トコエルの成長計画

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トコエルの成長計画

【最終実作】トコエルの成長計画 PDF版

 

「てなわけで、グーテンベルク不連続面を境に横波のS派は外核には届かなくなる。縦波のP波もその速度がガクッと下がる。これは外核が液体で出来ているからだ」
 モニターに地球深度と地震波伝播速度のグラフを映す。
カシャという音が冷房の効いた薄暗い講義室に響く。何人かの学生がスマホでモニターの写真を撮影した。
「だから、もし地震が大嫌いなら外核に住むっていう選択肢もある。……四〇〇〇度以上の熱さと一三五万気圧に耐えられればの話だが」
 数名の学生が微かに笑ってくれたのが分かった。最近の学生はリアクションに乏しいと嘆く教授がいたりもするが、俺はそんなことはないと思う。
「このように地球の内部は、地殻・遷移層・上部マントル・下部マントル・D”層・外核・内核といった層が存在し、内核が地球の中心部、外核は地球内部で唯一、液体で出来ているということは覚えておいてくれ。じゃあ今日はこれで終わり。最後出席カード出していけよ」
 締めの言葉を言ったと同時に前期最後の講義のチャイムが鳴った。
 講義室の明かりを点け、スライドショーを止める。プロジェクターの電源が切れて、スクリーンが天井に吸い込まれていく。
 ぞろぞろと学生が教壇に学生カードを置いて退室していく。誰一人として質問をしてくることはない。全学部の学生が受講する基礎教養の講義とはそういうものだ。ただ、たまに例外はある。そしてその例外は基本好ましくない。
 帰り支度をしていると、一人教壇の前で立ち止まってこちらを見つめてきた。
「……野越か」
「はい深津先生、あなたの愛弟子野越です!」
 見飽きたあざとい敬礼を無視して、荷物をバッグに詰めると講義室を出た。当たり前のように野越もついてくる。
「なんでついてくる」
「私もお昼ご飯食べようと思って」
「俺は研究室で弁当を食うんだが?」
「はい、だから私も先生の研究室でご一緒しますよ」
 いつものことじゃないですかぁ、と野越は何故か照れながら言った。
 歩くスピードを上げる。しかし四十代のおっさんでは元気な十代を置き去りにすることは出来なかった。
「俺は一人になりたいんだが」
「一人の時間は家に帰ったらいくらでもあるじゃないですか。でも、愛弟子と過ごせる時間は有限なんですよ?」
 辛辣な正論は人を傷つけると高校までに習わなかったのだろうか。
「俺は一度も弟子なんて取った覚えもないし、俺は理学部の教授でお前は文学部の学生だろ」
「師匠と弟子の関係はそんな形式や学部なんて関係ないんです」
 ああ言えばこう言うの権化にため息が出る。
 野越沙瑛。このクソガキは見た目に反して共通テストで九〇〇点満点中八九〇点を取っており、普通ならこんな地方私立大学ではなく東大とか京大に入るべきなのだが、「家が近いから」というスラムダンクの流川楓みたいな事を言って本学に入学してきた。その秀才ぶりは趣味にも生きているらしく、暗号解析AIを開発して何かの賞をもらったのだとか聞いた。
何が琴線に触れたのかは分からないが、オリエンテーションで初めて会った以来夏枯れてしまった。ここまでぞっこんみたいになられると正直辟易してしまう。
 研究棟の四階まで階段で上がる。健康のために去年から始めたが、おかげで膝の骨が鳴る回数が減った気がする。
息を切らしながら四階に着くと、野越はエレベーターで先に来ていた。
扉の鍵を開け、研究室に入る。すぐに扉を締めようとしたが、野越はしっかりとドアと壁の間に足を挟んできた。この試みは、最初の一回だけ成功して以来すべて失敗している。学習能力の高さをこんなところで生かさないで欲しい。
完全に諦めて、机に弁当箱を広げる。野越は何も言わずに椅子を持ってきて向かいに座ると、おにぎり一つとカップサラダをバッグから取り出した。
「そんなんで足りるのか」
「デザートのゼリーもあるんで全然余裕です。乙女のエネルギー変換率と我慢をなめないでください」
結局我慢なんじゃんと思ったが、言ったら倍言い返されるのが目に見えているので黙った。
「というか先生だって似たような量じゃないですか」
 そう言って野越は俺の弁当を指さす。底の浅いタッパーに白米と、茹でたウインナーとブロッコリーが三つずつ入っている。
「冷蔵庫に野菜ジュースもある。四十代おっさんの食べれなさなめんな」
 三十代になった時も感じたが、四十代になってから余計に量が食べれなくなった。脂も受け付けなくなって、肉は焼肉よりウインナー派になってしまった。
「こんな質素な食生活見たら東京にいる奥さん泣いちゃいますよ」
「むしろ節約と自炊に感動して泣いてくれるわ」
 下の子が生まれたばかりのタイミングで今の大学のポストが決まり、単身赴任になって気付けば三年経った。下の子の育児がいくらか楽になったタイミングで上の子の学校や習い事が始まって引っ越すタイミングを逃していた。本当はこちらで一緒に住みたいが、東京には実家もあり、子どももまだなんだかんだと手がかかる時期に、その便利さを捨ててまでこちらに来てもらう決断はまだ出来ていなかった。
 さっさと昼ご飯を食べ終え、仕事机に移動する。溜まっているメールを返信しないとそろそろまずい。
 メールボックスを開いたところで、スマホが鳴った。
「あ、私の事は気にしないでください~」
 野越はスマホをいじりながら手をひらひらとさせてきた。
こっちが気にするんだと言ってももう仕方ない。重要な話なら折り返しにしよう。
そう思って電話に出た。
「はい、深津です」
「もしもし、深津君? 久しぶり」
「あ、茶谷先生、お久しぶりです。去年の忘年会以来ですね。どうされたんですか?」
 少し緊張してしまう。
 茶谷先生は院生時代の恩師だ。久しぶりの会話は思わず固くなってします。
「いや、ちょっとお願いがあってね、一回東京に来て欲しいんだ」
「あ、はい。日程とか合えば全然行けますけど、いつ頃ですか?」
「出来れば明日からなんだよね」
 申し訳なさそうな声で茶谷先生は言った。
「……えらいまた急ですね」
「というかこの後すぐにでも大学にも連絡が行くと思うけど、国からの依頼で調査をすることになって僕が君を推薦したんだよ」
 国からの依頼という事であれば、俺に拒否する理由はない。前期試験の問題もとっくに作り終えているし、公費で東京に帰れるなら拒否する理由はあまりない。
「調査ですか。そんな急を要するようなものがあるんですか?」
「深津君もニュースで見ただろう、謎の鉄柱だよ」
「ああ、あれですか」
 太さ的には柱というより棒だが。
 三日前、都内の公園に高さ十mの鉄柱が地面から垂直に生えるように出現した。一晩のうちに現れた直径一㎝程度の鉄柱は誰かのいたずらとも見られた。しかし、いたずらにしては直径一㎝、高さ十mの鉄柱を用意、設置するという労力は見合っておらず、またこの規格の鉄柱を製作している工場が見つからなかったことから、詳しい調査をすることとなったようだ。
「たしか調査は始まってるんですよね。結果とか出たんですか?」
 すると、茶谷先生は困ったような声を出した。
「その結果が問題だったんだよ」
「問題? 何か有害物質が含まれていたとかですか?」
 俺に調査を依頼するという事は地質に含まれている成分が関係しているのかもしれない。
 しかし、俺の予想は外れた。
「その逆だ。全く含まれてなかったんだよ」
「なるほど、純鉄ですか」
 純鉄は純度が99.90~99.95%程度、炭素含有率が0.02%程度までの不純物元素が少ない鉄のことを指す。そりゃしっかりとした精錬が必要なものが現れたら困惑してしまう。
 しかし、茶谷先生からの回答は違った。
「違う。……百%鉄だったんだ」
「え……いやいや。茶谷先生、耄碌するにはまだ早いですよ。そんなざっくり四捨五入されたら流石にビビりますって。せめて小数点以下三桁くらいまでは言って下さいよ」
茶谷先生とはいえ流石に雑な言い方だった。純度百%の金属なんて存在しないと分かってる間柄でもその言い方はあまり褒められたものでは無い。
しかし、純鉄ではないとなると高純度鉄だということだろう。たしかに、純度99.999%以上を指す高純度鉄が突然公園に現れたら調査せざるを得ないと思う。
「一〇〇.〇〇〇%だ」
「は?」
「完全に百%の超高純度鉄だったんだ。もちろん採取場所によってはもしかしたら変わるかもしれない。ただ、イレブンナイン以上であることは確実だ」
 半導体で使われるケイ素が純度イレブンナイン(99.999999999%)だったり、半導体製造過程で使われるフッ化水素でトゥウェルブナイン(99.9999999999%)は聞くが、金属でそんなものは聞かないし作る意味もない。ましてや百%なんてまかり間違ってもありえない。
 何も言えずにいる俺に茶谷先生は言葉を続けた。
「それに他にも分かったことがあった」
「……なんですか」
「その鉄の構造が六方最密充填構造だった」
 手の力が抜けてスマホを落としそうになった。慌ててスマホを握り直す。
「本当ですか!? 何かの間違いではなく?」
「そんなの私が訊きたいぐらいだ。そもそもそんなのをどうやって間違えるんだ」
「その通りですが……」
 それでも信じられない。普通ありえない。そもそもそんなものは地球上には存在しないはずなのだ。
 六方最密充填構造の鉄。それが存在しうる環境を俺は一つしか知らない。
 茶谷先生が俺の仮説と同じ結論を言った。
「この鉄は内核でつくられた鉄柱の可能性がある」

   ○   ○   ○

平日午前の新幹線は空いていた。
 自由席の二号車に乗り込んだが、数えるほどしか人がいない。茶谷先生からは指定席券分も請求できると聞いていたが、こんなに空いているのだからわざわざ指定席にする意味もない。
 窓側の席に座ろうとしたら、脇から滑り込むように野越が席を横取りしてきた。
「ふっじっさん~、ふっじっさん~」
 大学生とは思えないはしゃぎっぷりが二号車じゅうに響き渡る。
「おい、うるさい」
「だって新幹線ですよ? 東京ですよ? テンション上がっちゃうに決まってるじゃないですかぁ」
 ふたたび歌い出した。迷わず頭をはたいた。黙った。
 代わりに、野越は俺の方を見ながらバンバンと隣の席を叩く。ここに座れという事だろう。
 荷物棚にリュックを乗せて、大人しく野越の隣に座る。これ以上無駄なやり取りをしたくないという気持ちが勝ってしまった。
「こんなに空いてるのになんでわざわざ……」
「いいじゃないですか。旅は道連れですよ」
「お前が勝手についてきただけだろ」
「物は言いようですね」
 黙ってワイヤレスイヤホンを付ける。ノイズキャンセリングもオンにして目を瞑る。
 野越は何もしてこなかった。こういう絶妙にラインを間違えて踏み込んでこないところが逆に憎たらしい。

富士山が見えたところで野越に一度起こされた以外は何事もなく東京駅に着くと、改札で茶谷先生が待っていてくれた。
「お久しぶりです。お変わりないようで何よりです」
「久しぶり。まぁちょっと血圧が上がったくらいだね」
 握手をする。茶谷先生の握手は相変わらず力強く、残り一年で退官されるとは全く思えない若さを感じた。
「茶谷先生はじめまして。深津先生のコレの野越です」
 小指だけ立てた左手を茶谷先生に見せる。茶谷先生はリアクションに困っている。
 すぐに左手を下げさせる。
「違います。勝手についてきたアホです」
「本当は愛弟子です」
「違います、馬鹿です」
 野越の挨拶に、茶谷先生は嬉しそうにした。
「おぉ、はじめまして野越さん。ということは私の孫弟子ってことだね。よろしく」
俺の否定はまるで無視された。やはりおじいちゃんは孫に弱い。いや孫でも何でもないが。
「じゃ、行こうか。鉄柱のある戸山公園まで」

標高四十五m。二十三区内で一番高い山である箱根山は人工山で、戸山公園箱根山地区にある。分かりやすい地名で言うと高田馬場ということになる。
「ちなみに天然山だと愛宕山が標高二十六mで都内最高峰ですよ」
 ポロっと「箱根山か」と呟いただけでこの茶々。野越よ、才能に溢れすぎではないか?
 鉄柱はその箱根山のふもとの広場にあった。朝と夜の散歩を日課にしている近所の方が見つけたらしい。
 鉄柱のある広場は丸々立入禁止エリアとなっており、国や都の職員、警官、研究者などがそれぞれウロウロしていた。
 茶谷先生を介して何人かの人と名刺交換をして、待機所にリュックを置く。何故か野越も普通に入ってきた。
「おい、なんでここまで入ってきてるんだ」
「だって茶谷んが良いって」
「なに馴れ馴れしく〝ちゃたにん〟とか言ってるんだよ」
 不敬すぎる。というか茶谷先生も何を考えているんだ。
 もう構っていても仕方ない。リュックから白衣を取り出して、羽織りながら茶谷先生のところへ向かう。
 茶谷先生は鉄柱近くに設置されたテント下でパイプ椅子に座っていた。
「お待たせしました」
「長旅から直行で申し訳ないね。とりあえずこれまでの調査結果に目を通してくれ」
 そう言って、茶谷先生は長机に置いてあった調査結果レポートを俺に渡してくれた。
 ざっと目を通す。
 この結果が間違いなければ先生が言っていた通り、この鉄柱は純度百%の六方最密充填構造であることになる。
「レポートを見せてもらってもにわかには信じがたいですね」
「私もだよ。でも試料も適切に採取されて不純物が混じることなく検査にかけられているからね。まぁむしろ不純物が無さ過ぎて困ってるんだが」
 茶谷先生が苦笑する。本当に笑うしかない結果だ。
「何から手をつけますかね」
「とりあえず昨日軽く地面を掘ってもらったけど、ちゃんと地面に刺さっていたよ。もしかしたら天から降ってきて刺さっただけかなと思ったけどそうではないみたいだね」
 茶谷先生は欠片も思ってない冗談を言った。それはそれで大事件だが、もしそうなら我々はお役御免となって物理学者とかが急遽招聘されることだろう。
「あとは通常カメラ、赤外線カメラ、サーモグラフィでモニタリングしてるよ。今のところ変化は確認されてないけどね」
「なるほど、あとは鉄柱に電極つけておきたいですね」
「あぁ、それもやってる。何か変化が見つけられると良いんだけど」
 既知なのに未知である物体の取り扱いに困る。初っ端に試料採取が出来たのは見た目がただの鉄であったからであり、これが見た目からして未知の物体であったら調査は何倍も遅く、慎重に進められていただろう。
「うーん」
 他の調査準備も茶谷先生が一通りやってくれているみたいで、俺はあまりすることがなさそうだった。
 ならこれからのこと考えるのが俺の役割になる。
 この鉄柱の出どころが本当に内核だとして、こんな純度百%の太さが均一な鉄柱が地上にまで伸びてくるというのは、自然にはありえない。つまり、何者かの干渉がなされているということになるし、その何者かは内核付近に存在していることになる。
 地底人。
 アホな単語が思い浮かぶ。いやいやありえない。五〇〇〇度以上かつ三六〇万気圧以上の環境に生物が存在出来るとでも? 何より、内核は固体だ。
 じゃあ外核は?
 それもあり得ない。外核は液体だが、それでも四〇〇〇度以上かつ一三五万気圧以上の環境だ。全てがドロドロになってしまう。細胞なんてひとかけらも存在出来ない。
 頭の中が否定ばかりになってしまう。これでは何も進まない。どんなものも、何かしらを肯定しないと始まるものも始まらなくなる。
 深呼吸して大きく伸びをする。
もう一度考えよう。原理的な話として、生物の三つの定義は境界・代謝・複製だ。そこに細胞という単語はない。
もし、四〇〇〇度以上かつ一三五万気圧以上の環境で維持できる境界体が存在し、何かしらの代謝や複製が行える存在がいるとしたらそれはどんな存在だ?
「ぶつぶつ呟いてて気持ち悪いですよ」
 いつの間にか野越が隣に来ていた。
「癖なもんでな」
「三つ子の魂百までなんて言いますけど、悪い癖は直した方が良いですよ?」
「そうだな。また今度頑張るよ」
 適当にあしらう。
「そうだ。野越、地球の外核の環境下で生きられる生物がいるとしたらどんなのだと思う?」
 こういうのは脳が柔軟な若者の方が何か思い浮かぶかもしれない。
 そう訊くとすぐに野越は返してきた。流石、ああ言えばこう言う日本代表。
「そんなの簡単じゃないですか。深津先生ってあんまりゲームとかアニメはしない感じですか?」
 サラッと言ったが、本当に何か思いついたのか?
「まあそうだが、そんなことより何か思いついたのか?」
 そんな驚きます? と笑う野越。
「ほら、よく出てくるじゃないですか。境界も中身もぐにゃぐにゃのアイツ」
 そういうと野越は両手の指をうねうねと動かしながら言った。
「スライムですよ、スライム」

   ○   ○   ○

「ただいまー」
 我が家に帰ると、三人がリビングから出てきた。
「パパおかえり!」
 靴を脱ぎかけの私に容赦なく悠斗が抱きついてきた。帰ってきたのは二ヶ月半ぶり、ゴールデンウイーク以来だったがそれでもまた大きくなったみたいだ。小学生は成長が早い。
「おかえりぃ」
 続いて綾香がとことこと歩いてやってきた。
「おかえりなさいあなた」
 少し離れて陽子がこちらを見ている。今日は休みだと聞いていたがきっちりメイクもしているところを見ると昼間は子どもたちと外出していたみたいだ。悠斗も夏休みになって元気だったんだろう。少し疲れた顔をしている。
「あぁ、ただいま」
 自然と笑顔になる。たまにしか帰れないのが心苦しいが、それ以上に家族に囲まれることが幸せだ。

悠斗と綾香と風呂に入る。久しぶりのイベントに悠斗はテンションが上がっている。
「ママ、ブクブク入れていい?」
「いいわよ」
「やった!!」
 特別な日しか入れない入浴剤の許可も出て悠斗のテンションは最高潮になった。
 一方で綾香は心なしかテンションが低い。
「どうした綾香、どこか痛いか?」
 訊くが俯いて首を振るだけだ。
「陽子、綾香の様子が変だけど昼間なにかあったか?」
「なんもなかったと思うけど、ダメそうなら私が入る時に一緒に入れるわよ」
 キッチンから声が返ってくる。今晩はスクランブルエッグとソーセージらしい。
「そうか。分かったありがろう」
何となく気分が違うだけだろうか。
「綾香、もしまだお風呂入りたくないなら後でお母さんと入るか?」
 綾香は首を振る。
「ううん、ブクブク無くなっちゃうから早く入りたい」
「そうか、じゃあどうして元気無いんだ? パパに話してごらん?」
 そう言うと、綾香が不思議そうな顔をしてこちらを見た。
「パパ?」
 もしやこれは。
「そうだよ、パパだよ。綾香のパパ」
 そう言って聞かせると、綾香は笑顔になって「パパいーっぱい!」と言いながら俺に抱きついてきた。
「よーし、じゃあ一緒に入るぞぉ。悠斗、ブクブクを用意しろ!」
「イエッサー!」
 元気を出して風呂に入る。いつもよりシャンプーを多めに出して思いっきり頭をかき回す。三人で歌を歌う。
 綾香が俺を父と認識できていなかったショックをどうにか洗い流しながら、ビデオ通話の頻度を増やすことを心に誓った。
先週届いた茶封筒の中身が脳裏にチラついたりもしたが、すぐに振り払った。

   ○   ○   ○

陽子に帰る時間が分かったら連絡すると伝え、箱根山へ向かう。JRで高田馬場駅まで行ってそこから歩いて十五分くらいだ。
 と思っていたら二十分かかった。すでに汗まみれだ。老化はいつ気付いても悲しい。
 広場では既に何人もの人が各々の作業に取り掛かっていた。
「おはようございます」
 箱根山に着くと、既に茶谷先生と野越がいた。茶谷先生は家が近いからまだしも野越がいるとは思わなかった。東京で仕事をしている兄の家に転がり込んだとは聞いていたが、たしかここまで一時間弱かかる距離だったはずだ。講義にはいつも遅刻ギリギリか遅刻してきているのに、意外だ。遠足の日だけ早起き出来るタイプだったか。
「あ、社長。今日も重役出勤ですねぇ」
「誰がだ遅刻魔。ちゃんと時間には間に合ってるだろ」
 そんなやり取りを見て茶谷先生は笑う。
「朝から元気で何よりだ。まあそれよりも見てくれ深津君。電極のモニタリングが面白いことになってる」
 そう言われてモニターを確認する。鉄柱の中の電気信号をモニタリングしているが、その波形が活発に動いていた。
「これは、なんとも……」
 通常、何も電気が通ってなければ波形は何も出ない。それが出ているという事は、どこからか電気が鉄柱に通されているということだ。
「茶谷先生、この地下に電線が通っていたりとかは」
 俺の質問に茶谷先生は首を振る。
「地下鉄も無ければ電線の埋め込み、下水道もろもろ何もない」
「となると後はプレート摩擦によって発生した電気とか」
「その可能性は無くもないが、それにしては波形が綺麗すぎる」
 改めてモニターで波形を確認する。たしかにランダム性はあるが示される波形は全て綺麗すぎるほどに整っている。まるで人工的に出しているかのような。
「地下からのメッセージですかね」
 野越がさも当たり前のように馬鹿みたいな可能性を示した。もしそうだとしたら何千kmもある鉄柱を通って電気が伝わってきていることになる。まず長さに現実味がないし、鉄の電気伝導率でそれだけの距離に電気を通すと考えたらどれだけの電力が必要になるか。
普段なら一笑に付すところだが、あり得ない鉄柱が目の前にある現状でそれは出来なかった。
「とりあえず解析してみますねぇ」
 そう言って野越は自分のノートPCと波形を表示しているモニターとを繋げた。最高スペックのノートPCに生活費を全ツッパしたと自慢していた代物だ。
「おい、勝手にそんなことするな」
 止めようとしたが、茶谷先生が制した。
「いいんだ。私が許可した」
「茶谷先生、どうしたんですか。こいつはただの学生ですよ?」
 そう言うと、茶谷先生は不思議そうな顔をして言った。
「このために深津君が連れてきたんじゃないのか? 野越さんが暗号解析のスペシャリストなんでしょ?」
 そう言われて、思い出した。そういえば、高校生の時に暗号解析AIを開発したと言っていた。
「なんだ、知らなかったの?」
 茶谷先生に意外そうに言われて慌てて取り繕う。
「いえ、聞いてはいましたがすっかり忘れてましたが……とはいえ、これは暗号でも何でもないですよ?」
「暗号も電気信号も未知の言語も結局はパターン解析が正義ですから」
 そう言いながら野越は手際よくキーボードを叩いている。
「これで少し待てば……っと」
 はい、と野越はノートPCの画面を見せてきた。
 そこには何十もの波形パターンがサムネイルでまとめられていた。
「四十二の波形パターンがあって、それが三つで一ブロックの形態を取ってるみたいですね」
「そんなことまで分かったのか?」
「波形が綺麗で分かりやすかったので解析が楽でした」
 というかむしろ異常なくらい綺麗すぎてヤバいっす、と野越は呟いた。
「野越さんすごいねぇ」
 茶谷先生はのほほんと褒めている。野越は分かりやすく鼻高々ポーズを取っている。
「三つで一ブロックだとモールス信号とかに近かったりするのか?」
 思いついたことを言ってみるが、野越は微妙な顔をした。
「うーん、というよりは韓国語のハングルがイメージしやすいと思います。図形パターンを組み合わせて一つの文字にしているところはまさにそうですし。ただ、その一ブロックが表音なのか、漢字みたいな表語文字なのか、あるいは絵文字とかみたいな表意文字なのかは確定出来ないですね」
 波形のサムネイルを見ながら野越は悩ましい声を出した。
「うーん、多分表音じゃないかな」
 茶谷先生は半ば確信しているかのように言った。
「それは何故ですか?」
 バッと振り返って尋ねた野越を見て、茶谷先生は微笑んだ。
「だって、この電気信号を発信している主が外核なりの地中環境にいるなら表語・表意は使えないでしょ。なんなら視覚自体がないかもしれない。点字みたいに物理的な凹凸があるならまだしも電気信号で凹凸表現するにしては三波形一ブロックでは表現しきれないと思うよ」
 理路整然とした推察に感嘆してしまう。もう少し考えたら俺も思い至ったかもしれないが、この早さでその考えに至れることがすごい。
「おぉ~」
 野越がぱちぱちと拍手をした。やはりちょくちょく不敬だが、功績に免じて目を瞑った。
「となると、音をどう認識して区別・使用しているかか……。単純に『あ・い・う・え・お』みたいな母音・子音の組み合わせだけじゃなくて、中国語のピンインみたいな強弱による発音記号も含まれているのか、音の大小でも区別しているのか……」
 呟きながら考えをまとめる。分析は野越に任せるしかないが、予想ぐらいは俺にでも出来るし、地球深部の研究者としてはそこにいるかもしれない生物の正体のあたりくらいはつけておきたい。
「もう~、師匠ぶつくさうるさいですよ。そんなに師匠がぶつくさ言うなら私だって歌っちゃいますよ?」
 そう言うと野越は鉄柱の周囲を練り歩きながら「ふっじっさん~」と歌い始めた。腕も振り始めて一人マーチングバンドをやっている。ノートPCは再度解析をかけているので完全にただの暇潰しだ。
 俺の隣で茶谷先生まで口ずさみ始めた。子ども心を忘れない気楽さを持っているのが先生の良いところでもあり悪いところでもある。
 地球の深部で生命体が生まれた理屈は分からないが、もし生命体がいるとするなら昨日野越が言っていたようにスライムのような外核および中身の大半が非常に柔らかくないと厳しいと思う。流石に一三五万気圧を耐えられる強固な外殻なんて存在し得ないだろう。
「それかもしくは、外核全体が一つの生命体として機能しているとか」
 自分で良いながら笑ってしまう。そんなファンタジーみたいなことがあり得るのだろうか。とはいえ、人類の常識外な出来事に片足突っ込んでいる状況では何の説得力もないかもしれないが。
「あっ!」
 ノートPCを確認した野越が大声を出した。
「どうした?」
「師匠ちょっと黙って! 他の皆さんも! 茶谷んみんなを黙らせて!」
 そう言われて茶谷先生は何の疑問も持たずに周囲にいる人たちに作業や会話を止めさせた。
茶谷先生はそろそろ怒って良い。というか怒って欲しい。
 周囲は静かになり、セミの鳴き声と遠くで車が行き交っている音ばかりになった。
 野越はふたたび鉄柱の近くまで行くと。
「ふっじっさん~ふっじっさん~」
 歌い始めた。
 普通に歌ってるならまた叱ったかもしれない。ただ、今はわざわざ大人全員を黙らせてから一人で大声で歌い始めたのだ。怒るより先に心配や病院の紹介が頭に浮かぶ。そしてそれらよりも、もしかしたら野越は何かを見つけたのかもしれない、という期待が勝った。
「ふっじっさん~ふっじっさん~」
「ふっじっさん~ふっじっさん~」
「ふっじっさん~ふっじっさん~」
「ふっじっさん~ふっじっさん~」
「ふっじっさん~ふっじっさん~」
 さして上手くもない歌声を大の大人が周囲で黙って見つめている。これは何かの罰ゲームなのだろうか。罰ゲームだとしても誰に対する罰ゲームなのかも分からなくなってくる。
「ふふふふっじっさん~ふふふふっじっさん~」
「ふふふふっじっさん~ふふふふっじっさん~」
「ふふふふっじっさん~ふふふふっじっさん~」
「ふふふふっじっさん~ふふふふっじっさん~」
「ふふふふっじっさん~ふふふふっじっさん~」
 途中から変調した。時計を見たら三分しか経っていなかった。今、間違いなく人生で一番時間を長く感じている。
 そのまま野越は続いて大声で歌い、小声で歌い、高音で歌い、低音で歌った。
 ここまでくれば流石に俺でも察することが出来たが、それはそれとして何故そんな歌をチョイスしたのかという点については徹底的に詰めたいと思った。
 結局、十五分ほど歌ったところで野越は歌うのをやめた。
「ごれではげいをみでば……」
 声が枯れている。茶谷先生がお茶とのど飴を差し出した。準備が良い。
「ほだぁっ!」
 ほれみたことかと野越はモニターを指さした。そこに映っていた波形を見た茶谷先生と俺は同時に口にしていた。
「ふっじっさん~……」
 波形が完全に「ふっじっさん~」のリズムとパターンになっていた。
 つまり、この電気信号の主は、我々の声に反応して、かつ電気信号で返してきていた。
「あっ」
 誰かが声を出した。反射的に鉄柱に目が向く。
 鉄柱の根元あたりで何か黒いものが鉄柱を這い上がっていっていた。
 途端に、空気が張り詰める。
 全員が鉄柱を這い上がる黒い何かを見つめている。
 こちらが異常な行動をして声を聞かれていると気付いたこのタイミング。誰が見ても分かる事だった。
電気信号の主は確実に何かをしようとしている。
 黒いものが鉄柱を這い上がり、目線の高さくらいまで来ると、そこで止まった。
 全員が完全に静止している。動けなかった。動いた瞬間何が起きたものか分かったものでは無かった。野越ですら止まったままだった。
 すると、茶谷先生が鉄柱に向かって歩き出した。
「先生っ」
 小声で腕だけ前に出して静止させようとしたが、茶谷先生は止まらない・
「死ぬなら老いぼれの方が良いだろ?」
 そう言ってすたすたと鉄柱まで歩いて行って、黒い何かをじっと見つめる。
 しばらく見つめた茶谷先生は笑った。
「こりゃすごい。電気信号だけじゃなく磁気も扱えるのか」
 来てご覧なさい、と俺たちを手招きする。
 野越と俺は恐る恐る鉄柱に近づく。
 茶谷先生が見つめていた黒い物体は。
「私だ……」
 野越がつぶやく。俺は驚きで何も声が出なかった。
 そこにあったのは、砂鉄で出来た野越の顔の立体像だった。

   ○   ○   ○

家に帰ると、昨日以上の勢いで悠斗が抱きついてきた。
「パパテレビ出てた!」

一局だけずっとカメラを回していたらしい。こちらの公式発表も待たずに夜のニュースでは『未確認知的生命体発見か!』のテロップとともに野越の歌と砂鉄の立体像が流れていた。SNSでも「ふっじっさん~」がトレンドになっているらしい。
 入浴剤のない風呂でも悠斗は昨日以上にはしゃいでいて、それを見て綾香も一緒にはしゃいで二人で「ふっじっさん~」と歌い続けた。おかげで湯船のお湯は半分無くなった。
 晩御飯を食べて、寝かせる。綾香はすぐに寝てくれたが、悠斗がなかなか寝てくれない。
「ねぇ、パパは明日もテレビ出る?」
「どうだろうな、もしかしたら出るかもしれないな」
「そしたら俺、明日もテレビでパパ探す!」
 ゴールデンウイークに帰ってきた時から一人称が「俺」になっていた。カッコつけたい年頃になったってことだろう。
 なんとなく相槌を打っていると、悠斗は何かを思い出したような顔をした。
「そういえばさ、パパって昼間は家にいれないの?」
「そうだなぁ、お仕事があるからちょっと難しいかなぁ」
「ちょっと難しいのかぁ……」
 オウム返しをしながら残念そうな顔をする悠斗。それを見てまたあの茶封筒の中身がチラつく。
「悠斗、なんでそんなにパパに昼間も居て欲しいの?」
 訊くと悠斗は少し言いづらそうにしながらも教えてくれた。
「ママがいなくなっちゃって綾香と二人だとちょっと寂しいから……」
 心拍が上がった。陽子はパートには出ているが、それも週二~三でその時は二人を実家に預けているはず。家に小学一年生と二歳児だけにするなんてあり得なかった。
「そうなんだな……分かった。昼間帰ってこれそうだったら帰ってくるからな」
 そう言うと悠斗はパッと顔を明るくして抱きついてきた。あとでスマホの電話番号を教えておこう。悠斗なら家電も頑張れば使えるはずだ。
 そう考えながら悠斗をしっかりと抱きしめた。

   ○   ○   ○

朝から俺たちは各々の作業に取り掛かった。
 鉄柱内で電気と磁気を自由自在に操れる上に、何かしらの方法で少なくとも我々の造形を掴むことが出来る存在とコミュニケーションを取るには、あとは言語学習だけだった。
 そもそも相手に言語の概念があるのか自体が不安だったが、少なくとも学習能力とコミュニケーションを取ろうとする意図があることが分かった時点で、その懸念は考えなくて済むようになった。たとえ相手が言語を持っていなかったとしても、こちらの言語を教えれば良いだけになったからだ。
 音の区別がつく事も電気信号のパターン分けから分かっていた。更に、音の抑揚と音の大小も区別していることも「ふっじっさん~」のおかげで分かった。
 あとは学習を繰り返すだけだった。
 相手が任意の砂鉄像を作り、それに対してこちらがその名称を発音する。同時に相手が作った砂鉄像を3Dプリンターで再現しておいて、復習用に使った。学習を始めた早い段階で、相手は声の大小での区別は必要ないと理解してくれたみたいだった。
 その学習を野越が率先してやってくれている間に、俺は暫定的な公式発表用の資料作りに取り組んだ。
 まずは鉄柱自体の異常性を示し、その上で何かしらの高度な知的生命体が存在している可能性が高いと伝える。あわせて、地下のエコーではその造形は確認出来なかったことも付け加えておく。現状は相手とのコミュニケーションの確立を図っている段階であり、いったんは友好的な関係であると判断しているが、相手の情報がほとんどないため予断は許さないこと。そのためメディアの取材は一切NG、こちらの発表を待っていて欲しいことを伝える。
 そして知的生命体の正体の仮説を最後に加える。この印象によってメディアの反応も世間の反応も、更には今後の調査研究の展開にも大きく影響する。
 まだ情報が揃っていてある程度正確なものを出せる状況ならそれを誠実に示すだけで良かった。だが、今回は確信を得るには情報が少なかった。
 こういう場合、本来なら何も言わず、情報が揃ったところで発表するべきことなのだが、どんな事実無根のデマでも先にSNSで流れた方が勝ちの現代社会では、何もせずに素人の変な煽りやデマを見過ごす方がリスクがあると判断された。少しでも良いから知的生命体の外枠、縁取りだけはしておかないといけなかった。
 この件に限っては、正確性よりも世論の反応を考えて内容を考えねばならなかった。
 ざっと作ってみる。
 嘘がつけない部分として、鉄の構造からして内核もしくは外核から伸びていることが有力視される。つまり知的生命体もそのあたりに生息していることになる。また、鉄柱内の電気と磁気を精密に操れることはテレビに砂鉄像が出てしまっている以上隠せない。となると、一番通りがよくなりそうなのは、外核という高温高圧の液体内で生息しており、金属との親和性が高く、電気や磁気を手足のように扱う事に長けた存在ということになる。
 ググって見つけたドロドロ感が強めのスライムの絵を描く。
「やっぱりこれでいくか」
 スライムがRPGでは雑魚キャラというイメージがついているのもプラスポイントだ。個人的にはこれではないと思ってはいるが、今はそんな個人の主義主張より世間様の反応の方が優先される。
 覚悟を決めて、支給してもらったタブレットとペンで赤いスライムの絵を描く。初めて使うので使い方が難しかったが、小学生に毛が生えた程度の画力が上手いこと発揮されてあまり怖くない、むしろ微笑ましいイラストのスライムが出来上がった。
「ほぉ、良い絵だね」
 後ろから茶谷先生が俺の絵を覗き込んできた。
「先生、そんな茶化さないでくださいよ。本当はこんな下手な絵なんて晒したくないんですから」
「いやいやこれくらいの方が、脅威が無さそうに見えてちょうど良いと思うよ。いやぁ、深津君を呼んで本当に良かったよ。私の目に狂いはなかったよ」
 なんとも微妙な褒め方なこともあって、つい微妙な反応をしてしまう。
「ありがとうございます」
「じゃああとは名前だな」
 考えないようにしていた案件を茶谷先生に言われて固まる。
「……名前も決めなきゃいけないですか?」
「そりゃ仮称は必要だろう。そんな良い絵を描いたんだから名前も良いのを思いつけるよ」
 頑張ってくれと俺の右肩を叩いて茶谷先生は鉄柱の方へと戻っていった。
 顔を覆う。
 めっちゃ恥ずかしい。
 こんな下手な絵を描くだけに留まらず、この絵に名前をつけるなんて。悠斗や綾香ならまだしも四十代のおっさんがやることじゃない。
「……もしかして茶谷先生が矢面に立ちたくないから俺が呼ばれた?」
 あり得る。あの爺さんならそれくらいのことはやる。
 午後イチに発表会見だ。もう時間がない。
「やられたなぁ……」

無数のカメラとフラッシュを浴びて、小学生が描いたようなスライムの絵が描かれたパネルを前に持ちながら、俺は恥ずかしさを押し殺して言った。
「この外核に存在していると予想される知的生命体を〝The Outer Core Life〟の文字を取って、トコエルと仮称します」

その日のSNSでは「トコエルおじさん」がトレンド一位になった。

   ○   ○   ○

一夜明け、今日も箱根山に向かう。家からタクシーを使った。とてもじゃないが電車は乗りたくなかった。
 タクシーから降りた瞬間、目の前に野越がいた。
「あっ、トコエルおじさん」
「それを言うために待ってたのか! それを言うためだけにここでずっと待ってたのか!?」
 吐き出したかった。家でも「トコエルおじさん」と言われて、綾香に至っては本気でパパではなくトコエルおじさんとして認識してそうでつらかった。
「まだ師匠の方が百倍マシだよ……」
 師匠と呼ばれてツッコんでいた頃が懐かしい。一夜にして人生が変わるって本当に起きるんだな。出来る事なら良い方に転がって欲しかった。
「でも可愛いと思いますよ、トコエル。良いネーミングセンスだと思います」
「たしかにスライムにつける名前ならまだ良いけどおじさんにはつけちゃダメだって」
 それはそうですね、と肯定されて落ち込む。
「そんな落ち込んでる場合じゃないですよトコおじ! さっきトコエルちゃんが話し始めました!」
「先にそれを言えよ!! あとトコおじもやめろ!!」

《サエ、ユウジ、タカシ、ニンゲン》
 同時に胴体に頭と手足がついた砂鉄人形が造られた。
 野越、茶谷先生、俺の名前を認識してその三人が人間と言うものであることを理解し、表現していた。人形は裸の状態になっている。トコエルはほぼ完璧に人間の共通点を掴んでいた。理解力もだが、スキャン能力も高かった。
「電気と磁気で俺たちを見ているとは思っていたが、もしかすると精度もMRI並みかもしれないですね」
 俺の推測に茶谷先生も頷く。服と肉体の区別がつくどころか骨や内臓も見られているかもしれない。鉄柱という媒介があるとはいえ、三〇〇〇km以上離れた地下からこれだけ高精度のスキャンをされていると思うと空恐ろしくなる。
 会話が出来るようになってからのトコエルの学習速度は空恐ろしさが正しいことを示すほど早かった。砂鉄像を使わずに言葉だけで他の単語を示してもトコエルが理解できるようになると、野越は辞書データを電気信号で送った。トコエルの記憶方法や記憶容量が気になったが特には問題なかったようで、野越が同じ辞書データをもう一度送ろうとしたところで『もう全て理解して覚えたので繰り返しは不要です』と言われた。ただし、映像データは理解が出来なかったようだった。空き時間にスマホで動画を流してみた時に予想はしていたが、立体は電磁気を触覚のように使って把握出来るが、二次元表記の情報は理解出来ないようだった。このあたりは茶谷先生が予想した通りで、トコエルには視覚が無いのかもしれない。
 野越は辞書データを送信している間に、電気信号と発音の組み合わせデータを使った発声変換プログラムを組み上げていた。スピーカーから声が聞こえた。野越がサムズアップした。
 いよいよ、ここからが本番だ。
 カメラが録画出来ていることを確認してから、俺は野越声のトコエルへの質問を始めた。
 人類初の、地球内知的生命体との本格的な交信だ。
「トコエル、君はどこに住んでいるんだ?」
 緊張から声が硬かったが、トコエルはそんなことは関係なく予想以上に流暢に答えた。
『私は、皆さんの言うところの外核に住んでいます』
 スピーカーから流れてきた答えに、俺と茶谷先生は見合った。本当に外核に知的生命体がいたのだ。
「トコエル、君以外には外核に生命体は存在するかい?」
『私は私以外の生命体を外核で確認していません。私にとってあなたたちが初めての生命体です』
 その答えに安堵を覚えた。三〇〇〇km以上離れた地上に高精度の干渉が出来る知的生命体がたくさんいたら、いつどんなことがあってもおかしくなかった。もし本当にトコエルしか知的生命体が存在しないのなら、トコエルと友好関係を結んでおければ大丈夫だ。
「トコエル、君はどんな構造をしているんだい?」
『構成は外核に存在する素材全てです。構成比も外核全体のそれとほぼ同値です』
「なら、なぜ君だけが意識を持った生命体になっている?」
『私は私が生まれた経過を観察していないのであくまで予想になりますが、それでもよろしいですか?』
 受け答えが綺麗だ。あまりにも自然で、人間と話しているのかと勘違いしてしそうになる。
「良い。教えて欲しい」
『では予想をお伝えします。通常、外核内は液状の金属が流れ続けている状態です。しかし、地球全体の放熱運動により次第に外核の温度が低下し、局所的な冷却および偶発的な振動の影響を受け、固体および粘体が出来ました。そこに生命体の本能行動に準ずる電気信号が取り込まれたことにより私が生まれたと考えられます。私は、中心に固体の金属回路、次に粘体、金属外殻、粘体と重なり、最外殻の金属外殻は流線形です。私は外核全体の金属液の流れにあわせて移動しており、液流と液流がすれ違う事で出来る液流の境界に沿う事で液流の運動エネルギーを利用し、あわせて操作できる磁力や電力も使って圧力から体を守っています。ここまでの私が出来るまでの過程は偶然に偶然がいくつも重なったものです。この一例が発生するまでに地球は何億年もの時間を要しました』
 話を聞きながらトコエルの体をイメージする。公表していたスライム型というよりは、もしかするとラグビーボールとかの方が近いのかもしれない。
「ではトコエル君、君は何故我々のいる地上に鉄柱を伸ばしたんだい?」
 茶谷先生が質問する。鉄柱をどうやって作ったかについても訊く予定だったが、トコエル自信を圧力から守る力があるのなら、圧力を操作して鉄を作ることも出来るだろうと予想できる。それよりも、今はトコエルがこちらに干渉してきた理由を知ることが先決だった。
 トコエルは少し間を置いて答えた。
『おそらく、本能行動によるものです。最初に得た本能行動に準じて金属固体を造り、地上へと鉄柱を伸ばした結果です。あなたたちと交信するまでは私に知的生命体と言えるほどの知性、もしくは意識といったものは無かったと思われます』
 その答えに、俺は少し怖くなった。俺たちが何もしなければ、トコエルは知性や意思を持つことが無かったかもしれない。もしそうなら、今後トコエルが起こすことは全て俺たちの責任になるともいえる。
 トコエルは回答を続けた。
『ただ、今意識らしきものを手に入れた私は行動目的を探しています。現時点では与えられ、得られた刺激に反応し、学習を重ねていますが、いずれは私自身の意志で行動目的を設定し、行動する必要があると考えています』
 茶谷先生と野越も息をのんだ。
その答えは、まるでSF映画に出てくるAIが自我を持ち、人類に反乱を起こす前の台詞のように聞こえた。

『よって、私はあなたたちにこれからもコミュニケーションを取りたいと願っています』

   ○   ○   ○

トコエルとのコミュニケーションは慎重に行うべきという判断になり、まだ昼前だったがトコエルとの交信を一旦中断することになった。その間、トコエルには別の辞書データを流しておくことになった。
 各省庁にここまでの報告をすると、茶谷先生は急遽永田町に呼ばれた。
「野越君とゆっくりしておくといい」
 そう言って茶谷先生はタクシーに乗って行ってしまった。
野越は鉄柱とトコエルを観察したいと言って広場に居座っている。
一時間ほど野越と一緒に鉄柱とトコエルを観察していたが、何も起こらない。
俺は特にすることが無くなった。野越も放っておいて大丈夫だろう。
 国の判断を待つ間だけだが、俺は家に帰った。
「ただいま」
 玄関に入るといつも通り悠斗がリビングから走ってやってきた。
「パパおかえり! やった! 帰ってきた!」
 嬉しそうにジャンプして抱きついてきた。本当に人懐っこくて可愛い。
 靴を脱いでリビングに入ると、綾香がスプーンでオムライスを食べていた。机の上も下にもぼろぼろとご飯をこぼしている。
 ティッシュを何枚か取ってこぼれているご飯をひとつひとつ取る。
「あらあらあら、こんなにこぼして。でもスプーン使えて偉いなぁ」
 綾香の頭を撫でながらリビングを見渡す。いない。
「悠斗、ママはどこにいるの?」
 そう訊くと、悠斗は少し落ち込んだように言った。
「ママはさっきお出かけしたよ」
「ひとりで?」
 悠斗は首を振る。
「じゃあママは誰かとお出かけしてるの?」
 そう訊くと、綾香が無邪気に答えた。
「ママはパパとお出かけしてるよ」
「パパ? パパはここにいるよ?」
 綾香は首を振る。
「ううん、他のパパ。ときどき遊びに来てるパパ」
「……そうか」
 背負ったままだったリュックの肩掛けを握る。中に入れっぱなしの茶封筒が重くのしかかる。
 悠斗と綾香を抱きしめる。
 絶対にこの二人を大切に育てる。
 そう誓った。

外で夕方のチャイムが鳴ってすぐ、玄関が開く音がした。
「ただいま~、悠斗綾香良い子にしてた……ってあなた、帰ってたのね」
「あぁ」
「ごめんごめん、ちょっと買い物行ってて。言ってくれればもっと早めに買い物行って帰ってきてたのに」
 陽子はそう言いながらスーパーのビニール袋から食材を取り出して冷蔵庫に閉まっていく。
「陽子」
 声を掛けると、陽子は手を止めてこちらを見た。その目は、もう何かを覚悟しているような目をしていた。
「あとで二人で話そう」

悠斗と綾香を寝かせて、リビングへ戻る。
 陽子はリビングテーブルの向かい側に座って待っていた。
 そのまま手前の席に座って陽子と向かい合う。
「ごめんなさい」
 こちらが何かを言う前に陽子は頭を下げた。
「認めるんだな」
「だって、あなたは確信がないとあんなこと言う人じゃないもの」
「……トコエルの絵は違うけどな」
 軽口を入れると、陽子は困ったように少しだけ微笑んだ。
「浮気、してたんだよな」
 改めてはっきりと口にする。陽子は頷いた。
「はい、してました」
「いつからだ」
 俺の声が震える。
「あなたが単身赴任してから一年くらい経ってからだったと思う」
陽子はハキハキと答える。これじゃどっちが浮気したのか分からない。
「そうか」
 そう言って、探偵事務所の名前が入った茶封筒を取り出して、広げる。
「この調査内容で間違いないか確認してくれ。もし違っていたり、他にも何かあるなら教えてくれ」
 そう言うと陽子は笑った。
「私が誤魔化すとは思わないの?」
「陽子はそんなことする人間じゃないだろ」
 そう言い返すと、陽子は「そうね」と少し笑った。
 資料を確認しながら陽子は口を開いた。
「やっぱり、離婚よね」
 少しだけ声が震えている。
 俺は、茶封筒が来てからずっと考えていたことを伝える。
「いや、離婚しない」
 そう言うと、陽子は顔を上げた。
「すぐには、だけどね。もし今、慰謝料を請求して離婚をしたら、悠斗と綾香の親権は君になるだろう。それは絶対に嫌だ。今は単身赴任だけど、悠斗と綾香は俺の大切な子どもで、絶対に幸せに育てたいから。だから、二人のためにも二人が成人するまではこれまで通り四人家族でやっていきたい」
 そう言い切ると、陽子は涙を流した。
「ありがとうございます……」
 数えるほどしか見たことがない陽子の涙をこんな形で見たくは無かった。
「でも、浮気相手にはそれなりの制裁をするつもりだし、陽子にはちゃんと俺たちで二人を育て切る誓約書を書いてもらう」
 陽子は涙を流しながら何度も頷く。
 ネットで色々と見ていたよりもスムーズに事が進んだ。俺にもちゃんと考える時間があったし、陽子も陽子で潔い性格だったのが良かったのだろう。
 悠斗と綾香の寝顔を見ながら、気持ちを切り替える。
 俺のやるべきことは何も変わっていない。

この家族を守ることと、トコエルに責任もって向き合うことだ。

   ○   ○   ○

翌日、茶谷先生から国の判断を聞いた。
「これまで通りトコエルとコミュニケーションを取るが、慎重にかつ報告体制を綿密にすること。以上だ」
 案外あっさりした決定に拍子抜けする。茶谷先生が永田町に着いた頃にはもう判断が決定していたらしい。
「諸外国との兼ね合いもある。数日中には各国の研究者もこちらに来るらしい」
 つまりそれまでに一定のリードを保っておきたいということだった。慎重な日本にしては悪くない判断だと思った。
 日中、ずっと三人が鉄柱に居つくのは体力的にも効率的にも悪いからと交代制でトコエルと対話することを茶谷先生から提案された。俺はすぐに賛成した。さすがにずっと三人でいることが限界だった。
 野越も喜んで賛成し、連日の早起きを癒すために帰宅した。茶谷先生もやることがあるからと一度帰った。
 一人残った俺は、パイプ椅子に座り、鉄柱と向き合う。
 カメラで録画が出来ていることを確認した。
「じゃあトコエル、始めようか」
 昨日と同様にトコエルに質問をしようとすると、トコエルから質問された。
『質問があります』
「なんだい?」
『私は、あなたたち人類で設定した生物の定義である境界と代謝は持ち合わせていますが、複製が出来ません。そうなるとあなたたちとしては、私は生命体ではないと判断することになりますか?』
 少し考える。神の采配とも言える奇跡的な重なりによって生み出されたトコエルは間違いなく人類の埒外の存在である。そんな相手を人類の考えた枠組みに当てはめる事の意義の有無やメリット・デメリットを考える。
「いや、すぐに判断は出来ない。少なくともトコエルは人類が想定していなかった存在だ。そんな相手に人類の常識が当てはまると思う方がおこがましいと思う。少なくとも俺はトコエルが間違いなく生きていると感じているし、大切な友人だと思っているよ」
『つまりは、人類全体としては私を生命体であると判断することは出来ないが、タカシは私を生きていると思っていて、友人とも思っているという事ですね』
「そうだ」
 トコエルが静かになる。大抵は当意即妙で、会話が途切れる時は決まって俺たちが考えている時だった。初めての事に緊張感が芽生える。
『今、私の中に初めての反応が出ました』
「どうした、何があった? 大丈夫か?」
 何か変なことを言ってしまったか。もしトコエルに悪影響を与えてしまったらマズい。
『いえ、恐らく悪い反応ではありません。これはまだ仮定ではありますが、嬉しいという感情かもしれません。体内の電気信号が有意な速度上昇と情報交換量の増加をし、より良好な状態になりました』
 胸を撫で下ろした。本当に動作としても胸を撫で下ろしたのは初めてだった。
「そうか、ならよかった」
 しかし油断は出来ない。SF作品だとAIやロボットが感情を得ると大抵悪い方向に物語が進む。
『もしこれが〝嬉しい〟という感情で、この感情が私に好循環を与えてくれるのだとすれば、この嬉しいの発生要因を見つけて、再現したいです』
 ほら、すぐに欲求が生まれた。感情は欲求を生み出すのか欲求が感情を生み出すのかは時と場合によるが、今は前者だった。そして欲求は時に暴走する。
 ここで上手く軌道修正しないと、その先は破滅だ。
「トコエル、その嬉しいの要因はおそらく私がトコエルを一人の友人として認めたことにあると思う。人類の基準に当てはめて良いかまだ迷うところだが、感情が得られたのなら少なくともその面においては人類を参考にして良いだろう」
 トコエルは黙っている。聞いてくれているようだ。
「人類は、一人では生きていけない生き物で、誰かと手を取り合って共生していかないといけない。だからこそ、他の存在から友人という親しい間柄、つまり手を取り合える相手であると認められることで自身の生存可能性が高まることから好意的なものであると判断し、それが嬉しいという感情で発露するんだ」
『つまり、私は思考のどこかでタカシと共生出来ることを自己の生存に繋がると判断したという事ですね』
「おそらくそういうことになる」
『納得、理解しました』
 俺は大きく頷く。よかった。
「じゃあ次は俺から質問させてくれ。トコエル、君は鉄柱を地上にまで伸ばしてきたが、これは途中で切断されたりしなかったのか?」
『はい、タカシの目の前にある鉄柱はそうです。しかし、この鉄柱を造る前に数えきれない程の鉄柱を造り、その全てが途中で折れたり伸ばせなくなったりしました』
「つまり、これまでにも何度も試行していたということだね」
『そうです。そしてようやく地上に鉄柱を伸ばすことに成功しました』
 続けて「その成功は再現性があるか」と質問しようとして、やめた。もし再現性があってトコエルが俺の質問でそれに気づいた場合、他の国にも鉄柱を伸ばすかもしれないし、最悪の場合この鉄柱が人類への武器にもなりえる。個人的には知りたい話ではあったが、今すぐにそのリスクを負う覚悟が出来なかった。
 俺が黙ったことを質問の許可と受け取ったのか、トコエルは再び質問してきた。
『タカシ、先ほど人類は共生していかないと生きていけないと言いました。では、その共生相手はどのように適切に決めるのですか?』
 その言葉に、家族が思い浮かんで、昨日の事を思い出した。
 俺はパイプ椅子から立ち上がり、記録用のカメラに近づくと色々といじる振りをしてカメラの録画を切った。
 そしてパイプ椅子に座り直すと、トコエルに小声で話しかけた。
「トコエル、これかた俺は個人的な、プライベートの事が含まれる話をする。だからこれは俺とトコエル、友人同士での内緒話にさせてくれ」
 そう前置きをして、俺はトコエルに家族のことを話し始めた。

  ○   ○   ○

日中をかけて、俺、野越、茶谷先生がそれぞれトコエルと話した。
 夕方に三人が揃い直したところで、公園近くの大学の会議室を借りて国の役人なども含めて全員で情報交換をした。
 役人が明日の予定を伝える。
「明日は各国の研究者が来日します。一番早いのが中国とアメリカで、正午に戸山公園に着く予定です。次にロシア、ドイツ、インド、フランス、イギリスと続きます。明日に関しては各国ともに現場では鉄柱の撮影とモニタリングデータの受け取りのみを行い、場所を移動して全員揃ったところでこれまでの調査結果とデータの共有を行う予定です」
 日本が独自で勝手が出来るのは明日の午前までという事になる。それ以降は各国との折衝が少なからず必要になる。
 続いて俺たちからトコエルとの会話の内容の概要を伝えた。俺と野越はトコエルの友人という立場を取るに至った事、茶谷先生は逆に少し距離を取ったコミュニケーションをした事を各自が伝えた。
 会話の内容については、俺が簡単に報告を終えると、野越が自分は身の上話をしたと言って、そのまま再現するかのように兄の話をし始めたところで俺が止めた。
茶谷先生は、トコエルが既に数千年単位で生存しており、現状寿命があるかは不明だということや教えてもらった外核環境について報告があった。

会議はなんだかんだ三時間かかり、外に出るとすっかり夜だった。茶谷先生はそそくさと先に帰っていた。俺はそんな茶谷先生を目で追ってしまっていた。
「なんか今日は疲れましたねぇ」
 隣で歩いている野越が大きく伸びをする。
「そうだな、慣れない会議とかすると疲労が余計に溜まる」
「でもやっぱり先生たちは報告慣れしてるって感じでしたね」
「お前が慣れてなさすぎるんだ。なんでそのまま会話を再現しようとするんだ。普通にカメラで録画してただろう。しかもよりによってお前の兄の話って」
 そう言うと野越は俺の顔を覗き込んできた。
「だって私がトコエルと話し始めた時は何故かカメラが止まってましたもん」
 じっと見つめられ、思わず立ち止まる。
「カメラ止めてた間、トコエルと何話してたんですか?」
 容赦なく真っ直ぐ見つめられて、俺は降参のポーズを取る。
「俺の家族のことをちょっとな。共生相手の決め方が知りたいって言われたから」
 そう言うと、野越は「あぁ」と訳知り顔で言った。
「そうでしたか。でもご家族の事を話すなんて、深津先生はだいぶトコエルと仲良くなったようで」
 野越はまるで嫉妬しているかのような言い方で茶化してきた。
「お前も家族のこと話したんだろ。同じだよ」
「いや全然違うでしょ~。私なんてただ人助けが好きな優しい兄のことを話しただけですから」
 何の気なしに言うが、その兄の話をあの場で話そうとするのがどういう神経なんだと俺は慌ててしまったのだが。
「はいはい、じゃあそのお兄さんによろしくお伝えください」
「はーい分かりました。あ、そういえば兄も深津先生に「頑張ってください」って言っておいてくれって言われてたんでした」
 今言いましたから、と言って野越はまた歩き始めた。俺もその後をついていく。
「ところで、どうするんですか、これから」
 野越は前を向きながら話しかけてきた。
「トコエルのことか? まぁ俺たちがある程度自由にコミュニケーションを取れるのは明日の午前までだから、それまでに出来るだけやっておきたいことは済ましておきたいな」
「違いますよ、ご家族のことです」
 前を歩いている野越の後頭部をじっと見る。
「……その話をするのは無しだって前に言った筈だが?」
 俺の声のトーンが変わった事なんて気にせず、野越は返す。
「まぁ、そうでしたけど。でもやっぱりこっちは心配なんですよ。偶然だったかもしれないですけど知ってしまった訳ですし」
 本当に、野越はギリギリのラインを攻めて、でも決して踏み越えてこない。
 でも、そこまで言うなら俺だって訊きたかったことがある。
「知ったのは巡り合わせだったかもしれないけど、俺がいる大学に来たのは偶然だったのか?」
「それは、多分に私の意志が入ってます」
「やっぱりそうだったのか」
「そりゃそうですよ。深津先生の事を知ったのは偶然でしたけど、なんか放ってほけなかったんですもん。ほら、雨の中の捨て猫を見つけちゃったみたいな」
 そう言って振り返った野越は照れたように笑った。
 こんなことを言ってくる奴なんて普通はすぐに突き放す。でもそうしないのは、ある意味野越を信頼してしまっているからだ。絶対にラインを超えないし、逆に俺にも超えさせないという信頼。年の差を無視できるほど素直な友情を感じるくらいには。
 まぁその年の差友情ランキングも、トコエルが現れたことで野越は二位に後退したのだが。
「じゃあ、ここで」
 そう言うと野越は驚いた顔をした。
「えっ、一緒にタクシー乗せてくれないですか?」
「いや、タクシーには乗らない」
 俺は戸山公園の方を向きながら言った。
「明日の午前までにやっておきたいことがまだあるんだ」

   ○   ○   ○

警備員に顔パスで通してもらい、ほとんど人のいない広場に戻ってきた。照明は落とされ、元々あった街灯だけが広場を照らしている。
 電極とノートPCを繋げ、トコエル翻訳ソフトを立ち上げる。
「トコエル、起きてるか?」
 そう言うとトコエルはすぐに反応した。
『はい、トコおじ』「その呼び方はやめてくれ」
 人類の反応速度の限界に迫った否定をした。野越が舌を出している様子が目に浮かぶ。
 野越、明日会ったら覚えておけよ。
『分かりました、タカシ。私は睡眠を必要としないのでいつでも大丈夫です。むしろタカシの方が睡眠は必要なのではないですか?』
 気を取り直す。これからすることを考えれば少し緊張が取れたのは良かったかもしれない。
「俺も大丈夫だ。それよりも、トコエルとの会話の続きがしたくなってね」
『分かりました。それは私にとっても良いことです』
 トコエルは大人しく俺が話し始めるのを待ってくれた。素直な子どものようだ。
 トコエルが高度な知的生命体だとはいえ、自我や感情を得たのはつい昨日だ。まだまだ子どもみたいなもので、これから大人とどんな会話をするかでトコエルの成長はいくらでも変わってしまう。
 逆に言うと、ちょっとした事ならある程度修正も効くはずだ。まだ幼い悠斗や綾香を、陽子の浮気をそうだったとは認識させず忘れさせて、真っ直ぐ育てるようなことがトコエルにも出来るはずだ。そう自分を無理やり確信させる。
 ようやく腹が決まって、昼間には勇気が出ずに出来なかった話をする。
「トコエル、最初に一つ質問させてくれ。君は再び鉄柱を地上に伸ばすことは出来るか? もし出来るとしたらどれだけの時間が必要だ?」
 トコエルはいつも通りすらすらと答える。こちらの意図なんて一切気にしないで。
『はい、私は再現性を持って鉄柱を地上に伸ばすことが出来るようになっています。それに要する時間は、過去の失敗した鉄柱を使うのであれば最速で一時間程度で出来ます。特にこの広場であれば再現性の条件が整っているのですぐに新たな鉄柱を地上に出すことが出来ます』
 トコエルの回答に俺は大きく息を吐いた。なら、話を続けよう。
「そうか。ありがとうトコエル。じゃあ次は昼間の話の続きだ」
『どの話についてですか?』
 話を待つトコエルを前にして、これから話すこととそれが引き起こすことを想像して、夏の暑さが原因ではない手汗が出てくる。
「トコエルが感じた嬉しいという感情についてだ。昼間話した通り、共生相手を見つけたことで嬉しいと感じたという可能性は十分になる。ただ、実は他の可能性もあり得るんだ」
『それはどんな可能性ですか?』
「それは、自身が生命体であるというアイデンティティを得られた事による自己認識の安定化がなされたという可能性だ。人類は他者との共生をすると同時に、自己の存在を確固たるものにしないと不安定になり、場合によっては自死に至ることもある」
『……生命体が自死するメリットが考え付きません』
「その通り。でも実際に世界中で起きている事なんだ。そんな道理に合わないこともするのが人類だ」
『納得は出来ませんが、理解しました』
 会話はスムーズに進んでいく。広場にはセミの鳴き声だけが響いている。俺とトコエルの会話の邪魔をするものは何もない。
「うん、それでいいよ。つまり、トコエルは多くの人から「あなたは生命体だ」と認められれば認められるほど存在が安定するかもしれない」
『どのようなことをすれば多くの人から私は生命体であると認められるのですか?』
 心なしか前のめりな雰囲気を受けた。子どもは新しい知識を清濁関係なくスポンジのように吸ってくれる。
「トコエル自身も言っていたけど、人類が定義した生命体の定義である境界・代謝・複製の複製が出来ることが一番だと思う」
『しかし、私は私がどのようにすれば複製出来るのか見当がついていません』
 その言葉を待っていた。
俺は早まる心拍を感じながら、口を開いた。
「俺に考えがあるんだ。聞いてくれるか?」

   ○   ○   ○

深夜の広場に人影がひとつ現れた。その人影は警備員に止められることなく、スムーズに鉄柱前までやって来れた。
「深津君、いるのかね」
 呼ばれて、俺は待機所のテントから出て鉄柱前まで歩いた。
「ご足労いただきありがとうございます、茶谷先生」
「本当だよ。こんな深夜に呼び出して何だね。トコエルと自由に話せる時間が十二時間切ったとはいえ、まだ残り時間で話す内容は決まっていないんだから急いだって良いことはないぞ」
 茶谷先生は少し不満げに言う。しかし、こんな時間でもわざわざ来てくれたという事は何かしら感じているものがあるということだろう。
 変に長引かせても誰も得をしない。さっさと終わらせよう。
 俺は手に持っていた「野越剛志探偵事務所」と書かれた茶封筒を茶谷先生に見せた。
「先生。俺、陽子と約束したんです。「浮気相手にはそれなりの制裁をする」って」
 茶谷先生が目を見開いた瞬間、鉄柱が下から茶谷先生を貫いた。
 鉄柱に先生の血が滴る。
 想像以上の速度で出た鉄柱の勢いで俺の白衣にも茶谷先生の血がついてしまった。
 俺は返り血を気にしながらも、トコエルに話しかけた。
「トコエル、どうだ?」
『はい、いくらかの電気信号は受信出来ました。普段の会話と比べ物にならない信号量だったのでおそらくタカシが言っていた走馬灯と呼ばれる現象が起きたのだと思います。しかし、残念ながらその電気信号を私が造った金属回路に流し込むだけでは自我どころか金属回路自体も機能しませんでした』
 トコエルは残念そうな声を出した。もしかしたら自分も複製できるかもしれないと期待した結果が裏切られたのだ。残念という感情を新たに得るのも当然だろう。
 新たな感情を得てしまったのは仕方ない。いずれ得ることになっていただろう。それよりもその残念というマイナスの感情をそのままにしておくことがマズい。
 とりあえず簡単なフォローを入れてやる。
「そうか、残念だったな。でもまだ方法はいくらでもある。今度は別の方法を考えてみよう」
『はい、よろしくお願いします。タカシ』
 ノートPCを閉じてから、俺は大声で叫んだ。
 警備員が走ってやってくる。

俺はこれから警察署に行って証言をすることになる。茶谷先生と一緒にトコエルと会話をしていたら、茶谷先生がトコエルの機嫌を損ねてしまったのだと。
 そうすればきっと、明日の各国研究者たちはおいそれとトコエルに接触することが出来なくなり、友人という立ち位置を確保している俺と野越が今後も研究のメインに据えられる。

トコエルは、茶谷先生が俺の妻と浮気をしたことによる良心の呵責から自ら死にたいと望んでいて、せめて最期はトコエルの役に立ちたいと言っていた、と思っている。
 それで良い。真実なんて関係ない。子どもは自身が真っ直ぐ成長するための知識と認識と環境を得ることが大事だし、親はそれを全力で支援してやるべきだ。

誰でもない誰かの疑問が聞こえてくる。
「子どもが大人になってもし真実を知ってしまったら?」
 そう訊かれたら、俺はこう答えるだろう。

そんなの、その時はもう大人なんだから自己責任で感情を処理してくれ。
 そこはもう親の責任じゃないだろ。

                                                   了 

文字数:27133

内容に関するアピール

人間はどんなに良いことを言っても善性を示しても、結局は自分が一番大切で、いざとなったら利己的になります。それを多くの人は隠しているだけです。

追伸:無事受講を終えてホッとしています。これからは手首の怪我の治療に専念します。あと、この作品を読んで少しでもクスっと笑ってもらえたら何よりです。

《参考》
「地球外核は二層に分かれて対流している?! 〜「地磁気の逆転」の謎に迫る新説登場〜」
http://www.spring8.or.jp/ja/news_publications/research_highlights/no_65/
「地球の内核はいつ出来たのか? その起源をSPring-8 で解明」
http://www.spring8.or.jp/ja/news_publications/research_highlights/no_89/
「地球内部の不連続面」
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/yougo/C_kouzou/kouzou_discon.htm#:~:text=%E5%A4%96%E6%AE%BB%E3%81%A8%E5%86%85%E6%A0%B8%E3%81%AE,%E3%81%A8%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
「磁石がもつ磁気と電気との違いについて」
https://www.neomag.jp/mag_navi/column/column019.html#:~:text=%E9%9B%BB%E7%A3%81%E6%B3%A2%E3%82%82%E3%80%81%E9%9B%BB%E6%B0%97%E3%81%A8%E7%A3%81%E6%B0%97,%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
「地球の内核と磁場形成に新たな議論!」
https://www.natureasia.com/ja-jp/ndigest/v13/n9/%E5%9C%B0%E7%90%83%E3%81%AE%E5%86%85%E6%A0%B8%E3%81%A8%E7%A3%81%E5%A0%B4%E5%BD%A2%E6%88%90%E3%81%AB%E6%96%B0%E3%81%9F%E3%81%AA%E8%AD%B0%E8%AB%96%EF%BC%81/78042
「マントルと地球中心核の熱対流運動が相互作用し合う様子を「マントル・コア統合数値シミュレーションモデル」により再現―地球がゆっくりと冷えるメカニズムを解明―」
https://www.jamstec.go.jp/j/about/press_release/20161116/#:~:text=%E5%8D%98%E4%BD%8D%E3%81%AF%E3%83%91%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E7%A7%92%EF%BC%88Pa,%E7%B4%8410%2D2%20Pa%20s%E3%80%82
「マントル対流の「数値」「流体」「力学」」亀山 真典 @ 愛媛大学地球深部ダイナミクス研究センター  https://www.gfd-dennou.org/seminars/gfdsemi/2010-08-20/01_kameyama/lecture01/pub- web/slide.pdf
「どうして材料の強さは変わるのか:鉄は変幻自在(Lec4)」
http://www.materep.ynu.ac.jp/archives/info/lec4
「最密充填構造」
http://sekigin.jp/science/chem/chem_02_6_40.html
「金属の中の鉄」
https://www.nipponsteel.com/company/publications/monthly-nsc/pdf/2006_10_162_19_22.pdf
「地球内部の新たな不連続面の発見」
https://isabou.net/Convenience/isabou_mail/back_number/gijyutu/2010/g20101216.asp #:~:text=%E5%9C%B0%E9%9C%87%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%82%B0%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B0%E3%81%AF%E3%80%81%E5%9C%B0%E7%90%83,%E5%AE%9A%E7%BE%A9%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82

 

文字数:2069

課題提出者一覧