エルフィン・ネージュの雪解け

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エルフィン・ネージュの雪解け

 泥の底から伸ばされた葉が、強く輝きを求めている。あまりにも一途で、空の全てを食べ尽くしてしまうほどに大きな緑の手の平だ。その怪物は、日差しの全てを喰らい尽くしてもまだ、光を求めていた。
「歌を、もっと」
 平らな円形の葉には鋭利な棘が無数に生えている。水辺に浮かべれば子供ならたやすく乗せられるだろう、不気味な緑の絨毯に覆われ、ここ、花文(はなふみ)町はあたかも夜のごとき暗がりに沈んでいた。
「歌え、私のために」
 月から削り出した楽器のような声音で、巨大な葉を従える化け物は言葉を紡ぐ。きいんと冷たく、鋭利な願いだ。巨大花の怪物・カナシーンが不気味なほどに美しい姿で、泥の底に鎮座していた。桃色の透き通るような花弁が、切々と己が願いを口ずさむ。そのたび、周囲の木々も、建物も何もかもが背筋の凍るほどに身震いした。
 誰もが逃げ惑う中、カナシーンの傍らには黒衣の少女がいた。夜からも浮き出すほどの黒いドレスに、地の底まで届く真っ直ぐな長い髪。蒼暗い植物に覆われた手には、痛々しくもペンを突き立てた物語の種が握られている。そうして、胸には真っ白な儚い花。細かな花弁の一つ一つが、巨大花の作り出した闇に浸っている。
「さぁ、もっと望みなさい。哀れな物語から抜け出せるほどに」
 黒衣の少女が呼びかけると、カナシーンは一際強く唸った。研ぎ澄まされた刃のごとき、美しい声で。
 そこに、白い衣装を身に纏った少女が駆けつける。もぬけの殻となった花文町で唯一人、咲き続けるかの目映い姿だ。
「花開け、わたしだけの物語。エルフィン・ネージュ」
 咲き誇る雪白色のドレスに、清流を思わせる水縹色のグローブ。少女戦士、エルフィン・ネージュだ。ネージュの姿を捉えたカナシーンはすぐさま、自身の葉をネージュの頭上へと構えた。そうしてひと思いに、巨大な葉をネージュへと振り落とす。
「春告げの風よ」
 そう叫ぶと、ネージュは空中へと飛び上がった。足下につむじ風を従えている。容赦なく叩き潰してくるカナシーンの巨大葉を、すいすいとかわしていく。
「あれは蓮の花りん。何の物語か考えるりん」
 器用に旋回するネージュに、若草色の羽根を持つ栞の妖精、しおりんが話しかけた。小さな羽根で精一杯羽ばたいて、ネージュに付き添っている。
「蓮? 池とかに浮かんでる花だっけ?」
「水底の泥から茎を伸ばしているんだりん」
「水底の泥、か」
 悩むネージュが唇へ手をやると、すかさず巨大葉が脇を掠める。崩れたバランスを取り戻しつつも、思案が続く。
「泥なら、地面? 『早すぎた埋葬』。いや、違う。『巌窟王』?」
 カナシーンの猛攻は止まらない。歌を、歌をと本体の巨大花が叫び続けている。ネージュの考えは見当違いのようだ。もう一度、勢いよく円形の葉がネージュへと襲いかかる。
「危ない」
 しおりんをかばい、ネージュは蓮の葉へと自らぶつかりに行く。大太鼓のような打音と共に、ネージュは地へ落ちていく。繊細な白花のドレスが、転落の衝撃で痛々しく傷を負う。
「いたた。ねえしおりん、蓮ってあんなに葉が目立ったっけ?」
「日本の蓮じゃないりん。きっと、」
「私は、音楽の天使」
 カナシーンの咆吼に、しおりんの言葉が遮られる。咄嗟に右手でしおりんを守り、ネージュは再び空中へと舞い上がった。直後、カナシーンの巨大葉がネージュの残像を叩き潰す。
「ネージュ、あのカナシーンはオオオニバスりん。光を求めて、葉を巨大化させているりん」
「光を? まずは、動きを止めないと」
 ネージュはもう一度グローブをはめ直した。右手の拳を強く握り、高く掲げる。水流を思わせる澄んだ水縹色が、植物の助けとなる送粉者の力を呼び集める。
「春告げの鳥よ」
 鳥の羽根が無数に舞い上がり、カナシーンの巨大葉へと斬りかかった。葉の残骸を蹴り上げると、闇底に佇む蓮の花と目が合う。薄らいだ桃色が、歌声のように儚く、美しい。
「思いのほか醜いだろう?」
「そうか、分かったよ。しおりん」
 腰に携えた白本を広げて、ネージュは真正面からカナシーンに向かった。カナシーンは紅水晶色の華やかな花弁を携えて、醜い、醜いと繰り返している。その声は少しずつ、荒削りの刃物のようにすり切れていく。
 一つ、二つと巨大葉を羽根で切り裂くと、ネージュはきりりとカナシーンを見つめた。
「出でよ、フルール・ビブリオ」
 ネージュの叫びに応じて、少女の背後には無数の本棚が現れた。世界中のあらゆる物語がそこに納められている。大小様々な本の中において、ネージュが携えた一冊の白本・フルールのみが真っさらで、広げれば中身は全て文字の抜け落ちた白紙だ。
「あなたの物語は、『オペラ座の怪人』」
 名前を言い当てられ、カナシーンは本来の姿へと戻っていく。オペラ座の地下に棲まう怪人の姿だ。空一面を覆っていた巨大葉は消え失せ、蓮の花弁が萎れた顔は醜く歪んでいる。
 黒衣の少女が、小さく舌打ちし、姿を消す。
 途端、オペラ座の怪人はネージュの持つ本へと吸い込まれていく。醜い素顔と、悲しみ、何よりも底なしの願望をを引き連れて。
「それでも、天国に憧れる」
 最後に言い残された言葉は、蓮の花よりも儚く散っていった。
 晴天を取り戻したネージュは、着地と共に変身を解除した。雪色のドレスが霧散し、どこにでもいる中学生、雪待雫(ゆきまちしずく)に戻る。不器用なお下げをなびかせて、雫は正体のばれぬよう物陰へと身を潜めた。しおりんも一緒だ。
「水面を埋め尽くす水草は、光を独占して他の生物を死なせてしまうりん。迷惑な例としてはホテイアオイなんて花もあるりん。オペラ座の怪人も、そういう物語りん?」
「ううん、少し違うよ、しおりん」
 飛び回る妖精の小さな頭を撫でてやり、雫は首を振る。
「物語だもん。一途に光を求める姿も、きっと美しいよ」
 そうして、オペラ座の怪人が収まったフルールを抱きしめた。本はもう真っさらではない。闇夜の恐怖と、それでも鮮やかに色づいた怪人の純粋無垢な願いに染まっている。しおりんの羽根から芽吹きの風を受け、怪人の魂は薄桃色をした物語の種へと帰って行った。

 

 ここは物語が植物として芽吹く植物園、ブーケ・ド・ビブリオ。園芸の才能に恵まれた栞の妖精、しおりんが管理する不思議な植物園です。しおりんは若草色の羽根を震わせて、今日も大切に物語の種を育てています。蒼い薔薇は奇跡を叶えたシンデレラ、月夜を抜け出せないかぐや姫の物語は、月下美人として咲いています。日陰でも力強く蔦を伸ばすアイビーの葉には、小公女の物語が宿っているのです。
 そんな植物園には日々、様々な物語が芽吹きます。しおりんは自慢の羽根で、あらゆる植物の世話をしているのです。
 ほら、また。新たな物語が芽生えました。萌黄色をした瑞々しい三つ葉のクローバーです。鉢に植え替えようと、すかさずしおりんが飛んできました。新しい物語は、他の物語が根付く盛り土や、道ばたに生えていたりするものですから。この物語は、砂利に芽吹いています。おや?
 芽生えた物語は、恐ろしい速度で蔦のように地を這う茎、地下茎を横へ延ばし始めたのです。飢えか渇きか、人が泉へ手を伸ばすような素振りで近くの盛り土へ辿り着くと、そこから先は一瞬でした。あっという間に、その物語は植物園の土という土を占領してしまったのです。地下茎からはささやかな三つ葉を散らし、そして強欲な根をばら捲きます。そして、植物園の物語は片端から吸収されてしまいました。
 平穏だったブーケ・ド・ビブリオが一転、荒野に成り果ててしまったのです。
 突然の事に慌てながらも、しおりんはどうにか、それぞれの植物に宿る物語の種を回収しました。物語の種さえあれば、何度でも物語は花開き、ブーケ・ド・ビブリオは復活できるからです。たくさんの物語の種で溢れたバスケットを、小さな手で必死に抱えながら、しおりんは巨大な地下茎から逃げ回りました。
 そこへ、白い単調なドレスを着た少女が現れたのです。ドレスも、髪に腕、足まで、クローバーの地下茎がびっしりと覆っています。冷たい瞳で、少女はこう呼びかけました。
「自分の物語から、逃げ出したくはありませんか?」
 氷色の唇が紡ぐ誘いに、物語の種に眠る主人公たちの胸はざわつきます。
「描き直したくはありませんか?」
 しおりんの運ぶバスケットから、物語の種がいくつか転がり落ちてしまいました。少女の甘美で薄暗い誘いに、惹きつけられてしまったのです。誘惑に乗ってしまった物語の主人公たちに、少女が真っ白な手を差し出しました。それは、闇の底で幕を閉じた彼らにとって、太陽よりも目映く思えた事でしょう。
「行っちゃダメりん」
 必死にしおりんが叫び、物語の種はどうにか、少女の手をかわしました。しかし、そのまま転げ転げて、植物園から転げ落ちてしまいます。
 少女はバスケットに残る物語の種には目もくれず、転がり落ちた物語たちを追いかけていきました。禍々しい、水銀色の気配を引き連れて。
 バスケットを避難させてから、しおりんも転げ落ちた物語の種を探しに向かいました。ブーケ・ド・ビブリオの箱庭を飛び出し、ここ、花文町にやってきたのです。

 

 原稿用紙は一枚、二枚と分かれているのに、それらを束ねて物語は完成する。なら、一つの物語ってなんだろうか。わたしにはそれが分からなかった。どこまでが一つなのだろう。どこまでが一人のわたしで、どこまでが一つのクローバーなのだろう。考え出したら止まらなくて、どこまで考えても根の伸びるように果てしなくて、わたしは、考える事から逃げてしまった。
 きっかけは、クラスメイトに「マンガを描いてみたら」と勧められたから。ほんの些細な、雑談の延長だった。絵を描く事が好きで、だったらマンガでも、と軽い気持ちで始めたんだ。どうせ描くなら、自信を持って人に読んでもらえるような物語を。わたしはいつもの『幸福な王子』を本棚にしまい、背伸びをして『ファウスト』を読もうとした。何か、参考になればと思って。けれど、読めなかった。中途半端な心で物語を作ろうとして、手が止まった。
 小春日和に見つけた一筋のクローバーが、わたしの心に柔らかく芽吹いたんだ。芽吹いてしまった。
 じっとクローバーを見つめた。何か思いつくかもしれないって。可愛らしい三つ葉は春を編み込んだ萌黄色で、葉の中央にはクレヨンで描いたような白い線が引かれている。その線が三つ葉の向きに合わせて寄り集まって、手を繋ぎ合っているようで微笑ましい。葉を持ち上げる茎は存外たくましくて、三つ葉の繋がりをしっかりと支えている。そうして茎の繋がっている先が、蔦のように地面に這いつくばっている。
 本で調べたら、蔓のように地面を這う茎を地下茎と呼ぶらしい。この地下茎を目で追いかけて、いくつもの三つ葉を通り過ぎた。諦めて『ファウスト』を図書館へ返した帰り道、急に怖くなったんだ。どこまで、一つのクローバーなのだろうって。
 シロツメクサが咲いていた。一番乗りに咲いた真っ白な一輪の春は、どこまでがあの一輪と繋がっているのだろう?
 どこまでが一つのクローバーなのだろう?
 どこに区切りがあるのだろう。一つを区切るものはなんだろう。そもそも、どこまでが一つのわたしなんだろう。
 抜けた髪をゴミ箱へ捨てた時、ふと涙が出た。わたしが捨てられた気がしたからだ。流石に馬鹿馬鹿しくて、涙を拭いた。髪をもう一度ゴミ箱へと押し込んだ。わたしは、考えるのを止めた。
 だから、もう考えないために。この物語を捨てる事にした。
 真っさらな原稿用紙には暖かく微笑む女の子がぽつんと描かれているだけ。可愛く描こうとしか考えていない。手には、萌黄色をしたクローバーの栞。まだ、何の物語にもなれていない。
 ここ、花文町を流れる川は澄んでいる分、流れが速い。わたしの馬鹿な考えもさあっと押し流してくれると思った。原稿用紙を千切る。物語がバラバラになっていく。どこまで千切れば、この物語は一つでなくなるのだろう?
 紙切れになった原稿用紙を、まだ寒さの残る三月の川へと投げ捨てた。風がすうっっと走って、花びらみたいに物語が散っていった。川辺に根付く桜が満開で、きらきらと踊る薄紅色に混じって、惨めな残骸が飛んでいく。
 もしも、物語に血液があったなら。『桜の樹の満開の下には』みたいになっただろうか。こんな物語のなり損ないでも、桜の養分になれただろうか。
 そういえば、桜と呼んだ時、どこまでを一つの桜とするのだろう。花びらは無数に舞っていて、でも、その群れを指して桜と呼ぶのだから。
 いいや、もう、考えないことにしたんだ。わたしは足下に残る原稿用紙の破片を、溶けない氷色の夢を踏みつけた。こんな、ただの紙切れに、これ以上悩むのは止めた方がいい。
 足をどけるとそこには春を待つ三つ葉が見えて、思わずわたしは逃げ出した。

 

 座り慣れない椅子から立ち上がると、緊張で少し躓いた。中途半端に笑ってももらえない立ち位置のわたしは、バツの悪そうに伏せた目で自己紹介するしかなかった。
「雪待雫、です。趣味は読書と、いや、読書です。これから一年間、よろしくお願いします」
 まばらな拍手を合図に、しゃがみ込む勢いで着席する。新学期早々、ついてないなあ。誰も気にとめていないとは分かりつつも、無性に恥ずかしい。これだから、春は苦手だ。新しい学年、階の一つ上がった慣れない教室、机。初めましてばかりのクラスメイト。お守り代わりに『幸福な王子』を持ってきて正解だった。担任の先生が何やら話しているのを聞き流して、わたしは鞄から本を取り出した。ぎゅうと、机の下に隠して抱きしめる。少しだけ安心する。
 それから、シャープペンを握ろうとして、放して。もう描かないって決めたんだった。
「さて、このクラスにはもう一人、転校生が加わります。さ、自己紹介を」
 先生に促されて、線の細い女の子が教壇の真ん中に立つ。後ろで、先生が彼女の名前を黒板に記入していく。少し緊張の混じる俯きげな姿勢で、その転校生は話し始めた。
「土野陽芽です。お父さんの転勤が忙しくて、色んな学校に転校してきました。でも、たとえ僅かな時間でも、同じクラスになれたみんなと友達になりたいと思っています。よろしくお願いします」
 澄んだ水晶に似た、綺麗な声。思わず聞き惚れてしまう。転校生は教室の全体を見回しながら話しているのか、ちらとだけ目が合った。その一瞬、たった一瞬でも、この転校生、土野陽芽さんの眼はきらきらと宝石みたいだった。ふわふわな髪に、柔らかな白い頬で笑むと、お人形みたいに可愛い。わたしの自己紹介と違い、クラスの誰もが注目していた。周りを惹きつける優しい眩しさを持っている。重たい三つ編みに、物怖じばかりのわたしとは大違いだ。
 先生がわたしの方を指さす。空いている隣席が、ひとまず彼女の席らしい。土野さんは頷いて、こちらへ近づいてきた。ひがんでいるような顔じゃ、失礼かな。わたしは慌てて笑顔を取り繕う。
 微笑み返す彼女は、名前の通り陽だまりみたいだ。側にいるだけで、心がぽかぽかとした。よろしくねとピアノのように囀りながら、彼女はわたしにそっと耳打ちする。
「すごいね。絵、上手なんだ」
 は、と机の下に意識をやると、無意識にペンを握っていた。曲線をいくつも重ねて、陽だまり様の髪がメモ用紙に写されていた。煌めく瞳を再現しようと、カケアミを細かく描き込んでいる途中だ。慌てて手で覆っても、遅い。
「ごめん、その、勝手に」
「ううん、嬉しい。これからよろしくね、雫ちゃん」
「う、うん。よろしくね、土野さん」
「クラスメイトなんだから、陽芽でいいよ。ねえ、その絵、描けたらちょうだい?」
 わたしが机の奥へ奥へとメモ用紙を片付ける手が止まる。楽しみだと微笑みながら、土野さんは何やら鞄から取り出した。分厚い本に、緑色の栞が挟まっている。まだ柔らかい桜の葉みたいな、綺麗な萌黄色だ。土野さんが大事そうに栞の上端に結ばれたリボンを撫でる。本のタイトルは、『ファウスト』。わたしが諦めた本だ。
「わたしも本、好きなんだ」
 可愛らしく微笑む彼女に、読み潰したしわくちゃの童話なんて恥ずかしくて見せられなかった。先生の方を指さして、真面目なふりをして、無理矢理に会話を途切れさせる。わたし、嫌な奴だなあ。
 転校生は大人気で、休み時間が足りないほど、たくさんのクラスメイトに囲まれていた。席は隣でも、塀の向こうの遠い人みたいだ。会話の輪にわたしの入り込む余地もなく、それきり土野さんとは話さずじまいに下校となった。
 転校初日で、既にわたしより友達が多いんじゃないだろうか。ホームルーム後も彼女の周りには人だかりができていた。それなのに、さっさと帰るわたしにまで手を振ってくれる。隣席のよしみ、だろうか。誰に対しても律儀に優しい。申し訳程度に手を振り返したけど、彼女まで届いたかは分からない。すごく小さくしか、手が動かなかったから。
 新学期初日なだけあって、まだ昼下がりの下校だった。春先の川辺を、小さな子供が駆けていく。幼い腕が、絵本を花束みたいにして抱えていた。
 ふっと嫌な気配がして、突然、その絵本が真っ白に豹変してしまう。子供はぴたりと足を止め、狐に化かされたような顔で空っぽの絵本を見つめている。
 あの子は、何の絵本を持っていたんだっけ?
 ずしんと、重い足音が背後を踏みしめた。白い絵本を放り投げて、泣きながら子供が逃げていく。
 振り返ると、巨大な魚人が立っていた。
 魚人は子供にも、そうしてわたしにも興味がないようで、川の水面を手当たり次第に踏みつけていく。全身が藻に覆われたような焦緑色で、背丈は電柱よりも高い。その巨体以上に恐ろしいのは、声だ。魚人は骸骨のような声で、不気味に何かを歌い続けている。
 わたしも逃げなきゃ。
 魚人に気付かれまいと、茂みを目指して走り出そうとした。その時だった。
 微かに、でも確かに、助けてと声が聞こえた。
 泣いている気がした。
 恐る恐る魚人の方へ目をやれば、魚人は何かを狙って踏みつけているようだった。川の水面へ足を浸して、何度もその巨体で水を跳ねさせている。よく見れば、足下には魚人の濁った緑とは違う、綺麗な緑色が飛んでいた。いや、水面に浮かんで、溺れている。
 あれは、栞?
 咄嗟に足が動いた。見覚えのある栞に、よく似ていたから。転校生の土野さんが大事そうに分厚い本へ挟んでいた、あの栞に似た綺麗な緑色だ。
 川へ飛び込むと、その栞はふらふらとこちらへ近寄ってきた。
 羽根だ。小さな羽根で、栞が飛んでいる。驚く間もなく、魚人の足が迫る。
「ダメ、踏まないで」
 咄嗟に栞の妖精をかばうと、暖かな光に包まれた。妖精が持っていた小さなじょうろがその光を吸収し、わたしの手にすっぽりと収まるサイズに変容する。
「そのじょうろで変身するりん」
 栞の言葉に促され、わたしは左腕へとじょうろを傾ける。星夜を溶かした不思議な水に肌が触れ、みるみる間に真っ白な袖へと転じた。花弁を思わす繊細なフリルが、リボンで束ねられていく。右腕へかければこちらも袖が芽吹き、胸元へ注げばドレスが花開く。脚には萌黄色の靴、背中には大きなリボン。三つ編みは解け、つむじの辺りで長いポニーテールへと束ねられた。額には白花のティアラが輝く。手には水縹色のグローブがはめられ、腰に真っ白な本を携えた。最後に胸元からスノードロップの白い花が咲けば、まるでわたしではないかのように身体が軽くなる。
「花開け、わたしだけの物語。エルフィン・ネージュ」
 魚人を真正面から見据える。さっきまで怖くて仕方がなかったのに、どこからか勇気が湧いてくる。軽く芝生を蹴れば軽やかに身体が飛び上がり、魚人の巨体へと右足が斬り込む。続けて右手に体重を乗せて、飛ばす。攻撃が当たる度に、魚人の身体からは靄が噴出した。煙か蚊柱を殴るような、おぼつかない感触。
 川の中腹で立ち上がると、あの栞が緑色の羽根を震わせて近づいてきた。
「すごいりん。本物のエルフィンりん。」
「エルフィン?」
「物語を守る伝説の戦士りん」
「伝説の戦士? えっと、わたしが?」
「さあ、あの、物語を取り返すりん」
 栞の妖精が、か弱い羽根で魚人を指し示す。あれが、物語? ちっとも頭が追いつかない中、魚人は再び歌い始める。死の底から絞り出したような、恐ろしい声で。
「あなたは太陽。海の上で一番の輝き」
 それから、不気味な靄がかった緑の巨体でこちらへと向かってきた。
「送粉者の力を借りるりん」
「そうふんしゃ? ど、どういうこと?」
「花粉を運ぶ助けとなるモノりん。グローブに祈りを込めて、ネージュならきっとできるりん」
 言われるがまま、水縹色のグローブをはめ直す。腰のリボンに留めたじょうろから、力が流れ出す。
「春告げの鳥よ」
 言葉が勝手に飛び出した。右手を高く掲げると、鳥の羽根が幾百の矢となって魚人へと飛びかかる。避けようとして、魚人は川中へと足を滑らせた。
「春告げの風よ」
 すかさず、風の渦を巻き起こして魚人を捕らえる。
「あの怪物・カナシーンは物語の種から逃げ出した主人公りん。エルフィンの力で、物語の名を呼んで白紙の本・フルールに戻すりん」
「物語って、小説とか、童話とか?」
「そうりん。何の物語か、ネージュならきっと分かるりん」
 魚人の出てくる物語なんて、クトゥルフ神話のインスマスくらいしか知らない。けれど、それは違う気がする。この魚人はもっと清々しくて、何よりも、歌っている。
 歌?
「海の向こうに憧れた。ねえさまよりも、この歌声よりも、ずっと大切なあなた」
「分かった、人魚姫だ」
 『人魚姫』、その言葉に魚人の歌声が途切れた。途端、恐ろしい怪物があどけない少女のように身をすくめる。
 そして、短剣を召喚したかと思うと、こちらへ斬りかかってきた。
「早く物語をフルールに戻すりん」
「出でよ、フルール・ビブリオ」
 かけ声と共にフルールと呼ばれている真っ白な本をかざせば、巨大な本棚が背後に並んだ。魚人は斬りかかろうとした動作のまま動きが止まり、短剣が川辺へと転げ落ちていく。沈んでいく。
「あなたの物語は、『人魚姫』」
 名前を唱えると、魚人を形成していた緑の靄がすうっと消え去っていった。後に残されたのは、儚いほどに美しい一人の少女。目には涙、短剣を失った両手は自身の末路に震えている。
「わたし、せっかく見つけたのにね。愛しい海よりも、美しい歌声よりも大切なものを」
 透き通るような瑠璃色の声を最後に、人魚姫はわたしの掲げた白本・フルールへと帰って行った。途端、周囲から禍々しい気配が消え、元の春爛漫な陽気が戻ってくる。
しおりんが若草色の羽根で仰げば、フルールから瑠璃色の球体が吐き出される。きっとこれが、吸収された『人魚姫』の種だ。心が沈みそうなほど、深い深い青色。
 ふっと力が抜けるとわたしは制服姿に戻っていて、芝生に膝をついて座り込んでしまう。雪色のドレスは散ってしまった。白昼夢の名残として、あの妖精が近づいてくる。羽根で飛び回る、不思議な栞の妖精。
「しおりんはしおりんりん。さすが伝説の戦士エルフィン、助けてくれてありがとうりん」
「わ、わたしは雫」
「雫はじょうろに選ばれたりん。逃げ出した物語を救うため、これからも闘ってほしいりん」
 しおりんは自分が物語の植物園、ブーケ・ド・ビブリオの管理人である事と、その植物園で起きた悲劇について教えてくれた。
「今、植物園は危機に襲われているりん。逃げ出した物語たちは、このままで消えてなくなってしまうりん。どうか、唆された物語たちを助けてほしいりん」
 その時、絵本を抱えた小さな子供が遠くを走って行った。白紙の本に怯えていた、あの子供だ。抱えている絵本は、『人魚姫』。
 わたしにとっての、『幸福な王子』と同じだ。あの子にとっては、『人魚姫』の物語が心からの宝物なんだ。
「うん。わたし、取り戻すよ。誰かの愛した、物語を」
 わたしの決意に、しおりんはこくりと頷いた。変身に用いたじょうろが、小さな姿で渡される。指先でつまめば、あんまりにちっぽけで、けれどもわたしの決意に勇気を注いでくれる。
 こうして、エルフィン・ネージュとしての新生活が始まった。

 

 結局昨日は、夜通ししおりんを質問攻めにしてしまった。エルフィンの事、物語の種の事、他にもたくさん、頭がこんがらがりそうだ。おまけに、土野さんにお願いされた似顔絵も描いていたから、すごく眠い。とろみのある春の日差しに欠伸を噛み殺しながらの登校だ。
 今は鞄のポケットに隠れてもらっているしおりんの話を、眠たい頭で整理する。
 まずはわたしの変身した姿、エルフィン・ネージュ。しおりんが物語の種を育てる管理人なら、エルフィンは物語の種を守る戦士だとか。確かに、自分とは思えないくらい身体が俊敏に動いた。さらに、花粉を運び植物を助ける送粉者の力を借りる事ができる。わたしに力を貸してくれるのは風と鳥。風は春先の花粉症でなじみ深い杉や檜を助けているし、鳥だと花の蜜を好むハチドリやメジロが有名だとか。さすが自分で園芸の才に秀でたと語るだけあって、しおりんは饒舌に教えてくれた。
 それで、わたし達が物語の種を守るために行わないといけない事は二つ。まずは何よりも、逃げ出した物語の種を探す事だ。ここ花文町に転げ落ちた事以外は、しおりんにも分からないそうだ。何の物語が宿っていたのかについても、しおりんは把握していないらしい。
「しおりんは園芸の名手りん。物語は専門外りん」
とのこと。頼りになるんだか、ならないんだか。
「それぞれの物語の思うがままに、物語の種は芽吹くりん。雫の持つ物語の記憶と、しおりんの持つ植物の知識で、カナシーン化した物語を言い当てるりん」
 本は好きでたくさん読んでいるけれど。
「昨日の人魚姫は褐虫藻りん。サンゴと共生して、海底で光合成を行う植物プランクトンりん」
 そんなマニアックな事を知っていれば、もっと簡単に人魚姫を言い当てられただろう。わたしは植物の事を何も知らない。
 さて、エルフィンとしてもう一つの使命は、物語を怪物・カナシーン化する何者かを探すことだ。しおりんも、わたしと同い歳くらいの女の子の姿をしていることしか知らないそうだ。目的も、居場所も分からない。けれど物語の種を狙っているなら、昨日の人魚姫みたいに、またこの町に現れる。
 しおりんの管理するブーケ・ド・ビブリオの土壌を突如覆ったクローバーの地下茎も、この町に現れるのだろうか。見つける度に目を背けてしまうクローバーが視界に入り、そんな事も考えてしまう。おっと。
 人にぶつかってしまった。グレーのベストに、茶と赤のチェックスカート。同じ中学の生徒だ。
「ごめん、だって全然気付いてくれないんだもん。おはよう、雫ちゃん」
「あ、その、おはよう。土野さん」
「だから、陽芽って呼んでってば」
 ぶつかった相手は土野さんだった。どうやら、ずっとわたしに話しかけてくれていたらしい。陽だまりを編んだように柔らかな天然パーマが飴細工みたいで、今日も可愛らしい。隣に並んで歩く事すら、ちょっと後ろめたいくらいだ。
「ごめん、考えごとしてた」
「大丈夫? すっごく眠そう。ごめんね、無理なお願いしちゃって」
「い、いや、絵を描くのは好き、だし。眠いのは別件、気にしないで」
 これ、と鞄から封筒を取り出す。どうにか土野さんと釣り合いそうな、わたしの持っている中で一番可愛いピンクの封筒。中には、昨日頼まれた似顔絵が入っている。こんな、ただの落書きなのに。背伸びしすぎたかな。
「別に、いらなかったら、捨てて」
「何でそんな事言うの?」
 一瞬、ぎょっとするほど鋭い声だった。薔薇の茎を握ったら太い棘が刺さったような、鋭利な怒り。しかも、あぁいけないとばかりにすぐ、元の可愛い土野さんに戻った。
「すっごく嬉しいよ。ありがとう、大事にするね」
 宝石よりも煌めく笑みで封筒を受け取って、中身を開けてもう一度、目を輝かせる。そこまで喜んでくれるなら、もっと頑張ればよかったかな。
 教室に着くなり、待ってましたとばかりにクラスメイトが土野さんを囲んで輪を作る。邪魔にならないようにとわたしは図書室へ退散した。授業中に、雫も話しかけてよと拗ねられる。無理だよ、と首を横に振った。人気者の隣だなんて、わたしには荷が重い。土野さんだって、席替えでわたしが離れればもう、話しかけてくる事もなくなるだろう。
「この絵、雪待さんが描いたんだ。すっごい」
 帰りの挨拶も早々に教室を出ようとして、そんな甲高い声に呼び止められた。
「いや、ちょっとした落書きだよ。ホント、大したことないし」
「すっごい似てるよ。ほら、髪のふわっとしてる感じとか、そっくり」
「雪待さん、絵が上手なら自己紹介で言えばよかったのに」
「いいなあ、土野さん。ねえ、わたしの似顔絵も描いてよ」
 矢継ぎ早に声をかけられるなんて初めてで、どうしたらいいかも分からない。助けて、と土野さんへ視線を投げるも、にっこりと微笑まれるばかり。どうしよう、どうしよう。
「物語の種が見つかったりん」
 そこへ、しおりんまで加勢する。わたしの鞄から飛び出した謎の声にぽかんとクラスメイトが凍り付いた隙を狙って、わたしは人の輪をかき分けて教室を飛び出した。
「ご、ごめん、急用。また今度」
 大急ぎで下駄箱へ走りながら、人目のある場所で声を出さないでくれとしおりんに念を押す。
「でも、カナシーンにされてしまう前に急いだ方がいいりん。すぐそこりん」
 しおりんの案内で駆けつけたのは、学校の隣にある寂れた公園だった。新校舎の影になってしまうから、寒くて、ほとんど遊ぶ子供はいない。
 それなのに、真っ黒な少女の影が一つ。仮面に表情を閉ざし、大きなペンを掲げている。手には物語の種が。
「あの子りん」
「また邪魔が入ったか。仕方ない」
 しおりんが叫んだのもつかの間、少女は禍々しい水銀色のペンを足下の球体、物語の種へと突き立てた。
「願いなさい、カナシーン」
 すると、物語の種は巨大な根を、葉をめきめきと伸ばして、頭に黄色の大輪を咲かせた。しおりんに聞かなくても分かる。これは、タンポポの花だ。巨大なタンポポの怪物はギザギザとした葉を鋭く尖らせ、こちらに突き刺してくる。頭を一度ぐにゃりとくねらせたかと思えば、頭上の大輪はたちまち、真っ白な綿毛へと転じた。
「外へ出たい。外へ、外へ」
 じょうろでエルフィン・ネージュに変身すると、すかさず綿毛がこちらへ襲いかかってくる。風を呼び出して避けようにも、綿毛はふわりと舞い上がるばかり。それからもう一度こちらへ攻撃してくるのだ。萌黄色の靴で跳ねて、吹き飛ばしても、純白のフリルが爆風にあおられる。何度繰り返しても、綿毛は地面を選ばない。風のある限り飛び続けている。
「おばあさま、おばあさま」
 加えて、おばあさまの出てくる物語なんて、童話だけでも溢れるほど沢山ある。よほど何かあったのか、このカナシーンはおばあさまとすすり泣いてばかりだ。
「ねえ、しおりん。タンポポの性質って何かないの? こう、ヒントになりそうな」
「根が太くて丈夫りん。ちょっとやそっとじゃ抜けないりん」
 根? 何かに根付いて、動けない話? いやでも、植物のほとんどは根を張っているし。
 仮面の少女が合図すると、カナシーンはこちらへの攻撃を更に強めた。綿毛を背負った種が、小型の爆弾として襲いかかってくる。風を呼べば再び舞い上がり、鳥の羽根もふわりとかわされてしまう。これでは逃げる一方だ。
「あとは勿論、綿毛が特徴りん。風を利用して、種を遠くまで運ぶりん」
 遠くを旅する物語なら、『ガリバー旅行記』とか? いや、おばあさまは出てこないし。それに、物語の思うがままに芽吹くなら、旅をしたのではなくて、きっと。
 旅をしたかった物語のはずだ。
「出でよ、フルール・ビブリオ。あなたの物語は、『ラプンツェル』」
 フルールから放たれる光に包まれて、タンポポのカナシーンがラプンツェルとしての姿を取り戻す。その姿に、黒衣の少女はぎりりと苦しそうに唇を噛みしめた。
「申し訳ございません、ジェネット様」
 少女は震えるほどにペンをきつく握り締めると、その場へ跪いてしまった。よく見れば、ペンは少女と同様、クローバーがびっしりと根付いている。
「あなた、どうして物語の種を探しているの?」
「この世の全ての物語を、偉大な創作主、ジェネット様に届けるためだ」
「大丈夫。まだ、吸収できそうな物語は沢山あるから」
 どこからか包み込むような声がして、ラメットと呼ばれた黒衣の少女は突如現れた女性に抱きしめられていた。神秘的な白いドレスを纏い、対比するように黒い髪は植物の根のごとく縮れ、うねっている。矛盾をはらんだ女性に抱えられ、ラメットは姿を消してしまった。
「ラメットに、ジェネット。地下茎で繋がった新株と株全体の名称りん」
 あの少女、ラメットが物語の種を探索する歩兵で、ジェネットが親玉、という事だろうか。しおりんに尋ねても、植物としては、と曖昧な返事しかもらえない。
「それよりも、まずはラプンツェルりん」
 言われ、元の姿を取り戻したラプンツェルへと向き直った。ラプンツェルたる女の子は、物語通りの長い髪を引きずりながら、どうにもこちらから目を反らしている。
「物語から逃げ出して、ごめんなさい」
 今にもはち切れてしまいそうな、声。
「ラプンツェルは王子様と結ばれて終わるのに、どうして?」
「わたし、おばあさまを見捨ててしまったわ。たとえ魔女でも、わたしを大事に育ててくれたおばあさまを」
「物語の種に戻るりん」
「えぇ、勿論。だって、わたしが選んだんだもの。外へ出るって。この後悔は、背負わないと」
 目を閉じて、ラプンツェルは白紙の本・フルールに吸収された。物語として、あなたの後悔は選ばされたものなのに。後悔を蹴散らすようにラプンツェルは最後に笑って、その儚さに似合う檸檬色に、種は色づいた。
 それがとても爽やかで、後ろめたさばっかり気にする私にとって、少し羨ましかった。

 

 水銀色の気配に、無数のクローバーが地下茎を張り巡らせている。その中央には白いドレスを着たジェネットが佇んでいた。付き従うように、黒衣の少女・ラメットが跪いている。
「申し訳ございません、ジェネット様」
「物語の種を守る戦士、エルフィンというのだったかしら?」
「はい。ジェネット様からいただいたこのペンの力を持ってしても、追い払えませんでした」
 ラメットが悔しそうにペンを握り締める。禍々しい気配を纏ったペンは、その水銀色を一層深く濁らせた。
「どうか、次のご指示を」
「カナシーンの力で、エルフィン・ネージュを始末しなさい」
「かしこまりました。すべては、わたしの物語を紡いでいただくため」
 再び花文町へと向かうラメットを見送ると、ジェネットはクローバーの群れに身体を沈めていった。まるで不可思議な生命体に飲み込まれるかのように。あるいは、無数に繋がる知能の海に、脳を浸すように。

 

 相変わらず土野さんはクラスの中心で、楽しそうな声が途切れない。わたしなんかが入って邪魔にならないだろうか。いっそ、話しかけない方が互いに幸せじゃないか。そう思うと、喉がカラカラと悲鳴を上げた。ヘタに声を出そうものなら、ひゅうと妙ちくりんな音が出そうだ。
 やっぱり、やめておこう。向こうから何も言ってこないし。邪魔しちゃうよ。そう思って伏せた視界に、昨日のラプンツェルが思い起こされた。
 後悔を背負ってでも、自分で選択したとラプンツェルは自慢げに笑っていた。あの、儚さを破り捨てるような気高い笑顔が、背中に温かな手を与えてくれる。もう一歩、頑張れと背中を押してくれるみたいに。
 わたしも、たとえ後悔してでも、前に進んでみたい。
「あ、あの、昨日は帰っちゃって、ごめん。みんなの似顔絵、描いてきたんだ」
 手が震えた。夜通し描いた絵は線もいびつで、もっと、上手く描けただろうにって。怒らせてしまったら、嫌な思いをさせてしまったら、どうしよう。
「ごめん、話してるの邪魔しちゃって」
「えっ? これ、わたし?」
 人だかりの外側にいた子が、わたしのメモ用紙をつまみ上げる。一番最後に、もう本当に眠い中描いた奴だ。視界がぐつぐつと煮えるように、揺れた。
「すっごい、そっくり。本物より可愛いじゃん、嬉しい」
「え?」
「わたしのは? わたしのは?」
 クラスメイトが、嬉しそうにわたしの絵を見てくれている。可愛い、すごいと言ってくれる。きらきらとカラフルに彩られる様な、絵本の世界にでも迷いこんだような不思議な感覚。足の先からぽかぽかとときめいていく。
 そこへ土野さんの、文字通り宝石みたいな笑顔が溢れ出す。わたし、彼女に照らされているんだ。
「大盛況だったね、雫ちゃん。また、イラスト頼まれたんでしょ?」
「う、うん。ありがとうね、土野さん。あなたのおかげ」
「だから、陽芽って呼んでよ。友達でしょ?」
「うん、そうだね。陽芽ちゃん」
 それから、毎日のように絵を頼まれた。好きなアイドルとか、マンガのキャラとか。次第には陽芽ちゃんが、整理券を配り出すくらいの引っ張りだこ。まるで、物語の主役になったみたいだった。席が替わって、陽芽ちゃんとは離れてしまったけれど、かえって話す機会が増えた、ように思う。
 踏み出す事を選んで、よかった。
 エルフィンの使命は未だ道半ばで、この前も『オペラ座の怪人』を取り戻すのに苦労したけれど、わたしの中学生活は今、輝いている。
「ねえ、雫ちゃん。今度さ、二人で遊びに行こうよ」
 夏のからりと晴れ渡る中、そんな誘いがあった。わたしは二つ返事でいいよと返す。もう、汗ばむほどの夏なのに、二人で遊んだ事はなかったから。
「やった。じゃあ今日の放課後、下駄箱で」
 友達と二人で出かける事自体がほとんど初めてで、陽芽ちゃんに終始連れ回されてしまった。ゲームセンターでぬいぐるみを取り損ねて、ショッピングモールでいくつも洋服を試着した。陽芽ちゃんは何を着せても、彼女らしい柔らかな雰囲気に変えてしまうのだから、すごいなあ。まるで、わたしの憧れを全部詰め込んだみたい。
 最後にアイスクリーム屋さんでおそろいのキャラメル味を買って、今は公園のベンチに並んで座っている。
「今日は、沢山遊んだね」
「陽芽ちゃん、何着せても可愛いから、楽しい」
「ありがとう。雫ちゃんだって、もっといろいろ、洋服試せばよかったのに」
 甘ったるいアイスクリームが、二人の影を長く、長く夕暮れへと引き延ばしていく。
「わたしね、たまたま席が隣なだけで、陽芽ちゃんとは住む世界が違うんだって思ってた」
 鳩が豆鉄砲を喰らったような、陽芽ちゃんはそんな表情をしていても、可愛い。夕日に髪が透けて、そのまま溶けてしまいそうだ。
「でも、邪魔になっちゃうかもって思ったけど。似顔絵を描いてさ、話しかけて、よかった。友達になりたいって踏み出すことを選んで、よかった」
「そっか。選んだ、か」
 日が沈むと、急に夜空の紫が冷たく感じるみたいに。ふっと、陽芽ちゃんの笑顔から陽だまりが消え去った。
「ねえ、雫ちゃん。今度さ、マンガ、描いてみない?」
「絶対に嫌だ」
 自分でも驚くくらいの大声で、叫んでしまった。は、と口を押さえても、もう遅い。吐き出した言葉は取り返せない。隣に座る陽芽ちゃんは、砕かれた宝石のように引きつった顔をしている。
「ごめ、ごめん。でも、マンガだけは、どうしても」
 言いながら、涙が溢れてきて、堪らずわたしは走り出した。一歩地面を踏む度に、世界が壊れていくみたいだ。夜に追いつかれたわたしは影も持たず、次第に走る気力も失って、ただただ、彷徨って。
 気がつけば町の外れまで来ていた。電灯もまばらで、少し不気味な外れ道。この夜から抜け出せないような錯覚がして、歩く事すら、段々と億劫になる。
「雫、どうしてマンガを断ったりん?」
「前に一度、捨てたんだ。描けなくって」
「そ、そうだったりん。聞いてごめん」
「ううん、大丈夫」
 若草色の羽根で、頬にすり寄ってくる。しおりんなりに、わたしを励ましてくれているのだろう。
その時、りいんと、冷たい気配に身がすくんだ。
「物語の種、りん」
 蒼暗いクローバーに全身を覆われた黒衣の少女、ラメットだ。ラメットは意地悪く仮面から覗く唇をつり上げると、物語の種を高々と掲げた。
 禍々しい水銀色のペンを、物語の種に深く突き刺す。
「こうして待っていれば、現れると思っていた。さあ、願いなさい、カナシーン」
 夜の町に召喚された怪物の花は半透明で、大人の男性くらいの草丈だ。もとの植物が、よほど小柄なのだろう。何よりも、足下に僅かばかりある葉を除いてほとんどが白い。浮き立つように透ける白さだ。植物と言うより、幽霊みたいな。消えかけた蝋燭の火の形をした白い花姿がゆうらりと夜に揺れる。あの幽霊花も、誰かの物語なら。わたしが守らないといけない。こんな、わたしでも。
「花開け、わたしだけの物語。エルフィン・ネージュ」
 変身しても、心の重りまでは軽くならなかった。風に、鳥に。わたしの攻撃は、カナシーンにゆらりと避けられてしまう。花とは思えない生気のなさが、月明かりに薄ら、照らされる。
揺れど揺れども、反撃が来ない。苛立つラメットが、カナシーンへ向けて怒声を投げる。
「ジェネット様のため、闘いなさい」
「ねえ、ラメット。どうして物語の種を集めているの? どうして、誰かの愛した物語を消すの?」
「わたしの空っぽを、ジェネット様に満たしていただくためだ。お前も自らの物語を変えてもらいたいのなら。闘いなさい、カナシーン」
 しかしながら、とうのカナシーンはぽつねんと佇むばかり。半透明の身体を月光に透かし、どうにも、これまでのカナシーンとは様子が違う。飄々とした佇まいにはどこか、諦めすら感じた。
 痺れを切らしたのか、ラメットはもう一度ペンを物語の種に突き刺した。カナシーンの幽霊に似た花姿がぐにゃりと霞む。わたしも水縹色のグローブを強く握りなおす。
けれど、カナシーンは動かない。
「やっぱり、僕は闘えないよ。だって、僕の物語は自分で成し遂げた復讐なのだから」
 ラメットが、仮面の上からでも分かるほどに表情を歪めた。強く握りすぎて、あの禍々しいペンも折れてしまいそうだ。
「ねえ、伝説の戦士さん」
 カナシーンがわたしに話しかけてくる。おじぎのように花を垂れて、小さな葉を器用に折り曲げて。
「僕が宿る植物はユウシュンラン。もうじき、光合成を手放す陰気な花だ」
「蘭って、胡蝶蘭とかの、蘭? もっと華やかなイメージだけど」
「蘭はカビやキノコを栄養にしているから、種類によってはほとんど葉緑素を持っていないりん」
「うん。復讐だけを糧に生きてきた、僕と同じ」
 それで、植物らしさが消え失せているんだ。足下に少しばかり残る緑葉も、もうじき、夜霧に溶けて消えてしまいそう。
「陽の光のもとで生きる方法なんて、とうの昔に忘れてしまった」
「で、でもあなたにはまだ、緑の葉が残ってる」
「さぁ、僕の愚かな物語をどうか言い当てておくれ」
 復讐譚で、日の光を忘れて、それでも、希望を捨てなかったというのなら。
「あなたの物語は、『巌窟王』」
「ご名答」
 何の抵抗もなく、巌窟王は物語の種へ戻ろうとしている。復讐をやり遂げた男が、目映い光に包まれる自らを惨めだと言わんばかりに。憂いた表情で受け入れながら。
 カナシーンでの攻撃に失敗したラメットが、苦々しくそんな彼を睨み付けた。今にも殴りかからんばかりの激情で、クローバーの蔓延る細い腕がわなわなと震えている。
「物語は筋書きを選べない。植物は花の色を選べない」
「何故、自分の物語に戻るんだ、巌窟王」
「けれどね、抗う事はできるんだよ、お嬢さん。だって、自分の物語なのだから」
 ラメットの頭を撫でながら、優しい声音で巌窟王はそう言い放った。それから、物語としてフルールに吸収されていく。わたしは呆然と立ち尽くすほかなかった。
 しおりんが芽吹きの風を送ると、フルールは物語の種に戻った。憧れを思わせる紫檀に色づく。宿った植物、ユウシュンランの持つ微かな葉が、彼の希望の証だ。
「これ以上、あなたに物語を奪わせない」
「うるさい、わたしには、選ぶ物語もないというのに」
 ペンの柄がついに握り潰される。ラメットは、その鋭い先端を自身の胸に深く突き立てた。
 泣き笑いを繰り返す怪物へと転じる中、仮面を外したラメットの顔は陽芽ちゃんにそっくりであった。

 

 ペンを突き立てた胸から、一筋の茎が溢れ出す。それは血を吹き出すようで、あるいは卵の殻を脱ぎ捨てるようで。みるみるうちに人であったものが、人の形をした植物に転じてしまった。仮面の下に隠していた冷たい表情の陽芽ちゃんは、いまや真っ白なぼんぼり飾りに似た花へと姿を変えている。クローバーの花、シロツメクサだ。そうして、ヒトガタに収まりきらない白花が、怪物らしい巨体へと咲き乱れた。
 死んだ月の光みたいに、生気を感じない花首が遙か頭上からわたしを見下ろす。
「わたしは、あなた。わたしもあなた」
「陽芽ちゃん、あなたは一体、何の物語だったの?」
 風を呼び出して、かつて陽だまりだった顔へ向けて飛び立つ。返事はない。カナシーンと化してしまった陽芽ちゃんは、物語としての後悔を唱えるばかりだ。
 グローブをはめ直して、右手を掲げる。鳥よ、と無数の羽根を呼び出すも、攻撃できなかった。目の前のカナシーンは、可愛らしい陽芽ちゃんのあの声で、大事な友達のあの声で何かを訴え続けているのだから。
「わたしはあなたから産まれた。わたしを見捨てたあなた」
「あなたって、誰のこと? それともわたし?」
 返事はない。陽芽ちゃんだったカナシーンは、頭に集う無数の花びらから、わたしを狙って蜜を吹き出してくる。どうにか避けて、避けて。
「熱いっ」
 ついに当たってしまった。蜜に見えていたそれは毒薬のように皮膚を、雪色のドレスを焼く。
思わずバランスを崩して、わたしは地に堕ちてしまった。
 唇に触れると、ビリビリと塩辛い。
「シロツメクサに毒はないりん。きっと物語の毒りん」
 毒? 毒の出てくる物語。そうしてカナシーンの台詞、わたしはあなた。何よりも陽芽ちゃんの温かい笑顔と、ラメットとしての冷たい仮面。
「出でよ、フルール・ビブリオ。あなたの物語は、『ジキルとハイド』」
 無数の本棚を背に、ただ、陽芽ちゃんを取り戻したい一心で物語の名前を呼んだ。もう一人の自分に苦しんだ物語の名前を。真っ白な本が優しくカナシーンを包み込もうとして。
 食いちぎるように、その光は断ち切られてしまう。
「物語が違うりん」
「じゃあ、じゃあ何の物語だって言うの?」
「いつもみたいに、物語の声を聞くりん」
 物語の、声を。カナシーンの攻撃を避けながら、もう一度耳を傾ける。わたしはあなた。何度も繰り返された文言は途切れ途切れで、その合間に、小さく別の言葉を発している。
「ねえ、陽芽ちゃん。あなたの物語は一体、何?」
「空っぽ」
 鉄琴を一つ打ったような、りいんと寂しげな響き。ずっと、発せられてた小さな言葉は、これだ。
「春告げの風よ」
 もう一度高く飛び立ち、陽芽ちゃんの近くへと向かう。避けても、避けても蜜が飛んできて、そのたびに指が、膝が焼けた。
「あんな空っぽに、帰りたくない」
 蜜の攻撃が止んだ途端、巨大な地下茎がわたしの手中にあったフルールを弾いた。空中へ白紙の本が落下していく光景に、マンガを捨てたあの日が甦る。
「どこまでが、一つのクローバーだと思う?」
「分かったよ、陽芽ちゃん。あなたは、わたしの描いた、ううん、描こうとしたマンガ」
 シロツメクサは、真っ白なぼんぼり頭でこくりと頷いた。毒のように塩辛い蜜は、物語の涙だった。そうして、落ち行く白本・フルールへと吸収されてく。帰りたくないだろう、わたしが見捨てた物語へ。
「春告げの、風よ」
 フルールをどうにか受け止めた。物語を取り戻したはずなのに、本は真っ白、空っぽなままだ。触れても、雪のような儚さで。
 わたしは空っぽの物語を、抱きしめる事しかできなかった。薄らとでも色を付けたいと、願いながら。
「わたしが、物語を紡ぐしかないんだ」

 

 あれから三ヶ月が経った。夏も散ってしまった。陽芽ちゃんは転校した事になっている。クラスの誰もが始めは寂しがっていたけれど、もう、話題にも上がらない。まだ全ての物語の種が回収できていないと言いながらも、しおりんは一度、ブーケ・ド・ビブリオに戻っている。いつカナシーンが現れてもいいように、じょうろをわたしに残して。
 わたしは、あの時捨てたマンガにもう一度向きあっていた。陽芽ちゃんを吸収したフルールは未だ白紙のまま、種にならずわたしに綴られるのを待っているのだから。
 抱きしめて、鞄に陽芽ちゃんの本をしまい込む。変身用のじょうろも一緒に。
「おはよう、雪待さん」
「うん、おはよう」
 今日から、制服も長袖だ。まだブレザーを羽織るほどではないけれど、朝は空気が冷えていて、肌寒い。
「お願いできる?」
「え、あぁ、うん、いいよ」
 あまり聞かずに返事をしてしまった。
「やったぁ。じゃあ台本、よろしくね。すっごく楽しみ」
 それは、文化祭にクラスで劇をやるから、台本を書いて欲しいという依頼だった。台本、台本? 頷いてしまった手前、やっぱり無理とも、聞いていなかったとも言い出しにくい。
 何よりも、この喜びよう。演技とかではなく、純粋にわたしの台本を、楽しみにしてくれている。陽芽ちゃんの次に、わたしの絵を褒めてくれた子だ。文化祭の委員で、強く演劇を推していた。そうして、わたしを台本に、と。ちょっと照れくさい。
 台本、か。委員の子には、何でもいいよとしか言われていない。けれど、クラスのみんなで作るのだし、明るい話がいいかな。そうしたら、今考えていたマンガのあらすじはやめておこう。流行のドラマとか、少女漫画とか。普段はあまり見ないけれど、ちょっと見てみようかな。
 少しでも、クラスのみんなが喜んでくれるように。
 台本づくりに集中するため、陽芽ちゃんの本は自室の勉強机へ並べた。物語のテンプレートを引き出して、少しいじって、どうにか台本は書き上がった。文化祭の一ヶ月前、これなら充分に、演劇の練習だってできるはず。
「台本、うん、ありがとうね」
 一通り読み終えて、委員の子は淡泊にそう答えた。とびきり喜んでくれるだなんて、期待しすぎた、かな。いやでも、ありがとうって、言ってくれたし。
 決定的だったのは昼休憩の後、わたしが図書室から戻り教室に入ろうとした時だ。
「ちょっと、ね。残念だったなあ。せっかく雪待さんに頼んだのに」
「期待外れだったよね」
「主役の子、本当は陽芽ちゃんにしたいんだろうなあ」
「でも、こんなありきたりな話じゃ」
 そこまで聞いて、耐えきれずに逃げ出した。教室には入れなかった。お腹が痛いと嘘を言って、二階の保健室へ。保健室の先生が、親に連絡をだなんて言うから、少し寝てれば大丈夫ですと、笑った。次の授業には戻ろうか。あるいは、このまま下校しようか。教室に戻りたくない。
 期待外れとまで言われるとは思っていなかった。それに、主人公に陽芽ちゃんをアテ描きしているだなんて気付かなかった。陽芽ちゃんの本を、一度、片付けたのに。
「体育の授業で転んじゃった子がいてね、先生、そっちを見に行くから」
 そう声をかけられて、引き戸の閉まる音を合図に泣き出してしまった。せっかく、せっかく書いたのになあ。
 誰もいないのをいい事にしばらく泣いて、目の下がパサパサと腫れて。ふと外に意識をやると、何やら騒がしい。
「全校生徒は今すぐ、体育館に避難してください」
 警報に驚いて、涙が引いて。何事かと保健室のカーテンから、外をのぞき見る。真っ赤なイチゴの、怪物。カナシーンだ。
 誰かの愛した物語が、あそこで泣いている。
 目元を長袖でゴシゴシと拭った。頬の上辺りがヒリリと痛い。でも、わたしの台本と違って、きっと誰かに愛された物語なのだから。取り戻さないと。
 鞄からじょうろを取り出す。二階の高さなんて、怖くない。飛び降りながら、わたしは変身した。
「花開け、わたしだけの物語。エルフィン・ネージュ」
 生徒の大半は既に避難したみたいで、校庭はほとんどもぬけの殻だ。風を呼び、鳥の羽根を放つ。しおりんがいなくても、流石にイチゴくらいは分かる。くにゃりとした茎に、真っ赤な実。黒い粒々がこちらへ発射された。風の力でどうにか、かわす。背を流れる爆風が、雪色をしたドレスの裾野を翻す。
「ルビーを」
 カナシーンは大きな赤い実が顔のようで、そこからぼろぼろと涙をこぼし始めた。涙はみるみる黄金に転じて、ずしんと校庭に沈み込む。
「届けておくれ、サファイアを」
 カナシーンの攻撃を風で跳ね返すと、その向こうに避難したクラスメイトが見えた。みんな、不安げにわたしを見ている。今ここで、役に立たないと。
「出でよ、フルール・ビブリオ。あなたの物語は、『星の銀貨』」
 カナシーンはびくともせず、涙を振りまいている。間違えた。白紙の本が光らなくなったのを見てくるりと向きを変え、攻撃の対象を体育館へ絞ってしまう。生徒の誰かが、石を投げたらしい。
 いけない。わたしは慌てて風に飛び乗り、体育館とカナシーンの間に入り込む。イチゴの粒々が再び発射された。盾になるよう、身体を大の字へと広げる。まともに喰らうと、容赦なく痛い。加えてグローブが破れ、風も散らばってしまった。地面に転げ落ちる。どこもかしこも痛くて、惨めだ。
「マッチを売る少女に、このサファイアを」
「あなたの物語は、『マッチ売りの少女』」
 これも違う。再び、白紙の本・フルールが放つ光は跳ね返されてしまった。肩で息をする。頭が回らない。視界が歪んで、くすんで。再び、カナシーンが攻撃の構えをとった。立ち上がって、せめて、盾に。
「あなたの一番好きな物語でしょ。どうして分からないの」
 輝きが一つ、陽だまりの声。一冊の本が、わたしを守るためにカナシーンの攻撃を受けていた。焦げ付く表紙、真っさらだったのに。陽芽ちゃんと同じ陽だまり色が、フルールに薄らと浮き上がる。
 わたしの、好きを。
「ありがとう、陽芽ちゃん」
 抱きしめれば、空から太陽が降ってきた。本から陽芽ちゃんが飛び出して、その小さな太陽を両手でつかみ取る。すると日差しが華やかなフリルの袖口に、軽やかなミニスカートに。優しいふわふわの髪には煌めく白花のティアラが添えられ、手は陽光色のグローブに包まれた。脚には硝子の靴が、胸元には大輪の向日葵が咲き誇る。
「掴み取れ、わたしだけの物語。エルフィン・リーヴ」
 変身した陽芽ちゃんが、勇ましくわたしの隣に立っていた。
「舞い踊れ、蝶よ」
 戸惑うわたしを抱きかかえて、レーヴは蝶の翅を背に掲げ飛び上がった。優雅に、美しく。カナシーンの攻撃をひらひらとかわしていく。
 それから片手でわたしを抱き留めると、剣士のように右手を構える。
「舞い狂え、蜂よ」
 黄色い閃光が、カナシーンの真っ赤な実を貫く。レーヴが蜂の剣を振るったのだ。ふらつくカナシーンへ二人で近づくと、互いにうなずき合った。
「自分の好きを信じて、ネージュ」
「出でよ、フルール・ビブリオ。あなたの物語は、『幸福な王子』」
 二人で声をそろえ、大好きな物語を呼ぶ。カナシーンは光に包まれ、鉛の王子がその姿を取り戻した。優しくて慈悲深い、誰かの涙を見捨てる事のできなかった王子様に。
「イチゴの実は花が肥大化した部分で、果実は黒い粒々りん。飾りを取り払う物語を考えるりん、あれ?」
「大丈夫。何の物語か、ちゃんと分かったよ」
 今更駆けつけてきたしおりんが、様々に戸惑っている。聞けば、カナシーンの出没を察してブーケ・ド・ビブリオから飛んできたのだとか。もう終わった闘いに胸をなで下ろしながら、レーヴをまじまじと見つめる。
「物語の種がエルフィンになるだなんてりん。」
「だって、雫が自分の大好きを言い当ててくれないから。もどかしくて」
変身を解くと、陽芽はあの暖かい笑顔でわたしを小突いてくれた。それは春の頃には思いもしなかった厳しさで。でも、思っていたよりずっと暖かい優しさだった。
 『幸福な王子』が、しおりんの風を受けて濃紅の種に戻っていく。わたし、わたしの大好きな物語を、守れたんだ。
「ごめん。今度はわたしの好きを、物語にするね」
 ぎゅうと手を握り合って、わたしも変身を解いた。騒ぎが落ち着いたからか、体育館から人が流れている。いけない、わたしも早く、保健室に戻らないと。
 そう思い、走り出そうとして、陽芽に引き留められる。綿毛色の頬で、意地悪くにいと笑った。
「みんな、ただいま。戻って来ちゃった」
 教室へ戻るクラスメイトへ向けて、突然そう叫んだのだ。

 

「改めまして、転校してきました土野陽芽です。みんな、会いたかった。またよろしくね」
 拍手喝采とはこのことで、陽芽の再転校にクラス中が喜んでいる。未だ呆気にとられているわたし一人、ぽかんと腕が動かない。それも、あまりに嬉しいからだと解釈された。先ほどまでの怪物騒ぎも吹き飛んで、帰りの挨拶後もクラスメイトのほとんどが教室に残っていた。
 春の転校初日か、それ以上の人気ぶりだ。
 だから、わたしも声をかけるのに随分と苦労した。
「え? いいの? せっかく、陽芽ちゃん帰ってきたのに」
「うん。文化祭の台本、書き直させて」
 文化祭委員の子には、もっと反対されると思っていた。だって、台本が受け入れられなかったのは、肝心の陽芽という主役がいなかったから。クラスの太陽が帰ってきたのだから、舞台の中心に据えるこの台本こそ使いたいだろう、と。
「本当のこと言うとね、もっと違う台本がよかったの」
「うん。そう言ってたの、聞いちゃったんだ。でも、それこそ、陽芽が帰ってきたのに」
「違うよ。わたしね、ううん、クラスのみんな、雪待さんらしい台本を期待してたの。たくさん本を読んでいる雪待さんらしい、物語を」
「わたしらしい、か」
 わたしらしくて、よかったんだ。ふっと毒気の抜けるような、身体に血の巡るような不思議な感覚がした。握り締めていた拳を、ふと緩めた時のような。鳥の飛び立つまさにその一瞬の浮遊感。
 その浮遊感を励みに、わたしは一から台本を書き直した。嫌な予感がするからと花文町に留まっているしおりんと、下校後はフルールの姿でわたしの家に居候を始めた陽芽に励まされて。
「雫の好きを、みんな待ってるんだから」
 書き上げた台本は、わたし好みの静かな物語として芽吹いた。愛し合った鉛の心臓に命が宿る、ロボットの話。『幸福な王子』をイメージしながら、人工知能とか、人工生命とか、沢山の事を調べた。知識を吸収すればするほど筆が進む。わたしの好きが、形作られていく。頭から脳みそが飛び出して、広い世界で呼吸を始めたような、不思議な高揚感。
 台本の作り直しに対して、文化祭は刻一刻と迫っていた。あらすじの段階で演者や裏方の役割分担が決まって、第一幕が描けた先から練習が進んでいく。
 そんな中、突然、主役の少女ロボットを演じる陽芽がこう叫んだのだ。
「わたし、こっちの騎士ロボットを演じたい。カッコよく、剣を振るってみたいの」
「いいね。わたしも見てみたい」
 騎士ロボット役であった子の鶴の一声で、役は入れ替わりとなった。陽だまり色の柔らかい笑顔で喜ぶ陽芽の見せる握りこぶしが、アンバランスで、だけれどどこか、様になってる。
「陽芽ちゃん、少しキャラ変わったね」
「自分の思うがままになろうって、決めたの」
 繊細な身体で、声で、男勝りに励む陽芽はこれまで以上に輝いていた。今までが手の届かない、悪く言えば幻影みたいな輝きだとしたら、今は力強く根を張る花の凜とした美しさだ。そんな陽芽に触発されて、台本の台詞はなんども書き直した。陽芽を、主役を演じるクラスメイトの振る舞いを吸収した。吸い込んだ分、物語が強く吐き出せる気がした。
 そうして、あっという間に文化祭の当日だ。クラスの劇はもうじき開演で、クラスメイトみんなが体育館の舞台袖に集まっていた。
 陽芽は男ものの白い礼服に身を包んでいる。模造の剣を腰に携えて、機械の心臓を表す木製の大きなペンダントを胸に下げれば、騎士ロボットのできあがりだ。何を着ても可愛いと思っていたけれど、この姿は別格だ。陽芽が服を従えているようにすら見える。
 舞台の背景が体育館の両端に準備された。わたしも色塗りを手伝った、絡繰りの棲まう砂の城。会場のアナウンスが流れる。照明が落ちる。閉じられた舞台幕の裏で、誰もが同時に、すうっと暗闇を飲み込む一体感。
 さぁ、始まる。そう思ったのに。
 この貴重な暗闇を、巨大な地下茎が埋め尽くした。ブーケ・ド・ビブリオの悲劇さながらに、どこもかしこも、たった一つのクローバーに吸収されていく。舞台背景も衣装も、台本も。それだけでは飽き足らず、植物の化け物は観客も、クラスメイトも根でがんじがらめに掴み取ってしまう。
「カナシーンが現れたりん。二人とも、変身りん」
 舞台裏の台本に隠れていたしおりんがそう叫ぶのもつかの間、わたしと陽芽以外の全員が気を失っていた。
「花開け、わたしだけの物語。エルフィン・ネージュ」
「掴み取れ、わたしだけの物語。エルフィン・リーヴ」
 濃い闇に目が慣れる。狂うほど見つめた、あの三枚葉が。無数の心臓が散らかるように、クローバーの葉が体育館中に散らばっている。そのどれもが満たされる事のない貪欲さで、毛深い根を伸ばしていた。クローバーではあまり見かけない根だ、としおりんが驚く。栄養不足の土壌に根付いた植物が見せる、クラスター根という特異な形質だそうだ。
「頭が空腹で堪らない」
 蒼暗いカナシーンが、ひっそりと歌うように呟く。その声はとてもか細くて、だけれど、何もかもが吸収されたこの空間においては不気味なほどよく響いた。
「足りない、足りないの。ねえラメット、わたしの一株に帰っておいで」
「まさかあなた、ジェネット?」
 ジェネットと呼ばれたカナシーンがレーヴに手を伸ばす。逃がすまいと地下茎で周囲を囲みながらも、レーヴ自身が吸収を望む事を、期待しているかのように。
 レーヴが、胸元の太陽を翳らせる。闇の底から浮かび上がるカナシーンは、神秘的な白いドレスを纏っていた。対照的に黒い髪が根のようで、地下茎のようで、そこを発端に体育館中のクローバーが一つにまとまっている。吸血鬼が牙を剥くように地下茎の髪が脈打つと、たった一株のクローバーは体育館から溢れ出した。
「最高の物語を、あなたに与えましょう」 
 だけれど、レーヴは蜂の剣で誘惑を断ち切った。
「自分の物語は、自分で描くわ」
 続けて向日葵色のグローブを握り締め、蝶の翅で高く舞い上がる。無数のクローバーに邪魔されず、中心の一点を狙うために。
「消えなさい。頭でっかちで食いしん坊の『ファウスト』なんて」
 振りかざす剣が鋭い黄金に輝く。どんな闇でも、真一文字に切り刻むと宣言するかのように。
 気付けば、わたしは真正面からレーヴの剣を受け止めていた。二の腕に焼き尽くされるような痛みが刺さる。
 みんながわたしの物語を支えてくれたように。わたしもこの物語を守りたかった。
「ネージュ、どうして?」
「消えていい物語なんて、一つもないんだから」
 ジェネットが闇の底をくりぬいた目玉で、ぱちくりとわたしを見つめる。その顔は見れば見るほど、わたしに瓜二つであった。そして、わたしがあの冬の日、自分の物語と一緒に踏みつけたあのクローバーに。
「描いてあげられなかった。その悔しさが、たった一人で大きくなったの」
 ジェネットがわたしの声で、涙をこぼすように言葉を紡ぐ。
「まさか、思いの宿ったクローバーが、カナシーンに成れ果ててしまったりん?」
 ジェネットはこくりと頷いた。
「植物の身体はみんなで一つ。根も茎も、心も。全部を吸い込めば、何でも描けると思ったの」
 ジェネットが全てを諦めた顔で、わたしへ微笑みかける。斬りなさいとでも叫びだしそうで、けれども植物のように静かな、脆い笑顔だった。レーヴが向日葵色のグローブで剣を握りなおす。
 待ってと、わたしは手で制した。
「描けなかったわたしの物語を愛してくれて、ありがとう」
 水縹のグローブを外す。素手でジェネットの頬を包めば、新緑のひやりとした冷たさが直に伝わってきた。その冷たさがわたしの手の平で脈打って、愛おしい。
「雪解けの水よ。『ファウスト』になりきれなかった物語に、フルール・ビブリオを」
 空っぽの手中から、新たなフルール・ビブリオが産まれた。ジェネットが宿れば白紙の本は静かな氷雨色に染まる。しおりんが優しく芽吹きの風を送れば、ゆっくりと、小さな種が呼吸する。これから紡ぎ出す、めくるめく色彩に思いを馳せるように。
「しおりんはこの物語の種を一から育てるりん。ブーケ・ド・ビブリオで、二人の物語が芽吹くのを待っているりん」
 しおりんが若草色の羽根で飛び去ると、体育館の人々が目を覚ました。クローバーに吸い尽くされた何もかもが元に戻っている。わたしの書き上げた、台本も。
 さあ、今度こそ幕が上がる。花開け、掴み取れ。わたしと陽芽と、それぞれが芽吹かせる物語を。

文字数:26486

内容に関するアピール

 SF や一般向け科学書籍の役割は、日常の色彩を増やす事だと考えています。ふと目にした町並みや魚、星、昆虫、そして植物が、ただの背景ではなく鮮やかな主役として躍り出てくる体験を提供しているのです。そこで今回は、植物の形質と有名な物語を結びつける事で、植物の多様性にスポットライトを当てる事を狙いました。
 また、小学生向けに変身少女モノというジャンルを選び、主要人物二人に明確なメッセージ性を持たせました。雫には、自分の好きを大切にすることを。陽芽には、自分で道を切り開くことを。
 科学を身近に感じ、植物が飾りではなく、生き物として鮮やかに見えてくる世界を提供します。

 

 

文字数:282

課題提出者一覧