかに、あの字がスズを表す濔字だったなら、どうしてこれまで、神体に屠られなかったのだろう。海でなくて、人の肌に書いていたからだろうか。スズの字を作るとき、スズは海濔たちの側で、誰かに話したと言っていたような。
「考えついた字だなどとうそぶくか。禁字を見ることもなく、かのように意味に富むような字を作り出したと。そんなことが、可能なのか? フェイよ。典があれを禁字と知覚したのは、間違いないのだな?」
 フェイ。師匠。やっぱ師匠だった。久しぶりの再会が、こんな風なのは最低だった。
 フェイはよそ行きの口調でゆっくりと返した。
「そうやって濔字を作ることは、不可能かと、かつての筆聖の系統もすべて絶えていますので。典に関しては、ええ、前にご報告したとおりです。しかし、いまの典は、意味の数が多い字はすべて、禁字と錯覚してしまいます。だから、この女の言っていることも、あながち間違いではありません」
「禁字を探させようにも、まだ使い物にならんなあ。あれほど犠牲を払って作り出して、できるのは海濔と人間の使えもしない間の子ばかりか」
「何かのの間違いだとしたら、どうして、スズがあんな目に」
 あんな風に、穴だらけにされなくてはいけなかったの。
 怒りに任せて叫び声を出すと、身体がよじれ、縛られたアヤの後ろ手はじくじくと痛んだ。
「この者が嘘をついている可能性もある。この女は、何かを知っている顔をしておる。神体に使えるわたしの前で、偽りを隠し続けることはできないと、思い知らせなければな」
 司教はそう言うと、話しすぎたな。と言って口をつぐんだ。奥の間から三名の司祭が入ってきて、司教に耳打ちすると、あとをフェイに任せて、奥へと去っていった。濔教の信徒全員が入れそうな広間の真ん中で、フェイはアヤの前に立った。仮面をとることはなかった。盲いたふたつの瞳は、あの時は包帯の下で、いまは仮面の下だった。
 見張りみたいな兵が目を光らせていたけれど、フェイが悪いけれどふたりきりにして、と人払いをした。
「知らないで弟子を殺すところだった。五年ぶりだね。アヤ、お前が生きていてよかった。濔教の中にも筋のよいやつはいるけれど、筋の良さと努力の数は誰よりもお前が優れているよ。あの日書いた濔字はなんだった? 旗魚とを会意させてたのか。あたしが諦めた道で、あんなことができるとはね」
「スズが死んだのに、師匠はなんとも思わないんですか」
 呟くように、アヤは言った。誰かに向けて口を開いていなかったから、舌が回らない感じがした。それから、大きな声を出そうと、渇いてべたっとした喉を開くと、喉は破れるように痛んだ。
「師匠のせいでスズは、あんな風になってしまったっていうのに」
 跳ね返った声が広い空間に満ちて。小さく、また小さくなって繰り返される。千ものを書いたのはお前だったと、耳元で繰り返されるかのようだった。
「もちろん。残念だ。あたしも悲しい。優しい声でさ、そう言ってあげたいとも思うよ。でもね。実はあたしは、あの子とはほとんど話したことがないんだ。ゲンカは海筆使いからあの子を遠ざけていたからね。あのとき神体に屠られる原因も、あの子が作った」
 ひどいですよ。スズは小声で言った。
 前みたいに、優しい嘘が欲しかった。フェイは声音を優しくして、続けた。
「アヤは大事な弟子だ。それも、できのいい弟子だ。だから、アヤが生きていて、本当に良かったと思う。こっちに来てとった弟子も、何人も亡くしてる。あたしのこころは、そんなにできがよくないから、すべてを一緒には考えられないんだ。もしかしたら、偉い司教様とか、ありがたい神体なんかは、全てを遍く平等に考えてくださるのかもしれないけどね。あたしは、そうじゃない」
 ついてきなよ。フェイが歩く姿をみれば、光を失っているとは誰も思わない。濔字を身体で覚えていたように、社の中をしっかり覚えていた。
 フェイはそう言って、地下へ続く螺旋階段を降りていく。石段は湿っていて、二段目で滑ったアヤは、受け身を取れずに十段くらい落ちた。フェイはそんなアヤを抱き起こして、後ろ手の縄を解いて自由にした。
 ひんやりとした地下は流れる水のなおやかな音で溢れていた。海の底へ続く水路の入り口に、幾つもの硝子の壺が置かれ、色とりどりの海濔がその中で舞っている。その前に、黒い棺が置かれていた。目を閉じて祈っていた司祭のひとりが、歩いてくるフェイに気がついた。
「フェイ様。お急ぎのところすみません。亡くなって今日で二十日目ですから、ちょうどお弟子様が海に送られるところです。亡骸に幾つも開いた穴は、海の底できっと、海濔が塞いでくれるでしょう」
「そうか、あの日から、もうそんなに経ったね。最後に、顔だけ見せてもらおうかな。あいつは、こっちに来て最初の弟子で、一番下手くそだった。もし字泛だったら、一生ただの船乗りだった」
 フェイは棺を覗き込んで、深く息を吸って吐いた。手を合わせて、長い祈りを捧げた。
 終わると、フェイはアヤの手をとった。
「これを見せるために連れてきたんじゃない。むしろ、見せたくなかった」
 厳重に護られた扉を二つほど抜けると、半地下の広間に出た。
 三階ほどの高さまで吹き抜けたその空間の真ん中の水張りから、赤く透明なものがぬっと伸びていた。
 神体の手だった。
 あの屠りのときに、それに似た残像を見たことがある。ひとりの小さな人間を前にして、あまりにも高く、あまりにも太かった。静謐に鎮座するそれに、もし意志があれば、すぐにでもこの静謐さは打ち砕かれてしまうだろう。
 水張りは碧色の衣を纏ったひとびとに囲まれていた。ひとびとはみんな水面に額をつけてかがみ、祈っているように見えた。同じように緑の衣を纏った人の影がフェイとアヤに歩みよってきた。その手には、スズの海筆が握られていた。
「マルネの下には、こいつと同じ手が何万本もある。あたしは、こいつをなんとかするために、ここに来た。神体のことを深く知るためには、濔教に入り込まないといけなかった。たましいまでは、売り渡してないけれどね。ここは、昔は祈りの間だった。今は、手の先端を捕まえて、濔字を使って抑え込んでる」
 壁には幾つもの、古びた絵が飾られていた。水面から現れる海濔の手を、司祭たちが額をつけ、祈ることでなだめている。別の絵は海の底まで手が伸びる様子が描かれていて、巨大な神体は、無数の大きな海濔の集まりとして描かれている。それぞれの手が、海底のはるか深くに残る古の文明の遺跡を撫で回している。
 目の前で抑え込まれているのがほんの先端で、あとは海の底に届くというなら、屠りはマルネだけでなく、あらゆる外の海に届くように見えた。それだけ大きいのというのなら、祈りたくなる気持ちも、アヤには理解できた。何よりも巨大なだけで、他の意味は消し飛ばされてしまう。それは、あまりにも複雑な一つの文字を見たときの恐れに似ていた。
「これを抑え込める濔字が、想像できません」
「その濔字を見つけるのには時間がかかったけれど、いたって単純なんだ。アヤがあの見事な、旗魚やを会意させたのも、あたしが濔字の意味を消滅させる〈滅〉の字で消した。こいつにとっては、意味を消すことは、祈りとおんなじなんだ。新しい意味への好奇心で手を伸ばすんだから、意味なんてなかったことにすれば、なだめることができる。考えてみると、極めて単純だね」
「これが狂っているようには、全然見えません」
「正確には、陸でも海でも、なりふり構わず手を伸ばすようになったね。ひとびとはそれを、狂い始めたと言っている」
 神体は一つの海濔で、それが成体だとすると、芽体に戻る時が訪れる。
「だから、海濔が異常に増えているんですね。神体が、芽体に戻り始めてる」
 壁にかけられた古びた絵は、どこまで想像で書かれたものか誰の視線で書かれたものかまるでわからないけれど、神体をなしている無数の海濔がところどころで芽体に戻り始めているならば、あちこちで海濔が増えていることの説明はつく。
「さすがは自慢の弟子だ。察しが良いね。これを狂い始めと呼ぶなら、こいつの忘却はあたしたちにとって狂気なんだ」
「手はある。それをするために、アヤ、お前に協力してほしいんだ。〈滅〉ともう一つ、〈反〉の濔字を教える。お前の海筆を返す。協力してくれるなら、手にとって欲しい」
 フェイの示した海筆は、自分のものではなく、スズのものだった。弟子たちの一挙手一投足を全部覚えていた面倒見のいい師が間違えるはずはない。変わってしまって、自分を利用しようとしているのかもしれない。臆病な猜疑心に駆られて、拒否しようと口を開こうとしたけれど、アヤはあの時に盲いているのを思い出した。
 そして、海筆を差し出した人影に目をやると、それは女の人らしきの形をしていたけれど、どう見ても人ではなかった。水か、海濔のようにつるりとしていて、目も、耳も、鼻も、顔らしきものは何一つ備えていなかったから。
「アヤ、お前見えるから、典に驚いているね? 人と海濔の間の子で、字典みたいなものだ。典のお陰、あたしは〈減〉と〈反〉を見つけることができた。〈反〉は一番強い濔字だ。〈滅〉も含めて、全てを跳ね返す。攻めることばかり考えがちだったあたしに、〈反〉を教えてくれたのはこの子たちだった。この子たちも、手を貸してくれる。祈りを捧げもしないあのくそ司教に、お前の命を奪わせはしない。とらわれびとのままだと、あたしも守れないかも知れないからさ。考えて気が向いたら、筆をとってよ」
 筆に手を伸ばそうとして、ためらった。スズを殺したのは、自分の濔字で、それは〈反〉に跳ね返されたものだった。
「まだ、その筆を手に取れません。師匠のことを許すことも、スズに許されるかどうかも、わたしの中でわからなくなってるから」
 そう言うと、アヤは小部屋に戻された。
 それから、フェイが協力を迫りに来ることも、牢番が処刑を宣告師に来ることもなかった以前よりも新しい服の運ばれる回数も増えて、部屋を出ることも許された。ふと、笑うようになったと牢番に言われて、身体が自由になったくらいで、なにか赦されたような気がしてしまうなんてと、アヤは自分を呪った。
 誰もいない夜、暗闇の中を水路まで歩いて、冷え切った指先の感覚がなくなるまで、アヤは毎日、水面を指でなぞった。海筆がなければ、軌跡が光ることはないのだけれど、ひたすらに字を書いた。目をつむっていても、を書くことができるというのに、旅をしながらあれほど教えてもらったスズを書くことはできなかった。あのときスズは、アヤは自分の字も書けるようになりなよと言って、アヤの濔字も教えてくれたけれど、それは全く書けなかった。
 忘れないでねと言われたのに、それすら叶いそうにない。夜通し思い出して、書いて、書いてを繰り返すと、冷え切って固まった身体は自分に似合っているように思えた。

(:]彡(:]ミ(:]彡

 部屋の壁の傷が二十五を超えたころ、水辺で身体を冷やしすぎたのか、ひどい熱を出した。 夜半、半月の差す部屋に、典は唐突に訪れた。はじめはそれが何か分からなかった。
 その肌は暖かくも冷たくもなく、火照るアヤの肌をそのまま写すような温もりがした。触れても、掴んでも、典は何も反応しなかった。
 部屋のあちこちに闇雲に手を伸ばすそれの手が、偶然肌に触れて、その感触でアヤは目を覚ました。もっと触れていたくて、アヤはすがるように手を伸ばしてしまった。海濔のように赤白く透明だけれども、それは、スズにとてもよく似たかたちをしていたから。
 それには、顔がなかった。髪もなかった。脚も人のかたちではなくて、一本の太い触手が地を這って身体を支えていた。けれど、肩と胸、左右の腕とつけた胴体のかたちと大きさ、背の高さは、みんなスズのもので間違いなかった。
 右目と喉元を押さえながら、アヤは冷たい壁に背中をつけて震えた。怖かった。ただ赦して欲しいと願った。忘れないからと、また約束させて欲しいと思った。
 それは、何かを探すように部屋をうろうろとした。
 こんなにも月明かりに照らされているのに、アヤのことは見えていないようだった。それは壁に近づくと、右手の指先で、刻まれた二十五個の傷を何度もなぞって、その周りに指を這わせた。それを何度か繰り返して、諦めたのか、身体を捩って部屋を去っていった。
 待って。ままならない身体を引きずって追いかけると、それは中庭の水路から、水底へ沈んでいった。
 スズ。
 息切れしながら。アヤは右腕でスズの濔字を書いた。はじめてそれを教えてもらった日、スズはアヤの右手に濔字の一部を書いて、全部を書ききれなくって結局、背中にゆっくりと書いてくれた。
『その字の意味。教えてよ。せっかく気になってきたのに、同じ字が二十五個書いてあるだけだった。つまんないから、帰っちゃった』
 声を感じた。聞こえたのではなくて、水に入れた腕に、水を伝って意味が直に書かれたようだった。浮かぶ海濔を押し出しながら、それは戻ってきた。顔はないけれど、近くで見るとより一層、そのかたちはスズであると思えた。
 アヤはその手を取って、指を絡めて強く握りしめた。
 ひどく柔らかすぎた。けれど、指の噛み合い方は覚えているとおりだった。わたしは、わたしにこんなにもしっくりくる綺麗な指先を、他に知らない。そう思いながら、アヤは腕を回して、気がつくとそれの身体を強く抱きしめていた。肩幅の感じも、首の太さも、全部、アヤの身体が憶えているスズそのものだった。
 大粒の涙が、頬を伝って落ちた。あの日以来、アヤは初めて泣くことができた。
『また。どこかいっちゃった。教えてくれないなら、もう来ないよ』
 顔のないそれは、手を握るアヤにまったく気づかなかった。スズが昔、同じことをいって、そのあと本当に、しばらく姿を見せなくなったのを思い出す。
『ごめんね』
 アヤはとっさに、それの右腕を掴んで、手のひらにそう書いた。触れたところに言葉が伝ってきているのだから、伝え返せるかもしれない。そう思ったからだ。
 それはすぐに、ことばを返してきた。
『謝らなくていいのに。驚いて逃げる人の方が多いからね。私には、追いかけられないけど』
 伝わっている。そう思って、そのまま字を書き続けた。
『あなたは、スズ?』
『ごめん。君の言うのが、なにかわかんない』
『どうしてその姿をしているの?』
『君の書いていた字が、気になったから。意味を考えてみた。知らない字を知るのが、私の役目だから。ねえ。この字どういう意味なの? 最近よく書いている字。知らないなりに、意味を紐解いたら、この姿かなと思ったけれど、あってる?』
『あってる。それは、大切な友達、忘れたくない友達』
 そう答えると、それの半透明の身体の中に、ぶくっと赤い血の塊みたいなのが浮かんだ。体の中を流れていって、場所でいうと腹の辺りまでいった。腹の中には、そういう赤い塊がいくつも並んでいた。
『大切な友達って、こんなかたちなんだ。初めて知った。大切と、友達、は知ってる。でも、その意味を組み合わせても、あんな風に長い説明にも、あんなに複雑で難しそうな一文字にもならなそうなのに』
『そういう意味じゃない。それは、わたしの友達のスズを意味する文字。わたしとスズ、ふたりしか知らない文字だった。スズが作った文字だから、わたしにはまだ、完璧に書くことはできない。書かなければ、約束を果たせないっていうのに。まだ、ところどころ間違ってると思うし、それに、その文字は、まだかたちだけなんだ。スズを全部表すには、もっと大きい意味を持つ一文字が必要』
『そう。私も、今日おしえてもらったから、三人目だね』
『あなたは、典? 今日地下にいて、スズの海筆を持ってた?』
『典。そういう風に、ここの人たちは呼ぶね。地下にはいなかった。私は、文字を探して水に潜っていたから。それに、地下にいるのは、もっとできのいい典だよ。私たちは、文字とかことばを見つけて、意味を覚えておくのが役目。意味を聞かれたら、人間に伝える。海の中にも、海の底にも、知りたい文字がたくさんあるから。君みたいに、珍しい字を知っている人と会えると楽しい』
 好奇心で字を探すのは、神体に近しい存在とも思えた。
『見えてないのは、顔がないから? 典はみんな、顔がないの?』
『顔のかたちは、書いてくれれば、そのとおりにできる。でも、見える。の意味は知っているけど、よく分からない。目の意味も知ってる。どういうものかも知ってる。でも、それがどう機能するものなのか、わかんないや。文字なら、見えてるって言えるのかなあ』
『じゃあさ、試させて』
 アヤはそれから少し離れた。簡単な濔字。初めて書いた珠の濔字を思い浮かべた。こんな簡単な字を、指でなぞるのは初めてだった。簡単であればあるほど、それが本当にただ一つの意味を持っているのか疑いたくなる。水面につけた指先を、憶えている軌跡に任せるようにさっと動かした。
 その典はすぐにアヤの方に近づいてきて、すぐに球の形に変わった。不格好で、重心が少し右にずれていた。
『こんどはすごく簡単な字だね。どんな典でも知ってるよ』
 三角錐、箱、赤、緑、青、とアヤは簡単な濔字を試しに綴った。それの意味通りに、典はかたちを変える。ものは一切見えないし、聞こえないのに、文字の形と並びを見ることができるのだという。
『文字が見えるっていうの、なんとなく分かった気がするけれど。遠くの字は、どんな風に見えてるの?』
『向こうには書物庫がある。あそこの字には、私が知らないのもたくさんある。たくさんありすぎて、文字の意味が溢れているから、近づくだけで疲れちゃう。その近くに、多分記録庫があって、私たち典のこととか、神体のことが書かれた日誌がある。あっちだと、誰かが、私の嫌いな〈滅〉の濔字を書いてる。〈滅〉の字は、ひとりしか書けない。そのひとりは、書けるひとを探してる』
 典は錐のかたちのまま、その先端を色んな方に向けて言う。
『海に潜るって言っていたけれど、沈んでいるものは、見えるの? どんな風に感じるの?』
『すごく離れているやつは、気配を感じるのも大変だし、引き寄せてこないと分からないね。引き寄せるのは、すごく時間がかかるし、疲れる。全てが見えるわけじゃない。君の言葉で言うと、歩く、に近いのかな。意味が大きい文字も、疲れるよ。意味が大きいことは、重いに近いんだと思う。今日も疲れちゃった。そろそろ、行くね』
 珠のかたちをしていた典は、別れ際にまた、スズに似たかたちに戻った。
『スズの文字を、覚えたの?』
『そのための私だから。文字と意味の関係を覚えてるよ。また来るね。君の知っている字を、もっと教えて。そろそろ行かないと、嫌なのが近づいてくる』
『もっと完璧にスズの字を教える。そのために、わたしも書けるようにしないとね。スズは本当にすごかったんだから。あれは一文字で、スズのかたちを全部表してた。今日のやつより、もっとよくできるから。また、書かせてよ。今日は話せて、嬉しかった』
 スズの濔字を、典に覚えてほしかった。そうすれば、誰がどう書いても、その一文字でスズを表しきるということに、近づくように思えたから。何よりも、この典という存在が、教えてくれと無邪気に言ってくれるのが、懐かしくて寂しくも、嬉しかった。
『会える時は、今日教えてくれた字を書いて。あの字だったら、すぐに気づけるから』
 典は水に潜って去っていた。水面の揺れがすっかり収まるころ、夜明け前の見回りがやってきた。最低牢番だった。典から見ると、彼の背中に彫られている意味のまるでなさそうな文身が一体どう見えるのか、次に会える時に聞いてみようと思った。嫌なやつと言っていたのをい出して、アヤは少し可笑しくなった。
 ケウを外に逃がしたのも、おそらくはあの典がやったことなのだろうと思った。ケウの文身が見知らぬものだったから、典は興味を持ったのだろうか。スズとの約束を果たせるかも知れないと思って、壁の傷は、二十五で止めておくことにした。

5

 典は一度覚えた濔字を忘れない。中途半端なかたちの意味しか持たないものでも、覚えてくれた。ひとの理解と、海濔の感覚を取り持つことができるのだという。手をつなぐたびに、典を伝って文字が身体に入ってくるように感じた。それは脳裏にはっきりと浮かぶこともあるし、肌を這うように感じることもあった。典はそうやって文字を取り出すことを、引くと言った。典を通じて、アヤが文字を引いてくると、その文字の軌跡を書き表すように、アヤの身体が勝手に動いた。それはまるで、自分が濔字でかたちを変えさせられ、運動させられる海濔になったみたいだった。
 スズの文字をくり返し書こうとすると、典は日に日にスズのかたちを写したようになった。
 スズと呼ぶわけにはいかなかった。名前はないの? と典に聞くと、ないよと答えが返ってきた。じゃあ探してというと、記録庫を見に行って、『出来損ない』だと答えた。それじゃあ呼べないとアヤが言うと、典は名前なんてなくても、君と私で足りるのに、と答えた。
『典って呼んでると、他の典と混ざるでしょ、あなたは困らなくても。わたしは困る』
『それなら、私の文字を作ればいい。その作った文字で、私を思い出せるから。一文字じゃなくたって良い、二文字とか三文字でも、私のことを引ければいいんだよ』
『引ければ思い出せるって、それはあなたが典だから言えるんだよ』
『文字って、それが意味と同じだと思ってたけど、違うの?』
『いま毎日書こうとしているのが、スズの文字だから、あなたの文字も作れればいいね。チオにかく、あなたの呼び名が欲しい。文字だけじゃなくて、音もあればいい。あなたがいないところでも、ふと口にできる音があるといい』
 文字の音を口にするのは、かたちの意味から解き放たれることだ。けれど、文字と意味しかない典に、呼ぶ音が欲しいことを伝えるのは、ひどく難しそうだった。呼びやすいとか、呼びにくいとかは分からないはずだから、長くて呼びづらかったらどうしようと思っていたら、ある日、別の記録庫で、あっさりした自分の名前を見つけてきた。
『私の名前、ナナだった。七って言ってくれればいい』
 それは数字の七だった。マルネの海域なら誰でも知っている字だった。読み方の分からない字で書かれていたどうしようと思ったけれど。
 ナナ、と声に出して呼ぶ。ナナには聞こえないから、振り向くことはない。それは、覚えておくよという、ささやかだけれど、とても大切な約束だった。
『誰がつけた名前なの?』
『誰でもない。記録庫に収められている文書の文字を、淡々と引いたら淡々と引いたら、私についてのことはその字で書いてあった。それと、謝らないといけない。昔、知らないと言ったけど、その名前を見つけたんだ』
『何を見つけたの?』
 スズだ。ナナがそういったあと、アヤは両手で顔を覆って、動けなくなった。

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 記録を見るのは怖い。そこに書かれていることが、確かに存在していたのだと、信じさせられてしまうから。スズの言ったように、意味があるから書かれるのではなくて、書かれることで意味が生まれる濔字と同じように思えた。スズの名前がどうして記録庫にあるのか分からなかったけれど、ナナに鍵のかたちを調べさせ、開けて忍び込むと、書庫の一番奥の棚に記録が並んでいた。
 二十四年前の記録。第六代と書かれた記録に、典の名前が記されている。典の種類を増やすため、初めて字泛を利用したとの注釈の横に、一対九、二対八、三対七、四対六、五対五、…、九対一と系列が書かれ、その横に人対海濔と意味が添えられていた。ナナは七番と番号の振られた名のない捨て子で、スズの名前は九対一のところにあった。それぞれに、失敗と印が押されていた。それが誰か、他のスズであることを祈ったけれど、親の名前と、船団の名前までしっかりと記されていた。
 スズは典だった。どうしていままで、教えてくれなかったのだろう。少なくとも、最近のスズには、ナナと同じように、辺りにある文字が見えていた。スズの字は本当に、スズの身体をあのかたちに保つため、自分で書いていたのに違いなかった。海濔の側から世界を見れることも、わたしでは届かないほどの、人間離れした、いいえ、非凡な海筆の才覚も、もっと早く知っていれば、理解することができたのに。けれど、理解していたら、何が変わってしまっていただろう。そのときわたしは、スズのことを、わたしはどういう風に見ていただろう。けれど、少なくとも、あのときスズを焼いたりはしなかった。隠していたことを、知らないところで暴くことなんて、決してしなかったというのに。アヤは雷に打たれたように震えて、泣き崩れた。忍び込んでいることも忘れて、声を張り上げて泣いた。
 積まれた書物と記録が崩れて、いくつも大きな音がたった。傍らのナナは、落ちてくる文字の山を軽やかに避けて、アヤに寄り添った。
「これだから、出来損ないの典は焼き殺せとよく言うのだ。ろくなことにならん」
 記録庫の濔灯がすべて灯されると、司祭らと兵士たちと一緒に、司教が姿を表した。
「女よ。秘密を嗅ぎ回るのはいいが、それでは我らは、一方的に奪われるだけだ。お前が殺した出来損ないが、禁字に迫った方法と、禁字を纏いながらも、無事だった秘密を教えてもらおうか。このままでは、神体は狂い、芽体に戻って、世界は屠られるであろう。仮に、フェイの方法で、あらゆる意味を消せたとして、それで我らに何が残る? 残るのは海濔が漂うだけの広大な海と、少しの島だけだ」
 兵士に締め上げられ、司教に首を下から掴まれ、アヤの身体は宙に浮いた。
「こんな風にされて、教えるわけない」
「そうか、それなら、訳のわからん千もの濔字で攻撃されて、お前たちを生かしておくはず無ないだろう。おい、フェイを連れてこい。やつは目が見えない。楽に拘束できる。女、お前が答えなければ、フェイがどうなるか、わかるか?」
「わかった。やめて。でも、全部わたしの憶測。スズはスズの濔字を、多分、神体に先に教えてる。海濔の側からこの世界を見ながら、どういうわけか、神体に話しかけていた」
「なるほど、話しかけ方は、知らないというわけか」
「知らない。けれど、神体と話すのは、あなた達の仕事じゃないかな」
「黙れ。お前も、その典でも使って、話せるなら神と話せばいい。のんきにあの出来損ないのかたちになどして、そいつがあの、文身を覚えていたから、我らはお前らを見つけ出せたんだ」
 司教はそう言うと、アヤを投げ落とした。船でアヤが拾った黒珊珠の耳飾りが司教の足元に転がった。司教はそれを拾い上げ、ナナを見た。ナナの首元には、黒珊珠の首飾りがかたちづくられていた。スズの文字は、あのとき首飾りをした一番綺麗なスズのかたちを表していたから。
「社中の黒珊珠と典を集めろ、社の中の海筆使いにも、フェイでなくおれについてくるように伝えろ。祈船を全部出す。典を使い潰してもいい。今こそ、禁字を引き揚げ、狂った神体を正しく新しい神へ変えるぞ。おい、そこのお前、お前はこの女の腕の腱を切れ、神の前で隠し事をした罰だ。筆が使えなければ、こいつらはなんてことはない。ついでに、フェイも殺せ」
 司教たちがみな去ると、兵士は小剣を抜いてアヤの元へ寄った。慣れていないのか、手ががたがたと震えていた。運命のめぐり合わせか、顔に見覚えがあった。あなたの一閃が別の場所を割いていたら、別の未来があったかもしれないのに。
 アヤが動くと、兵士はがむしゃらに小剣を振った。左肘が綺麗にきれて、すっと血が流れ出して床に垂れた。アヤは右手の指で、血をすくい、〈七の十歩右、抱きあげて、逃げて〉と書いた。記録庫の字の森の中で、何よりも目立つように大きく書いた。兵士がまた、小剣を振りかざしたけれど、それが空を切る前に、ナナはアヤを抱き上げて、走り出していた。
 どこへ逃げようかと考えていると、ナナは立ち止まって、胸の下あたりを押さえて苦しそうにした。そのまま廊下をかけて、初めてあった時に出てきた水路へと飛びこんだ。
『溹が重たくて、ひどく痛い。アヤの教えてくれる字は、普通より大きい溹を作るから、このままだと壊れちゃう。洗い落としにいくね』
 ナナがアヤのかたちを失って、海濔に変わっていく。首の上と足の先が幾つもの手に変わって、最後に胸が残り、半透明になった。そこにナナの溹が見えた。赤黒い血の塊がいくつも、魚卵の群れのようになって、ナナの身体を満たしていた。
 水は冷たくて、生身の人間ならすぐに凍えてしまいそうだった。それよりもまず、息が苦しくなった。海の底を洞窟へと沈んでいく途中、ナナはアヤの身体をすっかり包んだ。それはとても温かかくて、息苦しくもなかった。ナナの身体の溹がぽろりぽろりと剥がれていくのが見えた。成体の海濔が芽体に戻るように、典も意味の重さに疲れた時は、こうやって身体を洗ってもどっていくのだとアヤは思った。それはとても心地よいことのようにも思えたし、寂しいことのようにも思えた。けれど、海濔にとって、忘れることは狂気なんかではないのだと思えた。
 いつの間にか水面に上がると、その空間は暗かった。アヤが指先で下手くそな濔字を書くと、意味を求めて海濔が上がってきて、次々にぽわりぽわりと輝いた。潮の匂いの満ちる浅い水路を壁伝いに歩いていくと、壁に幾つもの穴が空いていた。そこは典の生まれる場所らしかった。穴には世代の番号と、典それぞれの番号が刻まれていた。幾つかの穴の中で、白濁して腐敗した巨大な海濔が、嬰児の遺体をくるんでいた。女の人の遺骸をくるんでいる海濔もいた。第六世代の五番に、ナナはいた。
 ナナは起き上がると、きれいな目で辺りを見回した。その綺麗な目は、スズの目だった。スズのかたちを残したナナを抱えて、アヤは部屋を抜ける階段を上がっていった。
 
(:]彡(:]ミ(:]彡

 芽体と同じように、典は溹を洗うとき、一つの文字を残す、神体の手の縛られる聖堂で、フェイはアヤにそう教えた。その後で、残すのはお気に入りの一文字だと付け加えた。アヤはフェイから海筆を受け取ると、目を閉じて、声を出さずに誓った。それなら、スズが残そうとした文字を、覚えておこう。動きや仕草の何もかもをわたしが付け加えて、スズを一文字の意味にしよう。
『書物庫で私の名前を見つけました。私の名前はナナです』
 名前を与えてもよかった。けれどそれでは、意味が変わってしまうと思ったから、アヤはナナに色々なことを教え直した。
「さて、多勢に無勢だけれど、どうするかね」
 聖堂の扉を、兵たちがごんごんと叩いている。怒声が聞こえて、扉を打ち破り、神を冒涜する者を殺せと叫び声が上がっている。男と女、入り混じった百名をこえる声が上がり、聖堂の床がどどど揺れた。アヤを逃した兵士は臆病な卑怯者だったから、アヤを仕留めたと声高に話していたけれど、司祭のひとりに見破られて、見せしめに縊り殺されたらしい。そのおかげで、少しは時間をかせぐことができた。
 聖堂には祈りを捧げる典が住人と、フェイを慕う海筆使いが二十名ほどいた。ただここは陸の上だった。剣を持った兵たちがなだれ込んできたら、ひとたまりもないだろう。
「時間がない。〈滅〉と〈反〉を教える。アヤを見込んで、一度しか見せないからね」
 ゆっくりでいいよ。と言ってくれたことろが懐かしかった。どんどんと音が大きくなる中、二人は神体の手の縛られる水張りの所に歩み寄って、フェイはアヤからもらった海筆を、アヤはスズの海筆を構えた。幸先よく、手頃な海濔が浮かんでいた。アヤが頷くと、フェイが書いった。消滅の濔字は立体的で、穂先を深く水へ刺して、ねじり、引き揚げ、線を引いて、跳ね、点を打った。目に見える軌跡の光に頼ることはない、たおやかな筆ぶりだった。アヤは目を閉じて、フェイの見え方を思った。典の溹のように、頭が整理されている気がした。息を吸って吐いて、フェイに続いて、迷いなく筆を振ぬいた。二人の書いたふたつの〈滅〉は仮初の錐形のかたちをとって、たゆたい、お互いにぶつかって元の海濔へ戻った。
 続けて〈反〉を教わったあと、扉が打ち破られる音が聞こえた。
「わからなくなったら、ナナとか、典に聞くんだよ。アヤ。あたしは、そこにいないかもしれないから。最後は師匠らしいこと、させてよね」
 フェイが海筆を構え、扉の方にかけていくと、扉からは見知った顔が駆け込んできた。ゲンカとケウだった。ケウの後ろから、南の海の荒くれ者たちが走り込んできた。ゲンカがアヤの方に歩みよってきて、スズに瓜二つのナナを見た。
「ふたりとも、生きててよかった」
 そうやっていつだって、ゲンカは姿だけを見ていたのだろうか?
「ゲンカ、ねえ、スズのこと、どうして黙っていたの?」
「神にすがりたいほど弱ることもあった。母親は重い病で、濔教は社に預けて祈れば良くなると言った。全部嘘だと気づいて、力ずくで取り戻しに行った。あのころは、字泛と濔教はまだ、争っていた。ドサクサに紛れたんだ。海濔の中で、スズが育っていた。母親はスズの名前だけを残していた」
 その弱さを、隠すべきだとずっと思っていたんだ。スズが海筆を使ったら、全部暴かれると思っていた。ゲンカは続けて、アヤに背中を向けた。港に向かうと、南の船団とゲンカの海濔船団が百隻ほどいた。

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 司教の居場所を突き止めるのに、典たちの力を借りる必要はなかった。遠くの空、なみなみと触手を流す触手を首とする海濔龍が何匹も立ち上がっていた。こちらへ向かっていた。司教側は典と黒珊珠の力を借りて、新しい濔字をつぎつぎとしたためて、文字をつくることで空想の意味を現実に引きずり出していた。
 それらの龍に気を取られていると、典たちが怯え始めた。海の側からも、左からは濔麒麟が海を駆けて飛んできていた。右からは巨大な濔玄武が甲羅を回して飛んできた。すべて海濔との会意で、半海濔半獣の格好をして、アヤたちに牙を向いた。それらは、眠る海濔の自由な夢の現れだった。
「みんな。ありったけの〈反〉を書いて。あの数じゃ〈滅〉は間に合わない」
「駄目だよ。アヤ〈反〉じゃ、跳ね返した後に、神体に屠られるかもしれない」
 フェイが言った直後に、海が沸騰するかのように、海が幾つもの水飛沫を上げて、何十もの赤黒い触手の残像が見えた。何十もの海濔船と南の船が海の藻屑となった。
 海の底から、次々と花体が溢れ出して、海濔の隙間に水が浮かんでいるかのようになった。神体が忘却を加速させていた。それは人から見れば、神体に無差別に屠られるということでも海と空を同時に切り裂くような衝撃が走って、マルネの社と、その直線上にいた司教の船が粉々になった。赤黒い百本の触手が次々に海を薙ぎ上げて、海濔の花が舞い散るかのようにした。
「これだけ海濔がいるなら、アヤ、お前に託すよ。神体を止めるんだ、海を〈滅〉で満たし続ければ、神体が手を伸ばすこともない」
「〈滅〉を書く手が止まったら、そこで終わりじゃない」
「あたしが、ありったけの〈反〉を書く。前に言ったでしょ。〈反〉は強い濔字だ。〈滅〉も返すんだよ。あたしが腕がちぎれるまで書く」
 途方もない。下手な冗談なら、言わないほうが良いのに、けれど、それが救いの手の一つだとフェイは真剣に考えていた。
 アヤは〈滅〉を試し書きした。旗魚とを書いたときのように、無碍になることができれば、千ほどは書ける気がした。けれど、広大な海の中で、千の〈滅〉なんて、水滴一つと大差ないだろう。
 〈滅〉を書くアヤに、ナナが歩み寄ってきて頬をひたりとつけた。
『司教の船に、私に似たかたちがいるよ。私よりも完璧なスズが、書かれてる気がする』
『ナナ、ありがとう。いいこと思いつけたよ。でもさ、ナナはナナだからね。忘れないで』
 失敗したくない時は、自信を持てるやつで振り抜かないと。
 旗魚とを介意させ、アヤはそれの翼に飛びついた。〈疾走しろ〉。風を切り、海濔たちの夢のような光景を真っ二つに割いて、司教の祈船に直線に飛ぶ。
 どこかに突き刺さったあとで立ち上がると、司教の首に穴を開けていた。
 ひとりの黒珊珠の首飾りをつけた典が、あの日のスズと同じ格好で、海筆を構えていた。恍惚とした目も肌の色も、すがたは本当にスズそのものだった。そのスズの海筆から、また次々と、空想の生き物が書き出されている。今度も怖くて、同じように足がすくんだ。まるで時間をくり返してしまったんじゃないかと思うほどだった。
『引いて比べると、あっちのほうが完璧なスズだと思うよ』
『ナナは、ナナだよ。それにさ、スズはあんなふうな字、書かないよ。スズを完璧にうつしとるなら、空想もスズにあわせないとさ。でもさ、そんな濔字、どうやって書くのかな』
 ナナと手をつないで、近づくと、もう一つのスズも手をつないだ。禁字がすぐそこに、浮かび上がろうとしているのを感じる。典のように、アヤにも字が見えた。禁字も滅に似た字に包まれていた。師匠は本当に、古を尋ねるのが得意なんだから。そうアヤは思った。身体が浮かぶような気がして、海の底にいる気分になった。そこから見えるのは、たゆたう色とりどりの海濔で、それらがみんなくっついて神体になったり、離れて芽帯に戻ったり、覚えることと忘れることをくり返して、好きなものに手を伸ばしている。神体は聖堂に掲げられていた絵の通りで、あれを描いた誰かも、この心地のなかで、海と一つになったかのように、神体と話をすることに成功したんだろう。
 神体と手をつなぐと、それはスズの濔字を教えてくれた。一文字の濔字がある。それだからスズは存在する。また会えたね。でもわたしは、いろいろ知っても忘れちゃうから。隠していてごめんね。スズが耳元で囁く声がする。ナナを見て、甘えた目でアヤを見る。かたちは似てても、中身は全然違うでしょ。と無邪気に言って笑った。そんな風に比べないで、いまから、比べるのが意味がないほど、あなたを海に書くんだから。
 海濔の側とつながる意識のまま、アヤはスズの濔字を完璧に書く。それは無碍の心地で、肩の痛みを感じる頃には千人のスズが海濔の上に立っていた。もう千体、もう千体、もう千体。もう千体、海にスズの意味が飽和してたころ。腕も足もまるで動かなかったけれど、まだ口で、どんな意味でも書ける気がした。〈ありったけの〈反〉とありったけの〈滅〉を書け〉。
 それで、海は、箒星が落ちたときのように光り輝いて、無数の〈滅〉が反響して、海中から意味を消し去っていった。意味飽和したスズは〈滅〉にぶつかるとふっと消えていった。
 書き終えたアヤは、立っていることができなくて、意識は海濔の側に行ったままで、司教の船から海へと落ちてしまった。

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 ナナが私を包んでいる。〈滅〉でそうだね。せっかくのあなたの名前も、からだも全部なくなってしまうよね。ごめんね。あなたに包まれていると、苦しくないような気がする。いつまでもこのままでいるのかもしれない。海の底にはたくさんの字が見えるんだね。これだけあると、ちょっとみるだけでも疲れちゃうから、意味を忘れてしまいたくなるのも分かるなって思う。けれど、このまま芽体になるとき、どういう文字を一文字残すのが良いのかな。スズもナナも、わたしはずっと思い続けていたいよ。ほんとうはそのかたちなんてなくったっていいと言いたいところだけれど、かたちと中身と、そのかたちになった時間の流れは全部、ほんとうは一緒になっているはずだから。大切な友達だから、思い続けたいってことを、どうやって残せばいいだろう。いまはなんだか、どんな意味でも一つの文字にできる気がするから、それを作って残すのがいいのかもしれない。スズの字はもう知っているから、ナナの字も作らないといけないね。そうすれば、約束を守れたことになるのかな? そうだね。ずっと避け続けていたけれど、わたしの文字も、いまなら書いてもいいかなと思うよ。じゃあさ、書き方を教えて欲しい。今度はわたしが教わる番で、この一つの文字は、見るだけでわたしたちみんなのことが思い返せるような文字になるはずだよ。それは大きすぎて、誰が見るのか分からない文字かもしれない。でも、文字の意味と大きさなんて、ほんとうは関係ないはずなのにね。

(:]彡

文字数:47794

内容に関するアピール

文字と話してみたいと思いながらスティック型の掃除を手にとったときこの話を思いつきました。文字が文字であるとわたしたちが知覚するのはそれにパターンがあるからなのでしょうか、呪いか祈りか象形文字かわかりませんから、凝視したり触ってみたりしようと好奇心を持つのは危うそうです。知的生命が地球に来たとき、彼らがもしパターンを知覚するなら、わたしたちの遺した文字群はどう見えるかなんて考えていました。

文字をつくることで、親友/親しいひととの約束を果たす物語です。記憶の残存期間が異なるもの同士のあいだで、友情をどのように引き継いでいくか。文字や模様をつくることは、その一つの答えなのかもしれません(肌に刻めば、それは文身となります)

現代っぽい道具立てを使うと(昨今の生成AIの発展などにより)、リアリティレベル的に厳しいと思ったので、ファンタジーっぽい道具立てで書きました。

(書かれた文字だけを見れるAIみたいなものを、現代で成立させるのが難しいのです。データになるとそれは、筆跡ではなくただの文字コードになってしまうしまうから)

音がなかった場合、漢字は果たしてどの様に進化したのか、ここはもう少し深堀りが必要だとは(反省点ながら)感じます。

最後はこの物語全体が一文字になって海に流れているというイメージで書きました。

6期ではSFっぽい設定よりも、キャラクターとドラマの書き方を磨き込むことを意識していました。書きながらキャラクターたちを最後まで連れていきたいとは思えたので、
 読み手に伝わるかたちにできたかはドキドキしています。
 講座では山程のことを学びました。ありがとうございました。これからもSFを書いていきたいと思います

文字数:709

課題提出者一覧