うさぎうさぎ、なに見てはねる

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うさぎうさぎ、なに見てはねる

 この話をどこから始めるべきなのか、どうにも迷う。詳細に思い返すには時が経ち過ぎたような気もするし、ほんの少し前だと言われればそれもそうだ。
 せっかく来てくれた君のために話そうと思うが、そもそも言葉を尽くして「話す」という行いを久しくしていない。お客のための椅子もなくてすまないね。見てわかるだろうが、どうしても床に座るのが好きなのだ。
 話しながら、何かたぐり寄せるように右往左往する部分もあるだろうが無視してくれて構わない。枝葉というが、私からすると一体どこからが枝でどこが葉にあたるのか、皆目見当がつかないのだ。君にとって必要なところだけをカットして、ケーキの白い紙箱にそっとしまうように聞いてくれるとありがたい。

 私が子どもだったあのころ、陸軍の獣医官はもっぱら軍馬の世話をするものと思い込んでいた。叔父が陸軍獣医として馬を専門にしていたこともあり、自分もそうなりたい、と安易に同じ獣医の道を選んだわけだ。しかし、私は当時から背が低かった。今はもっと縮んでいるが……。獣医学校の同期で一番背が高い男の、頭ひとつぶんは目線がまるまる下にあった。教師陣にはどやされそうな言い草だが、私はどうにもいつまでもあの馬という生き物が持つ存在感の大きさに慣れることができなかった。太いまつ毛に縁取られた瞳や、呼吸にあわせてかすかに動く肋骨のなだらかさを見ていると、私の方がすっかり萎縮してしまうのだ。そのぎこちなさのせいもあったと思うが、私は卒業を控えてもなかなか配属先が決まらなかった。
 そんな最中、瀬戸内海の島の獣医が老齢で、後継を探しているという話がきた。この話を私まで持ち込んだ教官は、不器用な私をとりわけ気にかけてくれた親切な人だった。実際のところ、着任することになったのは本当に偶然だ。あの島には毒ガスの類を製造する陸軍の軍事工場があったのだが、そこにも動物たちがいたのだ。
 教官は私に「兎」をきちんと診たことがあるかと聞いた。私はうなずいた。荷運びのための馬や牛、ガス検知用の小鳥のほかに、主に診ることになるのは「兎」だというのだ。
まさに自分のための仕事だと逸る気持ちを抑えられなかった。
 私は当時から兎という生き物がいっとう好きだったのだ。

 人生で初めて、自分の手で殺した生き物を覚えているだろうか。私の場合で言えば、それは兎だ。これは今でも手に触れた首の毛の柔い感触が残っているような気さえしてくる。それくらい鮮明だ。
 私がまだ十にも満たない頃、うちの庭で兎を飼い始めた。父親が連れ帰ってきた二匹の白兎がきっかけだった。どこかで一杯引っ掛けた際に売りつけられたらしく、家で増やして、私の学費の足しにしようという話だった。
 父は職業軍人だったが、本人の気質は軍人の生真面目さからは程遠かった。家で適当な着物をきて寝転がっているときは、そこらの博打打ちにしか見えなかったものだ。街の官吏などの方がよほどきっちりとしていた。
 母はというと、嬉しそうに兎の箱を揺らす父の突拍子のなさに呆れながらも、そういう人間と長く暮らしている慣れと諦めもあったのか、すぐに適当な板を持ってきてツガイの兎に簡素な小屋を作ってやっていた。
 あのころの兎というのは、今の愛玩用に改良された色とりどりのやつとは少し違う。日本白色種といって、皆一様に体全体が雪のように真っ白で、目だけがおもちゃのガラス玉のように透き通ったピンク色をしていた。生まれて8ヶ月もすれば繁殖できる上に、毛皮も肉も地元の農会を通して軍部に買いあげてもらえた。副業にはちょうど良かったのだ。無論そのまま引き渡すこともできたが、自分達で屠殺と剥皮までやればそのぶん値段が上がった。私は父からそのやり方を教わった。手伝うと小遣いがもらえたのだ。父も軍で同僚に教わったと聞いた。母は何も言わなかったが、私たち二人が庭の隅で、儀式か何かのように淡々とその作業している最中は、決して近づこうとしなかった。
 私が小動物の扱いを得意としていたのは、おそらくこの経験からだろう。

 島に赴任する前、島内で見聞きしたことの一切を漏らさないという誓約書に一筆書かされた。船を降りた瞬間から、何やら様子がおかしいことには嫌でも気付いた。空気がまず違うのだ。少し歩いて海風に当たると、刺激臭が鼻をくすぐる感触がある。大きく息を吸い込もうとすると喉にピリリと何か張り付いて、反射的に咳が出た。
 島は一周4キロ程度で、ぐるりとまわっても一時間掛からなかったかと思う。ずっと花崗岩がむきだしになっている小山が続くが、南側は平坦で見通しが良かった。島の東西南北には赤れんがを積んでつくった砲台が置かれていた。島全体が、軍事施設だったのだ。
 私が島の動物舎で最初に覚えた仕事は、小屋の掃除と餌やりだった。その次に雌雄の判別。それから、個体識別のための入れ墨だ。
 島の兎は毒ガスの性能試験用の動物だったわけだが、標準的な日本白色種で見た目にそれぞれ大きな違いがない。識別のため、兎は比較的毛の少ない下腹部か、耳介の内側へ墨を入れるのが通例だ。島の兎はみな耳の方に数字を刻んだ。
 兎は体の大きさに比べて骨が細い。手荒に扱うと骨折することもある。開張脚というが、脚が開ききってまともに歩けなくなったりもする。兎に怪我をさせず、上手く抱き上げるには片手で背中の皮膚を広く掴み、もう一方の手で臀部を支える。これに尽きる。暴れる兎に試してみてほしいのは、頭部を脇の下に入れて兎の視界を暗くすることだ。次第に落ち着くはずだ。怯えて震えていても、そのままで構わない。
 さて、入れ墨の話だったな。まずは墨汁で耳にアタリをとってその上に針を刺す。骨折させないよう頸部を背面から抑えて血管を避け、裏から耳介に彫っていくようにする。深く刺すと組織が死んで穴が空くのだ。この力の加減にはコツがいる。島の老齢の獣医、柳先生の手際は本当に素晴らしかった。短く終わるということはその分、兎の負担も軽いということだ。柳先生の手は初めから決められた場所に決められたように滑らかな動きで進む。そこに少しの迷いもブレも見られなかった。ああいう人が本物の獣医なのだよ。手つきからして違う。
 入れ墨の際に麻酔は使わなかった。当たり前だが、実験動物に対してそんな予算はなかったのだ。当然だが兎は痛がって逃げようとする。兎が鳴かないというのは嘘だ。私に限らず、兎を扱う人間は皆よく知っている。耳に突き刺さる一針一針のピストンに、全ての兎が例外なく鳴く。キューキューと、錆びた金属を擦るような嫌な響きで、一様に寂しげに鼻を鳴らす。あの音はたまらない。耳にするといつも、手に汗が滲む。針の跡から垂れる赤い血を拭き取ると、兎はだいたいが両足の甲を体のしたに置いて箱のようにかたく座りこむ。そうして、体をこわばらせてちっとも動かなくなる。自分が直面した恐怖から、意識を逃れさせようとするかのようだ。瞳は決して瞬かず、瞬膜がわずかに震えてもガラスのような眼球そのものはハッとするほど瞭然としている……。

 さて、いい加減に湯上のことも話さねばならない。湯上はきっと、自分に都合の良いことしか言っていないんじゃないか? 私もまあ同じだ。意識しないうちに、おそらく私の都合良いようにしか語れないだろう。それは許してもらいたい。
 君もやつを甲斐甲斐しく世話しているならよく知っているだろうが、あいつはとにかく周りに口を挟ませず、有無を言わせないようなところがある。何の罪悪感もなく、人の助けを当たり前と思うようなところが。
 島で湯上に再会したのは、動物舎で働き始めて二週間ほど経ったころだったように思う。あいつとは今でいう小学校のときの同級生で、仲がいいか悪いかで言えば、良かった。それは間違いない。君は知っているかもしれないが、湯上の父親は重工業の会社の重役で、あいつは末子として好き放題甘やかされていた。そのせいもあり、当時の湯上はまあ、とにかくわがままだった。その横暴ぶりにみな怯んで離れていったが、私はあまり気にする質でもなかったので、よく登下校を共にした。もしかするとお互い唯一の友人だったかもしれない。二人でいればいるほど、ますます周りは波が引くように誰も寄り付かなかった。私は自分が変わった子どもだったとはちっとも思わないが、多少勉強が得意で子供らしさそのものを見下すような部分もあった。湯上のような自由な人間に、優れていることを認めてもらいたいという気持ちはあったかもしれない。まあ、仲良くなることそれ自体に、いつも明確な理由が存在するわけではない。
 私は獣医になろうと決めていたこともあって、進路の違う湯上とは次第に疎遠になった。
 湯上は大学で一体何をしたのか、父親の怒りを買い就職のアテを無くしたようで、しばしふらふらした後に大卒だということで島の事務所に会計係として雇ってもらったと聞いた。

 島で働く人間は毎朝、向かいの小さな港から出る船で島まで通ったが、私は動物の世話もあり、動物舎の脇の小屋に泊まり込むこともあった。
 そこに湯上が前触れなくやってきたことがあった。今思えば、湯上は寂しかったのだと思う。歳の近い人間が事務所におらず、あまり馴染めていないようだったから。夜に体を揺さぶられて目が覚めて、寝ぼけたまま見あげればそれは湯上だったのだ。あれは驚いた。
「なあ、なあ、酒が手に入った。飲まないか」
 湯上が押しつけてくる一升瓶が、頬に触れてひんやりと冷たかった。既に瓶を空け切ってしまって、酔いが回っているのかと疑いたくなる溌剌さだった。
「……今からか?」
「そうだが、何か問題あるか?」 
 湯上は裕福な家の子息特有の、切羽詰まったところのない、フラフラとした雰囲気が働き出しても抜けきらないように見えた。
「私は明日も早い」
「まだ十時にもなってないじゃないか。お前が早寝すぎるんだ。少しくらい付き合え」
「太々しいやつ」
 私の罵りに、湯上は声を立てず、喉の奥だけをならしてくっくとわらった。湯上は子どものころにも、そうやってよく音を噛み殺すようにわらっていた。年相応に老けたように見えたが、中身はさほど変わっていないのだろう、とそのときは思った。
 湯上はそれからしばらく黙り込んで神妙な顔つきになって、長い足をゆっくり折りたたんであぐらをかいた。小屋は一人が寝泊まりするためのもので、背が高かった湯上にはきっと窮屈だったろう。
 湯上は不安そうにあたりを見回してから、一升瓶を揺らしてポツリと言った。
「酒本、気をつけろ。工場の近くで何か触った後に目なんかは擦るなよ、いいな」
 毒ガスのことを指しているのだとすぐにわかった。島に生えた松の木は弱々しく、赤茶色に禿げていた。鼻につく言いようのない匂いは、火山地帯に漏れ出す硫黄のそれとは大きく違った。どんなに厳重に管理していようが、島が汚染されていることは明らかだった。
「言われなくともわかっている」
「いや、島では僕が先輩だからな。いいか、どこか拭いた布をそのままポケットにしまったりするなよ。内腿が黒くなって歩けなくなったやつらがたくさんいるんだ」
「わかった、わかったから」
「お前はいいやつだからわざわざこういうことを言うんだ。鼻持ちならないやつなら放っておくさ」
「急にどうした」
「死んでほしくない。わかるだろ」
 私は湯上の言葉の飾り気のなさに、なんと答えればいいかわからなくなり、とりあえずただうなずいた。湯上はおべっかを使ったり取り繕ったりすることは苦手だったが、たまに普段口することを躊躇うような真っ直ぐな言葉を使うことがあった。そこはまあ、私も好ましく思っているところだ。君の曽祖父のことをあまり非難ばかりするのも申し訳なくてね。
 
 毒ガスの性能試験をするには、まず兎の背中あたりの毛を軽く剃って地肌を露出させる。それからそこに液状のガスを塗布して、経過を調べる。気化したガスの場合にはガラス箱に充満させ、その中に入れて同じようにする。手順は非常にシンプルだ。
 前任の柳先生が引退されて以来、実験動物として送り出す兎たちは、私が選んで箱に入れ、直接自転車で研究所まで運んだ。動物舎は私と助手の二人だけの小さな所帯だった。その日もいつもと変わらず、朝に兎を実験に送ってそのまま動物舎に戻った。違ったことといえば、一匹だけ、鼻先に墨汁を垂らしたように小さなブチがある兎がいたことだけだ。
 夕刻にいつもの休憩から戻ると、助手の高橋が困惑した顔で動物舎の前で私を待っていた。どうしたのか聞けば、「死ななかったというんです」と答えた。
「どういうことだ?」
「研究所の方が先生をすぐ呼んでくれとおっしゃって。今日の実験に送った兎が、死ななかったと」
「ガスが充填されていなかっただけじゃないのか」
「いいえ、その兎一匹以外はみんな死んだそうなのです」
「診せてみろ」
 助手はうなずいた。

 当時の私の直感は正しかった。死ななかったという兎は鼻にブチのある個体だった。番号256。朝見送ったときと全く同じ、きれいな姿でそこにいた。うずくまったり、一切動かなかったりするような、具合が悪い様子はない。
 皮膚異常なし。目、異常なし。流涙、眼球突出なし。鼻、異常なし。鼻汁なし、くしゃみなし。耳、異常なし。めくっても赤みなし。肛門、生殖器、足裏、口内——確認してみても、兎に異常はなかった。むしろ、ふつうの兎よりも状態がよかった。毛皮も剥皮して干せばいい値段がつきそうな、素晴らしい色つやだと思った。
 次の日の実験には私も同席した。
 本当に、256は死なないのだった。他の兎や小鳥が痙攣し動かなくなっても、具合の悪いそぶりすら見せない。医者もこんなのは見たことがない、と困惑していた。何か256だけが持つ物質が、ガスに対して耐性があるのかもしれない。私は256を常草号と名付けた。とにかく食欲旺盛で、与えるものを選り好みせず、いつもモゾモゾと動く口元から草がはみ出していたからだ。

 常草号は隔離室に留め置かれた。実験に送り込む前の兎を一時的にいれておく場所だったが、すっかり常草号のための部屋になっていた。常草号は普段はおとなしく隅の方で青草をはんでいたが、私が近づくと鼻先をぐいぐいと押しつけてなでるようせがんだ。かわいいやつだった。助手の方が接触自体は多かっただろうに、助手にはそれをしなかった。私とそれ以外の人間とを、常草号は確実に区別していたのだ。
 湯上にその話をすると、珍しく興味を持って聞いていた。今にして思えば、そこで何か問いただしておくべきだったのかもしれない。

 そんなある日のことだった。私は休憩の際には石垣の上に立って、海を見ることが多かった。ちょうど日が落ちる夕刻は景色が大きく変わる。休憩をしながら眺めるのにちょうど良かった。昼間はあれほど眩しい海面が、ほんの数十分の間で鉛のような色に変わり、重たそうに飛沫をあげるようになるのだ。ただぼうっと立って風に吹かれていれば、無数にある他の島々となんら変わらない平々凡々な場所のように感じられた。それはある意味、自分の行いや島そのものからの逃避だったろうが、中で生きている人間というのはそういった感覚がひどく鈍くなるものだ。その頃には、もう私にも咳の症状が出ていた。あの島で働いて肺をやられた人間特有の病だったが、当時はそれと認めようとしていなかったように思う。
 休憩から戻ると、何やらおかしな雰囲気があった。助手は休みだったが、私が地面に無造作に置いたバケツの位置が動いている。誰かしらの訪問があったのかと見回しても、人っこひとりいない。私は嫌な予感がして、動物舎の奥の隔離室に走った。入り口の南京錠が壊されて、コンクリートの床に落ちていた。
 そのまま中に入った。いつもなら足元にすぐ擦り寄ってくる常草号の姿がない。床に敷き詰められた草が扉からの風で微かに舞っていた。
 隔離室は全くの空だった。常草号は、いなくなっていたのだ。

 私は打ちのめされた。大事な研究対象を盗まれるという失態以上に、常草号が心配だった。噂で不思議な兎がいることが広まっていたんだろうか? そう思ったが、常草号を売り飛ばすにしても、その価値を外見だけで判断することなど不可能だ。そもそも、まだその実態は何一つ解明されていないのだ。盗みに入るにしても、早急すぎるように思え、何が目的なのかさっぱりわからなかった。
 研究対象を盗まれた。この点について、上層部でどういう判断がなされるかはわからなかったが、私が営倉に閉じ込められ、母のもとに処罰の報告の手紙が届けられるところを想像した。立派にやっていると思っている父母は急な知らせに困惑するだろう。
 その日はちょうど、休務日である湯上の家で夕飯を食うことを約束していた。
 私は混乱したまま島を後にし、約束の時間から大きく遅れて湯上の家にたどり着いた。湯上は「もう来ないかと思った」と心底ほっとした顔をして招き入れてきた。私はなんといえばいいかわからず、「すまない」とだけ言った。
 湯上が差し出してきた椀の中身は汁物だった。銀杏切りされた大根と、にんじんと、ささがきのごぼう、そして小さく切られた肉が入っていた。その汁は、まだもくもくと湯気が立っていて、今ちょうど出来上がったばかりといった様子だった。
 私は、常草号のことを湯上に相談すべきかどうか迷いながら、その椀に口をつけた。最初のひとくちが舌を過ぎたその瞬間、私はひどく困惑した。驚きを隠せなかった。
 とんでもなく美味しかったのだ。顔を上げて、湯上の方を見ると、「美味いだろう」とうなずいて笑った。私は湯上から客用の箸を受け取り、悩んでいたことも忘れて具材にかぶりついた。柔らかな食感の肉が、腹の中全部を丸ごと釜にして煮え立つように、体の奥底から温まっていく実感があった。私はその時、昼飯を食べる暇もなく動いていたこともあり、空腹のせいでそのように感じたのだと、すっかり勘違いしていた。しかし、今思い返してみても気が付くことはできなかっただろう。私はそもそも食にあまりこだわりがなく、料理もまともにやったことがなかった。肉の違いなど何一つ知らなかったのだから。
「鶏か? 美味いな」
「ああ、絞めたばかりのやつなんだ」
 湯上はそう言っていた。私もそのまま信じた。あっというまに二人で鍋を平らげた。人生で食べたものの中で、一番うまかった。私は美味い、としか言えなくなって、湯上はそれにとても満足そうにしていた。
 ちょうどそのときだった。後ろに倒れそうになって伸ばしたその手のさきが、タバコの箱にふれた。柱に立てかけられたボロの白い布のカバンからはみ出していたその箱は、私の助手がなくしたと惜しんでいたものと同じ銘柄だった。縦にくしゃりと潰したような癖の付き方にも、見覚えがあった。
「それ、高橋のか」
「違う、僕のだ」
 湯上は言った。私は起き上がり、箱を掴んだ。そもそも湯上はタバコを吸わないというのに、中身は数本しかなかった。とても信じられなかった。
「湯上」
 食うに困って、という事情なら私も見て見ぬ振りをしただろう。しかし、そうではない。父親と仲違いしているとはいえ、湯上が裏で母親から援助してもらっていることを私は知っていた。
 私は布のカバンを掴んでひっくり返した。袋に入った米、砂糖、金平糖にタバコ、瓶に入った酒、缶詰——ものがたくさん出てきた。
「これ全部盗品か?」
 何やら確信めいた予感があり、私はそう言った。満ち足りた食事の幸福感は、一瞬で冷え切ってどこかに沈んでいってしまった。返事を待たずに私は続けた。
「何でだ。盗む必要なんてないだろう」
「大丈夫、大丈夫だから」
 湯上はすぐに両手を胸の前で大袈裟にふった。少しも大丈夫に思えなかった。湯上はただ悪戯がばれた子供のように、きまり悪そうにしていた。
「おい」
 近づいて私がどつくと、湯上はまた、平坦な響きでつぶやいた。
「困ったな」
 眉が下がったその顔は、本当にどうしたら良いかわからず戸惑っているような様子だった。私は思わずカッとなって、声を荒げて言った。
「何でこんなことをする」
「わからない。気づいたら中に入ってる」
 湯上のその薄ら笑いと、心細げな声がたまらなく嫌だった。何を思っているのかわからなかった。
「前に持ってきた酒も盗んだものなのか」
「まあ、そうなるな」
 あのやけに浮かれたような雰囲気が、ようやく腑に落ちた気がした。私はその瞬間に、突如として思い至った。常草号の行方についてだ。
「常草号はどこだ」
「死んだよ」
「嘘をつくな。お前が盗んだんだろう」
「本当だ。今食べたものが何かわからないのか」
 空の鍋は鈍い光をたたえて、まだ私と湯上の足元にあった。黒いつややかなお椀の中も、かすかに残った汁のあとがまだ乾いていなかった。
「あれは鶏の肉じゃない。兎だ」
「嘘をつくな!」
 私は衝動的に、湯上に殴りがかっていた。鍋に足がもつれて、転びそうになったがそんなことは構わなかった。どうでもよかった。
「死なないなんて嘘だ。あいつはちゃんと死んだぞ!」
 気づくと私の拳が思い切り湯上の頬を打ち、湯上は倒れ込んでいた。私はそのままの勢いで馬乗りになると、湯上のシャツの襟元を掴んで力づくで引き寄せながら叫んだ。
「何でだ! 何でこんなことをする」
 目の前の人間が人の姿をしていても、果たして同じ生き物なのか、私にはさっぱりわからなくなった。頭がグシャグシャに踏み潰されたように、思考が回らなくなっていた。
 私はもうそのときには泣いていた。うまく息が吸い込めず、涙がこぼれてとまらなくなった。寒くもなかったのに肩が震えて、それが湯上を締め上げる腕と手の指先にまで及んだ。あれほど美味いと感じた汁物だったのに、口元まで迫り上がる饐えた胃液の感触がして、もうほとんど吐きそうになっていた。兎は犬猫と違い、体に吐き戻す機能がない。一度口にした悪いものを、彼らは吐き出してリセットすることができない。蝕まれることがわかっても、飲み込むより他にないのだ。私は、草をはむ常草号のせわしない口元の動きを思っていた。
「お前に死んでほしくない。前にも言った」
 殴られながら、湯上は淡々とそう言った。戸惑った様子が消え失せて、湯上はすっかり落ち着いていた。その突然の静けさに、私の方がひどく困惑した。湯上のその何か確信を持った、英雄的に素晴らしく正しいことをしたかのような真っ直ぐな目線に、私はもはや理解しようとすることを諦めてしまった。殴った拳もただ痛くて、本当に虚しくなった。
 いよいよ気分が悪くなって戻しそうになり、湯上の襟を掴んでいた手を放して両手で自分の口元を押さえた。すると、湯上は突然私を押し倒し強盗でもするかのようなものすごい力で、私が口に当てた手を上から押さえつけた。そのまま私のあたまを強引に天井に向かせ、吐き出すな、と言った。訳がわからないまま、窒息しそうになりながら、酸っぱいものを無理に飲み込んだ。力が緩んだところを思い切り突き飛ばすと、あいつはほっとしたように小さく笑って、良かった良かった、と言いながらそのまま寝転んだ。あれは怖かった。
 
 そこからまもなく敗戦となり、島には進駐軍から派遣されてきた処理部隊がうろつくようになった。島の司令権は、次第に陸軍から彼らへと移された。
 私は上からの指示で、飼育していたジュウシマツを全て殺して埋めた。小鳥は胸式呼吸する生き物だ。胸を潰すと、息ができずにすぐ死ぬ。苦しめずに手際よく殺す技術はいやというほど身についていた。三十分も掛からなかった。
 兎はというと、お役御免になって島から出ていく工員らに一匹ずつ渡すよう言われた。きっとこれから食糧に困ることになる。皆が各自家で絞めて、肉にできるようにということだったんだろう。
 うさぎうさぎ、なに見てはねる——小屋を片付けながらそう口ずさむと、足元の兎たちは私の靴の周りとくるくる回った。あの大量の兎を、自分で締めることにならなくてよかったのかどうかはわからない。結局、私以外の人々がそれぞれ遅かれ早かれ、生きるため彼らを殺したのだろうから。
 隔離室はあれ以来ずっと空だった。私は、同じように鼻にブチのある兎を選んで縊り殺し、身代わりにすることも考えたが、耳の入れ墨がある以上、それは不可能だ。私は、盗難の事実を早くに申し立てたが、この島そのものの行く末でそれどころではなく、罰されることもなかった。そもそも、これまでの抑圧の結果なのか、白金などを含む島の設備品が多数盗まれ始めていて、変わった兎一匹など気に掛ける余裕のある者はいなかった。
 助手は何か言いたげだったが、上官である私に物申すこともなかった。
「先生、兎をくださいな」
 小屋の外から少女の声がして、私が振り返ると、その声の主は「十五夜お月さまももうじきですね」と続けて言った。その姿は年若い子供に見えた。学徒動員の女工で、本当に14か15かそこらだったのだろう。
 私は下手な歌を聞かれたことが恥ずかしくなって、ああ、と小さく返した。あの島から出られることを、私自身どう受け止めていたのかうまく思い起こせないが、喜びを持っていたのかもしれない。童謡なんて、それまでろくに歌ったこともなかった。
 足元でうずくまっていた兎のうちの一匹の脇に手を入れて、抱えて小屋を出た。島の兎としては少し大きめな、2キロを超えていそうなものを選んだ。少女の腕の中に入れてやっても兎はすっかり大人しくしていた。
「わあ、可愛い」
 彼女は幼い顔をほころばせた。同時に、コンコンと咳をしていた。ひゅうひゅう空気の漏れ出るような、おかしな呼吸音も微かにあった。
 兎が少し足をバタつかせると、少女は私の助けなしに、きちんと抱え直した。兎の丸い背中を撫でるうちに体温が上がったのか、こけた頬に赤みがさしてリンゴのようになっていた。
「前に妹と一緒に飼っていた兎は兵隊さんのコートにするって言われて学校に渡したんです。うち、布団で泣きました。じゃけえ嬉しいです。今度は大事に育てようと思うんです」
 少し首を傾げるようにして、少女は顔をくしゃっとつぶした笑顔で兎に頬擦りをした。兎はみじろぎもせずに素直に、ただ抱かれていた。私は、何と言えばいいか、もうたまらない気持ちになった。それから、その笑顔が心からの感謝とともにこちらに向けられていることにたじろいだ。
 兎の鼻がひくひくと揺れていて、長く伸びたひげも一緒になって上下していた。ピンと立った耳の内側、薄く透けたピンク色の血管たちの上には、私が針で掘り込んだ入墨がまだくっきりと残っていた。 
 「この子はうちの子にするんです」と、兎を抱いた少女に嬉しそうに言われて、私は、「そうしなさい。もう戦争は終わったのだから」と私自身のために言った。そのとき胸に湧き上がったものが、なんだったのかということはとても言いようがない。ムカムカと腹が立つような気もしたし、涙がこぼれそうな気もした。引き渡しを待つ小屋の兎たちのガラス玉のような目が、ただ静かにこちらを見ていたことを覚えている。

 私はあの汁物を食べてから呼吸器の症状が一気におさまっていたが、そのときはそうとは気が付いていなかった。初めはそういった変化以外、特におかしなところもなかったのだ。湯上がどこでどう生きていくのか、私は島を出る時点で何一つ知らなかった。そんなもの興味もないと切り捨てたかったが、何か口にして美味しいと感じたとき、同時に必ず、迫り上がる胃液の酸っぱさが思い起こされるようになったのはあいつのせいだ。私は、あいつに会ったらまず挨拶の前に殴りつけようと決めた。何度でも。そしてまあ、今に至るまで実際にその通りにしている。
 ああ、すっかり長くなってしまった。私が語るべきことはこれくらいだ。常草号の肉がどう作用したかは、もう湯上や私を見れば一目瞭然だろう。常草号ももともと我々のように人間だったかどうかは分からない。あそこで繁殖させた個体ではなかったから。
 戦後どう苦労したかは私もあまり語りたくはない、というより語るべきことも少ない。ただ体の変化に際して、湯上はじっとしていられず、私は元からじっとしているのが得意だった。それくらいの違いだろうか? あとはまあ、満足に食べられなくても、眠れなくても、死にはしないということがわかったのは良いことだった。この体はもちろん不便に思えるだろうが、慣れてしまえばそこまで苦しいということもない。視界全体は眼鏡を失くした夜のように滲んでぼやけてはいるが、その実、明るさと薄暗さの違いを意識せずに、遠くまでよく見通せるものなのだ。左右それぞれの耳が自分の意思で別々に動くということにも、この体になってから初めて気がついた。

 さて、これでわかっただろう。君が今後こうなることはない。これは湯上と私の二人があの島で分かち合った、今に至る問題なのだ。
 湯上はどうしてる? 元気か? また小学校の校庭の兎小屋に勝手に紛れたりしているのか? いや、君も湯上だから呼び方がややこしいか。すまない。ひ孫だというが、あまり似ていないな。もっとも湯上のあのころの顔つきを正確に思い起こせるかというと怪しいが……。あいつは何を考えているのかわからなさすぎて、約束の一つもまともにしたことがないが、私は長く考えていることがある。こっちに来てくれ。両手で私を抱き上げることはできるか? うん、君の手は温いな。ヒラが柔らかくてまだ子どもの優しい手だな。 
 この先どうなるかはわからないが、万が一にも死ぬなんてことがあれば、残った方が先に死んだ方を食べる。私たち二人については、これがいいと思っている。非常にシンプルだろう。私はあいつを熱々のポトフか何かにいれてやるのが楽しみでならないよ。ひき肉にしてソーセージにするんだ。
 結局、常草号を口にしたその時に人間としての私たち二人は死んだのかもしれないな。ここまでの全ては死んでから為していることなのかもしれない。それでもおかしくはなさそうだ。記憶もだんだん青くなっていくだろうから。
 湯上も私に殴られるのが嫌でなかなか出てこないだろうが、伝えておいてくれ。いい加減諦めてそばにこいと。結局のところ、私たちはずっとおかしなものでい続けるだろうが、それでも変わらずここにいるのだから、少しずつ存在していけばいい。
 なあ湯上、そうだろう? 

文字数:12354

内容に関するアピール

死なないうさぎと、そのうさぎを食べた2人の人間のお話です。
 梗概の段階で永遠の命、死なないということの語り方について等アドバイスをいただき、全面的に組み直しました。

ひたすらうさぎの話を書きたいという妙な方向性の人間にも優しい講座でありがたかったです。

そして卯年の今年こそは『うさぎSFアンソロジー』を読むことができる世界線に辿り着きたいとおもいます。
 1年間ありがとうございました。
 とっても楽しかったです!

文字数:204

課題提出者一覧