新天地へ

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新天地へ

漠然と、ハワイ行きたいと思っていた。
 ついうっかりそれを口に出すと、一人の女子生徒が耳ざとく食いついてきて、
「京ちゃん意外。旅行とかあんまり興味なさそうだと思ってた。何でハワイなの?」
 特に理由はない。というかそもそも、本当にハワイに行きたくて言ったわけではない。強いて言うならここじゃないどこかに行きたいという程度のことでしかなかった。
 馴れ馴れしく話しかけてきた彼女の名前もこちらは覚えてはいなかったし、何より独り言を聞かれたことが不快だったので無視した。しかし回答しないことで発生する間、何かを期待してこちらを見つめる視線に耐えきれなくなり、わたしはやがて、
「別に、何ででも」
 とだけ、振り向きもせずに言った。すると彼女はへらへらして、
「良いじゃんハワイ。あたし、ついてくよ」
 いやまず、誰だよきみ、と言いたかった。
 わたしの周りには、この手合いのお調子者がとにかく多い。男女問わず、大して仲良くもないのにせっついてくる輩は口を揃えてわたしのことを「可愛い」と言う。性格のこととは思えないので、おおかたルックスの話に違いない。顔が良かったら何だって言うんだ。じろじろ見られていると、まるで自分が動物園のパンダみたいに思える。誰も世話しないくせに。
 どうでも良い人間に囲まれているのは独りでいるよりも苦痛だ。
 しかし、今は希望がある。こんな所とはおさらばして、もう一つの世界、電脳空間へと旅立つ算段がついたのだ。
 脂肪コンピュータ。ナノマシンを注射することで自身の贅肉をそのまま計算資源に転用する技術。それはこれまでに存在したどの種類の計算機よりもはるかに高速で、しかも安上がりだった。体脂肪が多ければ多いほど、演算能力は指数関数的に増大する。
 数億人規模の電脳空間は、莫大なデータ処理を要することからかつては実現困難とされていたが、今や大量の脂肪を蓄える一部の人間はそこにログインすることができる。
 わたしは先日、脂肪コンピューティング用なのマシンの注射を受けた。今すでにわたしの身体は、コンピュータとして機能している最中だ。といっても、元々痩せ型だったのでまだ大したことはできない。今まで使っていた携帯端末の補助程度にはなっている。
 脂肪コンピュータの真の実力を引き出し、電脳空間へのログインを果たすためには、もっと太らなくてはならない。
 脂肪はもう一つの世界への切符。
 太ることを嫌って脂肪コンピュータの導入を避ける人はいまだに多いが、わたしにとってそれは問題ではなかった。どうやって太るかだけが重要だった。
 脂肪量二十キロが最低動作条件の電脳空間に入るには、わたしは十キロ近く太る必要があった。食が細く太りにくい体質だったが、一日の食事の回数を増やし、高カロリーなものばかりを口にした。無理やり口に食べ物を押し込んで吐いてしまうことも一度や二度ではなかったが、過食による肉体的な苦痛よりも現実世界でのストレスの方が徐々にわたしを絞め殺していくだろうと思ったので、食べ続けた。家にいる時間はカロリー消費を抑えるためにひたすらベッドに横になって過ごした。家族には心配されたが、彼らが他にわたしを救う術を持っているわけではない、と考えたところで、わたしははたと気がついた。自分は誰かに救いを求めていたのか。
 そんな生活を続けているうちに、ほっそりとしていた頬は次第に丸みを帯びて、周りからよく整っていると言われていた顔のパーツも、半年も経つ頃には皮膚を内側から押し破る勢いでせり上がってきた顔肉の間にすっかり埋もれていた。
 案の定というか、それまでわたしにしつこく付き纏っていた人たちのほとんどは容貌の変化に伴って潮が引くように消えていった。多少身体が重く、息は切れやすくなったものの、心はむしろ軽くなった。
 もう電脳空間に行くのに十分な脂肪がついているはずだった。腕も、脚もお腹も、以前とは比べ物にならないくらいぷよぷよしていて豆腐のようだった。この肌の下で膨大な計算が行われるとは、にわかに想像できなかった。
 もうこの現実に帰ってこなくても良いかもしれないと思った。わたしは未来を掴んだんだ。
 しかし帰宅しようとすると、いつぞやの女子生徒が昇降口でわたしを待ち構えているかのように笑顔を向けてくる。
 太って以来、わたしの周囲の人間は皆離れるか優越感まじりに身体の心配をしてくるかのどちらかだった。しかし彼女だけは例外でそのどちらでもなく、ただ変わらなかった。
 眉を顰めるわたしに彼女は、
「京ちゃん、一緒に帰らない?」
 と声をかけてくる。
「何でいつまでもわたしに付きまとうの?」
「あたし、京ちゃんと友達になりたいもん」
 彼女はそう言ったのち、少し怒ったように付け加えた。
「あと、付きまとうとか人聞き悪いし、傷つくからね」
「きみ傷つくの」
「あたしのことなんだと思ってんの」
 もしかすると、わたしの方が周りを色眼鏡で見ていたのかもしれない。そうやって自分で孤独を作り出して。それがわかっているのに、心は不気味なまでに凪いでいた。わたしは好意を素直に受け取れないほど、歪んでしまっていたのかもしれない。

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